はてなキーワード: 仏教徒とは
ツイッターには、男が女に説教したがるのには生物学的基盤があるからかもしれないと主張しただけで発狂して否定にかかるフェミニストがいるらしい。生物的基盤があるからこれは仕方がないとか許容されるべきとかは一切言っていないにも関わらず。
フェミニストはいつも、議論に社会的に構築された有害な男らしさを持ち出す。結婚したいと思うのも、競争して自分の地位を得たいと思うのも、有害な男らしさを社会から押し付けられたせいであり、降りれば楽になる。降りずに不幸になるのは馬鹿だからで、自己責任。降りるべきだと。いつだって悪いのは男なのだと。
一方でフェミニストは、女が出産とキャリアアップを両立できないのは制度が悪い!改善せよ!と叫ぶ。これは矛盾した態度ではないのか。
出産もキャリアアップも、べつに誰も誰にも強要していない。個人が社会的に押し付けられた偏見から来る欲望であって、それを無反省に受け入れているのは女であっても同じだろう。出産もキャリアアップもやめようと思えばやめられるし、なくても幸せになれるのだから、片方だけにせよ両立したいにせよ、やろうと思ってしまうのは自己責任であり、欲望を捨てられないお前が悪いと言うべきじゃないのか。降りて幸せになるべきじゃないのか。
フェミニズムは自分が仏教徒やストア主義者であることを自覚すべきだ。人間の全ての活動はどこかから押し付けられた人工的な欲望であると考える限り、人工的ならば解体されるべきだという考えに必然的に陥る。役割規範に限らず欲望に拘束されるのが不幸を導くのならば全て捨てるべきであり、何もせずとも精神的に充足した状態である解脱やアクラシアやアタラクシアを目指すぺきだと言うべきだ。反出生主義にも賛同すべきだ。子供を持ちたいなどと欲望を持つから不幸になるのだ。何もこの世でなせなかった自分の代品として人間ペットを作り出し、搾取はダメだけど自分の子供はより低い立場である保育士に預け自分はホワイトカラー労働でさらなるキャリアアップを目指し、多様性は大事だけど自分の子供は塾に入れて私立の上流階級の上品な空間で育て、生産性差別はダメだけど自分の子供は社会で貢献できる素晴らしい人材になってほしいと考えるような、そんな思考は今すぐ捨てるべきだ。やめるべきだ。さっさと全ての欲望から自由になれ。捨てられるんだろ?降りられるんだろ?降りないのは有害な男らしさにとらわれてるからなんだろ?嫌だとは言わせないぞ。
大体、昨今の生産性がなくてもいい!みたいな議論にも無理がある。社会の中で何の役割も果たせなかったら無力感で強い苦痛を感じるに決まっている。生産性とは社会の中で役割を果たすことに他ならないのだから。そんな人たちに居場所を与えない社会が悪いと言うかもしれない。だが、そんな居場所でやるべきことが何もできないからこそ弱者なのだと言うこと、誰かがその負担を引き受ける必要があるということを忘れている。生産性がなくても肯定されるべきというのは、あなたがバリバリ働く横でとなりのおっさんがもたもたもたもた、機械は苦手、ミスも多発で全体にダメージ、それでもその男を会社に必要な存在として同じ給料で受け入れることを意味する。精神的に受け入れるなんて絵空事で、カネがなければ生きていけない以上カネを払わないなら受け入れないのと同じことだからだ。同じ給料なのは、競争志向は有害な男らしさである以上それを促進する効果を持つ社会制度は撤廃されるべきだからだ。能力に応じた地位配分であるメリトクラシ―は撤廃すべきだ。そもそも能力なんて、生まれと育ちに大部分決定されたものである以上、個人にその果実を与えるのはおかしいのだ。もしこれを拒否するなら、フェミニストはこれを利用して、自分たちはフェミニズムという学問を修めた以上それにふさわしい支配階級としての地位を求めるに決まっている。