はてなキーワード: 日本書紀とは
左翼は天皇が生まれながら人生の選択権を縛られていることを問題にしている
天皇家の男系の精子を冷凍保存して志願者が妊娠すればいいんじゃね?
右翼が重視してるのはDNAの一貫性なんだから精子さえ保存されてりゃいいんだし
左翼は自由意思で女帝になりたいという人を止めたりはしないだろ、それこそ職業選択の自由だし
誰も志願者がいなければ皇室を敬愛してる人たちがクラウドファウンディングして女帝の生活を保障すればいいじゃん。その値段が釣り合う数字が皇室維持に必要な本当の価格だ。リバタリアンもこれで納得
あとは大事な皇統の精子が盗まれて悪用された場合にそなえてWTOに提訴できる体制を整えときゃOK
[追記]
それはちょっとかわいそうなんで代わりにid:baikoku_senseiを冷凍保存しといた方がいいかな・・・
見た目変わらないし・・・
生まれた子供が皇位を継承するかは成人してから本人に決めさせればいいんじゃない?
国事行為冷凍カプセルにやらすんか。アラブあたりの国賓は憤慨してジハードしそうだな
(でもよく考えたら国内向け限定なら2年もしたらみんな慣れてお祭り騒ぎに利用しそう)
おー、俺の主張を先鋭化させたやつだ。
ただ、この考えはそこまで生命倫理を逸脱させてない
現行だって精子バンクのドナーはどの女性に利用されるか選ぶ権利がない(いわば男性にはリプロダクティブライツが欠けている)ので
女性側の血筋まで云々言い出すなら、もうY遺伝子のことは口にするな
で、
左翼の懸念は君主という制度自体が民主主義に反してるみたいなことを言うの?
ブログ読んだ。ネックは皇位継承を自由意志で選べないからってところっぽい
(なんかこの議論、究極のところ反出生主義に到達しそうだね。誰しも生まれることを選択してないのに生まれてきてしまった)
んで、この案では皇室に嫁ぐ女性だけが唯一自由意志を発揮できるポイントなんで
[もう少し追記]
arajin
death6coin
まあ国内向けなら。death6coinも被災したとき精子が励ましてくれたら心踊るようになると思うよ。日本人、慣れるから
doycuesalgoza
明仁、徳仁、文仁の受精能力は実証済みなんで行ける。これが卵子保存だと冷凍保存で能力が保たないので、男系保持の強みだと思う
ROYGB
科学がそこまで強い設定だったらクローンと降霊術組み合わせて神武復活させるわ
ゲノムだけ大事なくらい思い切れるなら別に精子採取しなくていいから、目と鼻洗った時に採取したDNAで人間作れば手っ取り早いし日本書紀にも則してる
安倍ちゃんってそれほど守旧派のイメージなくて、バックを日本会議が支えてるからポーズとってるだけなんじゃないかとおもうんだけど。あの人が大事なのは信介じいちゃんの名誉回復で。
aflat_1000dai4
まあでも正直ネタで言ってる。ごめんな。
hanyan0401
俺としては、成人が当人同士で望むのなら近親婚も多夫多妻もしていいと思うよ。
quick_past
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E5%AD%90%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF
武烈天皇には特殊能力こそないが、名前の通りの荒々しいエピソードが色々残っていて趣深い
なお、日本書紀は、武烈天皇の異常な行為を記している。その部分を以下に列挙する。
二年の秋九月に、孕婦の腹を割きて其の胎を観す。
三年の冬十月に、人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう。
四年の夏四月に、人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死すことを快としたまふ。
