はてなキーワード: 結果的とは
そも弱肉強食というか適者生存というか文明が発展してもそういう根本的なところから人間が自由になれたわけではないと思うんだよね。
産業革命以降社会が自由になっていったのは自由であることが人間として正しいからではなく、そういう国の方が結果的に経済的に豊かで強い国になっていったから。
もしポリコレが先進国の成長を妨げるものであった場合、1世紀か2世紀後に世界の主導権を握るのが中国やイスラム国家となり、現在先進国である国々でいくらポリコレが定着していたとしても力ずくで一掃されてしまう可能性も十二分にある。
「艦これの布面積が増えた」というtweetに対して、「いいですね、艦これはもっと露出を減らすべき」みたいなリプが沢山ついていて、頭が痛くなった。
艦これの露出に頼らないスタイル好き
最近は改装すると布面積増えてる子多い気もする
街あげてだったり、百貨店がからむようなコラボでは凄く強みになってると思う
佐世保コラボで女の子が朧パネル見て「この子可愛いねお母さん」って言ってる光景目の当たりにして、俺は心で泣いていた— ASG151CM (@Asg151CM) October 24, 2019
最近本当に「男性向け作品に対する敬意」ってのが足りないと思う。艦これもFateもそう。男性向け作品が人気になると、男性向けに作られたことに文句をつける輩が多すぎる。
そういう奴に限って、「自分は作品の根本的な部分(シナリオ・設定)が好きなんです」「エロが無ければいい作品なのに」みたいな事をのたまう。いいか、男性向け作品の根本はエロだ。暴力だ。
例えば「ちゃお」なんかを見て、「男主人公がすくない、男が女の都合のいいホストみたいになってる!男性蔑視的表現が散見する!」なんて注文つける男は居ない。
ちゃおを見る男はいるが、ちゃんと「女向け」な事に敬意をもって見てる。「女向け」だからこその繊細な心理描写(間違っても女作者だからではない)に自分に需要が出来ていることを理解しているからだ。
プリパラおじさんも、景観保護条例には違反しているが、「もっとアクションバトルを多くして男を沢山入れろ!」なんて言わない。あれもちゃんと「女向け」な事に敬意を持っているからだ。というか女児向けだな。
ちゃんとその作品の成り立ちの根本を理解して、作品を尊敬している。
艦これやFateに限らず言える事だが、元々男向けに作られたものにそういう注文がついてしまうのは、
根本的に「男向けに対するうっすらとした軽蔑」が存在するからだろう。
熱いバトルや熱血は女も好きなのだ!と言いつつ、エロや暴力性は馬鹿にしている。本当にバトルや熱血が好きなら、女向け作品の中にバトルや熱血を増やせばいいだけだ。
結局、「既存の男向けからエロや暴力性を抜けば素晴らしいものになる」という、無根拠の傲慢が存在しているが、何故かそれが男性向けばかりに求められることに彼ら・彼女らは気付けない。
結果的に面白さがスポイルされた腑抜けの、児童向けの絵本みたいな内容の作品のなんと多い事か。サビ抜きの寿司とかいうレベルじゃない。低脂肪乳だとか、砂糖抜きのコーラとか、塩味の無い煮つけと同レベル。
男性向けに作られたものなら、男性向けな事に敬意を持って楽しんで欲しい。それが出来ないなら初めから全年齢向けの作品を愛でてほしい。
本心はエロと暴力性に惹かれてたくせに、政治的正しさとかいう、賞味期限の短い価値観に流されてそれを馬鹿にし否定しないでほしい。
そもそも「性的消費」という概念で殴りつけられるのは、どこまでか? を少し考察してみよう。
たとえば、昔あった「ビール広告に水着女性」が×となったのは、単に女性の飲酒率が上がったためでもあるが、表向きの理由としてある程度の正当性があると言えるのは「海水浴場やプール以外の場では通常水着を着ない」というコンセンサスがあるからだ。街中のビール広告で水着を着た女性がこれを宣伝しているというのは、「性的な服装でヘテロ男性の注目を集めるため」以外の理由を見出しづらい。一応明らかに「性的消費」だと言える。――(1)
では、「性的なものを強調した服装」はどうだろうか。古くはアンナミラーズ、あるいはHOOTERSといった店は店内ならともかく、街中の服装として適切とは言えない。これらが、その制服を前面に出した広告をデカデカと駅に張り出したら一定数の人々からクレームが来るだろうことは想像に難くない。その意味では、これらもまた「性的消費」であることにはそれほど異論が無いと考えられる。――(2)
