はてなキーワード: 復讐心とは
今回は少年ジャンプ+
やる気のないコマ割は、まあ今に始まったことではないから置いといて。
今回の見所はやはり後半の展開。
まあ正直、今回の第一印象は「ウダウダやっといて最終的に“これ”って、どうなんだろう」って感じだけど。
アグニは頭では理解しているつもりだったが、復讐心は燻っているってことなんだろう。
43話の感想で、「何かしら演じている人物は間違いをしているってことを示している」みたいなことを私は考察したけれども、アグニが演者として脱却した結果の行動が今回のだとするならば、一概にそうでもなさそうだなあ。
アグニの心の中にいる妹が言うには、ドマは演技をしているってことらしいので、その演者を断罪するという意味と解釈することもできなくはないけれども。
とはいっても、妹との対話シーンは実質アグニの自問自答みたいなものなので、これはアグニ自身がそう思っているってことだから、そこまで信頼性に足るものではないが。
やっぱり本作のテーマは「演技」が主体で、善悪は抜きにしても「演じ続ける」か「そこから脱却するか」といったことを中心に語っていくんだろうかね~。
本編でやるとセキュリティがザルすぎるってなるので、スピンオフのギャグマンガならではのシチュだよね。
黒霧のコスプレは相変わらず笑わせに来ているが、もうこの漫画での扱いの方向性が定まった感があるなあ。
死柄木がオールマイトやデクの言葉にイライラしたり、逆に爆豪の言動に満面の笑みをしたりするのとかは、死柄木の特徴を上手くデフォルメしているなあと思った。
ありゃ、終わったか。
まあ、何がダメかっていうと行き当たりばったりな展開、演出だと思う。
そして、それがほぼワンパターンなんだから読者は飽きるに決まっている。
「ここで、このキャラを無残に殺す」だとか「登場人物が突飛な言動をする」などといった展開はここぞという時にだけやるから意外性があるのであって、それを毎回やればウンザリするだけだよね。
主人公の役割がしっかり物語への理解を助けて、漫画の面白さにも起因しているところは評価したいところ。
やり取りもところどころラブコメの典型を踏襲しつつも、あくまでそれを茶化している漫画だということを思い知らせる主人公の独白や、素っ頓狂なネタが合間に挟まれるのも本作の個性が出ていると思う。
友人とヒロイン二人の仲を取り持つコメディ寄りのラブコメというだけでもプロットとしては魅力的なのに、そこに更にエッセンスを加えて、話がどう展開するか分からなくなってきたなあ。
気持ちとしてはこの「どう展開するか分からない」というのはワクワク感の方が強いけど、話の運び方次第ではテーマが定まらないことにもなるし、現状そこらへんは個人的に警戒気味。
いや元増田の考えと認識はどうか知らないけど。私はそう思った。
こういう、発達障害とか鬱病とかアスペとかコミュ障とか言われる、精神的な問題って、共感されないし同情されないよね。
同じ様に(それこそ自殺を考える程に)苦しんでいるにも関わらず、被災者は共感され同情され、何より支援される。
かたや精神的問題は自己責任だと叩かれ、絡み辛いと遠巻きにされ、カウンセリングは(場合によるが)保険も効かない。
ここに不公平感がある。
つまり、元増田の怒りの対象は被災者ではなく、共感出来る不幸には物質的・精神的に救いを差し伸べるが、そうでない不幸には寧ろ石を投げる、世間・社会なんじゃないのか。
コミュ障や精神疾患は、周囲から叩かれ疎まれ、それにより更にコミュ障になり、更に叩かれる無限地獄。
かく言う私自身も、周りに居るそういう人を個人的に助ける事は出来ない。
同情はするし出来る範囲の事はしたいと思ってるが、家族や旧友でもなければ彼等を好きになれないし、積極的に関わるのには莫大なエネルギーが必要だからだ。
人に助けて貰う為には先ず好かれるか同情されなければならないが、そこで躓く。
ひと昔前は発達障害や鬱病という言葉も認識されて居なかったので、今よりも更に「怠け者」「性格が悪い」という認識をされ易かった。
そういう意味では今はマシにはなってるが、不十分だと思う。
秋葉原無差別殺人事件の加藤なんかは、そういう負のループから生まれた面も有ると思ってる。
彼が「社会」「世間」に攻撃したのはある意味当然の帰結ではないか。
その社会に彼が共感を持つ事は無いし、復讐心を抑えるブレーキは機能しない。
元増田はとりあえずカウンセリングとか精神科に行って、専門家に知見を求めるのが良いと思うが、社会っつーか我々の理解がもう少し進めば、こうした「救われない不幸」は減って行くんじゃないかと思う。
元増田ははてなによくいる父親やその親族とはほぼ絶縁してた、って立場なんじゃないの
「叔父は仲が悪いから呼ばない」「父親の友人は私や母親からしたら赤の他人」と言う言葉に色々現れてる
つまり父方親族とは自分も母親も仲が悪いし、父母共通の友人とか家族ぐるみの付き合いの友人、ってのもいないわけだ
それを踏まえて、死んでからこう扱ってやったぞざまあみろ!という父親への復讐心さえ感じるというのは穿ち過ぎでもないはず
一か月後の旅行の話をわざわざ書く辺りもね
「親が死んでも全然悲しくなんかなくて旅行の方が遥かに大切な私」という露悪的なアピールしてる
そういう関係ならありだろう
構成がやや難儀だな。
主要人物の語られるバックボーンや、ロマンスもろもろが中途半端、或いは余計に感じるというか。
なぜこーなったかってことは理解できるのに、それに感情移入できない。
「どーいうテーマ、物語か」っていう観点で評価しにくいし、仮に評価できるとしてもそのテーマによって紡がれるものが希薄なのだ。
良くも悪くも、非常に圧迫感を覚えた。