五年の夏六月に、人を塘の樋に伏せ入らしめ、外に流出づるを、三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ。
七年の春二月に、人を樹に昇らしめ、弓を以ちて射墜として咲いたまふ。
八年の春三月に、女をひたはだかにして、平板の上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊牝せしむ。女の不浄を観るときに、湿へる者は殺し、湿はざる者は没めて官やつことし、此を以ちて楽としたまふ。
「百田尚樹というブランド」を作り上げるのにかかった年月と、そのための努力、これは悔しいが素人では太刀打ちできないのだ、悔しいが
よく書店ではなくコンビニで売ってる、古代史や戦国時代に関する紙質の悪い雑学本の仕事をしている
その程度の本でも、Wikipediaは最後の裏取り程度にしか使わず、吉川弘文館だの中公公論社だの岩波書店だのから刊行されてる、それなりの実績がある大学教授が書いた専門書を参考に書いてる
実際、現代ではまともな歴史学者の資料に当たると「日本書紀のこの記述はウソ、当時の政治的な作為がうんぬん」「平家物語のこの記述は~」「太平記のこの記述は~」という調子で、いわゆる面白そうな話はほとんど全否定になる
逆に、マニア的に「じつはそうだったのか!」的な面白さもあるのだが、これはある程度の前提を理解したマニアでないと通じにくい
通俗歴史本の執筆という点では、誇張抜きに、俺の方が百田尚樹より真面目に仕事してると本気で思ってる
しかし、それでは売れないのだ
あのくだらん日本国紀は、「百田尚樹というブランド」の勝利なのである
そして実際、無名の歴史系の底辺ライターである俺は、『海賊と呼ばれた男』だの『永遠の0』ほどの小説は書けないし書いたこともない、負けなのは仕方ないと認める
が、たかが書店ではなくよくコンビニで売ってる雑学本でも、俺はWikipediaに頼らず、一定の実績ある歴史学者が書いた文献を参考に書くことを辞める気はない
読者に正確な事実を伝えたいなんてご大層なことではない
歴史教育というのは、愛国教育など関係なくともある意味で思想の押し付けという性格を持つ。
そんな中で、学問としての歴史学、特に日本史学は邪魔であろう。
よく、右翼は歴史家を左翼だと言う。学術的に考えられていることを、左翼歴史家が捏造したことだと言う。
マルクス主義史観の時代でもないのになぜそんな事が言えるのか。
左翼的でない歴史、右翼が納得する歴史、極論を言えばそれは古事記や日本書紀のように国が定めた正史だ。
愛国教育というのは、これに近い性格の物であると私は考えている。
最後になるが、私は元々歴史家を志していたが近年の歴史を巡る情勢の変化に嫌気がさし、未来がないと踏んで飛び出して来たものである。
ここ10数年、右傾化ガーとか歴史修正主義ガーと言われて久しい。
ところがウヨが興味あるのは慰安婦とか南京とか戦前戦中の話だけで、それ以前はどうでも良いらしい。
過去10数年ぐらいに刊行されてる、吉川弘文館の人物叢書だの、朝日選書だの講談社や中央公論社だの各社の新書とかで、古代・中世日本史の本を読むと、なぜウヨが激怒発狂しないのか謎でならない。
何しろ、古代史では『日本書紀』は大ウソだらけ、万世一系ではなく継体天皇の代からは新王朝の可能性が濃厚、任那日本府は通説よりずっと規模が小さく「日本府」って名前も後世につくられた、「大化の改新」の中身はほとんど無し、厩戸王は実在したけど聖徳太子の手柄の大部分は蘇我氏の業績、藤原氏(中臣氏)を美化するための誇張が濃厚、壬申の乱の記述は天武天皇を正当化する作為が濃厚――といった調子、皇国史観は絶対で「記紀の内容はすべて史実!」て言ってた戦前の基準じゃ許されん話ではないかw
「神武天皇は実在した」とかドヤ顔で語ってた自民党議員は怒らないのか?
