はてなキーワード: リバタリアニズムとは
そう読んだとしたら、申し訳ないが誤読としか言いようがない。三段落で私は、いま弱者とされている人の生きづらさを解消することが社会全体にとって「利」なのだ、という話をしている。福祉行政の目的、そして、私がLGBTの権利主張に同調するのは、それが「社会全体にとって利があるから」=公益のためだ。
そもそも福祉は「かわいそうな人のためにみんなが損をして『あげる』」ために行うのではなく、社会全体に安心(セーフティ・ネット)を与え、無意味な偏見を取り除いて社会の風通しを良くするために行われる。それに対して、既存の社会のありようをただ守りたいというノスタルジーから反対する(つまり偏見に基づく差別を肯定する)のは、率直に言って社会悪だ、と私は述べている。そこでは主に保守主義的な立場からの批判に対する意見として述べたわけだが、仮にあなたの立ち位置がリバタリアニズムにあるのだとしたらもう少し違った説明をした方がいいかもしれない。
あなたの「弱者の側が社会に損させてでも自分の利益だけを求める」という捉え方、言い換えれば「福祉は『お上から下される憐憫』」的な捉え方に基づけば彼らへの支出を絞るのが「公益」となるのだろう。だが、政治・行政とは慈悲ではなく現実に即して行われている。社会的弱者へのセーフティネットもLGBT支援も、徹底的に「公益」に適う視点で行われているのだ。
もちろん、社会的弱者に手をさしのべることが公益となる根底には、人間の他者への想像力、同情、などの心情が働いていることは否定しない。それはたとえば、孤島に流れ着いた10人の集団が生き延びようと努力するとき、怪我をした1人の仲間をどう扱うか、という問題に似ている。あなた、あるいはリバタリアンは「安い同情はやめろ。こいつはもう歩けるようにならない。ただの足手まといだ。せめて崖から突き落としてやるのが慈悲だ。」と主張するかもしれないが、リーダーがそのように振る舞えば、そこは弱肉強食のバトルロワイヤルの舞台と化すだろう。だがもし「歩けなくても、可能な範囲でこいつにできる仕事を回して、協力して生きのびよう」という意見を述べるリーダーがいたら? そこでは弱い人間も安心して社会の維持に協力できるし強い人間も周囲との競争にリソースを裂くことなく社会全体に貢献できる。バトロワ化した集団と後者の社会、どちらがサバイバルに有利かは明白ではないか。
「福祉とは公益に適う視点で実施されているのであり、それに反する意見は端的に言って社会悪である」というのはつまりそういうことだ。後者のリーダーの下で我々が安心して働けるのは、確かに我々が想像力を駆使しているためではある。また、そのような想像力の働きは「同情」という形で現れるかもしれない。しかしながら、人間がそういう生き物である以上、それを前提に社会制度は設計されなくてはならない。福祉が実施されなくてはならないのは、先のように社会を一つにするための徹底的にリアルな「公益」に基づいている。このような認識に立つとき…つまり「個人の善意などには信頼したり頼ったりしない」という冷徹な立場の上に、福祉は実施されるべきである、というリベラリズムが成立しているのである。
もう少し言えば、「同情」という心情が生き物としての我々の「心」にセットされているのは、おそらくそれが生存に有利だったからだろう、ということもたやすく想像できる。ほ乳類が進化していく過程のどこかで「同情」という心性が生まれ、特に集団を形成するタイプの生き物の中で生存に有利に働いた。たとえば犬、ウマなどは「同情」するし、サルはもちろん深く「同情」する生き物である。そのように私たちは「同情」する生き物なのだ。「同情」によって数百万年の間、過酷な自然を生存してきた生き物なのだ。思想や理論に偏らず、このように人間という生き物そのものの性質を踏まえた上でなければ、現実に生きて働く政治を形成することはできない。
