はてなキーワード: トロとは
昨日のキムチ鍋の残り
肉が少ないのでカサ増し。
フライパンを加熱しながら、冷凍してたゴボウ薄切り、人参千切り、玉ねぎ千切り、大根の皮スライス、きのこミックスを順次投入。
豚薄切りも入れて時々かき混ぜながら、キャベツを切る。
冷凍野菜たちが大体解凍され、肉に多少火が通ったら調味料投入。
チーズタッカルビのレシピ見るとコチュジャンと書いてあるが常備してないのでたまたまあった焼き肉のタレを入れた。原材料にコチュジャンは入ってないけどなんとなく韓国風になるじゃろ。
味付けしたらキャベツの千切りを投入する。
これでかなりカサが増えた。
全食材に完全に火が通った時点で少し水分多かったので小麦粉をフリフリ容器で振り入れて強火でとろみをつける。
冷凍してあったピザ用チーズをガーッと混ぜてフタをして火を止め、余熱でチーズをトロかす。
大きな深皿にトロねばの完成品を盛り、スライスチーズ3枚をてきとうに載せておくと、食べるときにはスライスチーズもとけていい感じになっていた。
昨日のキムチ鍋は市販のスープが美味しくて、でも食べきれずにたくさん残っていたので土鍋からステンレス鍋に移して冷蔵してあった。具はそれほど残っていなかったので、そのまま温めて豆腐だけ足して今日の汁物とした。
キュウリの浅漬けは、珍しく3本128円で安売りしてたので2パック買ったうちの1パックを漬けておいたもの。
僕らの人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、僕らの祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。僕らは遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
僕らの中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。僕らはその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。僕らは、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。
人のルーツを辿る時、その歴史上最も古い霊長は(今のところ)七百万年前のサヘラントロプス・チャデンシスである。我々ホモ・サピエンスが分化したのは今から二~三十万年前とされており、我々はアフリカから世界の各地へと足を伸ばし、文明を伝えてきた。
当然ながらその歴史は暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力の連鎖があった。
ここで言うところの「暴力」とは戦争や軍事力を媒介にした暴力の行使を指しているわけではない。
ごく身近に、あるいは、我々の中に存在している。
それは自明のことと言って差し支えなかろう。暴力が無ければ人間は生きて来れなかったからである。
例えば、鋭い牙と爪、そして圧倒的な膂力を持つ獣に襲われた時に、我々に最も必要なものとは暴力である。
例えば、そんな事態においては武器が必要になり、そして、獣を殺す為の殺意もまた必要になる。そこには、暴力を振るうための道具と、暴力を振るうための膂力と、暴力を振るうための意志が必要になる。
無論、我々に暴力を振るう可能性があったのは獣だけに限らない。例えば、同族である人間が暴力を振るってくることも大いにあったであろう。そのような人間に対して、暴力を振るわなければならない場面もあったであろう。
更には、そのような暴力が防衛や自衛のみを目的としていたと仮定することは恐らく不可能であろう。そこに積極的な暴力の行使の可能性があったことを、認めなければならない。
繰り返すように我々がホモサピエンスとして遺伝子を繋いできたのは今から三十万年程前からのこととなるのだけれど、例えば、我々の遺伝子のレースが百万年前に始まったと仮定して、そして、我々の世代の継承が十五年毎に行われていたと仮定する時、我々にはこれまで六万から七万の世代が存在したということになる。仮に、たった百万年前から我々にとっての遺伝子のレースが始まったと仮定してさえ、そこには膨大な数の関係者が存在することとなる。とにかく、我々は遺伝子のキャリアとして長い時間を旅してきた。
その膨大な関係者は、恐らく長い間暴力と共に遺伝子の旅を送ってきた。
そんな時、我々の振るってきたであろう暴力は――あるいは、我々が振るわれてきたであろう暴力は――どんな種類の暴力であろうか。
まず挙げられるのは、殺人。
強盗。
