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はてなキーワード: 輪廻転生とは

2014-05-06

輪廻転生って本当にあるの?

ある宗教信仰している人曰く、、  

成功している人やお金持ちの人を見ると、「前世で良いことをしたのでしょう」  

  

輪廻転生本当にあったとして、現世の成功幸せ前世の行い、カルマによるのであれば、今、不幸な人たちは前世で悪いことをした人だよね?  

アフリカ子供が飢えて死んでいったり、戦争子供が死んで行ったりするわけだけど、その子どもたちは前世でよほど悪い行いをしてきたということなの??  

  

はたまた、生まれる親を選んで生まれてくるとか??  

生まれながらに親からHIV感染させられて、餓死するような環境をわざわざ選んで生まれてくるの????  

   

わけがわからないよ・・・・  

輪廻転生って本当にあるのですか?

2013-12-27

靖国神社参拝問題について御霊信仰観点で調べてみた


御霊信仰とは

どの国でもあるいはどの宗教でも、死んだあとどうなるのか? は一大テーマだ。キリスト教神の国に行くし、仏教輪廻転生するし、神道は死んだら神様になる(そしてまた人間に戻ったりする)。

http://www.hachimangu.com/cgi/kouwa/kouwa.cgi?mode=one&namber=199&t...

 神道では、人間死ぬと、すべて神になると考えています。これは、私たちの魂は神から頂いた、神の分け霊、分霊と考えるからです。神の分霊なんだから死んで霊界に帰れば神に戻ると考える訳です。

 私たち死ぬと肉体と魂は別々になります。死んでまもない魂は、霊界での初心者若葉マークの霊であると思います。肉体と魂が離れても実感として分からない時期、まだ死を認められない霊なのです。病気やケガで足を切断した人が、ないはずの足がかゆくなったり、痛くなったりすると聞きますが、そのような、まだ肉体のあった頃の感覚が離れられないでいる時期が若葉マークの霊であろうと思います。肉体の感覚が残っている内は、この世での執着心も残っているのです。

 「自分は死んでしまったのか。それではもうこの世にはいられない。神の世界、仏の世界、御先祖様の世界へ還ろう。そして、魂の修行をして、神となって子孫を守っていこう」と決心したならば、執着心も切れて、迷うことな霊界へ行くことができるのです。

この引用は一例だが、洒落怖あたりをみてもなんとなくこういう意識を持っている日本人は多いように思われる。仏教が入ってくる前の神道だと魂の修行とか言うのはなかったと思うが、その代わり祈祷などで鎮めていたのではないかな。

この執着心が災いをなす場合に、それを怨霊という。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A8%E9%9C%8A#cite_note-Yahoopedia-2

憎しみや怨みをもった人の生霊や、非業の死を遂げた人の霊。これが生きている人に災いを与えるとして恐れられている[2]。

霊魂信仰の考え方では、霊魂が肉体の中に安定しているときその人は生きていられる、と考える[2]。怨みや憎しみなどの感情があまりに激しいと、霊魂が肉体から遊離して生霊となり災いを与える、と考える[2]。


ちなみにこの死者が安楽に辿りつけない場合もあるという考えは日本固有ではないが、一神教系だと地獄にいくことがおおいようだ。アミニズムは現世に災いをもたらすらしい。

有名なのは平将門ですよね。生霊といえば源氏物語の御息所。医療科学が発達していなかった時代に、アミニズムはそれを神様がやったってことで納得していた。一神教場合も神の試練だと、仏教功徳が足りないと思っていたのか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BF%A1%E4%BB%B0

政争や戦乱の頻発した古代期を通して、怨霊存在はよりいっそう強力なものに考えられた。怨霊とは、政争での失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊である怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらす。古い例から見ていくと、藤原広嗣井上内親王他戸親王早良親王などは亡霊になったとされる。こうした亡霊を復位させたり、諡号官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこった。これが御霊信仰である。また、その鎮魂のための儀式として御霊会(ごりょうえ)が宮中行事として行われた。記録上、最初に確認できる御霊会は、863年(貞観5年)5月20日に行われた神泉苑で行われたもの日本三代実録である

仏教的にはどちらかと言うと荒神信仰に近いものかな。阿修羅とか。

靖国神社もそもそもはこの御霊信仰のもと建てられた神社である

http://www.yasukuni.or.jp/history/index.html

靖国神社は、明治7年(1874)1月27日明治天皇が初めて招魂社に参拝された折にお詠みになられた「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製からも知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的創建された神社です。「靖国」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和国家建設する」という願いが込められています

前進明治2年にできているので、戊辰戦争御霊供養のために建てられた神社であり、その後の日本内の内戦および諸外国との戦争でなくなった人々の供養をしている、ということになっている。

政府のたてまえとしても、靖国神社参拝は御霊供養のため、ということになっており、単純に墓地に行くのとはまた違う意味合いを持っているようだ。そもそもが怨霊を鎮めるためのものなので、死に方(戦死・処刑)に関しては問わない。ところでここって空襲で亡くなった人は入ってるんですかね?それはまた各自か。そもそも神社って系列があるし、霊魂はどこでもいけるしな。

こうしてみると、靖国A級戦犯が眠っているから参拝してはいけないというのは的外れで、むしろそういう人がいるからこそ供養はせにゃならんということになる。祈る内容は「もうしません」でも「つぎはぜったいかます」でもなんでもいいわけだが、とりあえずこの観点から反対するのは無理筋だろう。

んで次に気になるのは、別に首相いかなくてもいいんじゃね?という点である

国のトップ御霊鎮魂に参るのはなぜ?

多分これは崇徳天皇のせい。

瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ

いろいろとロマンチックなひとだが、気性が激しいともいう。

[要出典]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

一方『今鏡』「すべらぎの中第二 八重の潮路」では、「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で悲しさの余り、病気も年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はない。また配流先で崇徳院が実際に詠んだ「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(『風雅和歌集』)という歌を見ても、悲嘆の感情はうかがえても怨念を抱いていた様子はない。承久の乱隠岐国に配流された後鳥羽上皇が、「われこそは にゐじま守よ 隠岐の海の あらきなみかぜ 心してふけ」(『遠島百首』)と怒りに満ちた歌を残しているのとは対照的である

崇徳院は、配流先の讃岐鼓岡木ノ丸御所国府役人の綾高遠の娘との間に1男1女をもうけている。

しっかり子供作ってエンジョイしてんじゃんとは思うが、日によっては荒ぶっていたのかもしれない。どちらかというと彼に対する罪の意識で、後々伝説が作られたような気がするが、なんせ千年前である。確かめるすべはないな。まぁいいや。とりあえず天上人天皇が荒ぶって怨霊になってしまったので、天皇御霊鎮魂をするようになったもよう。これが国のトップ御霊慰霊を行うようになった理由だろう。

政教分離的にはOKなの?

日本国憲法第二十条では

1. 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

2. 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

3. 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

ちらっと調べた限り3がある以上それをひっくり返すのは無理筋だが、いまのところ行くこと自体は1で押し通している。奉納するとなると3に引っかかるのでそれが争点になるようだ。もし私費で奉納とかしてりゃ1があるので反対するほうが悪いが、そうではないのなら違憲判決が出されるのは妥当な所。

しかしそこまできっちりとやってしまうと、天皇制がそもそも違憲内閣総理大臣天皇から任命されるのも違憲になってしまうので極めてグレーである

ただ天皇戸籍がないので、日本国籍を持ってない。例外として日本国民ということになってはいるが、主権もないしこのへんもグレー。突っ込んではいけない領域である

靖国問題とは
  1. 信教の自由に関する問題
  2. 政教分離に関する問題
  3. 歴史認識植民地支配に関する問題
  4. 戦死者・戦没者慰霊の問題
  5. A級戦犯に対する評価の使い分け

このうち1は明確に信教の自由があるので以降といくまいと自由。

2は前述のとおりグレー。

3は参拝が軍国主義につながるというのが主な反対の理由のようだが、参拝は御霊供養のためであり、反省するのも軍国主義を目指すのも当人次第(しか信教の自由があるのでそれを規定することはできない)ので的外れ一般的キリスト教では参拝は神への信仰仏教は魂は輪廻転生してしまっているので特に意味のない行為(参拝自体功徳を積むため)で、御霊供養の概念はきちんと説明しないと伝わらないと思われる。4,5も同様。