気持ちはわかる。
俺はリバタリアンじゃなくて社会自由主義で、日本の政府はもっと大きくてもいいと思ってるけど、反差別のリベラルは賭博の自由にも厳しいし表現の自由にも厳しいし、えっふだん同性婚の自由とか苗字を選ぶ自由とか言ってるのは何だったの……って常々思ってる。
セーフティネットや福祉がないと怖いから社会自由主義支持だけど、根本が自由主義だから二番目に支持してるのはリバタリアニズム。
でもこの社会自由主義を徹底してくれる政治勢力が弱すぎてなぁ。カジノ法案はほんと絶望です。国籍によって賭博の自由を制限するという反自由主義的で差別的な立法に、生温い! もっと規制しろ! なんて声が飛び交ってるんだもの。世も末ですわ。
はてなの人たちとは反差別では完全に意気投合できるんだけど、政治経済の話題になると意見が違いすぎて居心地が悪い
かと言って数少ないリバタリアン優位な場所はなぜか同時にネトウヨ自民支持患ってるやつだらけ、俺としてはスノーデン、アサンジ、ロンポール議員みたいな路線のリバタリアンは好きだが日本のリバタリアンはどいつもこいつも劣化橋下みたいなのばかりでうんざりする
一応俺の意見を言うと自民党こそ大きな政府の最たるもので、とてもじゃないが支持したくない、ていうかここが目指してるのは国家社会主義だろ最悪だよ、立民も大きい政府志向だが人権方向じゃ自由重視のリベラルなんでまだよっぽど支持できるて感じです
もしかして自由経済重視と反差別って成り立たないのかなぁ…俺個人としては差別がないほうが最終的に市場経済にもプラスになるという考えなんだが…
あとそうであったとしてもやっぱり政府権限の強化は警戒してしまう、とくに安倍政権を見てるとね…みんななぜそこまで無邪気に政府というものに全幅の信頼を寄せられるのかが疑問…
いや反論として自由の行き着く果はモヒカン社会ってのはあるんだろうが、結局政府も強大なモヒカンになる危険性はあると考えてるんだよね、ナチスとか民主主義で生まれたモヒカンみたいなもんだし…
政治の話の脱線は置いといて反差別とか社会市場両方の自由をきちんと追い求めてるリバタリアンの方っていますか?僕一人だと思うと正直寂しい。
追記:俺の言う差別とは生まれ持った属性でどうにもならないことに対するものです、人種や民族、障害など…しかし確かに知能に関してはどうなんでしょうね、貧乏人の子供は貧乏であるべきか、たしかにその通りだと思います、自身としては機会の平等方面ではなんらかのセーフティは敷かれても良いと思う立場です
あと日本じゃ特に民間の救貧が無いも同然だからやはりリバタリアンとなると弱者死ねになりやすいのかなってのある気がします、僕は言うなれば穏健リバタリアンが理想みたいな所があるんで本来はリバタリアンではないのかもしれません
さらに追記:リバタリアニズムはたしかに全てにおいて自由を重視しますが「他人の自由の侵害」については反対だという理解です、これを適用すれば人種民族性差別は他人の自由の侵害になりうるので反対とは言えると思います、ただしここはリバタリアンの間でも意見の相違が多く、更にいうと「経済不平等こそ他者の自由の侵害だ」といったレベルまで行くとリベラルに入るのだと思ってます
リバタリアニズムが自由最高ヒャッハーみたいな種類の思想だというのは、左翼や右翼やちょっと聞きかじった程度の半端な理解の人間による印象操作なんだよ。
ちゃんと調べて、まともな学者の書いた本を読めば、究極に理性的な思想だということがわかってくるはず。
北斗の拳みたいな世紀末状態がリバタリアニズムの終着、みたいな認識が2ちゃんやらの日本のネット上では書かれている事がよくあるけども、とんだ見当違いだよ。
じゃあどっちかというとアナーキズムか、というとそれも違う。アナーキズムだって、反支配ではあるが無秩序を望む思想じゃないし、むしろ調和をめざす非暴力の思想だ。
