はてなキーワード: フラストレーションとは
最近もそうだけど景気が悪くなると飛行機や電車を撮ったり録音したりする人をいつも以上に見かけるね。あいつら、ストレス発散する場所がなくて萎縮して生きているから爆発するんだよ
つまりベースには不満意識の共有があり、当事者。彼らが爆発する勢いがあることは時々暴れる様を見たらわかること。「アジる」人がいないからうまくまとまってるだけで、いたらあそこから反乱や暴動が生まれかねないよ
E235系1000番台絡みで大船駅に来ていた鉄道系の奴らはそうだよ
出版不況でコロナ渦で外出先は公園か公共施設周辺しかなくなったから、若者が荒れ出したの
普通なら博物館とか図書館とか書籍でそのひまつぶしできた人達。
いまはいつ博物館や図書館に行けるようになるかもわからない。好況期ならどうにかなったけど不況期になればどうしようもないから、オタクなことでフラストレーションの発散すんの
苗字は、強そうな雰囲気がします。剛田とか剛力ほどではありませんが、そういった雰囲気の攻撃力が高そうな漢字が入っています。「なんかゴツい苗字だね(笑)」とよく言われて、その度にすごく腹立たしい思いがします。
名前は、ちょっと古風な感じです。トメさん、などといった名前の方ほど昔ではありませんが、今の時代には少し珍しい名前です。これまで数十年生きてきた中で、知り合いで同じ名前の人は一人しかいませんでした(漢字は違う)。もちろん、苗字+名前の場合は該当者ゼロです。「私の名前ちゃん+名付け」でググると、確かに古風だけど雅な感じがするし珍しいし良いと思う、という意見と、古臭くてかわいそう、という意見に二つに分かれていました。実際、初対面の人に「古い感じの名前だね」と面と向かって言われたことがあります。ちなみに、海外でも有名かつ国語の教科書にも載っていたりする昔の小説家(もうとっくに亡くなっている人です)の妻と同じ名前です。あとは、比較的有名な女優さんで読みが同じ人が一人いらっしゃいます。
私には姉がいて、私も姉も一般的には少し変わった名前なのですが、姉の名前は個性的で素敵な名前なのです。意味もちゃんと込められていて… 本人もすごく気に入っていて、ずっと羨ましかったです。
物心ついた時から、気に入った苗字や名前をコレクションしては、もし自分で選べるならどの名前にしようかなといつも考えていました。あるいは、自分で小説家の真似事をして、登場人物に好きな名前をつけて、その時一番気に入っている名前を主人公に付けたりもしました。その当時から今に至るまで、自分の名前が嫌でしょうがない、なんでこんな名前にしたんだ、こういう名前に変えたい、などと親に訴えたことはありません。そんなことを言えば、彼らがひどくショックを受けるだろうということはわかりきっていたからです。しかし、誰にも言えないせいで、フラストレーションはますます溜まっていったように思えます。
そもそも、どうして私は自分の名前が気に入らないのかということを考えると、いくつかの理由が浮かび上がります。まずは、単純にその名前自体が好きじゃないということ。それと、色々な人から名前をけなされてきたこと。そして、私が自分で選んだものではないから、ということです。
私は寒い地域の田舎で育ちました。今の季節はもう雪が降っているようなところです。イオンすらありません。両親は優しかったですが過干渉で、子供の頃は、数少ない服もおもちゃも家具も全部親が選んだものでした。
10年以上前に故郷を出たときに、これからは全部自分で選んだものに囲まれて生きたいと思いました。それで、携帯電話の連絡先を家族以外全て消しました。それまでの知り合いにはその時から今まで誰にも会っていません。ごくたまに帰省したとしても2日ほどしか滞在しません。
今は、自分で選んだ家に住んで、自分で選んだ家具を部屋に置き、自分で選んだ洋服を着て、自分で選んだ食べ物を食べて、自分から好きになった人を恋人にして、自分が選んだことをやって暮らしています。自分の選んだものごとに囲まれて生きています。
大人になれば、自分の名前が気にいらないという気持ちからは逃れることができると思っていました。そういうものだと受け止めることができるようになったり、諦めの境地に達したり、あるいはそんなことがどうでもよくなるくらい人生が充実したりすることによって。
私は今年30歳になって、自分では人生が充実していると思っているのですが、いまだに名前をコレクションし続けています。
いつになったらこの執着を手放せるのでしょうか。
同僚の中には
同じ仕事をするのであれば個人でやったほうが俄然儲かるし自由度も高いんだけど
そのための集客、今の時代は特にSNS がメインだから、それを思うとブルーで。
SNS 大嫌いなんだよ。
面白いように売れた。
中古用品店に持ってっても二束三文たたかれる商品がメルカリだとちゃんと利益になる。
新品なのに2000円で買い叩かれたのが
セカストだと300円にもならないだろうなと思ってたけど
メルカリで2500円で売れた。
話は変わるけど、昔ドラッグストアにいた。
出来損ないと散々言われた新人だったけど
販売だけは誰に習わなくてもすぐできるようになった。
面白いぐらい売り上げが変わって、努力したぶんが必ず数字に結びつく。
だから夢中だったんだよな。
メルカリやって久々に思い出した。
本業は天職だと思ってるし、自分なりに社会に貢献していると思ってる。
でも、自分が動くというよりは、人を動かすの仕事なので、時々、フラストレーション。
私がやった方が早いのに、と思ったりするから。
どうせなら綺麗に包んで喜んでもらいたいから
色々工夫してみるのも新鮮。
とりあえずお小遣い稼ぎにと思って始めたけど、
せどり?
