はてなキーワード: 正論とは
妹が必死の努力の末、県内でいちばん偏差値の高い高校に進学がしたが、周りが裕福な人たちばかりで価値観が合わないのが嫌だと言う。
例えば?と聞いてみたら、その一つにアルバイトをしている子を馬鹿にする、というのがあった。なんでアルバイトなんてしてんの?勉強する時間減るじゃん、バカじゃないの?といった具合である。ちなみにその子の親の職業は医者である。まぁ確かにアルバイトの時間をその子は勉強にあてることができるので、正論ではある。
進学校(笑)を卒業した自分はもちろん高校時代アルバイトをしていたが、周りでそういった風潮はおそらくなかったし、アルバイトをしている子の方が多かった気さえする。
その子はおそらく単純に恵まれているんだと思う。アルバイトをしてお金を稼がなくても、勉強ができて、そして塾に通うことができる。貰ったお小遣いで放課後に寄り道ができて、家に帰れば温かいご飯が食べられる。でも世の中にはそれが当たり前ではない子だっているわけで。
高校生がアルバイトしなくてはいけない理由は三者三様だけど、働く必要のない恵まれて育った子がそれをバカにするのはなんだかなぁと妹の話を聞いて辛くなった。
そこで、赤子は一人の優しい老人と出会う。
赤子は、世話をしてくれた礼として、老人にiPadを買い与えた。iPadによって初めて世界とつながることのできた老人は、煌めく情報の世界に魅了されていった。
しかし、医療系のバイラルメディアによって、老人の病が悪化してしまう。
悲しみに泣く赤子の頭には、二本の角が生え始めていた。
泣き腫らした赤子は、日の出ずる彼方に向かって歩き出した。むかうは首都、トーキョーシティ。
道中、角の生えた赤鬼に対し、人々は石を投げつけた。
心に余裕のある人間は、正しい判断ができるだろう。心の弱っている人間に、救いを求める人間に、私は何ができるだろう。
傷ついた心と身体を癒すため、赤鬼は鉄格子を背中にして、地べたに腰を下ろした。
ふと振り返った先にあったのは、左右対称の巨大建造物、国会議事堂だった。
そしてその時だ、伸びきった赤鬼の角に、一粒の雫が滴り落ち、ひとつの決意を赤鬼にもたらす。
ネット上の表現活動について、その特殊性に鑑み、公共の福祉のために、今以上の規制が必要であると考えるに至った。
政治活動を開始する。
ネット上の信頼性に欠ける情報、煽情的なタイトル、著作権法に反する記事、ポルノ画像等、国民生活の秩序を侵害するおそれのある表現に対し、規制を求めていこうではないか。
もちろん、偏見や実証性のない事実をもとに規制がなされてはいけない。
しかし、我が国における教育による遵法精神、倫理・道徳観の涵養は、その実効性に欠けると言わざるを得ない。
騙される人間を、リテラシーのない馬鹿と切って捨てることができようか。
正論をぶつけて悦に浸っても、社会の安定は導かれないのである。
さて、どこからはじめるか。
こーゆー増田って、書くの難しいわ。
アルファベットで示すとM,T,S,Hなんだけど、昭和が終わるとき、Sで始まる年号は避けて平成に決まったというのは有名な話しである。
さて、そうすると当然、MTSHの4文字は次回も避けてもらいたい。
まあ、明治は既に100年以上前で今更略して使うような場面も少ないからいいかもしれんけど。
それで、一つ考えて欲しいんだけど、昭和の終わりと平成の終わりじゃもういろんなものが違うでしょ。
仕事で毎年度の財産とか売上げの一覧を作って保存してるとするじゃん。
ずらっと並ぶけど、一番古くて平成の10年くらいからなんだよ。
一番大事な事は昭和と平成のデータを順に並べるとき、もしSとHで区別してたら平成の方が先に来ちゃうってことだ。
もちろん、西暦で区別すればいいというのは正論だけど、今更そんな事はできないんだ。膨大で途方もない数のファイルを書き換える体力はないし、各人に徹底させるのも難しい。
だから、もう本当にこれは希望になるんだけど、次の年号は『I』から始まって欲しい。
そうすれば『I01 売上一覧』なんかのファイルがそのままの順列を保つ。
作り方も変える必要がない。
『I』が1と紛らわしいなら飛ばして『J』でもいい。
とにかくHの後ろのアルファベットの内、できるだけ前の方で選んで欲しい。
「いじめ」が「いじめなんてないよ。考え過ぎじゃない?」と証言するクラスメートの存在によって防衛されているのと同じように、特定の業界や組織内に生じる「圧力」も「圧力なんて無いよ。考えすぎだろw」と笑う人間たちが作る壁のおかげで機能しているわけですね。
