はてなキーワード: デフレとは
そして、なんでインフレは実体よりも期待が重要視されるかってことですが
・手元の現金が目減りする
・借金が目減りする
ので、とにかく貨幣以外の何かに投資して、「徐々に価値を失っていく貨幣」を沢山集めなければならない。
貸し出す側もとにかく新規貸出ししなければならない。
その結果、産業が起こったり、従業員の給与を増やしたり(事業が活発になるんだから人不足=賃金の高い職に労働者が移動する)
結果として「一箇所に貨幣が集まる」っていうことがなくなるの。だって、「長期的には貨幣なんか集めてもしゃーない」んだから。
デフレはその逆。貨幣を沢山持ってる人間は使わず溜め込むのがベストになる。
ここらの基本がないのに議論してるように見えてならない。
https://www.youtube.com/watch?v=aB_jsYW3_U4
>国が設立しようとしている「子供保険」は保険事故の起こりえない子供がいない人にも適用されるものであり、保険という言い回しは津法的に詐欺である。
>財務省が増税を誤魔化すための言い回しでしかない。言うならば「子供増税」という言い回しのほうが正確
>子供増税は将来への投資をケチる行為で、よほど未来に禍根を残す
>またこの国債はデフレ影響下である今は借金じゃ無い形で処理が出来る。
>教育国債を借金と言い放つ財務省は緊縮脳であり、それを支持する小泉進次郎氏や麻生氏は、財務省の顔色を見ているだけの財務省使い捨て議員のようなものである
普通に考えれば「人手不足だからそのうち賃金は上昇する」となると思うけど、
人手不足が好景気によるものではなく、少子化が主要因であれば、
デフレと少子化で需要が不足している中で、人手不足になれば、企業が取る選択肢としては「事業規模の縮小」が一番ベターな選択肢となる。
そもそも人手不足でも「賃金を上げてしまったら採算が合わない」状態であれば、賃上げに踏み切ることは難しい。
最近流行りの「働き方改革」も、本来賃上げで対応するべき労働者への還元が難しいから、労働時間や労働環境の改善で対処しているようにも見える。
日本経済の良いシナリオとしてはデフレ脱却・生産性向上で、全体の経済規模を維持しつつ、人口減少しても一人一人の賃金が上がることだけど、
悪いシナリオはデフレが継続・生産性はそのまま→全体の経済規模も縮小・人口減少→賃金も低下となることだろうか。
今の所完全に後者のような気もするけど。
http://www.meti.go.jp/press/2016/12/20161212001/20161212001.html
1. プレミアムフライデーとは
個人が幸せや楽しさを感じられる体験(買物や家族との外食、観光等)や、そのための時間の創出を促すことで、
(1) 充実感・満足感を実感できる生活スタイルの変革への機会になる
(2) 地域等のコミュニティ機能強化や一体感の醸成につながる
(3)(単なる安売りではなく)デフレ的傾向を変えていくきっかけとなる
といった効果につなげていく取組です。
ここで注目するのは(3)つまりは、安売りで集客するなと明言してます。
現実は…
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/110879/022400589/
・社食では割引セールを実施。果たして、早上がりして社食に向かう社員がどれほどいるのか?
・なんと!思いっきり混み合う社食。350円のビールのほか、ハイボールも100円になるなど、大幅割引で強力に後押した効果絶大。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20170224-00119150-diamond-bus_all
https://premium-friday.go.jp/activity/
“『プレミアムフライデー』はいしむらで カットケーキのタイムセール開催!!”