一部のアナーキストが、支配から脱するための暴力革命やテロリズムを認めているにすぎない。
話を戻して、リバタリアニズムは自由放任と表現されるけど、それがややこしくしている。その単語が表すイメージとは次元が違う。
きちっとした法治を是とするのは当然として、その場その場の属人的な裁量ではなく洗練された最小限のルールで世の中を究極にシステマティックかつシンプルにしようという考え方。
そうして、自由放任にしても大丈夫、人がどう動こうと失敗しようと必ず救いがあるし報いがある、だから寛容になれる、そういう環境をつくる、という意味での自由放任だ。
そのための最適なルールを、常識に囚われず考え続けることに余念のない人たちがリバタリアン。
もともとはリベラルと呼ばれた考え方だけあって、個人、人権を尊重しようとする考えはしっかり根底にある。
だから他人の自由を侵害することにも特に敏感で、それこそが右翼や左翼との違いでもある。
リバタリアニズム的な思考に基づく発言とか政策を切り取ってみると、傲慢や強欲を感じられる事もあるかもしれない。
でもそれは、国家よりもまず個人の幸福を尊重するからであることがほとんどだ。
長期的視野や全体的視野に立ってみると、国家に従属して集団の幸福を実現するより、技術的進歩に従って個人レベルの連携でもうまく機能する社会システムにシフトしていったほうが健全だし盤石だし平和的だろうという考えがあるから。
そういう感じで、一見突飛な意見も、より良い未来を導くビジョンに繋がっている。
そうではない、「怠惰な弱者は自己責任だから救済する必要がない」だとか「再配分は自発的な寄付、トリクルダウンで現状でも賄える」みたいな事を言う人は、
確かに昔のリバタリアンと呼ばれた人にはそういう人も多かったようだけれども(今でもいないとは言わないが)、もはや現代のリバタリアンはそんな強者の論理を振りかざす人たちとは違ってきていて、より柔軟で現実的になっている。
でもネットでリバタリアニズムを調べて出て来るのは、そういう古臭く悪印象な強者の論理ばかりなので、ほとんどの人がそこで学習が止まっている。
リバタリアンとされたミルトン・フリードマンだって、まじめに再配分を考えていて、負の所得税のような今で言うベーシックインカムに繋がる政策を考案したその人であるし。
彼のマネタリズムのようなリバタリアン的政策は、あの時代では失敗したけれども、現代そして未来のあらゆるものがデータとして数値・属性で可視化されるようになった世界では、
金融政策ではないにしろさまざまな分野でリバタリアン的な「裁量よりルール」が有効に働くようになってくるだろう。
リバタリアンと分類されて馬鹿にされる人たちの多くは、一般の人の想像が及ばないくらいの精細な未来の人類のビジョンを持っているように感じられる。
その人の専門分野、技術的知識によってその推測は本人的には裏打ちされているんだけど、他人からみると理解されない。
「いま」を生きる大衆目線で見ると愚か者の暴論にしか見えず、袋叩きにあうしかないんだけども。それでリバタリアニズム自体もなめられている。
ホッテントリを見てると、さまざまな人のさまざま意見があって面白い。
最近気になったのが「 選択的夫婦別姓への反論に反論します|青野慶久|note 」というやつ。
上位に挙がっているのが主に選択的夫婦別姓制度への賛成意見で、選択肢を増やすことは良いことで、
それにすら反対するのは感情論とか自分のパラダイムから抜けられないからみたいなことを書いていた。
はてな界隈には多いリバタリアニズムの信奉者というのはいつもこうなのかとちょっと呆れざるを得なかった。
今ではリバタリアニズムとまではいかなくても漢字で書く「自由主義」がネットでの一般的な価値観になっているから
おそらくそれはブクマカの周りでは妥当な考えだと思うが、しかし、意見を戦わせる全体集合をはてな界隈から日本に広げるとどうなるだろうか?