転売?
とかが気になる。
おもしろそう。
英語なら問題ないし、そんな形で英語で仕事できるなんて想像もしなかった。
それで食ってこうなんて思ってないけど、
新しいこと始めたいと思ってたから
まずはメルカリで挑戦してみよう。
ここで好き勝手書いてきた
日頃のストレスをここにぶつけた
苛立ちを汚い言葉に変えて、ムカつきを悪意ある言葉に変えて、憤怒を不謹慎ネタに変えて、フラストレーションを極論に変えて、ルサンチマンを対立煽りに変えて
そうすると「どうだ!俺の悪意をここまでみんな見てくれた!」と嬉しくなって、溜飲が下がって気が晴れた
バズらずともストレスを何らかの形でアウトプットしてるから、解消手段になった
はっきり言えば俺はクソ野郎だ
荒れてもしばらく経てば何事もなかったかのようになるし、誰も俺を「○○さん」という個人で認識できない
だからここで今日もイキって煽って差別して燃やして叩いて貶して晒してる
でもさ、お天道様は見てるんだよ、俺みたいな道端に転がるウンコでも、自意識過剰だろうけど
ウンコが悪臭を漂わせるのは、当たり前のことだからみんな顔しかめてどこかへ片付けるか見えないふりをしてくれる
でも、ウンコがミュータント化してウンコばらまく化け物になって人を襲えば、自衛隊だのなんだの出てきて始末しに来るよね
今の俺はミュータント・ウンコだ、ウンコ・モンスターだ、そろそろその姿を見咎めた警察が拳銃で威嚇射撃してくる頃合いだろう
匿名だからって油断しきってる奴が、何人もほんの小さなミスから個人特定されたりしてしっぺ返しにあってきた
俺はそうならないと思って今日も悪意を振りまくけど、俺もいずれそうなるんだよ
そうなる日まで俺はどうする?いつも通りここやここ以外で悪意を振りまく
破滅願望なんだろうな、多分
誰かに殺してほしいんだと思う
たくさんの人に憎まれてから、尻尾を掴まれてリンチされたいマゾなんだと思う
そうでもなきゃこんなことしてないよ、うん
誰も見てないなら誰かに見てもらいたいんだろう、そして殺されたいんだろう
救えないね
富○はやっぱりズレてるなあ
それが却って魅力に繋がったり、ツッコミ所になるから面白いわけだけど、
ズレてるだけの人だったら会話が成り立たない人にしかならない
それこそ作り手がTwitterとかでベラベラ気持ちを喋りだすと作品もつまらなくなる傾向があるように思う
つまり、作り手は自分がズレてるという自覚はあったりなかったりもするのだけど、
他人との会話が成立しない、価値観が噛み合わないみたいなジレンマが普段からあるわけで、
それを作品にぶつけることでストレスが解消されたり、初めて他人と世界観を共有できたりする
そうなんだよな。
伝説という言葉は、伝わるという単語が入っているように、人伝で流れてくるものだった。
ネットに接続したての仲間内でちょっと面白いことを書いてる人がいると話題になった個人ブログ、怪しい奴らが集うという掲示板、そういう文化の情報が行き交うニュース系個人サイト。
そういった界隈で、「これは凄い」という噂が流れては来るが、実態がよく分からん存在だったのが「エロゲ」だったんだ。
「エロゲ」を伝聞でしか知らなかった背景には、売ってない・買うのが恥ずかしい・そもそも未成年・PCは親しか持ってない・オタク差別がまだまだ強かった、といった多くの理由があった。
