はてなキーワード: 利便性とは
アホその3
資格職の需給調整を役所がやる事がまず先進国では有り得ないのを知らないのか。
弁護士は資格持ちが増えた事によって資格を持っているだけのキチガイ弁護士が次々淘汰されている。
最近、懲戒事例ちゃんと見たか?無能がどんどん切られてるだろ。
歯科医師も同じ。無能はすでに食えなくなりつつ有り、資格だけ取ったら安泰なんてふざけた状況がなくなりつつ有る。
獣医もペット用医院がアホみたいに増えているが、まだまだ儲かるから増えてるんだよ。
これを適正な医療費で確かな技術をもって治療する医院を増やさねばならんし、それは利用者の利便性を高める事でもある。
本題に入る前に、いくつか検討を行うべき点がある。
社会に流通する特定の表現を具体的に名指しして『有害』と評価する場合、その評価の責任は、そのような評価を下した主体が負うのが一般的である。
例えば、都道府県の定める条例に基づき『未成年者の健全育成に有害である』と評価された特定の出版物を、『有害図書』に指定し流通を差し止める場合があるが、その指定(あるいは指定の基準)の責任は当の都道府県が負う。
実際に、都条例(「東京都青少年の健全な育成に関する条例」)の条文が変更され、近親相姦描写が指定の根拠に加えられた際、またその条文を根拠として実際に書籍が『有害図書』に指定された際に、都を批判する声が少なからずあった。表現を『有害』と評価する主体はその評価について責任を問われる、という社会的通念が如実に現れた実例と言えるだろう。
『有害情報』はインターネット上に流通する表現についての評価であるが、これも評価の主体が責任を問われるという点は『有害図書』の場合と同様である。
例えば、特定のウェブサイトが、検索エンジンサービス・セキュリティソフトウェア・フィルタリングソフトウェア等によって『有害』と評価され、アクセスを妨げられた場合、その評価の責任を当該サービスないしソフトウェアの提供者が負うという点については、広く合意されるところである。
どのような表現を『有害』と評価するか、具体的な線引きについては評価の主体により差はあれど、大別すれば、「援助交際や違法薬物の取引」といった実際の犯罪行為と一体のものと、「(現実・架空の別を問わず)暴力・性行為・犯罪行為の描写」といった未成年者の閲覧に不適切なもの、の2つである。
このうち後者について、評価の主体が行政ないし公的機関の場合、表現の自由や知る権利とのバランスを取る必要から、未成年者による閲覧を抑止する施策(ゾーニング)が講じられていれば表現そのものを禁止はしないという形を取ることが多く、またそのような施策が予め講じられた表現に対して『有害』か否か積極的に評価することは(必要が無く、にもかかわらず上記のような責任を無用に負うことになるので)避ける運用となるのが通例である。
他方で、ゾーニングの必要性の有無を判断するのは表現を発表する側であり、通常これは『有害』評価を下す側とは別であるから、『有害』ギリギリのラインでゾーニングが行われることはない。すなわち、表現を発表する側はより大きな安全マージンを取り(安全側に倒して)ゾーニングを実施することになり、そして上記のとおりゾーニングされた表現については『有害』評価が保留されがちであることから、もし仮にゾーニングされていなかったとしても『有害』とは評価されなかったであろう表現がゾーニングされてしまっている(が、そうとはわからない)という例も珍しくないはずである。
したがって、ある表現がゾーニングされているからといって、その表現が直ちに(例えば行政や公的機関などの評価主体の判断に照らして)『有害』であるとは断言しえない。
業として表現を流通させている者(出版社や小売店、ウェブサービスなど)がゾーニングを実施するのは、上記条例をはじめとする法令を遵守することが第一義的な理由と考えてよい。そしてそれらの業者を介して自身の表現を流通させんとする個々の表現者は、業者との契約や規約に基づく形でゾーニングに同意し、間接的に法令を遵守することとなっている。
このことは、当該法令の理念や目的や基準について、必ずしも表現者は賛同ないし納得はしてないけれども、業者を利用する都合上その定めに従っている、というケースが内包されている可能性を示唆する。より具体的に言えば、表現者自身は「未成年者にとって性的表現は有害ではない」と考えていたり「この程度の性的表現は『有害』にあたらない」と考えていたりした場合でも、業者を利用するため業者が実施するゾーニングの基準に従った結果として(あるいは、閲覧者の利便性を図る手段としてゾーニングを活用する意図で、もしくは、自身の思想と食い違っても「悪法も法なり」という判断の下)法令を遵守している、というケースがありうる。
