はてなキーワード: 忘れられる権利とは
ネットに一度流出した情報は二度と元には戻せないんだから本名や顔といった個人情報を流すな
という戒めとセットで広まっていたのが「ネットに個人情報を晒したやつは何があっても自己責任」という自己責任論だろう
その自己責任論の暴走が顕著に現れたのが某弁護士とコテハンのネットリンチだろう
しかし、今や顔と名前をネットに出さない、ことの方が不可能に近い時代だ
知り合いのフェイスブック、学校のホームページ、大会の記録、勤務先のサイト、取材を受けた先のメディア、特別に拒否せぬ限り自分の情報が誰かの手でネットに掲載され、時には許可なく自分の情報を流されることもある
このような状況下で、個人情報流出・拡散の責任を個人に求めるのはおかしい
道すがら取材にあった際のキャプチャ画像が、永遠にネットに残される、それを自己責任と言えるのだろうか
自分の情報を自分で管理できるような、本人の申し立てがあれば掲載された個人情報を即刻削除できるような厳しい規制が必要ではないか
顔写真の「コピペ」なども、肖像権の侵害として罪と認識させる必要があるのではないか
余談だが、忘れられる権利という言葉は、不十分なように思う。一度ネットに掲載された情報が常に拡散し続けている状態を止めるのは、忘れられるというよりはこれ以上認知されないことに近い。閲覧者という仮定の存在を主体にすることで、責任転嫁しているように思う。個人情報を自分の意図せぬところで公開されない権利というのが本来求めるところではないのか
サーバーから情報が消えてしまうことが欠点であることは古くから分かっていたので、その欠点を少しだが補うためのサービスである。
https://japan.cnet.com/article/35076968/
だが、全てを記録することは不可能であり、またいわゆるGoogle一般検索ではアーカイブに保存されたページはほとんど検索されない。
wwwはそもそも、ハイパーリンクを持たせることによって情報を他に依存することが出来る仕組みなのだが、そのリンク先が消えてしまうと途端にその利点を失ってしまう。
さらには、技術がどんどん進化するので、古いwebページは「スマホでは読みにくい」という問題が発生していたりする。
あるいは、一般人が利用していたHP作成サービスのサービス毎消えてしまうことが増えていて、有用だったwebページの他のサービスサイトへの移行に莫大な手間がかかる(大抵個人がやっているからである)などの問題も起きている
大抵は、サービス毎消えてしまうとwebアーカイブにでも保管されない限りはそれで消失である
図書なら、どんな下らない本でもそれが一旦国会図書館に入れられる限りは半永久的にその存在を守られる。私も一冊だけ本を出したが、国が何か劇的なことで崩壊でもしない限り私が死んでもずっとその存在を守ってくれるだろう
インターネットにはそれがない。
随分昔になるけれど、いわゆる歴史問題で濃密な議論をしていた掲示板があった。かなり濃密で有用な知見を参加者が有志で自身で調べつつ共同で検証していくようなことをやっていた。
それからほんの一ヶ月で掲示板毎それら濃密な情報は消えてしまったのである。
ネトウヨがデタラメを垂れ流す、しかしそんなデタラメはそこで論破済みでありリンクを示すだけで良かった……としても、消えた情報は参照できない。
そんなことを最近しばしば見る。あのデタラメはあそこで論破されていたのに、自分では情報を持っていないから反論できない、みたいな。
情報をネットから消えないようにする仕組みは作れないのだろうか?
「忘れられる権利」は、インターネットでは重要な権利の一つだとは思うけど、そのために有用な情報まで消えてしまっていいとは思えない。従ってそれとこれとは全く別の問題である。現状は、結局の所、極端な話が政府レベルの機関にまでならないと情報の半永久保存はないと言っても過言ではない。個人的にはP2Pのような仕組みで、半永久的に消えない仕組み自体は作れると思う。ブロックチェーンだって出来たわけだし、あの犯罪の温床とされたWinnyは当にその仕組だった。あれが消えたのはほんとに痛い。どうしてその利点に誰も気づかなかったのだろう?
