はてなキーワード: エージェントとは
人事やってるリーマンなんだが、今年から採用の一次面接に社長の息子(取締役・独身・アラフォー、以下ジュニア)が同席することになった。人事とは全く異なる部署にいるのに。
一次面接に取締役が参加するなんてまず聞かないんで、それとなく社長に理由聞いてみたら、息子の嫁を探すとのたまいくださった。しかも冗談や隠す気ではなく堂々と。
ジュニアの面接参加率にバラツキがあるとか、趣味など個人的な質問ばかりしてるとか、ジュニアが面接する学生の通過率は高いとか、感じてた違和感が全部繋がった。履歴書の写真を見て面接出るかどうか決めていたんだと気づいた瞬間、「キモい」という感情が全身を走った。社長の前で口に出さなかったのは本当に幸いだった。
これが零細企業ならともかく、全国に拠点がある社員数ン百名、売上ン十億の中堅企業。創業者である現社長に惹かれて転職したけど、起業家・経営者としての尊敬できるかと、人として尊敬できるかは別もんだなぁ、と実感した。まぁ、オーナー企業なんで私物化しても構わないって意見もあるかもしれないが。
近々ジュニアは次期社長になるんだけど、たぶん今回の一件で、ジュニアに対してキモいという感情を感じたことや、公私混同するんだろうなぁという想像が働くことで、純粋に命令を聞けなくなると思う。ジュニアがいかに優れた経営者であっても。
■2017-06-16 16:30ごろ更新
気が付いたら300近いブクマがついてて驚いた。具体的要素は少ないので特定できないと思うが、会社にバレないように祈りたい。
ブコメ等を見ると比較的どの会社でも見られることのようなので、私自身が純粋すぎたのかもしれない。確かに客観性のある犯罪ではなく、「キモい」という私の個人的価値観に基づく感情以外は問題が無いわけだし。あと「社長には『キモい』と感じないのか」という質問があったが、今思い出すと社長にも感じていたと思う。厳密には、「ジュニア」>「言い出す社長、受け入れるジュニアの関係」>「社長」の順でキモいと思った。
追記だけど、一番残念な気持ちになってモチベーションが下がったのは、優秀な人材を採用するために全国の大学回って、説明会で声枯らして説明していた自分の仕事が、ジュニアの嫁探しの一環だったんだ、と知らされたこと。仕事に対するプライドも持てなくなりそうだし、「ン百万円の費用をかけて、ン十人採用しましょう」という予算の中に、「ジュニアの嫁」という隠れた要素があることを知ったことも大きい。この要素が無ければ、もっといい人材を採用できるかもしれないのに。堂々と「ジュニアが〇を付けた学生を3名採用すること」とかにしてくれ方が、まだやる気が出るかもしれない(冗談だが)。
今回の件を知って学生や大学担当者の顔をまともに見ることができなくなるのも辛い。この上で「女子大を中心に回れ」とか指示されたら、罪悪感でその日のうちに転職エージェントに連絡を取るかもしれん。
現在転職中、スキルはそんなにない。しかし若いからという理由でまだまだ転職はそんなには不利じゃないってのが所感ではある。
しかし転職エージェントさんよ、もっと正直に言ってくれてもいいんじゃないか?
俺は自分がそこまで実力も、転職市場価値もないってのはわかっているよ、自分でも。
しかしだからこそ、まずはきちんと第三者の目線から自分の価値を客観的に知りたいわけなんだよ。
ちょっと高望みしてみても、「その条件で探してみますね」じゃないんだよ!
「正直に言うと、結構条件的には厳しいですよ。
ここの会社に行きたいんだったら、今回は別の会社に転職決めて、そこで実績積んで、2〜3年後に改めてってのが一番確率高いと思いますよ。
それでも、出来る限り選考は通るようこっちもサポートさせてもらうけど」
くらいズバッと言ってほしい。
しかしこれは、自分がちゃんと自分の価値をわかっているからそう言ってほしいと思っているだけで、
自分の価値を高く見積もっている人にとっては、「は?なんだこのエージェント。わかってねえわ、うざ」
ってなるのかもしれない。
かくいう自分も、自分が想定しているレベルよりもっと下だよとズバッと言われたら素直に受け入れきれないかもしれない。
これは婚活でもそうなのなー
仕事がない仕事がない仕事がない。社内ニート。増田もtwitterもtogetterもにちゃんもできるけど。にちゃんはエロ広告が多すぎるから会社で開きづらい。
転職エージェントさんと話して、お昼休みにも諸先輩方とお話しして、ちょっと落ち着いた。しかし、転職しようという気持ちは余計に強くなった。
諸先輩方の話によると、上の人らは忙しいので、下々のことまで見ていられないらしい。マネジメントしてねぇ(白目)。マネージャーじゃなくて、うーん、ディレクターとか、そういうような役職名に変えたほうがいいと思う。というか、その諸先輩方も、上の人らがいない今週は、割と暇らしい。
なんで採用したんだ。いらんやん。いらんやん。馬鹿にしとるやろ。その忙しい仕事を割り振るために、部員がいて、みんなで協力してやっていくのではないのか。
変な会社に入ってしまった。失敗だ。転職って難しい。働いている人たちはみんないい人だし、環境としてはすごくいいんだけど、一番大事な【仕事】が【ない】んじゃ、仕方ないと思う。あんまりだ。
多分今の選択肢の中で一番財政出動志向だと思うからできるだけ長くやってほしいよ。
だって自民から次に来るの麻生だの石破だの財務省の犬ばっかだよ
周り緊縮派ばっかの中まだ頑張ってるほうだと思うんだよ。
共産党はどうだっていうけどあそこ金融緩和やめますっていうでしょ
全く仕事がなくってつまんない。
突発的にお手伝い的な業務や、新入社員研修で今までなんとかつないできたけど、本格的にやることないから、転職エージェントに再度連絡してしまった(笑)
あーあ。
自分のキャリアも変更していいと思える面接だったから、今までと違う分野にも飛び込んできたのになぁ。
事務仕事でも、お掃除でも、コピーでもお茶くみでも、何でもいいからやらせてもらえないかなぁ。
