はてなキーワード: ぼんやりとは
中年も終わりに差し掛かっているという現実がさらに気分を落ち込ませるこの時期
女という生き物は本当にこの世に存在しているのだろうか
そんな疑問も出てくる
世の中は広く未知の世界が広がっている
今年ももちろん一人でクリスマスを過ごし年末を過ごし新年を一人で迎える
毎年のことだ
もう何十年も過ごした道だ
世の中の生きるものすべてがすべて死に絶えてしまえばいいと本当に心から願う
何十年も孤独と一緒に過ごしてる俺だから言えるけど孤独感は消えない
むしろ大きくなるばかりだ
だからこそ孤独感は大きく成長し、今にも爆発しそうな闇がここにある
世間の誰も悪くない
俺が悪い
僕はずっと、うどん粉っていう物はウドンを作る専用の粉だと思っていた。
具体的には30数年間。
ウドンゲという植物が存在するのは知っていたので、きっとこれを『饂飩華』とか書いて、この種かなにかから生産されている粉が『うどん粉』なんだろうと。
他の作物と同じようにウドンゲ畑が並んで、ウドンゲ農家では収穫期に忙しくこれを収穫するのだと、架空の映像も確かに脳内にはあったのだ。
ポピーに似た花をトラクターだかなんだかで収穫していく俺の脳内のあのジジイとババアはいったい誰なんだ。
てここまで書いて思ってのだけど、むしろ僕だけが間違えていたことが恥ずかしいので、正解を言わない方がいいのか。
ぼんやり読み飛ばして『うどん粉』はうどんを作る専用の粉で、『ウドンゲ』という植物から生産されると信じる人が増えたら少し楽しい。
数年前までロジカルシンキングが苦手だった。論理が飛躍してるって大学の教授によく言われた。
結局それがよくわからなくて、研究がうまくいかないまま卒業して、就職して、エンジニアになった。
研究はうまくいかなかったけど、いま仕事はそこそこうまくいってる。
で、今年入ってきた新人が学生時代の自分と同じタイプっぽい。人に伝えること、主張が苦手、論理が飛躍する。
そんなわけで改めてロジカルシンキングについて調べていたら、あることに気づいた。
カップリング同人書くタイプのおたくが日々やってるのって、ロジカルシンキングだ。
作品を見て、自分はどう考えるか、どこの組み合わせが一番萌えるのか、自カプを見つける作業。
ストーリーの裏側に垣間見えるキャラとキャラの関係性の行間を読んで(妄想)、読み手を納得させるだけのロジックを積み上げて、自論を形にする。
社会人になってからはじめて長めの作品を書いたり同人誌出したりするようになって、あんなに苦手だったはずの論理思考が多少できるようになっていた。いまだに言葉が足りていないことはあるけれど、少なくとも職場では論理の飛躍を指摘されることはなくなった。
「プライベートでも論理思考を訓練してほしいけど、どういうのが良いんだろう」と上司が頭を悩ませていたけど、自分にとってのそれは明らかに同人活動だったと気づいた。
からっぽな人間ってマジでなにも考えてないんだよ。面白いアニメ見ても本読んでも、面白かったな、で終わるの。
今だったらわかる。この話が良かったとかこのキャラが好きだとか、ふたりの関係尊いとか、こいつら絶対付き合ってるわ〜とか。あるじゃん。ないんだよ。「考える」「わかる」のレイヤーが一段階違う。そこを知るきっかけをつかめないとたぶん永遠にそのままだ。
幸運にも自分は、周りにいた強火のカプ厨に囲まれて自カプの主張で殴り合う姿を見て、そのときはじめてその壁を越えられた。
主張がない、伝えたいことがない、感想や意見が思いつかない、そういう人のための人生を楽しく過ごすための最高のトレーニング。
最悪書かなくても良い、自カプを見つけろ。作品に描かれていない部分に存在するふたりの関係性を読み取る訓練をするんだ。
そしてあわよくば自カプの件数に貢献してほしい。いやごめんそれは邪念だけど。
仕事内容が辛かったわけでもない。
