はてなキーワード: 人知とは
これの続き
http://anond.hatelabo.jp/20141121124641
で、そうなるまでの会話を少し意識しながら考えてみた。
・感情を込めた相槌のあとに、会話を次に促している
「なんでやめたの?」「どの辺がすきなの?」
・自分や身近な人の経験から共通の話題を話し、相手に話題を戻す
「同じ病気の人知ってるけど、食事療法大変だってね。自分で作ってるの?」
・小さなことではオーバーに感情表現するけど、大きなところは淡々と聞く
「ギャー!虫怖い絶対無理!やだやだ」→「実刑判決か。重いね。何年前?」
・話が佳境に入ったら相槌も極力控える。感想も言わない。
こういうことは意識してやっているわけではない。
だから話を聞いているといろいろなことが気になる。
それで相手も気付かないうちにあれこれ話してしまうのだと思う。
お客さん相手だと、お客さんが一方的に延々話して時間が来てしまうこともある。
「一方的に話を聞いてもらうのはとっても気持ちがいい。
でも一時間以上話を聞くのはやめなさい。相手が自分を保てなくなるから」
私的な関係ほど、距離をうまくとらないといけないのかもしれない。
無気力になったり、ご飯食べなくなったり、不衛生になったりと、精神を自ら追い詰める行為をはじめる。
そんで第二段階は、他人の迷惑を顧みず、社会的責任からの逃避をしはじめる。
会社を休みはじめ、最終的には退職。友人知人と疎遠になり、恋人と別れたり。
親しいまま死別するのは相手に多大な迷惑をかけるので、今のうちに比較的小さな迷惑をかけて、あえて疎遠になるのがミソ。
第三段階は失踪。自分のことを誰も知らない土地にでも行くのかな?ここからは完全に想像の世界で、詳しくは知らん。
まあとりあえず、死ぬ気になれば死ぬための準備がはかどるだけ。気合い入れるには全くの的外れなアドバイスだ。
自分の人生を生きる気がなければ、ただただ死んだも同然の、灰色の世界が続くだけだ。
生きる覚悟をしなければ。
「MENSA(メンサ)とは、1946年にイギリスで創設された、全人口の内上位2%のIQ(知能指数)の持ち主であれば、誰でも入れる国際グループです。 」
とある。
そして、MENSAは自分たちの団体のことを「高知能団体」と呼んでいる。全人口内の上位2%とは、IQにして148(標準偏差σを24とする)となるので、これはかなりの高知能ということになるだろう。単純に考えると50人に一人程度存在するということであるから、その希少さはかなりのものだ。そして、日本で有名なMENSAとは正式には「JAPAN MENSA」というものらしく、これはMENSAの日本支部であるという。(以後のMENSAという記述はJAPAN MENSAを示すものとする)
MENSAについては私も昔から知っていて、「へぇ、そのような団体があるのか」と興味は持っていた。
ところが、先日大学の友人がMENSAの入会テストを受けてきた所、どうやらこの試験というものは所謂「IQ(全知能)」を測るテストとは少し違うものらしい。このような入会テストを行っている団体が「高知能団体」として世間に認知されていくのは良いことなのだろうか、少し疑問に思った。
そこで、一応大学で医学を専攻した身として、MENSAに対して一言述べておこうと思いこのブログを書くことにした。
MENSAの知能測定方法が「全く無意味」というわけではない。知能の限られた部分しか測定していないということである。そして、それこそが一番の問題なのだ。
医学的に知能指数を測る方法は何種類か有る。(知能指数 - Wikipedia)
かなり初期のものとしてはビネー式知能指数テスト。こちらは「子供向けの知能指数テストであり、大人には有効ではない」ということが明らかになっている。そこで、登場したのが「WAIS」と呼ばれる知能指数テスト。現在、大人が医療機関で知能指数テストを受ける場合には、大抵「WAIS」を受けることになる。(田中ビネー式については割愛)
ところで、MENSAの公式ホームページには「入会テストの受験は15歳以上に限る」と記されている。つまり、子供向けではなく、大人を対象にしたテストであるということだ。
そこで、医療機関で実施されている大人向けの知能テスト「WAIS」について少し詳しく見ていこう。
WAISは現在、14の下位検査から成り立っている。(ウェクスラー成人知能検査 - Wikipedia)