では、「セクシーなアイドル」はどうだろうか。いや、そもそも大なり小なり「セクシー」でないアイドルなど存在しないという意味では、あらゆる「アイドル」を利用したポスターの是非は?(たとえばhttps://www.watch2chan.com/archives/20190615092712.html) またそのアイドルは男女問わないとしたらどうか? あるいはアイドルではあるがアニメ絵のアイドルならどうなのか? このあたりについてクレームを付ける人は実際そう多くない(からこんなのがあるのだろうhttps://www.walkerplus.com/article/166328/)かなり減ると推測できるが、これもまた「性的な興味で広く注目を集める」以外の理由を見出しづらいという意味で、まさしく「性的に消費」の実例なのだが、なぜかそれほどクレームが来ない。実際、先の乃木坂のポスターは「実は彼女らが一人も献血したことなかった」という理由で炎上したわけで、彼女らに求められていたのは必然性ではなく「性的な魅力」であったに過ぎない。――(3)
では、「一般的には普通の表現だが、記号的に一部の特定層に性的に受けとめられることを期待した」ポスターならどうか。たとえば制服の女子、メイドさんの服装、などがそれに相当するだろう。
「制服の女性は若々しさ、凜々しさ、清々しさを表現するためのものであり…」とか「萌えは性的なものではなく…」とかそういう御託は全部嘘だ。むしろ「マズいな」と思っているからそんな言い訳が出てくるので、これも一般的には批判されない/されにくいが、一部では燃えることがあることは実証されている。(もはや人間ですらなく、メイドらしい恰好をしたロボットの表象が叩かれた例https://www.huffingtonpost.jp/2014/03/04/jinko-chino_n_4900699.html)ただし、これを「性的消費」という文脈で叩くのは難しいので、一般には「学生にこんなことを」とか「ジェンダー固定化の懸念がある」とかそういう文脈を用いて叩く。これを混ぜこむのが混乱の原因というのが元増田の主張でその指摘は理解できるが、批判者はむしろそこを混ぜるところに意図があるのである。――(4)
それから、「表現者や対象には明らかにその意図がないかあっても薄いが、そう見られる可能性を排除できないもの」はどうだろうか。(例:ある公的なポスターコンクールの作例 https://twitter.com/abo_saitama/status/1023415216208470018 )この作者に性的なデザインをしたという意図は全く無いだろうが、明らかに構図は胸を強調しているし、いわゆる「乳袋」表現すらある。世にある(セクシーな)漫画的記号表現やデザイン、構図を踏襲したこと、そして、無意識下の「こういうのが受けるだろうな」というイメージが影響したと想像される。…そんなことを述べると一般人的には「?」となるが、学者が意見を述べるのがこういう対象である。時代の中で生きている我々は、同時代の様々なイメージの中で、日々ソレを呼吸しながら自分を形作り、つまり〈時代を内面化〉している。そのように個々人やその表現に内面化された表象を分析するのは学問分野の領域であるし、「一般人には分からないが学問的に危険性が明らかなモノ」に対して警鐘を鳴らすのは、文系理系問わず学問に期待される役割だ。ただ、学者の意見が正しいとしても、それを規制することに社会的合意が得られるまでには段階が必要で、いきなり規制するのは乱暴である。――(5)
最後に、思考実験として二つの例を挙げたい。ひとつは「まいてつ×くま川鉄道」事件。鉄道をネタにしたエロゲを作っていたエロゲメーカーが地元鉄道会社に善意で「そのキャラの差分」みたいな画像をキャンペーン用に提供した(普通に着衣の絵)ことが大問題となり取り下げさせられたケース。(https://togetter.com/li/1031033)。もう一つは、「セーラー服の少女が、ボロボロになり、へその間際や太ももが丸見えのセクシーな姿になった画像を献血ポスターに使ったが全く問題視されていないケース」(https://eiga.com/news/20120528/10/) これらの線引きに対して「主観」以外の適切な理由が見いだせるだろうか? そして、主観以外の理由が見いだせないようなルールを作り運用するような状況で、表現は本当に萎縮しないか? 多少厳しくても合意が得られたルールが明確な基準で運用されていれば、表現はそれほど萎縮しないどころか工夫を凝らして隆盛しさえするだろう。だが、曖昧なルールが曖昧に運用される状況というのは、過剰な自粛が進み、結果的に表現の衰退を招く。
