はてなキーワード: 苦痛とは
電車の中とか、オフィスの中で、携帯で話してるのを聞くのが苦痛なんだけど、みんなそんな感覚ない?
それほど声のトーンを上げてくても静かなオフィスだと響くよね。
本人は会話に集中して、ついつい声大きくなりがちだし。
これが、電車内でのおしゃべりとか、オフィス内での歓談とかなら、うるさいけどまだ許せる。
固定電話だったら、まだ仕方ない気もする。
彼氏の元カノがADHDで、自分の話したいことを一方的に猛烈喋る子で、中村春菊などの一次創作BL、ヒプマイツイステなどの二次創作BLがどう良いかという話、それと夢アンチの話を一方的に聞かされてたらしく
私は私で元彼にエロゲをやることとエロ漫画を読むことを強要されていたから、彼氏の話を聞くのが共感できすぎて楽しいし、私の強要され話に解像度高く「わかる」してもらえるのも楽しい
私は元彼の前から学校で腐女子にハマっているカップリングの話を猛烈に聞かされることがあったから、自分は「聞き役という役割」だと思っていたけど、会話ってキャッチボールになると楽しいな
相手の話を聞いてレシーブするのが楽しいし、レシーブしたのに対して相手が私の話を聞いたうえでのレシーブがまた返ってくると楽しい、会話って楽しかったんだ…
彼氏も私も、男性向けと女性向け両方のあるあるネタを薄く広く知ってる状態になってるから、レシーブできるネタの幅がお互いに広くてそれがめちゃくちゃ楽しい
彼氏、元カノには一方的に話されて聞き役しかしてなかったようだけど、彼氏の話って面白いじゃんと聞いてて思う
あと私はカードゲームについての話を元彼から聞かされるのが本気で苦痛すぎてカードゲームの話題は完全に拒否していたけど彼氏はNG無しで元カノの話を聞いていたようで凄いなと思う
文章読む限りでは、どこにも発達障害の要素が見当たらないけどな?
それはそれとして、状況が自分とよく似ていて驚き。(ついでに言うと私も三十路)
公募じゃないけど、とにかく書きたい小説があって、でも書けなくて、苦しくて……ついネットを見たり、本を読んだりしている。
そのくせ頭はいつも小説のことでいっぱいで、恋愛とか婚活とか現実のこととして考えられない。別の世界の話題みたいに聞こえる。
書かなきゃ、書かないと何も進まない。でも書けない。を繰り返しながら、5年もかかって40万字まで来た。
自意識を排除して、ただ登場人物の気持ちだけを考えて物語を綴る生き物になりたい。けどなれない。
増田さんは苦しいことから逃げているんじゃないの? 楽しいことからも逃げてるの?
苦しいことから逃げるのは仕方ないです。時々体をつねったりして立ち向かうしかないです。
あ。音楽を聴くと少しやる気が出ることがあるよ。小説のテーマにあった音楽を繰り返し聴いて、よしっと書き始める。
b:id:ch1248にはあきれた。マジであきれた。
まずはここ。
「小松氏がこの評を読んだとき、深刻に悩んで後悔し、作品消したり、芦原先生の顛末みたくならないか気になってしまった……。/自分の評の影響は考えた?」
→読むの?
・深刻に悩んで
→深刻に悩むの?
・後悔し、
→後悔するの?
・作品消したり、
→作品消すの(消せるの?)
→そんなことになるの?本当に?
こんなふうに他人の行動を、「かもしれない」の連続によって、自分の言説に都合がよいように誘導して「最悪のときにこうなるから慎め」って、そんなことを言い出したら、何でもありだよね。
「あなたが現内閣を支持することによって、社会の変革を求める者が、いつまでたっても政権が交代しないことに対する絶望感を募らせ、ついには直接行動をおこして要人を殺害するといった、山上徹也の顛末みたくならないか?自分の影響は考えた?」
とか、
「核兵器の廃絶運動によって、世界から核兵器がなくなると、核の抑止力もなくなって、戦争が増えて、私の息子が徴兵されて戦場へ連れて行かれて殺されるということにならないか?自分の運動の影響は考えた?」
も、何でもありになっちゃうけれど?
人の死をにおわせることによって言論を掣肘するのは、ちょっと卑怯じゃないか?