こんなことはよく言われているが「自分の常識は他人にとっての非常識」で、価値観なんて常に一致するわけがない。
その人にとっての正義はその人の価値観に合致するもの。そんなことだいぶ前からわかってるじゃないか。
でも日本という集合でのとりあえずの方向性を決めなければならないから、日本という集合の中でも
一番多くの人が属している集合(価値観)に日本全体を合わせることにした。これが民主主義。
もちろん日本全体が属すことにきめた価値観に合わない人は必ずいるからその人たちにも十分配慮して決めていこうってこれで
何十年もやってきたでしょ?
で、話を戻すと選択的夫婦別姓制度にかかわる問題というのは自ら名乗る姓にかかわるものだから、
合理的な側面はもちろんだが、その人の持つ価値観によるところが大きい。
リバタリアン的な価値観を持つ人からすればもちろんこれに反対するひとがいるなら理解できないだろうし、
その逆もまた真なり。でもやはりこの問題に限らず価値観の違いでいがみ合うのはいいことじゃないというのはたぶん多くの人が同意すると思う。
そういうひとには、
異なる価値観の人に対して同意もいなくていいし、活発な議論をすればいい。
でも存在を排斥したり不当に貶めたりするような行為は絶対に悪である。
という考えをもってほしいなんておもったりした。
「Values」となっているところはもともと「Religion」だったが、私が変えた。
Values are like a penis. It's fine to have one and it's fine to be proud of it, but please don't whip it out in public and start waving it around... and PLEASE don't try to shove it down my child's throat.
最近ヒットしたうちで最もリベラル的な思想に基づくメッセージ性を帯びたアニメは、間違いなくラブライブシリーズだと思うな。
海外ドラマのgleeを手本にしてるだけあって、多様性、寛容、自由博愛平等の精神がエンパワーメントしていく美しい世界を描いている。
スポ根ものなのだが、誰かが何か統率をとって一致団結して向かおうとした時はうまくいかず、各々がてんで自由にのびのび行動してみた結果、とたんに世界が動き出して、素晴らしい結果にたどり着く、そんな展開がお決まりになっている。
とはいえ保守的なローカリズムも同時に内包していて、たんなる左傾思想ではなくバランスの良い今時の思想になっている。
あとはガッチャマンクラウズシリーズかな。特に2期になるとがっつり政治色がでてくる異色の作品。
ある種のサイバーリバタリアニズムを推し進める爾乃美家累というキャラクターの存在が目立つが、
やはり主人公のはじめが「理想的なカリスマリベラリスト」のように描かれているのが大きい。
常識や既成観念に囚われず、豪快に行動するホリエモンのような性質を備えつつも、
それでいて傲慢さは極力感じさせない、かつ筋の通った思想を感じさせる、バケモノじみた大物感を纏った少女として描かれている。
2作あげてみたものの、実は、ほとんどの作品はリベラルな思想に基いているとも思う。
自由にのびのび活動する人間が生み出すダイナミズムと、きっと善き心の連鎖反応でうまくやっていけるという最大公約数的な人間の底力を、「信頼する」。
https://anond.hatelabo.jp/20170723170123の人です。
>>nicoyou えーと?コミケはオタクの表現の場というものを守るために相当戦っているんだが。ひとり犯罪者出せばコミケ存続できないかもしれない。それをみんなわかってるからやらないんだよ。コミケのことみんな好きだからだよ <<
犯罪者を1人でも出したらコミケは存続できないのか?それだとしたら余りにもお粗末過ぎるし、それならいくらか犯罪者を出してもまだ一応存続できている中核派の方がマシだと思う(中核派のシンパでもねーし、侵害行為を正当化するつもりは無いことを前置きする。私は無政府資本主義者だが共産趣味者だ)。
私が言いたいことは、コミケは力を出して刑法175条に抗えば廃止に追い込めるかもしれないのに、それをやらないのかっていう話。
だから私はクライフの息子の命名エピソードを抵抗権の例として挙げた。
不満があるのに守るのは、ちとおかしくないのか?