強姦。
傷害。
恐喝。
その他に何があるだろう? すぐには思いつけない。
何らかの種類の搾取があったかもしれない。詐取が存在していたかもしれない。
我々の祖先はそれを不断に行ってきただろう。恐らくそれを止めることはできなかったであろう。
それを止めることによって、周囲の遺伝子のキャリアに対する対抗手段を失ってはいけなかったからである。我々はそれを止めるわけにはいかなかったのである。それを止めた途端に、我々の遺伝子のキャリアは頓挫し、今日という日に辿り着くこともできなくなってしまうからである。
恐らく、ありとあらゆる種類の暴力の行使は、我々の遺伝子のレースにおいて切り離すことのできない要素だったであろう。
つまり、この文を通じて僕は何を言わんとするのか。
それはつまり、恐らくだけれど、貴方のかつての父親は、あるいは貴方のかつての母親は、誰かを殺したことがあるということである。
何かを盗んだことがあるということである。
その他の、無数の暴力を与え、そして、与えられてきたということである。
我々のかつての父は殺し、盗み、傷つけ、犯し、騙してきただろう。
我々のかつての母は殺し、盗み、傷つけ、犯し、騙してきただろう。
我々のかつての父は盗まれ、傷つけられ、犯され、騙されてきただろう。
我々のかつての母は盗まれ、傷つけられ、犯され、騙されてきただろう。
例えば、百万年前までの歴史を辿れば、我々一人につき六万から七万の世代が存在することになる。そして、当然そのような世代は必ずしも一人の人間が継承し続けてきたわけではなく、無数の兄弟や姉妹が存在していたことであろう。そのことも勘案すれば、我々にはおよそ無数の関係者が――無数の肉親が存在していたということになる。
我々には関係者があまりにも多すぎる。そう考えた時に、我々の関係者の内に、一人たりとも、百万年の歴史において暴力を振ったものなどいないと言い切ることのできる可能性は、どれほどあるだろうか。恐らくはその可能性は限りなくゼロに近い。我々は無数の暴力をはたらいてきたし、恐らくは無数の暴力に晒されてきただろう。
ご隠居「ほう、見た目は悪いがこいつは旨いもんだねえ」
八五郎「身がたっぷり残ってたまぐろの皮から貝殻で根こそぎ取ったんで。へえ」
ご隠居「これは面白いねえ。捨てる皮から身がねえ。八っつぁん、あんた名前をつけなよ」
ご隠居「こそ泥みたいでいやだねえ。あたしが決めさせてもらっていいかい」
八五郎「へえ」
RRD 皮や骨についた身は物理的に刺身に出来ず、貝殻や匙で剥ぎ取ったものがすきみ。剥ぎ取ることを古語で「ねぎ取る」と言ったところからネギトロという。
ところが、その肝心の金太楼鮨では「ねぎ取る」説が採用されていない。
ネギトロ巻きの誕生は、1964年(昭和39年)、浅草に本店がある『金太楼鮨』とされる。三ノ輪店で残った寿司種を手巻き寿司にして賄いで食していたが、鉄火巻きに使用する中落ち・すき身にネギを加えると、マグロの脂っぽさが打ち消された。それを客に提供したところ好評で、常連客を通じて本店にも伝わり、本店のメニューに採用された。
偶然にできた寿司ネタ「ネギトロ」その由来の秘密(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社
ねぎとろ発祥の店と言われているのが、東京浅草に店を構える大正13年創業の金太楼鮨。昭和39年、当時の会長だった間根山貞雄氏が考案したという。その開発の経緯はこうだ。
同店ではまぐろを毎日大量に仕入れていたが、筋の部分は食感が悪く、刺身や寿司に使えず、余っていた。叩いてペースト状にして食べれば、脂がのってトロトロで美味いが、今度は歯応えが皆無。
そこで仕方なく、巻きに使おうとしたところ、昼食用に茹でていたそばかうどんに使うネギやワサビなどの薬味を筋の部分にぶちまけてしまう。やむを得ず、ご飯にのせて醤油をかけて食したところ、これが美味い。そこで、大当たり間違いなしと、店で出すことに決めたという。
思いがけず生まれた新しい寿司ネタ。その命名について、間根山氏はこう語っている。
「浅草には『麦とろ』という名前のとろろ飯を売る店が戦前からあり、専門店としては珍しいので土地では一応知られていた。よし、これだと、麦とろ→ねぎとろと語呂を合わせて決定した」
というわけで、この説明によれば「葱」+「(麦)とろ」である。
例の「チコちゃんに叱られる!」でもこの説が採用されたらしい。
牽強付会な印象も無いではないし、「銀ブラ=銀座でブラジルコーヒー」のように店が積極的にデマを流している可能性もある。
