はてなキーワード: イカれたとは
ngワードなんてものは暴言を無毒化するためのあるもので、ngに引っかからなくなった時点で無毒化されているわけだからそれでいいだろと。
でも焦点がスパムにあるとそうじゃないんだな。
だから5chはngワードを直接公開しない。暴言を含まない投稿を促すには死ねとか馬鹿とか言っちゃだめだよというリストを作って公開するのが一番近道なのにそれをしない。
ほとんどの掲示板snsはngワードを公開するタイプの仕様で事足りてる。
それだけ5chのスパムの荒らしに占める割合が他サービスより多いということなんだろうな。
だからってNGワードをハッシュ値から調べさせるという仕様で全ユーザに負担を課して、書き込むのに努力を強いるなんて、仕様としてうまくなさすぎだろと思う。こんな変な仕様5chだけ。
なので結局残ったのは、まともでかつそんな努力しようと思える人よりも、その「努力」を無駄と感じられない程精神のイカれた粘着質な荒らしだけ。
毎年、成人の日になるとイカれた派手派手袴姿のヤンキー成人がニュースの話題になるけど、ああいう人達を見ると近年リベラル(ポリコレ?)界隈で流行ってるようなボディポジティブモデルを連想するんだよな。
ここでいうボディポジティブは『ありのままの姿の自分を愛する』みたいな理念的な話というより、そこから生まれた『デブのモデル』『ブスなモデル』みたいな人達とその流行りの話。
成人式の派手派手袴とかヤンキーのファッション文化の根底には「世間がダサいと言おうとオレ達はオレ達のカッコいいを貫く」って精神性があるけど、それってボディポジティブの精神性と酷似しているように思う。
一般的評価では醜悪とされるデブやブスという要素を「それでも私達は私達として輝くんだ」と誰に恥じるでもなく押し出すボディポジティブモデルの姿はヤンキーと似て見える。
リベラル界隈とかヤンキー文化を馬鹿にしてそうな人は多いけど、行き着く所まで行き着くと、こういう共通点が生まれてくるのはなんていうか面白いなと思う。
違いがあるとすれば、ヤンキーは『オレらの世界』で自己完結的なのに対して、ボディポジティブはそれを良いモノだろと世間に押し出してくるところかな。
私はブスだ。
元々の顔は下の上。体型も圧倒的デブだった。
何年もかけて研究したメイクと、ダイエット、いくつかの整形の結果、化粧をした状態で中の上ぐらいの顔にはなった。
生活するのに困ることは無いが、生まれつきのブス強迫観念はなかなか手強く、未だに鏡を見ると「なんだこのイカれた水まんじゅうは」
他人から容姿を褒められても、ありがとう嬉しいですと言いつつ心の中では「いやドブス」と思っている。
いつも自分の顔面偏差値と他人からの評価が気になってしまう。完全にルッキズムに侵されている。
それだけならまぁどこにでもいるけれど、彼女の言動は「まるで90点の女」なのだ。
本気で自分を上の中ぐらいだと思い込んでいる。
強い。強すぎる。別に自分が他人の容姿に厳しすぎる訳では無いと思う。周囲の人の彼女に対する容姿の評価は軒並み「グロい顔」なのだ。
まるでモデルか美容家の謎バイス、クレオパトラかかぐや姫並のモテ自慢。
初めのうちは「なんだこいつ」と正直イライラした。どうせコンプレックスの裏返しで自信満々発言してるんだろなあと思っていた。
違う。彼女は心から自分をナチュラルな美人だと本気で思っていた。
本物の美人の隣に並ぶことを躊躇せず、同じ階層の人間として話をしている。
穴モテ?きもーい!モテモテです♡みんな私を狙ってて困る♡みんなのアイドルです♡
みたいな感じが本気で伝わってくる。
尊敬。「スゴみを感じる」
彼女は精神が強い。自身の信念を貫き、疑わず、もはや他者にまで啓蒙している。
決して馬鹿にしていない。私にはない要素だ。