中世史も、『平家物語』の名場面の大部分は創作で源氏は卑劣、後醍醐天皇は政治的に無能だったから建武の新政は失敗、戦国時代には住民大虐殺や奴隷の人身売買が通例……とかなんとか、そんな話がフツーに記されてる。
竹田恒泰とかの「日本の伝統に詳しい人」と称する連中に言わせると、近代以前の日本には中国韓国のような野蛮で卑劣な話は一切なく、この世の悪はすべて戦後民主主義のせいらしいが、全然そんなことはなかったと公然と書かれてる。
やれ「歴史戦」とか言う連中は、なんでこういうここ10数年の歴史学者の成果を「ブサヨの歴史捏造だ!」と言って怒らないのかw
ウヨ連中は本当に、明治期以降か下手すりゃ昭和期戦前しか興味ねえんだろうな
専業主婦とか夫婦同姓が本気で日本の伝統と思ってたり、小島毅が書いてたように「明治維新が起きたのは江戸時代に儒教が広まったから」とか知らんで、本気で「中国韓国は儒教国家だからケシカラン」とかドヤ顔してる奴多いし
もともとは単に「1 条件に満足する=同意する・和解する」という意味だったのだろう。
日本書紀にもそう書いてある。
そこからの変化は、
「2 本来は満足すべきではないかもしれないが、自分は本当に満足している」(例・清貧に甘んじる)
「3 本来は満足すべきでないのに、満足してしまっている」(例・下位に甘んじる)
「4 本来は満足すべきではないが、やむをえず同意する」(例・薄給に甘んじる)
といったところだろうか。
「1」の用法は消滅したが、「2」「3」「4」はそれぞれ今でも使われていると思う。
ちなみにいつごろから使われているのか。
却て悲しむらくは、公のただ古人の糟粕を甘なつて、空しく一生を区々の中に誤る事を
この「甘なつて=甘んじて」は「3」の用法であろう。
歴史の早い段階でネガティブな意味合いを含んでいたことが窺える。
だから「やむをえず受け入れるという意味ではない」という擁護は正しい。
まあ、何々と同じなんでしょ?って言ってる方はぶっちゃけジャンルの話をしてるんであって
日本文学は全部日本書紀のパクリでしょ?みたいなことを言われようがそこは否定しようがない事実だから無言で頷く他よりない
(海は全ての生命の母でしょ?と言われてカチンとくる必要も反論する必要もないように一言そうだねというだけで良いのと同じ)
(創作物は作られる前段階で他の創作物と全く被ってないのかチェックされる以上は何らかの過去作品の影響を必然的に受けるものであると認識するべき)
作品にとって最も重要なのはビジネス的側面から言えば売上(利益率)であり何がルーツかはどうでもいい(勿論特許侵害に値しない範囲での活動に限る)
そして消費者サイドからしたら「どれが一番買いたいのか」でありこれまた何がルーツかどうかは極めてどうでもいい
仮にもしうる星と同じなんでしょ?(いつまでそんなもんみてんだバーカ)と言う意味で言ってきたとしても
それと深夜美少女アニメを見たいと思っているユーザーの気持ちとは何ら関連性がない
ジャンルとしてルーツがそうであったところで購買者の購買欲の有無とそれとは何ら関係性がない
同じジャンルならどの歌手・曲も大好きなんてやつがまずいないのと同じようにジャンルが同じだからといって購買欲が上がるかどうかは人それぞれ
同じものだから飽きる・同じものだから続けられる、そこは個人レベルの問題でありうる星がルーツかどうかは関係ない
なのでこの発言に同意したところで購買欲を否定できるものではないし、購入動機が消失するわけでもない
単にジャンルのことに対して問うているに過ぎない質問に正しい返答をすればよろしい
まだこの世にDQNネームやらキラキラネームやらの呼称ができる前、
小学校の時、毎日のように家に行って一緒に遊んだあの子の名前はフルネームで思い出せない・・・
お母さんがバレエの先生で、それにちなんだ華美な名前を持っていた一軍女子のあの子の名前は今でも漢字で書ける。
中学生の頃、お世話になった部活の先輩、後輩の名前は誰一人フルネームで思い出せない・・・。
一度も話したことのない外国風の名前を持つ生徒会長の名前は憶えている、弟の名前まで漢字で書ける。
社会人になり、一緒に入社した同期の名前を今何人思い出せるだろう・・・。
日本書紀に出てくる言葉から名前をもらったと快活に自己アピールをしていた同期の名前は、別の部署に配属され、その後会うことも無かったのに、はっきりと覚えている。