- 知識:文化によって獲得した一般知識の程度。(例「ビクトリアの長は誰ですか?」)
- 理解:抽象的な社会慣習、規則、経験を扱う能力。(例「一石二鳥という諺はどのような意味ですか?」)
- 算数:数学問題を暗算する集中力。(例「1ドルで45セント切手を何枚買えますか?」)
- 類似:抽象言語理解。(例「りんごと梨はどのようなところが似ていますか?」)
- 単語:学習や理解の程度、および語彙の言語表現力。(例「ギターとは何ですか?」)
- 数唱:注意・集中。(順唱例「1-2-3」、逆唱例「3-2-1」)
- 語音整列: 注意と作動記憶。
動作性検査
そして、これらの知能検査から各々の「知能指数」を算出。それらを総合して全知能(合成得点による全検査IQ)を算出することとなる。
ところで、なぜこのような成人向けの知能指数テストが行われるのだろうか。WAISのスコアから何が分かるのだろうか。
実は、WAISのスコアは高ければ良いというものではない。それぞれの分野のスコアがある一定の範囲内(15以内)に収まっていることが重要なのである。そして、これの範囲を超えてしまうと、発達障害との診断が下る可能性が高くなる。医師はそれを一つの目安として発達障害の診断を下すことになっているからだ。
つまり、部分的に隔たった知能は「発達障害」である可能性を示唆することとなるということだ。
さて、MENSAに話を戻そう。
実は、これはWAISで言うところの「行列推理」だけを問うものなのである。
すなわち、MENSAの試験においてスコアが高いということは、WAISで言うところの「行列推理のスコアが高い」ということのみを指し示す結果であり、(各能力の発達がある程度独立であることを考慮すれば)上述した「発達障害」である可能性も、一般の人よりも遥かに高いということである。
つまり、MENSAという団体には、世間よりも遥かに高確率で発達障害の人が存在していると考えられるだろう。
MENSAが高知能団体を自称するのであれば、最低でも言語性知能や他の動作性知能のテストを必須にしていただきたいものだ。
行列推理のスコアが高いだけで「高知脳団体」と言われても、それは詐称に他ならない。むしろ、行列推理だけのスコアが高いということは、高知能であるということを示すより、発達障害を示唆する可能性の方が高いとすら言えるだろう。
3キャリア契約&解除でぐるぐる回しキャッシュバックと実機売却で得た上がりでiPhone6を一台手に入れようかと思いつつも、実際やろうとするとバカバカしくてやらない現状。
だいたいiPhoneを買うような奴は、そもそもそれなりに友人知人がいる学生生活や、サークル活動上がりの経験でもっての社会人ならではの遊びグループに所属していて、その交流の中でSNSやツイッターにLINEという通信インフラで相互の関係をより便利で早く密にするために買う。
基本的にぼっちでハードウェアgeekの俺がiPhoneもってて喜んでても、その喜びやうれしさってのは上記のリア充風吹かせてる連中のそれとはベクトルが違う。
買ってバラシテ写真撮ってベンチ取って、いろんなアプリ突っ込んで起動してみて、ゲームダウンロードして2時間で飽きて消すってとこまではいいんだけど、それをこなしたあとにくるiPhone持って外に出ようってとこで、どういう風に使ったらスタンドアローンコンプレックスにまみれた増田の人生楽しくなるのかわからん。
マクドやファミレスで買ったもの喰う前に写真とってfacebookしてなにが楽しいのかわからん。
自分の猫や犬の写真撮って2chあたりでネタ画像に加工されて便利に使いまわされることのどこがイイね!なのかわからん。
ようやく買った車やバイクの写真とってtwitterで自慢したらナンバーの画像消すの忘れてて個人情報特定されるまで至ることのなにが便利なのかわからん。
歩きながら地図見られるのは便利だがそもそも知らんところをうろうろすることなんて数年に一度しかないインドア派には必要ない過ぎた機能だ。
なんかあったときムービー撮れるよとか言われても、以前コンビニの前で座ってる悪どい感じに見た目が汚い連中に携帯向けたら、凄い勢いで車に向かってきたので全力で逃げたのは今でもトラウマだし。
どうやったらCMみたいに、素人がうらやむ感じに格好良く使いこなした日常を送れるのか。
わからん。
