はてなキーワード: 背中とは
大学の帰り、とぼとぼと歩いていた 前を歩く女の子のブラウスが透けていて、ブラジャーが丸見えだった 本当に、ブラ紐はもちろん、背中のホックまで見えるようだった
よっぽど声をかけようかと思った
しかし「ブラジャー透けてますよ」なんて完全に犯罪者・痴漢である
それに彼女は片手にキッチンペーパーをさげていた きっと大学の近くで一人暮らしをしているのだろう
彼女はブラウスを着た時に自身のブラジャーが透けていることに気づかなかったのだろうか、いやそれとも分かっていてこんな格好をしているのか、誘っているのも同然ではないか!
いや、待てよ、そもそもブラジャーが透けてはいけないなんていう思想がおかしいのではないか?別にブラジャーにしてもパンティーにしてもただの下着・生活必需品である それともあれはもしかしてブラジャーではなく、水着なのか?水着なら問題無いのでは?いやいやブラウスの下に水着を着るって、ラッシュガードでもあるまいし奇特なファッションである
無敵の人は男、という風潮がありそうなので先に書いておく。女の体は持ったが、乳も子宮もいらないと思っている人間だ。必要な方にあげたいと常に思う。
そして社会の底辺に位置している。体はまあまあ動くが、寝たきりの日も多い。
まず、数々の「無敵の人」呼ばわりされている加害者が犯した罪を擁護するつもりはないのをはっきりさせておきたい。
特に今回の件は、絶対に反撃出来ないであろう小学校女子生徒を狙ったものである。同情の余地もない。
誰であれ他者を加害するのは卑劣で許し難いという考えである、だが……という前提で読んでいただけるとありがたい。
犯人が死んでしまい、これから捜査や目的、細かな事情が出てくるかと思うが、様々な意見を読んで、皆「自分に都合のいいストーリー」を作って読み解いていることに愕然とした。
子供やベビーカーに対するヘイトクライムと繋がっている。女をあてがわれなかったインセル。そういう見方もあるかもしれない。わからなくもない。が、どちらかと言えばフェミニスト寄りの人間だが、これにはさすがに頷けなかった。
もちろん、これを書いている私も人のことは言えない。これから書くのは、とても「無敵の人」「これからそうなるかもしれない人間」に同情的なものになるので。
というか、私自身、危うく足を踏み外しそうになったことが多々あったから、聞いてほしいだけだ。
ある程度フェイクを入れるが、ちょっとした障害を持っている。最初は健常者だと思っていたが、後に障害を持った。
「ほら見ろ障害者はいらない、危険思想だから社会に不要だ」というコメントが付きそうで今から不安だ。そんな馬鹿が出ないことを祈る。
家は貧困家庭だった。小遣いがなかったので、同級生が楽しげに遊んでいる中歯ぎしりしながらアルバイトをした。悔しかったしそんな感情を持つ自分になおのこと嫌気が差した。
私立の学校という選択肢を取れる人間に、今でも複雑な思いを抱く。生まれつき実家のパイプが太いから成功しているくせに一から自分で大きくなったと勘違いしている人間には殺意すら抱くこともある(実行に移すつもりはない。念の為)。
だから、被害に遭った児童が有名な私立校、エスカレーター式と聞き複雑な心境になったのを、許してほしい。
その事件が起きた朝、ほんの数時間前に、健常者の「障害者はなるべく関わりたくないから家にこもっていてくれ、理解を求めようなんてわがまますぎる」というようなツイートを読んだばかりだった。
こっちだって関わりたくない。関わらざるを得ないから関わっている。関わらなくて済むならお互い離れて暮らしていたい。こちらから願い下げだ。それをこちらが見えるところに書くな。頼むから。怒りで手が震えた。
障害者雇用は最低賃金に数円足しましたというレベルだ。どうやっても月7万から8万弱。それ以上働くと体調を崩す。
「未経験者歓迎」の職業に紹介を希望したら「やはり経験者を欲しがっていて」とハロワの職員に断られたこともある。何を言っているのだお前はと言えば良かっただろうか。
障害年金だけで生活できるなら試してみてほしい。ひと月大体6万5千円弱だ。
なんとか見つけた雇用も、補助金目当てでこちらを気遣うつもりなどさらさらない場所ばかりだ。労基法?守る企業の方が珍しい。
役所関連、社会福祉事務所。簡単に追い払われる。宇宙人と話しているような態度を取られることも多々ある。
主治医すらハズレに当たれば適当なことしか言わずこちらを威圧する。投薬の不安も聞いてくれないこともある。
障害者と見ればあからさまに子供に話しかけるような口調に変わる人間もいる。被害妄想ですねと片付けられるのはいつものことだ。
生きるのがとても面倒くさい。
味方がいない。
適当なことを口にする人々は、そこまで追い詰められた経験は、あるだろうか。
難癖をつけられ、差別や暴言を受け泣きながら役所や社会福祉事務所を後にした経験はあるだろうか。
公営住宅に住んでいるのに家賃が支払えそうにない、ごめんなさい、○日には払えますと謝ったことはあるだろうか。
とりあえずの一時貸付を借りたはいいがそれを返すのに泣きそうになりながら銀行の残高とにらめっこすることはあっただろうか。
無敵なわけではない。大事なものもある。好きなものだってある。大切な人もいる。だが、そんなものもストッパーにならないほど打ちのめされることがあまりにも多くある。
年間何万人も自死する国だ。命は大切と叫ばれるより、金をくれたら全部解決するだろうと思う。
自分がそうなるかもしれないというだけではない。
自分がそうした人間を生み出すきっかけの一言を言ってしまったという自覚はあるか。
身に覚えはあるだろうか。想像できるだろうか。
テロリストに同調してはいけない。だから思想を報道しない。そうした他国の動きもある。
「自分一人で死んでも変わらないのだろうな、こいつらは」
そう思わせたら、終わりだ。
だから同調しない。決して肯定してはいけない。それは変わらない。これから捜査が進んでも、報道などなくていいと思う。けして同調などしてやらない。だが、揺らぐ人間が出る可能性は、ある。
許してはいけない。
が、今回の件でも他の件でも心無い言葉を山ほど目にした。
「一人で死ね」
よく聞く言葉だ。
今瀬戸際にいる人間がその言葉を見た時の感情を、考えたことは、あるだろうか?