なぜかこれらの人々は名前と共に顔やパーソナリティもしっかりと記憶に刻まれている。
おそらく二十年後の将来も自分は珍しい名前の彼らのことを記憶しているだろう。
より曖昧になって、たいして親しくもなかったのに同窓会で「よっ、久しぶり! 〇〇じゃん、元気だったぁ~?」みたいなに声をかけてしまうのかもしれない。
はっきり言えば十七条の憲法はフィクションだ。聖徳太子が居たかどうかはイマイチ不明だ。聖徳太子というのは厩戸皇子が後に信仰の対象となり聖徳太子と呼ばれるようになったわけだが、その厩戸皇子の業績があまりに凄すぎておかしいので、こんな奴はいないのではないか、全部潤色ではないかという疑惑が発生している。
その疑惑自体は白黒つけるのは難しいのだが、聖徳太子が制定したとされる十七条の憲法は、明らかに当時の文章と違うので勝手に文章を変えたか、そもそも憲法自体をでっち上げたかのどちらかになる。おそらくは憲法自体でっち上げであり、聖徳太子の業績も大半はでっち上げのはずだと考えられる。
そのフィクションの憲法の中で一番日本人に影響を与えてきたのは「和をもって尊しとなす」の一文だろう。和は尊い。和を乱す者は醜い。日本は水田を維持管理するために村が共同で土地と水を管理する必要がある社会であり、村から排除されたら水田が維持できず生きられなかった。だから、そもそも周りの意見に対して異を唱える事自体が生殺与奪につながるほどリスキーだった。
それを一言で言い表したのが「和をもって尊しとなす」である。さすが聖徳太子。フィクションとは言え本質をついている。日本書紀の作者には歴史を改変するに足る文才があった。その思想は日本人の根幹に今も生き続け、あらゆる問題提起的言論を封殺し続けている。
これの筆者です。
id:netcraft3さんに「このままシリーズ化してほしい」と言われたんですが、そのつもりはないです。歴史学に対してろくな知識もないから恥をかきそうだし、人気の増田(国会ウォッチャー)みたいに注目をあびるのは恐ろしいです。
なので今回で最後になるかもしれませんが、ひとまず「遣唐使」について見ていきましょう。
山川出版社『詳説日本史』の「遣唐使」という項は、次のように書かれています。全文引用します。
618年、隋にかわって中国を統一した唐は、東アジアに大帝国をきずき、広大な領地を支配して周辺諸国に大きな影響をあたえた。西アジアとの交流もさかんになり、都の長安(現、西安)は世界的な都市として国際文化が花ひらいた。
東アジア諸国も唐と通交するようになり、日本からの遣唐使は8世紀にはほぼ20年に1度の割合で派遣された。大使をはじめとする遣唐使には留学生・留学僧なども加わり、多い時には約500人の人びとが、4隻の船にのって渡海した。しかし、造船や航海の技術はまだ未熟であったため、海上での遭難も多かった。遣唐使たちは、唐から先進的な政治制度や国際的な文化をもたらし、日本に大きな影響をあたえた。とくに帰国した吉備真備や玄昉は、のち聖武天皇に重用されて政界でも進出した。
朝鮮半島を統一した新羅とも多くの使節が往来したが、日本は国力を充実させた新羅を従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた。8世紀末になると遣新羅使の派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった。一方、靺鞨族や旧高句麗人を中心に中国東北部に建国された渤海とは緊密な使節の往来がおこなわれた。渤海は、唐・新羅との対抗関係から727(神亀4)年に日本に使節を派遣して国交を求め、日本も新羅との対抗関係から渤海と友好的に通交した。
これはひどい。遣唐使の派遣再開が何年だったかという記述がありません。
そもそもこの派遣が再開であるという基礎知識すら、この教科書では把握できません。ページを戻って第2章「1,飛鳥の朝廷」の「東アジアの動向とヤマト政権の発展」という項では、「倭は630年の犬上御田鍬をはじめとして引き続き遣唐使を派遣し」たとあるのですけど、その後にしばらく派遣を中断した時期があることは記載なし。