わからんからたぶん時々足元にくくりつけたりトイレにくくりつけたりして盗撮する同世代とか、LINEやネトゲで援交狙いで交流しまくる同世代とかたくさんいるんだと思うと、彼らとは絶対に同類になりたくないしってことで、このあいぽんステキヒエラルキーを上に上る方法をどうにか獲得したくてたまらないが、やっぱりわからん。
最近、昔読んでいた小説を読みなおすのが自分の中で流行っている。
「新しい話」を読んでいるようであって、以前の自分との対比ができて面白い、からである。
以前読んでいた時には引っかからなかった表現に、「ああこの時この人はこう思っていたのか」と新しい発見を感じることが多いのだ。
よく考えりゃそりゃそうだよな、と納得したり、当時の思い違いを修正するのも楽しい。
また、過去との違いを自覚し、成長を感じられるから楽しいという側面もある。
これは、小さいころわからなかった歌詞の意味が、大人になってふと耳にした時には理解できた、というような経験に近いようにも思う。
ただ、それとは違いがいくつかある。
まずは「空白」の長さだ。
僕が今読んでいる本は5年前当時読んでいたものだ。
他のものも、読み返していてなんだかんだ最後に読んだのは3~5年前のものが多い。
先に出した歌詞の例は10年は余裕で経っていると考えると、なかなか短い。
おそらく、わかるようになった(あるいは、わからなかった)要因も異なるのではないかと考えている。
5歳の時の「わからない」を10歳の時にわかること、というのは、
20歳の時にわからないことが25歳になってわかるようになる、というのとは違うように思うのだ。
幼いころの「わからない」は多分、単語や比喩表現の意味・また比喩に使われる「モノ」を知らなかったからだろう。
「知らずに口ずさんでいたけど「ろっぽーぜんしょー」って「六法全書」のことだったのか」、といったような(まあ当時驚いたのはそんな歌じゃなかったはずだけど)。
これは学生時代に勉強を重ねていくことでそれなりに身につくから、それで解釈できるようになったのだろう。
つまり知識の増加に伴い、知ることのできる事象が増えているといったもの。
けれど今、昔よりも本の中の世界を拡大できているのは、それが重要な要因ではない、と思う。
まず、「大学入ったばっかりの国語もろくに勉強する機会のない自分」と「アラサーの新聞も見出ししか読まないような自分」を比較したところで、
同じ本を読み返して人物の機微をより多く掴めるようには思えない。
ろくに訓練もしていないし、しようとも思ってなかったし、
大学では文学作品に触れる時間が増えたりすることも、それらを読解する専門家の話を聞くこともなかった。
つまり単純に知識が増えたから、理解の範囲が増えたとは言いにくい。
少し話がそれるが、自分は中高生ぐらいの頃から「自分で経験しないと学習しない」性質だと自覚している。
頭で想像の翼を広げたところで地面へ落ち損なうことなど到底できず、数秒間地面を離れる程度の想像力しかないのだ。
貧相な想像力だな、と思うことはあるが、いろんな経験を積む理由になるからと今のところこの素養で悩んだことはない。
想像力がないので落ち込むパターンも時間も多くできないためだろうとふんでいる。
・・・・つまり、今回の件で思ったのは「この5年間は今までで一番人間関係において多様な経験をしてきたから、読書をして分かる範囲が広がったのではないか?」ということである。
『気心知れた心地良い友人関係』以外の世界に足を踏み入れたり関わらざるを得なかったりして、様々な立場についた。
それまでは1パターンの自分しかなかったのだから(我が強すぎていつでも同じスタンスだった)、
それに比べたら何倍も経験を積んだことになる。n種類の立場についたらそのままn倍の経験をしたことになるのだ。
様々な環境に図らずも身をおくことができ、様々な立場の心境をちょこっとでも体験することができたから、
本を読んで「他人の機微」が理解できるようになったのだろうと思う。
今回こんなものを認めたのは、感謝の念を人知れず発信したいと思ったからである。
その経験をさせてくれた皆様と、その蓄積をすべて意味のあるものだと気づかせてくれたある人には本当に感謝してもしきれない。
なぜなら今の段階で僕がこのことに気づくということは、この年齢まで付き合ってくれた友人諸君は、「人の機微もわからない僕」と仲良くし続けてくれていたということにほかならないからだ。
