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はてなキーワード: 児童文学とは

2019-01-17

現代文学全般的にケッとなる

純文学はどんなに厨二でも時代だしね?で納得感ある

現代の本でも児童文学はい

2018-12-22

anond:20181222171800

像まで立てといてそりゃねーぜ

児童文学版「あゝ無情」だよねアレ

みんな冬に死ぬんや。

オーサム

2018-11-16

原爆写真韓国独立写真を並べたTシャツを着ていた

PV原爆映像を使った

慰安婦支援するTシャツを着ていた

ラノベキズナアイ児童文学戦線拡大と変わらんな。

やはり左とか右とか関係なく人類はクソ。

2018-11-12

萌え界隈はゴミクズしかいないし所得文化レベルの分断化は進んでる

萌え界隈はゴミクズしかいない

加えて萌え界隈の基地外低脳非オタク率(オタク文化に対する知識の無さ)は異常

作画オタや声豚やソシャゲのアホが可愛く思えるわ

ワイがガキンチョの頃から、つーかそれより更に昔から萌え絵の本はあったぞ
ただし、ライトノベルみたいな児童文学な?古くからスターライトキッズ (1990) とか
ミンキーモモ で 有名な渡辺ひろし・渡辺けいこ がそういうタッチイラスト描いてる
それに文句を言うものは誰もいなかった
何故かって?住み分けですよ
マンガ っぽいものを求めて自己選択出来る年齢の児童に対しての作品から

自己選択出来ない子どもに与えるのが萌え絵とか、

未就学児にファーストフードばっか食わす親みたいに、

所得文化レベルが透けてみえ

ただし、ファーストフード食わせるのは別に虐待ではないし、

ファーストフード違法商売ではないので、

「これが売れるので商売としてやってます」ならで

需要供給があっている話で終わるけど

Twitter煽りよるよねぇ〜

萌え界隈に群がるのは個人情報をばら撒いたり執拗個人攻撃を繰り返したりする基地外ばかりの世界認識ある上で

Twitter煽りよるよねぇ〜

2000年代お固めな企業 (銀行MSなどなど)が萌えキャラ採用して

公式が病気とか、本格的に萌える件、とか無邪気に楽しんでたけど

来るべき残念な未来が来てしまった感ある

誰もストップはかけなかったもの

2018-11-01

小学生のころ読んだ海外小説がおそらく自分が性行為意識した初めてのものだとおもうんだけどタイトルがわからない

主人公が女で、兄弟の弟の方(頼もしい感じ)と結婚するはずだったんだけど、兄(体弱い)が自分兵役に行かなければならない(たぶん、飛行機乗りになる?)のでと強く迫り、主人公は体を許してしまう。

でもそのあと兵役は体弱いから行けないのに嘘ついてたのがわかってひと悶着、オチは憶えていない。児童文学だったか不明だけどハードカバーだったはず。

2018-10-28

anond:20181027195805

つーか、そもそも児童文学世界萌え絵スタンダードになんて別になってないので…

あいうのはやはり「安っぽい」本でしか使われないもので、「意識高い」親は買わないよ。

そのにんぎょひめだってハードカバーじゃなくて安くてペラペラした本だろ。

あと「一冊に古典名作沢山入れました、とりあえずこれ読ませておけばOK」みたいな詰め合わせ本も多いね

教育熱心な人たち(受験界隈とか)の間で「子供に読ませておくべき良書」と言う意味話題になるような本じゃない。

うんこドリルみたいなもんだよ。あれもあくまでシャレとしてorあれくらいでないと勉強しないような子(の親)が買うものであって

門中受験を目指すような親は買わないだろうし、あれが学習書のスタンダードにはなり得ないだろ。

2018-10-25

絵本児童書の“萌え絵”論争――「子どもに悪影響」の声に、児童文学評論家反論』という記事

この記事、「萌え絵に反対する奴は時代遅れしか言ってない無の記事に見えるけど

なぜか絶賛されてるのが謎

2018-10-24

anond:20181024195225

児童文学の表紙をなぜ絵の世界への入り口であると断言するのか?