隠し事をしている男と、復讐心に駆られて危うさを漂わせる少女との奇妙な交流は、どういう展開になるか最後まで読めない緊張感があり、実際ラストまでそれは変わらない。
けど絵が拙いのは一目瞭然で、ドアップな構図やフキダシ、文字もでかくて圧迫感を覚えた。
ある意味プロットと噛み合っているとも言えるが、それでもクドさを覚える。
ワンアイデアの設定と、それに合わせた主役のキャラクターによって可笑しさはあるものの、ほぼ静的なプロットは盛り上がりに欠けるのは否めない。
結局のところテーマの主体が先生の性的嗜好で、それで何か大きなドラマが紡がれているわけでもないからね。
絵は似たり寄ったりな構図が気になるが、粘液の質感はこの作品のテーマと関係していることもあって気合入れてるね。
とある女の子の問題と、とある教師の問題が平行しつつ、二人の交流によって展開していく構成かな。
気になるのは、女の子側の問題が教師の励ましによって大きく解決に向かうのに対し、教師側の問題は女の子が大したカンフル剤になっていないところだ。
あと、所々「ん? どういうこと?」というセリフと場面がいくつかあって、描き方の問題もあるのかもしれないが、自分がコンテクストを理解できていないことに不安になった。
プロットは理解できているのに、恐らく私はこの作品を肝心なところで掴みきれていない。
奇抜なワンアイデアを基盤に物語を展開させるってのは、モアイで読める受賞作品では定番なんだよね。
ただ、それをちゃんと活かしてテーマもしっかりしつつ、物語をドラマティックに紡いでいるのって案外少ないから、その枠組みではかなりレベル高いんじゃなかろうか。
物言わぬ人間となった妻と、それに相対する主人公の心労が丁寧に書かれている。
ラスト近くで描写される首がない赤ん坊や看護師は、主人公の順応を表現しているのか(赤ん坊も泣き声が描かれているし、看護師も普通に喋っているので、実際には首があるはず)。
38ページ目に丸い線があって、これが主人公に重なっていくつか描かれている。
もちろんそれを考える余裕を自分の家庭が与えてくれてて、向こうの家庭はそうじゃなかった、そこに不公平があるのいうのはわかるよ。でも低学歴になる人間ってって本当に9割以上はろくに努力もしないごみくずみたいなやつしかいないって思ってる。公立中の時、この人たち好き勝手振舞って他人に迷惑をかけてたよね。わたしは彼らにいじめられたり、好きでもない人に身体触られたりしてすごく嫌だった。本人に自覚がなかったとか環境が苦しかったとか言われても、わたしは低学歴心の底から嫌い。許せない。彼らが幸せになるのは許せない。個人として良い人がいるのは知ってる。個別で付き合ってる人はいい人だっている。でもわたしの友達にも低学歴がいるからわたしは差別心がないみたいな詭弁をいうつもりない。わたしは低学歴の人間にたいしては自分の個人的体験だけを理由に差別心のような復讐心のようなものがある。彼らが不幸だったり苦しがってたら心の底から飯ウマーとなる。自分でもこんな人間として汚い感情持ちたくないけど、でもこういうのってどうしたらいいの。彼らに対して面と向かって文句を言えぬままここまできた。言ったらふくろだたきにされるのわかってるから言えなかった。だからいつまでもこういう負の気持ちを忘れられない。自分だって嫌だけど、どうすればいいの。日本しねとかなんだとか、弱者ばかり好き勝手ものをいうことが許されて、私たちはちょっとでも汚い気持ちを表に出したらすぐ文句言う。インターネットは弱者と貧乏人と低学歴な人ばっかり好き勝手しててすごく歪んでる。バカじゃないの。バカじゃないの。最近はてなではいかにも低学歴な人たちがうぇーいなノリで目立ってる。吐き気がする。低学歴の人間は自分とその身内だけよければ周りの目を気にしないで迷惑な行為をする。やめろって言ってもこちらをバカに仕返してきたりする。なんのことはなくてこの人たちは大人になったってこいつら何にも変わってないじゃない。大人になるまでろくに他人のためになることせずに敗者復活戦だなんだなとふざけたことばかり言ってる。この人たちがなんで自由に振舞ってるの。あなたたちはもっと自分の行いの報いを受けてよ。地べた這いつくばって虐げられるのがお似合いでしょ。だってろくなこと何一つしてないんだから。今だってろくなこと何一つ書きやしないんだから。消えてよ。わたしの目に入らないところに行ってよ。
高学歴でも嫌な人いっぱい見てきたから本当は低学歴なんて関係ないのはわかってるけど、でも低学歴は無料ガチャみたいなもので粗悪品の割合高すぎるのよ
綺麗な文章でまとめればいいってもんじゃねーぞ。僕は村上春樹が嫌いだしリアリストだからな、文章力で包摂して事実に色づけるのは悪徳だと思っている。偽善と言ってもいい。
スナックで働いて全員が彼氏いないと嘘をついていたっていうブログを読んだがそのブックマークコメントのほとんどが良い文章というコメントで埋め尽くされていた。たしかに読みやすく良い文章だった。しかしそれとこれとは別だ。愛を嘘で売る商売を僕は支持しない。商売だから嘘もつくさ、スナックは楽園だから現実じゃない、なんて感覚も理解している。僕も付き合いで行くことがあるしな。だからあの甘ったるい空気も知ってる。
それでも客から見れば嘘つかれてお金払ってそのお金で彼氏とよろしくやってるなんて普通は裏切られた気分になるし心まで持っていかれた人間は嫉妬もするだろうしひどい時には復讐心に燃えてストーカーになる人間もいるだろう。それがホストとかキャバクラで現実におきていることだ。元ブログのスナックのようにそんな一線を画して遊んでいる人間はだいたい出張中のおっさんか恋愛をあがったおっさんであって店を支えているのはだいたい「どうにかできるんじゃないか」と考えている愚かな客なんだ。それが愛を売る稼業の汚い現実だ。僕はそれで破産した友人を知っている、キャバクラに入れ込んで嘘をつかれ続けて大金を失った。大金を貢がせた嬢は彼氏とよろしくやってるだろうし結婚して郊外で幸せに暮らしているかもしれない。嘘をついた罪すら忘れながら。
