はてなキーワード: 苦痛とは
でもそんなん、極右の差別主義者が「中国人・韓国人が大手を振って日本国内を歩いているのは許せん!!!!!」って言ってるのと同じだからね。
その差別主義者には中国人・韓国人が日本に居住してること自体が苦痛なんだろうけど。
「これは四肢が粉々になるほどの苦痛なのだ!お前らには理解できないだろうがな!お前らも中国人・韓国人を見たら四肢が粉々になるようになればわかるはずだ!」
なんて言われたって、「理解できませんよ~」
としか言いようがない
色んな解釈が飛び交ってるけど、たぶん
エロい格好で練り歩いている女←エロ表現だという指摘もある表現(萌え絵、Vチューバーなど)
エロい女が愛している男←その表現を楽しんでいる人たち、まぁひらたく言えばオタクさん
それ以外の手足が粉砕する男←その表現がエロだと判定し、苦痛だと思ってる人
ってことなんじゃないかと。だからエロ表現は見たい人たちだけが見える範囲でやるべきで、見たくない人には偶発的にも目に入らないようにすべき、ってことなんじゃないかな。
よってエロだと判定しているのは、「手足が粉砕する」方の人。
本人たちがエロいと認識しているかは全く別の話。どちらかというと本人はそんな外に出てはいけないほど卑猥な表現ではないと思ってるからこそ、外を練り歩いているわけで。
ただまぁそれが可なら、まさにタリバンたよね。
まあ普通に自分が見たくないものを出すな!っていう怒りなんだけど、フェミニストの人たちってこれがやばいことを理解できていないっぽい
気に入らない(本人たち的には苦痛)からって、何でも排除できてたらダメだろ
今回の交通安全動画の登場人物が筋肉ムキムキのオーバーオール着たゲイだったとして、オカマ野郎を公共の動画に出すんじゃねー!って怒鳴るおじさん連中が出たらヤバいのわかるやん
自分が嫌いだからって、排除したらヤバいんだけど。そういう差別が発生してるの認識できていない
長年の男女差別のせいで怒りまくって知能が低下してるんだろうけど
まーバカが自浄作用で治ることなんてないので、取り返しのつかない暴挙に出てボコボコに社会的制裁受けるまでこのアホくさい流れ止まらないんだろうな
「ごく普通に暮らして、それなりに苦痛なく、のんきに生きて死」ぬ事ができなくなったのは、
男に抗えと(そんな強要そもそもないだろ)言ってくる人達のせいではなく
女性活躍推進法を推進し、女性が輝く社会なるお題目を掲げ、結婚して出産して育休取って復帰して働け、それ以外の人生は認めない、と
仕事も家庭も何もかもを女性に押し付ける自民党政権のせいだと思うんだけど
どうしてそこは綺麗にスルー出来るんだろうか?
「エロい女が愛している男以外」とかいう変な条件を入れてるから分かりづらいだけだろ。
女がエロい格好をして練り歩くと男の腕や足が粉々になって使い物にならなくなる時代になれば、今のフェミニストのおばさん達の気持ちがわかるかもね。
これでわかるだろ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4708159802939025090/comment/mobile_neko
前提としてVTuber排除のニュースが下地にあるので「今のフェミニストのおばさん達」は、公共の場所から萌え絵やエロ系の表現を排除しようとしている「全国フェミニスト議員連盟」のような人のことを指していて、「気持ち」というのは、公共の場所から萌えやエロなどを排除したいという気持ち、と言うことになる。
現状「男」は「今のフェミニストのおばさん達の気持ち」を理解する事ができない、なぜならフェミニストと違って公共の場所で「エロい女」を見ても、性的対象として見られる不快感や治安への不安などの苦痛を感じることが少ないから。
もし「時代」が変わり何らかのテクノロジーとか超常現象で、パートナー以外の男性が女性に性的な視線を向けると「腕や足が粉々になって使い物にならなくなる」など直接的な被害を被る世の中になった場合は、男性も自衛のために公共の場所からエロなどを排除するようになり「今のフェミニストのおばさん達の気持ち」を理解できるようになるだろう。
という主張じゃないか?