同時に、上記のとおり行政や公的機関はゾーニング済の表現への『有害』評価を保留するので、動機はどうあれゾーニングに従っている以上、自身の表現が『有害』にあたることはない、という意識が表現者にあったとしても不思議ではない。これは逆に言うと、『有害』評価を下されること=ゾーニングの努力を怠った粗忽者ないし社会に迷惑をかける厄介者のレッテルという意味を包含し、表現者にとってのスティグマとして機能しうる。
著作物の二次利用は原則的に著作権者の許可を要するが、著作権法32条により『引用』であれば無許可に行うことができる。正当な『引用』と認められるには「引用部分とそれ以外の部分の主従が明確であること」「引用する必然性があり、その必要な量のみの利用に留まること」「出典を明記すること」などの要件を満たさなければならない。
第三十二条 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
しかしながら、著作権法113条6項には、次のような条文がある。
これは上記の『引用』と矛盾するように見えるが、そうではない。無許可で『引用』することはできるが、その結果として著作者の名誉・声望を害したら著作者人格権の侵害とみなされる、という形である。つまり、理論上は、正当な『引用』であっても著作者人格権の侵害になる場合があるとされており、ゆえに「例の論文は『引用』の要件を満たしてるから法的にセーフ」とする主張は、全て誤りである。
このような条文があると、否定的な論評・批評のための引用ができなくなるのではないか、と心配する向きもいるかもしれないが、意見表明による名誉棄損を免責する『公正な論評法理』が、上記条文における「名誉又は声望を害する方法」の当否判断にも準用され、否定的な論評・批評のための引用も内容の公益性や妥当性次第で免責されると考えられている。
例の論文では、R18としてゾーニングされた10作品を標本として利用しているが、ゾーニングされていることをもって直ちに『有害』であるとは言えず、またその作者らが自らの作品の『有害』性を自認していることにもならないため、「この10作品は『有害』である」との評価は自明ではない。
にもかかわらず、論文ではこれら10作品を「『有害情報』のフィルタリングアルゴリズムの学習用データ」と位置付けており、このことはつまりこれら10作品が『有害情報』の代表例であるという評価を下しているに等しい。その際、法令や制度あるいは他者によって定義された『有害』評価に準拠する旨の記載がないため、この『有害』評価は論文著者が主体的に行っているものと解され、その責任は論文著者が負う。
これら10作品が『有害情報』の代表例として紹介されたことは、作者らにとってスティグマとして機能することが懸念され、名誉・声望を害したと言えるのではないか。
整理すると「論文著者が主体となり10作品を名指しで『有害』評価したことが、10作品の作者らの名誉・声望を害したと疑われる」。
論文ではこれら10作品に含まれる性的表現を引用しその意味内容を批評しているとは言えるが、『有害情報』の代表例としてこれら10作品を名指ししたこと自体について十分に論証するだけの記述が割かれ『公正な論評法理』に適う内容になっているか、といえば、議論が分かれるように思う。少なくとも「論ずるまでもなく法的にはセーフ」とは断言できないと考えるが、どうだろうか。
結論から言うと、私は痴漢や痴漢冤罪問題の責任は8割方鉄道会社にある、と思っている。
それは何故か。
たとえば警察・裁判所が改心して、取り調べを可視化し、不当な長期勾留を止め、実名報道も止め、強引な有罪判決も止めたとしよう。
確かにこれによって痴漢冤罪のリスクは多少低下するが、それ以外は何も変わらない。
満員電車が変わらず走り続ける以上痴漢自体の数が減ることはないし、
痴漢という犯罪が被害者の供述頼みになりがちな状況も引き続きである。
せいぜい泣き寝入りが少し増え、冤罪が少し減るだけだろう。問題を大きく改善するには至らない。
(一方、他の冤罪事件に関しては警察・司法の責任が大きいことも多い。
そのため彼らにヘイトが向きがちなのも理解できるが、痴漢冤罪問題について彼らを主犯だとするのは「別件逮捕」だと言わざるをえない)
これは「犯人は悪くない」と言いたいのではない。個々の事件については犯人の責任はもちろん大きい。
しかし、犯人を糾弾することが痴漢事件の減少に大きく寄与するとはあまり思えない、というのが1点。
(啓蒙活動には意義があると思うが、解決策として用いるのには疑問がある。道徳の授業を増やせば殺人事件が有意に減るのだろうか?)