論理の飛躍を感じる

売上部数で考えるなら普通に漫画のほうが影響力は上ではないか

絵の世界への入り口我流オタク絵でいいのか

オタク児童書論点ってこれに尽きると思う。

プロ画家デザイナーが描いた、よく分からないけどなんとなく記憶に残る絵。

子供にはさっぱり理解できず、大人になって勉強しないと理解できない絵。

そういう絵こそが子どもに与えられるべきだろう。

 

昨今の児童文学本で見られるオタク絵は、性欲(ぱっと見のかわいさ等)を

刺激するだけの原始的創作物にすぎない。瞬発力だけで、持続性、発展性が無い。

目先の利益しか求めず、子供未来を考えない出版社意識の低さの表れではないだろうか。

 

追記

少女漫画の絵だろうが専門知識の伴わない絵なら一緒だよ。

念のために「オタク絵」は「マンガ絵」に修正しておこう。

児童書の表紙に萌え絵はふさわしくない」論争の記事

絵本児童書の“萌え絵”論争――「子どもに悪影響」の声に、児童文学評論家反論

https://www.cyzowoman.com/2018/10/post_206184_1.html

難癖つけて女性絵師仕事も奪おうとする

女の社会進出妨害して何がフェミニスト

2018-10-10

[]若おかみは小学生!

若おかみは小学生!』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨です。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向け。またこ作品書籍漫画版アニメ版あるけれど、それらは横に置いといて映画の話します。

総評

これは120点っすな。点数の基準は「上映時間映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」なので、「見れて大満足! もうちょいお布施したい」でした。

演出とは裏腹に内容的にはかなりヘビー(というのを見越して爽やかで明るい演出を用いていた)なので、児童文学原作でお子様向け痛快娯楽活劇とは言い切れないんですが、個人的にはクオリティさえ伴えば子供を思いテーマや悲しい作品でぶん殴ってもええやないか、いてもうたれ、子供ってのは子供なりに受け取るんだ派なので、クオリティでぶん殴ればいいと思いますふるぼっこドン

この映画に関してはTwitter児童労働がどうのこうのという話もちらりと耳にした程度で事前情報収集もなく見に行ったんですが、そういう物語じゃなかったですよ。

喪失を乗り越えるという話

じゃあ、どういう物語だったかといいますと、大きく2つの柱が絡み合うストーリーでした。それは大きなテーマで言えば「喪失を乗り越える」と「自分自身と居場所を見つける」という話。

初っ端から重いですが、主人公である女子小学生・関織子(通称おっこ)は、本作冒頭の交通事故において両親を失います。もうこの時点で軽い話になりようがないわけですよ。にも関わらず事故被害のシーンはグロカットされ、葬儀とそれに続くドタバタのシーンも描写はされず、おっこは新生活の場であるところの、祖母の営む温泉旅館「春の屋旅館」へと向かいますトランクひとつ持って別に落ち込むわけでもなく、ちょっと大変なだなあくらいの顔色で一人旅をして、到着し、新しい部屋(いままでのマンションとは違う昭和的な和室)を与えられ、転校して新しいクラスメイト挨拶をして、ひょんなことから家業である温泉旅館を手伝うことになります

若おかみは小学生!』って言うタイトルから当たり前ですが、こうして女子小学生おっこの若女将修行生活が始まるわけです。

「春の屋旅館」がある「花の湯温泉」は歴史のある温泉街で、古都然としたまちなみに浴衣姿の観光客が歩く割合賑やかで、カラフルな町です。この辺音楽美術演出あいまって、しみじみと明るく暖かく描かれていて雰囲気良いですね。美術レベルは高かったです。

でも、この明るく爽やかなあたりが(とうぜんそれは演出意図に沿ったものなんですが)、ある意味ホラーでもあるわけです。

小学生児童にとって、両親を失うというのは、最愛家族を失うということであるのみならず、加護者も生活基盤も導き手も失うということです。もう、それは世界崩壊かいレベルでの悲哀なわけですよ。

にも関わらずおっこはそこまでの苦しさを見せない。両親を思い出してちょっとうつむくことはあっても、笑うし、日常生活を送るし、新しい出会いにも前向きでいる。それはよく考えればとてもとても異常なことなわけです。

異常なおっこの新生活は、やはり物語後半に向けて徐々に破綻してゆきます。「両親がまだ生存していて自分と一緒に暮らしている」という幻想を何度もみてしまうおっこは、あるシーンにおいて事故の原因となった(もちろん別のですが)大型トラックを見て、事故フラッシュバックから過呼吸になってしまう。おっこは、両親の喪失という悲しみを乗り越えたわけではなくて、ただ単に今まで封印をして日常生活を演じていたに過ぎなかったわけです。

あらすじなんかにおいて本作は「主人公おっこの成長を描く」なんてサラリと書かれているわけですけれど、それは不誠実な欺瞞であって、おそらくおっこの身になってみれば、それは成長じゃなくて引きちぎられてバラバラにされてしまった自己の修復というサバイバルなわけです。失った何かから目を背けて、決定的な破綻をしないようにごまかしながら疾走するというのが、この物語の前半部分でした。