自分の世界を嘘で色づけして幸せに生きるのは良いが客にも客の世界があって男は好きな女性のためならいかなる辛苦も厭わない状態になるしお金を湯水のごとく使う馬鹿もいる。そして馬鹿であることは男が生きていくためのよすがなんだ。その愚かさを利用しあまつさえ搾取しようなんてのは悪徳であると思っている。
だからどれだけ文章力で飾ろうが嘘を正当化しようがそんなものは美学でもなんでもなくただの言い訳にしか見えないのだ。僕はリアリストだからな
『レヴェナント』はめちゃくちゃ難解なんですが、ポイントを押さえれば、イニャリトゥ監督の過去の作品と大してテーマは変わんねぇことが分かります。
イニャリトゥ監督はデビュー作『アモーレス・ペロス』から前作『バードマン』までひたすら「親子」をテーマに映画を撮り続けてきた監督です。なので『レヴェナント』でもテーマは「親子」です(インタビューでもそう言っています)。もうちょい言うと、『レヴェナント』では「親の子に対する愛がいかに深いか」ということを描いてます。
主人公グラス(ディカプリオ)の台詞をちょっと考えてみれば分かります。
“All I had was my boy... but he took him from me.“
「私にとって息子は全てだった。しかしフィッツジェラルドは私から息子を奪った。」
“I ain't afraid to die anymore. I've done it already.”
「私はもう死ぬことを怖れていない。私は既に死んでいる。」
これはグラスが救出された後にヘンリーに語った言葉ですが、この2つの台詞から分かることは、①グラスにとって息子ホークは生きる意味そのものであったこと、②グラスは物語のどっかで既に死んでいて、それにもかかわらず基地までたどり着いたということです。
死んでます。具体的にはフィッツジェラルドにより埋葬された後、息子ホークの死亡を確認した時点で力尽きています。通常、熊に襲われて、内蔵が見えてしまっていて、脚は複雑骨折、その上発熱していて、ろくな治療を受けられないまま生き埋めにされたら(さらに生きがいであった息子が殺されたら)、それは死ぬだろ、と思いませんか。
あれは肉体が死亡していながら精神の力(息子を愛する力)だけで動くゾンビみたいなもんです。ジョジョを読んでる人は、ボスにぶっ殺された後のブチャラティみたいなもんだと思ってください。
小難しい話になりますが、イニャリトゥ監督は前作『バードマン』で死と再生の話を描いていて、映画では好んで用いられるモチーフです(『鏡』、『8 1/2』など)。主人公が死んで復活するというのは映画では珍しい話ではありません。
加えて、本作のタイトルが"Revenant"(つまり「死から蘇った者」〔someone who has returned from the dead〕)であることもこの説を補強します。
解釈の問題になりますが、海外サイトの中には、グラスは死にそうになるたびに、野生動物に生まれ変わった(死と再生)のだとする説がありました。
最初は熊です。これはグラスが熊の毛皮を着て、熊の爪のネックレスを身につけ、川で魚を手づかみにし(木彫りの熊ですね)、それを生のままかじり付いていた点に表れています。
次は狼です。これはインディアンにバッファローの肉を求める際、四つん這いに這いつくばって、人にへつらっていたことと、投げられた肉を生のまま貪りついていたことから分かります。
その次は馬です。これは文字通り馬の腹から這い出てきたことから分かります。
最後になんかの肉食獣です。これは最後の戦いでわざわざ銃を捨てて、斧(牙)とナイフ(爪)で戦っていることから分かります。
グラスはこれらの野生動物に生まれ変わる過程で回復していったと見ることができます。
愛です。
ここも解釈ですが、息子を失って生きる意味を失った以上、野生動物と同然の存在に成り下がったと見られるのではないでしょうか。
グラスが一匹狼のインディアンから教わった言葉です。「神の手」というのが直接的には川下に居たインディアン(リーさん)だったため、海外サイトではリーさんは神の復讐の代行者であると言う人が多かったです。「インディアンがあんなに近くに居るのに川に流したら殺されるに決まってるだろ」と言う人も居ますが、個人的には死と再生を繰り返したグラスさんの聖人パワーでリーさんを引き寄せたと思っています。つまり愛の力です。
あの表情には元ネタがあります。タルコフスキーの『僕の村は戦場だった』のイワン君(12歳)の表情です(https://vimeo.com/153979733のラスト)。どういうときの表情かというと、まずイワン君はソ連の少年兵なのですが、ナチスに母と妹を殺されています。そんで夜中に1人でナチス軍に対する戦いをシミュレーションしている最中にあの表情をします。つまり、純粋さと愛にあふれた少年の心が、ナチスに対する復讐心で壊れかかっているときの表情です。これをグラスに類推するなら、あの表情は、復讐を終えたことで(生きる意味を再び失ったことで)グラスの精神が壊れかかっている(もしくは壊れてしまった)ことを意味しているのではないでしょうか。