追い詰められた人間がさらに心無い言葉を見た時の感情を、経験したことはあるだろうか。
「無敵の人」を作っているのは、誰だ?
名もなく顔も出さない誰かが、一人でそっと死にたい人間の背中を全力で蹴った可能性を、考えたことはあるか?
死刑囚の手記を読んでみてほしい。
福祉が充実していたら止められたのではと思うものが、山ほどあるから。
罪は罪である。
愚劣な罪を犯した人間を庇うことはしない。
やまゆり園のように殺されたくもない。ネットで知り合った善意の顔をした誰かに殺されクーラーボックスに詰められたくない。
追い詰められた人間をさらに崖から突き落とす真似をしたくない。されたくない。
それだけなのに。
※追記
トラバやブコメたくさんありそうだが見る余裕がない。申し訳ない。
そもそもこの社会は被害者のケアも追いついていない。そちらも急務だろうと思う。被害者にはなんの落ち度もなかった。何度でも強調する。
加害者のやったことは卑劣で許し難く、子を持つ人間としては脅威だろう。心中察するに余りある。そして私の身勝手な「羨ましい」「複雑」という感情は綴るべきでなかったと反省している。捜査が進んでも同調する人間を出さないため加害者の報道は減らしてほしいと切に思う。
こんな記事を読んだ。
「自分の『普通』嗤われるの嫌」命絶った20歳の女性 届かなかった支援、母の苦悩 https://www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/513530
たぶん、誰も気づかずに、無敵の人予備軍とネットの人間が気安く呼ぶような人たちは、今日も、今も、1分前にも1秒前にも亡くなっていはしないかと思う。
みんなもう一人で死んでいる。わざわざ誰かが言わなくとも。
列車が、人身事故で遅れると、「迷惑だ」という言葉に溢れる現状が悲しいだけだ。線路に飛び込まざるを得なかった人にも、人生があったのだ。そこまでしなくてはならぬほど、追い詰められた事実があっただけだ。
一人でひっそり死ぬ人を一人でも減らしたい。それが、無敵の人などと名付けられた人間を減らすことにつながりはしないか。
無責任な言葉を撒き散らす前に、答えのない問いを続ける。一人で死ぬ人をどうにかどこかにつなげたい。
今回や、数多の巻き込み型自殺者の加害者を擁護する気はさらさらない。
だが、今瀬戸際にいる人を踏みつけ蹴飛ばし加害者に同調したくなるような、そんな言葉を吐くのも、どうか一度考えてみてほしいと思う。
ブクマはなんかもう煮こごりみたいになってるから読めない。申し訳ない。
とりあえず、なんとか読めたトラバにいくつか書き足したいことを書いた。
「自分に都合のいいストーリー」を作って読み解いていることに愕然とした。
もちろん、これを書いている私も人のことは言えない。これから書くのは、とても「無敵の人」「これからそうなるかもしれない人間」に同情的なものになるので。
よく読んでくれ。また、今回の犯人や他の巻き込み自殺を擁護したいんじゃない。無敵の人になりかけそうな追い詰められた人間に汚い言葉を浴びせるバカに伝える文だとわかってくれるとありがたい。また、信頼していた人が勝手に自分の好きなように噛み砕いたコメントをしていたのに落ち込んだのもあった。
分断するな。「魔が刺す」という言葉がある。誰だって、とことん落ちる時がある。
発達障害関連、あとは事前連絡なしで飛行機に乗り込んだ車椅子の障害者に対するブコメがこんな感じの言葉で溢れていたのを覚えている。遡れば読めるかもな。
主旨がわかりにくい文で本当に申し訳ない。
心無い一言を誰が見ているかわからないところにばら撒くなと最初から言えばわかりやすかっただろうか?