自分自身と居場所を見つけるという話

そういう意味で、おっこが若女将をやるというのは、児童労働とかそういうレイヤーの話ではないのです。両親を失って加護者も生活基盤も支えも失ってしまったおっこにとって「いまできるなにか」に必死に飛びついて自分を騙そうとしていたとも見ることができます祖母である旅館経営者(現女将)の後継者問題という、旅館側の都合があったにせよ、おっこが旅館雑務に飛び込んで笑顔で充実していく背景にはそれがあるはずです。

事実おっこの若女将雑誌に取り上げられて評判を呼ぶという広告的な価値はあったものの、従業員としてみたとき、お客さんに感情移入しすぎて夜闇の中に駆け出すなど(一般的社会人価値からすれば)行き過ぎな面もありました。

でもそれも仕方がないと思うのです。両親という生活基盤を失ったおっこは、同時に目指すべき将来の自分像も失っています。「将来こういう自分になったらいいな」です。その空隙を、目の前に提出された安易な「若女将」で埋めてしまったわけですから、その意味では、おっこの若女将労働としての若女将ではなく「若女将ごっこ」でもあって、つまりはある種の自分の居場所探しなわけです。

たとえおっこ自身がそれを言語化できるレベルで気づいてなかったとしても、まだ収入もなく住む場所自分では決められない小学性にとって、他にできることなんて事実ないじゃないですか。それはせめて居場所を獲得するという生存努力です。

おそらく祖母はそのおっこの悲痛に気がついていて、周囲が無責任に「若女将誕生!」とはしゃぐなかで、決して自分からは手伝え、継げとはいいませんでしたし、おっこの労働危惧してた素振りも見えました。経営者として「子供接客なんてさせられない!」と拒絶することもできたでしょうけれど、おっこから女将をとりあげて、じゃあ不安定彼女精神に何をしてあげられるかと言えば何もない。だから黙認しかないわけです。

だいたい「自分自身と居場所を見つけるという話」なんてもの現代社会において、大学卒業して就職して一年二年経った青年が、俺はどうやらこういう方面には我慢が効くがこういう方面は苦手だぞ、どうやらおれはこういう仕事とこういう人間関係の中でなら生きていけそうだ――みたいなのをやっとこさやるものなわけで。そんなものを、小学生が引きちぎられるような喪失を乗り越えるのと二正面作戦でやるのは無茶というものです。

そういう意味では、周囲の大人たちはもうちょいどうにかフォローしてやれなかったのかよ、とも感じるんですが、でも逆にそれこそ大人視点傲慢物言いであって、大人だろうが子供だろうがどんな人間でも自分自身の心の中の悲しみや未来とは、自分一人で向き合うしかないというのも一面の真実です。

おっこは画面上の軽やかさやおっちょこちょいさに隠されがちですが、実は誇り高い女の子です。特に自分が設定した自己目標に対しては愚直なまでに誠実です。だからこそ、宿泊客のために対立している真月に頭を下げて教えを請うこともします。その実直さが両親を失うという危地の中で彼女孤立してしまった原因だし、それが巡って彼女の味方を増やす原因でもあったのは素敵だったと思います

ふたつの話の交差点

おっこは「喪失を乗り越えること」から逃避して、目の前のロールである女将に飛びつき、そこで必死に働くことによって苦しかった過去ある意味塗りつぶそうとしたわけですが、その逃避が「自分自身と居場所を見つける」ことにつながってゆきます

幾つかの出会いがあって、目指すべき未来のヒント、ロールモデル出会います。たくさん登場人物がいるのですが特筆すべきなのは三人でしょう。

まずは旅館女将である祖母。登場シーンは少ないのですが、彼女個人人格職業倫理が融合してしまったあの佇まいは、今は亡き母経由もふくめておっこの誠実さの根っこのように思います職業倫理がついには人格化しちゃうって、昭和的な善人のあり方としてすごく共感できるんですけど、今の時代では流行らないのかもしれないと思ってちょっとロリしました。

二番目には、おっこの同級生、秋野真月(大旅館の跡取り娘、通称ピンフリ)でしょう。この娘は小学生女子なのですが、広い視野旅館業と湯の花温泉京の未来を見つめていて、顧客に対して誠実であろうという、幼いながらある種の達人系キャラです(傲慢物言いをする残念キャラでもあるのですが)。この娘と同年代として出会うことができた、ライバルとして対立したり和解したりできた、というのはおっこを取り巻く幸運の中でも格別のものでした。彼女との交友は、悲痛から逃げ出して飛びついた「若女将ごっこ」に、その内実の精神性を加えて「本当の若女将」へ進化させてくれたと思います