そして、特に痴漢がこれだけの件数発生している現状を鑑みると、
痴漢問題全体としては、「適切な対策を取ることができていたか?」という管理者側の責任がより問われてくるだろう、というのが1点。
この2点から、より責任を問われるべきは鉄道会社側だと考えるのが妥当だ。
効果に疑問しかないポスターと、ごく一部しかカバーできていない女性専用車両だけである。明らかに適切な対策とは言い難い。
「痴漢する奴が悪い、我々も被害者だ」と彼らは言いたいのかもしれないが、
一番問題解決に近い部分にいながら、コストや利便性を理由に、目の前で起こっている問題をスルーし続けてきたのは鉄道会社だ。
警察を責めるのもズレているし、司法を責めるのもズレているし、痴漢の犯人を責めるのでさえ少しズレている。
どれも「火に油を注いでいる存在」ではあるが、「出火元」ではない。
私はそう思っている。
それなのに、「司法問題の縮図だ」という弁護士のブログと「痴漢死ね」という増田だけがバズり、
鉄道会社の責任を問う意見がその影に隠れてしまっているように見えるのは、心底納得いかない。
正直、これだけ話題になっておいて鉄道会社が何も動かないようだったら本当に暴動モノだと思う。客をナメているのにもほどがある。
あなたもそうだし元増田も多分そうなんだが、無能ディレクターの言いなりになってしまう理由の一つとして、エンジニア側の反論の根拠が希薄、というのがあると思うのね。
つまりアクセス解析をまともにやってないために、「○○の機能は使われないと”思います”」、「ユーザの利便性を損なうと”思います”」ってなっちゃう。
アクセス解析、ユーザーアンケートって重要(つーかこんだけツールがそろっている現在、Webサービス運営の最低ライン)なのではないだろうか。
あるあるすぎてつらい。
俺も某WebサービスでECサイトを開発しているエンジニアだけど、サイトにまとまりが無くてどんどんぐちゃぐちゃになっていっててつらい。
手広く色んな商品扱ってて、なんとなく種類ごとに担当者が決まってしまっているんだけど、「関係者がいい感じにやっておいて」みたいな感じになっていてまとめる人がいない。
本来それをまとめるべき人は、たまに会議で思い付きで適当なことを言って現場をさらに混乱させているだけだ。
そして、周囲の予想通り言ったことを忘れる。
「俺そんなこと言ったっけ?」、「それ何の話だっけ?」はもう聞き飽きて、もはや怒りも笑いも沸かない、ただの日常だ。
本来それは相対する話ではなくて、「ユーザに利益があるサイトを作れば、いずれサイトの利益につながる」ものだと思うんだけど、営業チームや上層部はそうは思ってくれない。
「いずれ」じゃなくて今すぐお金が欲しいようだ。
なので、すごい邪魔なところに「この会社の商品の広告バナーを追加して~」とか「この会社の商品が常に一番上に出るようにして~」とか、ユーザの利便性を失うようなことを営業チーム平気で言ってくる。
エンジニアとして、「それやるとユーザの利益失うけどいいんですか?」とは一度は言うけど、それでもやりたいというならもう止めない。言われた通りに作る。
そして、そういうユーザを無視した施策は大抵大した成果が出ずに終わる。目立たせとけばなんでも買うほどユーザ馬鹿じゃねーよ。
営業チームや上層部の思い付きでもはやサイトはぐちゃぐちゃ。TOPページにある、歴史的経緯により次々と追加された数百のリンク・広告のほとんどはクリックされないが、今も鎮座し続ける。
id:lli さん
どうもです〜〜〜〜
現代では北朝鮮の影響下にある朝鮮学校に通わせることに対して葛藤とかは感じないのだろうか、という疑問がありました。
Eizo0000さんがアメリカ留学された際にされたように、韓国籍のほうが単純に利便性が高いだろうと判断されたのだと推測してますがあってますか?
