はてなキーワード: 直ちにとは
「それはお前のお気持ちにすぎないから、客観的な基準がないから、正当化されるだけの論理的な理由がないから」と言って屁理屈で逃げてばかり。
結局オタクの言い分はこうだ。「客観的に定義不可能な《清潔感》など持つ必要がまったくない」。しかしこれはとても極端な飛躍した結論だ。
もちろん「完全な清潔感」は実現不可能なものだ。それを要求するのは馬鹿げた話だ。これには誰もが同意できるだろう。
しかし、だからといって「清潔感を持つ必要はまったくない」というのは同様に極端な話だ。オタクの論理というのはとても幼稚で単純に見える。0か100かという議論しかしないのは戦略的にそうしているのか無自覚にそうしているのか謎だが。
「完全な清潔感」を100として、「完全な不潔」を0としよう。たしかに「完全な清潔感」という100は否定される。これには誰もが同意するだろう。
さあ、100が否定された。ここからが問題だ。オタクは100が否定されたので、清潔感という概念すべてが否定されたと結論する。
世の中には「ある程度の清潔感」というものがある。数値にすると1-99の間だ。そしておそらく世間の人々は60-80あたりを目指すことになる。
世間の人々が「清潔感を持て」というとき、それは清潔感60(-80)を意味しているわけだ。
しかし、オタクはその発言を理解する気がないから、「お前は清潔感100を持てといっているが、それは不可能な話だ。はい論破」とする。
これは完全に話が噛み合っていない。なぜか実現可能なレベルの清潔感60の存在をオタクは無視している。
こういうことを言うと、「清潔感60もお前のお気持ちだろ」と言うだろう。
そうやってオタクのなかで清潔感の概念が無限後退してやがてというより直ちに自動的に消滅する。
ある程度世間で共有されている曖昧な認識というものを「客観的ではない」「科学的ではない」「論理的ではない」という理由で却下する。これがオタクだ。
たしかに明確な基準はない。ただし、基準がまったくないというわけではない。明確な線引きをするのは難しいが、たしかに世間で共有されている認識というのはある。それは明確な線というものではなく、ある程度の幅を持ったものだ。基準は臨機応変に柔軟に変わるものだ。
オタクはこういうことが理解できない。いつも完全な基準があるべきだと思っているし、完全な基準がないならば、そんなもの正当化されえないと思っている。
感じたこと
・人が少ない
通路がとても広かった
・変な人が少ない
スペース前で15分ノンストップでしゃべりまくるような変な人
・若い人が少ない
おいおいガキはこんなところよりふさわしい場所があるだろう
というような若い人が少なかった
・コスプレイヤーが少ない
・スタッフの練度が少ない
撤収時に机や椅子を回収してる人の横でだらだら喋るスタッフが複数
撤収時に椅子や机をせっせと運んでる人の目の前でずっと喋ってるサークルが複数いた
2015年よりひどい
・活気が少ない
島中に熱気が溢れてなかった
2015年は煙が逆流してくるくらい熱かった
新刊出すところが少なければ挨拶回りのための顔出しみたいなイベントになってる
新刊を求める声がそこら中から聞こえその度に謝るサークルばかり
この説明を読んで文系は論文の正確性が担保されていない、信頼性が低いとか言ってるのは何を考えているのだろう。
例えば学士助手は、「学内でみっちり審査する」ことで正確性や信頼性を担保している。言ってみれば匿名性の無い査読を受けているようなものだ。査読が必ずしも匿名性を要件とせず、維持できてもいないのだから、学内のみでチェックをすることが直ちに正確性や信頼性を失わせるものではないだろう。
そして、それは本として売られて、他所の研究者による批判にさらされるのであるから、ゴミみたいなモン出しちゃったら師匠の評判まで下がる。そう考えていくと、一応の信頼性を担保する程度の査読よりは師匠の指導をみっちり受けながら徒弟制度みたいな書き方された論文のが信頼性が高いとまで言い得るではないか。
「百万回生きた猫」(ネコノナマエ) を「星を継ぐもの」(ベンジャミンバトン) で継承するとどうなるか(★)。