ただ、完全にモチベーションが保てなくなった。
毎日の仕事はルーチンになっていて、別にモチベーションなんてなくてもこなすことはできていた。
だけど、主観的だけど仕事の質がどんどん下がっているように感じた。
気がつくと俺はストロングゼロを飲むようになっていた。
ストロングゼロを飲んだ時だけ、世界は鮮やかに色を取り戻した。
それでも仕事量に変わりはなったし、評価されるだけのことはしているつもりだった。
ひとつだけ変わったことといえば、夜にやってくる曖昧で鮮やかな時間のことを考えることが増えていった。
俺のいた会社は8月から10月にかけてがいわゆる繁忙期だった。
じりじりと続いていた残暑が突然終わった。
その朝、俺はストロングゼロがまだ抜けきっていない頭で通勤していた。
ぼーっとしたまま、家を出て、なんとなく電車に乗って、なんとなく会社に着いた。
会社は文教地区にあって、近くには小学校、中学校、公立の高校があった。
学生たちが通学していた。
最後の出勤の前日に和月が捕まったことだけが、記憶の奥の方で鈍色の光を放っている。
私もだけど、ぼんやりとした死にたい気持ちを抱えてる人って結構多いと思う
別にどうもする必要なく、ただ死にたいと思いながら生きてればいい
なにもしなくてもいつか死ぬし
タイトルの通り。この前、冬の賞与面談があった。今回支給された賞与の評価理由をフィードバックする面談な。
そこで現部署の上司に言われたのが「心当たりもある方は思うけど、上期は休みも多かったから、前期より評価は下げてます。金額が少下がっているけど、下期は挽回する気持ちで頑張ってください」
俺は頭が悪いからそうっすかー頑張りますわ!でまとめてしまったけど、後から考えると悔しいわ。
その前に心当たりってやつについて説明すると、今年の4月に遡る。
今年の4月時点でその部署に1年間在籍してて、ペアで仕事してた先輩が異動することになった。
そこで新しく着任した先輩と仕事することになったんだがまぁウマが合わない。詳細省くがパワハラの嵐とおもつてくれ。
最終的には心療内科にかかって診断書貰ってそれを産業医に持ち込んで、俺が異動することになった。
この頃の俺は今年度分の有給を使い切る勢いで仕事を休んでいた。夜は眠れないし食欲もないし、どうしても会社の最寄駅で降りられないことが何度もあった。限界だと思って心療内科に行ったら診断書もらったというわけ。
休職を申し出たが、いろいろ上のメンツもあったのか部署移動という話になった。頭がぼんやりしててあまりはっきり覚えていないのだがそういう結果になった。
そうして話は最初に戻る。
冬の賞与は上期(4〜9月)の評価で決まることになるから、9月に異動した俺の評価は、場合は前部署の上司がすることになる。
現部署の上司も、評価を前部署の上司に確認したところ、まあ休みも多かったから減額査定、という評価だったらしい(現部署の上司にそう説明されたってことで、実際はどういう言われ方をしたのかはわからないけど)
結果パワハラに耐えきれず休みがちになった結果、会社から期待された仕事量をこなせず評価はマイナスということのように見える。
理屈は分からんかもないけど、自分を守ったことの結果がこれかよ。休むのに使ったのだって欠勤じゃなくて有給だぜ。
前部署の先輩がどういう評価を受けたのか知らねーが、人を休職手前まで追い込んどいて、のうのうと生きてやがるのか。
結果そういう会社の期待に応えられない自分が悪いのか。俺は誰に向かってクソッタレと叫べばいいんだよ。クソが。
無性に悔しくて悔しくてぜんぜん眠れない。
うまく説明できないんだけど、俺は世界と自分と他の人との関係を、ブドウの房みたいな形に思ってた。
俺は何よりもまず世界と繋がっていて、他の人とは世界を介して間接的に繋がっている。
他人と関わり合うということは、ブドウの実同士の間に、元は存在していなかった新しい枝を生やすようなもの。