関係ない話を蒸し返して申し訳ない。hagexさんが殺害された時に、増田で犯人を執拗に煽っていた人間は、あの後どうなったんだろうな。殺人教唆になりそうなものだが。
私の身の上話は余計だった。が、つながるべき福祉からこぼれ落ちたり、助けを求めた場所でたらい回されひどい対応をされ苦しむ人、諦める人は多いと知ってもらえるだけでいい。
貧困者やブラック企業に捕まっている人も社会の被害者だと思っているよ。
そうした人が、無責任で無神経な言葉をさらに受け続けたら、どこまでも落ちる。
「セックスできない非モテだから鬱憤が溜まったんだ、だから女をあてがえば解決」というバカも見かけた。何も言うことはない。同じところに落ちたくないので。
どんなに自衛していても、見える。それだけあちこちに心無い言葉が転がっている。それをやめたいと思っているだけだ。
女子生徒が自殺する一部始終を動画で撮影、アップロード。ホストを刺した女を撮影、アップロード、さらにそれを見て「この構図興奮する」と呟く人間。今回の件でも野次馬かマスコミかわからないがスマホを掲げた人間が山のようにいた。
そういうのを見るたび絶望するよ。「マスゴミ」と何が変わらないのだろう。
賛否あれども考えるきっかけになるならそれでいい。自分を振り返ってみてほしい。貧困や福祉も大事だが、崩れ落ちたモラルについても考えてもらえたらありがたい。
人は誰しも、その行動原理に"正しさ"を持っていると思います。どのような正しさであれ、少なくともそれは"論理的に"正しいものであると信じている人も多いと思います。論理というのは非常に強力で、確実に正しいと確信し、安心できます。これは学問的な場であればあるほどそれが求められ、それが"普通だ"と思う人も多いと思います。
しかし、社会的な問題についてはどうでしょうか。周りを見渡せば、おかしな主張や理解できないことを言う人が多いと思います。それに対して私達は、絶対に間違っていると論理的に判断しようとします。ここにこの記事でわかってほしいことがありますが、その主張をしている人は、""それが絶対的に、論理的に正しいと信じてやまない""と思っていることです。そしてこれは、立場を逆にすれば私達にも当てはまるということです。
浅はかながら、私の考えは、"生まれてきてしまった以上、幸せに、楽しく過ごす"です。
誰しも考えたことがあると思いますが、人は必ず死にます。これをどのように捉え、人生に意味を見出そうと考えているのかは人の数だけあると思います。終りがあることを悲観的に捉えない人もいることを、私は知っています。
私の考えをさらに言うならば、"宇宙に意味はなく、生きていることにも本質的に意味はないが、この脳は生きることに意味を見出している"です。この考えに従うならば、私はこの悲しい生を産み出すことが理解できません。すなわち、子供を作ることの意味がわからないです。
そんなに深く考えなくとも、"パートナーとこの先の人生を楽しく過ごし、辛いことがあっても、お互いに協力し、生をつないでいく"という考えがあることを、私は最近、寛容的に認めることができています。しかしそれまで、どうして"普通に"子供を作ることが社会的に正しいのか、理解できませんでした。その時の私の思考は、理解できない恐怖で満たされていました。
私の意味する絶望とは、"論理的に不安な要素を認識、排除しきったとしてもなお残る漠然とした恐怖"です。この文は芥川龍之介の遺書に記されているもので、私の意味するものに近いと思います。絶望とは"死に至る病"だと、キルケゴールは述べています。私が彼の意味するところを理解したわけではありませんが、この"死に至る病"はなんら形而上学的な概念ではなく、本当にある現象であると知ってほしいです。
私はこの数年、孤独に暮らしていました。他人との関わりはまったくない、というわけではなかったですが、この行動原理には"社会の中で、俺は一人でも生きていける"という、傲慢な考えがありました。他人の主張は間違っていると確信し、ある主張には意味がわからないと排除していました。
しかし、この考えを続けていると、だんだんと理解できない他人が怖くなっていきます。なぜつまらない問題に対して積極的に行動するのか。なぜ明らかに間違っている主張に気づかないのか。なぜ間違っているのに他人を攻撃するのか。
そのときには気づきませんでしたが、ぼんやりとした不安が背中を這い寄っていたことを今では理解しているつもりです。
不思議なことに、脳の異常なのかわかりませんが、このような環境にいると、寝る前の思考がどんどん加速していき、同じことを何度も何度も何度も考えるようになります。あるときふと、この考えはさっきもしていたじゃないか、と。また、ある行動をしたときに他人に理解されないと、なぜか殺意が湧いてきて、しかしそれは確実に間違っていると理解出来るので、"絶対に人は殺さない"という言葉が頭の中を回っていきます。
狂気とはなにか、に対して一言で言うことはできませんが、少なくとも狂気に陥っている人は"すべての思考は論理的に正しく、自分は冷静で絶対に正しい"と信じていて、そのことが脳内をリフレインしていると思います。
おそらくで適当なことは言えませんが、PTSDや後天的な精神疾患等は、異常なストレス下によって脳内のニューロンの発火に異常が生じることで、何度も同じような思考や、他のことが考えられなくなってしまうのではないでしょうか。
