「それはお前のお気持ちにすぎないから、客観的な基準がないから、正当化されるだけの論理的な理由がないから」と言って屁理屈で逃げてばかり。
結局オタクの言い分はこうだ。「客観的に定義不可能な《清潔感》など持つ必要がまったくない」。しかしこれはとても極端な飛躍した結論だ。
もちろん「完全な清潔感」は実現不可能なものだ。それを要求するのは馬鹿げた話だ。これには誰もが同意できるだろう。
しかし、だからといって「清潔感を持つ必要はまったくない」というのは同様に極端な話だ。オタクの論理というのはとても幼稚で単純に見える。0か100かという議論しかしないのは戦略的にそうしているのか無自覚にそうしているのか謎だが。
「完全な清潔感」を100として、「完全な不潔」を0としよう。たしかに「完全な清潔感」という100は否定される。これには誰もが同意するだろう。
さあ、100が否定された。ここからが問題だ。オタクは100が否定されたので、清潔感という概念すべてが否定されたと結論する。
世の中には「ある程度の清潔感」というものがある。数値にすると1-99の間だ。そしておそらく世間の人々は60-80あたりを目指すことになる。
世間の人々が「清潔感を持て」というとき、それは清潔感60(-80)を意味しているわけだ。
しかし、オタクはその発言を理解する気がないから、「お前は清潔感100を持てといっているが、それは不可能な話だ。はい論破」とする。
これは完全に話が噛み合っていない。なぜか実現可能なレベルの清潔感60の存在をオタクは無視している。
こういうことを言うと、「清潔感60もお前のお気持ちだろ」と言うだろう。
そうやってオタクのなかで清潔感の概念が無限後退してやがてというより直ちに自動的に消滅する。
ある程度世間で共有されている曖昧な認識というものを「客観的ではない」「科学的ではない」「論理的ではない」という理由で却下する。これがオタクだ。
たしかに明確な基準はない。ただし、基準がまったくないというわけではない。明確な線引きをするのは難しいが、たしかに世間で共有されている認識というのはある。それは明確な線というものではなく、ある程度の幅を持ったものだ。基準は臨機応変に柔軟に変わるものだ。
オタクはこういうことが理解できない。いつも完全な基準があるべきだと思っているし、完全な基準がないならば、そんなもの正当化されえないと思っている。