はてなキーワード: 脆弱とは
障碍とは何なのか。我々が障碍と呼んでいるものは進化の可能性かもしれません・・
映画を見るか迷っている人は予告動画をみれば話の筋がだいたいわかると思います。
今作はお涙頂戴要素はほとんどなくて終始ワクワクしながら見るタイプです。
両腕には羽がありドロマエオサウルス類かトロオドン類のような外見ですが、未発見の種で名前がないため劇中では「新恐竜」と呼ばれています。物語が進むにつれ彼らが鳥類の起源のひとつであることが明らかになっていきます。新恐竜は高所から飛び降りることで滑空飛行をするようです。一方で多くの鳥類は羽ばたき飛行ができます。彼らはどうして羽ばたき飛行を獲得したのでしょうか?
キュウは新恐竜の中でも脆弱な個体です。彼の体は小さく空を飛ぶことができません。障碍のせいでいじめられ仲間にいれてもらえません。
強者と弱者、健常者と障碍者。これらは環境の変化で簡単に逆転し得るのです。
のび太の落ちこぼれ描写はいつも以上に執拗です。同級生たちからバカにされてものび太は怒ることすらしません。のびたは自信を失い、自分自身を見捨てているかのようです。
作中しずかは自暴自棄になっているのび太にあなたはやさしい人だと語りかけます。「のび太の結婚前夜」から続くおきまりのフレーズですが、今作ではそれとは異なる特別な意味を持っています。
物語ラストにおいてキザなお兄さん(名前なんだっけ?)が人類の進化について言及します。彼の語る「やさしさ」とはのび太のことでしょう。現代の社会において落ちこぼれにみえるのび太もまた、人類の進化における無数の鍵のひとつなのです。
恐竜!恐竜!恐竜! 恐竜が3DCG なんだけれどもね、恐竜もカメラもめっちゃ動くの!映画館で見ると大迫力!すごくいい!!
冒頭にでてきた博物館は!恐竜キッズの聖地!福井県立恐竜博物館だーーー!!
のびたくんが調べている図鑑は! 小学館の図鑑 NEO 「恐竜」だーーー!!
あれ持ってる!あれ知ってる!の連続なんですよ。うちの恐竜キッズも大興奮です。
1作目「のび太の恐竜」はフタバスズキリュウを当時中学生の子供が発見したことが元ネタで、「裏山を掘って恐竜の化石を発掘」は多分当時の子供達のリアルな夢だったはずなんですよ。今では「福井県立博物館の化石発掘体験で恐竜を発見」が現代の子供達の夢なんでしょうね。福井でたくさん新種の恐竜が発見されているとか近年中国で羽毛恐竜がたくさん発見されたとかそんなところ全部拾ってつくった夢なんですよ。
みんなだって子供のころ夢見たでしょ?化石発掘体験で新種を見つけて学芸員さんに「こ、これはーーーー?!」とか言われるのワクワクして妄想したでしょ?身近な夢から壮大なスケールで大冒険ですよ。これがドラえもんですよ。大好きです。
ふつうは恐竜映画つくると安易にティラノサウルスとかだしちゃいそうでしょ?この映画はそういうことしないの。
舞台は過去の日本なんですけれども、映画に出てくる恐竜もみんなアジアの恐竜なんです。
劇中では「ティラノサウルスの仲間」みたいな呼ばれ方をするのですが、映画館で配られる小冊子に恐竜図鑑が載っていて彼の本当の名前がモンゴルで発見された「タルボサウルス」であることがわかるのです。劇中でもドラえもんが「この時代日本はまだなくて大陸とくっついていたんだよ」と解説していてバッチリです。恐竜キッズって設定にうるさいじゃないですか。こういうのって素敵です。
子供向けなのに全然手を抜いていないのすごいね。逆かな?恐竜キッズ相手だからこそ真剣に考えて作ったのかな?