「小松氏がこの評を読んだとき、深刻に悩んで後悔し、作品消したり、芦原先生の顛末みたくならないか気になってしまった……。」
芦原先生が亡くなられた本当の理由なんてもちろん分からないけれど、私たちに見えている事象としては、芦原先生は最後、
というメッセージを残しているよね。
これを素直に受け止めれば、先生の自死の大きな要因として考えられるのは、先生が脚本家に批判されたからでも、ネットでリンチにあったからでもなく(先生が被害を受けたことの苦痛ではななく)、
先生自身のブログが発火点となって、SNSのユーザーらが脚本家をはじめ関係各位に攻撃を始めて収拾がつかなくなったから(自らが加害の発端となってしまったことへの後悔)だと考えられるよね。
それを今回にあてはめていえば、むしろ心配すべきは、自身のエントリにブックマーカーどもが追随したせいで、結果として小松氏への批判だらけのブックマークページをつくってしまったid:whkrだろう。
一歩譲って、小松氏がブックマークページに並んでいる非難の文章を読んで気に悩むことを心配するとしても、釘を刺すべきはブックマーカーどもだろ。
をもう一度読んだ方がいいと思うよ。
私はid:ch1248をお気に入りにこそ入れていないけれど、私の敬愛する方がid:ch1248をお気に入りに入れているし、私自身もid:ch1248のエントリを何度も読んだことがある。
別に嫌いではなかったし、別にお気に入りに入れてもいいぐらいに思っていた。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/nyake/n/ne7e986f37a0f
serio 男女を逆にすると、「NANA好きの元カノ」の貞操観念ゆるゆるエピソードを同人誌にまとめる、といったところかな? 特定の作品が好きな人はこういう性格をしている、という偏見バリバリな企画だな。
対称として、貞操観念がゆるゆる、に相当することなんて言ってない。
それに、特定の作風が好きな人が一般大衆の平均とイコールだったら、ランダムな国民が新海誠を観ることになる。傾向があること自体は、むしろ自然だ。
fujifavoric かつての(時には現行の)交際相手を、本人のいないところでネタにしたり嘲笑したりするのって自分の周囲だとなぜか殆どが女性で、それが本当に苦痛で男女交際が嫌になった頃の気持ちを思い出した
たとえば、こちらの意見は偏見として批判しないのか。文化によって人の振る舞い・性格が異なることはあり得る。
sunagi ぶっちゃけやってることは「だめんず・うぉ~か~」と同じなんで、出すこと自体は止められないけど、批判が来るのは当然でもある。人間をコンテンツとして見てるんだもの。その覚悟なかったの!?って方にびっくり。
謝罪するのは覚悟がなかったせいだ、とレッテルを貼る証拠がない。
国語の問題だと思って文章を読むと、謝罪の理由は「自虐の意図を伝えられず、企画で傷つけてしまったから」
zuiji_zuisho 「なんかすいません」の体を取りつつ自分全然間違ってないし有意義なことやろうとしてたんだけどわからねーかー、かーっ!感がすごい文章だなと思った。(そしてそれなら中止しなくていいじゃん、とも)
謝罪が全然謝ってないぞ系の誹謗中傷はよくあるが、なぜ頭を下げてる人をさらに上から殴ろうとするのか。
hyphenkorosi 「私の伝え方が悪く、傷つけてしまったこと、心から申し訳ございませんでした」ですってよ。この「伝え方が悪かった」謝罪をする全ての人を信用できない
「誤解を招いて申し訳ありません」とかね。
——どうしてそれだと信用できないんだろう。
https://anond.hatelabo.jp/20240212162252
#国は安楽死を認めてください とXで発信している人たちがいる。
彼らの望みは一目瞭然だ。楽に死にたいだけだ。現状から逃れるために。
苦しんでいる人のため、とか言う人もいるが、結局その制度を誰のために望むかといえば、自分のためだろう。
ならそんな彼らに必要なのは安楽死制度ではなく、自分で実行可能な苦痛のない死に方なのではないだろうか。
彼らは怖いのだ。自死に伴う耐え難い痛みが。万が一失敗したときの後遺症が。
そんな彼らに楽な死に方を教えてあげることができれば、#国は安楽死を認めてください なんてふざけた事を言うのもやめるのではないだろうか?