したがって、問題の争点は政教分離観点でOKなの?という部分だけだな。ちなみに諸外国がこれに反対するのは内政不干渉原則に反するが、言うの自体は自由である

2013-09-20

空き家問題って、まだまだ業者の狩場なんだよな

まだ表面化してないから良いけどさ、

そのうちリフォーム詐欺と同じく社会問題になるだろうから愚痴らせてくれよ

空き家」って、要は「住宅として価値の無い土地」と同義だから

まず、「空き家」の整理から

自治体が頭抱えてる「空き家」は、所有者が何するつもりもなく放置されてる家な。

賃貸に出すとかじゃなくて、そもそも放置してる。完全なあばら屋。

不動産屋がなんかしようとする「空き家」ってのは、所有者は貸す意志だけはあるけど、

馬鹿から値段下げてないヤツな。建て替えるカネがないとかも同じ。

これって、完全に別物だから

一緒にするとややこしいから、「放棄家」と「空き家」って呼ぶな。

放棄家」の問題から

まず簡単な方からな。

一人暮らしジジイがボヤだして、老人ホームに突っ込まれたとするな。

まあ、日本は豊かで医療技術も恐ろしく高度だから、ハッキリ言ってなかなか死なねえ。

すると、その爺が額に汗して働いてやっとこ建てたマイホームってやつは、空き家になる。

老人ホームに突っ込まれるくらいだ。

子供が居ても没交渉だったり、まあフツーは子供にも子供(孫な)がいて、そっちも別にマイホーム建ててる。

するとだ、

「ワシの家だ!」とかジジイ血圧上げなくても、フツーは維持する。そもそも相続してねえし。

つうか、放置されるわけだな。十年単位で。

ハッピーなケース

んで、ある日ジジイが天寿を全うする。喜寿も超えてりゃ大往生だ。

するってえとだ、30で建てて50でちょいと手直しして、そっから20年近くたったボロ屋が残るわけだ。

繰り返しになるが、相続する子供ってのはこの時点ですでに「自分の家」ってのを持ってるのがフツーだ。

するとどうなるか。

駅近だったり都心だったりするとだ、そもそも爺が死ぬから不動産屋だのデベロッパーだのが日参してる。

土地活用じゃなくて、売ってくれって言ってくるわけだわな。

面倒だろう俺らが全部やるから金に変えちまえよ使い勝手いいぜ金、と言うわけ。

まあ嘘じゃない。

当たるとはかぎらねえし、素人が下手に手を出してやけどするよりゃエエがな。

これはまあ、言って見れば土地新陳代謝ってやつで、ジジイと一緒に輪廻転生するというわけだな。

こりゃ問題ない。というか、実にハッピーなケースだ。

アンハッピーなケース

で、だ。

アンハッピーだとどうなるかっていうと、これがどうにもならない。

ボロ屋はある。潰すにゃカネがかかる。さら固定資産税は6倍に跳ね上がる。

「は?お義父さんのボロ屋、解体お金かけた上に、今2万の固定資産税12万になるの!?更地にするって馬鹿じゃないの!!」

まったくもってごもっとも。

馬鹿しか更地にしねえんだわ。ご近所の目?そもそも住んでねえし。

んでまー、こういう場合でも子供世間体を気にしたり、真っ当に相続してりゃまだやりようもある。

近所が不安がるし解体費用は出すから潰してくんね?と役所から人が来りゃ善処はするわな。

じゃあ、ジジイとムスコの関係がアンハッピーだとどうなるか。

複雑な相続関係とか、そもそも何処住んでるか判らねえとか、3人が均等に相続してたりとか。

こういうのにぶち当たるとだ、もうしちめんどくせえから生活笑百科仁鶴師匠にまあるく収めてもらえ

って言いたくなるくらい人生機微を堪能できる。

(つうか、価値の無い土地寄付を役所が受け付けてねえのが問題だと思うんだがな)

続いては「空き家」の問題

こりゃまあ、実は放棄家とも絡みがあるんだが、結局値付けするのが素人なんだわ。

住宅市場って、海千山千不動産屋が跋扈する魑魅魍魎世界だと思ってるだろ?

マンションだの地上げだの、新幹線が通るので原野を買いませんかなんてのはその通りだ。原野には手を出すな。

でもなー、サラリーマン大家代表するように「大家」ってのは、「素人」なんだわ。

不動産売買でも、こすっからプロのやるところってのは、流通もすりゃ売れもする。

そもそも金額がでけえからヤラカシたら潰れるわけだ。

でもな、「おやじ土地相続した」なんてボンボン不動産素人だが、値付けはこいつがする。

不動産屋もほっとく。

なんでかって?広告載せんのにちっとばかりお駄賃もらえるからだ。

バカがバカな値付けでバカったけえ家賃をだぼらに載せてるとだ、手数料がいただけるわけです。

売買も同じ、な。

ハッピーなケース

そりゃあ固定資産税もかかるわ昔住んでた思い入れはあるわって三丁目の夕日ばりの思い出の家が、

しろウワモノ分マイナスになるから300万円ですって言われてハイそうですかと手放せるクレバーガイばっかりじゃねえ。

まあ、まだ売れる土地ならやりようもある。

ちっとばかり素人値付けに付き合って、ぼちぼち焦れてきたアタリで買い手に「こりゃ交渉すりゃ下がりますって」って言いつつ

段階的に値段を下げさせる。結局、フツーの値付けに落ち着いてまあまあ値引きさせつつ円満に取引を完了する。

賃貸も同じだあな。

そこそこ近所と同じ家賃になって埋まるってのがフツーのケースだ。

アンハッピーなケース

誰がそのアパートに住むんだ仕事もねえのにか?

って処にアパート建てちまったりするとだ、まー不幸だな。

まあでもこりゃ判りやすい方のアンハッピーからまだ判る。

建てちまった農家ジジイだってわかってんだ。自分地方が衰退してるなんてのは。

イオンもこなけりゃ新幹線も素通りだ。

電気もある、ガスもある、車もそこそこ走ってる。仕事は1人に1つねえ。

こりゃまあ宿命だ。

じゃあなにが判り難いかって言うとだ。

塩漬けだ。

バブル土地が高かった。あの頃の値段を覚えてると、まー手放さねえな。

しかもだ、たまには成立する。大抵賃貸だが。

すると値段は下がらんな。

しかも、前述のとおり不動産屋は別に成約しなくても困らなねえ。

どうせ人気のあるトコはちゃんと動きがあって手数料が発生するし。

意固地になった素人は、自分の値付けを改めねえよ。

閑話休題で、価格の話

よく、地価が下がれば家賃も下がるから家買っても借りてもおんなじだって話あるだろ。

あれはまあだいたいあってるけど、時差がある。

家賃ってのは、なかなか上がったり下がったりしねえんだわ。

液状化で販売価格がずどーんて下がっても、家賃はあんま下がんねえ。

これは、家の販売価格相場賃貸相場意味合いの差がデカイ。

販売価格相場ってのは、成約価格に左右される。基本的に過去の値段は関係ねえ。今が重要

もちろん賃貸相場だって今が重要だよ?

でもな、おんなじ間取り同じアパートで値段が極端に変わったりは、まあしねえ。

既にその家賃で借りてる奴が居るってのは結構強力な意味を持つ。

業者の狩場たる、「空き家」問題

相場にゃ今が重要って話したな。

売買においては、それは絶対だ。

でもな、その話を素人はききゃしねえ。

3年前に2000万でマンションが売れたって聞きゃ、同じ値段で売りたいと思うのが人情だ。

でもな、お前のマンションより駅近に2500万の新築マンション建っただろ?だれが買うんだその中古

かくて新しもの好きのハッピーアツアツ新婚家庭は新築を求め、微妙中古売れ残り空き家が問題と相成りました。

結婚指輪質屋で買って新婚旅行熱海に行った家庭だけが石を投げよ。

否定はしねえよ。中古ランドセルを買う親は賢いんだろうが、子供の心にシコリは残る。

そのシコリは単なる幻想だが、幻想ってのは集団圧力が形作る。

そして、新築住宅ってのは一定以上の需要がある。便利な土地にゃ限りがあるが、古い建物は取り壊せる。

正直、「土地」は減る

ま、土地は減らねえな。

不動産屋にとって「土地」と呼べる「土地」が減るんだわ。

判りやすく言い直そうか。

昭和の半ば、日本住宅公団って皮を被った国が、地方出の労働者のために家を大量に作った。

団地妻ってのは、憧れの象徴だったんだよ。団地を買ってマイカー持ってるお父ちゃんってのは、誇りだった。

まり、今は見る影もないあの大量の公団住宅は、その当時はまさに素晴らしい「土地」だった。

そりゃ、出稼ぎよりも楽だし、ガード下よりゃ快適だ。

郊外マイホームだって同じだ。

そこは(通勤は大変だが)人が住みたがる素晴らしい「土地」だった。

労働者はあふれてたし、サラリーマンもあふれてたからな。

んじゃ、今はどうだ?

かくて「狩場」は誕生する

50人しか住めないマンション100人が応募すりゃ、価格は高騰してアタリマエだ。

でも、50人も住めるマンションに30人しか応募しなけりゃ、人気のない部屋には価格は付かない。

だって20部屋余るんだもの

でも、マンションの不人気部屋20オーナーは、そんなことは判らない。

というかだ、判っても認めない、認めても言わない、言っても聞かない。

そんなところに現れる「いま空き家リノベーションして若者向けの物件にすれ(以下略)」って業者だ。

おお、ウチの物件はそこが足りんかったのか!

と、まー、ローンを組んで改装ちゃうわけだな。

いまはいいよ。

不便を楽しむみたいなモノ好き多いから。

すきま風のある和風な佇まいってのは、人気がある。蚊帳つっちゃったりな。

ただなー、これ、お大尽遊びなんだよな。

そんな世の中儲かってるデザイナーだのウェブクリエイターだのではあふれてねえよ?

どーしよーもねー土地にある空き家は、どう作り替えたってどうしよーもねー土地に立つ物件になるよ?

長い愚痴をまとめる

使い道のある「土地」に建つ「ボロ家」は、業者が狩り尽くすから存在しねえ。

使い道のない「土地」に建つ「ボロ家」は、使い道がねえ。

それは「空き家」をどう活用するかじゃねえ。「土地」をどうするかって話だ。

んでもって、人が減るってことは、「便利な土地」の基準が上がるってことだ。

「不便な土地」の自覚があるなら、「空き家」をどう活用したって無駄だ。ローンは組むな。

(まあ、役所が土地寄付を嫌がるのが問題だと思うんだよな。法律整備しろよ)

2013-08-23

http://anond.hatelabo.jp/20130823224626

よくこういうこと言う宗教家いるけど

何を根拠に言ってるんだろうな

つか神道って輪廻転生思想あったか

2013-07-27

空想小説精子への生まれ変わり

2050年10月21日、自分は死んだ。

で、気が付くと、神様がいた。

神様がおっしゃった。

「実はなあ、生物は皆、生まれ変わりができるんじゃ。

 お前、何かに生まれ変わりたいか?」

「勿論です!!」

ということで、2050年10月22日、神様約束どおり、生まれ変わることになった。

・・・え?

