そう読んだとしたら、申し訳ないが誤読としか言いようがない。三段落で私は、いま弱者とされている人の生きづらさを解消することが社会全体にとって「利」なのだ、という話をしている。福祉行政の目的、そして、私がLGBTの権利主張に同調するのは、それが「社会全体にとって利があるから」=公益のためだ。
そもそも福祉は「かわいそうな人のためにみんなが損をして『あげる』」ために行うのではなく、社会全体に安心(セーフティ・ネット)を与え、無意味な偏見を取り除いて社会の風通しを良くするために行われる。それに対して、既存の社会のありようをただ守りたいというノスタルジーから反対する(つまり偏見に基づく差別を肯定する)のは、率直に言って社会悪だ、と私は述べている。そこでは主に保守主義的な立場からの批判に対する意見として述べたわけだが、仮にあなたの立ち位置がリバタリアニズムにあるのだとしたらもう少し違った説明をした方がいいかもしれない。
あなたの「弱者の側が社会に損させてでも自分の利益だけを求める」という捉え方、言い換えれば「福祉は『お上から下される憐憫』」的な捉え方に基づけば彼らへの支出を絞るのが「公益」となるのだろう。だが、政治・行政とは慈悲ではなく現実に即して行われている。社会的弱者へのセーフティネットもLGBT支援も、徹底的に「公益」に適う視点で行われているのだ。
もちろん、社会的弱者に手をさしのべることが公益となる根底には、人間の他者への想像力、同情、などの心情が働いていることは否定しない。それはたとえば、孤島に流れ着いた10人の集団が生き延びようと努力するとき、怪我をした1人の仲間をどう扱うか、という問題に似ている。あなた、あるいはリバタリアンは「安い同情はやめろ。こいつはもう歩けるようにならない。ただの足手まといだ。せめて崖から突き落としてやるのが慈悲だ。」と主張するかもしれないが、リーダーがそのように振る舞えば、そこは弱肉強食のバトルロワイヤルの舞台と化すだろう。だがもし「歩けなくても、可能な範囲でこいつにできる仕事を回して、協力して生きのびよう」という意見を述べるリーダーがいたら? そこでは弱い人間も安心して社会の維持に協力できるし強い人間も周囲との競争にリソースを裂くことなく社会全体に貢献できる。バトロワ化した集団と後者の社会、どちらがサバイバルに有利かは明白ではないか。
「福祉とは公益に適う視点で実施されているのであり、それに反する意見は端的に言って社会悪である」というのはつまりそういうことだ。後者のリーダーの下で我々が安心して働けるのは、確かに我々が想像力を駆使しているためではある。また、そのような想像力の働きは「同情」という形で現れるかもしれない。しかしながら、人間がそういう生き物である以上、それを前提に社会制度は設計されなくてはならない。福祉が実施されなくてはならないのは、先のように社会を一つにするための徹底的にリアルな「公益」に基づいている。このような認識に立つとき…つまり「個人の善意などには信頼したり頼ったりしない」という冷徹な立場の上に、福祉は実施されるべきである、というリベラリズムが成立しているのである。
もう少し言えば、「同情」という心情が生き物としての我々の「心」にセットされているのは、おそらくそれが生存に有利だったからだろう、ということもたやすく想像できる。ほ乳類が進化していく過程のどこかで「同情」という心性が生まれ、特に集団を形成するタイプの生き物の中で生存に有利に働いた。たとえば犬、ウマなどは「同情」するし、サルはもちろん深く「同情」する生き物である。そのように私たちは「同情」する生き物なのだ。「同情」によって数百万年の間、過酷な自然を生存してきた生き物なのだ。思想や理論に偏らず、このように人間という生き物そのものの性質を踏まえた上でなければ、現実に生きて働く政治を形成することはできない。
反論は、すでに 「生きづらさを抱える人たちが、自分らしく生きられるようにするための福祉行政全般を否定していると受け止められかねない」(橋本岳・自民党厚生労働部会長) と...
でも弱者の側が社会に損させてでも自分の利益だけを求める(例えばフェミニズムの一部に顕著な)姿勢を非難する気はあなたにはないし、むしろ公益を求める側の方をぶん殴るわけじ...
そう読んだとしたら、申し訳ないが誤読としか言いようがない。三段落で私は、いま弱者とされている人の生きづらさを解消することが社会全体にとって「利」なのだ、という話をして...