他の人に競争させたくないのは、自分達こそが高い地位を独占してカネを手にし支配力と欲望を思うままに発揮しホストを侍らせ酒池肉林をやりたいからではないのか。そうでないなら、全ての人は全ての欲望を捨てろと言うべきで、男は有害だとばかり言わず女にもカレシ作るな、競争志向やめろ、そんなものはいらないはずだと主張しゆるやかな社会の滅亡を目指すべきではないのか。女の欲望はこれまで優先されてこなかったのだから優先して叶えられるべきだなんて差別論理で女が全肯定されるとでも思っているのか。女批判は全部ミソジニ―でマンスプレイニングだと言えば聞く必要がなくなるのか。男批判も女批判も平等にツイッターで叫ばないのはなぜか。生産性がなくてもいいなら、出産と労働への欲望だけ特別の地位を与える必要はあるのか。わきまえていないのは社会に対してでなく、自分の叶いもしない無際限の欲望に対してではないのか。
フェミニズムは生産性を拒否した果てに、相互承認の相互ケア社会を夢見ているのかもしれない。そんなものは無理に決まっている。誰が、何日も風呂に入っていないホームレスの人間を受け入れ、肯定し、ひいては抱き締めるようなことができるのか。フェミニストはそれを積極的にやれているのか?誰も何の役割も求められない社会で、承認を得る手段として家族も労働も拒否するなら、相互ケアしか道がない。なら、キモくてカネのないおっさんおばさんクソガキ不良反社不潔人間障害者重病人外国人、ケアする能力を持たない不幸な孤独者を誰がケアするのか?女にだけ求められていると誤読される恐れがあるから、フェミニストも、男も、LGBTも、社会の全ての構成員が全ての構成員をケアする義務を持つ社会と化す、と強調する。解決策としてケア役割を職業にしようとするならば、結局自分はフェミニズムという上流学問を修めた以上上流階級がふさわしくそんな下品で誰もやりたくない仕事はフェミニストはやらなくていいはずだという傲慢ではないのか。社会から疎外された弱者がその役目を負うことになることに目を向けるべきだ。相互ケアなんてできるわけないのだ。誰もがケアされる側になりたいに決まっていて、他人のケアなんてまっぴらごめん、誰かに押し付けたいに決まっているからだ。念のため言うがカレシカノジョパートナーを作って承認を得るなんて可能性があるはずはない。好みの顔面や肉体による他者選別なんて、誰も配慮する必要のない社会的に構築された欲望でしかないからだ。欲望する存在としての人間は全て否定されるのだ。
以上見たように、「社会的に構築された欲望」理論からは、全ての人間は全ての役割規範と欲望を放棄し、全ての承認の根源を失い、静かに死んでいき社会を滅亡させるのが善だという結論以外はあり得ない。東京スカイツリーの展望台から、一人一人丁寧に飛び降りるのだ。環境問題も少子化問題も解決され、最高の未来が約束されている。死は救済だ。
ライスシャワーは仏教徒じゃないかもしれないとか、バラは棘があるからとか、花言葉とかどうでもいいんだよ。キリスト教はバラはOKですとか知らないわよ。
なんとなくこれはマズイなと本人が分かっていながらも承認欲求のために慰霊碑の上に二次元キャラクターを見立てたとわかるようなグッズ(今回は青いバラ)を置いて、写真を上げる行為が「オタクはさあ」って言われるんでしょうが。
「他の人があげた写真がバズったあれは自分です! みてこの写真! すぐ片したけど!」みたいな写真、なんでTwitterにあげちゃうの? ウマ娘のお友達だけのLINEでもいいから内輪でやればいいじゃん。
競馬好きだからちゃんとやった上でウマ娘ってコンテンツがあまり魅力的ではないなって思ったんだけど、今回の一件でこんな人ばかりが競馬場に増えるならちょっと嫌だなって思ってしまった。
ウマ娘のユーザーが言うには、きっと他の馬主もウマ娘に出させてくださいって土下座しにくるんだって。