まずベンジャミンがカミーラを殺す。カミーラの死後の念として念獣ネコノナマエが具現化する。念獣はもちろん死んでいる使い手の操作を受けることはできないので予め定めたプログラムにしたがって自律動作するはずだ。だからネコノナマエは攻撃してきたベンジャミンを殺す。奪った命を糧にカミーラを蘇生する。ネコノナマエは消える。ベンジャミンバトンによりベンジャミンにネコノナマエが継承され、しかしベンジャミンは死んでいるので直ちに再びネコノナマエ発動。カミーラを殺害する。そしてベンジャミンを蘇生する。終わり。いや違うな、カミーラが死んだ時点で能力はベンジャミンに移るのか。ならネコノナマエは発動しない? 能力の継承を奪取と考えないで、同じ能力を得る、とすると、カミーラが死んだ直後にベンジャミンバトンでベンジャミンもネコノナマエを得るが、カミーラのネコノナマエがベンジャミンを殺す。ベンジャミンのネコノナマエが具現化。カミーラのネコノナマエがカミーラを蘇生、直後にベンジャミンのネコノナマエが復活したカミーラを速やかに殺害。ベンジャミン復活するも即座に死亡、カミーラ生き返る、すぐ死ぬ… 果てしなく繰り返す。いやそうじゃないか。ネコノナマエの説明は「死後発動し攻撃して来たものの命を以って蘇生する」だった。だから命を奪う相手は術者でなく念獣だろうか。ならばカミーラが殺害されたあと念獣はベンジャミンの命を奪う。この時点で能力継承、念獣具現化。ベンジャミンのネコノナマエがカミーラを蘇生しようとしているネコノナマエを攻撃する。蘇生が間に合わなければカミーラ死亡のままベンジャミンだけが息を吹き返す。間に合ったならカミーラ復活するも念獣は失われ、ベンジャミンが復活してカミーラはやはり殺される。いやいや最初にベンジャミンが死んだあと継承された念獣がでてくる前にカミーラのネコノナマエが急いでカミーラを起こして消えられればベンジャミンのネコノナマエは攻撃失敗となる。するとどうなる? おそらく標的を失った念獣ネコノナマエは地縛霊みたいにその場にとどまり、主人の仇をずっと待ち続けるだろう。カミーラは去る。すべてはタイミングの問題だ。
この件.
https://togetter.com/li/1274544
査読論文持ってないひとが責められるのはまあわかる(査読なし論文でも優れた論文というのは有り得るし,そういうのも業績として認められるべきではあろうが,このご時世ではまあ査読論文は持っといた方がいいよな……).でも英語論文を持ってないことが責められる理由になるのは本当に理解できない.
何度も繰り返すけど,フランスでもドイツでもロシアでもスペインでも,そしてたぶん中国や韓国でも,文系の研究業績の大半は自国語だから!
文系の研究業績が自国語で積み上げられるのは,世界標準だから!
(インドやサハラ以南のアフリカ諸国のように長いこと西欧の植民地になってたり言語の数が多すぎたりして大学教育を英語でやっている国や,ツバルやナウルみたいに小さすぎて自国語のアカデミアが成立しない国を除く.そういう国がうらやましいと言うならもう何も言えないけれど)
そりゃ英語論文を持ってたらすごいと思うよ.でも英語論文がないことが叩かれる理由になるのは本当に理解不能.
そもそも,社会学には膨大な日本語の研究蓄積がある.いくつもの査読誌があり,日本語で査読を経た研究成果が積み上げられている.博論をもとにした出版も多く出ているし,入門書から何から日本語で一通り揃うようになっている.
自国語で用が足りるんだから,論文の執筆言語は自国語でいいだろ.繰り返すけど,それが世界標準です.
イギリスやアメリカの学者が英語で書き,フランスの研究者がフランス語で投稿し,ドイツの博士がドイツ語で教授資格申請論文の審査を受け,ロシアの院生がロシア語で報告している中で,なんで日本の教授が日本語の業績しか持っていないのを責められなければならないのか皆目わからない.
これは社会学に限ったことじゃない.政治学だって,歴史学だって文化人類学だって,文学だってそうだ.だいたいどの分野でも有力な査読つき学術誌を持っているし,それらの雑誌は日本語で書かれている.