いま本当に必要なのは、上で挙げた(1)~(5)のような例のどれを許しどれを許さないのか、その明白な根拠は何か、をしっかりと論じることだと思う。戦後に猥褻と表現の自由を論じて争われた「チャタレイ夫人の恋人」事件では、弁護側が「文学性」とは何か、「わいせつ」とは一体何か、ということを定義するため客観的なデータを示して懸命に論陣を張ったにもかかわらず、規制を主張した側が極めて感情的、主観的に「明らかに猥褻」、「超弩級の猥褻」といった無茶苦茶な陳述で切って捨てたため、結局、何の議論の深まりも得られなかった。(そしてもっと猥褻なものは普通に社会で流通していた。)昨今のいくつかの表現に対する「明らかにエロい」といった極めて感情的な告発は、残念ながら、魔女狩りにも似たこのような表現規制の過去を彷彿とさせる。
哺乳類では当たり前の行動だから、人間でやる人が居るのも本能なんだろうな。
マシュ・ダーヤンっていう植民地時代の南アフリカ哺乳類学専門の人が発表した
1912年の『哺乳類の文化的性行動とヒト』という論文の中で詳しい説明がある。
哺乳類のオスが、メスの顔面に対して男性器をこすりつける行為は、イルカ・ライオン
つまり陸、海両方の哺乳類のみで見られる行動で、生得的ではないが群れの一部でその行動をすると皆し始める、
「生得的トリガー文化行動」っていう、遺伝子に組み込まれているが、何かの拍子に後天的にその行動をし始めるという行動の一つ。
その理由は、顔面は餌を食べたりモノを調べたりするのによく使い、より多くの菌にさらされているので、
そこに男性器という粘膜を擦り付け自己に軽く感染させて、女性器に挿入。結果的に子供にもその菌は晒されるので、抗体を持った子供が生まれるわけ。
1912年当時はまだそういう人間の性的な文化行動については広がってなかったけど、
現代で改めて考えてみると、AVでやってる人も多いし、結局マシュダーヤンの仮説というのは人間にも適応することが出来る
ってのが結論。
なんとなく気になって調べてみたよ
原尿からの尿酸の再取り込みを抑制する。プロベネシド(有機酸)は尿酸よりOATPに対する親和性が高く、尿酸の再吸収を競争的に阻害するので、尿中に尿酸が残り、血中の尿酸濃度が低下する。
尿酸を排出しやすくするってのは、尿酸値が高いと排出する前に体に戻っちゃうからなんだね。
飲んでも飲まなくても尿の濃度は変わらなくて、飲むと尿から再度体に入るのを抑制するから結果的に排出量が増えるって構造みたい。
勉強になるね。
朝食に食べるパンを買いたいが、普通のパン屋で食パンだけ買うのも憚られる。
そのため菓子パンや調理パンも一緒に購入してしまい、コストもかかるしカロリー摂取量も多くなる。
・胸の大きさ
アニメや漫画によくある誇張された胸の表現で非常識かつ性的で良い。
オタク側の人間には無謬性を求めるあまり「性的ではない」や「普通である」や「胸そのものを性的とするのか」などと正当化や論点ずらしを行うものもいるが、性的であることはオタク自身が理解していると思う。
我々は性的なものを性的であることを認めた上で、戦うべきである。
ポスターを守るために「性的ではない」というような道理を曲げる主張をしてしまえば、それは頭のおかしい活動家と変わらないということを自覚しなくてはならない。
「性的な要素が強いため公共性の高い献血には不適当」という「世間」からの批判などが出ればこのような掲示は中止することが、オタクの社会的立ち位置を結果的には良くするのではないかと思う。
フィクションにおける胸の大きさは性的な記号表現であるのはもちろん、テンプレートに沿ったキャラクターの性格を表すことにも使われている。
英語圏など一人称が豊富ではない地域は髪の毛の長さや色、肌の色や体格、出身地や家族構成などなど細々としたディテールを書くことでキャラクターの性格を表している、国内外に問わずオタクというのはテンプレートを食う生き物であり、それゆえトレンドとして「ツンデレ」や「暴力系」「うざいけどかわいい後輩」などが発生しているのである。