あの吐息音をめぐって、海外掲示板では「グラスは死んだのか否か」について熱い議論が交わされています。これは監督の前作『バードマン』でもあった論争で、そこでの論争が、主人公は生きているという決着で終わったため、今回もグラスは生きているだろうという説が有力です。ただ、私の考えとしては、グラスは精神力(愛の力)だけで動くゾンビ状態なので、その精神が崩壊した以上、グラスは真の意味で死亡したと思っています。ジョジョを読んでる人はシルバー・チャリオッツ・レクイエム出現後のブチャラティを(略
愛する息子を殺され、肉体的に死亡した主人公が、愛の力で死と再生を繰り返し、敵に神罰を与えて、やっと死ぬ話です。つまりテーマは親の子に対する深い愛です。
ちょっと違いますが、そういう側面があった可能性が高いです。というのは、イニャリトゥ監督が今回の撮影で目標とした映画というのが、①黒澤明『デルス・ウザーラ』、②コッポラ『地獄の黙示録』、③タルコフスキー『アンドレイ・ルブリョフ』、④ヘルツォーク『フィッツカラルド』、⑤ヘルツォーク『アギーレ/神の怒り』だからです。映画ファンであればすぐ分かるのですが、これらは映画史上最も撮影が困難だった映画群です。例えば④の『フィッツカラルド』なんかは巨大な蒸気船を滑車を使って実際に山越えさせています。つまり、監督が映画史に残る過酷な映画撮影がやりたかったところに、アカデミー賞がどうしても欲しかったディカプリオと利害が一致した、というのが真相なのではないかと思っています。
掘り起こそうと思えばたくさんあります。例えば『レヴェナント』では上記の表情以外にもタルコフスキー作品からの引用が多い(「宙に浮く女性」、「貧しい人にご飯を分け与える姿」、「鳥」、「隕石」)のですが、それがただタルコフスキーの真似をしたかっただけなのか、意味があるのかがよく分かりません。それとフィッツジェラルドが神について2回話すシーンがあるのですが、その意味がよく分かりません。
それと、作中何度も繰り返される"As long as you can still grab a breath, you fight."という台詞の意味が実はまだよく分かっていません。特に、エンドロールが始まってからも聞こえる吐息音を考え合わせると、グラスが生きている説も導き出せるため、重要な要素である可能性があります。何か思いついたり新情報が出たらこっそりこの記事を訂正するかもしれません。
「『レヴェナント』テーマ解説(2)(ディカプリオのテーマ編)」(http://anond.hatelabo.jp/20160524110234)に続く
『レヴェナント』を観た。
監督の前作『バードマン』に比べて難解で、現段階ではテーマがさっぱり分からないのだが、主に海外サイトの議論を参考に、テーマの考察をまとめておくことにした(これを踏まえてオーディオコメンタリーやインタビューが出るのを待つことにする)。
そこで以下、結論、難解な理由、様々な視点からの問題提起、現段階で考えられるテーマ(妄想)の順に書いていくことにする。
考えながら書いたので、思ったより文章が長くなってしまった。結論を先に書いておく。
『レヴェナント』をそのテーマに基づいて要約すると次のようになる。
主人公グラスは、その人生の全てであった息子ホークを殺されたことで、生きる意味を見失い、死亡する。 しかし、息子を愛する気持ちにより、死と再生を繰り返し、野生動物に生まれ変わってまで生き残り、宿敵フィッツジェラルドのもとにたどり着く。
最後の戦いではフィッツジェラルドに瀕死の重傷を負わせた末、神の代行者リーによる神罰を引き寄せ、息子の敵を討つ。 息子を失い、復讐という目的も失ったグラスの精神は崩壊し、(ブチャラティ的な意味で生き延びていた)肉体もついに死を遂げる。
本作のテーマは、親が子を愛する気持ちがいかに強く、大きいものか、ということである。
『レヴェナント』のストーリーを単純に言えば、「復讐心に捕らわれた男が、大自然の中で死闘を繰り広げるが、最終的に復讐をやめる話」である(図式的に表現すれば、『大いなる勇者』+『デルス・ウザーラ』である)。
このストーリーを見たとき、すぐ連想するテーマは、①復讐のむなしさであったり、②大自然と対比された文明の批判である。
しかし、①復讐のむなしさがテーマだと言い張ることには疑問が多い。というのも、(後述するように)復讐をやめた後の主人公の表情は発狂寸前のそれである(復讐を完遂して破滅するか、中止して救われるかの方がテーマとしては明確なはずである)し、監督自身インタビューで復讐の物語を描くこと自体には興味がないと答えているからだ。
さらに、②文明批判がテーマだと言うのも苦しい。というのも、この映画には文明に対する疑問が提示されることがないからだ(『デルス・ウザーラ』のデルス、『大いなる勇者』のジョンソンのように、文明と対立する人物が出てこない)。
ということで、『レヴェナント』は単純なテーマで理解することが困難である。
『レヴェナント』は昔の映画からたくさん引用をしている上、宗教的に意味ありげな要素がたくさん散りばめられている。さらに監督の過去の作品との整合性まで考慮に入れるとすると、どの要素にどの程度力点を置いて物語を解釈すれば良いのか分からないという問題があり、これがテーマ理解の妨げとなっている。
(2)と関連するが、『レヴェナント』ではタルコフスキーの諸作品(『僕の村は戦場だった』、『鏡』、『ノスタルジア』、『アンドレイ・ルブリョフ』)からの引用が多数なされている(これを分かりやすくまとめた動画がある:https://vimeo.com/153979733)。
しかしタルコフスキーの作品と言えば、それ自体が難解映画の筆頭である。そこからの引用となると、どういう意図なのか(タルコフスキーの意図をそのまま継いでいるのか、ただタルコフスキーの表現が気に入ってやりたかっただけなのか)が皆目検討がつかないのだ。