今、本を読んで、知らなかったキャラの機微に気づいて、楽しめている。
それがすごく楽しいことだけでも感謝なのに、今までのことを考えると土に埋まっても感謝の念は表しきれない。
申し訳無さがこの身を覆い尽くさんばかりに襲ってきている、が、そんな醜態を見せても友人は喜ばないのである。
ーーこれからは実生活の方でも、人の機微にもう少し聡くなりたいと考えています。
本を読み返して反芻するのは、その練習になっているといいな、と下心もあるのです。
というわけで、ぜひ、新しくなっていく僕に乞うご期待してくれたら嬉しいななんて。
以上です。
友人知人親戚の紹介。薄いつながりでも良い。
普段の生活で死にたくないなーとか思って生活してる人は基本的に少数だけど、(タナトフォビアが一定数いるのは承知です)
ネット上で定期的に何かを発信してた人が何の断りもなしに発信を止めると、
割と早い段階で「死んだ?」なんてコメントがつくし(本気で思ってないとしても)、
ただ旅行に行ってたり、更新が面倒になってる可能性の方が圧倒的に高いって分かってるのに、
ああ、人間普段は意識してないだけで死って自分にとっても凄い身近なものなんだなー、って思う。
増田では勿論、一人死のうが辞めようが全く違和感を覚えることはないんだけど、
新着見た時にもしかしたら、今日の今の時間に何か書こうと思ってた人が人知れず、もうこの世からいなくなってるのかもしれない、
とか思うと無性に寂しく思える。
勿論、家族とか近しい人がその人の死を悲しんでるだろうし、
名前も知らない人がいなくなった可能性なんて考えてたら生きていけないんだけど、
そう思った日くらいは、お別れを言いたいなと思った。
いわゆる毒親が家に押しかけてきた。
無視を決め込んだが2時間以上ずっとインターホン鳴らすわドア叩くわ続けていた…と思う。
咄嗟にウォークマンを着用してほぼ最大音量で音楽鳴らしてみたけど、曲ごしや、曲の切れ目にインターホンの音やらが聞こえて
震えて、震えて、もうダメだと思った
食べかけの食事も手につかず 気持ち悪くなってうずくまりながらその場に吐いた
恐る恐るドアスコープを覗いたが、姿は見えなかった…
10年近く、一切の連絡を取ってなかった
幼少時の毒父からの性的虐待を始めとした暴力と、毒母からの放任と支配の両極端な虐待や金銭的な搾取を受けながら
中学位まで生かされてきた
はじめて疑問をもつようになった
そこから色々あり、数年かけて、どうにか家を抜け出すことに成功。
身体を差し出すことで住ませてくれる人の家を転々としながら、何とか定職もみつけた…
携帯も持てるようになり、当時まだ繋がっていた兄弟とは連絡をとっていたが
そこから毒母に携帯番号等がバレ、直接押しかけられるよりは、と思いメアドと携帯番号を知らせた。
耐え切れなくて、携帯を買い換えて番号も変えた。メアドも当然変えた。
それが10年近く前の話。
昔の友人知人も全部付き合いを切った。
巻き込みたくなかったし、みっともなかったし、そもそも、打ち明けても理解してくれる人なんていないという諦めもあった。
親の事が嫌いだ、許せない、しんで欲しい
そう言うと皆「お腹痛めて生んだ子供が可愛くないわけないじゃん」と綺麗ごとで返してくれる。
内心そう思いながら「そうだよね、馬鹿なこと言ってごめんね」と上辺だけの言葉で返すしかなかった。
一度転出届を貰い転入届を出さない、という住所不定技?をやっていたから
住所が割れることはないだろうと思っていた。
ここまで拒絶したら、いい加減諦めてくれるだろうとも思っていた…
パートナーには家の事情は軽くしか話してないが、毒親だとは伝えてあり、
式をやらないことも含めて、義父と義母は好きにさせてくれた。その点はとても感謝している。
…もしかしたら、戸籍の附表から現住所を追ってきたのだろうか。
どうしたらいい。どうしたらいい…
パートナーは自分との生活のためにも日々とても頑張ってくれている。
なんでだよ…何で今頃押しかけてきたんだ
そっとしておいてくれ
実家での生活思い出すだけで気持ち悪い やめてよ 穏やかに暮らしたいだけなのに
「あんたなんか生まなければ良かった」
生きていたらだめですか
人並みの幸せを求めた報いなの
死んだらいいの?
あいつをころしたらいいの??
パートナーに迷惑かけたくない 自分と結婚した時点でそれはもう無理な話なの?