いや、周りの人たちは、毎日なんか仕事してるから、会社としては仕事があるんだけど。
やっぱり違う畑への転職なんて、しないほうがよかったのかなぁ。
後悔したくなかったんだけどなぁ。後悔し始めてるなぁ。
いらいらしすぎて、プライベートにも影響し始めたから相当やばい。
アメトーークとか見て、無理にでも笑わないと…。
経産省が発表したペーパー「不安な個人、立ちすくむ国家〜モデル無き時代をどう前向きに生き抜くか〜」( http://www.meti.go.jp/committee/summary/eic0009/pdf/020_02_00.pdf )において
「Aというのはもう現実的には無理で、Bとして社会を再構築するしか無い」という視点が提示されて、それに対して「まあそうやね」「やっとその視点が一般化したか」というようなコメントが多くつけられた。たぶんこの「Aはもう無理でBにいくしかない」ってことそのものは、大きな合意が得られたのだろうと思う……んだが、じゃあ「Aは無理ってどういうことか?」ってのが、実はちっともイメージされてないのだと感じる。
解雇規制緩和は正しいのか
「Aは無理」ってのはどういうことかというと、端的に言えば「正社員制度もう無理」って話だ。正社員制度ってのはいろんな側面があるんだけど、すくなくとも能力とは無関係な昇給制度とか終身雇用とかはもう無理。諦めて別の道探そうね、ということだ。にも関わらず、正社員になりたいってのは時代に逆行している。
時代からして、もう、労働者は全員経営者になるしか無いのだ。この経営者っていうのは、よくブラック企業が言うような「経営者視点を持て(そして経営者の苦悩を理解して唯々諾々と従え)」という意味のそれではなくて、労働者全員が「自らの労働(時間)」という自分自身の商品を手にもって、それを企業に売るなり自分で運用するなり、とにかく、自分自身の主として主体的に労働市場と関わっていかなければならないという意味だ。
何だそれ当たり前だろ。いままででもそうだっただろ? と言える人は幸いで、その種の人はもうすでにそのルールのゲームに移住しているのでショックは少ない。しかし、そうではないルールで生きてきたひともいる。そういう人も新しいルールに移行すべきだ。そのために解雇規制緩和が必要なのだ。
考えてみると、派遣社員というシステムは「Aはもう無理でBにいくしかない」という過渡期である現在に生まれた、おそらく一時的なシステムだ。
派遣社員というシステムは「主体的に動きたくはないが職を求めたい個人」と「解雇規制にはばまれて正規雇用を増やしたくない企業」の合作として現在活躍している。
Bの社会において、離職して職を求める個人がすべきなのは自分のスキルや時間を新しい企業に売り込むことであって(そして契約を結び一定期間、あるいはプロジェクト単位で仕事をすることであって)、「通うべき職場を指示してくれるご主人様を探す」ことではない。
Bの社会において、スキルをもった労働者を雇用したい企業がすべきなのは、適正な人材を見極めて(もしその能力に欠けるならエージェントを雇用してでも見極めて)適切な契約を結び労働してもらうことであって、「あたりが出るまで派遣ガチャで人材をとっかえひっかえする」ことではない。
もちろんこの話と、福祉は別にあってそれはそれで必要だ。この話は自己責任の話とかマッチョの話ではなくて、どちらかというと「誰もあなたの人生をあなたの代わりに生きることはできない」という話に近い。日本の終身雇用は、長い間、人生の丸投げに近かった。その黄昏が来ただけの話だと思う。
IngressはEnlightenedとResistanceの双方が成り立って成立するゲームである。従って、片方が潰れた時点で終了する。
おめでとう。EnlightenedはResistanceに勝ったのだ。
現行のResistanceはBluePlanetJPが仕切っている。
Tokyo Anomalyの敗北の原因となった連中である。Tokyo Anomalyは負けるべくして負けている。
Tokyo AnomalyでのBluePlanetJPの作戦はたったこれだけである。
ResWue https://ops.irde.net/iitc/reswue.user.js
poponta http://ik1-317-18986.vs.sakura.ne.jp/iitc-plugin/poponta.user.js
ResWueはオペレーターがフィールダーにどこどこに行けと指示するツールである。レスラーという隠語で呼ばれている。
あとは免疫情報を登録するデータベースがあったらしいが、これは開始10分でサーバーが落ちている。
オペレータがpopontaを用いて免疫情報を取得する。その情報を免疫情報データベースに登録する。
それらの情報を基に本部から指示がResWueを通じてフィールダーに送られる。
これ以外は全て現地の裁量とされた。
免疫情報データベースは開始10分でダウンし、ResWueも開始1時間後に2時間にわたってダウン。
このダウンに対し、本部はResWueのミラーサーバーを探る作業をし、フィールダー対応を一切しなかった。
つまりフィールダーは一切の情報なしでAnomalyを戦っていたのだ。
ResWueはミラーサーバーの利用はすぐには出来ない。このことを本部は知らずに2時間もの間、数千ものエージェントをほったらかしにしていたのである。
この様な事態があり、BluePlanetJPはAnomalyから外れることとなった。
だが現在BluePlanetJPが仕切っている。Setouchi Anomalyで大敗北を喫したからだ。
Setouchi Anomalyは西日本方面のResistance集団が仕切っていた。
誰がこんなとんでもない作戦を考え採用したのか全く意味不明だが、Setouchi Anomaly本部資料に堂々と書いてある。
結果、高松に絞っても得点率はEnlightenedが上回るという結果に終わった。
