はてなキーワード: 苦痛とは
すべてにとって共通して言えることは、「なぜ難しく感じるのか」という点と、「どう突破するのか」という点だ。
この2点に集約される。
難しい文章を読むのは、誰にとっても難しい。
もちろん、ある人にとっては難しい文章が、別のある人にとっては簡単だというのはよくある。ただそれは、前提知識の違いや読み方の違い、たまたまその人の感性が筆者の感性にフィットしている場合や、筆者に対してどのぐらい信頼感を抱いているかにもよる。もしそこに差がなければ、同じ難しさになるはずだ。
つまり、もし自分と似通った能力を持っている人がその難しい文章を読めば、必ず難しいと感じるはずだ。
思考実験として、自分という人間をコピーしたあと、その文章の読解に必要な能力だけはそのままにして、さまざまな性格・さまざまな外見・さまざまな人生経験・さまざまな年齢に変えたとしよう。そういう人も同じようにその文章は難しいと感じるはずだ。
わかりやすい例を挙げるならば、タイからやってきたレンさんという存在を仮定しよう。レンさんは、日本語を猛勉強して、自分の日本語運用能力と遜色ない能力を身に着けているとする。なので、レンさんは自分が難しいと感じる文章を同じように難しいと感じる。ここで、レンさんは外国語を相当なレベルまで引き上げることができたのでバカではない。つまり自分がバカだから文章が難しいわけではない、ということだ。
つまりそれは、自分がバカだから難しい/読めないのではなくて、自分の現在の能力だと単に難しいというだけであり、「単に差があるだけだ」と認識する必要がある。その「差」とは「上下」ではなく、どのぐらい「違うか」というものだ。たとえばファッションに興味がない人が、ファッションの専門誌を読まないといけなくなったとき、ほとんどの言葉は未知語ばかりで難しい。ただ、そのファッションの言葉を知らなくても誰も自分はバカだとは感じないだろう。それと同じで、難しい文章を読むための知識が不足している可能性があることだけを認識するだけで、難しい文章を読みやすくなっていく。
アーガイルやAラインシルエットという言葉を知っていても「ふーん」と思われるのに対して、ロピタルの定理やはさみうちの原理を知っていると「賢そう」と思われるのは、文化やブランディングや前提知識の差によるものであって、バカとか頭いいとかそういう問題ではない。文化圏によっては真逆の扱いを受けることもあるだろう。
それに対して一切の興味がないとその文章を読むことは難しい。
「知らなくてよい」「自分には不要」と思っていることを知ろうとするのは難しい。「嫌いな食べ物を食え」と言うのに近い。そもそもそれが自分にとってどれぐらい有意義なのか知らなければ読む進めることさえ困難となる。
興味関心の度合いは、難しい文章の難しさをどのぐらいまで我慢して読み進められるかという突破力に密接に関連してくる。興味が薄いと「こんなものに時間を費やす必要があるのか」と思ってしまうからだ。結論、興味とは「どのぐらい理解したいか」なので、興味が薄ければそれ相応の「理解したさ」になる。そして、それぐらいの「理解したさ」では頭打ちになる場所が来たときに、終わってしまうことがわかる。
知るのに費やせる労力が100で、知るのに必要な労力が101ならば、知ることはできないという単純な理屈である。そもそも「どのぐらいそれに投資できるのか?」という興味レベルが重要になってくる。こうしたエネルギーをどう人工的に生成できるかは知らないが、自分を誤魔化してあたかもパッションがあるかのように振る舞うことはできる。
未知語や未知の概念や、自分にとって慣れ親しんでいない言葉(理解語彙ではあるが使用語彙ではない言葉)が文章中に出てきたとき、それを知らないことや習熟していないことは問題ない。また、それを知らないことで読めなくなることも問題ない。
大事なことは、そのときに、どの言葉がわからないせいで文章が理解できなくなっているかを知ることだ。その未知語は、実は他の箇所で説明されていることもあるだろうし、本当に初出の言葉かもしれないし、筆者オリジナルの言葉かもしれない。ともかく「この言葉を知らないから正確に読めていない」と考える。そうすることで「この言葉が全体の理解を妨げているのだ」ということがわかる。