大体私のように容姿に悩んで次はなんの整形すれば少しは人間に近づけるのかと日々暗澹たる気持ちでいるよりもはるかに健康的だ。
正直羨ましい。本気でそのポジティブさと揺るぎない自信が羨ましい。嫉妬にも近い。
いつか自分も、ほんの少しだけでいいから彼女のような精神性を手に入れたい。
芸能人でもないのに見た目に昼夜悩むなんて一般人には高尚すぎる悩みを捨てたい。
いつか彼女のようになれるだろうか。
原発の放射能を流す力が味噌にあることは有名だろ、その味噌はマクロビオティックの中で現在大注目されているんだ
これなちゃんと関係がある、マクロビオティックつまり「大宇宙、大自然の法則、秩序(=マクロ)に生命を調和させ、合わせる(=ビオティック)
そう家族、地域、国家、グローバルな規模での健康、平和、自由を実現させることを目的とした運動であり、その実践なわけだ
具体的に言えば食物にも波動があって、食物の波動が、増田たちの心や精神的な活動に決定的な影響を与えている。
マクロビオティックの権威によれば食の第一の目的は、「スピリチユアリティの向上」にこそある、食べる目的は単に体を養うだけではなく、精神性やスピリチユアリティを養うことも、食の大切な役割であり目的なのだ、良い波動の食べ物を正しい方法で食べること。
それを食生活の習慣にするだけで、増田は健康と幸福、自由と正義を手に入れることができる。つまり癌が克服される、これがマクロビオティックの実践ってことだ
ただ単にジャップの遅れた人権意識(とイカれたコンテンツ倫理観)を国際基準に合わせるだけでは?感
未開人から文明人にまた一歩近づけて良かったなぁと言いたいところだが、
それらの利権に絡んでいる自民党様をはじめとした上級国民の方々の懐に入る金を無くしたくないので
建前だけ国際基準合わせると言いつつものらりくらり現状維持では?
というか、App Store も中国どころか英語圏の基準で余裕でキックされるようなゲームが
平然と『レーティング無し』で置かれてるし
まあ直球でアニプレックスがパブリッシャーのゲームの話ですけどね
本気で規制するつもりならまずSONYに「おいこら」するでしょうし
自民党様の身内が名を連ねている国内大手動画サイトに対しても何らかのリアクションを取るでしょう
そして元増田曰く、規制派に回ったという"共産党の公式サイト"からのコピペです
どう読んでも規制しようとはしてませんね
政策
2021年10月18日
「共産党は表現規制の容認に舵を切ったのですか」とのご質問に答えて
Q 共産党は創作物に対する表現規制の容認(賛成)に舵を切ったのですか? 「女性・ジェンダー」と「文化」政策は矛盾していませんか?
A 「7、女性とジェンダー」での記述にあるように、日本共産党は、児童ポルノは「性の商品化」の中でも最悪のものであり、児童に対する最悪の性虐待・性的搾取であって、社会からなくしていかなければならないと考えています。
同時に、「60、文化」の項にあるように、「児童ポルノ規制」を名目にしたマンガ・アニメなどへの法的規制の動きには反対です。
今回、「女性とジェンダー」の政策の中に、児童ポルノの定義を「児童性虐待・性的搾取描写物」と変えるとあることをもって、これまでの方針を転換し、マンガやアニメなどの表現物・創作物を法的規制の対象にしようとしているとの理解が広がっていますが、そうではありません。
「児童ポルノ」という言葉については、日本共産党は従来から、被害実態をより適切に表す「児童性虐待描写物」などに改めることを提起してきました(2014年6月17日、参院法務委員会議事録参照)。「児童ポルノ禁止法(1999年成立、2004年、2014年改正)」の保護法益は、実在する児童の自由と人格であり、その規定も、わいせつ性や主観的要素を構成要件とするのではなく、児童への被害の重大性を評価する必要がある、という観点からの提起です。