ぼんやりしたイメージだから穴は色々あると思うけど、そんな感覚だった。
しかし、ある人の自叙伝的なものを読んでいて、その人の世界は「ブドウモデル」ではないのでは?ということに急に気づいた。
これは想像するしかないから自分のイメージよりさらに覚束ないけれども、
その人にとっては他人と自分の間にまず枝があって、それが複数の他人と絡み合い、その総体として世界があるんじゃないかと思った。
いわば網目のような状態。世界とはネットワークで形作られていて、自分と世界を直接つなぐ枝などは存在しない。
そのことに気づいてから、過去に話が合わなかった相手とのやり取りなどを思い出すと、この辺のとらえ方の差があったかもしれない。
俺は、他人を理解するというのは、相手と世界の関係をよく観察して知ることだと思っていた。
でも「網目モデル」の見方だと、理解とは相手と自分の関係をより密にしていくことになるのだろうか。
俺は昔から一度ならず、「人間に興味を持て」「情が薄い」などと言われてきた。
安室奈美恵さんが引退するってなったときに、なんていうか彼女の人格っていうものはないよなあとぼんやり思っていて、でそんな感じの女はいつの時代もどこにでもいたなって思った。
安室奈美恵さんは絶頂期にできちゃった結婚をしたり、母親が殺害されたりなどとてもドラマチックな人生を送っている。でも彼女の言葉っていうものはどこにもない。
あるのかな、あるのかもしれないけれど、それは楽曲だとかからはにじみ出ない。
あくまでも彼女はただの「安室奈美恵」であって、その中の人が何を思ってどう感じたかはそのパフォーマンスには影響しない、そこに安定感がある。
いや、サユリストと呼ばれる人々にとって彼女が何を思ってどう感じてどうパフォーマンスに影響したかは言えるんだろうけど一般人にとっては吉永小百合さんは人生において何かがあったとしてもそれによって目の前の何かが変わることはない、安定感があり間違っても手首を切ったりはしないあくまでも理想の見るものの手のひらとても狭い想像の中で動いてくれる稀有な存在だ。
安室奈美恵さんの反対側にいるのが宇多田ヒカルさんだ。彼女は母親の死をモロにうけていてそれを自分の中でどうしても消化しなくてはならなくて歌う。音程は不安定で言動も不確かなときが多い。彼女にとっては母親の死というものは歌にのせて消化しなくてはならないものでその消化活動においてそれを聴いて癒される人も多いのだろう。でもとても不安定だ。そこに救いを求めてもいいものかどうなのか身内の死という誰にでもありうる現象において心が作品がこんなにも左右されるような人の作るものに対して、自分の心をゆだねてもいいものだろうか、的な。ここともに母親をある意味殺された歌姫ってことで対比させてドキュメンタリー作っても面白そうだし対談させたいとこですけど誰かそれやってほしいな。
似非科学というのはいつの時代もなくならないものだ。パッと思いつく例だけでも、血液型性格診断、ゲーム脳、環境ホルモン、水素水、マイナスイオン、等々、枚挙に暇がない。多くはマスコミによって支持され、テレビ番組で特集が組まれ、その科学的根拠があいまいにも拘らず世間に流布されて浸透する。テレビ番組などはあたかもその説を「検証」しているかのような映像を作り、怪しい肩書の専門家のコメントを添える。視聴者の多くはなんとなく「科学的に証明されている説なんだ」と信じ込み、疑問を持つことなく受け入れてしまう。一億総白痴化社会の完成である。最近はネット上で多くの意見を比べて読むことができるので、情報収集能力の高い人たちはそこまで騙されやすくないとは思うが、未だテレビや新聞が主な情報源である人たちにとっては、上述の似非科学が今でも信じていることが多い。特に血液型性格診断などは、宗教のように信じ込んでしまっている人も相当数いるだろう。