巨乳は揺れないとは言ってない
現実も揺れるとしても二次元の方が巨乳ばかりだし揺らしてるのは現実に忠実な描写が目的じゃないよねと言っている
上司に「〇〇(上司の私物)休憩室に持っていって」とか「隙間に物落としたから拾っといて」って頼まれて苦痛。
立場が低い人間は奴隷みたいに扱っていいと思ってるんですかね?
https://togetter.com/li/1772270
このまとめで「男の性欲を無くせば解決」みたいな話にムキになって反論してる男が大量に観察される
精神医学とかの他の領域ですでに起きてること考えると今更すぎないか?なんで性欲だけその理屈で守るべきなん?って素朴に思う
例えば重度の精神疾患とかはまず寛解しないので、薬で衝動性とか攻撃性だけ抑え込んで社会的に「無害」にするのはもはや当たり前に行われてる
ずっとそうやってきたが最近はこの方向性がどんどん拡大・強化されている
単純な精神疾患だけじゃなくて、いわゆる発達障害みたいな必ずしも病気とは言えない脳の特性も薬物で矯正してるし
高負荷労働で鬱になったみたいな明らかに原因が外部にある場合も抗うつ剤飲んで労働させられてるし
皆この現状になんだかんだ同意してるんじゃないのかね?
やる前は色々理屈付けて反対があったかもしれんけど、結果としてやってみたら苦痛の総量が減るなら別にいいじゃん、ってことになったんじゃないの
さらにもっとこの方向性を進めて犯罪被害者にも苦痛を低減する薬を飲ませれば被害自体が低減されるとか
そもそも予防的に全国民に苦痛を低減する薬を飲ませておくとかも
やる前はすごく危険に思えても、一回やってしまえば苦痛の総量が減るなら別にいいじゃん、ってなりそうだし
進めるべきなんじゃないだろうか
途中までうんうんと読んでいたが
>女性なら戦え!女性なら#MeTooを支援しろ!女性なら男性社会に抗え!
この辺でおかしくなってきた。
「女性なら戦え!女性なら#MeTooを支援しろ!女性なら男性社会に抗え!」なんて誰も言ってないでしょ。
女性に『輝け』『活躍しろ』と押し付けてくるのは安倍政権に代表されるのは新自由主義的価値観であり
フェミニズムはそこから逃れて(男社会に迎合し、女性性を切り売りしなくても生きていけるように)のびのびしよう、という主張なんだが?
>いいや、私は戦いたくないし、抗いたくもない。
>ごく普通に暮らして、それなりに苦痛なく、のんきに生きて死にたいのだ。
そうですね、私も同意ですよ。低すぎる賃金と貧弱すぎる社会保障とそれにも関わらず重すぎる税負担のせいでそれが出来ないんですけれど。
>なぜ戦いを強いられなきゃいけないのだろう。
えっ?誰が強いているの?具体的に?ねえ誰が?
その子は、とにかく故郷というものが嫌いだった。話を聞く限り、主に家族関係が上手くいっていなかったらしい。
例えば、その子は国立大学の学費を殆ど奨学金とバイトによって賄っていた。恐らく親からの援助が見込めなかったのだろう。
時折Twitterで、田舎のしがらみや桎梏に悩む人間が描かれた漫画に対していいねやリツイートを行っていた。彼女の行動の端々からは、故郷や土着的なモラルに対する拒否感が滲み出ていた。
とは言え苦労人の彼女も、最終的に修士課程を満了し、そのまま国有系の企業に就職した。知的な能力が高く、自分自身の人生を自分で切り盛りする自立性を兼ね揃えた子だったから、その結果を予想することは容易だった。仕事においても、時に人間関係での衝突や様々なトラブルに直面していたようではあったけれど、最終的に本社のある某都市への配属が決まったらしい。単に大学の同期で、多少会話を交わす機会があっただけにも関わらず、そういう話を伺っていると誇らしい気持ちになる。何故だろう。
いや、彼女自身の人生に何らかの大きな転機があったというわけではない。彼女の人生に、取り立てて悪いことが起こったというわけではない。
とは言え、それは明確な変化だった。
数年ほど前から、彼女は裕福な家庭に属する人々に対して、憎悪の念を時折滲ませるようになったのである。
というか、はっきり言えば僕自身に対する憎悪を、Twitterを通して仄めかすようになったのである。
彼女と比べれば、僕は裕福な家庭に生まれた。物心ついた頃には家にグランドピアノが置かれてあり、子供時分には英会話教室やらピアノ教室やら水泳教室にやら通っていた。
特に金銭面で苦労をしたという記憶はない。取り立てて贅沢をさせてもらったという記憶もないが、かといって吝嗇を旨としていたわけではない。誕生日やクリスマスには大抵望んだものが与えられた。
そんな、特徴のない、ありふれた裕福な家庭に僕は生まれた。
大学入学後は、仕送りによって生活していた。免許を取るための代金は、家族が捻出してくれた。
そういったありふれた裕福さを、僕は当たり前のこととして享受してきた。
きわめつけに、僕は今定職についていない。