赤らめた顔については先に説明したようにオタクというのはテンプレートを食う生き物であるため、かわいいキャラクターが顔を赤らめる表現というのは女の子の恋や発情などを表現するときに多く使われるため、そういったコンテンツを摂取し続けているオタクの脳は反射的に反応してしまうため、これそのものは性的ではないが、オタクの脳にコンテクストとして性的なインプットを期待したものではないかと思われる。
セリフについても、明らかな童貞の暗喩であり、作品内でもある童貞いじりやインターネット上のお約束を踏襲したものであるため、文章そのものは性的でなくともオタクの脳への性的インプットを期待したものである。
上記の点から単体でみると性的なキャラクターの載ったポスターであるが、オタクのコンテクストを考えるとかなり性的な内容、または性的に捉えることを期待したないようであると言える。
イスラム社会では、女はヒジャブをかぶって、夫以外の男性と接触することが禁止されている。
結婚相手以外の人間と性交渉することは犯罪で、処女でないと結婚できない。
このような競争の制約された状況において、自由恋愛が解禁されて、【いつ?】
・一生懸命化粧をしたり
・コミュ力や話術
などに長けた人間が、家柄抜きで実力で競争を勝ち抜く社会が到来
最初は女性に都合が良かったけど、この戦略に対応した恋愛工学男が発生。
話題の映画「ジョーカー」を観た。3日間もの間、印象的なシーンが鮮明に再生され、日常生活を送りながらも映画の中の世界が頭から離れなかった。観賞中は息が詰まるような緊張感が続き、ショッキングな描写に気持ちは激しく動揺した。
これは一体どういう映画なのだろう。なぜこんなにも強く私の脳内を占拠したのだろう。これは議論を呼ぶ名作なのか、はたまたただのトラウマ体験なのか。作品に散りばめられたエッセンスから頭をよぎった監督たちの紹介とともに答えを探っていきたい。
まず系譜としてはマーティン・スコセッシなしには語れない。スコセッシは言うなれば妄執の父である。社会が見せる夢に取りつかれた青年が現実と妄想の間でもがく、という題材をひとつのテーマとしている監督だ。アメリカンドリームを皮肉たっぷりに描き、鬱屈した現実とポップな理想を同居させ、若者が狂信的な思いを貫くことで結果的に社会がカウンターパンチを食らう、という内容に特徴がある。主人公にはしばしば常識や倫理観が欠如しており、それが社会との隔絶や陰惨な事件を起こす引き金となる。「タクシードライバー」や「キングオブコメディ」でうだつの上がらない妄想癖の男を演じたロバート・デ・ニーロが「ジョーカー」で今度は人気番組の司会者を演じているのも意図的な皮肉だろう。社会の片隅で生きる男が自意識を肥大させて全能感を獲得するという構図は明らかにスコセッシに倣ったものだ。
だが、スコセッシ作品と比べると「ジョーカー」の方が観ていて受けるショックは大きい。はじめから狂気じみたスコセッシの描写する青年と違い、「ジョーカー」の主人公アーサーは特殊な障害こそあるものの、それなりの分別を持って慎ましい生活を送る恵まれない男なのだ。尊大さよりも不遇を強く感じさせる分、彼が段々と堕ちていくのを見るのはつらい。
似たような余韻を残す作家で連想するのはダーレン・アロノフスキーだ。アロノフスキーは絶望の職人である。こちらも現実と妄想の対比によって物語が進行するが、えげつないほどの乖離や物理的に後戻りのできない状況を生み出すことによって観客もろとも登場人物を絶望へと叩き落とす。往々にして個人における心理状態の変化に焦点が当てられ、描写に肉体の変容を伴うのが特徴だ。職人と称したのは、映像や音楽を神経質なまでに駆使して恐怖や落胆、憧れといった感情を煽っていく技巧派スタイルからだ。その画面は暗く、重く、そして美しい。「ジョーカー」を観て「レクイエムフォードリーム」や「ブラックスワン」を想起した人も多いだろう。アロノフスキー作品同様、「ジョーカー」には喪失そのものを賛美する鎮魂歌のような要素がかなりある。観客に登場人物と同じ夢を見させた上で、それが緊張とともに深い闇に飲まれていく過程をただただ美しく映し出すのだ。