私も子供の頃はこれらの似非化学に騙されやすい人間だった。最近はほとんど見ないが、昔はテレビが娯楽の中心だったこともあり、夕食時などはよく見ていたものである。特に、捏造問題で打ち切られた「発掘あるある大事典」などは、親が好きだったこともあって毎週見ていた。その中で血液型性格診断の特集を何度か行っていたことは、今でも何となく覚えている。番組の中で「数名の幼稚園児を血液型別に分類してその行動を観察する」という検証が行われており、ものの見事にその血液型の特徴が行動として現れていた。見ていた私は「やっぱり血液型と性格には関係があるんだなー」とぼんやりと納得していたが、今になって思い返してみれば数名の幼稚園児の行動で結論を出すのは早急すぎるし、番組が「○型かつ××な性格」の幼稚園児を数名集めることなど造作もないことだし、そもそも集められた幼稚園児の血液型が本当に表示通りだと証明する根拠は何も無い。極めつけはあの「あるある」である。そういえば「あるある」はマイナスイオンの特集も何度かやっていた記憶がある。まあ、放送内容の真偽を検証するのは今となっては不可能に近いことだからやめておくにしても、心理学会において血液型性格判断の真偽は何度も検証されており、いずれも関連性を肯定するものがないことから、かの理論が出鱈目であることは疑いようがないだろう。
しかし、科学的価値は小指の爪の垢ほどもない血液型性格診断であるが、この似非化学が私に教えてくれたことが二つある。それは「人間は客観的事実よりも自分が信じたいものを信じる」ということと「何かを信じ込んでいる人間を説得しようという試みは大抵徒労に終わる」ということだ。付け足すなら、当時私はまだ純粋なティーンエイジャーだったので、「大人は平気でうそをつく」ということも学んだと言えよう。
私が初めて血液型性格診断を反証する意見に触れたのは、中学二年生のことだったと記憶している。当時別段読書が好きでもない(むしろ嫌い)だった私が、たまたま休み時間に図書館に立ち寄り、ふと目に留まった一冊の本を手に取ったのがきっかけだった。それは村上宣寛という方の著書『「心理テスト」はウソでした。受けたみんなが馬鹿を見た』(2005、日経ビジネス)という本である。新作であったこの本は本棚の上に表紙が見えるように立てられており、そのセンセーショナルなタイトルに興味を惹かれたのを覚えている。
10年以上前に読んだものであるためにうろ覚えな部分もあるが、本の内容は大きく2つに分かれていた。前半が血液型性格診断への反論、後半はまた別の心理テストへの反論が主であった(後半の内容は忘れた)。本文の中で、今日の血液型性格診断の源流である能見正比古氏の著書をけちょんけちょんに貶し、また血液型性格診断のような「占い」を人に信じ込ませるための心理テクニックである「バーナム効果」についても詳しく説明があったと記憶している。
当然、本の内容は著者の考えであり、本の内容が絶対的事実であるとは(今となっては)思わない。しかしこの本の内容は、血液型性格診断が科学的根拠のある学説だと何となく思い込んでいた私にとっては、とても衝撃的な物であった。血液型性格診断そのものというより、これまで固定観念的に信じ込んでいた常識が、脆くも崩れ去った瞬間で、まさしく目から鱗であった。活字嫌いな私が、数日図書館に通って本を読んだのは、(マンガ喫茶を除けば)後にも先にもこの時だけであろう。「借りて読めよ」と言われるかもしれないが、当時の学校図書館のルールで、新作は借りれなかったのである。