電話相談みたいなものに今日はじめてかけたけどどこも話中だった
いいんだ 誰かに相談したところで
信じたら足元すくわれるのはわかってるものね
結婚しなければ良かったのかな
そしたらひとりひっそりしねたのかな
こういう話を書けばひと様に馬鹿と思われることを承知してはいるのだが、今日とてもいいことがあったので記録したい。
明け方、夫がトイレに行ったので私もぼんやりと目を覚ました。とはいえまだまだ眠いので寝がえりを打ってすぐに寝ようとしたのだが、そこに夫が戻ってきた。
ふらふらしながら布団にもぐりこむと夫は後ろから私の両肩を掴み、呂律も回らない状態で何かを呟き始めた。寝ぼけているようだ。
この人が寝言なんて珍しいな、と思いながら私は耳を澄ました。
「つま、がんばれ、つま、がんばれ。つま、だいじ。つま、とてもだいじ。いいつま。とてもいいつま。つま、がんばれ、ちょうがんばれ」
私はびっくりしてしまって、しばらく身動きもできなかった。
やっと動けるようになってから夫の手に触れて「ありがとう」と言おうとしたが、声がうまく出せなくてかすれてしまったし、夫は眠りの中に戻ってしまった。
私はなんだか急に涙が出てきたのでちょっとだけ泣き、それからまた眠った。
目が覚めたら夫はいつも通りで、私が彼のほうを見ると
などと素っ気ない口調で言うのだった。
なのでもう今更もう一度ありがとうは言えないというか、たぶん夫は自分の寝言を覚えてないだろうし、
「それ妻のでっちあげじゃないの」
などと言い出しそうな気がするので、私は自分の深い感動を誰かに伝えたいのにその相手がいないのだ。
「ていうかノロケとかマジうぜー」
と思われるのがオチなのはわかっているのでここに書くのである。ああ増田があってよかった。
それにしても夫は私に何をがんばってほしいんだろう。やはり当面は出産だろうか。妊婦だもんな私。
ブコメ見て気づいたので追記。
違う。これを打ち明けるのも激しく馬鹿みたいで恥ずかしいのだが、うちはお互いを「夫」、「妻」と呼びかける時がある。名前で呼ぶときもあるのだが。今朝の夫は、名前ではなく「つま」と呼んでいた。
あれ、前にもこんな文章の始まり方で夫のノロケ書いた増田いなかったっけ…。同じ人か?あーでも色々増田読んでるから混ざってカン違いしてる気もする…。
こういう事例を見ると、さすがにそれもさもありなん、と思ってしまう。
http://hondamaki.hateblo.jp/entry/2014/08/28/003106
1. 父親からDVを受けて育ったブログ主が、自分以上に酷い暴力を受けていた上の兄弟に対して、自分の結婚式に両親と共に出席してくれることを懇願。
2. 当然、兄弟からは当初きっぱり断られるも、「親への感謝を伝えたい、両親を喜ばせたい」と嗚咽する妹を見かねたのか、結局やむなく出席。ピアノ演奏までしてくれた。
3.ブログ主感謝。青空をバックに『やっぱり、結婚式をやってよかった。こんな家族だけど、私は大切に育てられて本当に幸せ』(※しかし、目下自分は夫のモラハラにより家庭内別居中)
以上に対して『自己満足のために兄弟をどれだけ傷つけ、苦しませてしまったのか分からないのか』『ただの自己陶酔だ』とか実にもっともな意見が出てきたものなら、「違うんです、私の書き方が悪かったんです反省しますごめんなさいすみません(r」とか言い訳を連ねておいて、一方では炎上だとか叩きだとか愚痴って類友と馴れ合うだけで(https://twitter.com/hon_da_maki)、肝心の問題の本質を顧みようとしないのだから、そりゃ、リアルでも同じような対応を取っていたら、周囲は正直腹立つし、まっとうな友人知人からは匙を投げられるし、モラハラ男にも付け入れられる、というものだ。
そもそも、公に、ましてネットという有象無象、不特定多数の目に触れうる場に己をさらけ出しておいて、「共感や同情だけ欲しい、反論や批判は一切見たくない、触れたくない」というのは不可能なのだ。前者がどうしても欲しければ、後者のリスクは当然受け入れなければならない。ときに誤解や齟齬が生じるのもやむを得ない。それを、「自分は傷つきたくないしリスクは取りたくない、でも他人には皆自分のことはありのまま受け入れて欲しい、ただ愛情と共感だけを自分に与えて欲しい、それをしてくれない人間はみな酷い敵だ!」なんていい歳の人間が臆面も無く主張していたら、それはまさにDV親やモラハラ夫と同類なのだ。
僕は驚くほどにモテない。異性に思いを寄せられているといった記憶が全くない。
しかし僕の友人知人はそうではない。僕と彼らは何が違うのだろうか?