金子オーナー、Cygamesに土下座してアパパネ出しますか? エロ同人誌にされちゃいますけど。(Cygamesが禁止してるけど、ゴールドシップのエロ同人ふつうにネットにありますよね)
最近、メディアでミャンマー情勢を聞くことが増えている。軍部のクーデターで情報統制が敷かれ自由が奪われ、国民が弾圧されているというのだ。ニュースを聞いていると、少し昔にミャンマーを旅行したことをふと思い出したので、備忘録的に増田に書き残しておく。
2014年、私はミャンマーを旅してた。この前年、ゴールデンウィークに旅していたウズベキスタンの乗り合いタクシーで偶然出会ったベテランバックパッカーから、『早めに訪れるべき国』と紹介されたのがきかっけで興味を持ったのだった。曰く、「数年前からテインセイン政権が民主化をすすめていて、外国からヒト・モノ・カネが流入しだしている。そう遠くない時期にマクドナルドやコカ・コーラ等の海外資本で町が埋め尽くされ、純朴な国民性が拝金主義に染まり、メジャーな東南アジアの観光地のようにつまらない場所になってしまう。”素”のミャンマーが見れるのは今の時期しかない」とのことだった。その翌年だっただろうか、ANAがヤンゴンに新規就航した。クレジットカードのポイントで『丘マイル』がたまってきていたので、今しかないと思ってミャンマーに飛んだのだった。
ところで、私が旅を決めた2014年当時、ミャンマーの情報は書籍上にもネット上にも乏しかった。(今でもかもしれないが。)非常にベタだが、自分なりにミャンマーの知識を得るために、『ビルマの竪琴』を読み、高田馬場のミャンマー人街を訪れ、増上寺のミャンマーフェスに参加し旅の前に気分を盛り上げた。それら事前に集めた情報をもとに旅程を決めた。最大都市のヤンゴン、古都マンダレーとパガンを3泊4日ですべて回る。そのためにルートづくりは難航したが、夜行バスや、エーヤワディ川の水上ボート等を組み合わせて何とかめどがついた。
初めに訪れたのはパガン。初日にヤンゴンから夜行バスで向かって、到着したその日の朝に到着。その足で宿に荷物を降ろし、仏教遺跡にむかう。パガンの仏教遺跡は当時、全く観光地化されていなかった(今はわからないが)。滅びた過去の王朝の栄華を残す草原に埋もれた遺跡で、地元の仏教徒が花やろうそくを備えて信仰のよりどころにしている。そんな感じのところだった。遺跡は非常に広大なため、効率よく回るために宿で中国製の電動バイクを借りたのだが、これが曲者だった。バッテリーの残量メーターが適当で、まだ半分ほど充電が残っていると思っていたら、バッテリーがふいに止まり、南国の強い日差しのもと10km近い距離をただの重りと化した電動バイクを押して帰る羽目になったのだ。
ミャンマーの古都マンダレーへは翌日の早朝に向かった。ミャンマーを流れる大河、エーヤワディー川を観光ボートに乗って移動するのだ。朝日が昇る前に、宿の主人にお願いしてエーヤワディー川のほとりの船着き場に送ってもらい船に乗り込む。乗客はほとんどが欧米系観光客で、日本人は私一人。東南アジアでよく見る中国系・韓国系の旅行者は一人もいなかった。船に乗り込んですぐに、日の出を見ることができた。大河から見る朝日は非常に美しく、カメラのシャッターを切りまくった。だが航行時間は10時間以上と非常に長く、暇を持て余す。近くの旅行者に話しかけるとドイツ人だった。大学時代に習った片言のドイツ語で、「Ich lerne Deutsch bitte.」と話すと猛スピードでドイツ語会話が始まり、まったく聞き取れなかったので英語に切り替えてもらってコミュニケーションをとったりしていた。
10時間を超える船旅を経てマンダレーに到着した。マンダレーの市街地は船着場から離れていたのでタクシーを借りて中心地に向かう。旅程に余裕がなかったので、そのままタクシーで主要施設を回ってもらい、観光をこなす。そのまま勢いで長距離バス乗り場へ向かい、マンダレーからヤンゴンに向かう高速バスに乗り込む。ヤンゴンにはその日の夜10時ごろに到着。夜間の異動で治安が不安だったが、特に問題もなく宿に到着。最終日に備えて睡眠をとる。