秘密基地みたいなやつ。あれの設定・元ネタはたぶん「ドラミちゃん ハロー恐竜キッズ」から。
●●●●●●●●はなんでドラえもんやのび太を見逃しているの?なんて我々おたくが100回くらいネタにしてきたじゃないですか。
この作品は真正面から取り組んでいるんですよ。のび太くんが●●●●ところが個人的ハイライトです!めちゃめちゃワクワクしました。
この部分だけでも小一時間語りたい感じなんですけれども完全ネタバレトークが許されるのっていつ頃ですかね・・・?
のび太って過去で未来で世界を救いすぎもはや手を出せないんでないの?みたいな話ししたいんですけれどもだめですかね・・?
うちの恐竜キッズが喜んでいたから100点満点中10000点です
よかったです
満員電車はなぜクラスターになったという証拠が出てこないのか?
ずっと考えていたところ。
3密状態なのに、感染が広がりにくい理由として、車内の沈黙がしばしば指摘されている。
これって、事実か検証されていないものの、本当だとすれば、実は相当、本質的な話じゃないかとふと思った。
「3密、ソーシャルディスタンス」これらは、物理的な距離しか表現されていないが、
感染リスクは、物理的な距離だけでは表現できないことを示しているからだ。
直感的な結論は、「飲食店・車内他、3密が避けがたい空間での会話を自粛する」「私語厳禁の名曲喫茶並みの自粛を求める」
「1時間に一度、客にうがいタイムをつくってもらう」これだけで十分な対策になりうるんじゃないか。
パチンコ屋をみてみろ。
あいつらは、あれだけ批判を浴びながら、一度もクラスターを発生させていない。
なぜなら、客は終始無言だからだ。黙ってパチンコに真摯に向き合っているからだ。
カラオケ屋はどうだ。
喉を枯らして、ウイルスへの暴露を増やしてしまうからではないのか?
今日もマスク着用を拒む高齢の感染者を説得しようとした看護師が感染したというニュースが。
喉?ということで、もう一歩進んで考えてみた。
ウイルスの防御は、およそ3段階ある。
ひとつはマスク、手洗いなど衛生活動による身体への付着リスクの軽減だ。
次が、万が一付着してしまったとしても、粘膜には侵入防御の機能がある。
最後に、残念ながら粘膜も突破されてしまってウイルスが体内に潜りんでしまったとしても体内で作られる免疫で守る仕組みになっている。
この3つのステップというのは、もう少し考え直したほうがいいのでは。
今、世間では、身体への付着リスクと免疫の二つの段階しか議論していないようにみえるが、本当に重要なのは中間の防御である「粘膜」じゃないだろうか。
第1の防御であるマスク・手洗いなどがよくいわれるが、うがいはもっと強調されていい。
政府が率先して小さな布切れを配っているくらいだから、マスクによる予防を真剣に考えてくれているとはとても思えないし、
正直、マスクでウイルスの付着を防いでいる、というのは実態とは異なるんじゃないかと思っている。
口鼻だけ守ったってどうなの?と。外出したら、そこら中、触り放題で帰宅するわけでしょ。マスクの役割、限界ないですか?
そういってみて、思い出したのが夜に入浴する習慣の乏しい欧米。
一方、ウイルスが本格的に体に侵入するモーメントを考えてみると、ウイルスへの次の防御は粘膜だ。
ウイルスは粘膜から侵入するといわれる。皮膚からは侵入しない。
外気にさらされている粘膜は体中にたくさんあるが、目、鼻、喉が普通の生活では重要とされる。
耳や肛門まで警戒する必要はない様子。目もこすらなければいい程度の注意にとどまっている。
もっとも感染のエントリーポイントになりやすいとされているのは、鼻、喉だ。
しかし、乾燥していたり、喉が渇いていたり、しゃべる、歌うなど喉を使うとき、喉の粘膜が
ウイルス防御の機能を弱め、無防備に曝されるのではないか。緊張したり、興奮したり、運動することでも喉の粘膜は脆弱になるように思う。
マスクは実は、ウイルスの侵入を防いでいる効果はそれほどでもなくて、鼻やのどを保湿することで粘膜への刺激を和らげる効果を発揮しているのでは?