はい、出ました。割引
(その2)日付(日付のタイミング)が悪すぎる点
2月… 2月24日 → 給料日25日として、前倒し支給の会社なら良いが27日支給の会社だと給料日前
しかも2月は28日と普通より2~3日短い為、月末に向けて仕事の調整が大変。
3月… 3月31日 → はい、年度末の月末日です。ダブルパンチPart1
4月… 4月28日 → おっと、ゴールデンウイーク直前&月末のダブルパンチPart2
5月… 5月26日 → やっと狙ってた感じになったぞ。しかし、その頃には浸透しているのか否か…
6月… 6月30日 → またまた月末日。月末は忙しいってあれほど…。
7月… 7月28日 → 学生は夏休み。まあまあ狙ってた感じ。日も伸びてきてるし。
という感じで、2,3,4月の日程が悪すぎてスタートダッシュに失敗する感じが見えてます。。。
サービス業界が主体で色々とキャンペーンを出していかないとそうとう厳しい感じがします。
(その3)設定日がわかりにくい。
毎月最終金曜日という設定がわかりにくい。 母の日とか父の日と似た設定方法ですが、
母の日や父の日は年に1回。プレミアムフライデーは月1回。頻度が違います。
しかも「フライデー」と付けてるために「ん?毎週金曜日なのか?」と勘違いしてしまう。
これだったら、母の日のように年1回または年2回くらいにして、しかも日本語で設定した方が良いと思った。
例えば、はんどんの日 とか(笑)
いや、理屈を説明されれば、大問題だってのが頭では理解できるんだけど、一方で感覚的に「そんなに悪いことなのか?」と思っている自分がいる。
昭和の末期の頃まで、日本は狭くて資源もなくて、でも人口だけは多い国で、だからみんなが海外から「ウサギ小屋」と呼ばれるような狭い家に住んでいて、地獄の通勤ラッシュにもまれて必死に長時間はたらかないといけなくて、「世界第2位の経済大国」とか言われてるけど、欧米にくらべればずいぶん生活の質がよろしくない、というようなことが言われてたような気がする。
中でも「国土が狭いのに人口が多い」のが結構な問題だという共通認識があった。
だから、少しくらい人口が減ったほうが、とくに都市部なんか暮らしやすくなるんでないの?という感覚が抜けないのだ。
「仕事がない」「給料が上がらない」という人がいる一方で、「少子化で労働力不足が問題になる」ってのも、なんか狐につままれたような気分になる。
あと、インドとかいくと、そりゃもう人間があまりすぎて困っているのは明白なので、地球全体から言うと、これ以上人増えて大丈夫なんかな?とか。
あと、モノ値段がさがるのがよくないって言われても、やっぱり「同じものが安く買える様になるのなら、それに越したことはない」という素朴な感情が勝ってしまう自分がいる。
デフレだから給料が上がらない、インフレになれば給料も上がるっていわれても、そんなもん絶対「給料が上がる」よりも先に「ものの値段があがる」に決まってんじゃん、って思ってしまうし。
少し話はずれるのだが、自分が子供の頃はまだまだ「公害問題」ってのがいろいろ言われていて、実家の近くのドブ川なんてひどいものだったし、隅田川も東京湾も、今よりずっと汚かった。
このまま良くと、ますます公害がひどくなって、いずれ地球はますます大変なことになる、といっている大人がいっぱいいた。
たびたび「光化学スモッグ注意報がでているので、外で遊ばないでください」なんてことがあるもんだから、子供達もなんとなくその感情を共有していて、当時の子供たちが「ノストラダムスの大予言」で盛り上がって、1999年で地球が破滅するんじゃないかと恐れたのも、その辺の感情の発露だったんじゃないかな? と思ったりもする。
幸い、地球が破滅することもなく、ミレニアム騒ぎからもうだいぶたつのだが、東京の海や川や空気は、昔に比べると驚くほどきれいになった。
公害のせいで「ますます大変なこと」になんて、ちっともならなかった。
なぜか、「少子化問題」と「デフレ」について騒いでいる人をみると、あのころ「公害ガー」と青筋たてていた大人たちを思い出してしまったりしている。
http://anond.hatelabo.jp/20170220012819
今回起こったのは、10年以上遊戯王の主役で有り続けた「エクストラデッキからの特殊召喚」を根本から揺るがし、取り返しがつかなくなったルール変更である。
遊戯王はモンスターを場に召喚して戦うカードゲームで、様々な召喚方法がある。その中でも主役級の位置を担う融合召喚、シンクロ召喚、エクシーズ召喚、ペンデュラム召喚、これらをまとめて「エクストラデッキからの召喚」と呼ぶ。昔は融合しかなかったのだが、世代が進むにつれて新しい召喚方法が生まれ「エクストラデッキからの召喚」とみられるようになった。