やっぱ俺たちがいなきゃだめだなと言わんばかりにこのタイミングでBluePlanetJPが入り込んでいることを確認している。
現行のResistance本部はおおよそ50名が所属していると聞く。
Global Shardの対応を行ったのも彼らだ。結果は書くまでもない。惨めの一言。
本部の中は誰なのかというと、Global ShardのResistanceポスターを数時間内に共有していた連中で確定だろう。
Tokyo Anomalyで指揮をとった連中も含まれている。
現行のResistance本部は誰にも意思決定権がない。全員が持たない。
最初に持ち上がった案がそのまま適当に出力される。中身がない。
だから外部からの意見が入ることはない。ただただ上から物事を言うだけ。
これで勝てるわけがない。
BluePlanetJPといえば情報漏えいが一番目立つ問題だった。
Anomalyの作戦内容がだだ漏れなのである。ResWueの情報すら明らかに盗まれている。
おそらくGlobal Shardも漏れていたに違いない。
そして今後全てのイベントにおいて作戦内容が漏えいすることは確定だろう。
BluePlanetJP SlackにEnlightenedがいたように、本部ハングアウトにEnlightenedがいると考えていいのではないか。
こんな状態で誰がResistanceに協力しようと思うのか。
しかし現在のIngressにおいて地元での弾の撃ち合いは塵活動扱いである。
現状、Resistanceは中規模作戦を実行する人材にすら逃げられている。
作戦をしては失敗、成功してもしこりが残る。何も出来ない。数群れて辛うじて地元を守っている状態。
挙げ句の果てとうとう利用規約違反行為を推奨しているIR※※が出現している。
Resistanceは潰れてしまったのだ。本部という自慰集団によって。
これにより2陣営による戦いが不成立となり、Enlightenedの勝利と冒頭で表現した。
実際今後のイベントは全てEnlightenedの勝利で終わるだろう。
それともNIAのお膳立てでResistance勝利イベントが出現するのだろうか。いつぞかのイベントのように。
専攻は電気電子。抵抗とコンデンサと格闘する毎日を過ごしていました。夜遅くまで結果が出ずイラつくこともあるがなかなか楽しかった。
奨学金を受けた当時(18歳)では、就職すれば返せると判断していた。就職できないという未来を想定していなかったんですね。
奨学金の心配もあるので、かなり早めに就職活動を始めました。内定を1つも持たないことには将来設計がたたないと思ったからです。
当時は大手とか、大手の子会社あたりを受けてました。似た研究していた先輩が入っていたこともあり、ワンチャンあると思ってました。
しかしながら上手くいかず。面接の練習も沢山しましたし、キャリアセンターや外部のエージェントと協力してもらいながら就活してましたけどダメでした。
エントリー社数をどんどん増やして、もう高卒でできる仕事にも応募出しまくりました。
この頃は朝6時には起きて、朝9時から夕方5時まで就活、夜帰ってきてから大学院で研究。夜11時ごろに実験を終えて、その後エントリーシートを書き深夜2時に寝る。という生活をしていました。思えば精神に来ていました。
何しろ計1000万の借金があるため、毎日気が気ではない。新卒に失敗すれば、日雇いバイトで返済する他ない。贅沢は許されず子も作らず、人生の希望が持てない状態になります。
となれば、就活に失敗イコール自殺に結びつきます。こんな人生は生きてて楽しくないと。より強迫観念を感じるようになるわけです。
こう来ると、お祈りを1通受け取ること、時間が経過することが絞首台への階段を登ることのように感じられるわけです。
面接官が、自分の死の引き金を持つ殺し屋のように見えてくる次第です。
そんな状態で何も成功するはずもなく。60社ほどですかね、全部ダメでした。客観的に見ても覇気が失われてきます。
キャリアセンターとかの人から見放されてきているような気すらしてきます。
そんな状態でも、研究は止められないです。止めたら留年ですから。1000万の借金がのしかかる。
でも、うまくいかないんですよね。
大学四年。
一年の時に環境の変化について行けず引きこもって殆ど単位が取れず。
二年三年で何とか挽回してなんとか今年度でギリギリ卒業出来そう。
とは言え単位習得と就活の両立は無理ゲー過ぎるのでまともな就活が出来ないが、就活エージェントを使ってなんとかやっている。
しかし、単位がギリギリ過ぎて卒業見込証明書が発行されない。あと2単位必要らしい。
確かに単位はカツカツだ。今年度フル単でも卒業要件+2単位でしかない。しかし資格課程での単位を足せば14単位は余る。卒業出来る見込みは十分ある。
だが、規定で卒業見込証明書を発行してもらえない。これではただでさえまともに進められない就活が完全に終わってしまう。
そんなに裕福な家ではないけれど大学にいかせてもらった。下宿もさせてもらった。かなりの金額が自分に投資されている。それなのに自分に待っているのは学歴不問の高卒でも入れる会社か、フリーター。
もうどうすればいいかわからない。とにかく親に申し訳ない。人生ってこんな感じで終わるんだなっていうのを実感している。どうすればいいかわからない。もう嫌だ。
戦後は飢餓状態になり、区を通じて米軍支給品のコンビーフなどを配給した。“犬と同じ餌付けだ”と感じたが、食べなければ死んでしまうからみんな列をつくって並んだ。アメリカは日本人など虫けらぐらいにしか思っていないのに、日本の偉い連中はアメリカのために死ねという法案を通す。私たちには今も怨念がある。どんどん暴いてくれ。銀座のど真ん中でやってほしい」と訴えていた。
C 原爆投下後の広島、長崎に匹敵するような悲惨さだった。米軍は春風の強く吹く3月という時期、民家を効率よく焼き払うための油脂焼夷弾の開発、空襲の手順も含めて用意周到に準備し、一般市民の民家が密集する下町地域をとり囲むように爆弾を投下している。火の壁で逃げ場をふさいで集中砲火を浴びせ、火の海を逃げ惑う人人に機銃掃射までやっている。