この場合は、昭和39年(1964年)以前に「ねぎとろ」という用例があれば、金太楼鮨の説明は疑わしいということになるはずだ。
が、そう都合よく見つかるはずもない。誰か探してくれ。
追記。
青ジソは香りのよさが好まれてよく使われ、イカのにぎりの場合など、一葉添えられることが多くなった。この青ジソの葉を細く切っていりゴマを加えた、シソ巻ずしを台東区東浅草の金太楼鮨でやっている。また、生ネギとトロとを巻いた「ネギトロ」も、ここの名物である。生ネギをすしに使うなどはなかなか思いつかないことなのだが、このネギとトロというのが相性がいい。
浅草の東、鮨·金太楼本店。(中略)ちっと解説させて頂くなら、ねぎトロのトロとは、まぐろをさばいたあと、皮や骨についている肉をこそげ取った身を寄せ集めたものです。(中略)ねぎトロは、いまいったトロにきざんだねぎを混ぜ、ゴマを加えたもの。
信用金庫 29(1) - 国立国会図書館デジタルコレクション
先日、仕事の関係があって、浅草のあるおすし屋さんを訪ねた。そこで、ネギトロというものをたべた。たいへんおいしかったので、ほかであまりきかないけど、おたくだけのものかときいてみた。若いご主人は次のように話してくれた。そうです。実はわたしたちも、すしにネギは禁物だと教わってきたのです。ところが、ネギのとても好きなお客さんがいらして、ネギを巻いてみてくれというご注文なのです、ついでにトロも一緒に入れてくれというので、試しに巻いたのです。ところが、これがなかなかいけるのですね。それで、その後いろいろ工夫してみました。トロをよくたたいてアブラをうかし、スジをとって、それからネギと一緒に巻くのです。これをわたしのところのレパートリーに加えました。ですから、これはお客さんに教えていただいたものといえますね。
というより「生ネギをすしに使うなどはなかなか思いつかない」「すしにネギは禁物だと教わってきた」といった記述からすると、ネギを使うことこそがネギトロのオリジナリティのようである。
週刊文春の記述からは、いわゆる腹部の「トロ」ではなく、現在のように中落ちや皮ぎしの肉を使っていたことがわかる。
「浅草のおすし屋さん」というのはおそらく金太楼鮨のことだろうが、現在説明されているネギトロの誕生経緯とはだいぶ異なっている。
追記終わり。
別の方向から考えてみよう。
RRD氏は「剥ぎ取ることを古語で『ねぎ取る』と言った」と書いている。
ね・ぐ 【労ぐ】
ねぎらう。いたわる。
ね・ぐ 【祈ぐ】
祈る。祈願する。
「ねぐ」は、神社の「禰宜(ねぎ)」や、「労う(ねぎらう)」「願う(ねがう)」といった言葉の語源である。
ちなみにヤマトタケルの伝説で、景行天皇が、息子の大碓命が会食に出てこないことを懸念し、その弟の小碓命(=ヤマトタケル)に「ねぎ教へ覚せ」と命じた、という話がある。
この「ねぎ教へ覚せ」の「ねぎ」は、まさに「ねぎらう・いたわる」で、「(会食に出るよう)優しく教え諭せ」といった意味になる。
ところがヤマトタケルはこの命令を取り違え、兄の手足を引きちぎって殺してしまった。
「手足をねぎ取った」ということだろうか?
このときヤマトタケルがどう取り違えたかというのは「根切る」や「ねじ切る」といった説があるようだが、さすがに「剥ぎ取る」と結びつけることはないようである。
というわけで「剥ぎ取ることを古語で『ねぎ取る』と言った」という説はかなり怪しい。
しかし古語ではなくとも「ねぎ取る」という言葉があった可能性はある。
別の記事では「ねぎ取るは建築用語だ」とする説が紹介されている。
知ってた? “ネギトロ”は葱とマグロのトロの意味じゃない! “ねぎま”も焼き鳥じゃない | ガジェット通信 GetNews
元の語源は建築用語で、地下構造物を作る時、地面より下の土を掘ることを「根切り」と呼んでおり、それが寿司業界にも広まり「ネギトロ」が誕生。
そもそも「根切り葉切り」という言葉もあるように、「根切り」には「根こそぎ」という意味があり、骨から肉をこそぎ落とすようなイメージは分からないでもない。
そもそも「ねぎ取る」で検索しても「ネギトロ」以外の文脈ではほとんど引っかからない。
中間形態としてありそうな「根切り取る」などもやはり引っかからないのである。
こちらは「俺は寿司屋をやって数十年の者だが『ねぎ取る』という言葉は確かにあるぜ」という人が出てきてくれれば確かめられるはずだ。
というわけで、1964年以前の「ねぎとろ」用例や、古くから寿司屋で「ねぎ取る」を使っていたという人が出てこないかぎり、暫定的に「葱」+「トロ」説を採用したい。
この秋!秋刀魚食べた?