新しい知識を得たら人に言いふらしたくなるのが能のないアホウドリの常である。当時は全盛期こそ過ぎたものの、血液型性格診断は世間一般に根付いており、それを否定する論調は(少なくとも大手メディアでは)ほとんど存在していなかった。要するに「他の誰も知らないことを自分だけが知っている」ような状況だったのだ。腕のケガだと偽って毎日手に包帯を巻いて通学していたリアル中二病の私にとって、これほどドヤれる材料は無い。とは言え、何の脈絡もなく血液型性格診断の話をするのも変である。友人との会話の中で血液型の話が出てくるのを待ち、出てきた瞬間にこれでもかと否定する。それによって「頭が良い奴」と思われて皆からちやほやされる。正に完璧な計画だった。
ところが、実際に反論してみたところ、いずれもあまり芳しくない結果に終わってしまった。どや顔で血液型性格診断を否定しても、「でも何となく合ってる気がするし…」と、決まって歯切れの悪い反応しか返って来ないのである。挙句教師からも「屁理屈ばっかりこねるな」と言われる始末。今となってはどちらが屁理屈なんだと思わざるを得ないが、確かに思い返してみれば、血液型の話でわいわい盛り上がっている時に、キモいデブがどや顔で否定して来たら、場が白けてしまうのは明白だろう。要するに私の敗因は、イケメンではなかったことである。
冗談はさておくにしても、それ以降、私は血液型性格診断の話が出てきた時、余程仲の良い間柄でなければ、ニコニコして受け流すようにした。まさに2017年現在でも血液型性格診断肯定論者の方が言うところの、「否定する奴はモテない」という説を支持する対応であった。情けないとは思うが、当時ただでさえ友達が少なく、これ以上周りから孤立するようなことは避けたかった私を責めることなど出来るだろうか。ちなみに今は目上の人でなければそれとなく否定している。相変わらずチキンであった。まあ、事実は事実として、TPOに合った会話合わせというのは必要だと思っている。
そこで私が学んだことが、先の「人間は客観的事実よりも自分が信じたいものを信じる」「何かを信じ込んでいる人間を説得しようという試みは大抵徒労に終わる」の二つだ。血液型性格診断を信じている人に、上述の心理学会の話や、バーナム効果の話をしても、決まって返ってくる言葉は「でも何となく当たってる気がする」「私の周りでは当たっている」と言ったものだ。査読のある学術誌に投稿された数千人規模の調査結果よりも、自分の身の周りの数名の事例を優先するのである。当然その事例には得てして強い確証バイアスが掛かっているのだが、本人はそれに気付くことができない。「客観的事実よりも自分が信じたいことを信じる」典型例である。
これは、似非化学に限らず社会の中のあらゆる現象に対して言えることである。例えば昨今、「若者の○○離れ」という言葉をよく耳にする。○○の中には、テレビ、新聞、車、バイク、酒、読書など、ありとあらゆるものが入り得る。そして、その原因は大抵若者に帰着させることが多い。「最近の若者は人との関係が希薄だから酒を飲みながらのコミュニケーションをしないのだ」とか、「世間や政治に対して無関心だからテレビや新聞を見ないのだ」とか、とりあえず若者を悪者にするような結論が多いが、決して「社会の変化によってニーズも変容し、製品価値が相対的に下がった、すなわち製品自体が時代の変化に追いつけなくなったのだ」といったような、自らに責任を帰着させることは決して言わない。やはり自分が信じたいことしか信じていないのである。
また、血液型性格診断を信じている人の共通点として、否定しようとすればするほど攻撃的になって反論するというものがある。先の中学生の時の教師がその典型例だろう。理論的な反論が出来なくなると「屁理屈をこねるな」と論点をずらして逃げるのである。「否定する奴はモテない」というのも同様で、血液型性格診断の真偽について反論しているのに、「モテるモテない」の話にすり替え、さらに相手を「お前は場の空気の読めないモテない人間だ」と罵倒しているのである。そうなってしまうと、もはや冷静な会話は成り立たない。こちらがいくら事実を述べても、返って来るのは罵倒だけであり、最終的に相手が逃げてしまうのである。そこに残るのは無駄な時間の浪費と徒労感だけで、何ら生産性のない労力を費やされることになる。