――彼らは恐らく一般的な、普通の義務教育・高校生活を送っている。
――彼らにとって「世の中」は怖いものではない。
――彼らは世間大多数で共有されている価値観、趣味嗜好に近いものを持っている。
そう、こう箇条書きしているようなものが、(ソースは半径数メートルだといえ)恐らく僕と同じ国・同じ世代での「普通」なのであろう。僕はあまり「普通」に近い人生を送ってきたようでは無いのだ。
しかもタチの悪いことに、普通でなければスペシャルでもなく、ただただ「普通」から遠く離れているのだ。
こう考えると「普通未満」というのは、その結果である「モテない」という事実・状態だけならず、その「普通未満」だという事すら一種の孤独感を味わせてくれるのだ。嫌なことに。
しかも繰り返し述べているように「モテない」のだから、(異性関係においては)本当に孤独だという笑えない事実までついてくる。ロクなもんじゃないな。
以上、心に浮かんだ事を、眠気が来ない暇つぶしに書いてみただけ。
古今東西インターネットというものは「釣り堀」としての側面を持っていた。
どこまでも広がるWANの大海原は、多くの釣り師にとって腕を競い合う戦場であった。
人々はそこで「世代間対立」や「カースト間の妬み蔑み」を撒き餌にし、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
こう聞かれた時みなさんならどうこたえるでしょう。
こう答える人が今でもそれなりにいるでしょうけど、
僕はもうこの考え方は古いと思います。
超高速で時代をループして100周回ってその場所に帰ってきたと主張するのならもう何も言えないですけど。
今のトレンドは「釣りであってもなくても関係ない部分について論じる」だと僕は思うんですよ。
・その文章で起こったシチュエーションのうち他の人にも十分起こりうる物
・その文章の登場人物にのみ当てはまるわけではない人格的な問題点等
そういった「その文章において限定的に起こっている事象以外の部分」の事です。
そこに言及することで「釣りと思われる文章に対してのみ限定的に意味をなすわけではないコメント」を作ることが出来ます。
これは「強い」です。
たとえもとの文章が釣りであったとあとで宣言されても意見を取り下げる必要なんて微塵も有りません。
釣り餌に群がっていた者同士で進行させていた議論を作り手の「釣り宣言」と同時に幕引きにする必要もないのです。
「釣りだろうが何だろうが、それと似たような事は起こりうるかも知れない」
「この文章自体は釣りだろうが、こういった事件を起こす人間は身近にいる。さてどう対処すべきだろうか」
そういったレスや議論に対して「釣りでした」は何の意味も持ちません。
そういった意味で「強い」のです。
従来の「Aさん最低ですね」「Bさんも悪いと思う」などの反応は、
作り手の「釣りでした!爆釣!」の一言で全てが『踊らされた馬鹿』になってしまっていました。
この新しいスタイル(昔からあったんだろうけど最近まで僕はあまり目にしていなかったスタイル)は、
その点において明らかに従来よりも「強い」と思います。
拙い文章力だったのでうまく話したいことをまとめられた気がしません。
最初の連絡をいただいた。「LINE、乗っ取られてません?」とLINE会話のキャプチャを送らてきた。
わたしの名前わたしのアイコンで、コンビニでiTunesカード10000円分を3枚買ってきて欲しいとの内容。
でもiPhoneから開いてみると確かにログインできない。PCから「パスワードを忘れた」をやってみてもPWリセットメールが来ない。
「LINEが乗っ取られた」との旨をTwitterとFacebookに書き込む。
ネットで対策を調べた結果、LINE問題報告フォーム(https://contact.line.me/)に報告し対応を要請。
最初の被害者Aさんから電話をいただき、3万円分の画像を送った後に更に5万円分を要求され不審に思ったそうです。
取り急ぎ交番に行っていただき被害届を出していただくようにした。
Aさんから再度電話をいただき、交番では受付ない、今から警察署に行くとのこと。
新しいLINEアカウントを作成し、連絡帳にある電話番号で自動追加された友人に全員警告メッセージを送信。
最寄りの警察署に届けを提出。