だとすればアベノ布切れでも、そこそこ効果は期待できるかもしれない。
これは本当にしょうもない仮説だけど、誰か実証実験してもらえないかな。
マスク・手洗いうがいのほか、飴をなめる、というのを推奨できないか。1時間に1個くらい。
飴は、うがいほどではないかもしれないけれど、唾液で粘膜を洗い流す作用がある。
それにしてもうがいはもう少し再評価されてもいいのでは。
就活が終わって自分が想像していたよりも格段に良い会社に就職できてしまった。同年代に言ってもまず持ち上げられ、かつ老若男女誰でも知っていて、比較的潰れない企業。
だからこそ他人に言いにくい。周りはまだ就活を終えていない人もいるし、終わっていても気持ち悪いマウント合戦に巻き込まれかねないので本当に親しい数人にしか話せていない。
推測でしかないが、このマウント合戦はこれからの人生ずっと続いていくような気がする。自分から話さなくても、仕事以外の場でも年収や生活水準といった情報は漏れ聞こえてしまうし、むしろそれを積極的に利用し快楽に変換して愉しむ人たちも多いのだろう。そういった価値観に逆張りして早々に戦線を離脱し、如何に横槍を入れて楽しむかしか考えていなかった自分は、いざ巻き込まれそうになった今適切に回避する技術も経験も持ち合わせていない。
周りの内々定者を見渡しても、ハナからこういう企業に入る前提で進学し、計画的で有意義なキラキラした学生生活を送ってきた人たちばかりに見える。今までの自分はこうした人たちを馬鹿にはしないまでも、どこか冷ややかな目で見ながら生きてきてしまった。今更迎合するなんてことを自分の精神と彼らは許してくれない気がする。でも、迎合しないと自分はひとりぼっちだ。独りでも楽しめると強がる癖に、スマホを握りしめて更新ボタンを連打していないと落ち着かない自分は、本当のところ孤独に対して非常に脆弱だと感じる。
加えて何より悲しいのが、その自分が楽しんできたネットのノリに入り込めなくなりそうなことだ。5chのゴミみたいな板で自虐エピソードに華を咲かせたり、乞食速報で手に入れたどう考えても必要ないワッフルメーカーを自慢したり、おおよそ吐瀉物にしか見えない底辺飯を見せ合ったりしてキャッキャできたのも、ある種の切実さがあってこそだった。今の自分にはそれがない。
こういう不安を打ち明けたところで単なるマウントと取られるだろう。でも実際構図としては自分が心底嫌っていたクッソウザいマウントそのもの。匿名空間以外では絶対に話すべきじゃないことはわかるし、したところで大した共感は生まず、よくて罵倒の嵐にあうだけ。自分が親友だと思っている人も、こんな話を何度もされたら辟易して、親友ではなくなってしまうかもしれない。
漠然とした不安を抱えてずっと生きてくのかと思うと辛くなった。
じゃあこの会社をやめるか、やめられるわけないんだよなぁ。
そしてこのことは私史上最大の秘密であり、母親すら知らないトップシークレットだ。普通親なら気付くはずだと思われるだろうが、何故か母はいもしない男の気配を私から嗅ぎ取っており、男受けしない娘だが最低限の経験はしていると今も信じ切っている。
母ですらそう思い込んでいるのだから、友人や同僚ともなると私が魔法使い一歩手前の希少種だとは考えもしないのだろう。それどころか身に覚えのない彼氏の話題を振られることさえある。その度適当な嘘をつき、ボロが出る前に別れたことにしてその場を乗り切る。時にはワンナイトの相手を登場させたりもしている。今ではすっかり恋人と長続きしない自由気儘な人物像だ。処女のくせにな。
周囲にそう思われている理由はなんとなく分かっている。単純に遊んでそうな容姿と性格なのだ。