「機銃掃射で狙い撃ちしてくるパイロットが笑っていた顔が忘れられない」と何人もの人が語っていた。黒焦げの死体だけでなく、窒息死してピンク色をした遺体が蝋人形のように散乱し、それらが公園や学校などで山積みにされて焼かれたという。墨田区錦糸町では、錦糸公園で約1万4000体が焼かれて仮埋葬されたというが、それを伝える看板一つない。あまりの多さで処理できない遺体は何日もかけて川や海に捨てられていたという。
隅田川にかかる橋の欄干や、総武線のガード下などには今でも積み重なって焼き殺された人間の油がそのままの形で染みついて、何度ペンキを塗っても浮き出てくるのだと語られていた。5月の品川での空襲でも「真夜中にガソリンを撒いて焼夷弾をばらまいた」といわれていたが、「あれが戦争犯罪でなくてなんなのか!」と、7、80代の年配者が語っていた。とても昔話という雰囲気ではない。本当に語る場所がなかったからこその鬱積した思いがある。公園などに仮埋葬された11万体といわれる遺骨は、関東大震災の慰霊堂(墨田区横網)に一緒に入れられている。
東京空襲を弔う単独の慰霊施設はいまだにない。なぜそんなことになっているのかだ。
D 大空襲で壊滅した江東区森下5丁目町会では今年3月、町内の空襲犠牲者789人の名前を刻んだ墓誌を建立した。町会役員によれば、当時の町会長が戦後すぐに空襲による町内の犠牲者を調べ、焼失を免れた戦時国債購入者名簿を頼りに『戦災死没者過去帳』という約10㍍にもなる巻物をつくって保管していたから建立できたという。遺族の「この地域に住んでいた人人の証となる供養の場所がほしい」という願いが70年をへてやっと実現した。
E 墓誌をつくるための調査で、1家12人が全滅した家もあったことなど、地元の人も初めて知る事実が明らかになっているが、都にも当時の犠牲者名簿などの資料があるにも関わらず遺族が申請しても公開されないのだといわれていた。
地蔵や碑の建立についても「宗教的なものは受け付けない」とかの理由で許可は下りず、「黙認する」程度だという。行政から助成も受けられないため、発起人を中心に町内外に呼びかけたら、続続と寄付が寄せられてつくることができたといっていた。
終戦直後にも数千人が空襲で亡くなった墨田区の菊川橋のたもとに慰霊碑を建てようとしたが、区役所から拒否されている。河畔を改装するたびに白骨がたくさん出てきたので「これ以上放っておくわけにはいかない」と住民が独自に地蔵を建立して毎年法要している。
D ある遺族から、1947(昭和22)年に東京都長官官房渉外部長から通達された行政文書のコピーを見せてもらった。当時、遺族によって計画された隅田公園への戦災慰霊塔の建設計画に対して、官房各課長、支所長や局長、区長など都の行政担当者に宛てた通達だ。
「一、日本国民に戦争を忘れさせたいのである。二、戦災慰霊塔を見て再び戦争を思い出させることがあってはならない。だから慰霊塔の建立は許可しない」と米占領軍の指導方針が明記され、これに協力するため「この方針を徹底的に守るようにしなさい」と記されている。
70年たっていながらこの占領下のプレスコードがいまだに続いていることに驚いた。
A 25万人もの都民を殺戮しながら意図的に攻撃対象から外したものもある。ここからアメリカの東京空襲の狙いが見てとれる。
C 代表格は皇居だ。東京のど真ん中に広大な面積を持つ皇居について、米軍ははじめから「攻撃対象にしない」という指令を徹底していたし、天皇側もそれを知っていた。皇居北側の近衛師団司令部、東部軍司令部などの軍中枢部や、市ヶ谷の陸軍省・参謀本部(現・防衛省)など、本来狙われるべき軍中枢が無傷だった。赤坂離宮(現・迎賓館)、青山御所、新宿御苑、浜離宮、上野公園などの皇室所有地や、官僚機構の一端を担っていた皇族住居はことごとく攻撃の対象外だ。
東京駅は焼失したが、皇居に挟まれた丸の内の金融ビル街も残った。三菱本社、三菱銀行、三菱商事、日本興業銀行、横浜正金銀行、東京銀行、第一銀行、勧業銀行、関東配電(東京電力)などの財閥のビルが林立している。朝日、毎日などの新聞各社、放送会館(NHK)も残った。八重洲では日銀、三井本館。永田町や霞ヶ関でも、内閣府、国会議事堂、警視庁、内務省、大蔵省などが残された。ちなみに上野公園に隣接する三菱財閥統帥の岩崎久弥邸も攻撃を受けていない。広島、長崎、下関空襲でも三菱の主要工場は無傷であり、政財界とアメリカの盟友関係を裏付けている。
軍施設がほとんど残されているのが特徴で、陸軍の心臓部といえる赤羽の陸軍造兵廠、陸軍火薬庫、工兵大隊、陸軍被服本廠、兵器支廠、東京第一、第二兵器補給廠も周囲が焦土になるなかでわざわざ残されている。代々木の近衛輜重大隊、陸軍輜重連隊官舎、広大な駒場練兵場や野砲隊の官舎群もみな無傷だ。
E 工業施設でも、東芝本社のある芝浦工業団地から品川駅付近の港湾施設も攻撃されなかった。全滅した深川区に隣接する石川島造船所、佃島、月島など東京湾に面した工業施設、南部工業地帯の蒲田でも中心市街地が徹底的に焼き尽くされたが、羽田飛行場などの軍需施設はほとんど攻撃されていない。「米軍作戦任務報告書」に記された工業的目標はわずか22カ所に過ぎないが、そのうち破壊したのは18%だと記されている。実は無差別爆撃ではない。絨毯爆撃ではあるが、アメリカの対日支配に役立つものは残し、その邪魔になる庶民は殺すと極めて明確に選別している。
B 「暗闇のなかであれほど緻密な爆撃がどうしてできたのか?」という疑問も多く語られていた。「目標から外す目印のために誰かが下から光を当てていた」と証言する人もいた。原爆投下と同じく「戦争を終わらせるためにやむをえぬ」というものではなく、日本を単独占領するために国民の抵抗力を摘むための大量殺戮だった。
米軍の皆殺し作戦 殺すに任せた支配機構