フリーターをしながら日々の生活を送っている。別に収入がたくさんあるわけでもない。それでも、安穏とした日々を送っているのは、要するに実家が太いからだ。仮に、自分の手に負えないような何事かが起こったとして、その時には、まず頼るべき実家が存在しているからだ。
はっきり言って、僕の人生は他の人々に比べれば楽だと思う。
時々苦痛なのは、そういう生き方をしている僕に対して、露骨に軽蔑の視線が浴びせられることである。それはある意味、当たり前のコストだ。裕福な人間は、あるいは、人生を真剣に生きているとは思えないような人間は、折々に軽蔑の視線を浴びせられる。そして、それに対して言い訳をすることができない。その軽蔑の視線に対して、「確かにその通りだ」と頷くことしかできない。
とは言えそれは(繰り返すように)、僕のように中途半端に裕福な家庭に生まれて、ちゃらんぽらんな生活をしている人間にとっては当然のコストであり、受け入れるべきコストである。苦痛は苦痛なのだけれど、かといって、そのような視線を振り払うために定職につきたいかと言われれば、そんなことはないし、僕は雑に生きていたいのだから。
そういう意味で、それを不当なことだと訴えるつもりは僕にはないし、そもそもそんなことをするだけの権利は、僕にはない。
いや、少しだけ嘘をついた。
僕は、彼女にだけはそういう立場を取ってほしくはなかったのである。
彼女は僕のことを金持ちだと言う。ここ数年の間、彼女は主にSNSを通して、僕に対する様々な当て擦りを行ってきた。
僕が察しを付けられるような嫌味、振る舞い、そういうものを、彼女は自覚的に行ってきた。
そういう振る舞いをされることは、ある意味僕には当たり前のことだったけれど、それなりに僕は傷つくことになった。
他の人間が同じことをするならばともかく、よりによって何故君がそんなことをするのだ? と僕は思ったのである。
彼女は彼女の生まれた土地の、土着的なモラルや、あるいはその純粋な資本の無さに苦しめられてきた。
だからこそ、彼女が僕を毛嫌いすることは、ある意味では当たり前のことである。そこに、僕が拒否できるような理由は存在していない。
それどころか、僕は彼女が我が身の理不尽さを、どんな形であれ承服してはならないし、何らかの形で表出するべきであるとさえ思うのである。
例えば、彼女は奨学金の返済をする必要があった。例えば、彼女にはちゃらんぽらんな暮らしをし、あやふやな夢を唄って生きる暮らしは許されなかった。そう、僕のように、文筆の夢をふらふらと唄い、そのくせその努力を身を削るまでに行っているかと言えばそうではない、そんなちゃらんぽらんな人間を拒否し、排斥する行為が、彼女には必要だったのではないかとさえ僕には思えるのだ。
とは言え、彼女の行為を僕が受け入れられない理由の一つは、別のところにある。
つまり、煎じ詰めれば彼女のやっていることは、彼女自身が忌み嫌っているところの、「土着的なモラル」の継承なのではないかと思うのだ。
恵まれている者に対する敵愾心、その誰かを貶めようとする気持ち。
楽しそうに飛び、楽しそうに歌う鳥に向かって石を投げる行為。そんな鳥が地面に落ちて這いずり回ることを、志向する行為。
「県外の大学になんかいかずに、地元の学校に通え、あるいは、就職をしろ。金銭的な支援は期待するな。お前に一人で切り盛りすることは無理だ」
教育的資本によって支えられる生活というものを、イメージすることができない人間に、彼女は囲まれていたはずだ。
だからこそ、彼女は自身の力で自身の人生をやりくりしなければならなかったのだから。
そういう力が、土着的なモラルの中には含まれているし、そのような力が、彼女の身の回りには実際に存在していたことと思う。
もちろん、彼女が僕に対して向けている暴力は、そのような暴力と完全に同種のものではない(というか全然違う)。
むしろ、彼女の受けた暴力とは違って、僕の受けている暴力は、ある意味では正当な暴力ですらある。
不当に恵まれている者を攻撃すること、それは、ある意味では正しい。僕は不当に恵まれているのだ。それに対して、少々のやっかみが向けられることは、ある意味では当然のコストなのだ。少なくとも、そのようなやっかみを前提とせずに生きることは、不可能なのだ。
とは言え、彼女は周囲から引きずり降ろされそうになり、それを拒否することができた人であるからこそ、僕は、彼女にそんな暴力を(彼女が受けたものとは違った形であれ)継承してほしくなかったのである。
自分より恵まれている人間に対して、石を投げるという行為が正当化されるところのモラルは、普遍的なモラルではありえない。そのモラルは、ある人の人生から生じたところの、ある人の生育環境から生じたところの、相対的な、つまりは土着的なモラルに他ならない。
彼女は、そんな土着的モラルを拒否することを、生活の旨としていたように、僕には思われるのだ。
そんな彼女が、何故土着的な、普遍的ではないモラルに身を任せ、自分の暴力を正当化し、他人を傷つけなくてはならないのだろうか?