(余談&劇中では語られませんが、温泉郷に住まう子供の中でも誰よりも本気で町の未来について抱え込んでしまってる真月の孤独にとって、その孤独の闇に現れて、自分の高さまで登ってくれると約束してくれたおっこの存在は、想像すると涙がこぼれるものが有ります。真月からみてもおっこは救いであったと思うし、そうだと良いなあ)

三番目は宿泊客である占い師グローリー水領です。長い黒髪をたなびかせたこ宿泊客は、都心部事務所を構える凄腕の女占い師なのですが、私生活での失意から「春の屋旅館」で飲んだくれ生活をしています

抑制的な演出描写される彼女鬱屈をおっこはどうにかして励まそうと、浴衣を着たことのないという彼女着付けを手伝います浴衣経験のそんな彼女艶姿におっこが感嘆した感想が「格好いい!」でした。

ものすごくさり気ないシーンだったのですが、それはおっこが喪失していた「自立した憧れるべき大人の女性像」を見出した場面だったんじゃないでしょうか?

私生活で辛いことがあっても他者に当たらず、それどころか宿泊先の幼い従業員おっこに気を使っておどけてまで見せる。グローリー水領はおっこ視点では「素敵な大人のお姉さん」です。その素敵な年上のお姉さんに、「可愛い」でも「素敵」でも「綺麗」でもなく「格好いい!」と小さく叫んだおっこに、少し泣けました。お洒落で(←女子小学視点では重要です)、颯爽としてて、自立をしてて、視線を合わせて話してくれる。そんなお姉さんはおっこにとってどれほど輝いて見えたことでしょう。暗闇の中で我武者羅に迷走していた、それでも笑顔だけは守っていたおっこにとって、それは小さな灯火で「未来自分」「目指すべき形」です。

祖母の言う「誰も拒まない花の湯」、同級生真月のいう「客を癒やすレストスペース」、女占い師自分仕事を「他人を励ます仕事」だと評したこと。それらは全て本作テーマに重なるパラフレーズです。そしてそういう人々の輪の中に、自分も入っていける。癒やしたり癒やされたりしながら前へ進んでいくコミュニティの一員になる。「若女将」という「自分自身と居場所を見つける話」は、おっこにとっては生存努力であり逃避だったわけですが、それを誠実に、ごっこから実体にしていくのならば、結局逃げていた「両親の喪失という苦しみを越えていく」につながっていくのだ、という脚本はすごく良かったです。

別れ

ここまで触れてませんでしたけれど、おっこには霊感があるという設定で「春の屋旅館」にきてから騒々しい幽霊少年やおませな幽霊少女出会い、励まされています。両親が今でも生存していて日常は壊れていないという幻想に悩まされていた頃おっこを支えていたこ幽霊たちですが、物語終盤でおっこから見えなくなってしまうという形で別れが示唆されます

でもそれは、おっこが人間社会のなかで居場所確立した――七つまでは神のうちといういわばまだ神様たちの一員であり神楽の主役でもあったおっこたちが、社会の中で着地して、痛みも悲しみも乗り越えていく季節がやってきたのだというエピソードです(おそらく魔女の宅急便黒猫ジジが喋れなくなる、も同様の構造ですよね)。

見終わってから気づいたのですが、この作品幽霊や鬼たちは、幼いおっこが空想したイマジナリーフレンズだとしても物語が成立するように設計されています

おっこは自分の中の勇気かしこさと一緒に自分の悲しみと戦った。「春の屋旅館」はその舞台であり、若女将はおっこが戦うための姿だった。

すべてのフィクションファンタジーなので現実視点を持ち込みすぎるのは野暮というものなわけですが、今後おっこは中学入学卒業して、大学はともかく高校くらいは出るはずで、一人前になるまで十年近い時間があります。(このお話のおっこは絶対旅館業一筋だと思うのとは別に一般化するのならば)そのなかで、旅館から離れるかもしれない。現実に寄せて考えるならその可能性は高い。

でもそんなことはおっこの戦いとそこで得たものとは関係がないわけです。おっこは若女将というコスチューム身分を手に入れたわけではなく、戦いの中で手に入れた人間関係自分自身がある。将来どこでなにをしようと、おっこの手に入れたものが曇ることは二度とない。それがこの映画の中心であって、それは児童労働とかそういうのではなく、もっとパーソナルで尊いものだったと思います

ps.おう真月ちゃんパート書き足したで!