A 東京空襲にも不可解な点がいくつもある。例えば、空襲直前に警戒警報を解除している。広島、長崎での原爆投下も直前になって警戒警報を解除し、みんなが安心して表に出てきたときに投下されている。あれは軍中枢が協力しなければできないことだ。300機をこえるB29の接近に気づかないわけがないが、物量で太刀打ちできないとはいえ、まともな反撃すらせずに米軍のやりたい放題を開けて通している。
F 広島、長崎への原爆投下でも、軍はB29に対してレーダー照射をして来襲を事前につかんでいた。大本営は原爆投下機の接近を信号を受信して知っていた。長崎では、B29を迎撃する部隊が大村航空隊で待機して出撃命令を待っていたが、結局、命令は下りなかった。NHKも当時のパイロットが怒って証言する場面を放映していた。
A 終戦末期になると特高警察がマークしたのは青年将校だった。敗戦が濃厚になるなかでこれらが反乱を起こすことを恐れた。左翼は早くに壊滅しているが、青年将校らは戦斗経験もあり、速やかにアメリカの占領下に誘導しようとしていた軍上層部にとっては脅威だった。敗戦が決定的になっても国民には「一億総玉砕」を叫んで、若者には特攻作戦をやらせ、本土を死守させる体制をとりながら、上層部が終戦工作にいそしむことに彼らの反発はすごかった。
天皇の「終戦の詔勅」の放送を前に、陸軍の青年将校が近衛師団長を殺害し、録音盤を奪おうとした事件もそうだが、マッカーサーが厚木に降り立つときにも迎え撃つという騒動があり、青年将校に影響力をもつ高松宮が必死になって抑えて回ったというのは有名な話だ。
B 敗戦直後、内地では軍を通じて直ちに武装解除させた。あれは天皇の命令だけでは動かない。軍司令部の指揮系統が動かなければできない。それを米軍上陸前にやらせるためには軍中枢を残しておかなければいけない。もともと海軍をはじめ軍中枢部分には親米派が多かった。陸軍も中国大陸で行き詰まって南進作戦に切り替え、南方の島島に兵隊を放り込んで食料も弾薬も送らない。ニューギニア戦線の体験者も「毎日イモばっかりつくっていた」という。南方はほとんどが餓死と病死だ。
D 敗戦を迎えるにあたって、あのドサクサのなかで米軍上陸、単独占領に誰が荷担したのか。東京大空襲で無傷だった施設を見ただけでも歴然としている。戦後は「財閥解体」といったが、財閥はしっかりと温存された。戦争に国民を投げ込んだ天皇はじめ、官僚機構も丸ごと温存された。開戦時の商工大臣をしていた岸信介が、その後CIAのエージェントとして力を与えられたのが象徴的だが、政界、官僚世界などが叩きつぶされることもなく、対日占領の協力者としてせっせとアメリカに媚びて戦後も機能していった。メディアでも大本営の中枢にいた読売新聞の正力松太郎や朝日新聞の緒方竹虎などがCIAのエージェントとして活躍する始末だ。
イラクでもアフガンでも、他国を占領しようと思えば必ず抵抗があるし、何年かかってでも肉弾戦で侵略者を叩き出そうとするものだ。日本の場合、なぜ無抵抗に近い形で単独占領することができたのか。それは支配機構が丸ごと占領の協力者になり、国を売り飛ばしたからだ。支配機構が軍事支配を受けながらアメリカの道具になって戦後は機能していった。それが今日まで続いている。
E 空襲で生き残った下町の人たちは、戦後は食べ物がなくて生活できないのでみんな市外に出て行ったという。国民を抵抗できないようにバラバラにさせている。抵抗力を削ぐために徹底的に空襲を加えたし、首都圏の人人はとにかくその日を生きるのが精一杯の状況になった。首都圏制圧のためにあれほどの空襲をやって、まさにショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)で占領していった。
C 食料を意図的に統制したので、戦後の方が食料難がひどかった。当時の調達係の人が証言していたが、米軍が国内の食料倉庫を統制して食料危機に追い込んだ。米軍は関門海峡などの機雷封鎖も「スターべーション(飢餓作戦)」と名付けていた。国内から戦地へ食料を送らせない、大陸から送られてくる食料を遮断するための飢餓作戦だった。
都市部はとにかく食べるものがない。配給でもらった大豆をポケットに入れて、それを食べて水を飲んで膨らませて空腹をしのいでいたという。飢え死にが出るような飢餓状態に追い込んでおいて、ララ物資などのアメリカからの、それこそ家畜の餌になる食料が入れられた。そんな屈辱に国会で感謝決議したこともあった。
E 戦後の上野や浅草には、空襲で親を失った戦災孤児や浮浪者があふれかえり、餓死寸前の子どもたちは生きるために窃盗や売春をせざるを得なかった。GHQは「治安対策」を名目にして浮浪児を見つけ次第捕らえる「狩り込み」をやり、米軍の要請によって、脱走ができない水上の台場につくられた収容施設に強制的に送致し、檻(おり)に入れて監視・収容することまでやった。
B すでに武装解除しているのに進駐軍は必ず銃を携行して、電車も絶対に米兵専用車両に乗るし、接収した建物も日本人は立ち入り禁止にした。「彼らは日本人の反撃を恐れていた」と語られていた。
A 例えば、日本軍が満州を占領統治するのに100万人の軍隊がいったといわれる。日本を占領するには本来100万では足りない。それを日本の支配階級が従って代理政治をすることで米軍の負担を軽くできた。イラクやシリアを見ても、むき出しの占領支配になれば人民の抵抗を抑えることは難しい。それを天皇以下支配階級が全面的に協力し、それによって地位を守るという関係があったから占領できたということだ。
F 同じ敗戦国でも、ドイツではナチス関係者は戦後はみんな追放された。新聞社などもみな解散させられた。連合国による全面講和を結び一国に縛られなかったから、独立の自由性がある。アメリカが単独占領した日本との違いだ。
90年代の米ソ二極構造が終わったときもドイツは独立の方に行き、日本は対米隷属の方に行くので、ドイツ首相から「慌てるな」となだめられたほどだ。その従属路線が現在までエスカレートして、安保法制まできている。