https://anond.hatelabo.jp/20240212162252
日本は安楽死を認めてくださいなんて活動をしてる奴らがいるが、もし日本に安楽死制度が出来たとしても、他の国に倣って重症の患者だけとか、生きてるだけで苦痛に苛まれるとか、そういう人にだけしか使えない制度になるはずなんだよな。
だから、そういったポストをしてる奴らのほとんどがそういう制度を受け入れられないことになるはずだ。アイツらの魂胆は分かってる。自分が死にたいだけだ。色々言っているが、結局のところは自分が死にたい、楽になりたいだけだ。
臓器が最優先の死なるということだと思います
保守派の論客ウェズリー・スミスが自身のブログ(5月8日)で引用している上記論文の一部と、オックスフォード大学のサイトに5月10日付で全文公開されている同じ著者による論文 Organ Donation Euthanasiaを読むと、その主張とは「生命維持治療の中止にも死後の臓器提供にもそれぞれ自己決定権が認められているのだから、生きたまま全身麻酔で臓器を摘出するという方法による安楽死を選べるようにするのが合理的。そうすれば臓器が痛まず提供意思を今よりも尊重できるし、患者本人も延命停止後の苦痛を避けることができる」というもの。「どのみち死んでいく患者だけに適用するのだ」から、意思決定能力のある患者の自己選択と、独立した委員会での承認を条件にすれば、「死ななくてもよい患者が死ぬということは起こらない」。
> 小澤征爾の演奏を聴いてもそこには指揮技術の巧みさは感じるが、音楽表現に個性が感じられない
まったく同感です。
きっちりしている、とは感じます。しかし小澤さんの音楽には引き込まれるものがありません。
メカニカルというか、ハートがないというか、そんな感じでしょうか。聞いていて苦痛になってきます。また聴きたいと思えません。
同じ日本人ですし、応援したいという気持ちもありますから、小澤さんの指揮はいろいろ聞きましたが、他の指揮者の作品よりいいと思ったことが
ほとんどありません。比較的いいなと思ったのはレスピーギのローマ三部作くらいですが、それは他の指揮者があまり取り上げない演目だから、
というだけのことかもしれません。
正直なところ、演奏が立派な人ではなくて、経歴が立派な人、という印象です。
まあ実際、小澤さんの紹介文はどれを見ても経歴しか褒めてませんからね...あの作曲家の作品の解釈をこう変えたとか、
この演奏が物議を醸したとか、音楽解釈について褒めている人はいないように思います。
聴いても良さがよく分からないということの裏返しではないでしょうか。
性依存症とは、性的な行動や欲求に対する異常な執着やコントロールが見られる状態を指します。これは、他の依存症と同様に、日常生活に支障をきたし、社会的な問題や心理的な苦痛を引き起こす可能性があります。
あなたの状況を考えると、月に1週間くらいの期間に性欲が強く湧くという経験があるようですが、その状態が性依存症に該当するかどうかは、一般的な情報だけでは断定できません。性依存症の診断は、専門家による面接や評価が必要です。
ただし、性欲が強くなること自体は一般的なことであり、月経周期によって女性の性欲が変動することも知られています。そのような自然な変化が、性依存症とは異なります。
一方で、東栄住宅の件やスポーツ感覚でのセックスについては、セックスが相手の同意なく行われたり、加害者が自己中心的な欲求のみに従って行動したりすることが問題視されるのは、被害者の権利や尊厳を無視するからです。性的な関係は、互いの同意と尊重が基本です。
なんかふと、「今の自分ってずいぶんと気楽な毎日だな」と思った。
会社がフルリモート体制なので朝起きるのは8時くらい。一緒に暮らすパートナーの出勤に合わせて7時過ぎに起きることが多いけど、そのへんは気分。起きたら軽くストレッチをしてテレビを見ながら朝ごはん作って食べて、適当に仕事を始める。
会社員だが、朝礼とかは特にない。朝イチで打ち合わせがなければ好きな時間にパソコンを立ち上げればいい。あとは黙々と自分の仕事をこなすのみだ。
特別忙しくなければ、合間にスーパーへ買い物に行ってサクッと晩御飯をつくる。一品物をドーンと作ることが多い。日没前に仕事を一旦切り上げてランニングへ。天気が良くないときはウォーキングに切り替えるなど、とにかく気分転換に外へ出て体を動かす。