不漁と言いながらも、
いうたかて、
せいぜい1匹200円もせーへんやんか、
不漁と言っても、
でも今年の秋刀魚は
細くない?
まるまると太ってないというかシュッとして
男性への格好良いの言い方で言う大阪の人が言ういわゆる「シュッとしてる」ってやつの秋刀魚版なんだけど、
今年みたいな細い秋刀魚は初めてかもしれないわね。
一度は食べたい秋の盛りよ。
食べなきゃ秋じゃなくなくない?
そう言うぐるぐる回る回転のぞき絵的なゾートロープがあったら、
なんだかテンションが上がってくるんだけど
水族館で見る秋刀魚や鰯の渦の鰯ストリームとはまた違う感じかしらね?
それはともかくとして、
やっぱりフィッシュロースター的な私のヒーローが必要なのかしら?
でね、
魚以外も焼いてもいいらしくて、
手羽元とか焼いちゃってチキンロースト的な私のヒーローも期待しちゃうかも!
なにかと、
腕によりをかけた感じが出せるってもんじゃない。
だから
3回お願いできるようにって思うんだけど、
今夜はなんとか流星群ですってやつ、
空を見上げても願い事叶え放題と思いきや、
それはやっぱり星研究専門家の人じゃないと探せないのかしら?ってちょっと悲しくなっちゃうけど、
あの星が輝いているけどそれは何百億年も昔の光が届いてるだけの話しで、
今はその星は寿命で無くなちゃってるかも知れないと思う
まあそれも本当にあるかどうかもわからないけどね。
マイクパフォーマンスのあとステージのセンターにマイクを叩きつけるまちゃまちゃを思い出すわ。
うふふ。
もうさ私この臨時休業喰らったの2回目よ2回目!
ここからまた他の銭湯に行く気力も体力も時の運も持ち合わせて無かったので、
とぼとぼと帰った次第よ。
今日は開いてるはず!
カットして凍らせておくと、
ただのウォーラーにレモン氷入れてレモンウォーラーでもいいし、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
討論会で質問されても具体的な話がスラスラ出てくる。他の2人とは格が違う。
うがった見方をするこちらを先回りして良識的な回答をするのも好感。
こんなにマトモなこと言ってるのに、2012年の自民党改憲草案を持ち出すのは不気味にもほどがある。
とても思慮深い話しぶりなのに、一方で「グレートリセット」とか物騒なこと言ってる。
3人の中では一番有能で、一番良識があり、一番危険人物かもしれない。
おじいちゃん。
ブコメでも結構言われているように、想像以上にアドリブが効かない。
立場もあるのか、全然中身のあることが言えてない。回答もピントがズレてる。
所信表明も昔の思い出話ばかり。
1.5倍速で再生しないと話がトロすぎて聞いててイライラしてくる。
ただ具体的な自分の実績を言えていたのは、政権の中にいただけある。
普通。
変なことは言ってない。受け答えもしっかりしてる。
まぁ良いんじゃないの。
資本主義というか経済とか、それ以前に生物とかもう全部の常識がないのかおかしいので小言をいうね
国民と結果的に称される個人が寄り集まって自分たちの生活の共有部分を共同管理するための組織が国家なのね
国がなにかしてくれるとかお国というなにか生き物が人間を飼ってるわけじゃないのね
自治体や議員や国家というのは国民の寄り集まりであって国家が国民を生んでるわけではないのね
みんながちゃんと政治に参加すればそんな雲の上でクラウド接続しているらしいみたいな国家幻想は抱かないと思うよ
それで、生物として怠惰に生をむさぼることが夢とか究極の目標とか楽園ではないのね
それがそうだというなら脳に電極さして水槽で寝てるのとか人類の最終目的でしょ
生きるというだけについていえばストレスがあって達成感があって不足や不満を感じてそれを解消する快楽が必要なわけじゃん
まあそういうの全部今回はなしってことにしたとして 繋がれて夢をみるだけの生き物になるのが夢なの?