A 現在でも官僚機構も含めて各省庁ごとにアメリカ直結だ。財務省も経産省も防衛省もだ。政策についてもアメリカ大使館の指示の方が強い。
米財務長官サマーズが何度も日本の財務省に直接怒鳴り込んできたし、原発事故のときもアメリカ政府関係者が首相官邸に乗り込んでいって菅直人を怒鳴りつけて指示を出す。アメリカの圧力なしに、民主党の鳩山、菅から野田までの変遷ぶりというのは理解ができない。現在の安倍の突っ走りにいたるまで対米従属の系譜だ。
財閥やメディアも米軍占領下で地位守る
C 原爆展キャラバンのなかで、戦時中に赤坂見附に住んでいて親族がアメリカ大使館に出入りしていたという婦人が、「アメリカ大使館の外側は私服警察の警備で物物しかったが、中にいる在日米国人は戦時中にもかかわらず中庭でゴルフをしていたり、まるで勝ち戦の後のような余裕ある生活をしていた」と疑問を語っていた。
F 当時の駐日大使ジョセフ・グルーがアメリカ本国に帰国するのは真珠湾攻撃の半年後だった。グルーは日本では天皇を中心とする「宮廷外交」を基本にし、軍部の反米派と対立傾向にあった天皇側近の木戸幸一、重光葵、吉田茂、近衛文麿などを「自由主義者・穏健派」と見なして親交を深めていた。開戦後の半年間で終戦までのプログラムをつくる工作をやっていた。
グルーは秩父宮に「安心しろ」といって帰国したが、アメリカ本国では「皇居は攻撃してはならない」、天皇は「軍国主義崇拝に役立ったと同様に象徴として役立つ」と説いて回り、吉田茂とも直接手紙をやりとりしていた。
のちの駐日大使ライシャワーは当時諜報部員だったが、この方向で「天皇を傀儡にして間接統治する」という占領プログラムをつくった。そこでは、戦争中も「短波放送の聴取が許される500人ぐらいの日本のエリートに常に知的な情報を粘り強く伝達せよ」と米陸軍に提案している。実際、1945年5月から「ザカリアス放送」という日本の上層のごく限られた者しか聞くことができない短波の日本向け放送をやり、いつどこを空襲するとか、広島、長崎への原爆投下をいつやるかも全て伝達していた。
これら米軍からの情報を集中しながら六月段階で、米軍の攻撃を全部開けて通して、「アメリカに敗北することで自分たちの地位は保証されることが約束されている」と側近の木戸幸一が天皇に提言している。
A 2月には、アメリカから情報を得ていた吉田茂が近衛文麿に天皇上奏文を書かせた。「米英は国体(天皇制)の変更までは要求していない。最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴っておこる共産革命だ」というものだ。彼らの関心は戦争の勝敗などではなく、いかに国民を押さえつけてアメリカの占領下で地位を守ってもらうかだった。そのためなら原爆を落とされることも甘受するし、東京を焼き払って人民大衆をへとへとに疲れさせることはむしろ好都合という関係だった。
F 財界も最初から通じていた。三菱財閥統帥の岩崎小弥太は、開戦にあたっては「アメリカとは友人だから心配するな」と訓示し、敗戦時は「これから愉快に仕事ができる」と発言している。また、戦争末期には、日本商工会議所会頭の藤山愛一郎、日産コンツェルンの鮎川義介、浅野財閥の浅野良三などの財界代表が内閣の顧問会議を形成していた。藤山によれば、終戦6日前の閣議でアメリカとの経済関係をただちに回復させる計画を発表し、「自分たちの時代がやってきた」と喜び、軽井沢の別荘でシャンパンのコルクを抜き、新時代到来を祝して乾杯したという。はじめからアメリカは自分たちを大事に扱うことを確信していた。グルー自身が三菱とつながりの深いモルガン財閥の代理人で、戦前から投資していた権益、金融資産を含めてどう守るかというのが主任務だった。日本の財界人との関係ではアメリカ留学組が多く、鮎川とフォード、浅野とルーズベルトなど、人脈もできあがっていた。
A 天皇をはじめとする支配中枢も財界も、中国への侵略戦争で行き詰まり、負けることはわかりきっているが、中国に負けることになれば日本における支配的地位が失われる。だから日米開戦に突っ込んでいき、アメリカに降伏することで地位を守ってもらう。そのためには国民を犠牲にしなければいけないという意図が貫かれている。
C 東京はすべての政治勢力の本部があるところだが、東京空襲の慰霊碑問題をみても、都民の切実な要求をすくい上げるところがなかった。そこには、第一に米軍による抑圧、宣伝がある。いかにもアメリカが平和と民主主義の味方であり、日本を解放するための戦争をやり、原爆も空襲も戦争を終結させるためにはやむをえなかったかのように徹底的に宣伝したし、戦前以上の言論統制と弾圧をやり、反米につながる原爆や東京空襲についての言論を封殺した。
もう一つは、人民の側に立つべき共産党の指導部が「アメリカは解放軍」と規定して、旧軍部を批判するが、原爆にしても東京空襲にしてもアメリカの犯罪を問わずに来たことが大きい。都民はアメリカと共産党指導部の両方から抑圧され、ものがいえなくなる関係だ。
B 大衆のなかでは東京空襲への鬱積した怒りがあるが、東京で生まれた戦後世代でもほとんどその全貌を知らずにきた。そこでは革新勢力が進歩的な装いで「日本軍が重慶を先に空襲したから、それを反省すべきだ」「日本がひき起こした戦争だから仕方がない」という論調をふりまいてきたことが大きい。原爆投下を「日本の軍部から解放するために必要だった」というのと共通している。
F 共産党は戦前、天皇制の弾圧もあるが、大衆と結びつけず自然消滅をたどった。そのことの反省もなく「獄中18年」を威張り、アメリカを解放してくれた友と見なす一方で、庶民を戦争に協力したと蔑視してきた。特攻隊経験者や戦地に駆り出された者も、「予科練崩れ」「戦争加害者」などといって攻撃し、敵と友を転倒させてしまった。
徳田球一ら指導部中枢は、米軍に釈放されてすぐの人民大会でGHQまでデモ行進し、「解放軍万歳」を3唱した。「民主主義革命の端緒を開いた」といってマッカーサーに感謝し、GHQに入り浸り反米の情報を提供していた。東京空襲も原爆についてもそのような感謝が根底にあるから、正面から批判させない。知識人のなかでも対米従属問題についてなかなか触れることができないということも独特の抑圧構図を象徴している。