帰ってくると、パートナーも帰宅済みなことが多いので一緒につくっておいたご飯を食べ、食後は割とすぐお風呂に入る。洗濯は冬場なら2日に1回。私が晩御飯を作ったらパートナーが洗い物してくれるのでラクチン。ワハハハとふたりでテレビ見て、余裕があればゲームしたり小説読んだり。仕事が残ってれば風呂上がりに仕事をし、パートナーが眠るのを見送る。
ほぼ毎日こんな感じ。働く時間は概ね5〜7時間。もちろん、忙しい時期はその倍の時間働くこともあるし、日によっては客先で打ち合わせすることや出張で数日家を空けることもある。とは言え、月に数回の外出、年に10回以下の出張程度なのでそこまで苦痛じゃない。むしろ刺激になって良い。
以前は毎日乗っていたラッシュ時間帯の電車も年に数回しか体験しなくなったし、洋服や日用品の買い物や映画の鑑賞なども、打ち合わせ時についでに済ませることが多くなった。丸1日かけて見る買い物も楽しいが、打ち合わせ前後でさっと見て回るのもいいものだ。
先日、ひさしぶりに休日の新宿に行って人の多さにびっくりした程度には、平日の閑散とした雰囲気に慣れてしまった。最近は平日も外国の方で賑わっていることも多いけども。
こうやって改めて自分の毎日を振り返ると、自分は本当に気楽な日常を過ごしているなと思う。仕事も好きな分野だし、非情に自由気ままだ。
どうしてこんなにも気楽な暮らしができているかというと、仕事の裁量がほぼ自分にあることが関係しているのだと思う。ほぼすべて自分次第。業務管理がそこまで苦手じゃないのでプライベートも優先しつつ、やりがい持ちながらうまくやらせてもらってる。もちろん、仕事でストレスフルな状況に陥ることもあるけれど、乗り越えてしまえばここに書いたような日常に戻れるのが分かっているから平気だ。収入も自分が生きるのには十分なだけいただけている。
子どもがいればこんな余裕もまったくなくなるだろうが、子を産み育てる予定がないので(自分とパートナーではつくれないというが正しいかもだけど)考えても仕方がない。もちろん、我が子と共に倍速で過ごす日常もそれはそれで素晴らしい幸福だろうと眩しく思うこともある。ただ、それでも今の自分の日常は「非情にのんびりとした幸福に包まれている」と感じる。
来週は友人と食事の予定があり、月末はパートナーとは近場の観光名所へ出かける予定がある。来月はまた別の友人と少し遠方へ出かける予定も立てている。海外旅行にはほとんど行ったことないし、服装も高価なものは身につけていないし、自慢のお家もないけれど、私には十分すぎるくらいの楽しみな予定だ。
10代、20代の日常を振り返ると、つくづく、今が人生でいちばん気楽だなと思う。
平穏な暮らしを望むなら何でも言いなりになる相手や何でも突っかかってくる相手は駄目だ
この先すっとその顔を眺めながら暮らせるレベルの相手と結婚しないとこの先苦痛だぞ
年収が高かったり見た目がいいのに婚活してるようなやつは何かヤバい問題を隠してるぞ気を付けろ
とかなんとかかんとかやいのやいの
昼くらいにマッチングアプリで迷走している増田を見たので、とりあえずマッチングアプリで恋人を作った俺の話を投下したい。
この2つさえ意識すれば、自分が思っているよりも広い層をターゲットにできるし、すんなりと恋人ができて辞められると思う。
実際、俺は妥協できない点として話の波長が合う点と最低限の家事ができる点の2つを設けた。
その上で10人ほどと出会い、一番話の波長があった人と恋人になった。
なんら難しいことではない。
別に彼女のことは好きではないが、肉体関係を持つことは苦痛ではないし、一緒にいて楽しいのでそれなりに毎日は充実していると思う。
そんなもんでいいんだよ、60点を取ろう。
今年数え年42で本厄。
あと2,3年放置してたらガンになってたかもしれないって言われて肝が冷えた。
検査自体は毎年やってるけどこの検査の精度はそんな高くないらしい。
大腸がんがあったとしても相当進行しないと便潜血陽性にならないとか・・・。
なんで毎年うんこを取らないといけないんだよ!って用途もわからずキレながら取ってた。
最近は勝手に流れるトイレが多くて、検体取りたくても無情にも流されていったりして、まあ別にいっかってなってた。