児童文学萌え絵傾向がひっそりと問題化されてるが

子供エントリーさせるために2巻までだけはつばさ文庫並行で入れてそれで興味持ったら従来のに繋ぐとか

子どもと書を繋ぐ現場自体がとことん馬鹿にしながらも必要悪として嫌々利用してるの見て

つばさ文庫が若干気の毒になった

2018-10-09

児童文学の絵柄

小学生の時、図書館においてあった本はどれも古い絵柄で読む気がしなかった。

好きな人には申し訳ないんだけど、ズッコケ三人組の表紙見て読む気なんて起きなかった。

わかったさん世界名作劇場平成10年台頃には絵柄としては一昔前の部類だったと思う。

同じ本を読むなら少しでも新しそうなラノベ漫画に走っていた。

 

ラノベ扇情的な絵の表紙が女の子不快感を与えると言う意見があった。性の消費、ジェンダー観の押しつけを感じるからだという。

ラノベの表紙にそういうのは感じたことなかったけど、教科書児童書で古い絵柄のもの採用する大人には似たようなものを感じていた。

普段消費している、私達が好きな漫画アニメの絵柄を"不健全もの"として否定し、"健全な絵"として古い絵柄が教育現場採用する"大人理想"の押し付け

前に話題になった英語教科書の絵柄刷新は、そういう風潮を嫌った子供大人になり、教科書を作る立場になったからなのかなとぼんやり思っていた(真相は知らない)。

 

子供は古い絵柄に馴染みがない。

大人は新しい絵柄に馴染みがない。

 

それだけのことだろう。大人子供の楽しみを奪うのか。児童文学は誰のためのものなのか。

子供読書させたいのなら、漫画アニメ文学シームレスにつなげるのが効果的だとなぜ気づけ無いのか。

昔の絵柄だって出始めの頃は性的コンテンツの絵柄だったり、当時の大人から健全扱いされてたんじゃないの?

本の表紙なんて読む意欲を持たせたもん勝ちだと思う。

2018-09-29

アニメ映画若おかみは小学生!」を見て欲しい

「おっこ(主人公)はあまりにも明るいなー...」

パンパンに泣き腫らした目で友人がそう感想をいうので、同じくパンパンに泣き腫らした目で私は

「すごいすごいすごいすごい良かった...」と言った。

大学の授業を抜け出して二人で行った映画私たち含め四組のお客さんしかいなかったけれど、アニメ映画若おかみは小学生!」は私が今年一番、みんなにも見て欲しいと思った映画だった。






アニメ映画若おかみは小学生!」は製作陣がすごい

見たものとしてはやはり、内容に関して無勉の状態で行って欲しい感情がある。

これから見る人に先入観を抱かせたり、見る前の穏やかな気持ち干渉したくない。

きっかけづくりとしてわかりやす情報から提示したいと思う。

まず、映画「若おかみ」の監督アニメ映画茄子アンダルシアの夏」の監督を勤めた高坂希太郎さんであり

脚本アニメ作品だと「けいおん!」、「ガルパンアニメ映画だと「デジモン僕らのウォーゲーム」「猫の恩返し」「リズと青い鳥」「ルーのうた」などの脚本を勤めた吉田玲子さんだ。

(これを書くに至って調べたら本当にいろんな作品を手がけていてすごい...)

そして監督含め、美術監督作画監督美術設定はスタジオジブリ出身のすごい方達が揃っている。

ぼんやりとだけでも、す、すごい。。。

若おかみは小学生!」は良い映画なんだろうな、等身大の子供や大人が描かれているんだろうな、という事がわかってもらえたと思います






アニメ映画若おかみは小学生!」は評判がいい!

私も見る前まではtwitterなどを見ても全く評判が回ってこなかった。(私のTLのゾーニングがすごいだけかもしれない)

私は茄子アンダルシアの夏がすごく好きだったので行ってみただけで、原作名前は知っていても(若おかみは小学生!原作世代の方なら言わずと知れる児童文学作品

読んだことはなかった。小学生が若おかみをする話で、予告がすごくいい!しか印象はなかった。

しかし見終わってから調べると色んな人が良いとおっしゃっている。私はあまりにも出遅れていた。

twitterで若おかみ良かった!と言っていた著名人は多々いるが、わかりやすい例として映画監督新海誠さん 

イラストレーターのヒョーゴノスケさん(映画ドラえもん〜カチコチ〜のポスターの人)がいる。

そして何と言っても、原作者の令丈ヒロ子さんが「シナリオ段階から映画に関わってきたのに完成を見て泣いてしまった」(一部ツイートを省略しています)とおっしゃっていた。