ミャンマー滞在最終日。最大都市のヤンゴンで街歩きをし、国民食のモヒンガーを食べたり、過去のイギリス統治時代の建築物を見たりして過ごす。町中の家には見たことのないような巨大なパラボラアンテナがつけられており、台風対策で軽量化する必要があったからだろうか、日本で見かけるものとは違い皿の部分がメッシュになっているのが印象的だった。街歩きついでにミャンマー国鉄で市内を移動したりもした。東京でいうところの山手線に相当する環状線がヤンゴンにもあり、Circular Lineと呼ばれているものだ。料金は非常に安く、日本円で10円くらいだっただろうか?車内に外国人は一人もいなかった。パガン~マンダレーで見たような欧米系の旅行客はタクシーをチャーターして市内観光をしているのだろうか?しばらく客車に乗っていると、私が日本人とわかったのか日本滞在経験があるというミャンマー人に話しかけられたのだ。観光地で話しかけてくる現地の人は、たいていお金目当てなので警戒してたのだが、悪い人ではなさそうだったので聞くだけ話を聞いてみたら、バブル期に名古屋で期間工をしていたらしかった。
駆け足でいろいろな経験をしながらミャンマー観光を終えた私は日本に戻った。実際に現地を見てきたことで知的好奇心を満たされた私は、しばらくミャンマー情勢から興味を失っていた。が、最近またニュースで日々ミャンマーの情報を見聞きするようになり、ふいに旅行した時のことを思い出したのだった。当時であった人たちは今も元気にしているだろうか?数年後にコロナが収束しても、軍部主導の政治体制で外国人が自由にミャンマーを旅行できる時代が再びやってくるのだろうか?今はただ、遠く離れた国を思い出しつつミャンマー国民の無事を祈るばかりである。
ただ、仏教学研究者の多くは実家が寺で僧籍もってることが珍しいことではないんだよ。
さる先生疑惑がかかっている某先生は花園大学を卒業してるけど、花園大学の仏教学科の偏差値はボーダーフリー。
そんな名前さえ書ければ入れるようなFランしか受からなかったような人がなんで学者になれるんだっていうと、
親が引退したあとに実家の住職を継ぐために家の宗派の仏教系大学の仏教学科へ進んで得度しなければならん関係で、
成績自体はいいのにFランの仏教学科に送り込まれる寺の子がいて、どうせ将来は寺継ぐだけだからと大学院進学して仏教学者兼僧侶の道へ進んだりするのよ。
さる先生の正体がだれなのか皆目見当もつかないけれども、もし臨済宗の僧籍をもってるような人だとしたら、そりゃやっぱ仏教徒としてそれはどうなんよっていわれても仕方ないんじゃない。
そういえば2年ほど前にTwitterで在日差別のヘイトスピーチを繰り返した臨済宗妙心寺派の僧侶が問題になってたけど、僧侶の人権意識が低いって擁護しようがないと思うよ。
emuaeda 仏教を研究しても仏教からは何も学べなかったのかな。個人的な感覚だけど、上座部仏教を学ぶ人は本当の仏教だと主張が激しく攻撃的かつ排他的な人が多い気がする。実際、大乗仏教と比べて紛争なども絶えないし。
2021/01/30
上座部仏教と大乗仏教なら確かに前者が後者に対し批判的になりがちだと思う。
(そういう対立が出る場合はということであって、その二者が同席したって99%そんな論争なんかしないが)
大乗仏教って何をやるんですかっていうと、お葬式やって、ふにゃふにゃしたお説教して、いい加減なもんでしょ。
だから地元檀家が減ったり葬式ビジネスが揺らいだりした途端に大乗仏教のお坊さんには売るものが無くなっちゃった。
だから上座部のお坊さんが売ってるような瞑想を急ごしらえで真似る大乗のお坊さんとかが増えてきた。
このあいだ増田でバズってたお坊さんだって、出家比丘の智慧と言えるようなものがどっかにあった?