何に生まれ変わったの、自分

まだ精子じゃん。頑張って卵まで行かなくちゃ。 

・・・あかん、卵に辿りつくまでに、息絶えた。

こうして2050年10月25日、何かの精子としての自分の一生は終った。

又気が付くと、神様がいた。

神様、生まれ変わらせる、といったのに、ウソツキ!」

ウソツキじゃない、ワシはちゃんと生まれ変わらせたじゃないか。」

精子に生まれ変わってもしょうがない、受精できる確率なんて、天文学的確率ですよ」

「何を言うか、精子だって立派な生物じゃないか。」

「因みに、念の為に確認しますが、自分人間精子だったんですよね」

人間精子に生まれ変われる確率なんか、1億分の1以下じゃ。今回は、お前、イワシの精子だった」

・・・

自分は冷静になって計算してみた。

仮に百億歩譲って、「人間精子に生まれ変われる。」と仮定してみても、

自分卵子に辿りつく確率」は、5億分の1。

いや、大半の男性は、女性セックスできなくてもオナニーで「放出」しているし、

セックスする場合でも避妊したり膣外射精が大半。

ということは、避妊でもオナニーでもなく子作りセックス、という確率を掛け算しなきゃいけないし、

女性側が排卵日じゃなきゃいけない。

しろ計算方法を逆にすればいい。

1人の男性人生のうちに発射する精子数は、5億×50年×365日×0.3(3日に1回発射)

=2.7兆匹

この中で、受精卵になって、無事出生するのは、日本だと少子化で1.4人、まあ全世界平均だと2.7人程度、

・・・1兆分の1じゃん!