そして今回行われたルール変更とは「新しいカードで新しい召喚方法を使わなければ、エクストラデッキからの召喚を大きく制限するよ」という盛大なちゃぶ台返しである。
なぜデフレさせなければならないのか。それは、現在の遊戯王はインフレがいきすぎてしまっているからである。
トレーディングカードゲームにおいて、カードプールの増大と強さのインフレは不可分だ。カードプールが大きくなる(カードの選択肢が広くなる)ほど、今あるカードだけでも十分なデッキを組むことができてしまう。すると、新しいカードを買う動機が生まれてこない。新しいカードがちゃんと売れるためには、既存のカードよりも強く、でなければ斬新なカードでなければならない。そして遊戯王は「新しいカードは強くなければならない」という構造から逃れられず、インフレを止められない状態となっている。
その結果、アニメと違って、現実の遊戯王は1,2ターンで勝負が大方決まってしまうようになった。最前線級のデッキとそれ以外とでは深い断絶が存在しており、最前線級のデッキとまともに試合をしたければ、最低でも「即死技を出す能力」「即死技を止める能力」のどちらかを備えていなければ話にならない。このような高速環境では新たに斬新さを作る余地もほとんど残っていないので、新規カードはさらに強さに偏るようになる。これが何年も続いているのが今の状況だ。
数年前までは禁止制限リストに最前線級のカードを適宜入れていくことで代謝を促すことがまだ機能していた。しかしこの方式も限界が来ている。なぜなら新作のカードはどれも異常に強いので、特定のカードを禁止するという方式が現実的ではなくなってきているからだ。禁止制限リストは100種類を突破して久しい。
では、ルール変更はインフレを解決し、健全な環境をもたらすだろうか?残念ながらならないだろう。
最前線のデッキのなかには、本変更の影響を受けないグループが存在する。これらのデッキは「エクストラデッキからの召喚」をほとんど使わないので、ルール変更前と強さが変わらない(例: インフェルノイド)。となれば、他のデッキはそれらと互角に渡り合う必要があり、新ルールが高速環境に戻るのに、そう時間はかからないだろう。
既存デッキを環境から強制的に退場させるという点で、このルール変更は事実上のスタン落ち(古いカードをまとめて使用禁止にすることで環境を強制的に代謝させる仕組み)である。しかしこのような場当たり的なやり方では、仕組みとして持続性がない。いずれカードプールは増大し、また現在と同じ即死ムーブが跋扈する状態になる。その度にグレートリセットを行うのだろうか?他のカードゲームの事例を挙げると、マジック:ザ・ギャザリングでは定期的にスタン落ちが行われるのだが、これは計画的に、少なくとも1年前には予定されているので、プレイヤーもショップも適切に備えることができる。
ルール変更は大きな傷跡を残すことになった。
電撃的に発表された変更は影響範囲が甚大で、多くのカードを紙屑化し、その価値を破壊するものだった。これは「遊戯王には高価なデッキが明日には無価値になる大きなリスクが存在する」という極めて悪しき前例となった。「業界トップのソシャゲーにおいて、突然既存のSSレアの価値がN相当になった」と例えればわかりやすいだろうか。今後同じことが起きないという保証は全くない。そのリスクはショップとプレイヤーに降りかかる。
遊戯王アニメが世代交代するたびに「エクストラデッキからの召喚」に新しい召喚方法が生まれ、「エクストラデッキからの召喚」は遊戯王の主役であり続けた。それが潰れたということは、これまで活躍したデッキのほとんどが、最前線のデッキのみならず、歴代アニメの主人公のほとんどのデッキまでが機能不全に陥ってしまったことを意味している。アニメ・カードゲームの両方に対して、過去積み上げたアイデンティティが否定されたということでもある。
アニメ面白いですね。彼らのデュエル、かっこいいですね。でも彼らがやってること、これからはルール違反なんですよ。
ルール変更はインフレを解決しない。大した意味もないくせに、失ったものは大きい。
遊戯王にとって、これは本当に取り返しのつかない事だった。
いやだから抽象的にでもどんな事実があるのかと。根拠云々以前に判断基準ってものがあるでしょ。
いやだから抽象的な判断で事実はないだろアホか。世間一般の基準で見て抽象的にマイナスだということを述べた上でその要因を考察してるわけでしょ。
30代・40代がマイナス評価で20代以下と50代以上をプラス評価しているとするならば、その評価点は何なのか。
「Aがマイナスだ」という命題を述べると「A以外はプラス」だという命題を帰結できるとかちょっとオツムが足りてない人だと確信されてしまうからやめておこうな。