先のを書いてるあたりで、あれ?なんかズレてるかもってなりつつ"経緯というか朝鮮学校に通う韓国籍がいる理由ってかんじになっちゃってるけど。"ってなってましたね。。。
ふーむ、これはどうなんすかね。人それぞれかと思いますが、朝鮮籍/韓国籍問わず通わせる両親側に多少葛藤はあるんじゃないですかね。まぁでも通わせてるのは最初の増田に戻って親の意志ですからねぇ。で、そこからエスカレーターってのもあり。。。
少子化ってのもあるかと思いますが、まぁ年々生徒数減ってるっぽいので、そういうところに葛藤というかまぁなんかそういうのは表れてるかと思われます〜〜
子供いないので直接わからないですが(できても通わせるつもりはない)、通ってる親戚に対する葛藤はありつつ、高校まで行くつもりは無いって言ってるので、お、受験がんばれ!ってかんじです。
で、経緯ですね。まぁわからないんですが、と前置きしつつ、
ちと書きながら経緯というかメカニズムについて考えて、超単純に言うと、朝鮮学校に通った親は子供を朝鮮学校に通わせるっていうのがあるかと思われますー(日本の学校に通わせる「朝鮮学校を出た親」も当然います)。逆に言うと、日本の学校に通った親が朝鮮学校に通わせるのはいないことはないけど少ないかと。
ってことで、今4世〜5,6世ぐらいかと思いますが、なぜ朝鮮学校に通わせたかってのは1世まで遡るんじゃないかな。
1世→2世のタイミングか、1世のおじいちゃんが存命中におじいちゃんの意志も汲みつつ2世→3世のタイミングで、子供を朝鮮学校に通わせて、その親がその子供に通わせるってかんじ。
なので、その時にどういう意志があったかはちと聞いてみないとわからんすね。
「通わせる」ってところでは、パスポート上の国籍はあんまり関係ないかも。ちょい当時の情勢とかまわりにどういうのが集まってたコミュニティ要素とかもあるんじゃないかな。同族同士で助け合ったりみたいなコミュニティの繋がりはたぶん強かったのかと。想像ですけど。
利便性は確かに韓国籍のほうが高いかと思われますが、それが1世段階でどうだったのかは謎すねぇ。
おれみたいに3〜5世ぐらいで朝鮮籍→韓国籍に変えるってのも結構いるかと思いますが、完全に利便性かと思われますー。まぁなんかパスポート取るときに兵役免除の許可がどうとかで時間かかったりめんどいのもあるんですけど。。。
ってかんじっす〜〜
そこで働く教員も、当然前者に行きたがり後者は行きたがらないから
優秀な人ほど前者に行けて、問題起こした奴の左遷先とかが後者になるんだろうなあ
こういうのは保育園で同じ事が起きてるかな
保護者の利便性が高い保育園は、そこで働く保育士にとってはブラックだし
バスとの競争という考えがないの、いかにも都会の人間(都会ではバスは補助輸送機関だしな)という感じだが、地方ではバスはかなり強い。
概ねは賛成だが、この点はどうなんだろう。
あくまでも地方とはどこを指すのかという基準によるから一概に言えないという前提の上にはなるが。
関西圏の話が出ていたけど、松井山手から京都方面は京阪バスの直Qバスがかなり強いし
神戸も神鉄沿線からの三宮直通バスが神鉄を追い込んでる状況だし。
関西ぐらいでもう既にバスはメインになりうる輸送機関になってると思うよ。
たしかに東京都区部では補助、しかも金持っててタクシー乗る人も多いからさらに影が、みたいな話はよく分かるけど。
でも、東京から都市圏輸送はともかく、都市間輸送になると既に飯田行とかはバスがメインで鉄道は補助にすらなってないわけで。