まだまだ通信販売についてもどこか皆が距離をおいていた時代、割れツールの情報もあまり出回ってなかった時代に置いて、「エロゲ」は「伝説」の中に存在するゲームだった。
膨らみゆく期待はあるが、たかだかエッチな絵がついてるだけの紙芝居、それもバグで下手すりゃHDDをぶっ壊すような粗悪品が混ざっているものを買うのには勇気が必要だった。
だが、少しずつCDの違法コピーやP2Pといった割れの技術が浸透し、同時にオタク趣味が社会で許される風潮が形成されだしたことで、「伝説」が「現実」へと変わりだす。
そうして黄金期が始まったんだよな。
技術的進歩や文化的な偏見によってエロゲに対して膨らんだ期待値が塞き止められていた時代があって、それが開放されたことで爆発的な流れが誕生してんだ。
なんでエロゲが衰退したのかって言われることがあるが、これはもうエロゲが黄金時代を迎えた理由が「溜め込まれた期待値の爆発」であったことを考えれば当たり前なんだな。
もはやエロゲは身近になりすぎて、個人用のスマートフォンに適当なクレカを登録してポチっとすれば買えちゃうわけだよ。
これではフラストレーションも溜め込まれないし「伝説」だって産まれないわな。
ぶっちゃけVRやVtuberについても同じような側面はあると思う。
技術的な成約と偏見によって塞き止められていたものが開放されたことによる爆発だ。
つうか、全てのブームがそうなのかも知れんな。
その辺は俺は詳しくないので詳しい人が語ってくれー
https://b.hatena.ne.jp/entry/4692774563473918562/comment/yoppymodel
ライターのコンテンツ力で記事を面白くすることで成果を出してきたヨッピーっぽい、根本的に勘違い甚だしいコメントで笑ってしまいました。
ヨッピーが面白がられてるのは彼があの作風で結果を出してることから見てまあ客観的に認めていい事実でしょう。それでも、読み手が求める情報を与えない記事がフラストレーション溜めるの当たり前じゃないですか。
ヨッピーなんか勘違いしてません?? 読者が求めてるのはあなたじゃなくてあなたの発信する情報なんですよ。あなたは情報の添え物なんです。だってあなたの記事は面白くてもあなたは特に顔のきれいな訳じゃないおっさんなんだもの。
キュレーションサイトへのヘイトを原動力に書いた大阪旅行記事は面白かったです。スパワールドをまず挙げるところが信用できた。
https://travel.spot-app.jp/osaka_yoppy/
サウナ記事もあなたの趣味や嗜好を存分に活かした情報が満載。あなただからかけた記事だった。
https://srdk.rakuten.jp/entry/2018/09/29/150000
でもその反面、Twitterでフォロワーに全国の名産を教えてって募集して記事にしてたりとか結構「手抜き」もやってるんですよね、ヨッピー。
http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/yoppy/5054
それあなたが大嫌いなキュレーションサイトとやってること大差なくないですか? いやもちろん、中身のクオリティは段違いだし、それで集まった情報はあなたがこれまで培ってきた人気で集められたものってことで、まあヨッピーだからできた記事って点では一応あなたの成果だとは言えるんですが、あなたこの記事だとほとんど食べてないですよね?