自営業は比較的早くに影響があったけど、バブル崩壊当時ってそんなに大事になると思われてなかったんだよ。あくまで一時的な不況で、まあ3-4年で日本経済にももう一度波がくるだろうと楽観視されてたので、サラリーマンの給与についてはしばらくの間手を付けられていなかった。そこからの日本の歴史を知っている感覚で過去を振りかえると、バブル崩壊の瞬間に何もかも変わったように思えるかもしれないけど、俺の記憶ではかなりの間、楽観視して、ぼやぼやして何も手を打たずに数年放置されてたの。少なくとも、バブル崩壊が直接的に生活に影響を与えるまでにはタイムラグがあった。投資のレベルではバブル崩壊時からマイナス局面に入っているけど、生活のレベルとしては消費者物価指数でデフレになった1998年くらいからが、自分の感覚としてもバブル崩壊のヤバさが生活に出てきてた感じ。
98年デフレや指標の悪化は消費税でますます悪化させたというだけでしょ
そもそも株価の暴落自体は89年をピークに90年にかけて一気に起こってる
http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20161024/Its_the_demography_stupid
このエントリーにあるように人口動態は自然利子率に影響を与える。人口動態で自然利子率が下がってしまうと金融政策の効果に制約が掛かるのでこれは大きな問題である。
日本のデフレはその結果であり、藻谷浩介大勝利!・・・ということなのだろうか?どこの国においても人口動態は自然利子率に影響を与えるにしても、先進国の中でも特に人口動態の問題が深刻な日本では自然利子率への影響が巨大だったのだろうか。
日本では1990年~2000年にデフレに嵌まり込み、そこからの脱却に苦労している。このような状況は日本だけである。自然利子率が大きく下がったのもこの時期だと考えられている*1。では、この間の日本の人口動態は他に類を見ないほどの大きな影響を自然利子率に与えたのだろうか。
そこで、実際のデータを見てみよう。
まず元のエントリーの2.依存人口比率である。生産年齢以外の人口を生産年齢人口で割った依存率は1990年に43.5%だったのが2000年に46.9%と上がっている*2。65歳以上の人口を生産年齢人口で割った場合は1990年の17.3%から2000年の25.5%までもっと顕著に上がっている。依存人口比率が高くなると経済の貯蓄率が下がり、自然利子率は上昇することになる。
次に3.平均寿命を見ると年々安定的に上がっている。このことは長い老後に備えての貯蓄が増えるので、経済の貯蓄率が上がり、自然利子率は下落することになる。
この2.依存人口比率と3.平均寿命の効果はどちらも貯蓄を通じたものである。そこで家計貯蓄率のデータを見ると1990年から2000年にかけて日本では下がっている*3。家計貯蓄率が低下した人口以外の理由もあるだろうがその下落が大きいことからすると、2.と3.の効果を合わせたものでは自然利子率は上昇している可能性が高い。
つまり人口動態が自然利子率を下げてしまったという場合、1.労働供給の伸び率の効果がとても大きく2.と3.を合わせたもの以上になっている必要がある。
では生産年齢人口はどうであったか?1990年は86,140千人、2000年は86,380千人である*2。増えている。つまり、生産年齢人口の変化は自然利子率にプラスに働いていた。
よって1.2.3.トータルで人口動態は自然利子率にプラスに働いていた、マル、終了。藻谷浩介残念!
・・・とは、もちろんならない。
確かに人口動態は1990-2000年にかけて自然利子率にプラスに働いていた可能性は高いものの、それ以前の人口動態がもっと大きなプラスに働いていれば、その大きなプラスの効果が剥げ落ちてしまった分だけ自然利子率は低下する。
では何を見れば良いのか?それは、1.については1990年から2000年にかけて15-64歳人口が増えたか減ったかではなく、15-64歳人口の増加率が高まったか低くなったかである。人口が何%変化したかではなく人口増加率が何%ポイント変化したかである。
たとえば生産年齢人口が年10%で増えていたのが年3%にまで増え方が下がった人口増加社会ではそれが理由で自然利子率は下がるが、年1%での生産年齢人口減少が続く人口減少社会ではそれだけなら自然利子率は下がらないのである。
1980-1990年の間の15-64歳人口の平均増加率は年0.88%であったのが1990-2000年にはこれが年0.06%となっている*4。増加率は0.82%ポイントも下がっている。これが他で類を見ないほど大きな低下であれば、15-64歳人口の動きによって日本では他の国よりも自然利子率が大幅に低下し、日本だけがデフレに嵌まった可能性が高まる。藻谷浩介大勝利なるか?