繰り返し述べる通り、僕の人生においてそういう暴力は日常茶飯事であり、それが存在することを拒否できる立場に僕はいない。そういう立場には全くない。
ポーランドではブルマーを何と呼んでいたか。調査が難航したため、僕は気分転換のためハンガリーについて調べた。そこで、思いがけない事実を見つけた。どうやらハンガリーではブルマーでは少数派で、レオタードが中心であったらしい。しかも、学校によっては今でも使われている形跡があるのだ。以下、ハンガリーのレオタード事情について概説する。
Így tornázott a nagyi meg a dédi: az iskolai testnevelés története képekben - Dívány
ハンガリーでは、体育の授業は内務相や文化相を務めたKuno von Klebelsbergの時代に導入された。ウィキペディアによれば、彼は地方に小学校を作り、大学を近代化し、ハンガリーの文化を海外に紹介する機関を創設した。その一方で、彼はハンガリー至上主義者であり、かつてのハプスブルク帝国内の少数民族に対してその優位性を主張していた。また、トリアノン条約によるやブルジョア・共産主義革命などの原因として、ユダヤ人を非難していた。
さて、当時の体操着を見てみよう。男子の制服は、写真を見ると白いシャツに短パン、それからおそらく革の靴であった。女子は、次のページを見る限り1930年代では、膝の上まであるワンピースタイプの運動着であった。初期のレオタードである。
それ以降の写真を見ていると、女子は短パンになっていくように見える。
だが、次のサイトを見ると、30年間から40年前はレオタードが使用されていた、と書かれている。2018年の記事だから、1979年から1989年に該当する。
Ilyen volt a tornaóra régen! | nlc
男子はポーランドのようにノースリーブに短パンなのに対し、女子は靴下にナイロン製のレオタードだった。また、お尻にゴムの跡がついて苦痛だった、男子がうらやましかった、とも書いてある。
この下の記事によれば色は青か黒、赤はめったになかった。また、素材のせいか汗をかくとべたついて嫌だったそうだ。
Ebben tornáztunk 30 éve! | nlc
学校のものかどうかはわからないが、60年代のレオタードをこちらで見つけることができた。
Május elseje régen – IV. | elekfoto
Tornaóra – 1976. – Szegvár Online
ところで、次のページを見ていただきたい。
szeged.hu - Lányok, asszonyok a Tisza-parton és konflisban
こちらでは、レオタード姿の女子が外でジョギングしている写真がある。1981年のことである。レオタードが室内着だと思っていた自分は面食らった。よく、ブルマーで校外を走らされるマラソン大会が苦痛だった、という女性の声をしばしば聞く。ましてや、より体型の出るレオタードというのは、率直なところ驚いてしまった。
Jobb nő - lesz - Faluság(短パンの写真もあるが、おそらく例外的なものだろう)
身体を伸ばすバレエならともかく、高校の体育で伸縮性のあるレオタードは不要ではないか。しかも、それで市街地を走らなければならないとは。ブログの主はそう口にしつつ、じろじろ見られることを苦痛の理由として挙げている。まったく、その通りだ。どうしてこんなことがまかり通っていたのかという疑問が浮かぶが、ブルマーが30年も通用していた国の人間が言えた義理ではない。繰り返すが、露出度の多い衣装の強制には反対する。
しかし、だ。現在グーグルで「iskola testnevelés」(学校 体育)と検索すると、レオタード姿の女子が少しだけヒットするのである(2010年代前半の記事が多い)。これが私立なのか公立なのかはわからない。おそらく例外だとは思う。上記のレオタードとは色も違う。ほとんどが日本と同じようなシャツに短パンだ。だが、ハンガリーのジェンダー意識は、日本よりも保守的である可能性がある。