実はその言葉はそのあと説明されるかもしれないので、いったん「こういう意味なのではないか」と推測して読むことも必要かもしれない。ともかく、文章が難しいのではなく、言葉が難しいだけなら、言葉を知ればいいという話になる。
文章によっては、循環参照になっている言葉もある。循環参照というのは、たとえば「AとはBである」という説明をしているのに、あとから「BとはAである」という説明がされて、結局何の説明にもなっていないような関係のことを言う。そういう循環参照された言葉は「筆者には自明だから説明するまでもないこと」または「筆者も実はよくわかってないこと」のどちらかに分類されるのではないかと思う。こうした言葉は、別の場所で自分で理解せざるを得ない。
また、知らないことだけでなく知っている言葉でも、その理解度次第ではとてつもなく難しく感じる文章に進化する。
たとえば、完全に説明できる言葉の理解度を100%・未知語の理解度を0%として、理解があやふやな言葉の理解度を50%としたとする。そうすると、あやふやな言葉が10個入った文章の理解度は、50%の10乗で、0.09%まで低下する。理解度が90%の語でも、20個あるだけで12%まで低下する。この数値は、掛け算で雑な計算をしただけなので、実際のところは実験なりなんなりしないとわからないが、ともかく、あやふやな理解の言葉ばかりが並んでいる文章を読み解くのが困難だということそれ自体には納得していただけるものと思う。
自分では100%理解していると思っている言葉でも、実際には98%程度だということもある。むしろ、100%理解している言葉などないと思ったほうがいいかもしれない。相手の人生とこちらの人生が違う以上、全く同じ意味で使われている言葉などないものだ。未知語うんぬんにとらわれず、どの語が理解を妨げているか検出できれば、あとは調べるだけになる。
事細かく書かれた描写を読み解くのはとても難しい。1つ1つの文も異様に長くなるため、本来は平易な概念でも、ひとつの考慮漏れも逃さないようにするために緻密に書かれ、そのせいで難しくなることがある。
厳密にするのは必要なことも多いが、概要を示さないでいきなり厳密な論理展開を始める文章も多い。そうした文章は、読者に対して概要提示を忘れていたり、概要提示が雑だったりすることがある。
そうしたとき「これはとても難しいことを言っているけど、もし単純に捉えるとするとどうなのだ」ということを考えると、急激にわかりやすくなることがある。
未知語うんぬんの項でもそうだったが、「わかっている側」からは「わからない側」が何を知らないのか一切つかめないこともあるため、「わかっている側が想像する知らないであろうこと」と「実際自分が知らないこと」に大幅な差があることがある。その差には、どのような手段でもいいから、自分で気づく必要がある。
例示・図示などで、二重に説明されていない文章もまた難しい。まず、文単体では理解しがたいものや、直観に反する文があったとき、それが筆者の思った通りのことなのか、筆者が誤って書いたものなのか、自分が間違った理解をしているのか、全然わからないものがある。文だけで全く疑問に思わず次に進められれば問題ないが、ひとたび疑問に思うと袋小路に入ってしまう。そうしたときに「例示・図示されていないからわからない」と気づくことが必要になる。
興味関心の部分に通じるものでもあるが、信頼していない筆者の文章というのは読めないものだ。「本当にコイツが言ってることは正しいのか?」と思うと、すべての文に対して正しいかどうかの考察を入れることになる。
ほとんどの人は、反ワクチン・天動説・電波洗脳陰謀・宗教団体関連の文章は読むに値しないと考えていると思う。これに関する是非は置いておいて、これらの書物になんら信頼を感じてない人にとって、これらの書物を読むことは大変困難になる。すべてを検証しなければいけないからだ。そういう人よりも、全幅の信頼を置いて読み進める人のほうがスッと「理解」していくことだろう。