そして日本語というのは,世界でも有数の学術言語だ.もちろん英語ほどの網羅性は持っていないかもしれないが,ドイツ語やロシア語ほどの重要性は持っていると思う.それは,先人たちが日本語で積み上げてきた研究業績の賜物だ.
「世界でも有数の学術言語」というのもいろいろな尺度があると思うが,どれだけ広い分野で高度な研究を積み上げているか,というのをここでは述べたい.
もしこれを読んでいるあなたが,アフリカに興味を持って,アカデミックな本を読んでみたいと思ったとしよう.大学図書館で文化人類学の棚の前に立てば,数ダースの優れたアフリカ研究があなたの前に現れるだろう.その多くが,西欧の学者と同じようにアフリカでフィールドワークをし,日本語と西欧語の先行研究を読みこなした上で書かれたものだ.
あるいは,ヨーロッパの歴史を知りたいと思ったとしよう.あなたは造作もなく,フランスやドイツやイギリスやスペインやロシアや,そしてチェコやポーランドやポルトガルやボスニアについての研究書を見つけられるだろう.どれも現地語の史料や文献を消化した上で,日本の歴史学の積み重ねてきた問題意識と接続されている.
それとも,言語学に興味があるだろうか.心配はいらない.オセアニアの数百人しか話していない言語の文法を記述した本も,ヨーロッパの小国の言語の音声を論じた本も,中東の言語政策についての本も,あなたは探し出すことができる.政治学? 問題ない,EUの制度,アメリカ大統領選挙,韓国の歴史認識,ロシアの愛国主義,湾岸諸国の君主制,どれも日本語で最先端の研究が読める.
こんなことは当たり前に思えるかもしれない.でもこれは決して当たり前のことじゃない.
とあるアジアの国に行ったときに書店に行ってみた.西洋史の棚に並んでいるのはどれもそのアジアの言語で書かれた本だったが,著者はみな西欧人だった.それらはいずれも西欧語からの翻訳だったのだ.たまにそのアジアの国の著者が書いた本もあったが,イギリスとかフランスとかメジャーな国についての本ばかり.マイナーな国の歴史について扱った本を開いてみたら,参考文献はほとんど英語で,ちょこちょことドイツ語やフランス語が挟まる程度.要するにその本を書いた学者はそのマイナー国の言語を読めなかったのだ.日本には,そのマイナー言語を読める歴史学者が何人もいるのだが.
あるいは,ヨーロッパの小国の書店.その国は小さいので国民の多くが英語を達者に話すのだが,本屋を覗くと,自国史や周辺諸国の歴史についての本以外は英語の本がそのまま置かれていた.もしも遠いアジアの国に興味を持ってしまったら,その国の人は,自国語のペラッペラの入門書の次は英語を読まなければならないのだ.日本語なら,遠いヨーロッパの国についても専門書が手に入るのだが.
たとえ外国語が読めないシロートだろうと,ある程度自国語で難しい本を読める力があれば,中世ヨーロッパやアフリカ社会やラテンアメリカの先住民や近世朝鮮史や東南アジア政治についての最先端の研究書が読める.そんな豊かなアカデミアを有している国,そんな潤沢な研究蓄積のある学術言語は,実はそんなに多くはない.
私の感覚だと,英語の網羅性には劣るし,フランス語の豊かさには負ける気がしないでもないけれど,ドイツ語やロシア語並の水準に達してはいると思う.もちろん自国民ゆえのひいき目かもしれないし,カバーしている範囲が微妙に違っている以上正確な判定は不可能なのだが.
カバーしている範囲が違う,というのはどういうことか.たとえば,上で英語の網羅性に劣ると書いたが,英語よりも日本語のほうが研究蓄積の豊かな領域というものがある.当たり前だが,日本史については英語の文献よりも日本語の文献の方が圧倒的に豊富だし,日本史以外でも前近代の中国史についてはまだまだ日本語の方が英語よりも網羅性が高いと思う.なので前近代の中国史については,読者はともかく,歴史学者は中国語の他に日本語を読まなければいけない.その人がアメリカ生まれの英語ネイティブな白人であってもだ.ザマーミロ.