どこにもないでしょ。
お説教慣れいい話慣れした学校の道徳の先生とかが言いそうな話でしかなかった。
色んな呪術的な儀式や祭礼とその格式みたいなものは構築してた。
でもそういうのに檀家としてガッツリ付き合ってくれる人達が減れば立ち行かなくなってくるよね。
その儀式に何の意味があるんだって言われると文化財的な価値認めてもらえない限り「無」だしさ。
情念というか、元増田に対する寄り添いの感情で押し切るような話だってでしょ。
上座部のお坊さんはあんな風に「温か」くはなくて、結構突き放したようなことを言う。
もっとましなことで悩んでもらえませんか?ぐらい言うことだってある。
鈴木大拙は大乗を情の仏教で上座部を理の仏教だみたいに書いてたけどまさにそれ。
なんとなく寄り添って、肩入れして、励まして、あとはお経を唱えるだけで阿弥陀様が救ってくれるからねとかいって、それで解決するのかと。
ちゃんと仏法を説いて、理屈で説明して、実践手段を与えて、やらせて、指導して、時に「だらしねえぞ」としばいて、頑張らせる、当人が頑張るのが仏教でしょうと。
もともと大乗仏教という名乗りは上座部仏教を「小乗」として見下し自分達を持ち上げる名乗りだったわけ。
念仏を一回唱えただけで極楽往生間違いなし!みたいなことじゃなきゃ世の中を広く救う、大多数のバカまで救う事なんてできないでしょうと。
いや念仏唱えて救われるってもう仏教でも何でもないし、呪術と迷信の凡庸な宗教ですよねと。
そんな話を広めたって迷信広めてるだけで誰のことも救ってないじゃんと。
自分達の教えは自分で頑張る人しか救わないけど、でもお釈迦様の教えがそうなんだからさと。
お釈迦さまは救い主じゃなくて教師だと名乗っていて、頑張るのはあんたらだよと言ってたよねと。
このような大乗VS上座部の激しめの論争がかつてはあり、(何百年以上前、さかのぼれば二千年前からの話よ)
大乗の方が後からできたものの常として勢いも鼻息も強くて攻める側だったの。
でも現代では大乗の大衆向けヒット商品だった呪術的な儀式とか念仏とかが全部通用しなくなって
上座部の教えとか瞑想のメソッドが「マインドフルネス」なんてパチモンが出回るぐらいに売れるようになったわけ。
だから今は上座部側の方が理屈で大乗に攻め込む立場で、大乗の方がそういう場面ではまあまあと誤魔化す、ぐらいになった。
ただ大乗仏教に紛争がないなんて言われるとそれはさすがにどうなのかってことで
日本の歴史の中で寺同士で殺し合い燃やし合いした荒くれ坊主は全部大乗仏教ですからね。
今でも創価学会が仲間割れした兄弟みたいなとこと争いまくってるけどあれだってどっちも大乗仏教の中の近い宗派でしょ。
世界的に見れば上座部仏教で仏教徒とイスラム部族と争ってるとことかあるけど
あれは上座部だから大乗だからっていうよりも政情とか民族とか経済の問題なんじゃないのかね?しらんけど。
“当人が頑張るのが仏教” こういう考えが嫌い。どうしようもなくなったときに、絶望しないためにあるというのは宗教の一つの機能の気がする。それがないなら、大乗でいいです
だから上座部仏教は宗教ではないという人が上座部のお坊さんにもいます。
[B! 宗教] 土偶 on Twitter: "『聖★おにいさん』を現時点で出ている単行本全てを読んでいる。その中で気付いたことが幾つかある。"
こちらに関連しまして。少なくとも私は楽しみましたし馬鹿にされたと思ったことはないですね。
読んだのは相当昔のはなしです。
「この漫画がすごい」で名前をみかけたのが最初の出会いだったと思います。その直後に日曜牧師をやっている友人から押し付けるようにその漫画を渡されました。「面白いのに勧められる人がいないんだよ。クリスチャンじゃないと面白さがわからないからさ」と彼は言います。「そんなことないでしょう。その漫画たぶん有名だよ」と私は言いましたが彼はそんなはずはないと強く否定しました。
家に帰って読んで泣くほど笑いました。でも確かに彼と同じ感想を抱きました。これはクリスチャンと仏教徒向けに書かれた内輪受け漫画です。対象読者は狭いけれど刺さる人にはものすごく刺さるやつ。なぜこの漫画が一般受けしているのだろう・・・? というのが私の正直な感想でした。
キリスト教と仏教に理解のある人が愛情を込めて描いた漫画だと私は思います。
(上記書き換えました: よくない書き方でしたね。すみません)
読んだのが昔すぎて内容を覚えていないけれど、思い出せる部分を少しかいてみようとおもいます
キリスト教には三位一体といって主と御子と精霊を同一視する考え方があります。
グラブルでいえば バハムート と ルシオ と ビィ君 を同一視ですね(伝わるのかこれ?)
ところで聖書の中に「見よ、いま霊がハトのように天から舞い降りて・・・」という記述がよくでてきます。精霊ってハトみたいに降りてくるんですね。みたことないけれど。
それが聖★おにいさんではこうなります。
「息子よ・・・」といいながら天のお父様が舞い降りてくる。
見よ、霊がハトのように・・・ってこれ ハトじゃん?!キジバトじゃん!!