なんというか、言葉の俗な使い方って難しいなと。
「死ね」なんて言葉、そのまま文字通りに受け取ると「私はあなたが死ぬことを望みます」って意味だし、憎しみのこもった強い言葉に見えてしまう。
でも「保育園落ちた日本死ね」の「死ね」はそういう用法の「死ね」じゃなくて、もっとカジュアルなものなんだよね。
例えば「毎日混みすぎだろ埼京線死ね」という投稿があったとして、ここに埼京線への憎しみや埼京線が廃線になってほしいという願望を読み取ったら間違いで、当然この投稿から読み取るべきは埼京線が混雑しているせいで私は極めて不快な思いをしていますというメッセージ。
つまり、不快感や怒りの感情を表明する際にカジュアルに使われる表現に「死ね」がある。もちろん品のいい言葉遣いではないけど、言葉遣いが悪いのが当たり前の匿名インターネットの世界では頻繁に使われる。
これを古市氏は比喩表現と言っていたけれど、比喩表現という言い方はちょっとわかりにくくて、用法が違うと言ったほうが伝わりやすかったかなーと思う。
憎しみの表明としての強い「死ね」と、不快感の表明としてのカジュアルな「死ね」という2つの異なる用法の「死ね」があって、「保育園落ちた日本死ね」は後者。ここを混同すると議論がアサッテの方向にいっちゃう。
別に対象が非生物だと比喩表現になるとかそういう話でもなく、カジュアルな用法の「死ね」の場合は対象が人間でも本当に死んでほしいというわけではない。
・「死ね」がいいなら「殺す」もいいのか。
→そこに殺意や憎悪が認められなければ当然問題はない。例えば仲の良い者同士のじゃれ合うようなコミュニケーションで「殺す」が使われる場合があるがそれは脅迫ではない。しかしカジュアルな怒りの表現として「死ね」が使われることは一般的だが、「殺す」は「死ね」よりも主体性が高く“ガチっぽい”表現になってしまうためそのような用法で使われることは一般的でなく、にも関わらずわざわざ「殺す」が選ばれる場合は背後に憎悪がある場合が多いのではないかと思う。
・日本に「死ね」と言わなければならないほど投稿者は追い詰められていたのだ。
→実際に投稿者は保育園に落ちたために仕事を辞めなければならない瀬戸際に立たされており追い詰められた状況にあったが、別に追い詰められてなくても「死ね」くらいカジュアルに使う。匿名インターネットは追い詰められなければ汚い言葉を使わないほど品のいい場所ではない。
→そもそもあれは社会に向けて問題提起しようという意図で書かれたものではなく、ただ愚痴を感情に任せて叩きつけたものに過ぎない。感情的に書かれたからこそ独特の小気味のいい文章になったし多くの共感を呼んだ。誰かに読ませるために書かれたものでないから言葉遣いが悪いというだけで、戦略的に強い言葉を選んだわけではないだろう。(参考:http://www.huffingtonpost.jp/2016/03/14/hoikuenochita-blog-_n_9457648.html)
・そんな子供に見せられないような汚い言葉を選ぶべきではない。
→クレヨンしんちゃんは下品で有害だから子供に見せたくないみたいな意見はネットで馬鹿にされるのに今回はこういう意見が正論みたく振りかざされるのは不思議だよねー。
ネットの海を泳いでいると、しばしば乞食行為に出くわすことがある。「誕生日が近いのでほしいものリスト公開します!!」みたいな。
ブログをやってる人、いわゆるブロガーなんて人種がそういった類のことをやっている印象だが、傍から見てて「気持ち悪いなぁ」と思ってしまう。乞食している側も贈っている側も馴れ合っている感じがして非常に気持ち悪い。
そういった行為を見かけると「そんな物乞いみたいな真似してないでブログの収益を使って自分で買えばいいじゃん」と思うし、「この人たちは現実のみならずネット上でも馴れ合って一体何がしたいのだろうか」とも思う。
私個人の感覚としては、プレゼントという行為は自分でクレクレ言いに行くものではなく、贈る側が何らかのアクションを起こすことによって始まるものだと思っているのだが、世間一般の感覚はどうなのだろう。友人でも家族でもない人に物をねだるだなんて行為、私には到底できる気がしない。