どう考えても人間が生物的な活動をしていくと消耗消費と老化劣化からストレスと競争が発生してかつ自然環境や資源も枯渇して苦しくなるだけじゃん
経済とかBIとは全然関係ないけど生物とかからいうと目標としては「苦しいかもしれないけど生を満喫すること、だってそれは生まれてきちゃったから」が究極な答えだと思うよ
それで資本主義の話なんだけど「金儲けのうまいやつが大儲けするのが資本主義」とかいうけどお金はお金だけでは増えないのね
そりゃ銀行が刷ればいくらでも増えますとかいうなんか宣伝文句があったけどそれ物理的に増えるだけでお金って物理じゃないのね
物理的なお金の代替品に理論的に意味づけたものがお金であってそれがもし大量にあったとしても「全部で1円」とか言えば数億円の束でも「1円」なのね
お金はお金で増えないの お金もうけのうまいやつがいいふうにやって倍にしていって 何億という資産を築いたとしても パン屋に腹が減ったから数千万でパンを売れっていっても売らないっていったら交渉決裂なのね
実際にそれができないのは国っていう先述の寄り集まりがお互いに問題を起こさないようにとか問題がおきたら解消できるように組織したものが違反を咎めて全部没収とか暴力的に解決できるからなのね
ルールに従っていればいくらひどい事でもしていいけどルールから外れるとちょっとのミスでも絶対許さんとかになる取り決めが法律なわけね
話はそれちゃったけど とりま何が言いたいかって お金は「お金儲け」では増えないのね
じゃあお金を増やすのってどうするかって、生産するしかないのね 一次産業から二次産業くらいまでが必要でもちろんそれが好きだしその知識が多くあって秀でていて 売り物にしたらより大きなものと交換できる可能性がある人がそれをするのね
権利だとか技術だとかを駆使して人がほしくなるようなものをつくるの そしたらほしい人は物々交換を申し出るわけ そりゃ生ものとかそのままじゃ使えないものをもってる人もいるわけなので平等にいつでも交換できる権利と交換するわけ
それがお金なの お金でお金は増えないのね お金もうけがうまいやつがお金を増やすわけじゃないの
じゃあ何でお金がふえるかって 約束で増えるのね 高い絵画は「高く転売できる」って保証によってその価値があったり いつのタイミングでその料理がたべられるか いつのタイミングでその施設が使えるか どんな時にそれを利用することができるか
そういう約束でお金って増えるの いまじゃないけどそれほしいって人が倍はくるよ 競争になるよ そしたら取り合いをさせずに倍の値段をもってくるやつと交換したらいいよ っていうのが価値なのね
その価値を作った人が潮目を見切って販売管理したり それをしながら生産をしたり そしてサービスをしたりするのはしんどいので その価値からいくらかおすそ分けしてその作業を人にお願いするのね
それがみんなが嫌ってる不労所得とか既得権益とか楽してもうけてるお金儲けがうまいやつとかの一部なわけ
欲しくなる時期までお預かりしておきます お持ちであるという証明を券で発行します いつまでなら使う側でいていいので使い終わったら払う側になってくださいねとか そういう金融商品って取引を代行する人がでてくるの
一次産業がそういうのに都合よくつかわれないように農協とか漁協とかいろんな協同組合とか団体とかがあるの 実際にこまったときに相互に助け合う仕組みとして小さな国家の単位みたいな組織ね
これを無視して利益重視にすればいま大手スーパーがやってるみたいな組合とかをとばして直販してもらって安く仕入れるとかできるし中間マージンがない分生産者も実入りは大きくなる
でも積み立てとか交渉とか共済とかいうのがないから不作とか被害とかでたときにだれもなにも補償してくれないの 運が悪けりゃつぶれるだけ できるだけ原始的で原理的な組織化で産業を保護してくれてたのがみんなが不都合で嫌いだった組合とか土着の組織だったわけ
スーパーや大手が効率的に安く商品を提供するために重厚な安定化組織を解体してたわけ 運よくずっと良作に恵まれてたらいいけど一旦不景気とかに落ちるともどってこれないよ 鬼怒川温泉みたいに
つまりねお金って結局人間が生きていくのに必要なものを他人に作らせるからできてるわけで 他人にたくさん任せれば任せるほどお金ができるの
そしたら任せっきりのなんにもしない人が出てくるわけね そこでブルシットジョブでもつくらないといけないわけ それが公共事業だったりしたんだけどね
どっかのド田舎まで高速道路ひいた首相とかいたりして意味ないことだったけど経済的には一部を活性化させたりしたね
お金は仕事っていう「その仕事をしてくれたおかげで生産がより便利になりました利益があがったのでお返しします」から利息分をすこしわけてもらうための権利を先取りしたものが労働の対価であるお金なのね