まあわかるんですよ。そんだけ集まったら全部食べてらんないですよね? 仕方ないですよ。でもね、同じフォロワーから情報募集して集めた東京のたこ焼き屋さん20店舗全部食べ歩いた上で書いたおすすめ6選記事と比べたら、「ヨッピーもここまで落ちたのか」とは思いますよ。
まああんだけコタツ記事嫌ってたヨッピーがコタツ記事の温床であるクラウドソーシングサービスにインタビュー記事書いてる時点で、個人的にはお察しなんですけど。
https://hatenanews.com/articles/2019/06/20/103000
まあ商業でやるってのはそういうことだとは思いますよ。予算のでる範囲でできることをやるしかない。そしてライターの作る記事にクオリティの差が生まれるのは仕方がない。
https://lounge.dmm.com/detail/2162/
そのスポットではね、あなたよりもずーーーーっと身体を張って体当たり記事を書いてきた、patoさんっていう偉人がいるんですけど、ご存じですか? あの人が書くものって、「patoさんしかやれない(普通はやらない)ことを実際にやった体験談」だから、面白いんですよね。普通18きっぷで日本縦断しないですよ。千葉県境歩かないですよ。そういうことを体当たりでやってる人がいる横たにあなたが並んだとき、個人的には、あなたの取り柄って顔芸くらいしかないんですよね。だって体当たりしてないもん。雄山の鱧を食べた京極さんみたいな気持ちになりますよ。
「【魔改造】サッポロ一番を世界のシェフが料理したらすごいことになった」
「色々な世界のシェフが料理した「サッポロ一番」のレシピが見れます!」
って冒頭に書かれた記事みたら読者は何を求めると思いますか? 少なくとも、ヨッピーの顔芸じゃないですよ。あくまでサッポロ一番のレシピや料理じゃないですか? だって料理の記事だと思って開いたらおっさんの顔がみせられるんですよ? その前に完成品のきれいな写真の1枚や2枚くらい見せてくれて良いと思いません? いや、もしかしたら炎上商法なのかもしれませんが。それなら文句は言いません。お仕事なのでヘイト稼いでPV得ようという方策は批判しませんよ。お仕事ですからね。
でもね、お仕事として雑な仕事して批判受けたら「はてブのコメント、最近本当に辛辣過ぎない?」みたいな他責コメント言い始める前に、改善すべき仕事ぶりは山ほどある気がするんですが、どう思いますか?id:yoppymodel
フェミニストにも話せばわかってもらえるよ!みたいなこと言ってるやついるけどアホちゃう?
いやまーじでそれ無駄やろ、一生言い続けることになるぞ、話せばわかってもらえるって。
そもそもフェミニストはガチで「問題が存在し、それを解決したい」なんて思ってないのもう皆わかってるやろ
「力もしくは理が自分になくて反撃できない、でもムカつく」
ってなってるフラストレーションたまったブスが
ネットで別のヤツを殴ることで
「自分は反撃できた、戦ってる」
っていう、実感と充実を得てストレス解消するための行動でしかない。
つまるところ、殴ることそのものがブスの望んでることなんだよ、すでに被害は「現実の自分の生活で受けた」から「攻撃(反撃)をしない」という選択肢はない。
女の会話の多くは中身はどうでもよくて、会話を継続してるっていう部分で安心感を得たりつながりを感じて楽しい気分になる所がある
だからフェミも殴るという行動で楽しむ発言を繰り返してる、そこに理はない。
こんなフェミ相手に「君の言動は間違ってるよ、理論に適ってないよ」なんて言って聞くわけねーだろ
ムカつく現実の誰かの代わりにお前らを殴るのが目的なんだから、どんないちゃもんつけたって殴るわ
だから自分と同じ様に殴る意見があれば、中身なんか見ずにイイネする
「現実で勝てない相手にボコられたから、私はもっと社会的に弱いものを殴って自分が最底辺出ないことを感じたいしスッキリしたい」
高校生にカツアゲくらってムカついた中学生が小学生の財布強奪すんのと一緒。
会話は成り立たない。意味もない。
話が主観的すぎてなんとも言えない。
姉が怒るに至る心理的背景も、喧嘩の具体的なシチュエーションもわからない。
あげている事柄も、食べ方が汚い、怠ける、服装がダサい、人見知りがち、進学先の偏差値が低い等、
わりと至るところで聞かれるものが多くて、程度にもよるがそれだけで異常だと判断できかねるものばかりなので、安易に同調していいものか困惑した。
(程度によるので実際にあってみれば自分も「この人はおかしい」と感じる可能性はある)