そういうわけで、『レヴェナント』は難解な映画なのだが、海外のファンサイトでいくつか有力な問題提起がなされていたことから、これをいくつかまとめておく。
まず、イニャリトゥ監督の過去の作品では、「うまくいかない親子の関係」が描かれることが多い。
監督の前作『バードマン』では、監督そっくりの父親が、娘に全く愛されず尊敬もされていないことに気が付き、悩む様が描かれる。また、デビュー作『アモーレス・ペロス』では、マルクスそっくりの元反政府活動家が、活動のために家族を捨てたことで愛する娘と会えず、悲しむ様が描かれている。
これらの作品に比べ、『レヴェナント』は異質である。というのも、主人公グラス(ディカプリオ)と息子ホークの関係は互いに愛し合っているからだ。
この点をどう評価するのかがまず1つの問題である(問題点α)。
前作『バードマン』で、主人公は、演技に悩んだ末、舞台で拳銃自殺をする場面で、拳銃に実弾を込めて自分のこめかみに発射する。その死を賭した演技が絶大な評価を受け、主人公は自らの弱さの象徴であるバードマンを打ち倒すことに成功する。
こうした死と再生のイメージは、映画でよく用いられるモチーフである(『鏡』、『8 1/2』など)が、『レヴェナント』ではこれが3回(数え方によっては2回とも4回とも)も行われる。
① 熊に襲われ瀕死となり、フィッツジェラルドに埋葬されるが、立ち上がる。② インディアンに追われ、川に流されるが、生還する。③ 崖から落下したのち、馬の中に隠れ、回復する。
ではそれぞれ、何に生まれ変わったのだろうか。前作『バードマン』で主人公は、拳銃自殺ギリギリのことをすることで、弱さ(バードマン)を克服した強い人間に生まれ変わった。では本作ではどうか。
これについて、海外サイトに面白い考察があった。グラスは死と再生を繰り返すたびに、野生動物に生まれ変わっているというのである。
まず最初にグラスは熊に生まれ変わっている。その表れとして、グラスは熊の毛皮を着て、首に熊の爪のネックレスをしている。さらに川で魚を手づかみにし(木彫りの熊)、それを生のまま食べている。
次にグラスは狼に生まれ変わっている。その表れとして、インディアンにバッファローの肉をもらう際、四つんばいになって人間にへつらっている。そしてインディアンが肉を投げると、これを貪るように食っている。
さらに、グラスは馬に生まれ変わっている。これは冷たい夜を生き抜くために、馬の死体の中に隠れ、後に這い出ていることから明らかである。
最後の戦いにおいて、グラスは牙と爪で戦う肉食獣に生まれ変わっている。これは、銃を放棄し、斧(牙)とナイフ(爪)で戦っていることに表れている。
上記の見方はそれ自体面白い見方だと思うが、これによって何が言いたいのか、というのはまた1つの問題である(問題点β)。
なお、グラスが当初の瀕死状態から山を走るところまで回復するのは、死と再生を何度も繰り返すからだという見方があった。
先に貼った動画(https://vimeo.com/153979733)から明らかなように、『レヴェナント』ではタルコフスキー作品からの引用が非常に多い。
そのうちよく解釈に影響を与えそうなものとして挙げられるのは、「宙に浮く女性」、「ラストシーンでグラスがこちら(観客側)を凝視する表情」、「鳥」、「朽ち果てた教会」、「隕石」である。
このうちここで取り上げたいのは、「ラストシーンでグラスがこちら(観客側)を凝視する表情」である。他の引用は解説が面倒くさすぎるので各自ぐぐってほしい。
この表情の元ネタは、『僕の村は戦場だった』である。この映画の主人公イワンくんは、ソ連の少年兵であるが、母と妹をナチスによって殺害されている。問題の表情は、そんなイワンくんがナチス軍相手に戦闘を仕掛けるシミュレーションを1人でしていたときのものである。
つまり、この表情は、純粋で愛に満ち足りていた少年の心が、ナチスへの復讐心で歪み、壊れかかるときのものである。
これをそのまま『レヴェナント』のグラスに類推するならば、グラスの心は最後の戦いの後、壊れかけていたことになる。
しかし、『僕の村は戦場だった』と違い、『レヴェナント』では復讐を止めた後にこの表情をしている。そのため、イワンくんの内心をそのままグラスに類推していいものか、グラスは最後にどういう心境だったのか、という問題が生じる(問題点γ)。
イニャリトゥ監督はインタビューで、目指している映画として以下の5本を挙げている。
① 黒澤明『デルス・ウザーラ』② コッポラ『地獄の黙示録』③ タルコフスキー『アンドレイ・ルブリョフ』④ ヘルツォーク『フィッツカラルド』⑤ ヘルツォーク『アギーレ/神の怒り』
共通点は、いずれも撮影に困難が伴った映画であるということである。
①『デルス・ウザーラ』では秋の風景を撮るはずが雪が降ってしまったためソ連軍を動員して人口葉を木に付けた、②『地獄の黙示録』では台風でセットが全て崩壊した、③『アンドレイ・ルブリョフ』ではソ連当局の検閲が通らず製作から公開までに10年以上の歳月を要した、④『フィッツカラルド』では実際に巨大蒸気船を滑車を使って山越えさせた、⑤『アギーレ/神の怒り』では撮影の過酷さから引き上げようとした俳優を銃で脅した、などなどの多数のエピソードがある。
そうすると、「テーマとかどうでもよくて、むちゃくちゃつらい撮影がしたかっただけなんじゃ・・・」という疑念が湧いてくるのである(問題点δ)。
これはグラスが途中で出会った一匹狼のインディアンの言葉だが、意味は正直言ってよく分からない。
ただ、ラストシーンでグラスが復讐を委ねた相手はインディアンのリー(誘拐されたポワカの父親)である。このことから海外サイトの中には「リーは神の手、すなわち、神の復讐の代行者である」との解釈が多く見られた。