一時期は中断していたからこそ、702年の派遣再開に歴史的意義があります。第1回の遣唐使派遣が630年ですから、何と、まだ大化の改新をやっていない時代ですよ? それくらい古い時代から派遣していたにもかかわらず、多くの教科書が8世紀初頭の出来事として遣唐使のことを説明するのはなぜでしょうか。それは再開というターニングポイントを重視しているからです。本書もそれに従って、「3,平城京の時代」という単元に「遣唐使」の項を配置しています。それならば、中断・再開の経緯について説明を載せるべきです。
ちなみに、他の教科書では、遣唐使の派遣再開についての説明が次のようになっています。
「7世紀前半にはじまった遣唐使は、天武・持統天皇の時代にはしばらく中断されていたが、702年久しぶりに難波津を出発した。」
「白村江の戦いののち、30年あまりとだえていた唐との国交が、701(大宝元)年の遣唐使任命によって再開され、以後、遣唐使がたびたび派遣された。それまで、半島からの渡来人や新羅などに学びながら、ある程度の国家体制を整えてきたが、この年の大宝律令とともに、唐との直接交通を始めたのである。」
「律令制度を整えた朝廷も、702(大宝2)年に遣唐使を復活させ、唐の文物や制度の摂取につとめた。[中略]
こうしたなか、朝廷は新都の造営や貨幣の鋳造、国史の編纂などを次々に実行して、中央集権体制にふさわしい国家づくりに励んだ。」
[引用者注:教科書のページを戻って「白村江の戦いと国内体制の整備」の項では、白村江の戦いののち、遣唐使が「669年を最後に中断した」という記述あり。]
遣唐使が中断していた理由もわかるし、大宝律令の制定と遣唐使の再開という2つの出来事を結びつけて理解することができます。
三省堂の記述もおもしろいです。私は前回、この教科書について、「時代の流れがよくわかる」「時系列にしたがった記述が多い」というようなことを書きましたけど、ここでもその特徴が出ています。
大宝律令の制定、平城京への遷都、貨幣の鋳造、国史編纂というのは国内政治です。一方、遣唐使、新羅・渤海との関係は、外交政策です。普通の教科書はこれを別項に分けますが、三省堂はこれを同じ項にまとめて一つの時代の様相として語っているのがすごい。
東京書籍、実教出版も、中断・再開に触れています。その点は『詳説日本史』より絶対にマシです。
山川出版社『高校日本史 改訂版』(日B 017)は、教科書のページ数が少なくて、内容もぺらぺらに薄いです。『詳説日本史』と同様、これでは大雑把に奈良時代の初め頃だったということしか分かりません。(しかも正確には702年に派遣再開されたので、これを奈良時代の出来事と把握すると誤りになります)
東大入試(2003年)は、遣唐使の本質にせまる問題を出しています。
次の(1)~(4)の8世紀の日本の外交についての文章を読んで、下記の設問に答えなさい。
(1) 律令法を導入した日本では、中国と同じように、外国を「外蕃」「蕃国」と呼んだ。ただし唐を他と区別して、「隣国」と称することもあった。
(2) 遣唐使大伴古麻呂は、唐の玄宗皇帝の元日朝賀(臣下から祝賀をうける儀式)に参列した時、日本と新羅とが席次を争ったことを報告している。8世紀には、日本は唐に20年に1度朝貢する約束を結んでいたと考えられる。
(3) 743年、新羅使は、それまでの「調」という貢進物の名称を「土毛」(土地の物産)に改めたので、日本の朝廷は受けとりを拒否した。このように両国関係は緊張することもあった。
(4) 8世紀を通じて新羅使は20回ほど来日している。長屋王は、新羅使の帰国にあたって私邸で饗宴をもよおし、使節と漢詩をよみかわしたことが知られる。また、752年の新羅使は700人あまりの大人数で、アジア各地のさまざまな品物をもたらし、貴族たちが競って購入したことが知られる。
設問:この時代の日本にとって、唐との関係と新羅との関係のもつ意味にはどのような違いがあるか。たて前と実際の差に注目しながら、6行以内で説明しなさい。
山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B018)です。これ以外は、どの教科書も上記引用した『詳説日本史』と似たり寄ったりの内容ですから、いくら熟読をしても答案を書くことが難しいと思います。(三省堂をのぞく。後述)
8世紀に入ると、日本は20年に1度の回数で大規模な遣唐使を派遣した。日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢であり、使者は正月の朝賀に参列し、皇帝を祝賀した。[中略]