千葉県方面もその傾向がある。つくばも、鉄オタの妄想レベルの超高規格新路線のつくばエクスプレスがあるからバスが補助になってるだけで
開業前はそもそも鉄道が無いという飯田以前の問題だったわけだし。
たぶん、都会民だからバスの重要性を知らないとかいう話ではなく
単純に自分の乗らない交通モードと言うか、交通様式に興味のない人が多いというだけではないかと思う。
元増田だけの意見を聞いてもなんとも言えなくて、元増田を責めるつもりも、褒めるつもりもまったくなく、
自分の感想や自分の気持ちを書いてしまって申し訳ないんだけど、
自分の書いたプログラムを自分だけのものにする? バカなこと言わないでください。そのプログラムのおかげで劇的に実質コストを減らし、会社に貢献してます。
このあたりの理屈がやっぱりしっくりこない。
なんていうか、業務をこなして会社に貢献するか否かを自己裁量で判断することに意義を感じられない。
極論、目の前の書類にハンコを押せというだけの仕事を、ハンコ押しマシーンを開発して高速化したとしても、僕としては、それは自分の中の評価の対象にできない。
(なんども繰り返しになるけど、僕と元増田が同じ考えでなければならない、なんて思ってないからね、もし僕が元増田の立場だったら? を想像してるだけだからね)
こうして言語化してみてわかったけど、
自分にとって「仕事の結果」なんて、至極どうでもいいのだと思う。
なにかの書類を作る、なにかのファイルを作る、という結果が早くできるようになったか否かは、関係ない。
自分にとって大切なのは仕事の仕組みを作って、それが上長に認められ今後の仕組みに組み込まれることが非常に大きい。
だから、元増田みたいに「こういうプログラムを作ったから、この目の前の仕事をはやくこなせるようになったよ、でもそのプログラムの中身は評価されてないよ」という状況は、全く意味がない。
その、プログラムの仕組みとか利便性とかを上長に説明して、上長が理解して、
さらに、それが上長以外の人間でもいいから自分でない誰かがその仕組み自体を「再現可能」「検証可能」であることこそが、僕の中で大切なんだと思った。
もし僕が元増田と同じように、作ったプログラムによって生じた「仕事の結果」を評価されなかったとしても、
多分僕の中でそれは「そのプログラム自体が上長に評価されるような出来ではなかったからだ」と納得できてしまうのだと思う。
もちろん、元増田も一生懸命言葉を尽くして上長に説明をしたとは思う。
きっと僕も言葉を尽くして、色々資料を作ったり、なんならVBAという仕組みから喋ってみたり、いろいろ頑張ると思う。
でも、その結果が、評価されないのであれば、それはもう仕方ないよ。
そこには色々あると思う、
極端な話、この仕事の結果自体がもしかすると上長にしてみれば、どうでもいいことなのかもしれない。
だからこそ、この仕事をどれだけの工数で終わらせれて、どれだけの出来栄えにすべきなのか、そのプログラムの仕組み自体の評価を、とことん上長とすり合わせるしかない。
もしかすると、もっと早い工数で終わらせたいのかもしれないし、
プログラムの仕組みが複雑すぎてメンテナンスが不可能だから評価しないのかもしれない。
とにかく、評価しないのであれば、そこには必ず理由があると思う。
と、ここまで書いて気づいたけど、
プログラムのコードや、プログラムのアウトプット以外のところ、
ただ、これは、もうしょうがないとも思う。
だって、人の好きとか嫌いはもう、ねえ?