このようなことを踏まえて、昨日起きたこの事件をみると、犯人像が分かるのではないでしょうか。ツイッターでは「無敵の人の犯行」や、"自分とは違う"と信じている人が多いと感じます。
それは違うと、声を大にして言いたいです。
もしあなたが、自分とは関わりのない、違う種類の人間の事件であると思っているならば、考えを改めてほしいです。
『あなたが意味を見出していることが、ある日突然意味がなくなってしまったら?』
これを、夜寝る前に自分に聞いてみてください。もし不安になり、自分なりの答えが見い出せないのなら、それが絶望の始まりです。
今は老後の生活の見通しが厳しい実家の脛をかじって職探しをしているふりをしているが、スーツを着て出かけて夜遅くに帰るだけ。パートでも派遣でも選ばなければ世の中に仕事はなんでもあるのに、こなせる自信がないのとこの期に及んでくだらないプライドがせめぎ合っている。ほんとゴミクズ。
人は思春期、青年期を経て色々な経験を通して社会でやっていく能力を身につけていくのだろうけど自分は12,3歳の頃から思考や人格に悪癖が付いたままダラダラ日々を重ね、全く何も身についていないことにいてしまった。
外に対して、ガワだけ意識高そうなフリをしてちっぽけなプライドを守ってきたが、実行力や実現力がないので虚像でしかなく、いよいよ社会に出れないままいい歳になってしまった。
思考の偏りや歪んだ自己愛、強すぎる恥の感情など人格障害の線も勝手に自己診断で疑っているが、過去にかかっていてあまり意味のなかった心療内科から切り替えた大学病院の診察は2週に一度や1ヶ月に一度という進捗がもどかしい。
感知している症状としては、とにかく頭が働かない。頭に何か詰まっているような感覚が日々強くなり、思考力と判断力はゴミカス。常に負の自動思考が脳の容量を食っている。どこにいても自意識が肥大化して、人の目が気になり何も手がつかない。身体は何もしていないのにいつも疲れて首背中が常にシクシク痛い。
見下していたなろう小説をまともに読み始めて、5年くらい経ったところでふと書きたい気持ちが出始めたのが数年前。
衝動的に書いてネットに投げつけた作品が意外と人気を博し、このたび書籍化することになった。
1冊分の分量をまとめて、推敲せずに書き散らかしていた原稿を直し、編集者に送り、真っ赤になって返ってきた原稿を胃を痛めながら直し。
ここまで来ても、「自分が本を出してお金をもらうこと」に対する自覚がまだふわふわしている。
締切はつらいし、アニメ化どころか本を出す段階でも各方面の調整は大変。
印税もそこまで高いわけじゃないし、重版できたら万々歳みたいな業界だし、間違っても「専業作家一本で生きていく」なんて気分にはならない。
こっちの道は地獄だぞ。頼れるものは自分の文才とコミュニケーションスキルだけ。
「書きたい」という気持ちがあふれて、どうしても抑えられなくて、衝動的に何か書き出してしまう。
そんな異常者じゃないと、こっちに来たって辛いだけだぜ。
顔のほくろを取った増田です。
本当に、適当に書いて投げて、書いたことすら忘れてたんですが、今日また仕事から逃げたくなって増田見たらブコメめちゃついててびっくりした。
経過も知りたい~!という声もあったので、手術して約2週間後の経過報告をするよ。
【で、どんな感じ?】
実は先週の金曜からGW第2弾を取っていて(10連休できなかったので)、実家に帰省していたのだが、軟膏は忘れなかったのにテープを忘れてしまいついに手術跡を世にさらすこととなった。いや、帰省先でテープ買えばよかったんだけど予定が詰まっててまあいいか、となってしまったんな……。
傷跡だけど、もうほとんど穴はふさがってて、ちょっとへこんでるかな?という程度。確かにやや赤紫……というか茶色……?っぽい感じで、かさぶたか!?と焦ったがそうでもないみたい。この週末は夜だけ軟膏塗って(絶対意味ないだろうけどなんとなく不安で)日中は日焼け止めやSPF50のファンデーションを塗って切り抜けた。
今も同じように日焼け止めやファンデーションで切り抜けてます。UVカットコンシーラー買おうかな~と思ってるけれど、正直傷口ふさがったし、ほくろに比べると傷跡なんてわざわざコンシーラーで隠すまでも無くない?という気分なので次の診察の時に相談の予定。
毎日しみじみ「取ってよかったなあ……」と思う。よかった。あと化粧がめちゃくちゃしやすくなった!本当にとって良かった……。
【お返事】
実は、職場の人にほくろとったという話をしたら「プチ整形?そういうのやる人ほんとにいるんだ~」といったことを悪気なく言われ、ちょっとへこんでいたので、おめでとうと言ってもらえてとても嬉しいです。私自身整形については何とも思ってないんですけど、そういう好奇の目にさらされるのがね……ちょっとね……。
>あざっす、 人相占いで人中のホクロってなんか意味があった気がするけど、~
そう、取るのを悩んでたもう一つの理由がその人相占い的なやつですね。母曰く、「食うものに困らない(金が途切れない)」か「余計なことを言う」のどっちかだった気がする……と言われていて踏み切れてなかったんですが、そんな不確かな運命に振り回されるくらいなら自分で運命切り開くわと開き直りました。
>なんのことかよくわかってないだろうから、書いておくと、~
湿潤療法ってやつですね?昔からよくやけどをやらかすので乾かしちゃいけない理由はなんとなく知ってました。でもここまで詳細に教えてくれた先生はいままでいなかったので新たな知見になりました。ありがとうございます。
>ホクロ取った後再発しないの?