基本的に、普通の人達にとってこうした書物をたくさん読むのは苦痛でしかないはずだ。たくさん読めば「ミイラ取りがミイラになる」ような状態になりかねないし、それを読んでいることで他者から嫌な目を向けられることを避けたいはずだ。興味も信頼も一切ないのに、そうした文章を大量に読むのは難しい。
「その文章を読む価値があるのか」という想いの度合いが薄ければ、それに応じて文章は難しくなってしまう。
TypeScriptとは、プログラミング言語の1つだ。これを学習することで論理的思考力が養われ、読解力が上がり、難しい文章を読むこともたやすくなる。実際に私もそうだ。
実はこれは文章にだけ言えることではない。共通して言えることは「その難しいことをやるだけの価値があるのか」「自分の人生の一部という、他にも選択肢がある中での、かけがえのない時間と交換するだけの価値があるのか」というモチベの部分にある。モチベは時間に応じて減衰していくので実際には習慣をつけるという能力も必要だが、点火点であるトリガーではモチベは有能な起爆剤になる。習慣化や自分のスケジュールに組み込まれることによって、必要なモチベの量はだんだん減っていくこともあり、モチベだけがすべてではないが、基本は「価値あるぞ」と思えるかどうかだと思う。
本質的には、難しいことそれ自体は難しくない。難しいものにぶち当たったときに「それを突破する価値がある」と考えられるような自分の状態を作り上げることが必要なのだと思う。
これが難しい。自分には突破できるという信念(自信)や、それを裏付けする成功体験や、たとえ無駄になったとしても人生において問題ないという経済状態、あなたならできるのだと根拠はなくとも言ってくれる身近な人なども必要になってくる。これが難しいのだが、しかしそうした環境を手に入れるためにどうすればいいかは、ここまで読み進めてこられたみなさんならもうおわかりだろう。
姉とは昔から、仲が悪かった。
姉はいわゆる"陽キャ"、俺はいわゆる"陰キャ"で、水と油の関係だから分かり合えることは何一つなく、年中いがみ合っていた。
両親があまり良い関係ではなかったせいかの因果関係は不明だが、実姉も自分も結婚することなくやがて中年になった。
共に俗にいう”こどおば・こどおじ”ってやつで、いまだ実家に寄生している。
高齢の両親がコロナワクチンを打ちに共に不在になった日、リモートワーク同士の姉と家で二人きりになった日、それは起きた。
陽キャってやつは意外とメンタルが弱いもので、このご時世に不安を感じ続けていたらしく、珍しく(というより初めて)俺に救いを求めるような目をして心の中の鬱憤を(コイツ、こんなに弱るの?)ってくらいのか細い声で滔滔と吐き出してきた。
その姿がなんだかとても儚く、それが作用してか、俺の中で理由のつかない劣情が沸々と煮立ってきた。
次に気づいたときには、抱いていた。
もう若いとは言い難い実姉の身体は、思った以上に綺麗で、俺を狂わせるには十二分の魅力を匂い勃立たせていた。
それから数か月が勃ち、俺たちはまるでそんなことはなかったかのように平然とあいかわらず実家ですねかじりの暮らしを送っている。
俺はというと、あんなに嫌いだった実姉との、セカンドコネクトは次はいつなのだろうかという事でアタマん中がおっぱいでリモートワークもロクに手につかない。
俺はこの先、どうなってしまうんだろうか。
実姉はこの先、どうなってしまうんだろうか。
俺の先っちょはこの先、どうなってしまうんだろうか。
はてなやTwitterで言ったら叩かれそうだけど、正直ガチで死にたいと思ったことなんて一度もない。人と比べて自分が不幸だと思ったこともない。
誕生日おめでとうって言われるたびに産まれてきてよかったなーみんなサンキューなって思うし、幸せだなぁと思う。
金持ちの家に産まれたわけじゃないし、自分の顔がいいとも思わない。面と向かってキモイとか死ねとか言われた経験はないから、顔も体型もコミュ力も普通のごく一般的なモブなんだと思う。
もちろん高学歴でもない。偏差値50ちょいくらいの、人に言えば駅伝によく出てるよな〜って言われる私大を出て中小企業でサラリーマンをやってる。
反出生主義の人、よく生きることは苦痛だとか言うじゃん。そりゃ苦しい瞬間もあるけどトータルで見たら人生って大抵楽しくないか?