んで「教育施設」と「福祉施設」の違いにより、幼稚園と保育園とでは根本的な意識の差もある。
幼稚園は「その園が理想とする教育を子供へ施す為の施設」であり、その園が掲げる教育方針に賛同する親の子が入る所、というのが前提
(特に私立はそう、私立小中高大が公立校には出来ない独自の教育方針を持っているのと同じこと)だし
その多くが「親の楽さや利便性」より「子への良き教育」を優先し、「子へより良き教育を施す為には保護者にも協力して貰うのが当然」と言う意識を持っている。
なので「幼稚園職員のみでは実行不可能だが親の協力があれば行える事をするのが子の教育の為である」となれば親が色々手伝わされるし
中には受験により「子や親の優秀さ」を計って入園児を選ぶ園もあれば、「母親が子の教育に尽力出来るよう専業主婦家庭でないとだめ」なんて園もある。
特に私立は「それが嫌なら入園してくんな」が基本的な方針であり、保護者側が園を選ぶだけではなく園側も園の方針にそぐわない子の入園を拒否出来る。
(勿論あまり意識高くない園もあれば、不人気で必死で親に媚びなければ入園児を確保出来ないような園もあるが)
対して(認可)保育園は「自分で育児する事が出来ない親と、その子に対する福祉施設」というのが前提であり
「園は子と親の生活を支える場所」と言う意識や、「訳アリの親たちにあまり負担をかけてはいけない」と言う意識がある。
なので幼稚園よりは親に負担を求める事は少ないし、保育が必要な子がいる限りは定員までは必ず受け入れなければならないし、
定員超過して入園児を選ばざるを得ないとしても「より優秀な子」ではなく「より福祉が必要な子」を優先する。
基本的にはあくまで生活の場であり、教育意識はあまり高くない。
(認可外はまた違うが。よくマスコミやらで取り上げられる「やたら教育に力を入れていて親も金持ちばかりのセレブ保育園」ってのは大抵認可外)
例えば子の食事一つとっても、保育園は「子に十分な栄養を与えるためのもの」だから
十分に栄養を満たせる質と量の給食を出さなければならない、その給食は園内で作らなければならない、などの基準があるが、
幼稚園の場合は「子の食育の為には親の手作り弁当が一番なので給食は出さない」と言う所もあれば、その弁当の内容に注文つける所もあるし、
「親から離れた所で一人で食べられるよう練習するのが目的だから最初はおやつだけ、ちゃんとした食事は帰宅後に家庭で親が与えること」と言う所もある。
この辺の違いにより、園だけではなくそれを選ぶ保護者の意識も変わって来るし、
余程経営難で幼稚園のままでは立ち行かない園や、元々保育園と親和性が高い方針の園以外は従わないし
たくさんのよそ者の想いは時代が立つと全く赤の他人の想いで上書きされていく
毎回スプレーで塗りつぶされるたびに落書きの元になる変えられない壁に手を置きながら「ここに人の想いが集まってる」と呟く
地方とは比べ物にならない速度で真理とは程遠い落書きが重ねられてるだけ
何のメッセージ性もない壁をみて勝手に納得した顔してカメラに顔向けて編集で良いこと言った感を出したい
そんなところにノスタルジーを抱えるしかアイデンティティを保てない出稼ぎ労働者である関東人が哀れで仕方ない
それに薄々気づいているのに喪失感を穴埋めするために有りもしない東京の温かさを捏造するな
お前らには何もない
人が死にかけても助けないのが東京だしそれが経済都市・東京に唯一必要な文化だろうが
まだ「東京のフルーツパーラーさいこー!東京の文化さいこー!」とかなら納得したが
SNSでAmazon叩きについて言及している方がいたので検索すると、そういえば先月こんな記事が出回っておりました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161228-00005530-bengocom-soci:embed:cite]
確かに、「Amazonの利便性と過酷なヤマトの現場のせめぎ合い」という構図で書いてありますね。ハナから構図がおかしくて、仕事が増えると現場が過酷になって当然という価値観が問題。つまり端的に言って問題は、現場の人間が馬鹿正直に働きすぎなのと、それを容認している経営。
いつまでも「美しき長時間労働」という観念に染まっていたら、人生勿体無いと思うのですが。
今日本は報道までこういう古い価値観に染まっているままだから、働き方変えていくのは本当に大変だと思います。
「今日はお客さんがたくさん来て忙しかった」とか言いますね。でも忙しくした分、ちゃんと給料に還元されるんですか?ほとんどの場合は関係なくこき使われてるだけですから、忙しくすることなんてないんですよ。お客さんたくさん来たんなら、いつも通りゆっくりやって待たせておけばいいんですよ。マニュアルにそう書いてあるからって、愛想振り撒く必要もないんですよ。もっと「自分は安い賃金でこき使われている。」という自覚を持って欲しいと思います。日本だけですよこんなに低賃金労働者が勤労なのは。
対価が払われていればいいですけどね。時給1000円とか2000円ちょっとでどうして死ぬような思いして働かされているのか。
個人的には時給10000円でも残業とかする気にはならないですけど。だって自分の時間(私の場合は勉強する時間とか、家族との時間)はお金で買えるものではありませんから。