ほくろとったあと職場の隣の席の女の子も昔ほくろを取った経験がある、というのが判明したのだが、彼女は再発したよう。レーザーで取って、そのあと何回か通わなきゃだったのをさぼったらまたできちゃった、だそうで。
私の場合は完全にメスで切り取ってるので再発の可能性は低いらしい。レーザーはケアをミスると比較的再発しやすいとのこと。
>鼻の下の脱毛の話
遺伝的に毛が濃いので鼻の下もやってます。腕と足は12回くらいやってもう終わって、今デリケートゾーンと背中と鼻の下をやっている。
通常美容脱毛って3ヶ月に1度くらい通う必要があるのだが、鼻の下に関しては毛が生えるサイクルが早いので月1くらいで行ってもいいらしい。
(私もほかの部位に合わせて3ヶ月に1度やっている)
まだ2回くらいしか施術してないので効果は感じてない。けどVラインも効果を感じたのは4,5回目くらいからなのでとりあえず5回までは頑張る予定。
施術で痛みは全然ない。むしろVラインの方が万倍痛い。本当に施術の前日から怖くなるくらい痛い。男性の方が毛が濃いので、男性ヒゲ脱毛は女性よりも痛そうね。
>喪失感
まあ最初はちょっと寂しいね……。化粧するときとかちょっと違和感。でも嬉しさの方が上回ってます。
いや!オペしてくれた先生からは何も聞かれてません!実はそのオペに行く前、脱毛サロン行ってて(鼻の下の施術はお休みした)担当のお姉さんと「術後いつから施術再開できるんですかね~」と話していたので術後自分から聞きました。先生は美容脱毛のことはよくわからないらしく逆にアレコレ聞かれました。何回行くの?痛い?とか。
>今ぐらいの時期がいちばん皮膚の怪我がきれいに治る時期だって~
それを聞い
て大変安心しました。ありがとうございます。
ごめんな……。私も最近謎の鼻水くしゃみと戦ってるからアレルギー検査行こうか悩んでるとこやで……。
>人の顔みるの苦手な僕はホクロがあれば注視点に迷わずに済むから取らないで欲しい。
その視線がしんどくてな……取ってん……。人の顔見るのが苦手な人は鼻の頭かネクタイの結び目見るといいそうよ。
>椎名林檎は取らなくてよかった
ほんそれ。
でも結局また同じところにできてしまったってよ。
>全く同じところにホクロがあって形成外科で同じ方法で取った経験がある~
そういう先生もいらっしゃるんですね。私の場合、どういう目的で取りたいのかとか全く聞かれなかったし、勝手に医療行為扱い(保険適用てことはそういうことだと思うんだけどどうなんだろ)になってました。やっぱり大きさや形によっても変わってくるんですかね。
【後日談】
実はほくろとったあと、職場の両隣のデスクの女性2名もほくろを取ってたことが判明。
一人はメスで切除→縫合、一人はレーザー→やや再発。意外とほくろ取るのって身近な話だったんだな、と思った。
コメントでももらったけどやっぱり最初の第一歩がなかなか踏み出せない。運命変わったらどうしようとか、痕残ったらどうしようとか、痛いかなとか、そもそもここって取れるのかなとか、高いのかな、とか。それでぐずぐず何年もかけてしまったけれど、案外あっさり取れてあっさり嬉しくなれるので、この増田がほくろ除去に悩む誰かのその第一歩のきっかけになれば幸いです。
先ずはこの書き込みで多くの方を不快にさせましたこと、お詫び致します。また暴力を受けずに真っ当なご家庭で幸福に育って来られた何の非もない方々をわざと煽るような発言をした事も重ねてお詫び致します。
レス、ブコメ、全て目を通させていただきました。当然ともいうべき厳しい意見から私の境遇を慮って下さった方までおられ、有難く思います。
私はたぶん、親と、かつて受けた暴力などが未だにトラウマになっています。そのせいかは分かりませんが、アラサーになった今でも自分の長所がわからず、自分の意見や気持ちをうまく主張できず言葉の強い人に同調してしまい、否定を恐れて常に人の顔色を伺い誰かに同意をもらえないと満足に自己表現すらできず、また自己評価が低いのは自分がだめな人間だからだという思いから(事実ですが)自分を信じる事ができないクズのままで社会人してます。言い訳がましくて申し訳ありません。
どなたか書いておられますが、大人にもなってマナーや一般教養でしかいきがれないなんておかしいですよね。そんなのは努力でどうにでもなり、誰もが出来る事なのに。どんなに若くたって社会人ともなれば何か秀でるものはあるはずで、そんな当たり前の事しか評価する要素がない時点でゴミでしかないと思われているに決まってるのに。
だけど、こんな私にも少しは、ほんの少しだけは礼節や教養云々といったつまらない誇りでなく、自分の努力の成果として心に残っている事柄はいくつかあります。しかし私が何を努力しても、「親の教育が」という言葉は付いて回り、私が努力をすればするほど親の評価が上がって私の受けた教育は正当化されていきます。親戚たちも皆そうです。みな口を揃えて、親に感謝しなさい、親のお陰だ、そればかりです。我慢で食いしばった唇が切れて血が出るまで私を殴ってくれてどうもありがとうと、そう思わなければいけないのでしょうか。よく分かりません。
発達障害も精神疾患も現れる事なく一応人並みに社会に出られてしまった今、私は親の教育を否定する事ができません。また私自身、自分の人生を全否定するのが怖く、あれは虐待だったのでは?と考える前に思考を止めてしまいます。
悪い事をしなければ食事は出ましたし、夕食を抜かれた時でさえ申し訳ありませんと言えばご飯をくれましたし、楽しい思い出も数えきれないほどたくさんある普通の家族でした。そしてこれだけは自信を持って言える事ですが、親はこんな私なんかを確かに愛してくれていました。だからこそ、殴ったり蹴られたりされていたとしても本心から感謝すべき事も多くて、やはり親が好きで、自分のされた事は虐待ではなく躾だったと受け入れたい気持ちが勝ってしまいます。