検便シートもトイレの水や便の量が人より多い場合はトイレットペーパー敷いてくださいって書かれてるけど他人と比較したことないからわからなくてシートごと便が水浸しになったり。
でも今回はそういうのを乗り越えてちゃんとできた。
ただポリープぐらいじゃ潜血になることはあまりないらしいので、おそらく痔か何かだったんだろうって言われた。
子供に半強制的に表現させることについてどう考えているんだろうか
音楽にのる(精神的にも教師の言いなりになる)のは、あまりに心身の自由を蔑ろにしているように思える
机に座る、黒板を見る、ノートをとる、という座学では、身体な自由はかなり制限されているものの、ノートの隅に落書きする余地もあれば、黒板を見ながら空想に浸る余地もあるが(人によっては苦痛だろう)
体育のダンスは、教科としての音楽や美術よりもさらに芸術的な側面が失われているように思えるし
カリキュラム作成に乗じた(スポーツ教育周辺の学者様等々の)権力争いの道具にされているようで気持ち悪い
現行のカリキュラムにおけるダンスは「子供のため」の教育ではないように思う(だってガキなんか踊りたきゃ勝手に踊る生き物じゃん)
実家が太い云々という増田を目にして、俺もつい自分の人生について書きたくなった。
医者というとなんとなく世間的にもお金持ちのイメージがあるだろうが、事実裕福な家庭に生まれたと今でも思う。
そんな俺だが、結局30も手前になって職歴なしどころか学歴すらない立派な引きこもりに成り果ててしまった。
まず前提として俺の家系は代々医者の一族で、父方の祖父が地元(と言っても俺の住んでいる市内)でおそらく一番大きい総合病院の理事長をしていた。
その祖父の思想が強く、医者でなければ人間でないと言わんばかりの態度を常に振り撒いていた。
母方の祖父母は確か医者ではなかったと記憶しているが、いつだったか父方の祖父母の家に連れて行かれた際、「あまりあっちのじいじ・ばあばと話をすると頭が悪くなっちゃうぞ」などと耳打ちされたことを今でも覚えている。
当時は家や身なりも立派で見るからに"偉い"祖父を漠然と尊敬していたためにその言いつけを守り、母方の祖父母とはほとんど口も聞いていなかった。
俺がそんなだからか、或いは母親か誰かがそんな祖父に辟易したのかは知らないが、小学校の高学年くらいから母方の祖父母に会うことは無くなった。
そんな祖父のプレッシャーのせいか、物心がついた頃にはもう塾に通っていた。
習い事も多くさせられ、ピアノ・バイオリン・空手・水泳・テニスを確か幼稚園くらいから習っていた。
これは気質もあるのだろうが、自分の意に反して何かをさせられるのがかなりのストレスのようで、あまりにも習い事に行きたくなくてよく体調を崩していたり、時には仮病を使ったりしていた。
また、センスの問題なのかモチベーションの問題なのか、どの習い事も全く上達せず、発表会や大会のたびに親に恥をかかせてはよく平手打ちをされていた。
ある夜、何かをしたくてリビングに降りた時、両親が俺が何もできない無能である事について真剣に話し合っているのを耳にしてしまい、眠れなくなってしまったこともある。
いつしか出来損ないのレッテルを貼られた俺は、それでもなんとか医者に仕立て上げなければならないという強迫観念を持った両親の元で家にいる間は四六時中机に縛られ、常に勉強をさせられていた。
朝起きたら強制的に机に座らせられ、親の指定する量の勉強をこなすまでは朝食すら取れないような生活だったので、朝起きるのが苦痛で睡眠障害になってしまい、次第に学校にすら行けなくなってしまった。
勉強のストレスで常に吐き気がしており、食欲もなく、睡眠不足も相まって頭も余計に回らず、さらに両親に叱られるといった感じで完全に負の連鎖に入ってしまっていたと思う。
ネットやテレビに触れなかったためか、「自殺」という概念が当時の自分の中になかったために踏み切ることがなかったものの、もしもその概念を知っていたなら、間違いなく自殺を選んでいたと思う。そんな精神状態だった。
そんな両親の下なので中学受験をさせられ、結果としてはそれなりの中高一貫校に入学することはできた。
しかし、高ストレス下で勉強だけをさせられて育った結果、いつしか俺は著しいコミュニケーション障害を抱えていた。