さっそく他の国の15-64歳人口の平均増加率を見てみよう。
おお、これらの国と比べると日本は比較にならないほど急速に劇的に人口動態が悪化していると言えそうだ。やはり藻谷浩介大勝利か?
ところが、
と増加率の変化幅で見れば日本以外にも劇的な人口動態の悪化が見られる国がある。しかし、これらの国ではこの間にデフレにはなっていない。
しかも、何もこの時期だけが人口動態でデフレになるわけではないだろう。日本がデフレになったときと同じ程度の劇的な人口動態の悪化があればデフレになるのであれば、他の時期に人口動態が悪化した国ではその時期にデフレになっている可能性が高い。ところが、15-64歳人口の増加率が0.5ポイント以上という劇的に低下する経験をした国は数多くあるのである。
先進国に限らなければ
かように人口増加率が低下して自然利子率を引き下げたケースは多数あり、その規模も日本だけが急速に劇的に悪化したとは言えないものである。
2.依存人口比率の上昇は日本が劇的であると言えるがこれは元のエントリーにあるように自然利子率を引き上げるものであり、3.平均寿命はどの国でも長くなっていて日本だけが特徴的な動きはしていない。
つまり人口動態は、こと自然利子率への影響という点においては、日本だけが特に急速で劇的なわけではなく問題が深刻なわけではない。なのに日本だけがデフレに長く嵌まり込んでしまった。
これはデフレの原因として、人口動態の悪化が決定的な要因であったわけではないということである。藻谷浩介残念!
http://www.jcer.or.jp/j-fcontents/report.aspx?id=10KYE8ASWCENXJDAI8125N3CI51I8NV1
http://www.stat.go.jp/data/jinsui/2014np/pdf/gaiyou2.pdf
*3家計貯蓄率
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4520.html
https://esa.un.org/unpd/wpp/DVD/Files/1_Indicators%20(Standard)/EXCEL_FILES/1_Population/WPP2015_POP_F15_1_ANNUAL_POPULATION_BY_AGE_BOTH_SEXES.XLS
なぜ現代の日本ではポピュリズムがかつてのナチや今の米国のトランプ現象のような(国家社会主義的な)形を取らないで経済政策的に逆の(新自由主義的な)現れ方をするのか? についてはどう解釈したらいいんだろうな。
というTweetを見たので思うところを書く。
それは「なぜ私たちは困窮しているのか?」という問いの答えが、そのまま表れているのだと思う。
この問の答えとなりうるものはいくつか有る。この場合、その答えが本当に正解かどうかは問題ではない。その人(国民が)がどんな答えを想起して、望むのか? というのが要件になるからだ。
ひとつには「富裕層が搾取しているから、私たちは困窮しているのだ」というものだ。ある意味左翼的な発想だといえる。この答えのパターンは国内でも国外でも見られる。日本の場合この「富裕層」というのが実にふわふわしてるので「企業が搾取している」みたいな形で表出しているように思える。「内部留保している企業が悪だ」という論説だ。
「国内の異分子(この場合、移民)が存在するから、私たちは困窮しているのだ」という答えもある。Brexitとかトランプの言説の中心的なもののひとつがこれだ。国内の職や富を、本来分け与えなくてもいい外部的な異分子(本当に分け与えなくていいのかどうかは、今回は問わない。そう答える人の中では「分け与えるべきではない」という感情があるというのが今回は重要なので)に分け与えてしまったが故に、私たちは困窮しているのだ! という主張である。結論としては、そのまま「奴らを追い出せ!」となる。日本では、在日韓国・朝鮮人への風当たりとして見ることが出来る。だから、Tweetのように国家主義的なそういう排斥がまったくないわけじゃない。もっとも、日本では在日韓国・朝鮮人を移民だとみなしたところで割合は非常に少ないので、彼らがいるからこそ日本が困窮しているというのは説得力に欠けるためか、一般的な人はこのタイプの主張を強くはしない。