それが、新聞に載る児童虐待のニュースにあれこれ論議している姿を見る度に「あなただって私をぶったり蹴ったり、言い分を聞かずにへりくつだとねじ伏せて暴力で言う事を聞かせてきたじゃないか」と泣きたいのか腹が立つのかよく分からない感情になってしまうとしても、私は自分とその親を「虐待がありました」と言えないのです。
今回の投稿は、それを誰かに否定して欲しくてわざと親を称賛し肯定し尊敬しているかのように振る舞い、親の行為を虐待だと批判させる事で救われたく、浅はかな私の足りない頭で精一杯考えた結果のものです。
半分騙すような形になってしまったことは申し訳ないですし、想定以上に反響があったことにも申し訳なさを感じますが、「殴られなくても普通の大人になれる」という今まで認めたくなくて親からの暴力を愛情だと全肯定する事で25年間も目を逸らし逃げ続けてきた当たり前の事実を、こうして突き付けて下さった事に何よりも感謝しています。
自分の人格の歪みや自信のなさは結局のところ全て私の至らなさ、力不足、自己責任ですので、努力して直していくしかありませんが、少なくとも自分は親から暴力を受けていた事は悲しかったと言っていいのだと、あれは不当なものだったと主張しても良いのだと背中を押して下さったことに感謝しています。
そしてもう一つお詫びする事がございます。
私には2歳の娘はおろか、結婚すらしておりません。時間が限られている、今すぐに連鎖を断ち切らなければならない、そう思ってくださる心優しい方の目に留まるよう混ぜた嘘です。
私みたいなクズ1人ならば何の価値もない社会のゴミ屑が一丁前に慰め待ちか…と気にも留めて頂けなくても、罪のない子供が登場したならば注目せざるを得ない、そんな方々の良心を利用するような真似をし申し訳ないと思っています。ですが私みたいなクズが母親なんて可哀想ですから私が子供を持つ事は未来永劫ないと思うので、その点はどうかご安心頂ければと思います。
親がくれた身体だけは人並み以上に丈夫でしたので、この25年間特に病む事もなく、また自殺する事もなく無事大人にはなれましたが、自分の人生を自分で否定する事ができない私の弱さと「そんなの躾の範囲内」「叱られることする奴が悪い」で済まされてきた私の十何年分の「痛かった」「悲しかった」をどうしたらいいか分からなかった私を至極真っ当な言葉で解放してくれてありがとうございました。
やっぱり家族が大好きだから、憎んだり間違ってると声をあげたりできなかった弱い私の代わりに、私と、私の親を叩いてくれてありがとうございました。
性根なんて治らないよ。
でも店のものを会計せずに外に持ち出そうとして殴られたら、やってはいけない事と学ぶだろ。
普通は最初の1回で覚えるけど、3~4回店から持ち出そうとする子供は普段からこっそり持ち出す親の背中を見ている犯罪者の子供だ。
うーん。一個前の増田だけど、俺は「性/生殖」の話はしたが「性愛」の話はした覚えがないなあ。「性/生殖」に絡むパートナーシップ(すなわち1対1の子作り関係)と、育てる-育てられるというコミュニケーションから生まれる親子の情的な何か、が「家族」と言われるものの原点と思ってるし、そこに「愛」なるものが入り込む必要はもちろんないと思うね。その点は同意するよ。
そして、性も愛も親子の情も全部一緒くたにぶちこんだのが近代家族像であって、それが近代国家が求めた社会の最小単位だった、というのは確かなところだよね。だから近代法制度が規定する「家族」なるものがそういう近代の不自由さを背負っている(だからそんなものにこだわる必要なんてない)という元増田の話は、実は俺は結構もっともな意見だとは思ってる。ただ、現行法の下にある現在の「家族」の姿全てが、近代国家が求めた(つまり新たに作った)「家族」像かというと、必ずしもそうではなく、そこにはもう少し古い時代から伝わる「家族」の姿が入り込んでいるだろうと思うし、それはそんな簡単に変更できないと思うんだよ。だからこそ、「同性」によるパートナーシップを結ぼうとする人々が「結婚」という形式にこだわったからといって、必ずしも近代的な結婚制度に囚われた迷妄とかではなく、もっと古い時代から伝わる「家族」の姿を踏襲することにこだわっていると捉えてもいいんじゃないかと思うのだ。
それはなんというか、「自分の背中を任せられるあったかい生き物に寄り添い、寝食を共にすることの喜び」みたいな、そういうもの。「結婚」って、赤の他人との間でそういう「家族」を作る契約じゃん? 「新しいパートナーシップ」とやらは、そういうものすごく原始的な私たちの感覚に、本当にちゃんと寄り添えるのだろうか? そこを疑問に思うのだ。
大学生の女です。
なんでそんな訳の分からん事象が起きるのか考えてたんですよ、ここ数週間。最近、人肌恋しいというのか、ひとにどうしても甘えたくなってしまう。人の体温が欲しいとはいえ恋人がいるわけでもないから、仲が良い友達に体をくっつけて気を紛らわせている。腕を組んでみたり手を触ってみたり、そういう他愛もないやつ。でも、そのうちそんな軽いちょっかいが暴力に変貌してきてしまう。無防備な背中があれば殴りたくなってしまうし、手元にペンがあればひとの手の甲に突き刺したくなってしまう。なんでか。