A アメリカがプレスコードをかけて行政機構が協力したし、東京空襲についても語らせなかった。そして共産党はあれほどひどい目にあった都民のことを無視して、アメリカを平和と民主主義の友と見なした。敵と友を転倒させて、むしろ大衆を敵扱いしていった。だからいまもって東京空襲について無関心できている。都民の苦労というものにまったく思いがなかったということだ。
C アメリカ民主主義がよかったというが、70年たってみてどうか。日本の富はみな吸い上げられて散散な状況になっている。遠慮知らずのアメリカが、終いには米軍の身代わりで自衛隊を戦地に引っ張り出すところまできた。それで安倍晋三がせっせと協力している。売国政治の根っこは何もかわっていない。左翼の戦後出発について先ほども触れていたが、都民の苦難に足場を置かずに抽象的な全国政治か何かを主張しても話にならない。大衆的というのは地方的で具体的だ。そこに足場を置かなければ全国の普遍性は見えない。東京にはあれだけ政党の本部があって、学者も日本一いながら東京大空襲の惨劇について怒りをもってアメリカを糾弾する勢力がいない。
A 東京大空襲の経験は語れないできた。意図的に抹殺されて、慰霊碑も何もない。これは原爆を投下された広島と比べたら明確な違いがある。広島には平和公園も資料館も供養塔もある。八月六日になるとみなが早朝からお参りに足を運んでいる。十数万人の命日だからだ。そして町のいたるところに町内会、学校、職場などいろんな単位の慰霊碑がある。何が違うのかだ。広島はたたかってきたからだ。戦後は広島でもプレスコードがかかっていて原爆のことを語らせない力が働いていた。「終戦のためにやむを得ぬ手段だった」というので原爆投下への怒りをかき消し、徹底的にとり締まっていた。
しかし当時、風呂屋に行くとみながケロイドを見せながら延延と語っていたという。それを当時の広島では「アメリカの人類に対する犯罪だ!」と真っ向から暴露して斗争がはじまった。占領下の50年8月6日の斗争が端緒を切り開いた。そして5年後には世界大会まで発展した。
この運動を指導したのが福田正義主幹(本紙)をはじめとした共産党中国地方委員会だったが、当時も東京の共産党中枢が「アメリカ解放軍」規定で中国地方におけるたたかいを弾圧していた。これと同じ構造が東京では現在でも生きている。日本人民の苦難の側から敵を暴露するのでなく、友と見なす。戦後出発に大きな違いがあった。
分かれ道は敵は誰か、友は誰かが鮮明でないといけない。あれほど殺されているのにアメリカ民主主義のインチキに幻想をもったら大変なことだ。アメリカが日本を侵略した敵だ。日本人民は戦中も戦後も大変な目にあってきた。人民の敵に対する憎しみと人民への愛情が統一されていないといけない。その人民を代表して敵を暴露する立場でないといけない。東京でもそれが問われている。
A 東京をはじめ首都圏は、沖縄に次いで米軍基地が多い。東京都だけでも総面積は約1603㌶(東京ドーム約340個分の広さ)に及ぶ。空襲で攻撃対象から外された軍事施設は、ほぼ例外なく米軍基地や自衛隊施設へ変わった。横田基地は在日米軍司令部であり、すべての在日米軍と自衛隊を統括する指揮所だ。神奈川県には、原子力空母を擁する米海軍第七艦隊の拠点である横須賀基地が盤踞し、在日米陸軍司令部、第一軍団前方司令部など米陸軍司令塔であるキャンプ座間をはじめ、爆発事故をおこした相模総合補給廠、通信施設、燃料貯蔵施設、住宅地、演習場などがひしめいている。
とくに横田基地は3350㍍の巨大滑走路を持ち、米軍人数は約3400人、国防総省文官200人、米軍家族含め約1万4000人もおり、米軍のアジア戦略における最重要拠点だ。その影響力から「横田幕府」とさえいわれる。米本土やハワイ、グアムなどから運んできた兵器や軍事物資を相模総合補給廠に備蓄し、戦時になると横浜ノースドックから搬出し、横田基地から空輸する体制で、西太平洋・東アジアを管轄する兵站補給基地だ。
東京都港区の六本木ヒルズがある都心にも赤坂プレスセンターといわれる米軍基地がある。その中身は、陸軍研究事務所、海軍アジア室、米軍の機関紙「星条旗新聞社」、保全連絡分遣隊、座間基地第78航空隊、独身将校宿舎、麻布米軍ヘリ基地だ。横田基地を経由して日本に侵入する基点として提供され、入国審査や税関などの規制は一切なく、ここから入国する人物については情報公開義務がない。地図上でも「白地」にするほどの機密扱いだ。
そのほかにも府中、由木、大和田、硫黄島の通信施設、日米合同委員会をおこなうニューサンノー米軍センター(港区)、米軍家族専用の娯楽施設である多摩サービス補助施設がある。敗戦直後208カ所あった米軍施設は住民の頑強なたたかいで「返還」されたが、実質どの施設もいつでも使える体制にある。朝鮮戦争の出撃基地となった立川飛行場は基地拡張が砂川斗争で頓挫し「返還」されたが航空自衛隊基地は米軍との共同使用であり、広大な国営公園、広域防災基地、道路、運動場として当時の施設はそっくりそのまま残されている。
地元でも「道路はいつでも滑走路に転用できるように周辺には高い建物や民家の建築規制がある。ひとたび戦争になれば街全体が一気に軍事基地に様変わりする」といわれていた。
B さらに首都圏の上空には、「横田ラプコン」と呼ばれる1都8県(東京都、栃木県、群馬県、埼玉県、神奈川県、新潟県、山梨県、長野県、静岡県)にまたがる、広大な米軍専用空域がある。この空域の高度約7000㍍以下には米軍の許可なしには日本の民間機はいっさい進入できない。
羽田空港や成田空港を離着陸する航空機は、通常の離陸はできないため急激に高く上昇してラプコンを飛び越えるか、大回りしなければならない。それが離着陸時の事故、ニアミス事故の頻発につながっている。首都上空を飛行するのに米軍の許可が必要な国など他にはない。