お父様、くるっぽくるっぽ言ってるんですけれどぉぉ???!!!
これ、めちゃくちゃ笑えるシーンなのですが、知らない人が読むと単にハトが舞い降りてきただけに見えるのです。この漫画って解説の類を全くしないんですよ。読者に前提知識を要求するのです。
古代の世界の典型的悪者に「ユダヤの高利貸し」があります。キリスト教はユダヤ教派生なので旧約聖書部分は同じです。そして旧約部分に「利息をつけて金を貸してはならない」みたいな記述があるのですね。ところが歴史的経緯からユダヤ人には金貸業を営むひとが大勢いました。このあたりから「ユダヤの高利貸し」という典型悪が誕生します。日本でいうと山吹色のお菓子を持った越後屋ですね。そちも悪よのぅ。ヴェニスの商人にでてくる「シャーロック」は有名だと思います。
もうひとつユダヤ教における悪者を紹介します。ユダヤの徴税人です。彼らは罪人と同じ扱いをうけ当時の社会で差別されていました。
さて、これを聖★おにいさんの現代日本に移植すると「やくざの闇金と借金取りたて」になるのですね!このセンスすごくないですか。そしてやくざの竜二さん、イエッサに出会い感激してヤクザの足を洗いイエッサに弟子入りを志願するのです。ひゃぁーーー原作通り!原作通りキタコレ!
イエッサは悪人とされている人たちに寄り添いました。「なぜ悪者たちと食卓をともにするのですか?」と問われて答えたのがかの有名な「迷える子羊のたとえ話」です。
ある人が100頭の羊を飼っていてその一匹が迷い出たとする。その人は99頭のをその場に残し1頭を探しに出かけるだろう。そしてもし見つけたならば迷わなかった99頭よりもその1頭を喜ぶであろう
キリスト教は罪人のための宗教。イエッサは迷える者に寄り添うのですーーーー
いやぁ、原作通りですね!なんか竜二さんの家にご招待されていますよ。徴税人ザアカイかな?いや弟子入り志願しているし、ひょっとして聖人コースじゃね?これ。たいへんだ竜二さんが聖人になってしまう!
このエピソード楽しいのは竜二さんもイエッサもお互いの正体に気がついてないところですね。イエッサは極道のボスと勘違いされているしイエッサはヤクザという概念をそもそも知らない。完璧にすれ違っているのに聖書を再現していくのが面白ポイントですかね。ちなみに竜二さんがヤクザであることがばれてもイエッサは気にしないだろうしそれどころか弟子たちも含めてとても優しい目になるんじゃないかな、という安心感があります。ブッタ様御一行とはちがってイエッサ御一行は、あのね、経歴がね、結構アレですからみんな優しいと思いますよ。あと迷える子羊だいすきだからね。
長くなったのでここで一旦止めます
気分を害する人がいることに無頓着でいたいなら自分の気持ちも話さずに消えろって話だ でも私は平気でしたなんてのは傲慢さでしかない
どこかに気分を害した人がいたとしたらそうですね。
先ほどのまとめの発言者は仏教徒の方です。雑にいうと「仏教の内容があまり描いてねぇ。日本にはキリスト教徒が少ないから怒られないだけだぞ」という主張です。
絶望したーー!!生者の声を勝手に代弁するダメイタコに絶望したーー!!
言いたいことがあるなら自分の口で言うんだ。俺は聖★おにいさんが嫌いだというんだ。勝手にクリスチャンのせいにしないでくれ。
どこかに聖おにいさんに気分を害したクリスチャンはいるでしょう。彼らが自分の口で語り、それに耳を傾けるのは意味があると思います。でもダメイタコはやめませんかね?あまりにも不毛ではないですか?
私はこの作品を嫌いだという人を否定しません。作品の感想に正解はありません。あなたはこの作品が嫌い。私はこの作品がすき。これで話はおしまいです。
[追記2]
すみません、返信できなくなってきたので星のついてるコメントだけです。
cinefuk 増田だって「聖★はクリスチャンのママに見せても怒られない」とは思わないだろうし、あえて見せようとはしないだろうね。BL漫画じゃないけど、安彦良和『イエス』は面白かった https://manga.line.me/product/periodic?id=716781
すみません、ちょっとよくわからない・・・ ママに見せると怒られるんです??