そこら辺はまだネット民の嫌いなSEALDsの方が弁えていると思うぞ。
精一杯声を上げたんだから。
そもそもコミケって、日本漫画大会への対抗から生まれた、コミケもカウンターカルチャーじゃね?とは思うけどね。
>>hungchang 「マハトマ・ガンジーですら抵抗権を行使して不服従を実践したのに、なぜお前らはやんねーの、って話」ガンジーを越える人材の集い。<<
https://anond.hatelabo.jp/20170729145909
それは何故ですか?と問いたい。
法を破るのが許せないからですか?
少年法を破って少年の顔写真を載せる事には多くの人が賛同するのに、こう言うと犯罪者になってどうぞとかコミケに来るなとか普通におかしいと思うんだけど。
小休止。
私は、正直言って無修正でとやかく言われるのが嫌いだ。
よくこう言う奴がいる。
「スウェーデンやフィンランドを見習って腐苦死国家を!」とか言う人もそう。
人からみんなに役立つ(という建前の)徴税と言って国家が人から泥棒して成り立ってるものだろう福祉国家って。
万引きは財産権の侵害(わかりやすく言えば泥棒)だ。徴税も泥棒なんだよ。リバタリアニズムでは。
海外厨の話に戻すと、「日本は海外を見習え」厨は例えば緊急避妊薬のアクセスを諸外国並みにしろ、とか言わないんだね。
俺もそうだって自覚あるけど、海外を持ち出すならそれなりに筋は通してくれ。
一昔前ならアメリカの教育ガー、だったりして、それが今ならスウェーデン、フィンランド。
いい加減にしろって。
コミケから大きくずれたので話を戻すと、私は自前で同人をする事にした。コミでで売るとしてもそれはお試しサンプル的な感じかな。それと修正ありでもいいから買いたい人向け。
この問題はカントの言う定言命法と、ベンサムが言う功利主義の違いに帰結するのだろうか
元増田が言うように内心、つまり行為の意図・動機を判断材料とするのか、行為の結果を判断材料とするのかの違いなのだろう
ひいては、リバタリアニズムとリベラリズムの違いなのかもしれない
いや、それ以前に
親であろうが他人であろうが、子供の写真を勝手に撮ってアップロードするという行為自体に問題はないのだろうか
子供を保護監督する責任と権利はあるだろうが、写真のアップロードは保護監督の範囲なのか?
「子供は十分な判断能力がないので、保護監督する必要がある」という発言は、
おれはリバタリアンだけどそういう息苦しい社会は持続可能ではないと思う。
増田が挙げているのは自己責任論というより、自分のもつ特定の思想に反した振る舞いをする人間を罵倒するお墨付きが与えられる社会って感じだ。
本当の自由主義社会は、どんな行いも基本的に(迷惑を掛けない限り)許容され、
それによるどんな類の失敗であっても、ある程度社会がフェイルセーフしようとすることが肯定される社会だ。
増田のと真逆なんだよ。増田モデルは全体主義やファシズムに近い。
そして、自己責任論と結びつけられやすいリバタリアニズムだけれども、
非リバタリアンが想像するリバタリアンは「個人は自分のやることを理性的に判断して行動できる合理的個人である」
と主張して暗に「賢くなれ、さもなきゃ死んで当然」と言わんばかりのマッチョだと捉えられがち。
でもリバタリアンと言われる人の多くはそんなに凝り固まっていない。賢くなることは重要だとは考えるけどね。
だってそうでしょ、人間はつねに合理的行動ができるなんて思っている人はそうそういない。
認知症だから重大事故を起こしてしまった、お前が認知症なのが悪い、
ギャンブル依存だから破滅してしまった、お前がギャンブル依存なのが悪い、
そういった例が100%自分の責任、自分のコントロールの圏内にあったのか、と言われれば誰もが難色を示すだろう。
そもそも情報があふれかえる現代、人は自分の意志で「自己決定」していることなんてあるのか、
「~からの自由」である消極的自由は守られるべきだが、「~する自由」である積極的自由を認めすぎると
衝突にあふれた社会になり、他人を攻撃・制御・統制しようとする邪悪な自由に侵食され、消極的自由が脅かされる。
穏健なリバタリアンは、車を持ったりタバコを吸ったりする自由などほとんどは認めるけれど、
それによりどうなってしまうか、合理的な判断ができるように、越境する前に柵を設置して、注意書きをするんだよ。
そうやって「自分の意志で乗り越えてる」ことを明確に意識させる配慮をした上で「自己責任ですよ」と言う。
もちろん乗り越えて死んでも知らんぷり、というわけでもなく、最低限の救いは用意するし。
理性的な判断可能性をブーストしたうえで(これがリバタリアニズムがITとの親和性が高い理由)の自己責任。
それは、乗り越えて失敗した人を切り捨てる(ザマーミロする)ための自己責任ではなくて、
リベラリズムが封建的なものに対する反発から生まれたのは確か。
ただ、その結果として強者がどんどん強者になっていって結果的に経済的に弱い人とかの自由が逆に阻害されちゃってね?