A 沖縄が前線基地なのに対して、司令部が集中しているのが首都圏だ。日本の支配中枢を軍事で抑えつけることで日本全国を占領下に置く。その目的のために、大空襲であれほど殺し、戦後も軍事力を配置しているのだ。沖縄の問題はよそ事ではない。真珠湾でもフィリピンでも、ベトナム戦争でも、いったん攻撃をさせて「報復」を掲げて参戦するのがアメリカのやり方であり、司令部が集中する東京こそミサイルの標的にされる可能性は高い。
B 本所の東京空襲体験者の男性が、「アメリカが問題なのははっきりしているが、どの政治家や政党がこれとたたかえるのか! 結局、自分の地位を守るために裏切る政治屋ばっかりだ」と吐き捨てるようにいっていた。空襲後に軍隊に志願入隊して整備士として厚木飛行場に配置されたが、地下壕を掘らされるばかりでその地下施設を今は米軍が使っている。「戦後は焼け跡から町工場を営んできたが、TPPに参入すればこの仕事が奪われていく。全部アメリカのためだ。そういうことをもっと暴いてくれ」と切実に語っていた。昔から自民党の支持基盤であってもみんな上を信じていないし、内に秘めた思いは少少ではない。
F 東京大空襲は広島、長崎、沖縄に匹敵する大量殺戮だった。その真実をおおいに語り継がなければいけないし、それは日本を再びアメリカの戦争に引きずり込むことを許さない全国的な世論を発展させていく大きな力になる。そのためには、私心なく大衆のなかから意見を集中し、それを代表して導いていく政治勢力が必要だ。そこでは、自己主張ではなく、大衆的であると同時に敵を鮮明にして人民に奉仕する思想でやり抜くかどうかが問われる。
司会 今回の安保法制まできて、対米従属構造こそ日本の平和を脅かす根幹であり、これとの対決なしには再び日本は戦場にされる
特にやりたいことはない。けど興味のある分野はあるのでそれに関係あるキーワードで転職サイトを検索したりエージェントに伝えたりしている。こんなんだから「これなら…!」という求人はない
なぜ働くのが苦しいのか?
仕事内容に興味がない、どうでもいい。
転じてやりがいを見つけられない。
などなど…
いっそ会社がつぶれた方が転職活動の時間もとれていいのに。ありがたいことに業績はv字回復、グループ会社は好調。結構なことで。
でも別に転職したからってこれらが解決されるものだろうか。よしんば解決しても自分は何か他の理由を見つけるのでは?という疑問が浮かぶ。働くのが嫌いなんだ。皆そうか。本当に?
自分にも大学の仲間のように何か強烈な目的意識があれば違ったのだろうか
「医者になりたい」「教師になりたい」「イギリスで暮らしたい」「ピアノの先生になりたい」「新聞記者になりたい」「放射線技士になりたい」「学者になりたい」「起業して金持ちになりたい」などなど…
皆自慢の仲間たちだが羨んでしまう。妬んでしまう。お門違いなんだけども。
「じゃあお前は何がしたい?何が好きだ?欲しいものは?」
「特にしたいことはない。好きなものは急には思い付かない。強いて言うなら家にいるのが好きだ。長い時間部屋で何もせず座っていたい。欲しいものは自分の時間」
初めての転職活動をしていて、書類選考→面接→最終面接位まではなんとなくいくんだけど、結局、志望動機がみえない・うちでやりたいことがみえないと言われて落ちてしまう。
確かに、どうしてもこの会社!っていう理由や意気込みが足りないと自分でも思う。面接対策の時点でもモヤるし(ひとりでやってもエージェントに相談してもそう)、終えてからも「突っ込まれたところに答えきれなかったな」と振り返ることが多い。
現職が世間一般からみるとまずまず安定した会社にいるということもあって、辞めてまでなぜうちに、と言われたのは割とショックだった。辞めた後なら分かるけど、と言われても、そんな不安定な転職活動、このご時世でできないよ…。
(実際はすぐ潰れたりしないにしても先細りの業界だし、実際ボーナス減るしあるはずの昇給も無かったし残業もつかないしで、これからの生活が不安でこうして行動にうつっている訳なのだが、悪口ばかりも言えないし)
動機云々は企業研究とかが足りないのだろうけど、正直なところ、転職活動するにあたって譲れないのが勤務地と年収(初年度はともかく、今より落ちなければ良い)で、業界も職種も内容はなんでもいいというか、何でもできるとは思うけど何が向いてるかも分からなくて、絞りきれないんだよね。
そんな中でどうにか「ここなら」と思った企業にそう言われるのも、本当に当然だと自分でも思う。ですよねーって思う。
楽しそうだから、やってみたかったから、そんな志望動機で就活していいと思う。
もっといえば自分はこんなスキルを身に着けたいから、とかそんなんでいいと思う。
よくこういった志望動機ではダメだ!というエージェントや風潮が世の中にはびこっているがなんでだろう。
やめない人材を取るために、御社のここが魅力的で〜、これこれこーがどうのこうので〜と言わせている説
採用にも費用がかかり、人材育成にも費用がかかり、そういったことを考慮するとなるべくやめない人をとっていきたい。
やめない人材とはこの企業に魅力を感じている人。そういった人をとろう。
ぶっちゃけ「XXX(企業名) 志望動機」がサジェストに出てくる時点で意味が無いとおもう。
みんな「楽しそうだから」「スキル手に入れたいから」「給料よさげだから」「大手の安定感」という本音を隠すために適当に思ってもないことをいいまくるからだ。
志望動機を作り出す過程で学生に企業についてもっと知ってもらいたい、という考えもあるんだろうけど、
そんなのに時間をとられる就活生側としては、企業くんも広報もっとしっかりすりゃえーじゃん。甘えてんなksという気分になる
仕事内容が具体的に明示されてないのに、な〜にがミスマッチを減らすだって考えてしまう。
気軽に人がやめれる環境があれば、良い福利厚生の企業には人は進んで残るし、そうじゃない企業からは人は減るしでハッピー感ありそう。
新卒や既卒が気軽にやめるかわりに、中途が気軽に入ってくる感じ。