追記2
誤解する人がいるだろうなと思ったら案の定だった。WinnyはP2Pのその象徴例として出しただけであり、あのWinnyのままでいいなんていうつもりはないよ。だけどWinny2は掲示板を実装しつつあったんだ。これを知らないのか忘れているのかはともかく、その延長線上に消えないWebサービスがあり得るのではないのか、と思ったんだよ。そもそもがサーバーに依存しないという仕組みのことを言っているわけ。
P2Pはノードさえあれば、そのサービスに接続している端末がある限りは、半永久的にデータが消失することはない。まぁ俺には技術がないから夢物語だけどな。
でも、Winny2はいっとき、ひろゆきが2ちゃんねるに使おうと画策してたんだよ。そしたら金子氏が逮捕されたんだ。
でもああいうのの延長線上にある仕組みがあったらなぁと思うんだよね。
「個人情報保護法改正」で「忘れられる権利」は確立するのか フォーサイト-新潮社ニュースマガジン
https://www.jiji.com/jc/v4?id=foresight_00258_201904090004
普通に考えれば、こんなもん絶対マスメディアや政治官僚共が不祥事隠しする為に使用したいと言う思惑があるからとしか思わないんですけどね。
当時から女性の権利やらを盾にして、この話を見かけたときから、正直「ん?」ってなった。
EUに限らずだけど、欧州は本当綺麗ごとをおほざきになって、インターネットを規制しようと少し前から躍起になっているのよ。
しかし女性の権利や児童の権利等の弱者の権利を振りかざせば、何をしても良いと言う最近の風潮は本当に良くないと思う。
どうみても特定の団体や宗教、政治団体が自身の思惑の為に弱者の権利を悪用しているのも多いからな。
これに関してもそれを利用したネット潰しの一環だしな。
弱者の権利を悪用して、思惑や規制の為だけに利用し、それこそこんな事していれば、その弱者の権利すら後々、逆に衰退させかねないのにな。
この手の弱者の権利を主張されれば、確かに世間の人間は反論しにくいけども、これで余りにも横暴が酷すぎると後々の反動が恐ろしい事になると思う。
でも本当ここ最近インターネット潰しにどの国も躍起なのはそれこそスマートフォンが普及して、情報を入手しやすくなったのもあるのだろうなと思う。
それと最近建前でも民主主義を名乗る国ほど、この手のネット規制の状況が酷いのは本気で笑えない所だろう。
彼らにとっては本当に都合の悪い世の中なんだろうね。
しかし昨今マスコミの記者は余りにも偏向的な記事が多いから、こいつらこそ免許制にした方が良いんじゃないか?と思う今日この頃。
今までも確かにマスゴミと呼ばれる程度には酷かったけど、ここ最近は特に悪化している。
本当、一般人から偏向報道を行った記者の記事を機関に指摘し、一定数たまったら、その記者が呼び出し食らう程度の事は必要じゃないかな?とこれに限らず最近のニュースを見ていて思うわ。
さて、このエッセイについて
作家の森下くるみさんが過去に出演したアダルトビデオの二次利用としての配信販売の停止の依頼をしたという内容です。
これについて、以下のようなブコメがあり、スターを多く集めていました。
b:id:aramaaaa これは微妙な問題を含んでいて、通常の映画作品で出演者の誰かが販売を停止したいと考えた場合できるのかってこと。AVとはもちろん若干違うのだが、法律上は同じ「映画の著作物」ではないかと思うので
b:id:unfettered アダルトだけに、この行為は理解できるものの、今後あらゆる表現物が、出演者の「忘れられる権利」によって廃盤にされたり本人出演シーンにぼかしが入れられたりすることにはならないか、が心配。
確かに、こういう点は気になるかと思います。ですが、結論から言うとそのご心配は「杞憂」です。アダルトビデオを含む「映画の著作物」は、通常は出演者の意向によって廃盤になることはありません。
アダルトビデオといえども、著作権法上における「映画の著作物」であることは基本的に否定され得ないですが、その出演者であるAV女優には、出演したアダルトビデオの著作権は別途契約上の定めがない限り与えられません。
しかし、このような「映画の著作物の出演者」を含む「実演家」に対しては、著作権法は「実演家の権利」を与えています。
例えば、著作権法91条1項は、実演家の有する「録音権及び録画権」について次のように定めます。