というか,実は文系分野に関しては英語の網羅性は理系ほど高くない.そんなのは当たり前で,ロシア人はロシア史についてロシア語で書き,カタルーニャ人はカタルーニャの言語政策についてカタルーニャ語で書き,チェコ人はチェコ文学についてチェコ語で書き,韓国人は韓国社会について韓国語で書いているのだから,英語の文献を読むだけでそれら全ての情報が手に入るわけがなく,本格的に研究しようと思ったらそれらの言語で書かれた文献を読まなければ話にならない.日本事情について一番詳しく正確な研究が読めるのは,英語ではなくて日本語だ.
なので,上で挙げた主要な学術言語は,それぞれ積み重ねが豊富な領域とそうでない領域がある.得手不得手というやつで,たとえばマグレブや西アフリカの地域研究ならフランス語で,東ヨーロッパの前近代史研究ならドイツ語で,旧ソ連圏の研究ならロシア語で重要な研究が蓄積されてきたので,江戸っ子だろうがロンドンっ子だろうが研究を志すのならそれらの言語を読まないといけない.中国近世史を専門にする者が日本語を読めなければいけないのと同じだ.これらの分野で英語で書かれた研究だけを読んで済ますことはできない.
この辺が,理系とは事情の違うところなのかもなぁと思う.理論物理学とか分子生物学とか再生医療とか深層学習とか,ほぼ全ての分野で英語さえ読めれば研究には用足りる(んだよね?).英語に最先端の研究のほぼ全てが流れ込み,あらゆる情報が蓄積される.しかし文系では違う.英語には限られた情報しか流れ込まず,最先端の研究の全てが英語で提供されるわけではない.
なので文系では,英語が理系ほど特権的な地位を占めているわけではない.もちろん英語文献が読めるのは今や前提だし,重要な先行研究が英語なら読んでいないと問題外だ.けれど,英語ではなく自国語の研究でも研究業績にカウントされるし,外国語での業績といっても英語に限られるわけではない.韓国語やトルコ語で論文を書くほうが英語で書くよりも楽だ,と言う研究者だっているし,日本語でも英語でもろくな業績がないがそのかわりロシア語で何本も論文を書いているという研究者もいる.
というわけで,文系の研究者が英語論文を書いていなくとも,それが直ちに問題だとは思わない.査読論文にしても,そりゃゼロってのはちょっとどうなの,って思うけど,研究者が集まって作った本の一章として論文を発表するとか(いわゆる論集ってやつね),出版社が出してる研究者~教養人向けの雑誌に依頼を受けて研究成果を発表するとか(岩波書店の『思想』とか,青土社の『現代思想』みたいなやつね),査読されてないけど業績としてカウントされ得る論文の発表形態というのはいくつもあるので,査読論文以外にそれらも論文としてカウントしないとフェアじゃないと思う(ただ,私は査読がついていない媒体に出すのは怖いなと思ってしまうので,なるべく査読誌に出している).
別に理系のひとが査読つき英語論文のみを業績としてカウントし和文論文は勘定しないというローカルルールをお持ちなのは結構なのだが,そのローカルルールを文系に押し付けないでいただきたい.
私が危惧しているのは,上で書いたような日本語で積み上げられた先行研究が,日本人に真っ当に評価されていないことだ.
文化の豊かさというものを考えたときに,自国語で世界中の情報を知ることができるということが,どれだけ重要なことか.まして,日本はコンテンツ産業が主要輸出品目のひとつだ.中世ヨーロッパやアフリカの部族社会について日本語での研究が充実していることが,創作者が想像の翼を広げる上でどれだけ有利か.たとえば最近,Cuvieという漫画家さんが『エルジェーベト』というオーストリア=ハンガリーを舞台にした漫画を描いていたが,巻末の参考文献にはずらりと日本人が和文で書いた研究が並べられていた.