まともに甘えることを恥じてるからだと思うんですよね。多分。だって学生とはいえ成人済みの大人が他人にベタベタするのって気持ち悪いじゃないですか。同性ならともかく、恋愛感情を抱いてるわけでもない異性の手を握ったりするのは良くないことじゃないですか(わかんないけど。私はなんの特別な感情もなしに異性に触りたいけど異性にベタつくと周りの反応が変な雰囲気を持ち始めるので多分これよくないんだと思う)。そこで暴力ですよ。暴力は乾いた行為です。そこに恋愛感情みたいなへんな気持ちが混ざることも(多分)ない。少なくとも私にはない。今のところは。
ひとに甘える行為は、こわい。自分が受け入れられなくて拒絶されたらどうしようと思うから。嫌そうな顔で手を振り払われる瞬間を思うと息ができなくなるから。ひとに好き勝手に甘えることを許されるような価値は私にはない。私がもし、ちいさくて素直で顔が人並みはずれて可愛い女の子だったら、どんな甘え方をしても誰にでも受け入れられたんだろうけど、残念なことに私はそんな素敵な存在じゃなくってただの成人済みのブスだ。
だから暴力に頼っている。暴力を受けている人間は客観的に完全なる私の被害者だ。被害者だから当然、加害者の私に対して倫理的優位に立つことができる。私に暴力を受けているひとが私の行為を許すか許さないかは完全にその人に委ねられ、私はただ黙って裁きを受ける側に徹するのみ、ということだ。そして、暴力なんて最悪な行為、許さなくて当然だから、暴力を受けたひとが暴力を拒絶することは当然のこととして周りに受け入れられる。暴力が拒絶されたら私は素直にそれを受け入れて反省したふりをすればいい。まるで最初から何もなかったかのようになる。暴力のなかで私が他人に触れたときのぬくもりが残るだけ。
これが暴力じゃなくて「甘え行為」なら、こんなにさっぱりとは多分いかない。甘えるという行為はいろんな意味で境界線が曖昧すぎるから。甘えるということは、甘えられた人に相当心理的負担を負わせる。「甘えられているから応えないといけないな、この哀れな人間を拒絶したらかわいそうだな」と、多かれ少なかれ感じさせてしまうものだと思う。そしておそらくは、甘え行為を拒絶することへの罪悪感を強要させてしまう。むりやり共犯にしてしまう。それはよくないのだ、私としては。にこにこと優しい顔をした人間に、「本当は甘えられるのが嫌だけど、押しのけたら可哀想だからこのまま甘えさせてあげよう」だとか心の中で面倒がられていたくないのだ。嫌なら嫌ってきっぱり言ってはねのけて、終わりにして欲しい。他人から重荷に思われるのがほんとうに死ぬほど怖くて怖くて心臓が震えるみたいになる。
他人に甘い期待をし、真正面からひとに甘えて、その結果否定されたり拒絶されたりするのがなによりもこわい。私が「他人に甘えるに値しない嫌われものの人間」であることを再確認させられることがこわい。それに比べて、暴力を振るったことを非難されるのは何も怖くない。最初から非難されて当然の行為をして順当に怒られた、ただそれだけの話になるのだから。
だから甘える代わりに暴力を振るっている。私の暴力が嫌なのならば、その人は「痛い」「やめて」と声を上げて拒絶するだろう。そうしたらやめる。絶対にやめる。でも今のところ、現実で私に甘えの代わりの暴力を振るわれている人間たちは黙って私の行為を受け入れてくれている。ありがたい。これからもいっぱい私に殴られてください。まあ、全てを何も言わずに受け止めてくれそうな包容力のある人間だけを慎重に狙いすまして襲っているので、受け入れられるのは当たり前なんだけど。
とかっていろいろ冷静ぶって偉そうに書きましたけど、やっぱりこんなの許されるわけなくない!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!!?!?!?暴力、基本的にどう考えてもだめじゃない!?!?!!?!?!?!?!?!!?!!?!?!?!?!??!?!?!!!?!?!?いくら周りの人が「ああいつもの暴力ね、はいはい...(呆れ)」くらいの感じで受け流してくれてるっていっても暴力はまずいよーー!!!!!!!!!暴力はだめだよー!!!!!!!ねえ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
いや私だって暴力が許されない行為であることは理解してるんですよ。街行く人に誰彼構わず殴りかかったりするわけじゃなく、それなりに交流を深めて親愛度が95パーセントを越え切った友人たちにだけそういった行為をしている時点で「暴力」という行為に及び腰になってることはわかりますよね。でも親しい友達にだってきっとほんとは暴力振るっちゃダメなんです。っていうかもっと言うと成人なのに他人にベタベタ甘えたいと思っていること自体がだめ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
みんななんで他人にしなだれかからずに生きていけるの??人肌恋しくはない??さみしくない???????全て受け入れてくれる恋人がいるのか???それとも親に甘えたりできるの???????
毎日さみしいさみしいさみしい、さみしさで身体が引き裂かれそうになる、のに、そんな風になっているのは私だけで周りはふつうに暮らしているのでつらい。周りにとって私は「同じコミュニティにいるたくさんの人間のうちの一人」であって私が想っているくらいに私を想ってくれる人はいない。想っている???想っているとはいっても私が欲しいのは男女を問わない友人たちとの確固たる信頼関係(と肉体の結びつき)であって恋愛とかそういうクソみたいなものは一切求めてない、つーか恋愛????????????そもそもブスだから誰にも恋愛してもらえねえよカス!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!おい!!!!!!!!!なんでこんなに惨めな気持ちになんなきゃいけないんだよ !!!!!!!!!!