という発想が出てきて当時流行ってた社会主義の考え方である福祉の考え方とかを取り入れるようになる。
これをニューリベラリズムという。
逆に、中途半端だったから良くないことになったんだって言ってもっと自由を追求すべきだっていう思想も出てきてこれをリバタリアリズムっていう。
これをいわゆる古典的自由主義という。
あと、ニューリベラリズムで福祉を導入した結果財政がやばくなって金たりないってところからネオリベラリズムっていう思想が生まれる。こっちは市場に政府が介入したり、福祉に金を使いすぎるなって発想。リバタリアリズムとにてるけど微妙に違う。
で、今はニューリベラリズムが左派、リバタリアニズム・ネオリベラリズムが右派とよばれがち。
フェミニズムがリベラリズムと相性がいいと言われるのはニューリベラリズムの「弱い立場の人が自由を圧迫されている」という考え方と合致してたから。
安部が経済的に左派って呼ばれるのは積極的に市場に介入するから。
民主党は社会の部分は左派的なお題目を抱えることが多かったのに経済にはほとんど介入したがらなかったから左派からそこは直すべきって延々言われ続けてるわけね。
基本的に現在の自由を巡る争いはこの自由をどう扱うかが争点になってる。
自由が大事だけど政府が介入しないと結果的に自由が損なわれるっていう考え方と
自由であるために政府は介入してはいけないっていう考え方の対立なのね。
で、どの国もそうだけど今はこの二つの間を行ったり来たりしてる。
元増田はどっちかなぁ?
■図解
↓
↓→→→→→→→→→→→→→→→→→→→↓
↓ ↓
ソーシャルリベラリズム(社会自由主義) リバタリアニズム(自由至上主義)
↓
↓(派生)
↓
王政へのカウンターとして生まれた思想なので自由や平等、個々人の権利を重んじる
という懸念から社会主義の考えを取り入れて、福祉とか経済介入をしよう的発想
ソーシャルリベラリズムで福祉を取り入れた結果財政がやばくなってきたので福祉とかちょっとやめよう
みたいな
という懸念から、もっと自由を拡大したほうがいいわ。中途半端すぎ。
という発想
とにかく全部自力でやらせろという考え方。自由至上主義と訳す。
ネオリベラリズムは財政問題から派生した思想なので基本的に経済の話しかしません。
左翼と右翼で対立軸を考えがちですけど、細かく見るとリベラリズム内の同族争いです。
つまり、「自由を尊重するか」、「社会的公正を尊重するか」というリベラリズムの最初期からある主張が衝突しちゃってるんですね。
ちなみに我々はこの「自由」か「公正」かというのをあらゆる事柄で使い分けてます。
例えば
・ゲームでは「グロ」に対しては個々人の権利を尊重する傾向にありますが「エロ」に関しては自由を尊重する傾向
・漫画では「グロ」も「エロ」も自由を尊重する傾向にあります。但し、少年漫画、青年漫画、成年漫画等の共通概念を使って暗黙の了解で社会的公正も尊重しています。
・テレビでは多数の人間が見る為に「自由」を抑えて「公正」を尊重する傾向にあります。
etc...