別に文化に限ったことではない.政治や経済,そして人権についてもそうだ.ルワンダの虐殺やスレブレニツァの虐殺について日本語で書かれた研究があるのとないのとで,どちらの方が日本人にとって国際情勢を理解しやすくなるだろうか.外国で一旗揚げようと目論む商売人にとって,その地域の専門家が書いた本や論文が和文で手に入るのと入らないのとで,どちらが現地の文化や歴史を理解する助けになるだろうか.欧米のフェミニズムについて日本語で研究を積み重ねる学者がいるのといないのとで,どちらが日本女性の権利の向上に資するだろうか.
すべての国が自国語でこれだけ充実したアカデミアを持てるわけではない.人口があまりに少ない国ではどうしたって物理的な限界があるし,人口が多くとも植民地支配の歴史が長く自国語の大学教育が充実していない国では歴史的遺産がその発展を阻む.
日本人は恵まれた研究蓄積にあまりに無頓着なばかりか,その豊かさをみずから捨て去ろうとしている.それが私にはもったいなく思える.
英語は,世界の始まりから覇権言語だったわけではない.明治時代の日本の医師はドイツ語で論文を書き,外交官たちはフランス語で交渉していた.英語が外交や学術の分野で覇権を握ったのはせいぜい戦後のことで,それまではフランス語やドイツ語と同格の存在だった.今も文系ではprimus inter paresに過ぎない.ひょっとしたら将来,欧米の物理学者たちが中国語で論文を書くことになるかもしれない(そのときは現在の私たちが定冠詞や三単現のsに悩まされるように,欧米人が泣きながら漢字を習得するのだろう.そう考えるとなんとも愉快な未来予想図だ).せいぜい百年単位の覇権言語の移り変わりにあわせて,自国語の学術言語としての地位を貶める必要はないと思う.それは私たちの社会の豊かさを,長期的に損なうことなのだから.
最後に.
どうせ和文論文しか持ってないやつの負け惜しみだろって思ったひとがいるかもしれないけど,和文論文だけじゃなく英語論文も書いたことあるし,英語以外の外国語での論文も持ってます.今それとは別の外国語での研究発表を準備中.私より多くの言語で研究報告してきたひとにならともかく,たかが1言語か2言語でしか論文書いてないガラパゴスの住人にだけは文句言われたくないですわ~~~~~~.
英語論文が優れているとは言わんけど、査読なしの研究なんてゴミだし。
id:bocola 自分でも言ってるように査読なしなのが問題。査読なしの論文なんて、読書感想文と変わらない程度の価値。やはり文系は無価値だと改めて思った。
arXivのない世界線からやって来たのかな? グリゴリー・ペレルマンって聞いたことない? 査読なし論文が業績としてカウントされてるひとだけど.
事前の査読は,論文の信頼性を担保するための手続きのひとつであって,それが欠けている「から」ダメ論文というわけでも無価値というわけでもない……というのはわかってくれるよね? 当たり前だけど論文の価値は最終的には書かれている内容に依存するわけで,だからこそペレルマンは査読なし論文であってもポアンカレ予想を解いたと認められたんだよね.
私も査読はないよりはあった方がいいと思うけど,査読がすべての論文につくわけではない分野のすべてをダメと論ずるのは不当すぎる.まあ最近は文系も査読が重要になってきているし,若手は査読つき業績を増やしたがっているけれど,査読がつかないからダメとは限らない,ってだけの話.当たり前だけどダメダメな論文は後発の研究によってちゃんと批判されるか鼻にもかけられず無視される.公募の際には論文を提出させたりするんだから,査読なしダメ論文を量産していればそこで撥ねられるでしょ.理系のローカルルールで事前の査読が必須なのはよくわかったけど,そのローカルルールを文系に敷衍されても困る.
id:zyzy まぁでもこの噛みつきは、もうすでに南京大虐殺の時に通った道だし、虐殺否定論者と同じ轍を踏み続けている以上、恐らくオタにこの説明が通ることはないんですよ。
私もオタクですが.