物々交換に時間をかけあわせたものがお金なの いまという時間から切り離した分だけリスクを含んだ価値を増大させるわけ
プロダクトローンチとかいう言葉が昔はやったけど、簡単にいうと完全予約制みたいなものね 生産に対して顧客を先に固定させておいて販売価格を商品より先に預かることね
土用の丑の日のウナギ弁当を予約で食品の廃棄を減らすみたいなもの 売れもしないグッドアイデアをこれは品質がいいから必ず売れると決め込んで投資していざ売ったら失敗みたいなことを回避する手ね
先に原資をあずかれることで生産にかかれるのね 基本会社はみんな借金してる 借金してそのお金でそれより大きなお値段をつけて生産したものを売る 借金を返してお給料もだして また借金して生産する
これでいつしか自己資本だけで会社やれたらいいなーっていうのが資本主義にある会社なのね
その借金という仲介をしたり証券化して権利を分散して関係ない人からも結局その生産の原資として使いまわしがきくみんながもってる時間とわずかな交換条件をかき集めてくるのが銀行なのね
銀行は人のチャンスとみんなの余裕を貯金として預かって、貸したり返してもらったりしてお金をふやしてるのね
これにはとても正確なやりとりが必要なので大変なのね こんなのみんな自分でできるなら会社はみんな自分で取引してるわね
つまり大きく仕事を三つに分けると、ものをうみだす人と、ものをつかう人と、消費する人と作る人の間を取り持つ人なのね
とりもつ人っていういわゆる「お金儲けが得意な人」がどれだけすごくても何人いても生産して運用しないと1円も増えないわけ
お金って生産して運用するその価値そのものなのね お金儲けがうまい人っていうのがもしいるのだというならそれは生産ができて加工もできてそれをほかの人にわたせる人のことなのね
生産工場が直売してなくて卸業者や代理店経由とかで商品を売る意味とかわかんないとおもうけど 全部できるならみんなしてる 自動車くらいに利益率が高くて組織が膨大ならできると思うけどね
農業を経営してるところの飲食店とか 規模的に小さくても完結してるところはあるよね
ところで都市生活してるみんなは農業してたり一次生産してたりする? してないよね だったら飢えて死ぬべきかな? みんなが死なないように無駄な仕事を増やしてくれてるよね
独占禁止法なんてなければ生産者一族が自分たちの分だけ生産して供給して ほかの人がほしいっていってもはい100万円っていえばいいだけなんだもんね
それをみんなが生きたい生きるべきってきめて あなたたちを襲って殺さないからぼくたちも殺さないでって取り決めて国家を形成して法律をきめてるよね
みんなが分散して生産して消費の機会や場所を分散させて無駄に仕事と手間を増やさせてそれぞれに従事させてその対価として消費するその価値にちょっと上乗せしたものを配分してるのが資本主義だよね
これが成長していかないと「上乗せした価値」が得られなくなるからどこかを削るべきとかになるのはわかるよね だからGDPとか大事だよね
そういう無駄なことやめない? いる分だけ調整して上へ上へ上げていくのもうしんどいからコントロールして一休みしたり無駄な仕事ふやしたりするのやめない?っていうのが共産主義って主義ね
国がその配分を一旦全部国有で国のものとして徴収して再配分するってきめると効率的で無駄のない生産と配分ができるよね
上手だろうと下手だろうと誰彼かんけいなくそこにいる人にそれしなさいって国営のなにかをしてもらってその価値を国の配分で分けたりすればここまでややこしかった資本主義の問題とか軋轢なんて一発解決ね
災害対策とか低迷する機能への投資とかいいなっておもったら即機能させれちゃうよね ただ国民の幸福度としては国がやれっていったからってことを押し付けられるのに報酬が自分で決めたものではないのは不満だよね
資本主義は重責を負わないなら受け取る価値を下げるって選択肢があるよね
ここで重責を負うって名前だけなのに給料高いのは納得できない資本主義でうまいことやったやつだけが給料たかくて真面目に働いてるみんなへの配分が少ないってことになると思うけど
重責っていう人が判断したり取り次いだり企画したり対応したり組織をつくったり運用したりしないと作業員がいっぱいいても価値を生産したり運用したりできないのね
みんな下積みなん手必要ないやれっていわれたらできるしみんな同じことしてる作業員なんだから給料がいっぱいの人と同じことできるからお金欲しいっておもうよね
じゃあどういう経路で、どこに問い合わせたら、どうなっているかという予想ができて、それならばこちらに切り替えたり、無理をお願いしたり、時期をずらそうってしたりみんなできる?