今回の「女性とジェンダー」の政策は、一足飛びに表現物・創作物に対する法的規制を提起したものではありません。日本の現状への国際的な指摘があることを踏まえ、幅広い関係者で大いに議論し、子どもを性虐待・性的搾取の対象とすることを許さないための社会的な合意をつくっていくことを呼びかけたものです。
そうした議論を起こしていくことは、マンガやアニメ、ゲーム等の創作者や愛好者の皆さんが、「児童ポルノ規制」を名目にした法的規制の動きに抗して「表現の自由」を守り抜くためにも、大切であると考えています。
ただの陰謀論ですよ
トランパーが信じている与太話と変わりはしませんし
ガチヲタは非実在性青少年の頃から『やいのやいの』やってる自称オタクたちをずっと冷ややかな目で見てますよ
少しは学習した方がいい
中世ナーロッパ人に現代のメシを食わせる作品で白米が出てくるとだいたい
異世界人「え?まっず。味しないじゃん」→「オカズと一緒に食べるとまいう~~~」って感じになる。
コレ系で一番のヒットと言われる異世界食堂だと「味がしない」「かさ増し」「意外とケチくせー店だ」みたいな扱い。
前にシン・ゴジラの批判で「白米美味い美味いって粟や稗しか食べたことないの?」って感想が炎上したことがある。
あのとき「シン・ゴジラが白米とか見る目ねーな」派と「白米は本当に美味いのは超うまい」派と「コイツが好きだと言ってる作品ゴミばっかだぞ馬鹿舌かよ」派に別れた。
ここからわかるのは、白米は超うまいと考える日本人も一定数いるということ。
けいおんでは「ごはんはおかず」と宣いごはんはオカズにもなると言い張り続けるイカれた歌詞の曲がヒットした。
時は変わって昭和や大正では白米が銀シャリなんて持ち上げられてた時代もあった。
現代の作品では白米はコテンパンに馬鹿にされ、少し前だと割と評価され、時代が遡っていくほどに白米の価値は高まる。
この違いが何かって言うと、結局の所は食文化が年々豊かになっていることによる相対評価なんだと思う。
たとえば最近は食パンでも凄い美味いから1斤2000円で売れるようなのもあるけど、白米だと中身に具を入れることで初めてそういったステージに立つ。
塩むすびならともかく純粋な白米の塊に対する評価は、現代では地に落ちていると言っていい。
コレに対して現代人の味覚は大雑把になって繊細な味がわからなくなったと批判する事は出来るのかも知れない。
でもそれって結局は白米が時代に取り残されることを選んでいるようなもんじゃない?
なんなら品種改良で味の方向性を変えていけばいいものを、白米は白米らしい味であり続けることに執着しているようにさえ見える。
異世界人が語る「白米単体で食うとマジで味がしないね不味いよね」というセリフは、現代人の本音だよ。
他国の主食、たとえばタピオカなんてミルクティーに入れた粒粒でしかなくて、一時のはやりだから廃れたよねと平気で小馬鹿にさえする。
一方で白米は一粒残したら88の神様に呪われるなんて平気で言うんだ。
同じ主食系の穀物であっても、白米でないなら敬意を向ける対象ではなく、白米であれば畏怖さえ感じている。
だから日本人は創作物のキャラクターであっても日本人に白米を批判させるのは無自覚に避けがちなんだ。
結果として、抑圧された白米に対する不満感情は異世界人という免罪符付きのキャラクターの口からこれでもかと吐き出される。
「味がしない」「ベチャベチャ」「特有の匂い」「かさ増し」「パンの方がいい」「食べにくい」
散々言われ放題ではあるが、それはさも異世界人の教養の無さから来るもののようにカモフラージュされる。
でも待って欲しい。
異世界人は美味しものを食べたら途端にそれを現代人と同じ味覚で持ち上げるよね?
じゃあなんで白米だけがこんな扱いなんだろう?