濃いメイクや身体のラインを強調する強気な服、それからアクセサリーが大好きだ。爪はいつでも長く伸ばし濃い色のジェルネイルをしていないと落ち着かない。着けている指輪の数も多い。服飾にこだわることが当然とされている職場ということもあって、毎朝時間ギリギリまでその日着けるピアスを選んでいる。誰かのためではなく自分の気分を上げる武装のようなものだ。
そんな見た目に加え、夜遊びも嫌いではない。
居酒屋やバーは勿論、JISのような異性と出会う為だけに存在する店に行くこともある。声をかけられれば会話をするし、とりあえず連絡先も交換する。大学時代に友人とふざけて始めたマッチングアプリで知り合った相手とデートの真似事をしたこともある。
ちなみに初めて男性と手を繋いだのもキスをしたのもその時だ。余りの虚しさに頭の悪い女の笑い話として友人達との飲み会で酒の肴にした。実は初めてだったなんて口が裂けても言えない。これも墓まで持っていく。
ここまで書けば分かると思うが、私は派手な見た目とそれなりに釣り合いの取れた非常に厄介な性格をしている。私自身が見た目にこだわる人間である以上、そこから得る印象の重大さは理解している。誰だって全く逆があり得ると分かってはいても、清楚な格好をした人間からは楚々とした印象を受けるし、派手な格好をした人間からは奔放な印象を受けるだろう。なので人から向けられる目に対して文句はない。
正真正銘性に奔放な友人もいる中で、私は25になっても未だ男性とお付き合いをしたことがない。それどころかそろそろ26になる。アラサーと呼んで差し支えない年齢だ。
自分のとっつき難い外見や不誠実な言動。学生時代から現在まで異性が殆どいない環境で生活していること。言い訳ならいくらでも用意できるが、最大の理由は私自身がそれ程他人との関わりを強く求めて生きていないことだろう。
基本的に私はプライドが高く、ありえない程に気が強い。性格も悪いが、そもそも根本の人間性に難があるタイプの人間だ。親しい相手を除いた自分以外の人間に無条件でいつでも害意を抱いている普通にヤバいやつなので当然モテない。もしくは見た目だけがモテる。断っておくがこれは外見が性的な対象として見られているだけなので人間として好まれているわけでは決してない。
そんな中、学生時代からの友人がついに全員既婚者となった。高校や大学など出会った時期は違うが全員同じ歳だ。それぞれ卒業後も定期的に連絡を取り、お互いの近況を報告し合っていた。そんな友人達が一人残らず結婚した。相手は私と知り合う以前から付き合っていた彼氏であったりよりを戻した元彼であったりと様々だが、とにかく全員が全員結婚したのだ。
すでに数年前から母として育児に励んでいる友人もいるが、これから先自分の周りには家人として家庭を守って生きる人間ばかりになっていく。何故か旦那さんのお義母さんとまで引き合わせてくれる彼女達とはこれからも友達でいられると思っているし、こんな気難しい私を受け入れてくれる奇跡のような友人達の幸せをちゃんと喜ばしく思えている。
だが同時にとうとう1人になってしまったと漠然とした虚無感を覚えている。やはり家庭を持つ人間と自分1人を生かす為だけに活動している人間との間には価値観において決定的な隔たりがある。
これから先、私は彼女達の気持ちに寄り添えない瞬間が多くあるのだと思う。旦那さんのことか義実家のことか子供のことかは分からないが、とにかく今まで雑な嘘で取り繕ってきた私では到底慰めきれない何かがきっとある。自発的に家族を作っていない私では今の時点でもう想像すらできない。