現場作業をしていれば現場でいるものはなんでもわかると思うけど、じゃあそこに来る材料がいつどこからどう来てどんな品質だからどうすべきかとか、判断できる?
また納品する先にどういう取次をして、支払いの約束をどうとりつけて、関係者のみんなにそこからいくらわけるとか計算できる?現場で10人優秀な人がいて生産が完璧にできたとしても材料とか取引ができないと10人の価値はゼロよ
10人に10人分以上の価値がでるように準備をしたり取引をしたりするのが重責の役目ね これが等価とかそれ以下ならだれでもできるの ほんとだれでもできる
だから人のいい社長さんとかがその価値を切り崩して会社だめにしたりする がめつく粘って値切って節約していかないと維持できる程度の利益もでない これが重責なのね いってみればみんなのお給料のためにどれだけ意地悪な悪人になれるかみたいなとこね
みんなの1+1の生産の結果をどれだけえげつなく汚い手をつかってぼったくったかが、お給料になるわけ 10人分なら10倍程度にね それが楽なので再分配しろっていうならみんな自営業したらいいだけ クラウドの仕事募集サイトで仕事すればいいだけじゃん なんでしないの?ってことよ
10人分の家庭の生活を自分の一言でつぶしてしまうかもしれない その責任がおまえとれるの?っていう重責が役職であったりするわけね 構造上の問題だけど
まあそういう仕組みがあって そのうえでそれらを超越してただ楽でなにもしてなくて暇つぶしだけしてるけどお金がはいってくる人ってのも構造上でてきてしまうよね それはしょうがない
そんな人をピンポイントに特別措置がとれる法律をつくろうなんていったら「人ひとり個人を特定の方法でしめることができるルール」ってそれルールっていう広義である必要はないよね
事故として処理するのとなんらかわらんし そういうのが陰謀論としてあるとわくわくするのはわかるけど 一応とつぜんみんなの家族がきえたりしないのはちゃんと国家ってルールが運用されているからだね
いちおういまもうまく国とか資本主義って機能してはいるし公共事業と基本給がいまのところベーシックインカムってものの変わりみたいなものだよ
これを現金化したり証券化することは国の機能そのものが現金化したり証券化したり いってみれば民営化するみたいなものなんだよ
まあどっちでもいいんだけど 政治は批判しかしないし政党に加わるわけでもなし支持する政党も組織として共同体運用を目的とした宗教にも加担せず個でいることにこだわる人がベーシックインカムなんて形で団体組織運営を民営化してより独善的な偏りに現金をもっていこうとするのは目先の快楽にそそのかされてんじゃない?