読む限りお姉さんは人一番無気力でクズに見受けられるが、いくらF欄とはいえ四大をつつがなく卒業し新卒で入社した会社に結局今も勤めているところからして、社会に順応する能力はそれ相応以上とも解釈できる。
で、それを覆せるだけのインパクトのあるエピソードは増田を読む限り残念ながらなかった。
世の中には大学や高校も不登校になってそのままドロップアウトするような奴もいるし、
Fランなのに留年するような奴や近年の売り手市場でも現役で内定もらえなかった奴、
何したらそこまで疎まれるのってぐらい騒然ないじめを受ける奴、
簡単なはずの小売り店アルバイトを試用期間で首にされる奴、そもそもその面接で落される奴、
とまあお姉さん以下の属性を持った人はいくらでもいるし、そういう人たちもなんだかんだ社会の中にすぽっとおさまって生きていられてる。
正直言うと増田やブクマカの傾向から言って、毒家族問題という体裁で自分が如何に疲弊しているか相手がどれだけ醜劣かを強調すれば、内容関係なく書き手に同情的なレスポンスは寄せられる。
意図してか無意識かはわからないけど増田もそれ(同情的なレスポンス)を期待して投稿したのは読んでいてわかった。
わかったしこれが作り話でないなら、確かに貴方はフラストレーションを溜め込んでいておおよそ健康的ではないと認められる。
でも話を合わせてくれる人を選んで、取るに足らないと思われかねない話をだらだら羅列していくのは、リアルに誰かの助けを必要とするときや問題を解決したいと本気で思ったときに不利になるだろうから辞めたほうがいいよ。
気を抜いて愚痴るのは悪いことではないし、それが嘘か本当か自分は気にしない。
しかしながら増田が冷静で客観的かつ視野が広く、青年として申し分ない含蓄があり物事を多面的に見れる、そういう信頼に足る人物だと思わせたいのなら
こういった場でこういった語り口を選ぶのは適切ではないと思った。
これ、鉄板だと思うのだけど、圧倒的に「話題が知らない間に変わってる」っていう点だよな。
最近訳合って経理の女性と頻繁に連絡をしてるんだけど、この人がまさにこの典型。
例えばA社B社C社の話をしていると、今はA社の話をしているはずなのに、何の前触れもなくB社だったりC社だったりの話に変わってたりする。
A社の契約書の話をしていたはずなのに突然C社の契約書の内容がでてくるので、「え?あれ、それってA社でしたっけ?」って聞くと、「は?C社ですよね」とか半ギレ。
いやまて、だったら話題が変わるときに「C社の」ってつけろよ。
いきなり契約内容だけ言われて、おそらくC社だろうとは思うけど、もしA社の契約内容が間違えてたらどうすんだよ。
さらに一番絶句するのが、「え?あれ、それってA社でしたっけ?」って聞いたときに、「え?A社もその内容でしたっけ?」って聞き返されちゃうやつ。
こっちは勝手に話題が変わっていくことにイライラしはじめて、向こうは向こうで話が通じないことに一生イライラしてるっていうことが一週間くらい続いてものすごいフラストレーションだった。
この人、電話口でもしょっちゅう喧嘩してるけど、自分の周り全員が話を理解してくれないなら、それはそもそも話すほうが悪いって気がついてもらえないものだろうか。
テレビ見ながら他愛もない会話のときはいいんだけど、割と深刻な話をしなきゃいけないときとかに聞き返すとものすごく不機嫌になられるのが困る。
ちなみに全員地図を見るのが苦手なんですが、どっちも同じような原因な気がしてならない。
おやすみ、東京を読んだ。あとがき読んで、ちょっとというかかなり腹が立った。
この小説は、まだ作者の頭の中にだけ存在している十作の小説が交わった、交差点のような連作短編集なんだって。知るかボケ。よくわからん短編集にしかなってないじゃ。
なんかいろいろと面白くなりそうな気配だけは漂っているのがまた嫌。あとがきに書いてあった十作の作品群は、タイトルと短いあらすじだけ見ても心惹かれるものがあったもの。
でもそういった予備知識もなく、またたとえ予備知識があったとしても、真正面からおやすみ、東京という作品に向き合うと、世界観の異なる十の作品がちぐはぐに交わっているだけにしか映らない。
それこそが作者が描きたかった短編集なのかもしれないけれど、一読者としては面白くなかったとしか言いようがない作品になってしまっていたと思う。
物語の断片が不完全な状態で与えられる。完成形を想像することもできない数種のジグソーパズルを、それぞれ数個のピースだけ与えられて無理やりつなぎ合わせたようなものを見せられる。