一方、日本の律令国家内では天皇が皇帝であり、日本が中華となる唐と同様の帝国構造を持った。日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけており、従属国として扱おうとした。
白村江の戦いののち、朝鮮半島を統一した新羅は、唐を牽制するために日本とのあいだにひんぱんに使節を往来させ、8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった。やがて対等外交を主張したが、朝廷はこれを認めず、藤原仲麻呂は新羅への征討戦争を準備した。一方で、新羅は民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きくなった。現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には、新羅商人が仲介したものが多いと考えられる。[後略]
以上に準拠しながら、私なりに要点をまとめておくと、次のとおりです。
(1)は、日本が唐から律令を学び、その中華思想の影響を受けたことを言っています。つまり、日本はみずからが「中華となる」という「帝国構造」を作ろうとしたのです。「日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけ」て、彼らを野蛮だと侮蔑し、従属国として扱おうとしました。ですが、唐だけは別格です。あのような大国を敵にまわすと、恐ろしいことになりかねません。そういう遠慮があって、唐のことだけは尊重して隣国と呼びました。
(2)は、「日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢」をしていたということです。唐の臣下となって朝貢する国々の中にも、その立場にはランクがありました。日本と新羅はともに唐の臣下だったのですけど、日本は新羅より格上の臣下になろうとしたのです。
(3)は、日本と新羅の関係悪化について述べています。新羅が「8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった」ので、その間は関係がうまくいっていました。しかし、新羅が「やがて対等外交を主張」するようになったから、両国関係はこじれてしまったのです。それが最終的には藤原仲麻呂が「新羅への征討戦争を準備」するくらいにエスカレートします。
(4)は、日本と新羅が政治的には対立しつつも、経済的には交流が盛んだったという内容です。「新羅は民間交易に力を入れ」ました。「新羅商人が仲介し」、日本へ「唐や南方の宝物」をもたらしたのです。それは貴族たちが競って購入したがる垂涎の的でした。現在「正倉院に所蔵され」ている宝物も、そういうルートで輸入したものが多いのです。
教科書の読み比べをすることの目的は、なにも入試に対応するためだけではありません。
例えば『詳説日本史』には、最初に引用したとおり、「日本は国力を充実させた新羅を従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた」とか、「8世紀末になると遣新羅使の派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった」という記述があります。この短い記述が伝えようとしていることの本当の意味は、『新日本史B 改訂版』(日B018)のような他の教科書と併読することにより、はじめて正確に把握できるのです。
ところで、この教科書の著者は、東大の先生が3人、京大の先生が1人です。本書だけに載っているネタを使って入試問題がつくられたのは、そのへんの事情もあるのかなと勘ぐってしまいます。
もしくは、これは2003年の入試問題ということだから、ちょうど講談社の『日本の歴史』シリーズ(2000年~2003年)が発行されていた時期ですし、そちらの内容を意識しているのかもしれないですね。一応、そっちのシリーズからも引用しておきましょう。
国内及び新羅などの諸国に対する時と、唐に対する時とで天皇の顔を使い分けるという、まことにすっきりしない状況でもあった。このような努力・苦心を払って日本が手に入れようとしたのは、東アジアの有力国としては新羅より格が上、という地位の確認であり、また初期の遣唐使が唐の高宗に蝦夷を見せたことに示されているように(『日本書紀』斉明五年七月三日条)、日本は隼人や蝦夷などの異民族をも支配下にいれた大国かつ君子国であるという評価であった。いわば唐を盟主とする諸国の中での相対的に高い地位を求めるとともに、自らの小帝国であることを唐に認めさせようとしたのである。(石母田正『天皇と諸蕃』)