ということは、仮に「絶対人間精子として生まれ変われる」と仮定しても、

無事出生できるには、精子寿命3日×1兆回=3兆日かかる。

これって82億年先・・・

現実は、アリの精子に生まれ変わる可能性や、ハト精子に生まれ変わる可能性もあるから

多分、1兆年、いや、1京年先の話になる。

・・・宇宙存在してないじゃん!!

~~~~

ということで、よく輪廻転生を説く宗教がありますし、それに期待する人もいるようですが、

現実問題、精子へ生まれ変わって、受精卵になるまでの「天文学的確率」を勘案すると、

生まれ変わり、って、100%不可能じゃないの?

2013-07-19

http://anond.hatelabo.jp/20130718220603

この増田を途中まで読んで勢いで書いた文章だけど。

生まれてちょっとした時間を生きるのはまだ分かるんだよ。

俺が霊界から時間潰しに現世に降霊するのと同じことだし。

でも輪廻転生や体を乗っ取ってまで現世で生きる理由はどこにもない。

現世なんかに没頭するより、霊界の方が楽しいだろ?

上位霊界に行くまでもなく、下級霊界、いや、自分存在範囲でさえも、新しい発見をすることは、永久にできる。

現世の中で一生懸命生きても、所詮浮世の夢のことだ。

それよりも、霊界概念と混ざってみたり、実際に概念を構築するほうがいいじゃないか

体感覚のないことをして、何になるのだろうか。

特に苦労も無い現世の生活のことになると更に分からない。

現世にいた頃人として真っ当に生きたのだが、霊体になって、上位霊界や下級霊界に比べてあまりにも軽薄な現世に魂の純粋さを奪われたことに、恨みに近い感情を抱いた。

軽薄な癖して、何十年も魂の純粋さを奪っていく。

こんなコストパフォーマンス最低なこと、アホらしくてやっていられない。

現世で生きてる意味が、どこにあるんだろう。

とさっき降霊した霊が言ってた。

2013-06-16

http://anond.hatelabo.jp/20130616111435

この世は辛い死んで楽になってもグルグル輪廻転生して苦しみから逃れられないから、

悟り開いて延々続くグルグルの輪から脱出しようぜ

ってのが仏教からから生きるのつれーわーって言ってるじゃないか

でも自殺ショートカット地獄行き。

2013-05-06

http://anond.hatelabo.jp/20130506073530

一般人ですが仏教が好きでたまに短期出家とかしてる者です。

自分の理解している仏教だと、仏陀は生まれ変わりという意味での輪廻転生を否定している。輪廻はある瞬間瞬間に、その人の中で一瞬で生じる世界のこと。

因果律とは悪い事が起きたのは悪い事をしたからという話ではなくて、自分の中のある感情や思考に執着した結果、それがより強く定着して起こるということ。全ての世界自分が生み出しているということ。良いことも悪いことも同様で、単なる自然現象。これをダンマという。

仏陀偶像崇拝するなとか、教祖を崇拝せずに自分の頭で考えろとか、死後の世界は無いとか、ごくまともなことを言っている。

後の人たちが自分たちの都合で作り上げた仏教(というか「日本世間」教)じゃなくて、仏陀の教えを見たら面白いと思うよ。

仏教思想は滅びればいいのに

ちゃんと宗教を学んだわけじゃないから間違ってるかもしれないと最初に断っておく。

俺は「因果応報」という考え方が大嫌いだ。

しかしたら仏教じゃなくて日本独自の考え方なのかもしれないけれど、悪いことをすれば悪い目に遭う、という言葉がいつの間にかひっくり返って「悪い目に遭ってるからお前は悪いことをしたんだろう」という決め付けを行うのが大嫌いだ。

病気になったのも事故に遭うのも「悪いことをしたせい」、極端に言うと病気は予防しないお前が悪い、不摂生をしたお前が悪い、事故は注意しなかったお前が悪い、もっと酷いのになると外に出るから悪い。

昔、車が歩道に突っ込んできて家族が轢かれた事がある。幸い大事には至らなかったが、親戚共から「どうせ不注意で歩いていたんだろう」という言葉はやっぱり投げられた。

歩道を走る車がどう考えても悪いだろ、何いってんの?お前自分歩道歩いてる時に同じ事言えるの?って言ってやりたかった。

こう考える事で自分大丈夫だと信じたいという効果があるらしいが、言われたほうはたまったもんじゃない。

俺がちょっとした障害持ちで生まれた時も多分そうだったんだろう。

この間まとめサイトを見ると、嫁いびりをしたら親戚から障害者が生まれて、因果応報因果応報ざまぁm9(^Д^)って溜飲を下げているのを見てムカムカした。

輪廻転生因果応報仏教の考え方はいつもそうだ。

じゃあなんだ?今不幸な奴はみんな悪いことをしてきたからなのか?

前世なんて最近では信じられなくなった、じゃあ次は家族だ、家族が悪いことをしたからお前に応報があったんだと、

こじつけもいい加減にしろよと。

(言っておくが、自分の行動と結果の因果関係が明快なものまでは否定しない)

キリスト教って良いのかなと最近思う。

どこかの陸上選手半陰陽だったと判明した時、仏教だったら「そのような身体に生まれたのは何かが悪い」ってことになるけれど、「神が私をこのようにお作りになった」だったかな?はっきり言ったんだよね。

しかしたら心中とてもショックだったのかもしれないけれどね。

ただ最近目にする「絶対的な自分への自身」みたいなものを持てば幸せになれるって、こういう考え方が合ってるのかなと思う。

ブサメンでも何の取り柄も無くても、神がそのように自分を作ったんならこれが自分なんだろうと。

昔は宗教なんて気持ち悪いし神なんて信じる奴はバカだと思ってた。

最近ちょっと考えが変わってきてる、多分だれも俺を見てくれてないからだと思うが「誰も俺を見ていない」より「誰かが俺の行いを見ている」と思ったほうが正しい生活を送るモチベーションになるし、なんで俺みたいな奴が生まれてきたんだろうという劣等感も、神がそのように作ったからだと思うと受け入れられるような気がしてきた。

あなるほど、昔の人はこうやって自分を楽にさせてたのかと思った次第。

でも宗教にはまるなんてやっぱり気持ち悪い。

2013-04-19

http://anond.hatelabo.jp/20130419123206

西洋文化に毒されている。

形あるものいつか滅びる。諸行無常仏教の教えです。

なんにせよいつか滅びる。人類だって滅びる。

ならば滅びるまで続けばいいじゃない。

煩悩を捨てなさい。捨てれなくとも安心しなさい。仏は見放しません。

そして、

いつか滅びてもいつか蘇ります輪廻転生。これも仏教の教えです。

2012-10-07

http://anond.hatelabo.jp/20121007205822

・・・ちゃらんぽらんクリスチャンだけど、神様が私を幸せにしてくれるはず。

相手・・・クリスチャンとは結婚できない

神様最後はいい結果になるようにしてくれる。しかしそれは私たちが思い描く理想と同じとは限らない」って言ったのはだれか不明。

ということでいいですか?

>>神様がいるとしたらどうしてここまで愛し合った私たちを別れさせたんだろうか。

別れを告げたのは相手だよね?キリスト教神様クリスチャンの人以外の面倒までは見れまいよ

>>あの人と、いつか転生の果てに今度こそ結ばれたらいいなと夢をみる今日この頃

クリスチャンには転生を夢見る権利がないのではないだろうか

頑張ってもう一回本人でも別の人とでも大恋愛して、仲良く死んで、審判の日を待とうよ

個人的には輪廻転生信じててキリスト教ちゃらんぽらんあなた無宗教でも仏教でも問題ないと思うし、そしたらあなたと相手の大恋愛もOKになるけど、お墓の問題とかあるしね。

2012-04-11

オウム真理教ナウい教化法”を実践した広瀬死刑囚手紙 vol.5

【vol.4「恐怖心の喚起」】はこちら。

規範意識を変容させる集団

 これまで、「宗教経験」、「恐怖心の喚起」について述べさせていただきました。次に、これらを基礎とする思想に沿うように個人の規範意識を変容させ、常識から逸脱した思考や行動をさせる集団の作用について補足致します。

 オウムにおいては、集団の作用によって、教団の規範客観現実性が付与され、さらに、信徒規範意識が変容したと思われます

 オウム信徒の多くは、教義どおりの宗教経験をしていました。そのため、次のように、宗教経験のものの「個人性現実性」に「社会的現実性」も加わり、信徒は個人的な非現実宗教経験客観現実であるかのように認識していました。

 現実性とは、当該の所信の内容が客観現実としてあたか存在しているような感覚の程度であり、個人的現実性とは社会的現実性の二つを仮定する。個人的現実性とは、当該の所信の内容が直接知覚や論理的推論といった個人的経験を通して客観現実としてあたか存在しているような感覚の程度である社会的現実性とは、当該の所信の内容が他者の経験や他者によって合意されているといった間接的経験を通して客観現実としてあたか存在しているような感覚の程度である

西田公昭 一九八八 所信の形成と変化の機制についての研究(1) 実験社会心理学研究、二八、六五-七一

 そして、オウムにおいては、信徒たちが客観現実として認識していた宗教経験を根拠とする行動規範が定められていました。ですから信徒にとっては、その規範現実的だったのです。

 たとえば、殺人を救済、すなわち「善」とする規範は、前述(本文三十一頁)のように、輪廻転生、麻原の救済能力、および現代人の苦界への転生などに係わる宗教経験に基づいていました。一般的な社会通念は「命は地球より重い」ということですが、それが「この世の一生限りの命」などの日常経験に基づいているのと同様です。

 ところがオウムでは、日常経験のほうは、宗教経験によって幻影とみなされ、無意味化されていました。そのために、宗教経験に基づく行動規範が一般社会のものに取って代わっていたのです。

 実際、信徒は教団独特の規範に従い、麻原の指示であれば殺人まで犯しました。信徒見地からは、教義の世界が幻覚的経験によって現実として知覚され、加えて、周囲の人たちもその世界観合致した思考や行動をしていたため、教団の規範現実的に映っていたのです。つまり、教団内では教義そのもの世界が実現しており、信徒はその中に没入している状態でした。

 以上のように、オウムにおいては、信徒規範意識が教団で通用しているものに変容し、信徒常識から逸脱した思考・行動をしました。集団のこのような作用について、次のことがいわれています

 そもそも人はいろんな信念を抱いている。その中には善悪規範基準になる信念も含まれる。これらの信念は親、教師、友人、知人、などと相互作用を行いながら獲得され、社会的な共通性ができあがっている。しかし形成された信念がどうして「良い」とか「悪い」といえるかの判断基準は、所属する社会における暗黙の価値観に左右されるものであり、個人が所属意識をもって参照する社会集団によって左右される。

西田公昭 静岡県立大学大学院准教授作成広瀬健一に関する「意見書」)

 カリスマグループでは、集団凝縮力(全員を集団に従事させ続ける影響力)、共有信念、変容意識行為の基準、およびリーダーの魅力の影響は、公然の強制がなくても、行動の服従を強い、感情を変化させる作用をする。

 バイオンやエズリエルのような集団心理の理論家は、個々の構成員の意志にかかわらず、避けられない問題が集団においては現れることを指摘してきた。不可解な個人の行動を彼らは説明するが、それは依存的傾向や闘争―逃避パターンのような、集団につきものテーマの現われかもしれない。この点については、集団が構成員をあたかも一つの集合体に変えるようなものである

(前出 引用英語で分からず。)

 そのほか、カリスマグループ規範が、全員の本能的要求の表出や行動を統制することが報告されています。(本文四十三から四十四頁の引用)。

 以上のように、集団には個人の規範意識を規定する作用があるとされています。したがって、集団に係わる場合、それが全員の規範意識を一般社会のものと異なるように変容させないか確認すべきだと思います

 まず、集団の全員が共有する「ビリーフ」が適切に合理化されている必要があるでしょう。たとえば宗教では、教典自体には非現実的な表現が見られることがまれではありません。しかし通常は、そのような表現は、信仰日常生活の間に摩擦が生じないように、合理的に解釈されています。集団の全員と会話をしたときに、なぜその人の「ビリーフ」が形成されたのか理解に苦しむ場面があるならば、その集団は「ビリーフ」の合理化がされておらず、全員の価値観規範意識を不適切に変容させる可能性があります

 項目の選択に偏りがあるかもしれませんが、次の点の確認も必要でしょう。

 

 

指導者や教えへの服従がないか

 その服従が、たとえば宗教上の指導におけることのように、範囲が限定されているように見えても要注意です。実質的には、それが生活全般に及んでいることがありますいかなる状況においても、全員個人の判断が尊重されている必要があります。また、教えに疑念を抱くことや脱会が制限される場合は問題です。

 

 