イニャリトゥ監督の作品のテーマはいずれも生きる意味にまつわるものであるが、この点に関してグラスが2つの重要な言葉を残している。
“All I had was my boy... but he took him from me.“
「私にとって息子は全てだった。しかしフィッツジェラルドは私から息子を奪った。」
“I ain't afraid to die anymore. I've done it already.”
「私はもう死ぬことを怖れていない。私は既に死んでいる。」
息子が全てだったという台詞は、グラスの生きる意味が息子にあったことを示している。そしてこれは、デビュー作から親子の関係を描き続けてきた監督自身の言葉でもあるだろう。
息子がフィッツジェラルドによって殺害されたことで、グラスは生きる意味を失う。代わりに「復讐」という意味を見出したかのようにも見えるが、それによって再生した姿は上述したように、野生動物の姿である。
このことからすると、私は既に死んでいるという台詞は、「生きる意味を失ったことで、人としては既に死んだ」ということを意味するのではないだろうか。
海外サイトの掲示板などで最も熱く議論されている論点は、グラスは死んだのか?という点である。
これが問題となる理由は、①復讐モノの物語は復讐者の死で終わる場合が多いということと、②戦いに勝利したとはいえグラスも致命傷を負っていること、③スタッフロールが始まってもグラスの吐息が聞こえること、といった事情があるからである。
さらに映画外の理由であるが、④前作『バードマン』においても主人公が最後に死んだのか死んでいないのかで論争があったこともこの議論に影響を与えている。
死んだ説に立つ人は①②の事情を挙げ、死んでないよ説に立つ人は③④の事情を挙げている状況にある。
しかし、これもテーマとの関係で考える必要がある(問題点ε)。
これらを踏まえて、現時点で筆者なりに『レヴェナント』のテーマについて考察してみたいと思う。
結論:
「親子」というテーマは『レヴェナント』においても依然として維持されている。
その根拠は、(a)グラスの息子ホークというキャラクターは史実に存在していないのにわざわざ登場させたこと、(b)監督がインタビューに対して、息子を登場させたのは親子関係を題材にすることで物語がより複雑で充実したものになると考えたからだと答えていること、(c)デビュー作から前作まで延々親子関係をテーマにしてきた監督が、ここに来て生涯のテーマを捨てたとは考えにくいこと、である。
② しかし、「親子」というテーマに対する切り口が、前作までとは違う。
前作までの切り口は、分かり合えない親子の問題をどう解決するか、というものであった。『レヴェナント』はそうではなく、子供を生きる意味としてきた親が、子を喪失したとき、どうなってしまうのか、という切り口で「親子」というテーマに迫っている。
その根拠は、(a)グラスが息子ホークが人生の全てであったと言及していること、(b)グラスが息子を失ったことで一度死んだと(解釈しうる)発言をしていること、である。
結論:息子ホークを失ったことで、グラスが生きる意味を喪失し、結果、人間としては死んだということを表現している。
その根拠は、(a)野生動物へと生まれ変わるタイミングが、息子ホークを失ったことをグラスが認識した時点からであること、(b)グラスが息子を失ったことで一度死んだと(解釈しうる)発言をしていること、である。
結論:グラスの精神が壊れ(かかっ)ていることを意味している。
その根拠は、(a)元ネタである『僕の村は戦場だった』のイワン少年がやはり精神が壊れかかったときにこの表情をしたということ、(b)息子ホークという生きる意味に加え、復讐という一応の生きる目的さえ失ったグラスには、これから生きる意味が何もないこと、である。
結論:グラスは死んでいる。
この問題は前作『バードマン』で同様の問題が争われたときと同様、作品のテーマから考えなければならない。
前作『バードマン』で主人公の生死について争いになったとき、生きている説が有力となった理由は、作品のテーマが「『中年の危機』を迎え、娘ともうまくいっていない父親が、この先どう生きていけばいいのか」というものであったという点にある。つまり、主人公が死んでしまうとこのテーマとの整合性が取れないのだ。
しかし『レヴェナント』では、主人公は既に自分は既に死んでいる旨を明言し、生きる意味を新たに獲得した様子も認められず、その心は壊れかけている。
ここからは解釈が分かれるところだが、『レヴェナント』のテーマは「親が子をいかに愛しているか」という点にあるのではないか。
グラスは本人が言うように、息子ホークの死亡を確認した時点で、死んでいた。それにもかかわらず死と再生を繰り返し、フィッツジェラルドのもとにたどり着いたのは息子を愛する精神の力(つまりジョジョ5部のブチャラティ的な意味で生きていただけ)によるものではなかったか。
フィッツジェラルドを打ち倒し、インディアンのリーによる神罰を引き寄せた時点で、彼の精神は崩壊し、肉体的にも精神的にも死亡したのではないだろうか。
一見いいこと言ってる風だが何もいいことじゃないだろそれ
「ペットが居ることでこういう問題が起きてて私やご近所が耐え切れぬ実害を被ってるのにルールに反してペット飼ってる人が居る」
って言う不満があるならまだわかる
「私はルールに従って嫌な思い辛い思いをしたのに管理組合に交渉してルールを変えた人が居る」ってどういう不満だよ
つまり
「私と同じように嫌な思い辛い思いをしないのが許せない」ってことでしょ?