問題は「立派に発達障害」だろうが「ボーダーライン発達障害」だろうが薬を使う程困ってるかどうか。ってトコロなんだな。覚醒剤系を使ったら「健常」な人でも効率は上がるよ。だけど薬物依存してまでお勉強がデキるようになりたいか。というとそんな必要ない。と私達は思ってる。テストで学習障害考慮してもらわないと落第する。とか、フラストレーションが募って学校で人間関係破綻してるというわけではなく、死ぬのがコワイとか家で癇癪爆発させるだけだから医者も薬物療法はしない(診断出さない)。と言ってる。不安やフラストレーションを如何に上手くやり過ごすか。というライフハックは残念ながらお薬では得られないんだよ。
「日本人が口癖のように言う『死にたい」は、正確に翻訳すると『ハワイ行きたい』くらいの意味になる」
などという不埒なジョークがTwitterでバズったのはいつのことだっただろうか。
あの時、「我々の高尚な希死念慮がハワイ如きで解消されるものか」と怒り狂った人間と、即座に会社を辞めて航空券を予約した人間と、どちらが多かったのだろうか。
なんにせよ言葉は可塑的だ。
同じ語でも文脈・シチュエーション・なんなら話者にすら応じて無限に語義を変える。
大学を出て、人に文章を見せたり、逆に他人の文章を読む機会が増えた今、それをひしひしと感じる。
「あなたにとって○○と言う語は××的な意味を持つのでしょうが、辞書的には違います」
なんて、我々は常に言葉の意味を巡って対立するし、いつまで経っても話が進まない。
などと宣う輩も少なくないが、漢字から語義が定義できるなら「豆腐」が食えるわけねーだろバカ。
前置きが長くなった。要するに、言葉は空虚で、我々は常に言葉の向こう側にある意味を察して生きている。
あるいは、我々はこんな小さな脳味噌に格納できるなけなしの語彙に、無限とも言える感情の機微を無理やり詰め込んでいるのかもしれない。
ならば、我々が口癖のように言う「死にたい」も、その例外ではないはずだ。
「死にたい」なんて短絡な語彙に、我々の高尚な希死念慮が収まるものか。
字面こそ同じであれ、そこには千差万別の剥き出しのゲンナマの感情が、千差万別の「死にたい」がある。
そもそも、死んだことのない人間が「死にたい」と思うとき、「死」そのものを渇望しているわけがない。
願望には期待がある。我々が未知のものに期待を抱く時、それは空想で、うち大抵は的外れな期待である。
夏の東北は涼しいだろうな、みたいな。かつて仙台で楽天が夏にデーゲームをやって、えげつない数の熱中症患者を出したらしい。
話が逸れた。
我々が死に対して抱く願望はなんだろう。少なくとも「死」そのものではない。(よほど知的好奇心がない限りは)知らないものを求めるわけがないのだ。
私の「死にたい」は、突き詰めれば「自己の再構築への欲求・転生への欲求」であった。
自分が置かれた立場・シチュエーションに全く不満のない私が「死にたい」と思う時、それは「状況に対応できない、愚鈍な自分へのフラストレーション」であった。
自分という存在をリセットすることで、あらゆる困難に立ち向かう「理想の自分」が生まれるのではないか、という淡い希望を抱いていたのだ。
ハワイの例も、考えれ見れば「あらゆる責任の放棄・直面した現実からの逃避」の言い換えだったのかもしれない。
また、私の友人は死にたい理由について「自罰」であると答えた。「罪を背負う私は、罰として痛みを負うべきだと思っていた」と。
死ぬことが罰か。裏を返せば、死を望む彼女にとって、生こそ褒美だったとも言えるかもしれない。こればかりは本人にしか分からない。
「汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む」
というのはかの有名な中原中也の詩の一節であるが、彼は死ぬことでその「汚れ」を綺麗さっぱり洗い流したかったのだろうか。
なんにせよ、死を知らない我々が死を望むとき、その望みの本質は、「死」そのもの以外のどこかにあるはずだ。
死ぬ権利や安楽死についてきちんと議論をすべきだと自分も思っているし、その立場を一方的に優生思想と結び付けられることも我慢ならない。
それは前提とした上で、安楽死肯定派には一つ苦言を呈しておきたいところがある。自分もそうだけど、「死にたい」と毎日考えていた時期のある人が、「この気持ちは普通の奴らにはわからん」と排他的になりがちだよね。安全なところから無責任に「死なないで!」と言われたって、何も響かない。それはとてもよくわかる。
でもそれを語る時の私たちは、「自分が選ばなかった選択肢」を他者の人生に仮託して、ある種の爽快感を期待していないか?
自分の個人的なフラストレーションを発散するため、他者を「復讐者」に仕立て上げ、一方的にポルノ消費していないか?