○過度に厳しい規制がないか

 思考や行動に関する道徳的規則が、社会通念と比較して過度に厳しい場合は、一般社会における生活がしにくくなります。その結果、社会から離脱が促進されることもあります。また、規制違反に対して、過度の恐怖が喚起される場合は問題です。

 

 

自己を否定されないか

 自己を否定されると、指導者に服従する結果になりますオウムにおいては、信徒煩悩を有している。(本文二十頁)ために正しい判断ができず、それが可能なのは最終解脱である麻原だけだとされていました。

 そして、それは私にとって、体験的にも事実と思われました。私は自身が悪業(カルマ)で汚れていること、また、麻原だけがそれを浄化できることを感じていたからです。(本文二十八頁)。

 結局私は、それまでの人生煩悩や悪業を増大させるだけのものだったことを認めざるを得ず、自身の経験や知識を信頼できなくなりました。これは、私が愚かにも麻原に従った原因の一つです。

 

 

○会員が一般社会から離れ、集団生活に入る傾向がないか

 一般社会を非合理的に否定する教えを説き(本文二十七頁)、全員をそれから離し、集団生活に誘導する集団は問題です。全員の価値観規範意識は相当程度変容していると考えられます。集団生活に入った後は、さら規範意識の変容が深まり違法行為に及ぶ可能性もあります

 

 

 次の内容は、麻原が信徒出家を訴えていた昭和六十三年十一月(本文二十七から二十九頁)の彼の指示です。「人材をぬきとる」など、人材を集める強い意志が感じられます。これは教団の大師(解説・悟りを認められた高弟)のメモで、一般信徒には明らかにされていませんでした。

六十三年一一月五日は黙示録予言を麻原が七つの予言その後世界戦争、二〇〇〇年まであろ一二しかない

滅亡の日の出版しろと

一五日、オウム方向性旧約聖書によるとオウム時間はあと七年、石油になってハルマゲドン、ソ、米、日本世界大戦

デザイン編集プロパガンダマシン完璧に成りきること(人材経済力のためでもある)

一、新信徒の獲得

二、人材ハンター(ブレーンハンター)(信徒の中から選ぶ)

三、大学理教化学人材をぬきとる

四、ドクター医学)を集める

五、美人を集める(看板

六、経済的センスを持っている人間プロパガンダ広報

七、法律専門家

八、大師(一人で二~三億)が五〇〇〇人

九、建築班一〇〇〇人

一〇、七年後大師だけで一四五〇〇億

 なお、右のように、麻原は理系人材の獲得を重視していますが、それは当時既に、科学技術を用いた大量殺人である「ヴァジラヤーナの救済」を意図していたためと思われます。実際、昭和六三年十月二十八日、麻原は出家者に対して次の説法をしていますが―在家信徒がこの説法を聞くことは禁じられていました―、「ヴァジラヤーナの救済」を宣言した説法(本文三十二から三十三頁)においても、「残すべき者以外はポアする」旨説いていました。

 近ごろ私は心が少しずつ変わってきている。動物化した、あるいは餓鬼化した、あるいは地獄化したこの人間社会というものの救済は不可能なのかもしれないなと。新しい種、つまり、今の人間よりも霊性のずっと高い種、これを残すことが私の役割かもしれないなと。


【vol.6「まとめ」】へ続く。

オウム真理教ナウい教化法”を実践した広瀬死刑囚手紙 vol.2

【vol.1「カルトに係わる契機」】はこちら。

宗教経験

 カルトの「超越的世界観」によって、現実世界においては解決の困難な問題が解決することと述べました。他方、この類の世界観は非現実であるために、受容が困難なのも事実です。ところが、「神秘体験」、「超越体験」などと呼ばれる幻想的な宗教経験は、その受容を著しく促進します。

 オウムにおいても、教義の妥当性の根拠は、その種の宗教経験でした。つまり、多くの信徒は教義の世界を幻覚的に経験しており、その世界現実として認識していたのです。地下鉄サリン事件への関与は誠に愚かであり、心から後悔しておりますが、この事件についても、宗教経験から、私は教義上の「救済」と認識して行いました。

 このように、宗教経験は、「殺人」を肯定する非現実的な教義さえ受容させる原因となります。したがって、宗教経験を根拠とする思想やこれを起こす技術の使用には注意すべきです。

 以下、宗教経験検討のために、私の経験を述べさせていただきたく思います

 前述のように、高校三年生ときに、私は、「生きる意味」の問題を意識するようになりました。しかし、その後、私は目を引いた本を読んだり、簡単な瞑想指導する団体に入会したものの、その問題は棚上げ状態でした。大学で学ぶことが将来の職業に直結するので、学業や学費のためにアルバイト忙殺されていたのです。

 そのようなとき、偶然、私は書店で麻原の著書を見かけたのです。昭和六十三年二月ごろ、大学院一年ときでした。その後、関連書を何冊か読みましたが、彼の説く解脱悟りが気になりました。

 最終的な解脱悟りは、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の境地であり、本来、私たちはその状態に安住していたにもかかわらず、煩悩にとらわれたために、輪廻して苦界をさまよい続けているとされていました。ここで、絶対自由とは、カルマ(業。転生する原因)から解放され、どの世界に転生するのも、最終解脱の状態に安住するのも自由という意味でした。絶対幸福とは、金、名誉など自分以外の外的存在を必要としない幸福という意味でした。絶対歓喜とは、自己存在しているだけで歓喜状態にあるという意味でした。

 不明な点が多いものの、何らかの絶対的に幸福な境地の存在事実であれば、その追求は「生きる意味」に値するのではないかと思いました。

 また、麻原は修行を完成させて最終解脱の境地にあり、弟子指導して彼らをも解脱させているとのことでした。麻原や弟子たちの体験談を読むと、解脱への確かな道が存在しているように思えました。彼らの体験には普遍性が感じられたからです。さらに、麻原は自身の体験の妥当性を、ダライ・ラマ十四世をはじめとするチベット仏教インドの聖者たちと交流して確認したとのことでした。

 前述の解脱のような教義の話だけならフィクションを読んでいるようなものでしたが、このような実証的な姿勢は理解できることでした。この点は、私がそれまでに接した斯界のものとは違っていると思いました。

 しかし、事はそう簡単に運びませんでした。麻原が主宰するのは、宗教団体オウム真理教」だったのです。(なお、当時、オウムほとんど無名の団体でした。)

 私は新宗教に対して拒絶反応が起こるのを禁じ得ませんでした。「輸血拒否事件」、「霊感商法」…新宗教に関するマスコミ報道は、決まって言いようのない不快感を催すものでした。とりわけ、「輸血拒否事件」は、高校三年生ときに話を聞いた団体のことだったので、新宗教に対する問題意識が高まりました。

 この事件の報道では、事故に遭った子供が「生きたい」と言っていたのにかかわらず、両親が教義に従い、輸血を拒否したとされていました。この団体の聖書解釈が正しいという保証はないのだから―私にはほかの解釈も可能に思えました―、そのような不確実なことに基づいて命を犠牲にすることが信じられませんでした。ですから、この事件で、私の新宗教に対する不信は決定的なものになっていました。

 このようなわけで、私は本を読む以上にオウムに近づけなかったのです。

 ところが、本を読み始めた一週間後くらいから、不可解なことが起こりました。修行もしていないのに、本に書かれていた、修行過程で起こる体験が、私の身体に現れたのです。そして、約一ヶ月後の、昭和六十三年三月八日深夜のことでした。

 眠りの静寂を破り、突然、私の内部で爆発音が鳴り響きました。それは、幼いころに山奥で聞いたことのある、発破のような音でした。音は体の内部で生じた感覚があったものの、はるか遠くで鳴ったような、奇妙な立体感がありました。

クンダリニー覚醒―」

 意識を戻した私は、直ちに事態を理解しました。爆発音と共にクンダリニー覚醒した―読んでいたオウムの本の記述が脳裏に閃いたからです。クンダリニーとは、ヨガで「生命エネルギー」などとも呼ばれるもので、解脱するためにはこれを覚醒させる、つまり活動する状態にさせることが不可欠とされていました。

 続いて、粘性のある温かい液体のようなものが尾底骨から溶け出してきました。本によると、クンダリニーは尾底骨から生じる熱いエネルギーのことでした。そして、それはゆっくり背骨に沿って体を上昇してきました。腰の位置までくると、体の前面の腹部にパッと広がりました。経験したことのない、この世のものとは思えない感覚でした。

 「クンダリニーの動きが正しくないと、くも膜下出血を起こす」、「指導者なしの覚醒危険だ」―オウムの本の記述別世界の話でしたが、今や、我が身に起こりつつある現実でした。私はクンダリニーの動きを止めようと試みました。しかし、意志に反して、クンダリニーは上昇を続けました。

 クンダリニーは、胸まで上昇すると、胸いっぱいに広がりました。ヨガでいうチャクラ(体内の霊的器官とされる)の位置にくると広がるようでした。クンダリニーが喉の下まで達すると、熱の上昇を感じなくなりました。代わりに、熱くない気体のようなものが上昇しました。これが頭頂まで達すると圧迫感が生じ、頭蓋がククッときしむ音がしました。それでも、私は身体を硬くして耐えるしかなす術がありませんでした。

 突然の出来事に、どうなることかと思いましたが、それをピークに一連の現象は収束しました。どうやら、無事に済んだようでした。

オウム真実だ」

 オウム宗教世界観が、一挙にリアリティを帯びて感じられました。麻原をグル修行指導する師)として、解脱悟りを目指すことが私の「生きる意味である確信しました。麻原の著書を読み始めて以来相次いだ体験に、彼に強い「縁」を感じていたからです。クンダリニー自然覚醒したのは、前世グルの著書を読んだために、修行者だった私の前世記憶が甦ったからだと思いました。

 このように、急激に宗教観念を受容して、思考体系が一変する心理現象は、「突然の宗教的回心」と呼ばれています。これと漸進的な宗教観念の受容との違いについて、研究論文には次のように述べられています

 突然の回心は、被験者のものが全く変えられるように思われる経験として定義した。つまり、その変化は、被験者が生じさせるのではなく、彼にもたらされるように思われた。また、その変化は、被験者の生活様式、道徳的特性を形成する態度におけるものだった。

 漸進的な宗教的発達は、上で説明したような回心経験がないという特徴のもので、そして被験者が自身を無信仰と識別したことがないものである

 すべての回心者は、疑いの余地なく、無信仰の状態から信仰深い状態になった。

 二つの集団の特色をかなりよく示す、二つの自伝を下に引用する。一人の突然の回心者は、彼の経験を次のように記述した。

 この経験は、私が一四歳の秋に起きた。私は畑を耕して働いていた。突然、嵐が近づいたように思われ、そしてあたかも私の周りの全てが止まったようだった―私は神の存在を感じた。馬たちは完全に止まった状態になった。真っ黒な空がとどろいたので、私は祈った。嵐はすぐに通り過ぎたが、この瞬間だった、―私は祈りながら―主が望むならば、クリスチャンになり、主に仕える決心をしたのは。

 漸進的な宗教的発達をした集団の一員は、彼の経験を次のように記述した。

 私が信仰深いと自覚したときを説明するのは難しい。それに対し、何年か前に私は十ポンドで生まれ、そして現在はそれよりかなり重いという事実を説明するのは、全く簡単だろう。この成長には、出来事の印象がないわけではない。しかし、少なくとも回想では、そのプロセスはあまりに完全に連続したように霞んでいる。だから、私が自身の認識に現れた時点を思い出せる以上に、私は“信心深く”なった時点を分離できない。私はその二つの出来事はほとんど同時に違いないと思う。

引用英語で分からず。)

 このような宗教的回心は、人が葛藤状態にあるときに、幻覚的な超越体験と共に起こることがあり、このとき葛藤が解決するとされています。また、突然の宗教的回心においては、常識から非常に逸脱したビリーフ・システム(思考体系)が受容される場合があるとされています。そして、「カリスマグループの一つの注目せざるを得ない特徴は、入会の特徴がしばしば劇的な回心の経験であることだ」といわれています

引用英語で分からず。)

 私の場合、「生きる意味」に係わる葛藤のために、回心が起き、オウムの教義体系が受容されました。このように、非現実的な世界観が突然現実として感じられ、それが受容されることがあるので、超越体験に基づく世界観には要注意でしょう。後述のように、それが日常生活との間に摩擦を生じる場合は問題が起こるからです。

 オウム宗教世界観現実となった私に、入信以外の選択はありませんでした。また、新宗教うんぬんといっていられる状況ではありませんでした。クンダリニー覚醒した以上、指導者は不可欠だったからです。私はクンダリニーコントロールできず、頭蓋がきしんでも、なす術がなかったのです。この状況について、ある共犯者は「広瀬君は、本を読んだだけでクンダリニー覚醒して、困って教団に相談に行ったと言っていた。ある種の困惑広瀬から感じた。」と法廷証言しています