1年と3ヶ月前の父の日に、高校生の娘とカービィオーケストラを観に行くという幸運(https://anond.hatelabo.jp/20170619135108)に一生の運気を使い切ってしまったように思われた私こと娘の親父の内緒日記である。
昨年、カービィ生誕25周年の特別企画で開催されるに至ったと思われるカービィオーケストラだが、それも過ぎてしまい次の節目は30周年だろう。30周年と言えば2022年4月27日であり、すっかり娘は成人してしまっているので、さすがに親父と出かけるなんてことにはならないに決まってる。
もはやここまでか、と物寂しい思いにふけっていた私に朗報が舞い込んだ。東京限定であるものの「カービィカフェ」なる飲食イベントが開催されるとのことだ。もちろんこの情報は娘が先に察知していたのだが、なるべく全種類を食べたいものの、メニューの種類が半端なく、一回でのコンプリートは望むべくもない、というのが娘の抱いた率直な印象のよう。
かつ、この手のイベントの料理は、それがサイゼリアだったら399円で供していたであろうパスタに対し、ちょっとしたピンクい小物を添えるだけで1500円に化けてしまうという、例えればプラレーラーがNゲージに片足を突っ込んだときに抱く感情と同質のものとも言え、つまり端的に言えば胃袋の空き容量に比例して財力も必要なイベントなのである。
カービィオーケストラの争奪戦を経験しているので、事は理解した。連れて行ってやるから面倒な手続きをクリアしたうえで軍資金を手配せよって意味だ。
学校の友だちは、こぞって iPhone であるところ、同じものを欲しいとは言わないで、通話用の F801i に加えて 15000円弱の中華製のシムフリーな泥タブという二台持ち体制に満足してくれ、その泥タブに使う通信用シムだって、友だちらはキャリア謹製シムで「ギガが足りない」って声を揃えているところ、「メガが足りない」と愚痴をこぼしつつも殆ど 0sim の無料枠で賄ってくれているので、突発的なイベントに限って少々財布の紐を緩めるくらいは親として受忍すべきと認識している。
「分かった。。。」
9月21日は17時50分からパソコンの前に張り付き、18時と同時にひたすら F5 を連打しまくる任務に従事するのだが、予約サイト側は Cloudflare を導入してるぽい割には全く繋がらない。チケピの客の9割がボットという話を聞いたことあるが、きっとボット達が動いてるに違いない・・・娘の誕生月は10月なので、10月分の予約争奪戦には決して負けるわけにはいかないのだ。
とっさに Visual Studio を起動させ、新しいプロジェクト → Windows フォームプロジェクト(C#)を選択した。
デフォルトで用意された Form1.cs に WebBrowser コントロールを貼り付けて、DocumentCompleted をフックし、WebBrowser にエラーぽいメッセージ(門前払い)が出力された時に Navigate し直すコードを書いた。たぶん10分かからず書けたと思うが、アプリはエラーなく直ちに起動した。
突貫で作った割にはそのアプリは非常に効率よく、おおよそ2~3分で門前払いを突破したのだが、「上記の内容を確認しました」にチェックを打って「予約する」のボタンを押しても反応がないではないか。相手(サイト側)がきっと(少なくとも) UserAgent を見て WebBrowser コントロール であることを識別しているに違いない。
UserAgent を偽装するコードを書く暇もないので、FireFox で F5 を連打する作業に戻った次第だが、平均2秒に1回は押していたと思うので、1分間に30回、つまりは計500~600回は押したであろう暁にようやく「予約する」のボタンが出現する画面に遭遇できた。門前払いを突破できたら後はスムーズで、人数「2人」と娘が指定した平日の日付を指定した。スカイツリーから都心の”カタワレどき”を眺めて下りてきてちょうどいい時間帯をチョイスし、無事に予約成立。
9月21日午後6時50分、私は無事にカービィカフェ10月分の予約争奪戦を制したのだ。
※当初は嫁の予定も考慮したのだが、どうにも合わない上に「勝手に行ってきたら?」だったことを書き添えておく
カービィオーケストラ・大阪へは距離が近いこともあって日帰りで行ったのだけど今回は華の大東京である。前日が日曜日なので無理に日帰りに拘る必要もない。娘に聞けば、土曜日は部活があるが日曜日は用事がないとのことだったので「せっかくなので前泊して観光しようか」と打診してみる。