くだらなすぎる
「私」に辛い思いを強いたのがそのペット好きの人達ならば復讐心が湧くのもわかるが
そういうわけでもないんだろ?
「ルールを厳守してこんなに辛い思いしてペットと別れて入居したのにそのルールが簡単に変わってしまった」
「簡単に変えられる程度のルールであんなに辛い思いを強いたのか」
「責任者を出せ」
って
やれ
理系の非モテは純愛を信じて欲している(だからこそ非モテなんだが)。
主観的には「自分は純愛を差し出しているのにキモがられて裏切られてきた」と感じている。
恋愛工学は「あなたを裏切ってきたあいつらと同じ土俵でゲームに勝てる方法を提供します」というのが売り。
筆者が理系出身なだけあって、理系ウケが良いフレーズばっかりだし、キモ理系でも(だからこそ)すぐにインプット&アウトプットできる内容になっている。
復讐は容易に達成できるが、それは自分が忌み嫌った女共と同じ、純愛を蹂躙する行為にほかならない。
自分を消耗させながら復讐心を満たしても、結局飢えは満たされない。
V for Vendettaという死ぬほど有名なアメコミ作品がある。
で、最近V for Vendettaの映画版をみて思ったんだけど復讐心が原動力の人って復讐をし終わったら人生の目標を失うんじゃないかな。
筒井康隆の小説で「我が良き狼」という超絶名作があって、これは文字通りの好敵手、なんていうかアンパンマンとバイキンマンみたいな感じでお互いで存在意義を維持しているみたいな関係の小説があって、マジで泣けるんだけど、これを読んでも思ったことでもある。
「我が良き狼」の場合は別に敵として描かれる狼の方がそんなに極悪非道じゃないからこそ感情移入できちゃうからちょっと話がぶれるんだけど、V for Vendettaみたいない復讐する相手が極悪非道の度合いが高ければ高いほどその復讐を終えた後の虚無感というか、生きる意味の喪失ってのがすさまじいのではないかな。
それってでもお前を殺して俺も死ぬ的な相打ちを前提にしているのかもしれないんだけど人って目標がなくなったくらいで死なねえだろうなと思う。
なんとなく、もぬけのから状態で半分呆けた状態でなんとなく生きてしまうのかな。
そこで思ったのは、復讐心を原動力として生きてる人って、復讐した瞬間に死ぬべきで、もしもそこで死ねないのならまた復讐心を生み出すために自分から沼に飛び込むしかないのではないかな。
なんか、悲しいなと思う。
いやタイトルと通りなんだけどさっき見てきたけどすごいよかった
良かった点をなぐり書きしてみる
なおかなりのネタバレはあるのでこれから見たい人は注意。読まないように。
まず映画見終わってからの第一印象はすばらしいCG技術だけではなく脚本がよく練られた映画はだったということ。
各々のキャラクターにそれぞれ一貫した役割が存在しすばらしく非常によく描けてる。
様々なキャラクターがそれぞれ役割を持って舞台を演じ、リアリティがあるのでのめりこめる
そして泣き笑い一緒に葛藤できる、それが良かった
頭が良くて才能を持て余していた弟が兄の死をきっかけに
彼が作ったロボットを通して兄の死の真実を知り人間的に成長していく
そんな話だ
で、この映画でもっとも注目するべき点は主人公の人間的な成長だ
映画監督はその点に最大の力点を置いてキャラクターに役割を振ったように思える。
まず主人公の弟について。
彼はすごく頭がいい。それこそ天才的なロボット工学のセンスをもっている。頭もいい。
しかし彼がそのありあまる才能を利用する対象は常に「自分」だ。
お金儲けをするため破壊衝動を満たすため知的好奇心を満たすため。
そしていつも周りに迷惑を掛けている困ったさんだ。
一方で主人公の兄。
彼は弟に比べたらすごく凡人だ。
これといった才能もないしロボットの知識も弟に比較して全然ない。
ただし彼は主人公にない物をただ一つだけ持っている。
それは何か?