似たような例として、海外のフリーソフトやオープンソースソフト界隈ではPayPalによる寄付文化があるが、ああいったものに対して特に嫌悪感はない。恐らく、自分自身が「そういった寄付がモチベーションに繋がる」ということを身に染みてわかっているからだろうし、そもそもそこに馴れ合いは存在せず、利用者→開発者という一方通行の感謝の念だけが存在している(と私は思っている)からだろう。
同様に、プロフィール欄などに欲しいものリストのURLが貼ってあるような例も見かけるが、あれらも特に嫌悪感はない。PayPalの件と同様に自らクレクレ言っているわけではなく、その人に対する何らかの報酬・対価を贈るための手段として、PayPalなり欲しいものリストへのリンクが置いてあるだけだからだろう。
要は私の中に「友人でも家族でもない人に物をねだる」「ネット上で馴れ合う」といった価値観が存在しないために、ここまでの嫌悪感に繋がっているわけだ。狭量な人間だね。
まぁそれはともかく、こんなことを言っていると、ほしいものリスト乞食をやってる人からは「嫉妬してるだけでしょ」「全員がブログで収益出てるとでも思ってるの?」「嫌なら見なければいいじゃん」といった声が飛んできそうである。
嫉妬云々は感情の話なので否定したところで証明のしようがないが、収益云々に関しては「初期費用がゼロで済む以上、金額を問わなければブログで利益を出すのは全く難しくない」と思っているので、そんなことを言ってくる人とは根本的にブログに対するイメージが違うのだろう。
「嫌なら見るな」という意見はごもっともなド正論なので、そういった乞食行為をやっているのを見かけたらTwitterなりFeedlyの購読を解除するようにしている。
悲しいなぁ。
弊社は一部上場企業で部署にもよるが残業も少なく、サービス残業なんて以ての外という比較的ホワイトな職場。
だが割りとガチガチなところもあり、その一つが会社PCの私的利用禁止。
たとえ業務時間外だろうと会社PCでエロサイトなんて言語道断、プライベートなメアドにアクセスしたりするのは当然のこと、業務に関係すること以外利用するのは禁止という徹底ぶり。
正しいのだろうが、窮屈に感じているのも確か…
昼休みに会社のPCで業界系のニュースを見るついでにはてなブックマークのトップページから気になる記事に飛んで、はてブコメントとか見てたんですよ。
ただ、そこにはNHKや朝日とかだけでなくtogetterとかヨッピーの記事とかも入っちゃってたんですよ。
で、ログ解析している情報システム部門から「増田さんは業務外の利用が見られます」と部長までクレームが行って、結果、部長に呼び出されて説教されたわけ。
確かに正論だし、お叱りは粛々と受け止めざるを得ないんだけど…
いきなり部長にまで苦情が行くのはどうかなー、と思わなくもないというか。
でも、わざわざ逆恨みしやすい方法を取る情報システム部門もどうかと思わないでもないか。
うちのオフィスは周りに何もないので昼休みに外出するなんてできないし、オフィスで昼寝するかスマホ弄るしかないんだよね。
ただ、スマホの画面を他人に見られるのはあんまり好きじゃないから会社のPCでニュース巡回してたんだけど、今後はスマホ弄るしかないかな…
アラフォー世代と話してると「昔は仕事中にブラウザゲーしてたw」「エロサイト巡回とかしてたw」とか聞くことがあるんだよね。
そういう会社の風土があるのか、それともそういう時代だったのか。
煙草も吸わない私は業務時間中に大っぴらにサボることもできないし、同僚との雑談もあまりない仕事場なので粛々と仕事をこなして定時を終えるしかないんだよな。
生きるために仕事をしてるのではなく、仕事のために生きている。
例えば、仕事で人に迷惑かけないよう、いつでも残業できるように予定は入れない。
友人は学生の時の仲良しのみで、卒業後に新しくできた友達はいない。
■いつもイライラしてる。
思うように仕事が進まないこと。
見当違いな反論をされて何から説明したら良いのか途方にくれること。
仕事で心が疲弊して、何もする気が起きず、部屋が散らかり放題なこと。
そんな自分の全てが嫌になること。
子持ちは早く帰り、小無しにしわ寄せがくること。
■いつも焦燥感がある。
Facebookでの様々な報告…
趣味での成功、ブレないライフスタイル、信念を持って撮り続ける行動。
彼氏ができない。結婚できない。駐在できない。帯同できない。出産できない。
■いつもビクビクしてる。
少しでも目立てば叩かれる。
この3つの気持ちが、心の中でグルグル渦巻いて、それぞれの気持ちが足を引っ張りあって、より強い負の感情となっていく。
■鬱ではない。