 こうして、オウム真理教在家信徒としての生活が始まりました。在家信徒は、社会生活しながら、教義の学習、守戒など教義の実践ヨガの行法、奉仕などの修行をすることが基本でした。

 オウムの教義と修行目的について、あとの話の理解のために必要な部分のみ説明致します。

 教義において、修行の究極の目的は前述の最終解脱をすること、つまり輪廻から解放されることでした。なぜ解脱しなければならなのか―それは、輪廻から解放されない限り苦が生じるからだ、と説かれていました。これは、今は幸福でも、幸福でいられる善業が尽きてしまえば、これまでに為してきた悪業が優住になり、苦しみの世界に転生するということでした。特に地獄餓鬼動物の三つの世界三悪趣と呼ばれ、信徒の最も恐れる苦界でした。

 それに対して、解脱はすべての束縛から解放された崇高な境地でした。解脱に至るには、次のように、私たちが本来の最終解脱の状態から落下していった原因を除去していくことが必要と説かれていました。

 私たちは自己存在するためだけで完全な状態にあったにもかかわらず、他の存在に対する執着が生じたために輪廻転生を始めたとされていました。それ以来、私たちは煩悩(私たちを苦しみの世界に結びつける執着)と悪業を増大させ、それに応じた世界に転生して肉体を持ち、苦しみ続けているとのことでした。たとえば、殺生や嫌悪の念は地獄、盗みや貧りの心は餓鬼快楽を求めることや真理(精神を高める教え=オウムの教義)を知らないことは動物に、それぞれ転生する原因になるとされていました。

 これらの煩悩行為過去世のものも含め、情報として私たちの内部に蓄積しているとのことでした。この蓄積された情報が「カルマ(業)」でした。そして、「悪業に応じた世界に転生する」というように、自己カルマが身の上に返ってくることを「カルマ法則」といい、これも重要な教義でした。

 カルマ法則から考えると、解脱、つまり輪廻からの開放に必要なのは、転生の原因となるカルマを消滅(浄化)することになります。ですからオウムにおいては、カルマの浄化が重視され、修行はそのためのものでした。

 [なお、前述の「殺生」は、虫を殺すことも含みます。ですから、そのほかに挙げた行為もそうですが、一般人日常的な行為ほとんどが悪業となります。したがって、信徒についても、入信前は悪業を為してきたことになり、それらを浄化しない限り苦界に転生することになります。だから信徒たちは必死修行していました。また、家族など周囲の非信徒たちは苦界への転生が避けられないことになり、それを信徒たちは案じていました。後述しますが、日常生活と相容れないこの教義のために、一般社会は苦界への転生に至らせる世界とみなされました。そのために、信徒は一般社会を離れて出家していきました。さらに、苦界へ転生する現代人を救済する目的で、殺人まで犯すことになりました。]

 また、オウムの教義において、麻原は「神」といえる存在でした。それは、最終解脱者であり、様ざまな「神通力」を有するとされていたからです。特に麻原は、人を解脱させたり、高い世界幸福世界)に転生させたりする力があると主張していました。私たちに「エネルギー」を移入して最終解脱の状態の情報を与え、代わりに、苦界に転生する原因となる悪業を引き受ける―「カルマを背負う」といっていました―と説いていたのです。カルマを浄化していないと苦界に転生するのですからカルマを背負ってくれる麻原は、まさに「救済者=神」でした。

 麻原の指示が絶対だったのも、そのような「救済」の能力を有するためでした。オウム世界観においては、苦界への転生の防止が最優先であるところ、麻原の指示の目的は、苦界へ転生する人類の救済とされていたのです。

 回心による教義の受容の後、入信後は、私の身の上に個々の教義の体験が現われ、教義の世界観に対するリアリティがますますまりました。たとえば、入信の一週間後に、麻原の「エネルギー」を込めたとされる石に触れたところ、気体のようなものが私の身体に入ってきました。そして、胸いっぱいに広がり、倒れそうになったのです。そのときは、ハッカを吸ったような感覚がして、私は自身の悪業が浄化されたと思いました。

 その後も様ざまな形でこのような体験を重ねたので、私にとって、麻原が「カルマを背負う」能力を有することは現実でした。そのために、麻原は「神」であり、その指示は絶対だったのです。

 なお、現在は、この種の経験は暗示の機制による幻覚と理解しています。つまり、以前に接していた「エネルギーを移入してカルマを浄化する」という教義(二十一頁)が暗示になり、「エネルギーを込めた」とされる石に触れたところ、教義どおりの幻覚が現れたものと思います。(このように、回心後は幻覚的経験が極めて起きやすい状態になっていました。)

 なぜあの男が―麻原の地位が教団内で絶対だったことに対する疑問の声をよく聞きます。その理由の一つは、私と同様に、信徒にとっては麻原を「神」とする教義の世界観現実だったことでしょう。ヨガの行法によって、多くの信徒が教義どおりの宗教経験をしていたのです。

 現役の信徒は、今も、麻原の力でカルマが浄化されると感じる経験をしているようです。だから、麻原が法廷でどんなに見るに堪えない振る舞いをしても、彼は「神」であり続けているのです。私もそうでしたが、信徒帰依しているのは生身の麻原ではなく、宗教経験によって知覚した麻原です。「現実」よりも「宗教経験」のほうがリアリティがあるのです。

 このような宗教経験作用について、文献には次のように述べられています

 アメリカで(そしてしばしば国際的に)現在見られる多くのカルト様のビリーフ・システム概観することは、臨床医が特定のセクトを正しく評価するにあたり役に立つ。ビリーフ・システムは、一般に部外者を困惑させるもので、多くは超越体験や神秘体験に基づいている。あるものは、なじみのない東洋伝統から得ている。あるものは、教義を再構築する程度にまで、既存宗教を粉飾する。

 超越体験あるいは神秘体験は、回心のプロセスにおいてしばしば重要だが、このことはジェイムズフロイトが注目した。葛藤の解決における超越体験は、非精神病者精神病者の両方に急性の幻覚的エピソードが起こる程だが、この重要性も強調されてきた。これらの経験はまた、カリスマセクトの多くの全員にとって、グループの全員をを続けされる総体である。これらの出来事は、類似した現象を経験したことのある他の人たちとの友好関係を、最高潮に高める強力な感情的経験になる。

 宗教経験コンテクストにおける精神病様超越現象が生じることを説明できるモデルは、まだ開発されていない。しかし、注目すべきなのは、かなり注意を引く知覚現象を、これらのセクトの全員が普通に報告することである。たとえば、一つのグループの百十九人の全員のうちの三十パーセントが、瞑想中に幻覚様経験を報告した。明らかに、このような現象は、心理学者が正常な精神プロセスのみならず病的プロセスを理解するのにもかなりの影響があるはずだ。それらはたぶん、精神病といわれる人に幻覚状態を起こすあるコンテクストの性質を、心理学的に理解する助けになるだろう。

(前出 引用英語で分からず。)

 (A教団は)夢さえも「お父様(教祖)の夢を見ますよ」などと暗示を与えて教祖の夢を見やすいように誘導したりする。それらのプライミングの結果、信者は身辺でおきる現象がすべて神やサタンといった心霊現象ととらえることになっていると思われる。さらに、こうした経験西田のいう個人的現実性を高める。つまり体験や推論が教義と整合しているという認知を与え、ビリーフは強化される。

西田公昭 一九九五年 ビリーフの形成と変化の機制についての研究(4) 社会心理学研究、一一、一八-二九

プライミング―特定の情報に接触させることによって、人間情報処理一定の方向に誘導すること)

 瞑想のより高い段階は多くの経験を含む。これは、伝統的な文献によく載っており、明るい光のヴィジョン、身心の喜びに満ちた陶酔感、静けさ、明晰な知覚、および愛や献身感情を様ざまに含む。“超意識”、“超越体験”、“神秘体験”、あるいは“クンダリニー覚醒”と名付けられており、これらの状態は、人を引き込む影響を及ぼす。この影響は、瞑想伝統によれば、非常に深刻になるものだ。

引用英語で分からず。)

 また、宗教経験が起こる状態においては、世俗的なことに対する関心が薄れるという報告があります

引用英語で分からず。)

 以上のように、宗教経験およびそれが起こる状態は、非現実的な教義の受容や日常生活から離脱を促進するようです。


※「輸血拒否事件」1985年6月神奈川県川崎市高津区で起こった事件。ダンプカーにひかれた当時小学5年生の男の子が、両親の輸血拒否にあい、約5時間後に死亡。「大ちゃん事件」とも。

【vol.3「宗教的経験(後半)」】へ続く。

2012-02-22

宗教観死刑

って相関あるのかな

キリスト教圏のヨーロッパ諸国って死刑廃止してる国が多い

一方、仏教圏のアジア諸国死刑廃止してない国が多いよう

日本無宗教ってよく言われるけれど、仏教は根強いと思う。

韓国キリスト教徒多いって言うけど、あれは…(おほん

輪廻転生の考えで、悪いことした人間は虫に転生して罪を償えばよろしいという考えが暗にあるのでは

キリストにはユダを赦すほどの心の広さがある

2012-01-18

自分の死について

私は日々、自分に訪れるであろう死とはどういうものかと考えている。

しかし、死後どうなるのかは生者には解り得ない。

どのような確信があろうとも、それは「死のこちら側」から語ったものに過ぎない。

たとえ唱えている説が本当であろうとも、生者にはその真偽は確認出来ない。

更に、死後辿る道が万人共通とも限らず、

自我が消え去る者もいれば、そうはならず自我が残る者もいるかもしれない。

輪廻転生永遠回帰は本当かもしれず、

生前世界では全く語られる事の無かった未知の世界に行くのかもしれない。

私は自分の死後に対して自我の消滅を望んでいる。

それは叶わない事かもしれない。

死して尚自我が残っていた時、私は本当の意味絶望するのかもしれない。

そしてまた生前と同じように自我を消滅させようと模索するのかもしれない。

この事はもう何度も繰り返されているのかもしれない。

私にはそれを知るすべは無い。

2011-10-21

http://anond.hatelabo.jp/20111021211844

精子にたましい(的なもの)がある、という前提が無理があると思う。

同じ細胞なら卵子にもなきゃおかしいし、あったらあったで受精後どっちのたましいが「生まれ変わり」を果たしたのかはっきりしないことになる。

「受精した瞬間に過去何らかの生き物であったたましいが宿り直し、生まれ変わる」的な説が普通に輪廻転生の主流になってると思う。

空想小説精子への生まれ変わり

2050年10月21日、自分は死んだ。

で、気が付くと、神様がいた。

神様がおっしゃった。

「実はなあ、生物は皆、生まれ変わりができるんじゃ。

 お前、何かに生まれ変わりたいか?」

「勿論です!!」

ということで、2050年10月22日、神様約束どおり、生まれ変わることになった。

・・・え?

何に生まれ変わったの、自分

まだ精子じゃん。頑張って卵まで行かなくちゃ。 

・・・あかん、卵に辿りつくまでに、息絶えた。

こうして2050年10月25日、何かの精子としての自分の一生は終った。

又気が付くと、神様がいた。

神様、生まれ変わらせる、といったのに、ウソツキ!」

ウソツキじゃない、ワシはちゃんと生まれ変わらせたじゃないか。」

精子に生まれ変わってもしょうがない、受精できる確率なんて、天文学的確率ですよ」

「何を言うか、精子だって立派な生物じゃないか。」

「因みに、念の為に確認しますが、自分人間精子だったんですよね」

人間精子に生まれ変われる確率なんか、1億分の1以下じゃ。今回は、お前、イワシの精子だった」

・・・

自分は冷静になって計算してみた。

仮に百億歩譲って、「人間精子に生まれ変われる。」と仮定してみても、

自分卵子に辿りつく確率」は、5億分の1。

いや、大半の男性は、女性セックスできなくてもオナニーで「放出」しているし、

セックスする場合でも避妊したり膣外射精が大半。

ということは、避妊でもオナニーでもなく子作りセックス、という確率を掛け算しなきゃいけないし、

女性側が排卵日じゃなきゃいけない。

むしろ計算方法を逆にすればいい。

1人の男性人生のうちに発射する精子数は、5億×50年×365日×0.3(3日に1回発射)

=2.7兆匹

この中で、受精卵になって、無事出生するのは、日本だと少子化で1.4人、まあ全世界平均だと2.7人程度、

・・・1兆分の1じゃん!

ということは、仮に「絶対人間精子として生まれ変われる」と仮定しても、

無事出生できるには、精子寿命3日×1兆回=3兆日かかる。

これって82億年先・・・

現実は、アリの精子に生まれ変わる可能性や、ハト精子に生まれ変わる可能性もあるから

多分、1兆年、いや、1京年先の話になる。

・・・宇宙存在してないじゃん!!