この際、嫁の許可なんてものはどうだっていい。娘が行きたいと言えば、それが総てなのだ。
みなとみらい、山下公園、中華街、そんなアーバンな地帯へは嫁と行ったことがあるが、それが結婚前だったのか結婚後だったのか、更にはどこを回ったのか、昔のことすぎて全く記憶にないので、横浜は娘のみならず私にとっても新鮮であるに違いない。
休前日はどこも予約で一杯だったが日曜の夜は空いていて、中華街に程近いロケーションでツインを取れた。
あとは、20年ぶりくらいに横浜のガイドマップを調べてコースを選定するのみ。当時はガイドブックだったが、今はインターネットがある。
媒体が変わって、ページを開くかわりにマウスをクリックするような時代にはなったけれど、ワクワク・ドキドキした感覚は20年前と何ら変わっていない。
藤子不二雄はあまり好きじゃないようだから、川崎のミュージアムは喜ばないよな
八景島までなら何とかなるかな。
夜は中華だよな、だけどボッタが多いって聞くし、よくよく調べないと
第1問
1,労働安全衛生法第66条
4,労働基準法第136条
第2問
年次有給休暇を取得した場合支払われるべき賃金として不適当なものはどれか。
1,対象企業の所在する都道府県最低賃金額に所定労働時間を掛けたもの
第3問
年次有給休暇は原則買い上げを行うことが禁止されているが、買上げが許容される場合を記述せよ。
(記述式)
第4問
2,年次有給休暇の取得に際しては人事権を持つものから承諾を受ける必要がある。
4,年次有給休暇は労働者の所定労働日数に比例して付与日数が異なる。
第5問
年次有給休暇について述べた各文について誤っているものはどれか。
1,年次有給休暇を取得するにあたって、皆勤手当が支払われない契約は不利益取扱いに該当し直ちに違法・無効となる。
2,年次有給休暇を、使用者に対する争議行為(ストライキ等)として取得することは拒否されることがある。
3,労働者が退職し、年次有給休暇を退職日までの間全てに請求した場合、時季変更権に基づき退職日以降に年次有給休暇を指定することができない。
4,年次有給休暇を、勤務日当日に請求した場合、拒否されることがある。
こたえ
第1問 3
第2問 1
第3問
時効・退職等の理由により年次有給休暇が消滅することが確実な場合。
第4問 4
3,出勤率が8割を下回る場合、発生しない。
第5問 1
1,沼津交通事件(最一小判平5.6.25)等、年次有給休暇の取得に伴って一部賃金が支払われないことが、それのみを持って公序良俗に反し無効とは言えない旨判示されている。労働基準法第136条には罰則がない。
2,林野庁白石営林署事件(最二小判昭48.3.2)等、争議行為に伴う年次有給休暇の取得は、年次有給休暇の趣旨に反し、賃金請求権が生じない旨判示されている。
3,年次有給休暇は労働契約が存在する限りにおいて発生するものであり、退職後の労働契約が将来に向かって存在しない日に対し、年次有給休暇を指定することはできない(昭和49年1月11日基収第5554号)。
4,年次有給休暇は原則として暦日で判断するため、すでに暦日が開始している時点から請求された場合、使用者は拒否できる(応じてもよい)。
奇妙なことがありました。
今日、母が突然「これに見覚えはある?」と二枚のポストカードを見せてきました。
一枚は富士山を写した風景写真。もう一枚には黄色の鮮やかな菜の花畑が写っていました。
どちらも少しレトロなことと黒ずんだシミのようなものがところどころにあることを除けばなんの変哲も無いポストカードでした。
こんなものは初めて目にしたと母に伝えると、昨日、今日と一枚ずつ居間のテーブルにいつのまにか置かれていたこと、父を含め家族の誰にも身覚えがないことを告げてきました。
その時はなんとも思わなかったのですが、富士山と菜の花畑はどちらも母方の親戚が最近不幸に遭った場所と関連があることに先ほど気がつきました。
どうも気味が悪いのですが、一体これはなんなのでしょうか?まさか霊的なものではないと思いますが念のため中山先生に何もないことを確認していただき、安心して大丈夫と母に伝えたいと思っています。
直ちに連絡をください。今すぐご家族以外との接触を絶ち、速やかに専門家によるお祓いをご自宅とお母様に対して行ってください。それまではお母様は一室に閉じ込め、誰とも口を聞かないよう厳しく監視してください。