でも赤の他人に大切な相手として想われる人生とは一体どんなものか、知りたくて堪らない瞬間がある。しかしその愛情を受ける為に言動に気を使い、相手を思い遣ることを考えるととてつもなく面倒に思える。つまり私は恋人が欲しいわけではなく、無条件で自分を肯定してくれる生きた人形が欲しいだけなのだろう。人はどうか知らないが、私の場合他人に情を割くには体力がいる。
恋人、あるいは結婚という誰かと共にある形の幸せを手にした人達には私にはないある種の才能がある。
26歳を目前に自分が処女であるという事実は人には言えない重荷になっているが、本当に人に知られたくないのは私が誰かに感情を向けられたことも向けたこともないという現実だ。
全くの孤独であるか身近に同じような人がいれば気にならないのかもしれないが、残念ながら私はそうではないし、周りにもそうは思われていない。可哀想なくらいプライドが高い私は自分の見た目と現実との乖離をせっせと埋めるしかない。
それに人が複数集まって会話する時、過去の交際経験という経験値がないのは少々脆弱だ。決して色恋の話ばかりしているわけではないが、一度目の人生の転換期になる25歳で彼氏いない暦=年齢の女は少々浮いた存在だろう。当たり前に過去何人もの恋人がいた友人や同僚達にとっては尚更。何より過去の経験はそのまま発言力と説得力に直結する。
現在私には彼氏がいない。最近別れたのだ。そして今は作る予定もない。友人全員の結婚を期に、もういいかと思うようになった。話の流れによってはまた適当な嘘でその場を受け流すだろうが、これからはリアルタイムの話題が必要になる程恋愛経験が会話の中心に上がることはないと思う。友人達はみんな過去の話よりこれからの話をする。きっと今までのような遊び方をすることもなくなるだろう。
週が明ければ私は26歳になる。仕事だけで終えてしまった25歳の頭を整理したかった。色々考えたが結婚願望や恋愛願望以前の問題で、自己愛と自己嫌悪が強過ぎる余り他人に情を向ける余裕がない私は恐らくこのまま歳を重ねていくのだと思う。きっと精神はリスクのない無条件の愛情を求めて停滞したままだろう。
まだ職場では小娘扱いして貰えているが、最近妙に結果を残さなければいけないと思えて気が逸っている。分かりやすいきっかけはなかったが、私も友人達と同じように立派な大人になっている。歳取るって大変だわ。
あらゆる方策を提言されても、それをやれる人間がいないのである。
銀英伝のイゼルローンに例えると、アレックス・キャゼルヌがいないのである。
はっきり言えば、どんな優れた対策を立てたところで、それを吟味してよいものだけをすくい上げる官僚のマンパワーが圧倒的に不足している。
通常業務ですら、国会中は深夜タクシー、数時間ほど寝て、また始発で職場に直行便というのがデフォルトの国家公務員である。
コロナウィルス対策で、勤務時間も足りず、予算も人も足りないものだから、使命感だけで何とかギリギリまわせるモノだけまわそうと必死にあがいているのがいまの状況だ。
過労死ラインの倍を超える残業時間で働いて、わけがわからないことになっている部署はわんさかある。
コロナウィルス対策で最初の死者は、過労状態にあった官僚だったことをもう忘れている。
誰も助けてくれない。
人を助けようと思ってもその政策を吟味し、実行可能な状態に持っていくだけのリソースがない。
一度動いた政策も、コロナウィルス対策下では、すぐに取りやめなければ危険ということが良く起こる。
これではもう、どうにもならない。
政策を実行する人が単純に足りないのだ。
民間が、最も大変だということはわかる。しかし、それを非常時に助けて対応できる人が根本的に不足している。
政府が悪いというのはいいが、じゃあ、その脆弱な政府の状態を作ったのは誰だ?