漫画紹介ありがとう。これはすごいーー!本格的ですね!今の環境では解像度がおかしくて文字が読めないのであとで落ち着いて読みます。ありがとう。
sawaglico 前提知識あった方が楽しいよね。昔宗教美術を習ってた知識のおかげで面白いと思った。キャラのテンションについていけなくなって脱落したので、最近のネタ切れ感とかはわからないけど。
ひゃーーー すごい人きた!! 美大の方ですか?
minamihiroharu 「絶望したーー!!生者の声を勝手に代弁するダメイタコに絶望したーー!!」 ここでちょっと笑ってしまった。
ごめんなさい、絶望先生ネタです。ダメイタコ©︎久米田康治先生です。よろしくおねがいします。ちなみに「主語の大きい人」も久米田康治先生です。なぜかこっちだけ有名に。
あと私は腐女子ではないです。ごめんなさい。でも友人に腐女子の方はいますし、特に禁じられているという話は聞いたことないですね・・・? うちはプロテスタントなのでゆるゆるかも。牧師さんだって結婚するし酒飲むしタバコ吸います。カトリックだとどうなのでしょうね?
別に親は他宗教を熱心に否定するというわけではないのだが、かといって取り入れるというつもりもない。
バレンタイン・ハロウィン・クリスマス・エイプリルフール、他宗教由来のイベントはウチでは尽く無関係として扱われた。
あるとき、子供会のクリスマス会に参加しないかという誘いが来たとき、うちの親は「他の家とクリスマスの話題になると却って辛い思いをするから」と断ったことを人づてに聞いた。
そういった包み隠さずに自分たちの異常性を認識した有り様は、私にとっても有り難かった。
実際、ウチはおかしいと親に伝えると、たしかにそのとおりだ普通とは違うだろう、と素直な返答が帰ってきた。
だが、普通と同じでなければいけないなんてことはないし、私達もお前に何でも普通と同じかそれ以上を求めるつもりもない、と言われてしまうと、自分が今まで親に許されてきたような諸々が浮かんできてなんとも気まずくなりそこからは何も言えなかった。
クリスマスプレゼントを貰ったことがないことを不幸の象徴のように言う人がいるが、私は特にそうは思わない。
結局の所、不幸が先にあって、そこに象徴としてクリスマスプレゼントの不在が触媒として機能するだけなのだ。
私は親からそれなりに愛されて育った自覚があるし、誕生日プレゼントだとかも辞書や知育玩具のような親のエゴと無理解の象徴のようなものを押し付けられることもなく、その時に欲しい物を普通にねだれば普通に買ってもらえる環境だった。
我が家の教育方針は、とりあえず自分に素直になれというものだった。
きっと私が本気で「クリスマスケーキが食べたいから買ってほしい」と頼めば親も買ってくれただろう。
だが、ケーキぐらいなら親が時折買ってきてくれる分で十分に感じたし、大きいところから切り分けるという事に対して特段憧れを抱くこともなかった。
これは貧乏とも裕福とも遠い家で育った人間なりの素直な偏見なのだが、クリスマスを特別に感じるのは、きっとそういう時でないとケーキが食べれなかったり、プレゼントを貰えないような人なんだろう。
私のように、ただ漠然とそれなりのものを与えられ、それなりに暮らし、それなりに愛され、結果としてある種の無感動な人生を生きていくと、クリスマスの不在なんてものになんら意味は見いださなくなるのだろう。
キリスト教徒や仏教徒あらゆる宗教の徒の大半が教義や戒律を守らず平然としているのに、
なぜ菜食主義のバリエーションに過ぎないヴィーガンだけがラジカルな原理主義を要求されなければならないのか。
ヴィーガンの身内にいわれるならまだしも反ヴィーガンがヴィーガンに対して厳格で完全なヴィーガニズムを要求する資格がいったいどこにあるというのか。
ヴィーガンには聖典も教会もないのだ。各人のスタイルになんら文句を言われる筋合いなどない。
べつに1日限定のヴィーガンだっていていいんだよ。いつやめたっていつ再開したって。