~~~~

ということで、よく輪廻転生を説く宗教がありますし、それに期待する人もいるようですが、

現実問題、精子へ生まれ変わって、受精卵になるまでの「天文学的確率」を勘案すると、

生まれ変わり、って、100%不可能じゃないの?

2011-09-19

http://anond.hatelabo.jp/20110919103036

もともとのインド輪廻転生仏教中国祖先崇拝が混ざった盂蘭盆経が伝わってきたか日本仏教はそういうつじつまの合わないことになってる

2011-07-13

超能力、霊感。

初めての増田。変なふうになってたらごめんね。


霊感や超能力を信じている人が身近にいる。

人間感覚による災害予知、輪廻転生、霊、他人の心を読む力など。

その人自身は「全くない人よりはある」程度らしい。

私は「全くない人」だし、あまり頭もよくないので力説されてもなんとも判断できない。

むしろやや否定的な態度しかとれなくて怒らせてしまうこともある。


彼によると霊感や超能力と呼ばれるような力をもっている人は、

力のない人に隠しているだけで人間全体の1割近くはいるらしい。(推定)

はてなーの皆さんの中にも普段は隠しているけど実は!って人がいるのかな。

2010-12-25

アンチ似非科学原理主義者を恋人に持った女のつぶやき

昔、強固なまでのアンチエセ科学原理主義者とも言える人と婚約をしていた。

私はそれを否定しなかったが、それでも日々積もる不信感は拭えなかった。

向こうの家族といった初詣

一人おみくじを引かない彼。

ここで、この強固な思想についていくことに限界を感じて別れを決めた。

私も科学者だったことがある。だが、心を病み、それどころでなくなっていた。

エセ科学が人を騙し、お金を吸い上げ、騙された人は何の効果もない「作業」を

することになる。

それを彼は許せなかったようだ。

生活の中で科学的な思考が問われる瞬間など、

実はそれほど多くない。

マイナスイオンドライヤーのうさんくささも、科学的云々の手を離れて

ユーザーからの「効果があるようなないような」という評価に落ちついている。

エセ科学を片っ端から論破していこうという皆さん。

あなたたちが作り出した不完全な科学

その科学証明できないものはすべて偽。

その偽が、人を幸せにすることもあるのですよ。

子どもの成長を願い、こいのぼりを上げること。

七五三参りをすること。

これらは、科学を模しているわけではないかエセ科学はないけど、

科学以外全部撲滅派にとってはこういった「慣習」すら悪になるんだと

あちこちで言いふらして回る。

テレビに出ているタレントの発言に大きく笑う。

から、「でも、この人○○学会だよ」

○○学会人間だったら、面白いとおもってはいけないのか。

宗教を気にせず、一タレントとしてみているだけの一般人にまで

宗教いか非科学的か、そして人間にとって害悪か」と

説かれてしまって、科学性・合理性に少しでも欠ける要素を持つ

者をほめる、気に入ることが許されない。

そんな、「科学原理主義」は人を幸せにはしない。

彼は、自分が死んだら散骨してほしいという。

でも、祖母の葬儀にはきちんと参加するという。

科学原理主義で、輪廻転生など絶対に信じない彼が言った。

「生まれ変わっても君と結婚する」

結局、生まれ変わらなくても私たちは幸せにならなかった。

上の約束は、そもそも彼の中では嘘だったのだから、当然だ。

それでも私は言う。

祈りというものに効果がないことがわかっていても、

あなた幸福を祈ります

あなたの否定する生まれ変わりがもし存在したら、

その時はまっすぐにあなたの元に向かう。

そしてあなた言い訳を聞き、現世でなしえなかった

あなたとの人生を送って生きたい

でも安心してください。生まれ変わりなど、存在しないのですから

2010-09-20

http://anond.hatelabo.jp/20100920221616

そうだよ、死んだ後は何も無いんだ

俺はその状態になりたい

主体が消滅すれば、過去現在未来も何もかもない

何も無いんだ、それがすべてだ

俺からしてみれば、輪廻転生天国地獄あの世彼岸に仏の国

そんなものの存在の方が恐怖だな

仮に、死んだら幽霊になって永遠に自縛霊生活だとするなら発狂するよ

それは、不老不死に対する恐怖と同じだな

俺は、死んでも何かある状態の方が極上の恐怖だ

http://anond.hatelabo.jp/20100920220834

"死ぬ事"自体は苦しいに決まってるじゃないか

死んだ後、死んでいる状態になる事がが目的なんだからさ

死んだあとの状態なんて無いんだよ。

自分が無くなるんだから。

俺は「死ぬ事」よりもその方が怖い。

輪廻転生の考え方にすがりたいくらいだ。

2010-09-06

日本人家族観

国柄探訪: 日本人家族観

 先祖から子孫への連綿たる生命リレー

中間走者として自分がいる。

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  • ■1.「親と子の血のつながりに対する運命的一体感」■

 秋葉原での無差別殺傷事件で逮捕された青年の両親が自宅前で報道陣に取り囲まれ、会見をした。父親が「謝っても償いきれない」などと謝罪の言葉を述べている途中、母親は急にひざから崩れ落ち、頭をうなだれ土下座するような形でそのまま動けなくなった。

 両親に法的な責任はないが、こういう子どもを育てた道義的責任はある、というのが、日本人常識的な感覚であろう。

 かつて神戸中学生小学生を殺し、その首を校門の前に晒す、という異常な事件が起きた。これに関して、儒教研究家加地伸行大阪大学名誉教授は、こう書いている。

 ・・・もし私が加害者中学生の父であったならば、自裁(自殺)をする可能性がある。私は日本人であるから、親は親、子は子、別の独立した人格であるというような、欧米人流の個人主義的行動をとることはとてもできない。それに、自裁する前に、罪を犯した子を自らの手で処置する可能性さえある。[1,p6]

 殺人を犯した我が子を手にかけた後で自殺する親がいても、日本人感覚からは、同情こそすれ、「狂気の沙汰」とは見なさない。

 加地氏は、これを「親と子の血のつながりに対する運命的一体感」と呼び、「欧米個人主義の立場からは絶対に生まれない感覚意識」だとする。

 こんな所からも、日本人家族観が現代においても欧米とはまったく異なるという事が窺われるのである。

 日本欧米との家族観の違いは、我々の日常生活でも随所に姿を現す。

 たとえば、最近では日本でもキリスト教式の結婚式が広まってきているが、神の前で互いに相手を伴侶とする宣誓をするのは良いとしても、さらに契約書にサインまでするというのは、どうにも違和感がある。日本人普通感覚では、「契約」とは他人行儀のビジネス行為であって、それが家族の中で行われるというのは、どうしてもなじめない。

 欧米キリスト教的な家族観では、家族とは男女の個人間契約を基盤としている。そして神の前での契約こそが、神聖なものなのだ。

 また欧米の家庭では、子どもが生まれて大学生にでもなれば、もう親とは別の独立した「個人」となる。ある小説で親が成人した子どもに「これからは友人としてつきあっていこう」などと語るシーンが出てきて、こういうセリフ日本人では思いつかないな、と感じたことがある。

 当然、子どもの方にも、年老いた親の面倒を見なければならない、などという義務感は薄い。子や孫との家族的関係を持ち得ないアメリカの老人たちはいかにも淋しげである。

 実はヨーロッパにおいても、ギリシア時代やローマ時代など、キリスト教が栄える前は、人々は家毎に祖先の神霊を祀り、それが家族の基盤をなしていたのである。それは古代日本も同じであり、現代日本人家族観はその伝統を色濃く受け継いだものである。

  • ■3.先祖の霊は「草葉の陰」で子孫を見守っている■

 古代の多くの民族は、亡くなった祖先の霊は、子孫が祭祀してくれれば、いつでもこの世に戻って来られるものと信じた。日本語で言えば、「草葉の陰」で子孫を見守ってくれるのである。

 「死んだらどうなるのか」というのは、常に人間不安にする疑問であるが、死んでも自分の魂は存在を続け、子孫とともにある、というのは、生死の安心を与えてくれる信仰であった。

 また残された子孫にとっても、自分を愛し、育ててくれた祖父母や両親が、死後も見守ってくれる、というのは、その死の悲しみを和らげてくれる物語であった。

 先祖祭祀というのは、先祖キリスト教的な唯一絶対神として祀る、ということではなく、先祖の霊とともに生きている、という生活感覚なのである。それがわが国においては古神道となり、中国においては儒教に発展した。