では、「ジョーカー」の監督であるトッド・フィリップスの独自性はどこにあるのか。それは、社会的にインパクトのある題材を濫用し刺激的すぎるほどリアルな描写にこだわっているにも関わらず、全体として悲壮感を打ち消しにかかっているところにあるように思う。まさにジョーカー的とも言える、悲劇か喜劇かは主観次第、というのを地で行くような趣きがある。スコセッシが愛に飢え、アロノフスキーが闇を愛でる一方で、フィリップス節はなんとなくはじめから終わりまで人々の孤独が平行線のまま、深刻なのにどこか表面的で、楽観していて投げやりなのだ。
過去作の「ハングオーバー」でもトッド・フィリップスはそんな調子だった。いたずらに過激なモチーフを画面に持ち込み、場当たり的に対処していく。物語は緻密に構成しながらも強いテーマ性は内在させず、作り手としての態度はどこか楽観的だ。調べてみるとドキュメンタリー出身とのことで合点がいった。おそらくは観客を引きつけておく演出は最大限発揮しながら、事象としてはすべてありのままを受け入れる、ということである。男子寮、バチェラーパーティー、そして今回のジョーカー誕生といい、悪ふざけと相性の良いトピックを選んでいるのもきっと彼らしさなのだろう。待てよ、よくよく考えれば彼の切り口は「やりすぎ男子」そのものじゃないか。
だとすると、やはり「ジョーカー」という作品は社会的意義を議論するには不向きな映画だろう。映像表現に長け、社会をありのままに捉え、悪ふざけを好むトッド・フィリップスという監督が、人々にトラウマを植え付けるほどやりすぎてしまった結果できた映画なのではないか。社会問題全部盛り、過激表現マシマシでありながら「そういうこともあるさ」と爽やかに言わんばかりの演出にはそれで説明がつく。それは確かに時代を反映しているかもしれないが、風刺の意図や分かりやすいメッセージはおそらくそこにはない。
新時代のやりすぎブラックジョーク、それが私の「ジョーカー」に対する結論である。
※ 本当はクリストファー・ノーランにも言及したかったが、うまくまとまらなかったのであえて割愛した
非モテが女にモテるように努力して結果的にアルファオスに進化することができれば、アルファオスの絶対数が増えるってことだから女からしても得だからね
女の中では男の性的快感というのはモテ大会上位入賞者に進呈されるトロフィーなわけだから大会に参加せず横からトロフィーを掻っ攫ってったり
宇崎ちゃんの献血ポスターを擁護してるオタクも、この画像で献血ポスターを作ったら激怒するし、二度と献血に行かなくなるでしょうね。 pic.twitter.com/onQWFL3nDZ— けいた (@0721_gg) October 20, 2019
https://twitter.com/0721_gg/status/1185820928510324737?s=21
ここまでぶっ飛んだことを言う人に対して言葉を尽くして対話を試みたとしても、いつのまにか自分が伝えたい内容とは真逆のメッセージとして相手に受け取られたり、あるいは全く聞き入れてもらえず罵倒で返されたりなどして、結果的に深刻なディスコミュニケーションに陥ってしまうようなケースを自他共にたくさん見てきた。
でも、批判する側が論点を整理せず雑な言葉を投げたり茶化したりしたところで、このツイ主は何も理解しないだろうし溝は深まるばかりだとも思う。
なので自分は「あなたのその意見はとても問題がありますよ」みたいな内容のことを一言二言でリプするぐらいで終わってしまう。正面から対話しに行こうとする人は体力がすごいなぁと思う。
私は昨年4月東京大学理科一類に入学、意気揚々と授業に臨むが……。
Sセメスターでぽつぽつと、Aセメスターでごっそり単位を落としたので自主留年した。
様々な授業に苦しめられる。
ALESSは毎週毎週締め切りギリギリに徹夜して課題を提出していた。当然内容の理解なぞできるはずもなく、リスニング力不足のせいで授業で教員の英語も全く聞き取れず、ただひたすら苦痛の時間が続いていた。
そんな中で二外の勉強に身も入らず最終的に授業に行かなくなってしまった。当然二外は落とした。
力学は未知の数学的処理を既知のものとみなして授業が進行していた。板書も死ぬほど早い、理解するより早く授業が進む。
またも授業に苦しむ。
二外は当然意味不明になって授業に出なくなる。
そしてなにより物理実験がゴミすぎる。ただひたすら実験ノート写経させて何が身につけさせたかったのでしょうね。
そんなこんなでA2ターム始まったあたりから普通に学校に行けなくなってしまい派手に落単。実験担当者にはとてもここには書けないような感情を抱いている。