他人を思いやる心だ。人を助け合う心。それは弟には決してないものだ。
まず彼は自分の弟を思ってる。
自分の弟の才能を適切な道に導こうと、くすぶってる彼をなんとか羽ばたかせようとする。
そして教授を助けるために無謀にも火の中に飛び込んで命を落としてしまう。
彼は優しい心をもっている。
ベイマックスは決して人を傷つけない。
なぜなら兄は破壊衝動を満たすためではなく知的好奇心を満たすためではなく人を助けるためにロボットを作りたいと思っている。
彼の関心や興味は全て他人へ向いている。
力だけでは決して手に入れることのできない強さを持っている。
そんな兄がベイマックスを残して死んでしまった。一人残された弟。
途方に暮れた弟はどうするか?
自分の破壊衝動や復讐心にとらわれベイマックスを改造し兄を殺した犯人を捕まえにいく。殺しに行く。
改造で強化されたベイマックスは彼の心をそのまま映しているように思う。
いやそれは違うだろう。
「人を幸せにする」という本来のベイマックスの役割を理解する。
それは助けるためだ。
そして今まで気付かなった点に気付くようになり、復讐が本当の目指すべき道ではないことを知る。
この映画は典型的なヒーロー映画のように見えるが、実のところ本当の悪役は基本的にいない。
一方的に善と悪を対峙させてお決まりのパターンでヒーローが勝ち町に平和が訪れる。
そんなストーリーでは決してない。
一点の迷いもなく自分の身を呈して人を助けようとする。
それは燃え盛る炎の中で教授を助けに迎えにいってなくなった兄の姿と重なるようであった。
そしてベイマックスとのお別れ…
それはただ単に力が強いだけ、頭がいいだけでは得られない本当の強さだ。
そんな成長を遂げてエンドになる。
細かいところはちょっと違うかもしれないがこんな感じの映画だった。
すごくよかった。
いやなんかね、オナニーマスター黒沢って漫画をさ久々に読み返したんだよ。
どういう話かって言うと、中三の男子が精液を使って気に入らない奴に制裁を加えるって漫画でさ(正確にうと違うけど)まあ、いろんな女子生徒にトラウマを植えつけていくんだよね。でもある時、こんな事やめようってなって、改心してそこから懺悔する漫画になるんだよ。
みんなの前で「あれやったの僕です」って衝撃告白して、学校中からいじめられるのよ、自業自得なんだけどね。
でもさ、主人公の周りの奴が都合いいくらい良い奴で、許してくれるのよ。結局卒業までいじめは続くんだけどさ。主人公は罰は受けたみたいな感じで爽やかな気持ちになってるんだよ。
俺は結構好きな漫画なんだけど、主人公に対する罰はこの程度でいいのかって話をネットでたまたま見てさ。俺も同じこと思ってて、というかそもそも許してもらえれば済むのか、謝ればいいのかって話でさ。だいたいあんな精液つかって悪さするような奴が、なに良い人ぶってんだよ。なんて少し思ったりもするんだよ。
でもこの漫画って多分だけど主人公が改心する事が大事で。人間ってのは変れるんだって話で、だから制裁を加えられて、一生孤独に後ろ指差されて生きるとか、死をもって償えとかじゃなくて、改心したら、世界が変って見えるぞっていう話なんだよね。
で、るろうに剣心って漫画はさ、人殺しっていう罪を主人公なりに悩んで
「剣と心を賭して人々を守る それが俺の償いだ!!」っていう答えを自分なりに出してる話じゃん。つまり死刑とかされてもそれは本当の罰じゃない、生きる事が罰だからって感じで剣心は思ってるんだよ。
そしてデスノートね。あれは主人公が惨めに死ぬっていう罰が与えられてる話でしょ。どんな動機であれ人殺しは死んで償うしかない。っていうそういう終わり方だった。
で思ったんだけど、この間堂々完結したNARUTOなんだけどね。
サスケをどう処理して終わるんだろっていう所に注目してたんだよ俺は。
ナルトとサスケの因縁の戦いはお互い片腕を失うという形で決着がつく。
俺は救われただの、ナルトは最後まで友でいてくれただの、それが俺たち忍者なのかもなーなんていいながら話に落ちを付けようとストーリーをまとめようとしているサスケ君。
ああ、良い話だなーって感じでサスケはいままでの復讐心を捨て去り。
なんでか改心して、ナルトもサクラもカカシもサスケのテロ行為悪行もろもろを許したのか忘れたのか、みんな結婚して子供つくって、サスケは娘ほっといて旅をしている? ハッピーエンドだ。
俺はね、力欲しさに里を抜け復讐のためにテロ行為をしたサスケの最後は死ぬしかないんじゃないの? って思ってたし、そういう意見は少なからずあったと思う。
まぁ、しょうがないんですね、ブサイクに生まれたんだしそれはどうにもならない
正確に言えば、顔は多少いじったし体型もトレーナーつけて整えたけど
それでも、30半ば過ぎて今更って話です
自分の一番歪んだところは、性的嗜好と復讐心が一体化してるところだと思うんですね
自分はここまで辿りついたんだって再確認してすごく幸せになれる
本当に歪んでると思うんですが、わりと幸せなんですよね
悪どい金でも金は金だし努力は努力だし、この幸せが本物かどうかはわからないとこあるんですが
女性の皆さんに於かれましては、籍を入れるまで仕事は辞めないことを薦めますね。
何かの間違いで全部がご破産になったら、若くも無い無職が一匹残るだけですから
あなたが慎ましい人なら話は別かもしれませんが、金持ちゲットしたことを