まぁ一生分かり合えないんだろうな、と思う。
イケメンや美女美少女に全く興味がないというか世間様が何でそれらを魅力的に感じてるのか理解できないという人はいるのか。
特別嫌悪するとかじゃなく、人間の顔立ちにおける造形の美しさを理解するような認識の枠組み自体がないような人といえばいいか。
中国の言葉でいえば沈魚落雁とかいうやつ。そういう美を感受する部分だけ魚や雁と同等の人間はいるのだろうか。
特別嫌悪するとかしないとかいうのは、たとえば俺はscatで抜ける奴が理解できないかつscatに生理的嫌悪感を覚える。
一方ぜんまいこおろぎで抜く奴は理解できないけど自分自身がそれを見ることで苦痛を感じるというものでもない。ただどうすればあの作品で興奮できるのかが分からないだけで。
同じようにどうして造形の整った人にメロメロになるものなのか、そもそもメロメロになるとはどういうことなのか、実感としてどうしても理解できないという人間はいるのだろうか。
アセクシャルというものがあるがこういう人たちにしても性的に魅力を感じることがないだけで、世間的にこれはカッコいいと言われるべき人間なんだと理解することはできる。もし人間における顔立ちの魅力そのものが理解できないような人がいるとすればアセクシャル以上に奇妙な存在ということになる。
よく二次元のキャラに恋してるとかいう人間にまつわるネタ「三次元に興味はない」というのがあるが、あれはほとんどが強がりだろう。もしも本気でそう言ってる事例も混じってるなら上記の条件を満たす存在ということになるが、はたして。
接客のアルバイトをしていて、最近は頻度を減らしながら働いてなんとか生活している。
友人との会食はもうずっとしていない。予定すら立たなくなった。
ワクチンはまだ打てていないけれど予約はできている。
潰れてほしくないお店にはお金を落としながら、できるだけ通販を活用している。
無駄なウィンドウショッピングが好きだったけれど、控えている。
医療従事者の方が仰っていることに普通に従い、あまり出かけずに生活している。
肌荒れとか、友人と会えないことは苦痛ではあるけれど、急ぎの予定は特に無いし、問題無く生活している。
友人、大学生。
大学卒業を間近に、できる範囲で自粛をしながら旅行にたまに行っている。
ん、と思ってしまうが話を聞いているので割と同情している。
私は遠出する気は無いが、卒業旅行が一切できないまま卒業も可哀想だと思うし、緊急事態宣言が出ていない地方で、それ以外の自粛をある程度しているので友人に関しては個人的には許容範囲、というか「こういう子は多いだろうな…」と思っていた。
友人に新しい彼氏ができた。
話を聞く限り世間のお尋ね者だった。
自粛をしていない。
友人宅や自宅(それも実家)に毎日のように集まり酒を飲んでいるらしい。
就活をしているんだかしていないんだかよくわからない状態の留年生、恋愛面も少々不誠実なようで
私から見たらどう考えてもやめておいた方がいいダメ男なのだが、友人は溺愛している。
彼氏ちょっとどうなの?と意見したところ、「友達がいないよりマシ」と斜め上の擁護をされてしまった。
友人自身はある程度常識的な感覚を持っているのに、なぜ彼氏がヤバいのは平気なんだろう。
このことがあり、友人と少し距離を置くようになった。
理由は他にもあったけれど、友人とここまで意見が食い違ったのが初めてで困惑したし
彼氏の批判をしてしまった私への評価が下がったのが明らかだったので
しんどくなって逃げたというのもある。
友人曰く(緊急事態宣言の出ていない地方の)大学生はこんなものらしい。
Fランではそれが普通、友人の大学でもしっかりしている子はいないらしい。偏差値高いのに。
この投稿で何が言いたいって、地域差ってとても大きいのだな、同じニュースを流しても、解釈に違いが出るものなのだな、と意識するきっかけになった。