暴力振るってるのも普通に恋愛できない引け目からくる鬱屈した卑屈な感情の裏返しが他者への攻撃性になって発露してんじゃねえの??????カス人間かよ(それはそうだよ)死ねよもう いや死ぬの怖いし死ぬ度胸ないから死ねないんだけども!!!!!!!!!!!!!!とりあえず暴力振るうのだけはなんとかしてやめたいです、他人を傷つけたくないから(といったら聞こえはいいけど暴力することで嫌われるのが嫌だからですどこまでも汚い人間で生きててごめんな)、でも誰かに甘えたい、構って欲しい、どんなに「今日は他人に触らないぞ」って決めててもいざ目の前にひとの体温があると何も取り繕えなくなってしまって全部めちゃくちゃになっちゃう
毎日ほんとうにほんとうにつらくてくるしいから誰か助けてくれ、いや助けてくれって言うか、ただぎゅっと手を握っていてほしいです
6年半付き合っていた人と、半年前に別れた。
はじまりは彼女からの「付き合いませんか?」という告白だったのに、終わりも彼女からの「別れませんか?」だった。嘘みたいだけど本当の話だ。そのあとに続いた言葉は残酷すぎて、脳裏に焼き付いて離れない。「うすうす気づいてたと思うけど、もう、私、あなたのことを恋人として好きと思えない」と。彼女はめちゃくちゃに泣いていた。泣きたいのは僕の方なのに、向こうがあまりにも泣くから、僕はずっと彼女の背中を撫でていた。「人としては好きだよ」なんて、取ってつけたように言われてもな。
でも僕は正直、ちょっとホッとしていた。うすうすどころかびんびんに感じていたから。彼女がもう僕を好きでないこと。だけど、僕は自分から別れを切り出すことが怖くて、彼女が僕のことを好きでないという事実と向き合う勇気がなくて、言い出せないままだったのだ。彼女をまだ好きだったから。いや、好きというかもう執着に近かった。
心地よい距離感の判断がつかなくなって、こんなのダメだ、と思っても他にどうしたらいいのかがわからなくなっていた。なんとかして彼女をつなぎとめたくて、ひとりで必死にあれやこれやとしたけど、そうするごとに彼女の心は僕から離れていってしまったらしい。
こんな僕なのに、彼女は誠実に向き合って別れを告げてくれた。だから僕は彼女からの別れ話を受けて、「言ってくれてありがとう」と返した。その言葉に、彼女はさらに大粒の涙を流した。なんで? と書かれたけど、うまく答えられなかった。
別れた直後、家に帰ってから大泣きして、もうあの人がそばにいることは今後一生ないのかと思ってさらに泣いた。ついこの間まで、連絡したら一応は返ってきていた相手に、もう連絡することは二度とない。恋人という関係を解消するって不思議だ。当たり前が当たり前でなくなるし、これまでのことはなかったことになる。本当はあるのに、見えないふりをしないといけなくなる。
そうやって最初の1ヶ月はとにかく悲しみと心の痛みに耐えるしかなかった。でも不思議と後悔はあまりなかった。「今別れなかったとしても、どうせいつか同じ結果になってた。早いか遅いかの違いだけだ」と。カップルが別れる時、どちらか一方だけに原因はない、僕も悪かったし、彼女も悪かったのだとか、あのままズルズル付き合ってズルズル結婚して、そのあとに不幸になるよりマシだとか、そういうことを考えていた。
でも2ヶ月経ったら自分を責めるようになってしまった。なんで彼女を大切にできなかったんだろう。あの時、ああしていれば。1ヶ月前は別れに納得していたはずの自分に、ぜんぜん共感できなくなった。3ヶ月目か経過してもずっと続いていた。
そして4ヶ月目。だんだん思い出さなくなってきた。不思議なのは、6年半も付き合っていたのに、一度離れると顔も声もうまく思い出せないことだ。もうこのまま本当になかったことになるんじゃないかとさえ思った。立ち上がれる、と思った。好きな人ほしいかも、と性懲りもなく思ったりもした。
でも5ヶ月目はまた、過去の記憶にやられのたうち回って死にたい時期がやってきた。どこに行っても思い出してしまうのだ。あらゆる街のあらゆるところに、彼女との思い出の残滓が散らばっている。忘れようとしているのに、思い出すスイッチがいたるところに、しかも不意に現れる。
そして半年を迎えた今月。
5ヶ月目から引き続き、残滓と戦い続けた。先日友達とふらっと入った飲み屋の斜め前に、昔彼女と入った店があった。頻繁に行くエリアじゃなかったから、余計に昔のことが思い出されて吐きそうになった。6年半も共に過ごしたら、むしろ一緒に行っていないところの方が少ない。彼女の記憶はいつまで経っても僕を離そうとしてくれない。今後逃れられることはもうないんじゃないかと思ってゾッとした。嫌だ、苦しい。友人と飲みながらくだらない話をして笑っているのに、頭の片隅には彼女のことがちらつく。
みんなどうやって失恋から立ち直っているんだろう。彼女と関係を戻したいとか、まだ好きとか、そんなのはもうない。ただ、ちゃんと愛してあげられなかったなという後悔だけがずっと胸の奥に残っている。それがとてつもなく苦しい。