これって素晴らしいことじゃないですか?!!?!?!?みんな幸せ気持ち応援できる作品じゃん。

しかしその評判とは裏腹に、興行収入などは駆け出しがあまり良くないらしい。そんなの、悲しい、、、、)







個人的に見てもらいたい人。

アニメ映画若おかみは小学生!」は仕草や動き、演出キャラクター感情個性、想いを表現しているアニメだ。

それに加えて、そのキャラクターたちがいる舞台も繊細にキャラクターに寄り添うように描かれている。

もう一度言う。「若おかみは小学生!」は 小説において会話文ではない、情景描写作品としての深みや魅力を感じるように、

語らずとも動きや演出キャラクター同士、キャラクター土地との距離感を描くことで作品に深みを生み出している。

そういう丁寧な作品だ。クリエイター関係の方が多く評価していらっしゃったのにも頷ける。

(聞くところによると制作に三年かかっているらしい。ドヒャー)

からそういう丁寧さに価値を感じたり、感情を汲み取ったりしやすい人に見て欲しい。

(そういう人の方が面白いと感じやすいかもしれない、というだけで本当はみんなに見て欲しい)(強欲)






最後

結局のところ、私は「若おかみは小学生!」というアニメ映画が素晴らしいということを知っているのに、何もしないまま、多くの人が認知できないまま時が過ぎさり、この丁寧さがなおざりにされたお金しかまれいかもしれない、というのに我慢できなかった、という話だ。

そして、今、「若おかみは小学生!」という作品は実際に上映数が少なくなっている。

朝、一日一回の上映で終わってしまうのだ。昨日一昨日見たばかりのどこでもいるような大学生だが、

子供が地団駄をするようにそんなのおかしい!と純粋に思ってしまった。

私はもう一度おっこ(主人公)に会いたいし、また劇場に足を運ぶつもりだが、正直みんなが見やすい、予定が合いやすいのはこの土日しかない。

どうか予定が合う方はこの作品、「若おかみは小学生!」を一度劇場で見て欲しい。本当に、見て欲しい。

追記、一回だけではないところもあるみたいだ。でも昼までのところがほとんどらしい。昼までだとどのみち社会人には厳しいのだが今後どうなるかもわからないので(ポジティブ)ぜひご自身で調べて見て欲しい。)



私はこういう推奨文ないし匿名ダイアリー文章を書くのは初めてのことだが、なんだかすがるような気持ちになってしまった。

この作品純粋さがみなさんの胸にストンと落ちることを心より願っています。(公式予告映像https://youtu.be/oqWEY1pVACM

(誤字脱字、文章読みにくいなどあったらごめんね!)

2018-08-24

anond:20180818134640

反体制な内容で売れたフィクションなんて児童文学くらいにしかなくて。

この辺を見ている人たちがぎりぎり覚えているのが「ぼくらの七日間戦争」か、もっと古ければ

宿題ひきうけ株式会社」「チョコレート戦争」くらい。

反体制なんて、本当、現実権力相手にした内容にしたところで、どちらの勢力も難癖つけて流行らせてくれないいっぽう、

ゾンビ映画脚本に「これって人種問題が関わってますよね」みたいな深読み勢力を味方につけられれば十分流行るので、

適当出来事をなにかに仮託して語るのが一番無難

それが前出の3作品

2018-08-15

anond:20180815104513

文章書くの自体は苦手じゃないんだろうし、もっと気楽になればいいと思うなあ。

自分と似たような趣味の人を想定して、その人にオススメするつもりで書けば楽だよ。

「どこが面白かったの?」って友達とか家族に聞かれたときに、相手が食いついてきそうなポイントを書く感じ。

出てくるお姉ちゃんが妙に色っぽくてとか、オッサン渡辺謙みたいで渋くてかっこいいとかさ。飯がやたら美味そうで、読むだけで腹が減ってくるとか、あの登場人物は〇〇先生に似てて笑えたとか。

そうやって知り合いに話したら面白がってくれそうな細部の描写とか、変だなあってシーンを拾っていくと書きやすいよ。

年代が違うだろうけど、児童文学定番の「夏の庭」とかさ、近所の爺さんが死ぬ様を小学生が見届けようとする話なんだけど、主人公が爺さんにまだ死なないのかとか聞いちゃうシーンはやっぱり笑えるし、そこを紹介をされたらちょっと気になるでしょ?