こんな状態でずっと生きてる。
成績も1番ではなかったけれど上位だったし、一般的に良いと見なされる企業で働き、それなりの評価も得て、仕事をさせてもらってる。
■私は早く挫折したい。
鬱発症でもいい、出勤できないほどの痛みでもいい、クビでも降格でも、流産でも、離婚でも、何でもいい。
もう今のような働き方が出来ないくらい心が折れてほしい。
■そして、もうこんなに頑張らなくて良いんだと、気持ちを楽にしたい。
相手の非を責める気持ちを持たずに、自分の仕事も完璧でなくて良い、身体に良いものを食べて、よく寝て、よく笑って、家族の寝顔を眺めながら眠りにつき、今日も良い1日だったと思えるようになりたい。
「先生に怒られないことが目的になっている部活」を書いた元増田です。ちなみに私は母親です。やっぱり怒鳴っている男の人は怖いです。
部活否定論者ではないです。息子が言うには部活の仲間も楽しいし、正顧問のいる時の部活は厳しいなりに筋が通っていて経験者だけに納得のいく指導のようです。息子は副顧問のような理不尽な大人に対して、うまく立ち回れないまでも冷静に柔軟に対応できているようだし、私もいつでもフォローできる体制を整えつつ、なるべく感情的にならないように冷静に見守っていました。中には不器用な子もいるので、そのふてくされた態度がますます副顧問の癇に障っているんだよなぁ、とりあえず大きな声でハイ!ハイ!言っていればこういうタイプは気がすむのになぁと歯がゆく思って見ていました。こういう場合は正論で指摘しても振り上げた拳のやり場に困ってますます逆上するので注意が必要です。
別に怒られることに関しても否定はしません。放っておけばつけあがる中学生男子ですから、睨みを利かすのも教育のテクニックの一つとしてあるでしょう。ただ理不尽な怒鳴り声の中に、詳しく内容は書けませんが、男の嫉妬、ひがみのような発言があったので、ドン引きしたのです。このことを教育熱心なママ友たちに言えば、きっと、共感の嵐が吹き荒れ、無責任に先生をやめさせようとか、教育委員会に言っちゃえとかヤンヤヤンヤ大騒ぎになると思います。でもそれが正しい選択だとも思えません。
自分の気持ちを整理するために日記を書いたのですが、実はこの裏にある本質というか、私がこの件で心を痛めているのは、真面目でやる気のある部員たちが割りを食うことです。
その副顧問に反旗を翻した他学年の部員が部活に来なくなってしまいました。その問題が解決するまでの間、副顧問は部活に真面目に来ている子たちにいつもより数段厳しい罰ゲームのようなトレーニングを与えたようです。連帯責任ってなんなの?なんで休まず来ている子が本来の練習時間を削られ、説教されて、罰を受けなくちゃいけないの?
体育会系だからそうなのか、よくわかりませんが、大事なことだから二度言います。
なぜ、休まずに来ている子が本来の練習時間を削られ、説教されて、罰ゲームを受けなくちゃいけないの?
これだけは納得がいかないです。連帯責任こそスポーツ界の悪習ですね。
この件では正顧問(こちらの方が話しやすい)に一言伝えようと思っています。正顧問もバリバリの体育会系なので、副顧問の横暴も良しとしているのか、安からず思っているのかも知りたいです。このままでは部員が減って、結局はみんなで試合をやりたい子たちが割りを食うのです。ほんと悲しい。なんとか食い止めないといけませんね。逃げればいい、やめればいいと簡単にいうけれど、息子は部活はやめたくないのです。途中でやめる子がいると、残っている方はものすごく寂しい思いをします。今までも色々とありました。息子は仲間が一人一人減っていくたびに悲しい思いをしてきました。でもその競技が好きだし、厳しい練習でも残ったメンバーで切磋琢磨してきたからこそのかけがえのない友情も築いています。
理不尽な大人のおかげで息子は心身ともに成長しているんだと思えば溜飲が下がりますが、聞き捨てならぬ言葉を聞いた以上は看過できませんので勇気を出して頑張ってみようと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20161119215613
最終的にキリスト教様様に持っていきたい方のご意見と思い反論をさせていただきます。
◇黒澤明『生きる』を観る。
⇒結論:子供に生きる意味を見出してる人が多いけど間違い。とにかく楽しく生きることに意味を見出すのも違う。生きる意味は、何かを作り出すことにある。
⇒疑問:何も作り出せない人はどうすんの?