これによって、AV女優は、アダルトビデオのメーカーに対して、自らの演技を録画させることを許諾することができるわけです。同様に著作権法は実演家に対して「放送権及び有線放送権(テレビ・ラジオに限りネットは含まない)」「送信可能化権(平たく言うと、ネット配信のためにデータをサーバにアップする権利)」「譲渡権(録音物録画物の頒布の権利)」「貸与権(音楽のみ。映画は含まない)」を与えています。
そうすると「なんだ、実演家の権利で簡単に出演作の販売差し止めできるじゃん」と思うかもしれませんが、話はそう簡単ではありません。
「映画の著作物」に出演した実演家の権利は、著作権法は非常に厳しい制限をかけているのです。
先ほど上げた実演家の録音権録画権に関する著作権法92条2項は以下のように定めます。
前項の規定は、同項に規定する権利を有する者の許諾を得て映画の著作物において録音され、又は録画された実演については、これを録音物(音を専ら影像とともに再生することを目的とするものを除く。)に録音する場合を除き、適用しない。
どういうことかというと、映画のサントラに映画の音を録音する場合を除き、「一回出演OKって言ったら、その後あんたの録音権録画権を行使する機会はないからね」という意味です。つまり、昔だったら録った映画のフィルムを複製するのは映画会社の自由だし、いわゆる二次利用のためにビデオテープやDVDを作りまくるのも許諾なしにしていい。加えて、先程挙げた「放送権及び有線放送権」「送信可能化権」「譲渡権」全部そうです。つまり、撮影時のギャラだけ払って撮影OKと言ったら後は著作権者は二次利用し放題、再放送も映画専門チャンネルでの配信もパッケージソフトの販売もダウンロード販売も自由ということです。
なんでこうなっているかというと、まあ、映画産業においてこれを俳優に与えていたらとてもじゃないけど産業が成立しない、ってことなんですけどね。もちろん契約で上書きすることは可能ですけど、そんな面倒くさい俳優使う理由もないですし(大物になれば別かもしれませんけど)。
#ちなみにワンチャンス主義の適用のない音楽業界はどうかというと、これは録音時にレコード会社が「実演家の権利」を買い取ってしまうのが通例です。こっちはこれでなんで問題にならないかと言うと、まあ、そういうもんだで通っているからですかね。
というわけで、「映画の著作物」は、「通常の場合」出演者の意向によって廃盤になることはないのです。
とはいえ、もちろんこれは「出演に同意があった」場合の話です。昨今問題になった「出演強要」あるいは「台本と異なる強制性交」これらはもちろんのこと「出演の合意」など仮にあったとしても無効ですから、二次利用についても同様に消すことができます。そういう意味で言えば、アダルトビデオメーカー側も、女優と契約書を交わして「何がOKで何がNG」と女優の意思を残しておくことが、メーカーを守ることにもつながるのですけどね。これについては毎日新聞がいい記事を書いていてくれました。
森下くるみさんの場合は、契約書なんてなかったとはいえ、御本人の執筆活動などを通して「出演への同意はあった」ことは「黙示の同意」として明らか(なんか変な表現だな)ですから、ここは問題に成りえません。
また、アダルトビデオは通常の映画の著作物と異なり、一旦出演者が出演に合意したとしても、その後になって出演者の人権を著しく侵害するおそれを持ちうる性質のものです。こういうものに関しては、個別の事情ごとに考慮することで、人権と著作権のバランスに考慮するような裁判所の判断が下ることもありうるでしょう。
自主的な取り組みとして、AV人権倫理機構による配信停止申し込みの代行とそれに応じるメーカー、プロダクションの動きも重要です。これについては、AV人権倫理機構が自ら書いている通り、「当機構に賛同する枠組み内のAVメーカーやプロダクションを対象としております。それ以外のメーカーや無修正などのAV作品の場合、当機構では対応が出来ません」という限界はありますが、逆に言えばこれらのメーカーやプロダクションをユーザー側が支持することで、市場原理により賛同しないメーカーを市場から退場させることもできるでしょう(闇市場については完全に刑事機構に委ねるしかないため、そこは本稿では触れられません)。
アダルトビデオ専門チャンネルでAV大賞のようなイベントやAV女優のトーク番組を除く「放送するためだけのアダルトビデオ」を制作することがあるかどうかわかりませんがそれがないという前提で本論から外れるので補足としましたが、上記の「ワンチャンス主義」はあくまで「映画の著作物」に適用されるもので、TVドラマやTVアニメには適用がありません。