英語中級が意味不明すぎる。オール英語の授業とか拷問ですか? 普通に教員の英語が聞き取れない。
二外はALESSが無い分まあまあ勉強する余裕ができたので良かった。ALESSはクソ。それはそうと二外にはとてもここには書けないような感情を抱いている。理系で二外やる意味あんのか。
ついでに下クラに落ちたが下クラとの関係性は最悪である。まあ別にどうでもよいんだけど。
何だかんだで英語中級以外はそこそこ楽しく過ごせて、結果的にフル単できた。やっとのことで勉強の楽しさを思い出せたので頑張れそうかなーって。
実験の単位が取れていた分かなり心穏やかに過ごせている。やはり実験が諸悪の根源なので滅ぼさねばならない。
まあまあ今のところ順調にできている。心穏やかに過ごせている。
ALESSと基礎実験は滅ぼさねばならない。
男オタクの世界は自浄作用があるから、そういうクソリプ送る厄介オタクはほかのオタクに晒されて、まとめサイトにまとめられて、炎上して、結果的に外部の目にまで届くっていうだけなんだよな
ポスターとか地下鉄マスコットキャラのセクハラ問題が一定期間を空けて炎上すると表現批判側にメリットがある。
意図した作戦なのか結果的にこうなったのかわからんけど、こんなふうに忘れられたころに炎上を繰り替えすと表現擁護側が消耗するのだ。
いままで10年くらい同じような公共の場所にアニメイラストをどうするか?って問題見てきたけど
批判側から「こういった基準で決めよう」とか「丁度いい着地点を見つけよう」という発展的な発言を見たことがない。
擁護側は楽しんでやってることにいちいち口出しされたくないから、折衷案があるならそこにフォーカスして話し合いたいが批判側がそれを許さない。
批判側が各人で好き勝手言って「アレが駄目」「これが駄目」とやってそれを擁護側が一個一個反論していく
悪いところ探しは楽だけど理性的な反論というものは時間が掛かる。
批判側に理論的な発言者が居ないのは、そもそも対話が目的ではなくて、擁護側が反論を繰り返し消耗を狙っているのだとしたら効果はあると思う。
「消費」というのは現代の大量消費社会のイメージからくる概念で、〈一方向的な都合によって使い尽くすようなモノとの向き合い方〉を意味する語なのね。継続的な協働・使用関係みたいなのとは反対の概念。
それが、〈自然や事物と対話しつつ向き合ってきた〉という、仮想の「前近代」へのノスタルジーって言えばそらそうなんだけど、たとえば現代でも、職人さんが自分の道具や加工する素材と丁寧に「向き合い」ながら物作りをしているとき、その職人さんが道具や素材を「使用している」とは言っても「消費している」という言い方はしないんだよ。同じく、たとえばその製品を「購入して使用して」も、職人さんのスタンスを知りその製品を大事に使う人の行動は「使用」であって「消費」ではない。しかし、たとえば同じ製品を「購入し使用した」人が、単に自分の好みでデコったりインスタにアップして、飽きたらポイと捨てるような使い方をしたら、それは「消費」だと言えるだろう。その場合、消費しているのが商品なのか、職人ブランドによる商品というイメージ(記号)なのかは、また微妙な議論が必要になると思うけど。これはあくまで余談ね。
だから、子作りをしたフェミニスト(ちなみに、フェミニストには男性も女性もいる、というのはいいよね?)が相手を「性的に消費」したかどうかは、一般的には、人によるとしか言えないんだよ。相手のセクシャリティや相手自身と向き合いつつ継続的協働的に関わり続けているなら、それは「消費」ではないと判断していいだろうからね。もちろん、ただ「子供を作る」ためだけに相手と関わったりしたのなら、あるいは、短い一定期間の性的な関わりだけが目的で子供はその生物的な帰結に過ぎないのなら、「性的消費」と呼ぶに値することがあったかもしれない。それなら確かに批判はされるべきだろう。だが、それを判定するのはなかなか難しいよ。たとえば、結果的に離婚していたとしても「当時は真剣に向き合っていた」と言われたらそれを否定するのは難しいのだからね。
もし、以上のことを理解した上で「性的消費」と言っているのなら、それはあなたの性の価値観に「消費」以外の性的な関わり方がない、つまり他者と継続的に向き合う性的な関係を想像できてないということを意味してしまうだろうね。それはなんというか、なかなか不幸なことだとは思うけど。