政府のせいか? いや、小さな政府を目指し続けてきた国民の責任は極めて大である。
行政サービスが極限まで求められる非常事態に、小さな政府では、そもそも対応しきれないのだ。
しかし、行政職は、専門職だ。極めて面倒な法律的事務を、他の部署から来た人間が代わりにやることはほぼ難しい。
勉強しながら対応だが、ある程度習熟しないと役に立たない。皆華やかなラインハルトや、ヤンウェンリーはもてはやすが、キャゼルヌ先輩がいかに偉大だったのか、理解しておらぬのだ。
いまの日本は、アレックス・キャゼルヌがいない。というか、いたんだけれど、給料が高いと追い出してしまった。
どうするんだろうねこれ。
この世の中には2つの考え方があって
ってのと
ってやつ。
どっちの考え方が間違いというわけでも無いけど、基本的に2番の考え方がよくて
これが直感的にわからない人は一生苦しんで生きることになる(かもね)
もし生きるに値しない、意味のない人生だったら、そいつは早晩死ぬことになる
死ぬことはまぁ不幸だよ。ここでイチャモンつけてくるやつには話していない。
本来この世界には生きる目的なんてのは無いから。そんなことはない!っていうやつは物語とか虚構に毒されている夢見がちの脳みそお花畑なんだろう。まぁ気持ちはわかるお前の人生は意味がないって言われて気分のいいやつはいない
でもここで言いたいのは俺は人生自体に意味があるんだとしたら、生きる目的なんてのはあろうがなかろうが、人生を歩んでいる限り何かしら有意義であり続けられるということを言いたい。
これは考え方の話です。事実かどうかはどうでもいい。
なぜなら心の問題だからです。物理的には人間が生命活動しているだけなので、目的を持って有意義に生きている人間と、ぶらぶら生きている人間の間に、なんの違いもありません。
絵を書いているから、歌を歌っているから、株取引で利益出したから、意味があるって思ってるかもしれんけど、それ人間社会の中の人間のココロの動きなだけだからな。
宇宙的な物理的な観点で見たら、アリが蟻塚作ったりビーバーがダム作ったり、産後がサンゴ礁作るのと一緒で、意味がどうとか言うより、ただそれがそこに人間によって作り出されたというだけの減少でしか無いわけ。
その人間の御業に感動し意味づけをするのは人間の心です。なので人間の心のない人にとっては、歌も漫画も、ドラマも映画も、なんにも響かないし、無意味です。
さて人間はなにか意味のある活動をしているのでしょうか。意味はある。確かにある。でもそれは人間の心の動きの中で、意味の概念とか創作の価値とか人生の価値とか、そういった概念とかがある思考の中で定義づけされている、一種の虚構であります。
なので、意味のあるなし、というのは、乱暴に言えば心の持ちようなのです。
意味のある人生ではない。という悲しい苦しみがあります。ありがちます。
これは人生に意味がある、必要である、という雑い一般常識に毒されている残念な思考に囚われているために起こる、錯視的な苦しみです。
意味ってのは人間が主観的に見て、色付けしていく心の動きなので、無意味、というふうに心が思想が、思考が判定してしまったら、どんな崇高な偉業も無意味になります。
月に行ったからなんだって言うんだ。それってなんの意味があるの?
橋を作って通行時間が短縮したってなんの意味があるの?そんなに急いで物資や人間を流通させる意味あるの?
意味があるかどうかは、人の考え方や思考で決定されます。乱暴に言えば意味があるかどうかは心のありようです。
ここまで書いたら「意味のある人生を送る」ことがどれだけ脆弱で危険な思想なのかと言うことに気がつくかもしれません。
「意味」はこころの持ちようでかんたんに崩れるものです。そういった脆弱な概念に自分の生死を左右する「人生」を乗せることは、バカのする選択です。
バカのする選択なんだけど、割と「意味のある人生」とか「意義のある人生」みたいな概念ってさも常識であるかのように世間一般にまかり通ってる気がするんですよね。そうでもない?そうだと思います。
不幸な人間の多くは割とこの考え方が根本にあって、社会的に認められないのなら生きている意味ないとか、
人付き合いが下手だったら生きている意味ないとか、頭悪いから生きている意味ないとか、
不要な人生を送っているという、妄想に近い苦しみに苦しんでいるんじゃないでしょうか。
ここで最初に言っていた「人生とは生きるに値する意味のあるもの」っていう考え方が、効率的で無駄に苦しみを生み出さない考え方になると思うんだよね。