小学生の頃に友達と遊ばせてもらうことができなかったせいか、両親に過度に気を使う癖が付いてしまったせいか、原因は今となってはわからないものの、とにかく友人とフラットにコミュニケーションを取るということが全くできなくなっていた。
と言っても育ちのいい生徒ばかりだったので、ドラマやアニメで見るような苛烈なものではなく、ただ無視されるとか陰口を言われるとか、そんなレベルではあったが。
いずれにせよ学校に居場所をなくした俺は、いつしか不登校になっていった。風邪で休んでそのまま復帰できなくなったとか、そんなんだった気がする。
クラス替えというシステムがない学校だったため、一度不登校になってしまったら人間関係を取り返す術はなく、そのまま5年半ほど不登校を続ける形になった。
留年して再スタートすることも提案されたが、両親の面子を保つためか受け入れられず、(どういうシステムかは今思えば謎だが)とりあえずそのまま進級し、卒業を迎えることになった。
当然医学部を目指させる家庭方針だったため、塾・予備校には通わせられていたし、家でも小学校の時さながら机に縛られる生活だった。
しかしながら、反抗期を迎えたこともあり、また俺の体格が大きくなってきたこともあるのだろうが、小学校の時ほどは勉強を強制されず、俺も次第に家の中でも部屋に引き篭もるようになった。
もちろんある程度独学はしていたものの、受験の結果は案の定ダメで、箸にも棒にもかからないような成績だった。
とは言ってもMARCHくらいなら合格できる成績だったのだが、医学部以外の受験は認められなかったため、全落ちのまま浪人生となった。
それ以降は特に語ることもないが、2浪、3浪とする中で、親の洗脳も次第に解けていった。そうすると、ただ親の意向のためだけに医学部受験をしていることの虚しさを目を向け始めてしまい、勉強にも身が入らなくなっていった。
そうはいっても医学部以外への進学を認めないという親の方針は変わらず、一応俺は10浪中ということにはなっている(と思う)。
が、2年前くらいからセンター試験(共通テスト)の出願すらもしないようになった。そのことに両親が気づいているのかもわからないが。
もちろん住む場所にも日々の食事にも何一つ困ってはいないのだが、俺はきっと社会に出ることはできず、ひたすらに自我と向き合いながら、この広い実家に幽閉され続けるのだと思う。
もう30も目前となった今さらになって、軌道修正を図る気力も無いし、仮に何か行動したとて無意味なんだと思ってもいる。
そしておそらくは両親も、こうなってしまった俺をどうして良いのか、そして俺と、ひいては自分たちの過ちとどう向き合って良いのかがわかっていないんだと思う。
だから今日も変わらず義務のように母親は俺の食事を用意し、父親は何も言わずに俺のボロいスマートフォンの通信量を払い続けいてるんだと思う。
多分お互いに、行動を起こすのが怖いんだろうな。
だから現状維持に甘んじて、昨日と変わらない今日を過ごすことで失敗から目を背けているんだと思う。
こうやって気づけば10年以上が経っていて、きっとそのまま老いて死んでいくんだろうな。
いつだったかネットで『5億年ボタン』のコピペを読んだ時に感じた、途方もない無の中に幽閉される恐怖。
思えば俺はその中に今居るし、ついぞ抜け出すことなどなくそのまま死ぬんだろうと思う。
とりとめもなく書いてしまって終わり方もわからなくなってしまったが、一旦この辺で終わりにする。
読んでくれてありがとう。これを書くことをコミュニケーションとまでは言えないだろうが、誰かに自分の気持ちを表明する経験が無さすぎて、書きあげるとともに凄いカタルシスのようなものを感じている。
俺は"本物の"弱者男性だ、学校は苦痛でしかなく毎日一秒でも早く帰宅してゲームで遊びたかった
学力も低く一応Fラン大学に進学したものの大企業には当然就職できず年収は300万円代、女にモテた事もない
「トヨタ自動車の今期営業利益が過去最高の〇兆円!」みたいなニュースを見るたび、高学歴で大企業に就職できた奴や、創業者一族に生まれ何もせずとも裕福な暮らしができる奴と自分を比較して死にたい気持ちになる
街中で刃物を振り回す無敵の人が出てくると、自分を重ねて犯人に同情心を覚えたいた
そんな俺の人生は2年ほど前に変わった、NISAブームで投資を始めたのだ