最後のひとつは「私たちの中に怠け者がいるために、私たちは困窮している」というものだ。「同じ庶民の中に怠けている人間がいて、彼らはより少ない労働で社会の富を多く得ている(=不当である)」、「だから私たちが困窮している」という主張だ。これがおそらくTweetでいう「新自由主義的な表れ方」につながっていて、結果として「怠け者は見捨てろ、自己責任だ!」という結論になって現れる。このタイプの主張は、たしかに日本独特のものであるようにみえる。
なんでそんな主張が表れてくるのかだが、マクロはともかくとして、ミクロ的な、つまり職場や学校や地域社会において、「怠けた人は得をする」というのが日本においては真実だからだ。
例えば伝統的な日本の職場において、その部署のエースが成績最下位の3倍の成績を上げたとしても、3倍の給与はもらえない。むしろ仕事ができるということで面倒だったり厄介だったりする仕事を回されたり、要領の良くない人の面倒を見なければならなかったりする。そして給与に関しては色を付けた程度で、どんな成果を上げても横並びが普通だ。能力が高く頑張っても得をしないということは、つまり、ある一定額の給与をもらうという視点にたてば、手を抜いたほうが得であるということになる。
これは学校や地域社会でも一緒で、起業が少ない理由にも通じている。企業では出世を望まないということになるし、学校や自治体では責任者になるのを回避すると言うかたちで現れる。努力して成果を上げたとしても組織の中では評価されないし、仮に評価されたとしても、今度は周囲の妬みや僻みが待っていて、結局は損をする。……そういう実感を日本人はもう肌感覚として持っている。
マクロ的にみれば「全員がそうやってより低い努力しかしないと、全体の成果がどんどん沈下するだけで、結局は自分もジリ貧だぞ」「乗ってる船が沈んで後悔することになるぞ」となるのだけれど、普通の人間はそこまでマクロ感覚で生きてはいない。国民全員が貯蓄を開放すれば景気は上向くと理論としてははっきりわかっていても、「このままじゃデフレになっちゃうから貯金は全部やめて暮らそう!」という生き方がなかなか出来ないのといっしょだ。
だから、ミクロ的な「怠けた人は得をする」という実感を頼りにマクロを類推して、「私たち同じ庶民の中に怠けている人間がいて、彼らはより少ない労働で社会の富を多く得ている」という結論が合成される。その結果出てくるのは「生活保護を打ち切れ!」とか「奨学金を返すのなんて当たり前だ!」とか「就職活動をサボってフリーターになったんだから低所得なのは当たり前だ!」とかいう自己責任をキーワードにした新自由主義的な責任追及だ。
そんなわけで、なんで日本においては下流叩きじみた新自由主義信仰があるのか? については「怠けたほうが得な社会を私たちが作ってきたから」だ。能力がある人や成果を正当に評価しないで、ムラ社会的な横並びで生きてきたので、社会が苦しくなるのは身内に裏切り者がいるに違いないという発想になるのだ。
Tweetでは「新自由主義的な表れ方」といっているけれど、日本はアンバランスで片手落ちだ。本来の新自由主義であるならば(市場原理を最大評価するんだから)能力が3倍ある人には3倍給与を与えるはずだからだ。
再分配を考えるのなら、そしてそうやって高額所得を得た人を大いに賞賛して、褒めて、よーし俺も大儲けしちゃうぞー! と皆で乾杯でもした後に、その上で気持ちよくがっぽり税金を払ってもらって、それを分けたほうが効率がいいし、筋というものだ。結局国のGDPは個人の生み出した付加価値の総和なわけだし、ひとりひとりが頑張るっていうのは、がんばって成果を出すのが嬉しい環境を作らないと実現できない。つまり、自分が頑張るってのは、頑張って成果を出した人間を大いに褒めて評価するってのとセットでしかありえないはずだ。日本の場合はそういうアメリカンドリーム礼賛みたいな態度は殆どゼロで、高額所得者を褒めない上で、「目立たず最小限の労力で、しかし周囲に激怒されて村八分にならない程度に稼ぐ」という「出る杭にならないチキンレース」みたいな社会状況を自分たちで作り出し、なおかつ「自分の負担になっていそうな、自分より少し下の人間を叩く」ので、本当にたちが悪いと思う。