 キリスト教では、死者の魂は最後の審判を受けて、魂は天国地獄に行く。仏教では、魂は輪廻転生を続け、解脱をしない限り、次は蛇や虫として生まれ変わる恐れがある。

 よくキリスト教仏教を「高等宗教」とし、先祖祭祀などは未開の宗教であるかのように言うが、死後の魂がどうなるか、ということについては、それぞれが違う「物語」を持つ、というだけのことであって、どちらが高等かなどと比較できるものではない。

 魂が輪廻転生を続け、解脱をすれば浄土に行ってしまう、とする古代インド仏教が、先祖祭祀を信ずる中国日本に入ってきた時、その死生観の違いが文化的衝突を引き起こした。

 インド人にとって見れば、魂は他の人間動物に生まれ変わるか、浄土に行ってしまうので、肉体はその乗り物に過ぎない。だから焼いて、その灰はインダス河にでも流してしまう。これが本当の火葬である。

 日本火葬というのは、遺体を焼却した後に骨を拾い、墓に収める。これは本来の意味火葬ではなく、土葬の変形なのである。古代中国では、人間精神を支配するものを「魂」と呼び、肉体を支配するものを「魄(はく)」と呼んだ。人間死ねば、「魂」は天に上るが、「魄」は地下に行く。「魄」を地下で大切に守るのがお墓である。

 これと同様の感覚日本人も持っており、遺骨には死者の「魄」を感じる。戦後アジア太平洋の島々にまで戦死者の遺骨収集に行くのも、骨を故郷の地に埋めなければ、死者の魄を供養できないと考えるからだ。

 これについて興味深い話がある。昭和45(1970)年日航よど号ハイジャックして北朝鮮に逃亡したグループリーダー田宮高麿が平成7(1995)年に亡くなり、「祖国の地に骨を埋めたい」という気持ちから、田宮の遺骨は北朝鮮にいる妻子と日本家族とに分けられ、新潟県内の家族の墓に埋葬されることになったという。

 共産主義者は無神論者のはずだが、異国で死期が近づくと「祖国の地に骨を埋めたい」と願うのは、心の底には日本人死生観が根づいている証左である。

 輪廻転生を信ずるインド仏教中国に入ってきた時、遺体は焼いて川に流してしまう、という生死観は、先祖祭祀を信ずる中国人にはとうてい受け入れられるものではなかった。

 そこで中国における仏教は、魄を納める墓や、先祖の魂を呼び戻して依り憑かせるための位牌を取り入れた。

 わが国に中国から仏教が入ってきた時には、このように先祖祭祀を取り入れて換骨奪胎したものになっていたので、比較的抵抗は少なかった。

 それでも日本にも仏教輪廻転生をそのまま信ずる人はいた。鎌倉時代初期の親鸞である。親鸞阿弥陀仏衆生を救おうという本願にすがって、浄土に行けば輪廻転生の苦しみから脱却できると説いた。となれば葬儀も墓も先祖供養も不要になる。

 しかし、親鸞弟子たちはその教えに背いて、葬儀・墓・先祖供養を続けた。その後裔たる現代の浄土真宗本願寺派も、墓を作り、葬儀先祖供養を行っている。

 今日日本では、大方の人々が仏教に求めているのは、墓・葬儀先祖供養である。そもそもの輪廻転生からの解脱仏教に求める人々は例外的であろう。これほどに先祖祭祀は日本人の心の奥底に根付いているのである。

  • ■6.仏壇に向かう■

 仏壇も、墓や葬儀と同様、仏教本来のものではない。中国においては、一族の長の家に宗廟(そうびょう)という別の建物を建て、そこで先祖祭祀を行った。これが後に、祀堂(しどう)や祀壇(しだん)となり、それを仏教が取り入れた。

 日本では、これが部屋になって「仏間」となり、さらにはそこに置かれた仏壇が、一般の部屋に置かれるようになった。各家に仏壇を置くという習慣は、中国朝鮮にもない、日本独特のものであるそうだ。[1,p191]

 仏壇には、灯明と線香と位牌がおいてある。灯明は先祖の霊が降りてくる場所を間違えないよう、明るくするためのものである。線香に火をつけると、その香煙に乗って、霊が降りてきて、位牌に依りつく。

 そこで子孫たる我々は、降りてきてくださった祖霊に対して「ご先祖さま。おはようございます。今日も一日よろしくお願い申し上げます」などと挨拶をするのである。

 今日自分たち家族が生きていられるのも、亡くなったご先祖様のお陰であり、そのご先祖様の恩に応えて、自分家族のため、子孫のために今日も頑張ろうと、心を新たにする。これが先祖祭祀に基づく生き方だろう。

 核家族化が進んで、仏壇のない家も少なくない。しかし、仏壇のある祖父母の家に里帰りした時などは、幼い子どもとともに、仏壇に線香を上げると良い。幼い子どもは遊びのように喜んで仏壇に向かう。自分がここにあるのも、ご先祖様のお陰だということを教える何よりの機会である。

 もう一つ、インド仏教中国日本先祖祭祀と衝突した点は、出家を説いた点である。「出家」とは文字通り、家を出て、財産への執着や家族への愛着を振り切って、個人の解脱を求めることである。

 しかし息子に出家されたら、その家は断絶し、先祖の霊を祀る子孫がいなくなってしまう。個人的な解脱のために、先祖の霊をさまよわせ、子孫の未来を奪うのは、先祖祭祀の立場からは、とんでもない「不孝」と考えられたのである。

 そこで中国日本においては、「在家」すなわち家族の実生活の中で仏教を奉ずることが理想とされた。聖徳太子在家の長者・維摩が教えを説いた「維摩経」、および、同じく在家女性信者である勝鬘(しょうまん)夫人が仏道を説いた説いた「勝鬘経」をとりあげて注釈書を書かれた。

 前述の親鸞は、聖徳太子を「和国の教主」と仰いでおり、その在家主義を受け継いで、結婚し、子をもうけている。今日でも日本の多くの仏教僧は、結婚し、家庭生活を営んでいる。

 オウム真理教インド仏教を受け継いで、出家して修行を積めば、輪廻の苦しみを脱して解脱できると説いた。それを信じて家族を捨てて教団に入った子どもたちを、親が返せと叫ぶ。これも「出家」と「在家」の衝突の一例である。

 「在家」とは、家族の一員として生きていくことであるから、まことに不自由なものである。「出家」のように好きな所に行って、好きなだけ座禅を組む、などという気ままは許されない。

 しかし、その不自由な家族の中で、我々は生まれ、育てられて、大人としての生活を送る能力を身につけていく。まず家族の中に生まれて、育てて貰わなければ、大人として自由な生活を送る事も、そもそも不可能なのである。

 さらに成長の過程で自分を育ててくれた親への感謝や、その恩返しとして今度は自分子どもを立派な人間に育てる義務を学ぶ。このような事が人格の基盤を構成するわけで、感謝や義務の心のない人間は、自由を与えられても、自分利益しか考えない利己主義者になってしまう。

 西欧に発展した近代個人主義においては、ひたすらに個人の自由と権利の拡大を図ってきた。しかし、キリスト教社会においては、神に対する畏れがあり、それが野放図な利己主義に転化する抑止力となってきた。

 わが国においても西洋的な自由と権利の主張を鵜呑みにして、家族制度を「個人の自由を抑圧する封建的制度」などと罪悪視する思潮がある。

 しかし、わが国においては家族制度が、利己主義への抑止力となってきたのであり、それを破壊することは、利己心の抑制を持たない人間に野放図の自由を与えることになる。都会の雑踏で無差別殺人を行う青年とは、その極端な姿ではないのか。

  • ■9.「なぜ生命は大切なのか」■

 こうした事件を防ぐべく、子どもたちに単に「生命を大切にしよう」とだけ教えるのでは、「なぜか」が伝わらない。

 それがわが国の家族観に従えば、「生命を大切にしよう。生命とは何代ものご先祖様から君たちに伝えられ、そして君たちから何代もの子孫に受け継いでいくべきものなのだから」と教えることができるのである。

 先祖供養とか仏壇、お墓参りなどは、すでに形骸化した「葬式仏教」の遺産であると考えがちであるが、それらは我が先人たちが産み出してきた工夫なのである。そこには先祖から子孫へと連綿とした生命リレーの中で人間を捉える伝統的な家族観が生きている。

 その家族観の深い思想を知らずに、単に古くさいの一言で片付けながら、新しい家族観を産み出すこともできずに、社会的混乱を招いているのが、現代の日本人ではないだろうか。

 これではご先祖様も草場の陰で嘆いていよう。

(文責:伊勢雅臣)

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

  →アドレスクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 加地伸行家族の思想』★★、PHP新書、H10

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569603084/japanontheg01-22%22

2010-03-24

http://anond.hatelabo.jp/20100324083858

作品には、大なり小なりそういう思想的側面、宗教的側面、あるいは道徳的側面が含まれているよね。

ただ、輪廻転生とかの重要価値観宗教観)に関わる場合は、異宗教の人から猛烈な批難を浴びるかもって言うのは斬新だった。

でも今の時代そこまで過激な人もいないし、過激派が許されるのはテロぐらいなもんだと思う。

キリスト教では自殺禁忌。例えば、ソレをテーマにした自殺を止める母と息子の洋画があるとする。映画を見たときに、なんでこんな真剣になって母親はなにがなんでも止めようとしているのだろう・・・?? 洋画を見て、うちらはぽかーんっていうのが普通な気がする。

要は、理解できない!!間違ってる!!ってなって駆逐される運動が起きるというよりは、理解できない作品で面白くなかったという風に決着がつくような気がする。仮に、それで議論や討論が起きても、ネット上とかの一部地域での話で、現実的な過激な危機とかは起きないように思う。ただあまりに批判する過激な人が、突発的に回避できないような形の攻撃=テロぐらいは起こすかもしれんけど

ソレは事故みたいなもん。防ごうと思っても、完全に防げはしない。

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