配信者がよくAPEXを実況してくれてるんだけどFPSって初心者がやるならバトロアよりもCoDやBFのチーム戦がいいと思う
バトロアの場合、一回の死亡がチームに与える責任が重いため初心者に来てほしくない
その点、チーム戦は6対6や10対10、50対50とか色々あるけど人数が増えればその分だけミスの重みが薄まるから初心者におすすめしたい
僕らの人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、僕らの祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。僕らは遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
僕らの中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。僕らはその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。僕らは、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。
人のルーツを辿る時、その歴史上最も古い霊長は(今のところ)七百万年前のサヘラントロプス・チャデンシスである。我々ホモ・サピエンスが分化したのは今から二~三十万年前とされており、我々はアフリカから世界の各地へと足を伸ばし、集落を作り、文明を伝えてきた。
当然ながらその歴史は暴力と共にあった。共通の利益としての安全を求める性質が、かつての我々にあったことは否定しないが、恐らくそこには絶えざる暴力の連鎖があった。
ここで言うところの「暴力」とは戦争や軍事力を媒介にした暴力の行使を指しているわけではない。
ごく身近に、あるいは、我々の中に存在している。
繰り返すように我々がホモサピエンスとして遺伝子を繋いできたのは今から三十万年程前からのこととなるのだけれど、当然そこに至るまでにシームレスに旧人類種のグラデーションが存在している。我々の遺伝子のレースはきっかり三十万前に始まったわけではない。あるいはそれは五百万年前かもしれないし、一千万年前かもしれないし、一億年前かもしれない。あるいはもっと前かもしれない。
例えば、我々の遺伝子のレースが百万年前に始まったと仮定して、そして、我々の世代の継承が十五年毎に行われていたと仮定する時、我々にはこれまで六万から七万の世代が存在したということになる。仮に、たった百万年前から我々にとっての遺伝子のレースが始まったと仮定してさえ、そこには膨大な数の関係者が存在することとなる。
そしてそこには必然的に、暴力の行使がまとわり付くこととなった。
それは自明のことと言って差し支えなかろう。暴力が無ければ人間は生きて来れなかったからである。
例えば、鋭い牙と爪、そして圧倒的な膂力を持つ獣に襲われた時に、我々に最も必要なものとは暴力である。
例えば、そんな事態においては武器が必要になり、そして、獣を殺す為の殺意もまた必要になる。そこには、暴力を振るうための道具と、暴力を振るうための膂力と、暴力を振るうための意志が必要になる。
無論、我々に暴力を振るう可能性があったのは獣だけに限らない。例えば、同族である人類が暴力を振るうことも大いにあったであろう。そのような人類に対して、暴力を振るわなければならない場面もあったであろう。
更には、そのような暴力が防衛や自衛のみを目的としていたと仮定することは恐らく不可能であろう。そこに積極的な暴力の行使の可能性があったことを、認めなければならないであろう。
そんな時、我々の振るってきたであろう暴力は――あるいは、我々が振るわれてきたであろう暴力は――どんな種類の暴力であろうか。
まず挙げられるのは、殺人。
強盗。
強姦。
傷害。
恐喝。
その他に何があるだろう? すぐには思いつけない。
何らかの種類の搾取があったかもしれない。詐取が存在していたかもしれない。
我々の祖先はそれを不断に行ってきただろう。恐らくそれを止めることはできなかったであろう。
それを止めることによって、周囲の遺伝子のキャリアに対する対抗手段を失ってはいけなかったからである。我々はそれを止めるわけにはいかなかったのである。それを止めた途端に、我々の遺伝子のキャリアは頓挫し、今日という日に辿り着くこともできなくなるからである。
恐らく、ありとあらゆる種類の暴力の行使は、我々の遺伝子のレースにおいて切り離すことのできない要素だったであろう。
つまり、この文を通じて僕は何を言わんとするのか。
それはつまり、恐らくだけれど、貴方のかつての父親は、あるいは貴方のかつての母親は、誰かを殺したことがあるということである。
何かを盗んだことがあるということである。
その他の、無数の暴力を与え、そして、与えられてきたということである。
我々のかつての父は殺し、盗み、傷つけ、犯し、騙してきただろう。
我々のかつての母は殺し、盗み、傷つけ、犯し、騙してきただろう。
我々のかつての父は盗まれ、傷つけられ、犯され、騙されてきただろう。
我々のかつての母は盗まれ、傷つけられ、犯され、騙されてきただろう。
例えば、百万年前までの歴史を辿れば、我々一人につき六万から七万の世代が存在することになる。そして、当然そのような世代は必ず一人の人間が継承し続けてきたわけではなく、無数の兄弟や姉妹が存在していたことであろう。そのことも勘案すれば、我々にはおよそ無数の関係者が――無数の肉親が存在していたということになる。
我々には関係者があまりにも多すぎる。そう考えた時に、我々の関係者の内に、一人たりとも、百万年の歴史において暴力を振ったものなどいない、と言い切ることのできる可能性は、どれほどあるだろうか。恐らくはその可能性は限りなくゼロに近い。我々は無数の暴力をはたらいてきたし、恐らくは無数の暴力に晒されてきただろう。