つまり、かつては「録音録画」の概念がなかった生放送は言うに及ばず、一旦収録した後編集等を加えてから放送するドラマやアニメにしても、こちらの二次利用(映像ソフト化やネット配信など)は、収録の契約とは別途の契約が必要になるのです。なお、放送の許諾を出演者から得た場合、放送のために一旦収録することや、それを系列局に送ったり他の局に放映権を売って放送することはできますが、その場合は出演者に「相当な額の報酬」を払わなければなりません。ブコメでid: shigak19 さんが書いていたのはこれに基づくものです。また、映像ソフト化やネット配信は当然できません。
なんで映画(含むパッケージソフト産業)とTV番組でこうも違うんだと言うと、まあ立法された1970年のメディア産業構造の違いによるとしか言えないでしょうね。その後で産業側の方が構造固定化されたために、実務上も問題になっていないということで。
ただ、この違いがとんでもない問題になっているのが「昔のTV番組のWEBアーカイブ化」で、映画(含むセルビデオ)は文化遺産としてのウェブアーカイブ化は著作権者の同意があればできるのに対し、TV番組は著作権者だけではなくエキストラの一人にいたるまで同意を得ないとWEBアーカイブができないのです。本人が死亡した場合は遺族の発見とか、存命中でも芸能界を引退した人とか、元子役とかだとまず連絡を取ることができません。しかも結構な大物でも、死後や引退後数年で簡単に連絡先不明になります。TV番組にワンチャンス主義が採用されていないのは、この点では問題なのです。
===(0)はじめに===
【例】は恣意的に挙げながら書いてみる。当然首尾一貫しない。
実際の行動や実名での言動はもう少し分別があり、おとなしいが、それはずる賢いからだけである。
現代社会において顧みられることが少なく、マーケティング上もターゲットとされない
……という感じで拗ねている(拗ねると拗らせるは同じ漢字だった)。
客観的に見てもう少しポジティブになれるし、期待されている気はするが、大学教授の先生だっていわゆる男らしくない本を書いているので、ここではせいぜい拗らせてみたい。
===2)好き嫌いの話===
【例1】萌え絵
萌え絵がすごく好きなわけではないが、萌え絵を叩く人は嫌いだ。ゾーニングしても後から後から陣地に入り込んでくる。「青少年への悪影響」その他の理屈は、所詮嫌いなものを叩くための後付けだと思う。ただし、萌え絵をずっと見ている人に何の影響もないとも思わない。
【例2】タバコ
タバコは嫌い。まともな喫煙者だけを叩き続けると、同じロジックで砂糖水とかスナック菓子もやられる、という説があるので、一応大人しくしているが、そんなにうまくリベンジはできず、結局のところ喫煙者だけが先に絶滅させられると思っている。
特定の相手に対して、相手が必ず気づく形で、中傷したり恐怖を与えたり妨害をしたりするのは反対。だが、個人や団体を特定せず属性に対して、直接その属性の人に宛てたとは言えないコメントや空リプのような形でのヘイト的な言論を「受け手が弱いから、不快であるから」封じることには反対。それくらいは自由だろう。嫌なら見るな、は残しておいてくれ。
===3)人としての良し悪しの話===
意見を述べるときに好き嫌いでは相手にされないので、良し悪しの形をとることが多いが、まぁ大抵の場合は先に好き嫌いがある、と思っている。
好き嫌いを超えた良し悪しとしては、つまり、自分がどんな属性で生まれるかわからない状況で合意できるルール(無知のヴェール)が正義だという考え方は納得できる。
「これからトランプゲームをやる、あなたに配られる札はわからない、ゲームは一度きり。さてどんなルールにする?」と言われてみんなが大富豪(大貧民)を選ぶとは思えない。
・銀色律(シルバールール)自分がされて嫌なことは相手にもするな
・黄金律(ゴールデンルール)自分がしてほしいことを相手にもしろ
・白金律(プラチナルール)相手のしてほしいことをしろ http://bit.ly/2Pkr6DW
・温情主義(パターナリズム)相手のためになると思うことをしろ http://bit.ly/2PhOy4q
この中で「自分がされて嫌なことは相手にもするな」は一見強力そうだが、これとて普遍化は難しいと思う。多様性の尊重とよくいうが、多様性を発露する立場の人と、その発露の影響を受ける立場の人は全然扱いが違う。多様性の発露を我慢しろ、というと叩かれるが、多様性の発露の影響を受けるのは嫌だ、といっても相手にされない。