気が向いたら、他の国の事情について調べる。
また、映画の中でブルマやレオタードがどう表現されてきたか、についても調べたい。しかし、先日「フランス映画 ブルマー」と検索したら、なぜかフランス書院のページしか引っかからず、ずっこけた。
また、それとは別に、20世紀の体育の授業を見ると、まるで軍事教練のように男子が上半身裸の例が多い。このあたりの規範についても時間があればまとめたい。
それと、ウィキぺディアの制服のページを見ると、日本統治下の台湾で、提灯ブルマーかモンペが採用されているのが見えた。もしこれが提灯ブルマーならば、なぜ台湾や韓国ではショーツ型ブルマーにならなかったのか。最初から短パンだったのならともかく、疑問である。
服飾史、まったく沼が深くて驚いている。
ほとんど酒飲めない(気絶するように寝たあとひどい頭痛と胸焼け)+コミュ障+顔面残念な自分にとって、飲み会文化は苦痛ばかりであり、学生時代からろくな思い出がなかった。
しかし仕事上年に数回程度の飲み会は付き合いの上で避けることができなかった。
特に、立食パーティーはその苦痛を煮詰めた集大成ともいうべきものであり、壁の花以外にやることがなかった。
そのような状況の中、このコロナ禍である。2020年に入ってから会社からのお達しで会食はもちろん飲み会も固く禁じられることとなった(建前上は自粛要請)。
そのため、2020年に入ってからはリモートを含めて一度も飲み会をやっていないが、飲み会に飢えたことは一切ない。
ついでに宅飲みしていたのもやめてしまい、ここ一年半ほど一滴も酒を飲んでいない。
こういった風情なので、自分にとっては飲み会が社会的に抑圧されている世の中はとても過ごしやすいものになったのだが、
コロナが落ち着くとまたこの文化が復活するのが恐ろしいものである。
願わくば、向こう50年くらいは職場の付き合い上の飲み会はやってはならないような社会が形成されてほしいと願うばかりである。
子供が欲しい。
いっそ子供が欲しいとと思う人たちは無性生殖出来て、自分の子供が持てるようになればいいのにと思う。
結婚する前から、私は子供が欲しくないという話をしていて、夫もそれに理解を示してくれていた。
しかし、歳をとるにつれ、周りの友人たちに子供ができるのを見て、子供が欲しくなったらしい。
「子どもと自分の趣味をやりたいんだ。別れるなら早い方がいい」
そう言われた時に、今まで彼に抱いていた情と呼べるようなものがあっさりと消え失せた。
私には妹がいるが、高度な知的障害者だ。
その知的障害は遺伝的な要素が強く、私が子供を作れば私の子供にも遺伝する可能性がある。
そんなことを言えるのは、育てたことがない外野か、聖母のような優しい心を持っている人か、余裕がある人間か、強がりかでしかないと思っている。
私は母が苦労している姿を近くで見ていた。
父のことを軽蔑しているわけでも嫌いでもないが、今考えれば父は育児を放棄していたようで、母がひどく苦労していたのを知っている。
働きながら重度の知的障害者を育てる人も沢山いるだろう。重度の知的障害者が身内にいて、それでも子供を作ろうと決心する人もいるだろう。
決してその人たちを非難するわけじゃない。
寧ろ、その人たちはなんて凄いのだろうと思う。
しかし、いざ自分でやれと言われればそれが苦行としか思えない。
私は私が一番可愛いのだ。
元々人と一緒にいるのがそこまで得意な方ではなかった。
一人でいる時間が好きだった。
少々忙しいが、同世代よりもやや高めの給与をもらっており、クビになることもそうそうない仕事のため、一人で暮らすのに困らない。
コロナ禍前は一人でバーに行き美味しい酒を嗜んだり、一人旅行もしており、一人でも満たされる。
詩を書くのが趣味で、文芸フリマ等での知人たちと話している時間がとても楽しい。
では、子どもができた時、この生活は出来るのか。答えはきっと否だろう。
きっと子ども中心の生活になり、私が今までやれてきたことは出来なくなる。