都内の大学に通う友人は数名いるし、皆きちんとしているけれど、
Fラン!パリピ!みたいなタイプになると、やっぱり違うのだろうか。
それぞれの地域、学校、家庭などの空気感がそれぞれの界隈と化している気がする。
例えばもし、私の親族がその地方でコロナで亡くなったり重症化しているとして、
それを一緒に伝えれば、友人や彼氏は改めてくれたのだろうか。
身近にいないだけで、どこかに必ず加害者に怒りを向けている人がいる。
それから他者に向けて祈っても、過去の自分と同じ行動をしている人を許さないと辻褄が合わないし、正しくいたいと思わないのかなぁ。
数年間あるキャラクターを推し続けている。何年も何年もいるので熱が緩やかになっているけれど未だにそのジャンルにはい続けていて、そのキャラのことが今でも好きだ。グッズが出たら何個も買うし、ガシャがきたら天井するまで回す。イベントがあったらチケットを頑張って取って参加する。
ここまでは何も問題なくオタ活できているんだけど、問題はここからで。
キャラクターには声を当てている声優さんがいる。そして自分はその声優さんのことを推していた…いや、推そうとしていた。
推しの担当の声優さんは、あまり仕事がない人だった。あまり聞いたことのないソシャゲのキャラの声を当てていたりちょい役で出ていたりと仕事がないわけではないが、目立った仕事は自分の推し関連の仕事のみだった。
でもイベントの時のトークやツイートで推しのことを話すのを見ると、キャラクターのことをしっかりわかってくれていて、愛をもって推しと向き合ってくれているのがわかり、尊敬した。
ただあまりにも他の活躍がなかったため、「いつかこの仕事を辞めてしまうんじゃないのか?」という不安があった。別のジャンルではあるがあまり人気のなかった声優さんが引退してしまい、その人が担当していたソシャゲのキャラのキャスティングが変更になった話を聞いた。
考えるだけでゾッとした。
自分が大好きでたまらない推しの一部もいつか変わってしまうかもしれない。
だから自分は推しの声優さんも応援することにした。それが推しのためにもなるから、応援する、応援しなければいけないと本気で思った。
どうでもいいような日常ツイートも欠かさずふぁぼりつした。全部にではないが欠かさずリプライを送った。手紙も時々送った。推しの声優さんが時々呟く「本当に私を好きな人がいるのが不安になる…」という言葉で自分も不安になった。
あなたを好きな人がここにいるから声優を辞めないで、私の推しの声優をやめないでほしい。必死だった。
そんなある日その声優さんが生配信を始めた。事務所に許可を取り個人で始めたらしい。
聞いた時は意欲的に活動されていて喜ばしいなと思った。これまでと同じようにコメントをしたりして応援しようと思った。
まずその声優さんは個人で生配信をしているので、事務所にやっていいか確認はしていると思うが監修しているとかはない。本人が何をするか考えてそれをそのままやる。自由な方針だった。
基本はコメントを拾って雑談をしているのだが、あまり面白い話が飛び出すわけでもない。それが2、3時間。コメントを逐一送らなければと思い手が離せないのでながら見というわけにもいかない。その間自分は拘束され続ける。しんどい。配信が終わった後、いつのまに夜中になっているのをみて、何をしているんだろうと呆然とする。
そして声優さんとファンの距離が近すぎるのが辛い。そもそものコメント数が少ないのでよく拾われ、よく名前を呼ばれる。他のコメントしている面々も見たことがある人ばかりだ。なので今日は○○さんがいないなたかがすぐにわかってしまう。声優さんも口にこそ出さないが気づいていると思う。
だからこそ、生配信を見ないと。コメントしないと。と焦ってしまう。配信を見てくれる人が少なくなったとおもったら声優さんが不安になって、そのまま声優をやめてしまうかもしれない。