2人目の被害者Bさんから連絡をいただき、同じく3万円の被害。
同様に被害届を出していただくように。
乗っ取られたLINEアカウントが消滅。LINEが削除してくれたか犯人が自ら消したか不明。
なお現在21:48時点ではまだLINEから一切連絡をもらっていない。
・LINE問題報告フォーム(https://contact.line.me/)にアカウント削除要請
・友人にできるだけ乗っ取られたことを周知
・警察署に被害届を提出(※実被害が出ていないと被害届を出せられないみたい)
・「PINコード」を設定(http://official-blog.line.me/ja/archives/1006009191.html)
・日本語がところどころ不自然で、尚且つ中国人の友人には中国語でやり取りしていたことで、海外からの犯行というネットの情報は正しいかと思われる。
・LINEの友達は、よく覚えていないが確か300人前後はいた。その中の恐らく大半の方に詐欺メッセージが届いてたと思うと申し訳なさで頭が上がらない。
実際被害も出てしまって、これまで蓄積された連絡帳登録が莫大なこともあり、本当にたくさんの方にご迷惑をお掛け致しました。
たくさんの方から電話やメール、SNS経由でご連絡いただき、感謝と申し訳ない気持ちでいっぱいです。
仕事関係の方までお電話いただいて、本当に身の縮む思いでした。
・たくさんの友人知人に「手伝ってもらってもいいですか?」のメッセージに快く「いいよ」と返信していただいたことに本当に泣きそうになった。
わたくしという人間を信用してくださって何も問わずに3万円を用意してくださった友人は2人もいることに感動しました。
・本当に乗っ取られたて大変だったんだよ!!!!この3時間の間は絶望に陥ったと言っても過言ではない。
社会的な信用が失墜するだろうし、そんなに面識ない相手にもいきなり金銭を要求する内容を送りまくるので、危険人物と思われて敬遠されてしまってもおかしくない……
俺は35歳のおっさん。
男の性欲は女には理解不能な程切迫したものだ、ということは改めて言うまでもないと思う。
若い童貞ともなると生身の女とやりたくてやりたくて気が狂いそうになるのは、たぶん普通。
8割ぐらいの男はこの「気が狂いそう」という感覚が理解できると思う。
普通の性欲でこれなんだから1割ぐらいの男は実際に気が狂って事件にならない程度に犯罪は犯してると思う。
(犯罪率高過ぎだろうと思うかもしれないが、認知されてない数を入れたら、そこまで外してないと思う)
やりたくてやりたくて仕方がないのにやれない状態が続くと「なんで女は俺にやらせてくれないんだよっ!!」という怒りさえ抱くことがある。
女児をさらってきて調教してあまつさえその性玩具と結婚したいって妄想を抱く男が居ても不思議ではない。
童貞は「可愛い彼女ができたら、この地獄から抜けられる」と思ってる。
でも実際に可愛い彼女ができても、この地獄からは抜けられません。
童貞のつらさは2種類あって、それは世間体的なつらさと肉体的なつらさだ。
「もう20歳なのに彼女がいた経験もなければセックスした経験もない」というのは恥ずかしいもの。
このつらさは確かに彼女が出来たら消える。
この感覚は童貞や理想的な女と付き合ったことがない男や女性には理解するのが難しいと思う。
そこそこの彼女ができた時も「彼女が可愛かったらなぁー」と思ってた。
そんな俺にも奇跡的におっぱいが大きくて顔も可愛い、俺にとっては理想的な彼女ができたことがある。
どれぐらい可愛いかというとこのぐらい。
http://livedoor.blogimg.jp/kinisoku/imgs/3/2/32c89d6b.jpg
この写真を見て昔のことを思い出したのがこの増田を書くきっかけになった。
嬉しくて嬉しくてしょうがなかったし、最初はサルのようにやりまくってた。
童貞をこじらせてる時期にエロテクニックの記事を読みまくってたので、彼女も満足してたと思う。
(毎回何度も何度もイカせてたし、窓を開けてるから声出すなって言ってるのに抑えきれなくて喘ぎまくってたから演技ではないだろう)
しかし次第に「思ってたのと違う」ということが多くなっていった。
最初に違和感を感じたのは町で女子高生の短いスカートから伸びた白い太ももを見てムラムラした時。
「ああ〜、あんな子にこんなことやあんなことをしてみてぇー」って思った。