さきにもふれたように、「日本国」は唐帝国との公的な外交関係では「天皇」の称号を用いることができず、実際には二十年に一度の使い――遣唐使――を送る唐の朝貢国に位置づけられていたと考えられるが(東野治之「遣唐使船」朝日新聞社、一九九九年)、国号を「倭」から「日本」に変え、「天」をつけた王の称号を定めたのは、唐帝国に対し、小なりとも自ら帝国として立とうとする意志であったことも間違いない。
実際、「日本国」は「蛮夷」を服属させる「中華」として自らを位置づけ、「文明」的と自任するその国制を、周囲の「未開」な「夷狄」におし及ぼし、国家の領域を拡げようとする強烈な意欲を、その発足当初は持っていたのである。
[中略]
このように、朝鮮半島に対しても圧力を加えて、朝貢を強要する姿勢を示す一方、「日本海」をこえてたびたび使者を送って交易を求めてきた渤海については朝貢国として扱うなど、「日本国」は自らを「中華」とし、帝国として四方に臨もうとしていた。しかし東北侵略を止めた9世紀に入ると、こうした「帝国主義」的な姿勢、列島外の世界に対する積極的な動きはしだいに退き、十世紀になれば、ほとんどそれは表に現れなくなっていく。
日本が置かれている立場としては、唐への朝貢という屈辱外交をやめるためには、遣唐使の派遣を中止するしかないわけです。しかし、日本は唐と断交して敵対的にのぞむ国力も、その覚悟もありませんでした。
いっぽう、遣唐使は唐の皇帝から賜った国書(日本国王へ勅す)を持ち帰るわけにはいきません。日本が唐に朝貢していると認めることは、天皇の威信を傷つけることになるからです。
こうなると、実際には日本が唐に朝貢していることが明らかなのに、国内での建前としてはそれを否定してみせる必要が出てきます。要するに、「遣唐使の派遣は朝貢ではない。天皇が唐に臣従しているという批判は当たらない」という建前をでっちあげ、国内的にはそれをゴリ押しすることで、この矛盾を乗り越えようとしたのです。
私がこのエントリの題名に「白紙に戻せぬ遣唐使」と付けた由来は、多分みなさんもご存知の、894年に遣唐使が廃止されたことを指す語呂合わせ「白紙に戻そう遣唐使」です。しかし、日本がほんとうに、この"遣唐使"的なるものを白紙に戻せたかというと、それは甚だ疑問です。為政者が国内と国外で異なる顔を見せたり、外交姿勢の実態と建前を使い分けているというのは、室町時代に明に朝貢して「日本国王」となった足利義満に、ほとんどそのまま適用できる視点だと思います。
それに、このことは現代の外交問題についても、重要な示唆を与えてくれます。例えば政府が国内に向けて愛国心やナショナリズムを煽っておきながら、それと同時に国外に向けて国際協調のアピールをするというチグハグな状況は、まさにこの延長にあるんじゃないでしょうか。
あるいは唐側の視点で見ると、日唐関係はこんな見方もできるかもしれません。唐は日本がおとなしく朝貢するかぎり、細かいことに目くじらを立てなかった。唐としては蕃国をヘタに刺激して事を荒立てるより、多少その尊大なふるまいを黙認しておく方がメリットがあった。すなわち唐は日本と妥協しあって、朝貢関係があるとも無いとも、どちらとも言える状況を作りあげた。――こういう分析がどれだけ妥当か分かりませんけど、2国間に争いがあるとき玉虫色の決着をつけ、両国政府がそれぞれ自国民の耳に心地よい解釈で説明をしているというのは、これまた現代によく見かける話でしょう。
遣唐使についての解説が長くなりすぎましたが、じゃあここから、各社の教科書の読み比べをしていきます。
おもしろい特色がありません。
無理に良い所探しをするなら、「よつのふね」という文学的な呼び方を紹介し、その規模がいかに大きかったかを強調していることです。
華々しく飾り立てた大使節団というのは、それを送りだす側も、それを受け入れる側も、両国にとって国威発揚のイベントになったと推測できます。もっとも、沈没や行方不明になることも多々あったので、華々しさとはかけ離れたのが実態だったかもしれませんし、どうなのでしょう?