故山崎元氏の記事なんかを読んでほとんどの資金はインデックスファンドに振っていたが、なんとなく100株18万円でトヨタ自動車の株を買った、これが正解だった
みんなも知っての通りこの後日本の株価は右肩上がりとなる、この文章を書いている現在トヨタ自動車の株価は100株29万円を超えている、その上配当金も年に6000円くらい出る。
もう大企業の決算のニュースを見ても心がかき乱される事は無くなった、むしろトヨタに就職できた人は優秀な人ばかりなのだから、頑張ってほしいと応援する気にすらなってくる
伊東純也の件でのサッカーファンの荒ぶり方が心配になるんだけど、そんなこと言っても大きなお世話だって言われるだろうからここで吐き出す。
伊東のファンが、冤罪だと信じてる、そんなことする訳ないとか言うのは当然というか気持ちが分かるので良いんだけど、告発している女性の容姿を貶したり(奥さんが美人なのであんな女うんぬん)しているの後で誹謗中傷で訴えられたら負けると思うよ。開示請求されて何十万請求みたいなことになるのが怖くないんだろうか。
伊東側の弁護士が取材を受けてる伊東寄りの記事でも、女性二人をホテルに泊めたことは認めてるし、ジャージに着替えることを許して寝ている姿を動画に撮ってる。ほぼほぼ不倫は認めててあとは性的同意があったかどうかの争いになってるよね。
まあ泊めただけで性行為はしてませんって主張するのかもしれないけど、自分の配偶者がホテルに異性を泊めたって知った奥さんの立場からすると耐えがたい苦痛だと思うんだけど。
あとスポンサー批判も止めた方が良いのでは?不倫が濃厚な時点で激しくイメージダウンなので何やってるんだってスポンサーが怒ってしかるべきな話だと思うんだよね。
ペルー戦後にそんなことしてる余裕はないとか、純也は陰キャだからとか、奥さんが美人だからとか擁護してたけどほぼほぼ否定された気がするんだけど。
伊東純也が無実だったらファンが何も言わなくても無実だ。けど告発している女性たちが正しかった場合は無理筋擁護している人たちは誹謗中傷で訴えられる可能性があるわけで、百害あって一理なしなんだから俺は伊東を信じてるとかに留めて女性を批判しない方が良いと思うんだけどなあ。
元増田です。
書きっぱなしで放置していたら、この話が総合に入ってきていたので返信しておきます。
安楽死にとって絶対に譲れない条件は「それが本人の同意に基づくこと」である。人間には生きる権利がある。生き続けるのが苦痛である場合にその権利を放棄したい人たちが求めているのが安楽死だ。当然、同意に拠らない安楽死はすべて否定されるべき...
まず、そもそも必ずしもすべての人間が同意を取れるわけではありません。
会話ができない、ただ痛みが苦しみがあるだけ、植物状態など、同意が取れないケースなどいくらでもあります。
こういった場合、延命治療の拒否によって実質的な安楽死が行われますが、延命治療の拒否は安楽死ではないのでしょうか?
私は制度設計として、複雑で複数の死を選ぶ制度があるよりも、安楽死に一本化した方が適用範囲拡大を防ぐためにも良いと考えているので、
延命治療の拒否の制度を廃止して、安楽死に統一すべきだと思います。
仮に重病の受刑者が安楽死を希望する場合でも、仮釈放して刑務所の外で安楽死を行う病院につなげる程度の慎重さが求められるだろう。
この話を手順にすると、次のようになりませんか?
意味が分かりません。
彼にとって必要なのは「親を殺すこと」ではない。「親を放り出す権利」である。親を放り出すことができないことに彼の不幸の根源があり、逆に言えば放り出すことができさえすれば親を殺す必要はない。
私は放り出す施設があれば良いとは全く思いません。
実際に現在、親を放り出してベッドに拘束して死ぬまで待つという施設が全国の至る所にあります。
これらは親の介護を格安で放り出す施設なわけですが、こういった施設の賛成派なんでしょうか?
不適切な身体的拘束…老人ホームに改善命令「手のかかる人を預かり仕方なかった」と釈明=静岡・沼津市
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/500960
私はこういった終末のあり方は良くないと思いますし、日取りを決めて家族皆で見送ってあげる方が健全だと思います。
発見が遅れて腐乱した親や、手足に拘束の傷のある親の死に顔を見たいとは到底思えません。