「あれ?」ってなった。
彼女が横で寝てる時に「ああ、こいつが居なければ、このエロ動画で抜けるのに」と思うまでに、そう時間はかからなかった。
可愛い女やエロい女を見るたびに「こいつとやりてぇー」ってムラムラすることに疑問を抱かなくなってた。
ふと「あれ、これって童貞の頃と何も変わってなくね?」と思った。
結局おとこって妄想の中でするセックスが一番で、現実ではどうしても満足できない。
いや、一時的には少しは満足するのだが、すぐに飽きるし、何かが違う。
いろいろと趣向を変えてもダメ。
どんな女でもたぶんダメ。
ぜったいどこかで妥協したり我慢してる。
美女を見かけたらすぐに犯せて、しかも女がその時の俺の気分に合わせた理想的な反応をするっていうあり得ない状態にならない限りたぶん満足できない。
大奥を使える江戸時代の将軍やハーレムを持つ王様ですらこの状態には程遠いだろう。
しかしこの理想的な状態になっても妄想オナニーが一番良い可能性すらある。
よってタイトル。
追記:
重要なことを書き忘れていた。
前述の理想的な彼女を落とす前は、その子で妄想して抜きまくってたけど、
実際にその子とセックスしたら「あれ?こんなもん?」と感じた。
正直その子で妄想オナニーしてた時の方がかなり気持ち良かった。
それでもサルのようにやりまくってたのは、その違和感を消したいということもあったのかもしれない。
俺の例を一般化するのは問題があるのかもしれないが、友人知人ネットの情報を見聞する限りにおいて、これは多くの男の正直な感想ではないだろうか?
性的な快感による満足度よりも「こんな子と付き合えている俺」という感覚の方が遥かに上だった。
その子とは別れるまでに百回以上セックスやエロいことをしているが、妄想オナニーを超えるような快感はほとんど感じた事がないし、
(一度だけデリヘルで来た女がめちゃくちゃテクニシャンで、かなり気持ちよかったことはあった。あれは確かに良かった)
ブコメで共感できないと言ってる人が居るが、性的快感だけについて言えば同意できないだろうか?
童貞の頃はイケメンや芸能人が許せなかった。「すげー美人と毎日セックス三昧なんだろクソッタレ!!」という感じで。
しかし、実際にその夢が叶ってみると、彼女がセックスしたがっているのに俺はゲームの方がしたい、みたいな事が普通にあって拍子抜けした。
性的快感については相手が美人かどうかより、自分の体調と相手のテクニックの方が重要だし、それでも妄想オナニーを超えるものはほとんど無い。
よってタイトル。
その構造を同一視できたら、性差がなくなるので構造上の問題はなくなるんじゃないかな。
アカゲラとアリスイは同じ種類だけど、ぜんぜん別物だと思う人もいるだろうし
イルカと鯨は別物だ、という見解や同一視みたいな感じだったりして。
その多くをすべる環境や教育が構造の差を顕にするときに分別を必要とする差があるんじゃないかな。
男女は構造的にも平等という環境や教育があった文化と、そうではない文化とか。
男女の肉体や混浴の話だけど、肉体の様相と異なる性別の男女や同性に興味を持つ人などをあわせて
「分けよう」という文化にある状況で、肉体の差で分けていることについて
同性の肉体について興味のある人にとって同性との「混浴」は許容されている点について
「どういうものを差として感じ、その差どう扱うかという文化」で性差ができているところから
「構造の差がある」だと思ったの。
シュレディンガーとか観測者みたいな話になっちゃうけど、それを差と確認して認識するまでは
同一だろうし、確認してからは分けられる差かもしれないし、あえて封をあけず同一視することも
人知としてありえるところから、人知にて「男女別湯」になっているところがあるってことじゃないかな。
男性がスカートはく文化があっても、パンストはくことも、ルーズソックスはもともと中年男性むけだったとかも
大胸筋強制サポーターがブラウスから透ける男子がいたりすることも、許容される認識になると
「構造的差異」を同一視する環境がうまれるかもしれないかもと。
男性が下着を買いにいくのに「下着売り場」ではなく「男性用下着売り場」に行くのは
下着を買う以前にその差異を選択するのは「構造的差異に対応していない売り場」を選択しなくてはならないから
みたいな感じで。