「自由」か?
「公正」か?
というのを我々は常に考え続けてるわけですなぁ。
結構、重大な局面だと思うのだよ、これ。むしろ「勝った勝った」とはしゃいでる左翼的な陣営こそ、次にちゃんとした手を打たないと取り返しのつかないことになる可能性がある。
橋下の引退により、おそらく「維新の党」は求心力を失う。解党するかどうかはわからないが、もともと個人商店であった以上、以前のような影響力は持ち得ない。やはり去年に解党した「みんなの党」も、もはや跡地すら残ってない惨状。こちらも個人商店だったし。
で、重大なのは、どちらも一定の支持層を持っていたこと。たぶん都市部のホワイトカラー層が中心。20代〜40代が多いはず。
この層の受け皿が完全に崩壊した。
この志向性を持った層が支持する先が安部自民一党になることの危険性。
民主党はデフレ推進してきた反省が見られないし、共産党は「大企業=悪」なテーゼが根強い。
公明党は「安定は希望」というキャッチフレーズである時点で論外。
リバタリアニズム的な志向性を持った層が支持する先がなくなってしまった。
つまり「経済成長歓迎・インフレターゲット支持」と「歴史修正主義・ナショナリズム」
のパッケージか
のパッケージか
個人的にはレイシズムも歴史修正主義もうんざりなのに、それに対抗する軸がまともな経済政策を打ち出さずにげんなり、というのがここ最近の印象。
ピケティがブームになったときも「成長か、再配分か」みたいな二者択一にしたがる人たちが多くて本当に辟易した。
再配分を重視することと経済成長は両立する、というかむしろ両輪として機能するはずなのにね。
というわけで。
・LGBTなどマイノリティー人権擁護(「伝統的な家族観」とか言わない)
・「歴史戦」とか言わない
少なくとも、従来の「左翼」とか「リベラル」とか言ってる人たちは「勝った勝った」じゃなくて
ちゃんとビジョンを示してくれよ、と思う。
・
http://anond.hatelabo.jp/20130707231436を受けて。
3点述べられているので、1点ずつお答えします。
まず1点目、「われわれはわれわれの問題を優先するべきであって、外国の出来事については「よそ様の問題」であってわれわれが口をはさむべきことではない」という主張について。
これは実は保守主義の主張です。たとえば「先進国は途上国から搾取しているのではないか」という議論に対して、
「それは途上国自身の問題であるからわれわれが口出しすべきではない」と述べるのは保守的な態度です。
2点目、「中韓の「偏狭」なナショナリズムは日本の侵略がその形成に大きな影響を及ぼしており、われわれがこれを批判しても感情的に受け容れられないのは当然である。
われわれとしては中韓の人々が自分の問題としてこれを克服するのをまつべきだ」という主張について。
これも1点目と非常に似た主張ですが、よりリバタリアン的性格が強いと考えます。他者を批判しても説得できないのだから放置するべき、という論法はリバタリアンが多用するものであり、
たとえば排外主義者たちの過激なデモに対して「反応すればより抵抗されるのだがら、無視するのが一番だ」とやり過ごすのがリバタリアニズムです。
3点目、「あらゆる問題について批判することが不可能である以上、「批判しないこと」が生じるのもやむを得ない。リソースは有限なのだから」という主張について。
この主張もどちらかといえばリバタリアンの主張です。レイシズムに関して、批判に参加せず傍観することも悪だというのが左派の主張であり、その主張に対して
「誰がどういう運動に参加するかは個々人の自由であり、道徳を強制すべきではない」というのがリバタリアニズムです。
このような態度は、なぜネット右翼はチベット問題や表現規制には批判的であるのに別の差別問題や外交問題には無関心なのか、という左派からの批判も擁護するでしょう。