https://note.com/hoikushioto/n/n34e37b42e52a
このNoteの奴みたいな主張って、リベラルの中でも過激派というか、
ブコメ見ると思ったより肯定的な意見にスターがついてて驚いた。
「将来は若くてきれいな人と結婚するんだ」(したいって思うことだよね)
「イケメン」という言葉にも「社会がフューチャーして使う言葉ではありません」
(「フューチャー」という言葉の誤用は置いておいて)と切り捨てている。
こんなこと、リアルで言ってる人がいたら「やば…近寄らんとこ」としか思わないよね。
自衛隊も含めて全部武力放棄しても話し合えば平和外交できる!って言ってる頭のイカれた左翼にも似てる。
要するに現実を一切見てない、穏当に言っても現実と折り合いつけることができないバランスを欠いた人。
率直に言って、「容姿の美醜」という非常に深い、人間が実生活上はもちろん、芸術上のテーマとしても深く掘り下げてきたテーマを、
「間違った価値観」「古い価値観」と言ってしまえるのは、どれだけ自分が進歩的だと自惚れていればできるんだろう?と不思議でならない。
まして、思春期の少年が例えばヒロスエや、ガッキーや、バッサーと結婚したいと願うのは「間違った価値観」なのだと。
どう考えても間違ってるのはお前の頭だよ。
さらに、結婚したい相手に年齢を考慮するのも差別だというのだから、芦田愛菜も瀬戸内寂聴も同じ条件で考えろというのだろうか。
それがポリコレを突き詰めた末にたどりつく結論なのか? 頭が悪すぎる。
もちろんルッキズム・エイジズムに基づいて、公衆の面前で他者を評価するのは今の世の中ではセクハラに該当するだろうし、誹謗・中傷は許されることではない。
ただ、個人が他者との関わりの中で、その付き合い方の中で容姿や年齢を考慮することを断罪しようだなんて、あまりに行きすぎた考えだと思わないのだろうか。
そしてルッキズムを排除することは、突き詰めれば外見の没個性化に行き着くのだが、それがお望みなのだろうか。
もちろん、アイドルや俳優の存在などもってのほかで、芸人やスポーツ選手も顔ファン防止のため全員アバヤ着用が義務付けられる。
個人も「人格」によってのみ他者を評価するため、結婚を決めて初めて素顔を見ることができる。
あ、声による差別も防がなければならないので、ボイスチェンジャー装着も義務化だ。
身長なんかも差別のもとなので、全員年齢に応じて決まった身長になるよう靴底で調整するのかな。
まぁそこまですればルッキズムによる「差別」はなくせるかもしれないけど、それが理想の社会なのですか?
俺はそんなアップデート、したくないです。
前回 https://anond.hatelabo.jp/20211123000849
言うまでもないが私は小学生の頃からずっと自殺をしたがっていた。
住んでいたマンションのベランダから飛び降りれば、途中で運悪く引っかかったり突然車がやってきて転がり落ちない限りはまずもって死ねる高さがあった。
死ねば終わる。
そう自分に言い聞かせ、言い聞かせられて育っていった。
やはりというか、その学校には「人付き合いが苦手だから勉強する時間が取れただけの自閉症もどき」が沢山詰め込まれていた。
私はその中で比較的漫画やアニメの趣味が合う相手と友達付き合いをした。
とはいえお互いに結局は一人が好きなので寄り道もせず通学路を通り、電車が別の方向に向かったら振り返りもしなかった。
あくまで学校生活で孤立せず、退屈を紛らわすための道具程度の距離感であった。
結局彼らとはその後連絡も取り合っていない。
私には幼馴染は一人も居ない。
中学受験が終わった辺りから将来についていよいよ考える必要が出てきた。
普通にサラリーマンになったのでは、どう考えても私は潰れることが分かっていた。
なにか手に職をつけよう。
そう考えて私はひとまず身近なものを考えた。
活字はなんとなく勉強っぽいから関わりたくなかったし、漫画も学習まんがの読み過ぎでちょっと苦手になっていた。
一時期はいじめっ子の方が上手いからと嫌いだったゲームも、RPGとかだったらレベルでゴリ押しすればいいから自分でも出来ると思ってよく遊んでいた。
ゲームを作ろう。
何をやるのかも分かっていない。
分業すら考えていない。
一人でゲームが作れると思っていた。
確かにFC時代とかであったなら、プログラミングが出来てちょっとドット絵がやれて、あとはピコピコ鳴らしていればゲームになっただろう。
現代のようなインディーでさえ音楽や絵に求められるクオリティがイカれたゲームを一人を作れるクリエーターはいるが、それがどれほど化け物かは分かっていなかった。
当初のプラン通り限定的な地ならしで脅して時間を稼ぐというやり方があっただろ。
そもそもエレンは「やりたいからやった」って劇中で言明している。
「エレンは最初からやりたいことをやってただけ、周囲が勝手に英雄だと勘違いしていた」というミスリード推理劇がやりたかっただけ?