投げ銭を読み上げる時に明らかにテンションが上がっているのがわかるので、モチベになればと思い一配信に一回は投げ銭をしているが、はっきり言って苦痛だ。そこにはただの義務感しかない。「○○さん投げ銭ありがとう〜」と言われても何も感じなくなっていった。
そこで自分は「推しのキャラクターは好きでも、その中の声優さんは好きになれない」ことに気づいた。遅かった。
推しのことを話している別のオタクを見ても、別に中の人に触れなくても十分に楽しく推し活をしている。早く気づけばよかった。「推しの中の人も推せないならそれはファン失格だ」、「推しの声が好きならその中の声優さんも支援しなければいけない」なんて自分勝手に思って、勝手に苦しんだ。推しの声優さんがモブで出ているという理由で興味もなくつまらないゲームを買って時間を消費するのも、必死にコメントしたり投げ銭をしたり手紙を送ったりするのも、ただの義務感だった。そこに好きな気持ちはなかった。
無理をするのはやめる。きっと生配信にいかなくなったら気付かれてしまうと思う。数人しかいつもいないから。でももう無理なんだ。好きでもないものを好きだと周りに本人にアピールするのは疲れた。推しと声優さんは同一ではない。「まるでキャラクター本人みたい!」と言われ同一視されている声優さんは他にも見かけるが、同一ではなかった。同一に見ている自分の頭がおかしかったんだ。
まあそりゃそうでしょ
まずブスと何もせず沈黙して一緒にいるのは苦痛なのでブスは除外されるし
コロナで旅行好きな人達が嘆いているが、旅行に興味のない自分からすると全くダメージがない。
国内の近場や、隣国ぐらいならともかく、いわゆる長旅は行きたいとすら思わない。
コロナ前に結婚していたが、パートナーが新婚旅行と結婚式を兼ねてヨーロッパを熱望していたのには割とうんざりした。
結局出発前にヨーロッパはロックダウンし、旅行も式も流れた訳だが。
まず、移動費が苦痛だ。新幹線だの飛行機だの、座りっぱなしで長時間拘束されるのに、何万~何十万と払うのが納得いかない。
自費移動はできて2時間が限度。
自費でなければまあ我慢出来る程度だ。
ヨーロッパへの移動は16時間飛行機に乗って何十万も取られるのでそれが1番嫌だった。
確かに建造物はまぁ素晴らしいと思うが、北斎の天井画でも同じぐらい感動できるし、自然物にいたっては何か感情を抱いたことがない。
ものすごく美しい海も見たことはあるが、感想は「透明な海だな」ぐらいだ。むしろ気候の暑さの方が不快だった。
旅行の思い出も、遠出せずとも面白いことには面白い。何かに付随する思い出があるのはいいことだが、それは場所でもモノでも同じだ。
食べ物も都内なら大体どの国の料理も食べられるし、庶民の食生活も資料を読めばそれで十分だ。
長々と書いたが、何が一番いやかと言われれば、この旅行が苦手というのを否定されたり嘆かれたりすることだ。
ちなみ全く海外旅行に行ったことがない訳では無い。ハワイに短期留学すらしていた。(推薦で自費ではないので行ってきた)
幼い頃に家族でも何度か海外へ行った。経験としてはいいものだと思うがマストかと言えばそうでもなかろう。
ハワイで一度も海水浴していないと言ったら、物の見事に「もったいない」とブーイングを貰う。
海洋生物に興味もなければ、マリンスポーツにも興味は無いのだから仕方ない。
だいたい海水など肌も髪も痛むので御免だ。
旅行好きなパートナーが割と地雷で、あれこれ説得されるのが苦痛だし、魅力をとかれても実際に何も魅力を感じなかったことが実証されている。
旅行が苦手な人種に何を言っても無駄なので、大人しく全額旅費をもつか諦めるかして欲しい。
だから、正直コロナで移動制限がかかっているこのご時世が心地いい。
海外旅行の話は出ないし、興味もない思い出話や素人の風景写真を誉めそやす手間もない。
