2018-10-22

オタク議論の仕方が相変わらず極端だ

結局オタク自分清潔感がないことを正当化したいのか?

「それはお前のお気持ちにすぎないから、客観的基準がないから、正当化されるだけの論理的理由がないから」と言って屁理屈で逃げてばかり。

結局オタクの言い分はこうだ。「客観的定義不可能な《清潔感》など持つ必要がまったくない」。しかしこれはとても極端な飛躍した結論だ。

もちろん「完全な清潔感」は実現不可能ものだ。それを要求するのは馬鹿げた話だ。これには誰もが同意できるだろう。

しかし、だからといって「清潔感を持つ必要はまったくない」というのは同様に極端な話だ。オタク論理というのはとても幼稚で単純に見える。0か100かという議論しかしないのは戦略的にそうしているのか無自覚にそうしているのか謎だが。

「完全な清潔感」を100として、「完全な不潔」を0としよう。たしかに「完全な清潔感」という100は否定される。これには誰もが同意するだろう。

さあ、100が否定された。ここから問題だ。オタクは100が否定されたので、清潔感という概念すべてが否定されたと結論する。

しかしこれはおかしい。

世の中には「ある程度の清潔感」というものがある。数値にすると1-99の間だ。そしておそらく世間の人々は60-80あたりを目指すことになる。

世間の人々が「清潔感を持て」というとき、それは清潔感60(-80)を意味しているわけだ。

しかし、オタクはその発言理解する気がないから、「お前は清潔感100を持てといっているが、それは不可能な話だ。はい論破」とする。

これは完全に話が噛み合っていない。なぜか実現可能レベル清潔感60の存在オタク無視している。

こういうことを言うと、「清潔感60もお前のお気持ちだろ」と言うだろう。

そうやってオタクのなかで清潔感概念無限後退してやがてというより直ちに自動的消滅する。

ある程度世間で共有されている曖昧認識というものを「客観的ではない」「科学的ではない」「論理的ではない」という理由却下する。これがオタクだ。

しかに明確な基準はない。ただし、基準がまったくないというわけではない。明確な線引きをするのは難しいが、たしか世間で共有されている認識というのはある。それは明確な線というものではなく、ある程度の幅を持ったものだ。基準臨機応変に柔軟に変わるものだ。

オタクはこういうことが理解できない。いつも完全な基準があるべきだと思っているし、完全な基準がないならば、そんなもの正当化されえないと思っている。

しか現実は違う。明確な線引きはできなくても、ある程度の合意常識というものはたしか存在する。

オタクのやっていることは似非理系的な屁理屈にすぎない。子供だ。

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