壁の外にはより不自由な世界が広がっていたことに『がっかりした』(劇中で言明)からやったという心情はわからんでもない。
マーレ編以降のつまらなさがエレンと読者の心情をシンクロさせるための意図的な仕掛けだったとしたらたいしたものだな。
それにしてもデビルマンで悪魔化のデマが広がったときの「ユダヤ人は虐殺された恨みを持ってるから悪魔化するに違いない」ってセリフまんまの展開だな。
そう感じている。
毎朝、改札で止まっているおじさんがいる。先にカバンから出すなどして準備しておけばよいものを、必ず直前で立ち止まってガサゴソしているため非常に目立つし、「邪魔だろ」と叫びたくなる。出社すると業務の半分くらいは「てめーがやれ」と言いたくなるようなことであり、会議の9割くらいは「それ今?」と思う。
退社してスーパーで買い物をしていると、お刺身のパックを見て「イカで空いたとこ埋めるんじゃないよ」と思い、広告の品という黄色のポップを見て「いつもこの値段だろうがよ」とパネルになった香取慎吾の胸倉を掴みたくなる。レジではおばあちゃんがリュックサックからセカンドバッグを取り出し、セカンドバッグから巾着袋を取り出し、巾着袋から財布を取り出し、律儀に小銭を探す後期高齢者特有のマトリョーシカを展開していた。帰る前にコンビニに寄ると、いつもいる店員さんに「クイックペイで」と伝え、毎回Edyを用意される。「せめてPayPayとか響きだけでも似てるやつにしてよ」と思いながら、「あっすいません、クイックペイです…」と謝る。袋の有無は聞いてくれないが、本当はいつも欲しいと思っているんだよな。たまに銀行のATMに寄ると、俺が知らないだけでNETFLIXとか観れるの?と思うくらい長期戦の構えを見せているお年寄りがおられる。
帰宅して食事をしながらYouTubeを開くと、ひろゆきの不快な顔がオススメされて「死ぬまで見ねぇよ」とイライラする。そして目当ての動画を開くと、開始前に必ず脱毛を5秒間オススメされ「必要なのは増毛だが、どんな検索結果を基に表示を?」とキレそうになる。
要約すると、私は1日の中でかなり頻繁に「ア゛ー!!」と絶叫したい状況に出会いながら、それをしないことによって「こっち側」に留まれている。それはインターネット上でも同様だ、ということである。
一方で、Twitterなんかを見ていると企業の公式アカウントに謎のリプライを吊るしている方や、増田で突然関係のない話題からレスバを開始される方、もはや私人となられた元皇族の女性の去就にキレ散らかしている方、他人の食事や生活にひたすらケチをつけておられる方などがたくさん居る。また、私の会社に特定の番号で毎日あることないことお叱りの電話をくださる方、落語やってんのかと思うくらい長時間大宮駅のみどりの窓口で何かを訴えている方、とくに重要な機密を抱えているようには見受けられないが集団ストーカーから被害を受けていると毎日私宛に長文のメールを下さる他部署の事務の方、などなど、世の中を見回してみるとけっこう多くの方が"イカれたメンバー"として紹介して差し支えのない仕上がりを見せつけている。
おそらく上述の中でも少ないくない方がなんらかの精神的な疾患を抱えていて、それに関しては単純に適切な医療につながって欲しいと思うだけなのだが、そうではなく単純に性向あるいは思想信条としてそういった状況にある方に対して最近の私が思うことは「この方達と自分を分かつ差はどこに…?」という、純粋な不安だ。たまたま私は口に出していないが、何かのタイミングで普段のほんのちょっとしたイライラを口に出した瞬間に「あっち側」のメンバーになる感じ。その「何か」が何なのか、そうならないためにはどうすればいいのか。インターネットやめますか、それとも人間やめますか…?何となく、自分が一応「普通の人」側にいる(と少なくとも思っている。まあ狂人はだいたいそういうことを言うもんですが…)ことが、たまたまに思えてならないのだ。
おそらく当事者の方に聞いても全員おそらく普通の人側だと思っているだろうからあまり参考にはならないだろうし、先行研究の文献は中島敦『山月記』とかになる。ただ、私は怖くて仕方がない。いつかインターネットを彷徨うヤバ・オジサンに自分がなってしまうその日が…。なんなら、この文章を増田に投稿する時点で既に虎でいえばちょっとシッポ生えてきちゃってるような気もする。今やポル・ポトみたいなことを言い出している藤田孝典も最初はまともな感じだったし、元々は学識のある人だろう。反ワクチン界隈の医者とかも最初はまっとうに優秀な人だったんだろうな…と思うと、この「虎になっちゃう」トリガーが何なのかが非常に気になる。中島敦先生、または、はてな諸賢の御見解を賜りたい。