また、障がい者や高齢者や外国人や要介護者や病人や生活保護受給者などであれば、自分がその立場になることもあるから「お互い様」とまだ思えるが、趣味嗜好や性別、性自認など自分に置き換えて考えにくいものまで「お互い様」とは思えない。
要するに人としての良し悪しの話はよくわからない。もちろん、世間で揉め事を起こさないという意味での良し悪しとは全く違う。
===4)人間の性(サガ)の話===
【例4】身近な人に外国人がいたり、障がい者がいたり、要介護者がいたりして、その人たちを尊重しつつちゃんと付き合っている人が、なぜか他の属性について差別的な言動をしてしまう
これがそうならないのが人として、あるいはリベラルとしてあるべき姿だと思うが、残念ながら身近にいない属性の人についてまで想像力と思いやりを持つのは難しいのではなかろうか。持てる人は尊敬するが、持てない人が標準だと思う。
私はずる賢いので、それなりに振る舞うことはできる。でも心の中は違う。
===5)リスクの話===
原発事故避難者も、過失加害ドライバーも、大きく人生を狂わされる。こんな悲劇をつくるものはできるだけない方がよい。だから原発は要らないし、早く自動運転が実用化されてほしい(ドライバー席の事故責任は大幅緩和の方向で)。
一方で、社会から不慮の死者を1人も出さないようにすることは多分できない。やろうとすると膨大なコストがかかるし、責任を問われた人は気の毒だ。
でも、どちらかをあるべき像として、理屈で良し悪しで語ることも不毛に思える。
===6)失敗の話===
【例9】過去のネット上での発言が発掘されて、アニメ化中止になった作家
「忘れられる権利」や「名誉ある態度変更」が広まるとよいのだろうか。
===7)社会は結局良くなったのか、という話===
たとえば30年前と比べると、全体として上品かつ清潔かつ予測可能になったし、これまで生きづらかった人の権利や自由は拡大したし、それ以外の万人もより守られるようになったと思う。ただしそれらは制度を通じて政府から与えられた恩恵なのだが、同時に「あれをやってはダメ」「これをやってはダメ」という不自由も生んだ。
その権利や自由は、北風と太陽でいうと、結局は当人たちが北風的に戦うことで得られてきたものだと思う。その結果、誰にもある程度権利と自由がゆきわたった。そのことは忘れてはいけない。しかしそろそろ太陽的に行きたいものだが、これからも良し悪しを振りかざしたポジショントークが続くのだろう、と思っている。
権利や自由がすべて分捕りあいのゼロサムゲームとまでは思わないが、それでも代償なしには得られない。
選択肢が増えるだけだから良いことだけだ、というが、自分は同姓希望、相手は別姓希望だと、結婚に際しての面倒事が一つ増える。何の問題もない、とは思えない。
今でも出生前検査を受けない自由はあるのだが、出生前検査検査を受けずに生まれた子どもに障がいがあった場合の親の思いは、出生前検査がなかった時代に生まれた子どもに障がいがあった場合の親の思いとは、おそらく、違う。
もちろん、出生前検査を受けた上で、産まない選択をした親も辛い。
正解はないし、そもそも今生きている障がい者との整合性も難しい。
===8)お前はどうしたいんだ、という話===
つらつら泣きごと?をグダグダ書いてきて「お前はどうしたいんだ」と言われそうなので、考えてみた。
今のところ異性愛の男性であることに違和感は持っていないので、冷静に少しずつ、男性学を学びたい。
私と同じモヤモヤを抱えた中高生男性は多そうだが、手っ取り早くモヤモヤを正当化するための論を読み漁るのはまずい。
いつか、男としてではなく、人として恥ずかしくないように生きられるようになりたい。
とうとう同窓会にも呼ばれなくなった。
そりゃそうかと思う一方、なんともモヤモヤする。
同窓会に出るたびに、中学時代にいじめをしていたあいつに謝罪を求めてりゃ
空気も悪くなるし、和を保つために僕が排除されるのは当然だろう。
だけど、いじめたあいつはそれを忘れて僕がそれをトラウマとして持ち続けることがどうしても許せない。
あいつは「今考えれば、悪かったと思う。幼さ故にその残酷さ、悪さが理解できなかった。ごめんな。」
と、教科書的なフレーズをなぞって、その後は何もなかったように昔を面白おかしく話す。
それを過去のことにして、過去の自分の未熟さに押し付けて、形だけ謝る。
そしてそこからはそんなことは忘れて談笑し、以後の自分の人生に持ち帰らない。
土下座して、泣いて謝ってくれればいいのか?