その上、上記のとおり、私の子どもは高確率で知的障害者になる可能性が高い。苦労はどれほどだろうか。
私はこの穏やかで楽しい生活を犠牲にしても子どもが欲しいとは思えない。
子どもが欲しいという人に、なぜ欲しいのかと聞いたことがある。
老後を見てもらうため。一人は寂しいから。愛する人の遺伝子を残したい。自分の存在を後世に伝えていきたい。子どもに習い事をさせたい。
どれもこれも、私にはピンとこない。
老後は老人ホームに入れば良いし、一人は苦痛ではない。遺伝子については上記の通り。子どもに習い事をさせたいなど、子どもを単なる親のおもちゃとして見ているようにしか思えない。
私の職場では子どもが欲しいという人は、女性よりも男性の方が多い。
職場の先輩は「産むことができないからこそ、子どもが欲しいとなお強く思ってしまうんだ」と言っていた。
それなら、いっそ無性生殖して子どもが作れるようになればいいのにと、子どもが欲しくない私はそんなことを取り留めもなく思うのだ。
ワクチン打って腕が痛い。みたいなしょーもない書き込みをたまーにみては、そもこっちはまだ予約すら取れてねーんだぞ!という憤りでイライラしてたけど普通に痛いな
確かにこれはちょっと人に大丈夫?って聞きたくなるくらいの痛さだわ
針で刺すくらい痛くねーだろってのは、その通りで針の部分は全く痛くない。痛いのは刺した後の反応だね
別に耐え難い苦痛ってわけじゃないけど、左腕の稼働範囲が結構制限されるくらいには、動かすと痛いので人によっては仕事が難しくなるってのもわかる。なんかそう言っても仕事くらいできるだろ?みたいに思っててすんませんでした
学生時代からずっとちゃんと考えて大事な意志決定したことがない。
やりたいと思ったことないし考えれないし今まで何とか入った2つの会社モチベーション持てなかった。
次選びたいけどまた同じになりそうで選べない辛い。
仕事して自活するのが生きることに繋がる。もうわたしはずっと生きたくない。
転職しなきゃと思うけど頭が重くてぼーっとする。
辯天宗は、鹿児島のクソ坊主頭もキナ臭いが、智弁和歌山の韓国への旅行(成績優秀は飛行機、無能はフェリー)という韓国へ慰安(という名の、懺悔)旅行をするのが苦痛だと聞いて、御苦労ですねー、と思いましたね。
大学に入学後、一人暮らしの不摂生防止のためにと、親の勧めもあり朝夕食付の学生マンションに入ったがこれが大失敗だった
元々一人が好きな自覚はあったが、毎朝夕に見知らぬ人と食堂に会して食事をとる、これが思いの外に苦痛なのだった
もちろんコミュ力鬼の学生もいて、2ヶ月もすればマンション内で仲良しグループも出来始める
しかしコミュ障の自分にとって、授業が一緒でも無し、帰る時間もバラバラ、話すのは朝夕の食事だけの関係の人間と仲良くなることは中々に難しいことだった
ただ毎日顔だけは合わせるので、一応愛想良く振る舞ってはおかないといけない
隣人以上友人未満の微妙な関係が続き、疲れて帰ってきても朝夕は必ず愛想笑いをする…気がつけば心休まるはずの家に帰るのは苦行でしかなくなり、食事で人の顔を見ることが恐怖になり始めた
心療内科を受診しようか本気で悩み、結果的に自習をして夜遅くまで学校に残ることで夕食提供時間に間に合わないようにしたり、朝食を抜かして朝早く学校の図書館に向かったりと、何とか住人と会わないようにしようという方向へと行動し始めた
そのうち食事に来ないことを管理人に問い詰められたので、生活リズムが合わないと理由を付け月1万円の食費を払わないで済むよう手配してもらった
家賃が高いマンションだからか、学生におかしな奴はいなかった。むしろ自分が一番おかしかったかもしれない
良いマンションなのだろうが、自分には合わなすぎた。結局1年で精神的に耐えられなくなり、引っ越しをする羽目になってしまった。
親御さんが心配してこの手のマンションに入るよう勧められる家庭もあるだろうが、他人との会話が苦痛なタイプは想像以上の苦痛を日々しいられることになるため、入居をお勧めしない。
