「日本人が口癖のように言う『死にたい」は、正確に翻訳すると『ハワイ行きたい』くらいの意味になる」
などという不埒なジョークがTwitterでバズったのはいつのことだっただろうか。
あの時、「我々の高尚な希死念慮がハワイ如きで解消されるものか」と怒り狂った人間と、即座に会社を辞めて航空券を予約した人間と、どちらが多かったのだろうか。
なんにせよ言葉は可塑的だ。
同じ語でも文脈・シチュエーション・なんなら話者にすら応じて無限に語義を変える。
大学を出て、人に文章を見せたり、逆に他人の文章を読む機会が増えた今、それをひしひしと感じる。
「あなたにとって○○と言う語は××的な意味を持つのでしょうが、辞書的には違います」
なんて、我々は常に言葉の意味を巡って対立するし、いつまで経っても話が進まない。
などと宣う輩も少なくないが、漢字から語義が定義できるなら「豆腐」が食えるわけねーだろバカ。
前置きが長くなった。要するに、言葉は空虚で、我々は常に言葉の向こう側にある意味を察して生きている。
あるいは、我々はこんな小さな脳味噌に格納できるなけなしの語彙に、無限とも言える感情の機微を無理やり詰め込んでいるのかもしれない。
ならば、我々が口癖のように言う「死にたい」も、その例外ではないはずだ。
「死にたい」なんて短絡な語彙に、我々の高尚な希死念慮が収まるものか。
字面こそ同じであれ、そこには千差万別の剥き出しのゲンナマの感情が、千差万別の「死にたい」がある。
そもそも、死んだことのない人間が「死にたい」と思うとき、「死」そのものを渇望しているわけがない。
願望には期待がある。我々が未知のものに期待を抱く時、それは空想で、うち大抵は的外れな期待である。
夏の東北は涼しいだろうな、みたいな。かつて仙台で楽天が夏にデーゲームをやって、えげつない数の熱中症患者を出したらしい。
話が逸れた。
我々が死に対して抱く願望はなんだろう。少なくとも「死」そのものではない。(よほど知的好奇心がない限りは)知らないものを求めるわけがないのだ。
私の「死にたい」は、突き詰めれば「自己の再構築への欲求・転生への欲求」であった。
自分が置かれた立場・シチュエーションに全く不満のない私が「死にたい」と思う時、それは「状況に対応できない、愚鈍な自分へのフラストレーション」であった。
自分という存在をリセットすることで、あらゆる困難に立ち向かう「理想の自分」が生まれるのではないか、という淡い希望を抱いていたのだ。
ハワイの例も、考えれ見れば「あらゆる責任の放棄・直面した現実からの逃避」の言い換えだったのかもしれない。
また、私の友人は死にたい理由について「自罰」であると答えた。「罪を背負う私は、罰として痛みを負うべきだと思っていた」と。
死ぬことが罰か。裏を返せば、死を望む彼女にとって、生こそ褒美だったとも言えるかもしれない。こればかりは本人にしか分からない。
「汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む」
というのはかの有名な中原中也の詩の一節であるが、彼は死ぬことでその「汚れ」を綺麗さっぱり洗い流したかったのだろうか。
なんにせよ、死を知らない我々が死を望むとき、その望みの本質は、「死」そのもの以外のどこかにあるはずだ。
風邪薬みたいなタイトルだな
じゃあ殺してくれよ 私を殺してくれよ
下から三行目の飛躍っぷりうんこだなあ