作り出すものは商売になる創作物だけではありません。実際、生前は優れた創作を作りながらも全く評価されなかった芸術家も数多くいます。自分が作ったものが評価されるかどうかは後世の人の価値観によるものです。
◇宮崎駿『もののけ姫』庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』を観る。
⇒結論:生きるのはめちゃくちゃ辛いけど、とにかく生きなきゃダメ。
⇒疑問:いや、理由は?
まあ、今時の若者に対しての「死ぬんじゃねーよ。俺たちの老後が困るだろー」っていうプロパガンダ的に優秀な作品ですよね。
◇イニャリトゥ『バードマン』を観る。
⇒結論:生きる意味は成功や名声にあるのではない。やりたいことをやることにある。
⇒疑問:やりたいことをやれない人はどうすんの?
やればよくない?
やれないなら、やれるところから自分のやりたいことを探すこともできるはず。
◇カフカ『城』『変身』を読む。
⇒結論:個人の生きる意味は社会に占める地位(職業、父)を通してしか存在しないよ。
⇒疑問:そんなん辛すぎて死ぬわ。
悲観論に引きずらるのは、悲観論を正論としたい気持ちがあるからでしょ。カフカ存命中とは全然社会状況違うし。
⇒結論:群体としての人類ならともかく、個体としての人間には生きる意味なんかないよ。
⇒疑問:・・・。
ああ、いかに感嘆しても感嘆しきれぬものは、天上の星の輝きと、わが心の内なる道徳律
~~この辺で上記の映画・本が前提していた無神論(=キリスト教でないこと)に疑問を持ち始める~~
⇒結論:個人個人の高潔さが人類全体の罪を贖うんだよ。そこに生きる意味があるんだよ。
⇒おお・・・
⇒結論:金儲けや教育や物書きの才能がある人はそれで後世に遺産を残せる(そこに生きる意味がある)けど、そうでない人も、高潔な生涯を送ればそれ自体が後世への遺産になるんだよ。
⇒(泣)
◇『聖書』を読む。
例えば自分が自殺しようとする時に、「どうせなら他に死にたいと思ってる人を救うっぽいことして死んだらカッコよくない」くらいの感じじゃないすかね。
http://anond.hatelabo.jp/20161114225122
「一番いい批評コメントを下せたやつが勝ち」っていうゲームとその観戦だから。
いいコメントを書いたり、いいコメントが炎上元の主張を叩きのめすのを観たりして気持ちよくなりたいだけ。
正義感も悪意もそんなに無いどころか、1対多の構図がもたらす暴力性にも無自覚。というか暇人にはそんな優れた想像力は無いし、ゲームに参加してる自覚すら無い。
そのゲームの評価軸に、正論であるとか読んでスカッとするとか、そういうのが含まれているから、そうなってるだけ。
やたらと攻撃的なのも、出来る限り鋭いコメントを書きたいから。
私もはてなブックマーク好きなので、
たまに、はてなとは別世界そのSNSの人からなんか突っ込まれたりするんだけど、
私は、新着とかで出てくるサイトとかを、
そんで?ってなっちゃうのよね。
なんかさー、ネガティブな方が多いのよね。
あとで読むつもりになってブクマして結局読まなかったりするけど、
ひょっとしたら
でも要は、
まあ、私はそんな使い方かしらね。
そんな感じね。
うふふ。
あ、そうそう、
ハイパーメディアって私プラネタリウムのことだと思ってたけど、
違うんだってね。
何個刺さるかな!
今日はやることたくさんね!
おにぎりを4つ握って、
野菜350g食べなくても
朝コーヒー入れたけど、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ネットの世界では,みんな誰かを攻撃したくてたまらないみたいだ。
悪意のない失言ひとつで,自覚のない差別的言動ひとつで,顔も名前も知らない大勢の人たちから一方的に非難され人格を否定されるようになってきていないか
失言をした人に対して正論をぶつけて批判することはことは決して正しいことじゃないと思う。
いくらその人の発言が不用意でまずいものだったとして,見知らぬ人たちからいきなり攻撃的に批判されて,それで過ちを認めて反省できる人が居るのか。
俺たちは他人の落ち度につけこんでただ攻撃したいだけなんじゃないのか
それで社会がよくなると本当に思っているのか。
どんなに(自分にとって)正しい理由があっても人を攻撃していいわけない。
正しい=正解じゃないはずだ。
正義感で他人を攻撃しないでくれ。正論で他人を殴らないでくれ。
みんな頼むよ。
http://anond.hatelabo.jp/20161112122742
「10時間ぐらいずっと画面を見ている」
「こまめに年下に聞く」
「金がいらなければいいと思っている」
「将来に対する危険」