爺さんにそんなこと聞くってどんな小説?って。実はこれが泣けるいい話でさあ、どんな風にいい話なの?って膨らんでいった内容をまとめ直したり、必要なあらすじを説明したりしてけばいいんだよ。

こういう「他人が食いつきそうなこと」を起点にしたら書ける気がするんじゃないかな。

他にも例えば、ただのムカつく教頭だと思ってたら実は柔道の達人で、生徒を守るためにテロリストタイマンで戦うんだよ!あそこのシーンにはシビれたねえ!とかさ。(ちなみにこれは「槐」って小説)

友達冗談を言い合うノリを想像すれば書きやすいし、何より自分楽しいでしょ。多少話を大袈裟に盛ったって、面白文章になるんなら構わないんだし。

ウケを狙うのって不思議もので、やってみると自然サービス精神が湧き出てきて文章を書くことも楽しくなるんだよね。照れ臭いことも冗談にまぎれてなら書きやすいし。

別に本のどこに影響を受けたとかを無理やり見つける必要はなくて、なんとなくでも印象に残ったところを書けばいいのよ。

表紙やタイトルが気に入ったなら、それがもうすでに感想ネタだよ。

表紙の絵はこういう場面を描いてて実に素晴らしいとか、読み終わってタイトル意味がしっくりきたぞウーン深いとか、なんでこのタイトルがいいのかと思ったら七五調だったんだ、とかさ。

タイトルだけよくできてて中身はあんまり面白くないっていうのも立派な感想だし。

そういうのを繋いだりまとめたりしていけば、十分読書感想文になる。


とりあえず、自分が読んだ本について誰かと楽しくおしゃべりする感じを意識すればいいんだと思うよ。

そうすれば感想を書くことの面白さがわかってくるかも。

2018-08-02

anond:20180802114738

ティーン未満向けが児童文学ティーンけがヤングアダルト、というのが基本線。

ただ、日本出版業界では絵本児童文学ヤングアダルトをそんなに区別していないんだと思う。

ぜんぶひっくるめて「児童書」みたいな。

児童書」と「児童文学」はほぼ同じ意味のはずだけど、

文学」っていうと、字面のためか、ちょっと対象年齢が上のように感じる。

ゾロリ」「はれときどきぶた」「エルマー」「ズッコケ」(←この順に対象年齢が高くなっていくイメージ

あとは「世界童話集」みたいなやつとか、「偉人の伝記」みたいなやつとかが児童文学

ヤングアダルトっていうと、青い鳥文庫角川つばさ文庫代表格で、

さらに上の年齢ではYA!ENTERTAINMENTポプラ文庫ピュアフルなど。

海外ファンタジーの「不思議の国のアリス」「オズの魔法使い」「ハリーポッター」あたりは、

わりと上の年齢まで読んでるイメージだけど、児童文学コーナーに置かれてるような扱いだよな。

海外だと「トワイライト」や「ハンガーゲーム」あたりも若者向けのヤングアダルトと呼ばれている。

anond:20180802114042

へー

児童文学ジュブナイルはほぼ同じみたいな感覚だったわ

ゾロリとかあの辺は児童文学

具体例が難しいんだけど

青い鳥文庫とか

(これしかわからんコバルト文庫少女ラノベからこっちにリライトした作品があるのを知っているので)

一般向けとかを子供向けリライトしたりはジュブナイルはいるのかなぁ

anond:20180802113012

合ってない。

ジュブナイルヤングアダルトと呼ぶほうが正確で、これはティーン向けの小説のこと。

ライトノベルも同じくティーン向けの小説なので、対象年齢としては同じ。

ただ、ライトノベルのほうがより上の年齢層にまで目配せしてはいる。

より低年齢層向けの作品児童文学

一般小説一般文芸)は対象年齢が定義に組み込まれるようなジャンルじゃない。

ジャンル小説以外」を大雑把に「一般」と言ってるだけだからな。

2018-06-23

ジブリが消えたら

日本児童文学は終わると思う。魔女の宅急便原作読んだことあるやつって少ないだろ。でもみんなジブリで知ってる。映画化されるだけで読んでみようという人もでてくるし、何より原作として存在意義がある。他のアニメ映画ほとんどが漫画原作だ。それに最近子ども目線で作ったアニメだけど大人が見ても見応えがある、ではなく、ぶっちゃけ大人目線アニメだけど子どもも楽しめるに傾いてる。これは原作漫画からだと思う。映画世界にとどまらず、昔はみんなよく見ていただろう世界名作劇場の原作はだいたい児童文学だし、制作に携わった有名人と言えば宮崎駿だ。

ジブリが消えたら、誰が児童文学の素晴らしさを映像におこしてたくさんの人に広めることができるのだろう。それよりも、子どものためを第一に思って作った映画アニメがいつかなくなるんじゃないか危惧してる。

2018-06-12

どうしてプリキュアを信じないのか

https://anond.hatelabo.jp/20180611011239

元増田です。


http://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20180611011239

批判しているブクマカの人たちは、どうして

「そのためにプリキュアと、プリキュアを見て育っていく子どもたちがいるんだ」と、ただそれだけの事が言えないのだろう?