人生自体には生きるに値する意味があるなら、人生が続く限り人生は生きるに値する価値あるものになるわけ。
トートロジーだし、こじつけっぽいけど、本来人生に意味があろうがなかろうがどっちでもいいというか、人生自体は基本的に無意味で、なんで私達が生きているの買っていのは、単純に私達が産み落とされただけだし、その後の人生をどのように送ろうが死のうが、それ自体にも意味なんてものは無いわけですよ。
もし、無人島でひとりでに生まれて、最後まで自分以外の人間に遭遇することなく死んだ人が居たとしたら、その人の人生の意味ってのは、その人自身しか観測者が居ないので、その人が決めた心のありようだけですべて決定されるわけです。
この人が最高の人生だと思って居たのなら、最高の人生だし、最低の人生だと思っていたら最低の人生なわけです。
でもこの人の人生無意味。って言うふうに見える人がいるだろ!みたいな反論が聞こえてきました(幻聴)
見えますか?見えるでしょうね。それはあなたの心がそういうふうに見ているだけで、その人の人生の意味があるかどうかとは、全然関係ないからです。
他人が見て人生に意味があるかどうか判定することは不可能です。人生の意味というのは人間の心の持ちようでいくらでも変化します。これはその人生、その人自身の心の持ちようだけではなく、周囲の他人の心の持ちようにも現れます。
あなたから見てゴミみたいな人生を送っている人がいることと、その人がゴミみたいな人生を送っているかどうかは、全然関係ありません。
人生の意味は他人が決めつけたり、決定したりすることはできません。なぜなら心の問題だからです。
これは自分の人生が無意味だと思いこんでる人にも当てはまることで、周りから普通の人生に見えていても、本人が無意味で絶望的な人生を送っている(と考えている)限り、その人にとっては紛れもなく無意味で絶望的な人生は主観的に確実に事実として認識されます。
2020年6月にZoomを使って公式開催されたオンライン応援イベントに参加した。有料だったが即チケットを購入した。
ゲストにチーム大好きな野球声優がいたのが一番大きな参加理由。
球場で応援するのがすごく好きな人間なのでコロナの影響で球場に行けなかったのが非常に辛かったし、めちゃくちゃありがたい企画だった。正直思ってたよりめちゃくちゃ楽しかったし盛り上がった。応援団が応援歌歌ってるZoomに参加できて、応援バット振るだけでめちゃくちゃいい運動になった。見ている中継映像が人それぞれ違うからネタバレが起きるとかは仕方ない。
ところでゲストとして参加している声優さんが昔参加していたユニットに関係する、モラルを欠いた発言を執拗に行う参加者がいた。正直やっていいこと悪いことの分別が全くついてないレベルだった。
オンライン応援はZoomの映像が球場ビジョンにそのまま映る。つまり中継にも写ったりする。コレ自体は悪くない。選手に声は出せなくても応援していることを伝えられる(たぶん伝えられている…?)というのはファンとしては嬉しいことである。Zoomでのチャットもビジョンに映されたりする。これもまあうん。
ほぼリアルタイムでZoomの映像をそのまま球場ビジョンに流している。これは人間の善意ありきで成立しているシステムだと思う。そして悪意に本当に脆弱であるとも感じた。
こういうオンライン応援の取組みをなくせとも思わないし、むしろ積極的にやってほしいのだが、悪意のある人間がその場に紛れ込んだらそれだけでろくでもないことが起きるよ。例えば有害なもの写したりね。
リアルイベントだったら明らかにヤバい人間はスタッフがマークしておいたりできるけど参加型オンラインイベントだとそうはいかないっていうのが見えてきて怖くなった。
ことしの4月から仕事の担当が変わり、お金を請求する業務をしている。
やってみて初めて/改めて思い知ったことを挙げてみる。
超絶クソ田舎自治体の単一事例なので、都会や他の田舎ではもう少しマシだろうと思う。口座振替にネット銀行が指定できるところもあるし。
口座振替依頼もオンラインでできて、納付書はコンビニ対応で、支払情報はオンラインでの都度即時電送で、基幹業務システムと会計システムへ即座に自動反映される、とか理想だし本当に楽だけど、結局は「でもお高いんでしょう?」という話なのかな。
そういう人って「否定された!」「無視された!」って思った時点でコミュニケーションやめちゃうんだよな