移動制限だけずっと続かないもんかなとは思ってる。
逆の立場ではこう見えるかも...という話。
自分が某社研究所に入った時、指導者が自分のほうが指導者よりも上の学位という学歴コンプレックスを解消したかったのか業務に必要な知識も技術もろくに教えてもらえず、不得意なところとか些細なミスとかは揚げ足取って攻撃してくるって感じだった。まあ、学生のころは学位取れなかったら自決する覚悟でやってたから、そういうとがったナイフをいつも持ち歩いているような感覚よりは企業で務めるほうがずっと楽だったんだけれど、入社してからはパワハラに心を削らていたのも事実だったな。
2年目に自分で研究テーマを決めて進めるみたいなことをするのだが、正直言って何やってもダメ出ししかされなくて、洗脳系新興宗教みたいだった。病院に行っていないけれど、自分で思い起こしても眠れなくなっていつも思い詰めていて、精神病んでたなって思う。直属の上司もいじめっ子体質の人で、新しいターゲットの揚げ足を取っておちょくって困ってるのを見て楽しむ感じのことをずっとやってた。上司と部署の人で食事に行くと毎回部署の人の面前で説教され、正直苦痛だった。基本部署で食事に行くから、それが毎日だった。
この時に作った研究テーマ発表資料は自分から見ても穴あきまくりなのはわかっているが、指導者がokをだしてくれたからそれでって感じだった。えん罪事件でよくある、やっていない罪を認めてでも出所させてください...があれに近い感覚だった。指導者から「お前の無能さを証明する資料として一生残してやる!」的なことを言われたが、私に言わせれば、あんたのパワハラの証拠だよって思ってる。自分が追いつめられるとどこまで壊れるのかはあれを見るとわかる。
今の俺は別の会社で中堅社員として働いている。前職と今のと両方受けて前職受かっても今のほうを落ちる人がいるようなレベルの会社だけど、今の会社で無能のレッテルをはられることはなかったな。前の会社で自分が辞める前に指導者が別の人に新人指導をしているのを見た感じだと、正直育成能力が低い人だなとは思ってる。相手に何を期待しているの説明せず、仕事の意味も説明せず、それでいて相手が必要とするであろう知識や技術を習得できるように準備もしない。新人は訳も分からずただ自己流でやり、指導者から違うところを叱責・罵倒されて自己肯定感を下げていく。そんな中で残業3桁やるのに何の意味があるの?
元増田は2年目の人が無能と愚痴を言う前に、自分が指導者として有能かもう一度考えたほうがいいよ。少なくとも増田はその子の育成に失敗したんだよ。それは2年目の人だけの責任ではなく、どちらかというと指導者のほうが責任が重いタイプの連帯責任でしょ。君のほうが長く会社にいるから上司やほかの人たちは君の主張(新人が無能)をよく聞いてくれるかもしれないけれどさ。
優しすぎるというよりは人間関係の構築が下手で踏み込み方がわからないんだろうなと自分では思う。根本的には人にあんまり興味がないんだろうな。発達障害の事例でよく言われるやつだけど、用もないのに自分から連絡するというのもできなくて人間関係の継続が困難なことが多いし(じゃあ連絡したらと普通は思うんだろうけど、何をどう話しかけたらいいのかわからんしその行為自体は苦手なので苦痛が大きい)。
カウンセリングは探してるし精神科行ったことも何度かあるけど仰る通り上手く探し出すのがかなり難しいね。自由診療になると無視できないくらいには金もかかるし。増田には何度か書いたことがあるけど内容が重すぎるのかトラバゼロか茶化されて終わるかがほとんどですね…。
中学生の恋愛なんて 憧れの延長線。自分にない魅力を持ってる人に惹かれるだけ。
シンジとアスカは、エヴァパイロットという苦痛を共有しながら、お互いに自分にないものを感じあっていた。本当にそれだけの話。