つづきを書きました→ http://anond.hatelabo.jp/20170611234459
髪を切ってもらっている時、ふいに「建国記念の日って何でこの日なんだか知ってます?」と聞かれた。
そう言われてみれば知らないなあと思いつつ、日本政府ができた時かなと思い「明治維新の頃ですかね」と適当に答えた。
「え?じゃあ江戸時代までは日本って呼ばれていなかったんですか?」と更に聞き返されて、「そうかもしれませんね。」と適当な相槌をうってしまった。
それで帰ってきてから謎のままじゃすっきりしないと調べてみたら、全然違いました。
というか、日本書紀とか江戸より以前でも普通に日本が使われていることを思い出してめちゃくちゃ恥ずかしくなった。
さらに畳み掛けるように、「みどりの日って何の日ですか?」とか聞かれてそれなら知ってると思い「昭和天皇の誕生日を、長いこと祝日だったから平成になっても祝日のまま残した日ですよね」と答えたら、今度は「え?じゃあ昭和の日って何ですか?」とか聞いてこられて「そんな日ありましたっけ?え?あれ?」しどろもどろになってしまった。
「え?」じゃねぇよ。自分で調べろよ。というか髪切ってもらってる間じゃスマホも取り出せねーよ。
日本人: 日本書紀に「391年に神宮皇后が百済と新羅を征服したと書いてある。」
日本人: 三国史記「新羅本記」にも慶州を倭兵に包囲されたと言う記録がある。新羅は何回も王子を人質に差し出している。百済の武寧王は人質の子として日本で生まれた。
中国人: 満州にある碑文にも倭国が海を渡って百済と新羅を臣下にしたと書いてある。
中国人: 中国の歴史書の宋書にも倭国が朝鮮半島南部を支配した記録がある。
中国人: 中国の歴史書の魏志倭人伝には既に3世紀から倭国では鉄の鏃を使ったと書いてある。
中国人: 中国の歴史書の随書にも倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。百済と新羅は倭国を大国として敬ったと書いてある。
韓国人: そうだ。歴史書が本物だとしても,日本という名前は7世紀まで無かった。倭と日本は違う。
日本人: 三国史記に「670年の十二月に、倭国が国号を日本と改名した。日の出る所に近いから、これをもって「日本国」としたとの事である。」とあるが?
中国人: 中国政府も外交部のホームページ(www.fmprc.gov.cn)で「5世紀はじめ、大和国が隆盛した時期に、日本の支配が朝鮮半島の南部にまで拡大した。」と公式に認めている。
日本人: イギリスのオックスフォード大学の出版社(www.oup.com/ca)の教科書が、「5世紀の日本の勢力は朝鮮半島南部まで支配した。」 書いている。それを世界50か国の学校に発行している。
韓国人: オックスフォード大学の捏造だ!!
日本人: アメリカのコロンビア大学やアメリカ議会図書館が「5世紀の朝鮮半島南部は日本の大和政権の支配下にあった。」と記載している。