チョウやガは適切な葉を選び、卵を産む。間違った葉に落されるとふ化した幼虫は正しい葉まで移動するか、死ぬしかない。人間の魂だってそうだ。適切な場所に適切な状態で産み落されて初めて正しい生を歩める。オレの魂は今世は欠陥を持って産み落とされた。体や心の不調は医学の発展で治せるが、魂の欠陥ばかりは人の力では治せない。オレの魂には片割れが居る。魂が誕生してからオレの魂はその片割れと常に一緒だった。共に輪廻を繰り返した。前世はインディアンのショーニー族、前前世はベンガルの王、前前前世はアイルランドの戦士、その前はパルティアの貴族、その前はアテネ市民、その前はパラオの先住民、その前はエジプトの貴族、その前はアッカドの役人、その前は縄文人、人になる前はステラーカイギュウだったり、アデリーペンギンだったり、オオハクチョウだったり、スラウェシメガネザルだったり、タイリクオオカミだったこともあった。
のろけ話になるので余り詳細は話せないが、どうやらオレと片割れはずっと一緒だったらしい。魂の片割れは鍵と鍵穴なんてものじゃない。体の右半身と左半身だ。二つで一つ。こういう例は魂全体の割合で見ればごくごく少数派なんだが、歴史上の人物では例が少なくない。ダーウィン、ジョージ六世、大正天皇、J・S・ミル、フォードとその妻は魂の片割れだったらしい。二つの魂は基本的にずっと一緒。ずっと一緒に輪廻し共に人生を歩む。基本的に輪廻の周期は誤差はあれど、500年ほど。つまり死んでから500年後ぐらいに再び産まれる。面白い例が二つある。劉秀・スレイマン一世と唐の太宗・ジャハーンギルだ。劉秀の妻は陰麗華。美人で慎ましく、賢妃の典型例とされる。彼女は劉秀を支え続け、二人の絆が後漢の繁栄と平和を築いた。もちろん二人は魂の片割れ関係にあるのだが、この二人が偉業を成し遂げたのは、一世だけではない、この二人は来来来世でも偉人に産まれたのだ。スレイマン一世とロクセラーナだ。ロクセラーナは美貌と知性を兼ね備えたウクライナ人で奴隷としてスレイマンに売られた。スルタンはロクセラーナを気に入り、事実上の一夫一妻関係を築いた。その気になれば妻を何人もめとれたというのに。この二人は魂の片割れであったことは確かだ。劉秀夫妻の来来来世である証拠に劉秀の没年は57年。スレイマンの生年は1494年。ひくと1437年。ざっと1500年ほどだ。歴史上に名だたる名君二人に産まれたこの魂は最も偉大な魂と言えよう。もう一つの例は唐の太宗こと李世民だ。その妻長孫皇后は陰麗華皇后と並ぶ賢妃だ。太宗を支え、唐の繁栄に貢献した。この二人もまた魂の片割れある。二人の来来世はムガル帝国の皇帝・皇后だ。ムガル帝国4代目皇帝ジャハーンギルはかんしゃく持ち、アル中、病弱ととんでもないろくでなしだった。しかし、そこに美貌と知性の妻ヌールジャハーンが加わることでその治世は酷いものとならずに済んだ。彼女は夫を支え、かんしゃく持ちやアル中を改善させた。それでいながら夫を立てることも決して忘れなかった。太宗の没年は649、ジャハーンギルの生年は1627年。引くと978年。やはりこの二人は同じ魂だ。劉秀の次に偉大な魂かも知れない。このように魂の片割れ同士は共に輪廻することで凄まじいパワーを生み出し、当人に多大な幸福を与えるのだ。
しかし、片割れ同士が離れると絶望的な苦痛に繋がる。当たり前だ。自分の体の半分がないようなものなのだから。オレと片割れはずっと一緒で幸せすぎたのでばちが当たったのだ。しかし、それも酷いもんだ。片割れと離ればなれになるだけでなく、魂に欠陥を持って産み落とされた。まさに間違った場所に産み落とされた卵だ。無論、それは不幸な人生。強い欠乏と苦痛が伴う人生。しかし、希望はある。この人生に希望はないが、死後に希望がある。少なくとも霊界で片割れに再開できる。来世はきっと一緒に輪廻できる。そしたら、今とは似ても似つかない幸福な人生が歩める。今は辛抱だ。片割れだって、今どこかで苦しんでいるのだ。自殺したっていいが、自分だけ逃げるのは卑怯だ。それに楽しみはとっておくもんだ。今苦しめば、霊界や来世での喜びはそれだけ大きくなる。