呪いなんてプリキュアを見た子どもたちがこれから打ち破っていくのだと堂々と言ってほしい。最後覚悟必要だと書いたのは、そういう意味だ。




お姫さま像を変えていこうという試みはもう数十年単位でずっと続いていることで、

本当に少しずつ少しずつ児童文学以外の娯楽作品にも浸透してきている。それは確か。

でも、プリキュアで例のセリフ男の子だって、お姫さまになれる」のやりとりをしているのは

男の子がオシマイダーに捕まってるのをプリキュアたちが助けるところなので、

守られる存在というお姫さま像は、少なくともこの話の中では残っている。

これを大前提として話を続ける。




自分のなりたいなにかになる、その応援として「なれる」と言ってあげることはもちろん素晴らしいことだ。

でも、守られる存在になるという要素が含まれしまうと、そうはいかない。

これを自らへの縛りとか、自己承認問題だけで片付けようとしてはいけない。


どうもルッキズムの話で盛り上がっていたみたいだけど、それを続けるとどうも話が広がりすぎてしまうので

少し目先を変えてみたい。

例えば子ども場合子どもであることそのものが守られるための十分な条件であるし、そうでなければならない。

でも、お姫さま(≒守られる存在)に「なれる」ということを、

今まさに虐待されて助けを必要としている子どもに言えばどうなるか。

叩かれないようなお姫さまになるために、必死自分を変えようとするだろう。

でも、叩かれる。なれるはずなのに叩かれるのは、自分が悪いからだ。

これは本当に本当に本当によく見る、お定まりパターンだ。悪いのは親なのに。


少なくとも、プリキュアのように小さな子ども向けの番組で、

守られるべき自分に「なれる」というのは違うんだ。

必要なのは、誰かに助けてもらうことを当たり前だと思えること、

それを通じて他人を助けることが当たり前だと思える心を育んでいくこと、

そのような循環の中で、他人承認するのと同じように、自己承認できるようになっていくことだ。

からいつだって子どもたちをお姫さまに「する」必要がある。あなたは守られて当然なんだ、って伝える必要がある。

そうして、いつの日か子どもは親の庇護のもとにはない孤独な戦いを始める。





前に書いたように、現代現実社会では、お姫さまになるためには素養がいる。これは間違いない。

偏見とか、差別とか、くだらないしがらみとか、どうでもいい風習とか、そういうことでも決まってくる。

でもさ、プリキュア相手性別がどうだこうだで守る相手区別するだろうか?

自分属性がどうだこうだで、相手に手を差し伸べるのを止めるだろうか?

女性男性ヲ守ルタメニ戦ウダナンテ、ナントイウオソロシイコトヲ!」

なんていう頭の凝り固まった老人は、きっといつの日か居なくなる。既に時計の針は回り始めて、止まることはない。


プリキュアってのは、想像力の源なんだ。

それは、女の子が誰かを助けるヒーローになれるっていうのと同時に、

誰かを助けてあげる女の子ヒーロー世界のいろんなところにたくさん居るんだ、と信じる想像力なんだ。

そうして、世界は何か救いのあるいいものなんだと思って、

世界を救いのあるものにする手助けを自分もできると信じて行動していくための想像力なんだよ。

プリキュアってのは、結局はアニメから虐待されている子どもを助けることなんて基本的にできない。

でも、小さな希望の光になることはできる。


もう一度書くけど、自分のなりたい何かになれるよ、って応援することは素晴らしいことだ。

でも、男の子だってお姫さまに「なれる」、という言葉批判したい。それは応援のようで応援じゃない。

プリキュアは、誰かをオシマイダから救い出してあげることで、すでに誰かをお姫さまにしているんだよ。

そしてそれが最高の応援なんだ。

2018-04-16

anond:20180416123325

作者の年齢=読者の年齢って訳じゃない

児童文学でも継続的に読まれるなら読者の年齢層は上がっていくでしょ

ワンピースとかコナンみたいな長期連載がいい例じゃん

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