分からないけど、少なくとも悪かったって気持ちを見せて欲しい。
向こうから許してもらうまで謝罪の限りを尽くすってのが筋だろう。
常に考えろよ、反省しろよ、謝れよ、僕が過去に苦悩したのと同じくらいには。
「忘れられる権利」ってのがある。
犯罪者がそれを唱えるのもどうかと思うが、一方で分からなくもない。
彼らは正式な手続きを踏まえて、正式なみそぎを終えたんだから。
周囲も調和のため忘れたふりをする。
僕だけだ、覚えているのも、それを主張するのも、苦しむのも。
それは、あのいじめを受けていた時と何も変わっていないじゃないか。
別のやり方もあったんだろう、こんなやり方しかできないからいじめられたんだって?
誰も言ってないけど、そういわれるが如く自己嫌悪にもなる。
行かなければ、この過去の怒りを思い出し、
今はそこを汲んでくれず、ただ僕を排除した周囲にも悲しみと怒りを感じることもなかっただろうに。
許せないから。
大手報道7社の申し入れによりNAVERまとめからマスコミ記事のリンクが一斉に消えた。転載された報道写真や文章が消えたまではいいが、記事のリンクまでも一斉に消えた。NAVERまとめに報道7社の記事URLを載せることもできなくなった。
まあ、海賊版リーチサイトが問題視される中で、ハイパーリンクは自由だ!なんて理想論を大手を振って語ることはできないのだが、非常に残念。
これだと次は5ch系の掲示板ニュースサイトやFacebookやTwitterなんかのSNS、社会派ブログのニュース転載やURL掲載なんかも、プラットフォームが中心になって削除していくことになるんだろう。
最近のマスコミ系ニュースサイトは、記事を転載させないことに熱心だ。これは著作権侵害という話の他にも、転載サイトに利益を横取りさせないため、や、忘れられる権利の問題とか、いろいろ理由はあるだろうが、今は、アーカイブサイトに保存させないようにサイト側でブロックしたりもしていて、これはWebアーカイブを多用している自分としては、かなりムカつく。読売新聞なんかは、さらにはてなブックマークで過去記事を検索できないようにもしているのだから、よっぽど過去記事を掘られることがマスコミは嫌なんだなぁと思う次第。
マスコミ側としては、そんなに過去記事が読みたければ、図書館行くか、デジタル有料会員になれ、と言いたいのだろうが、デジタルで読める過去記事は校生が終わった最終版の記事だけでしょう? Web版の記事は、初報の内容と、初報から数十分後の報道の内容とで、内容が変わっていることがよくある。ちょっとした修正や加筆のみならず、初報がかなりの誤報で、ごっそり内容が入れ替わっていることもある。さらに記事タイトル、見出しはよく改変される。しかし、マスコミのデジタルアーカイブに、こういった修正、訂正、加筆の経過が全て保存されているわけではない。
流れの早いネットの動きを後から調べる時、いつどんなタイミングでどんな内容が報じられていたかは重要で、それは訂正前の生の記事配信の動きを追わなければ、理解は不可能。そんな時、Webアーカイブに保存された記事が非常に役立つことになるのだが、最近の著作権にうるさい方々は、このWebアーカイブを非常に目の敵にしている。マスコミだけでなく、単なるブロガーからも「Webアーカイブから消したい」という意見を聞く。自分らで歴史を作っているという認識はないのか…