(エヴァパイロットの感情はコントロールされている…との言及があるので、それすら作為的なものである可能性があるが。)
だからアスカは「好きだった。でも私の方が先に大人になっちゃった。」と言う。
大人は『お弁当が美味しい』『私には他の人と違う態度をとってる』みたいな理由で好きにならない。確かにあの時は好意を抱いていたけど、精神年齢が28歳になった自分が同じような執着心をシンジに感じていないということに気付いた。
と思っている。
ないんじゃね。覚えてないけど。
惣流をベースにした式波モデルと思っている。なんか解説とかあるんかね。
・マリはゲンドウとユイと一緒の研究室にいた同世代の仲間のはずなのに、なんでシンジと一緒に中学生の身体で戦ってたの?一度大学生や大学院生になったあとで身体を中学生に巻き戻したの?成長を止めるんじゃなくて巻き戻すとかアリ?あとラストシーンでシンジと同年代に見えるのは何なの?エヴァパイロットの義務から解放されたら、アスカの身体が急にあのピチピチスーツよりでかくなってパツパツになってスーツが破れたみたいに、本来の肉体のタイムラインに戻るんじゃないの?つまりマリはエヴァパイロットやめたらゲンドウと同世代のルックスに戻るんじゃないの?
仮面ライダー電王に特異点って存在があるんだけど、そいつはタイムトラベルをしても記憶を持ち越すことができるんだよ。
「あ、マリとカオルは新劇場版の特異点なのか」って思ったら、割と腑に落ちたな。公式の認識と違ってるかもしれないけど。
カヲルが言うには エヴァって【繰り返される円環の物語】らしいから、微妙に変わりながら繰り返してるんだよ。
その中で 3つのストーリーが映像化された…というていにしている。
カオルは作られた存在だからずっと同じ姿で登場するけど、マリは違う姿で転生してるかもしれない。
②で、マリはゲンドウたちと近い歳で研究をしていたけど、③では②の記憶をもったまま シンジと同じ年齢に産まれた。
(そう思ってたから、年齢は巻き戻ったわけでもないし 同年代でもおかしくないんじゃね?と勝手に納得している。)
(カオルが「今度こそ君だけは幸せにしてみせるよ」という思いで新劇場版のシンジに接しているけど、マリはマリで「ユイが遺したシンジを幸せにしてみせるよ。(だから全人類巻き込むとかアホなことするなよクソゲンドウ)」と思ってんじゃないのかな。)
ラストシーンは、シンジがつくった【エヴァがなくてもいい世界→③-2エヴァ無いバージョン】。
たぶん、このタイミングでシンジも特異点になった。というか、マイナス宇宙で世界の書き替えをしたシンジ&そこからシンジを掬い出したマリだけが特異点として【③-2エヴァ無いバージョン】に転生した。…ということに自分はしている。
エヴァが要らないということは使徒も来ません。海は青いし、冬もきます。
エヴァがないということは、エヴァパイロットの身体の成長が止まることもありません。だからシンジも大人の姿です。
(たぶん、ユイがエヴァに溶けることもないかな。違う理由で死ぬとかはありそうだけど。)
ネルフがないということはシンジはレイやカヲル、アスカと出会う理由がありません。
でも、マリとシンジは特異点なので【③-1エヴァあるバージョン】の記憶をもって転生しています。
だから③-1で同世代だった2人は同い年の大人になったし、なんやかんや山口県で会ってる。
…ってことで、とりあえずのところ 納得してる。
どのくらいの頻度で、
何回くらい挿れたら痛くなくなるの?
2回目は1回目よりもだいぶマシに感じたけど
それでも入るのが精一杯で動けない痛み
しかも、これ何度かして慣れたとしても
また間あくと痛くなるんでしょ?
どのくらいあけたらダメなんだろう
気持ちいいまでいかなくても、痛みを感じずに済むんだろうって憂鬱
みんなよく平気でしてるな