こちらもやはり社会全般で言えることだ。例えば「若者の犯罪はゲームやアニメによる影響だ」などの持論を展開する人に、「若年層の犯罪率は年々下がり続けており、反対にゲームやアニメの市場は伸び続けている。」と反論しても、恐らくその後は謂れなき若者批判と罵倒くらいしか返って来ないだろう。論理的な反論を受け入れられない人間にとっては、実は事実などどうでも良く、会話を勝ち負けを決める手段としてしか考えていない。そして自分が負けるのが嫌だから、最後は子供のような罵倒に終始し、逃げてしまうのである。こういった手合いは、「自分の非を素直に認められない」ことも共通点と言えるだろう。人間であれば誰しも少なからず負けず嫌いな側面は持っているが、この手の人間は特にその傾向が強い(と何の統計的データもなく私の主観でそう思っている)。
似非科学のような嘘を信じ込んでいる人は、宗教の信者に近い。もちろん宗教を否定している訳ではない。宗教というものは、「事実か否かを証明する術がない」にもかかわらず、「否定は許されない」というのが特徴である。これ自体は別に悪いことではなく、「鰯の頭も信心から」と言うように、それを信じることによって本人の精神的支えとなるのであれば、それで良いと個人的には思っている。客観的に証明できなかったとしても、個人の中で信じていれば問題はないのである。ただし行き過ぎると他者に対する不寛容に繋がり、戦争や弾圧に容易に発展してしまうため、注意は必要である。仏陀とキリストと「顔を描いてはいけないあの人」の誰が一番偉いかというような論争は、決して行ってはならないのである(仏陀とキリストが同じアパートの一室で生活しているマンガはあるが)。
「宗教」と「似非科学」の明確な違いは、前者は「事実かどうかわからない(事実であることに重きを置いていない)」のに対し、後者はそれが「明確な嘘」だということである。明確な嘘を流布すれば、社会に対して損害が生まれる。血液型性格診断であれば、近年問題になっている「ブラハラ」なる差別を生じる。ゲーム脳であれば、本来何も悪くないゲーム会社が風評被害を受ける。水素水であれば、医学的根拠のないただの水を健康に良いと信じ込んで高額な値段で買わされる消費者が現れる。そして、損をする人の裏側では、他者を騙して得をする悪人も存在しているのである。大抵は嘘っぱちの本を書いた奴とその取り巻きだ。
だからこそ似非化学は撲滅しなければならないし、似非化学の考案者やそれを流布するメディアは批判されなければならない。日本は表現の自由が保障されているから何を言おうと自由であるが、それはあくまで公序良俗に反しないことが前提であり、嘘によって不正な利益を得るのは詐欺である。表現に対して批判を行う自由もあるのだから、客観的に見て明らかに事実と異なる論説に対しては、毅然とした態度で批判すべきである。
そして、一般消費者である我々は、常にその情報が事実であるか否かを見極める努力が求められる。媒体を問わず、メディアは平気で嘘をつく。他人に言われたままのことを信じる人間は、その情報が誤りであった場合に他人に責任を求めがちである。何が正しいか自分で判断し、自分の責任において選択する力こそが、情報化社会を生き抜くために必要なスキルと言えるのではないだろうか。
この時点でやばいなと思ったらページを閉じてください。
そのアニメは当時本当に人気で、男子も女子も夢中になっていたから友だちはみんな見ていたし、アニメを見ない同級生もそれなりに知っている、みたいなアニメだった。
私の好きなキャラは、その当時は女の子人気より男の子人気の方が高かったように思う。周りの女の子は髪が長くて綺麗なキャラか、優しくて王子様のようなキャラを好いていたので、無口で情熱を内に秘めるタイプの私の好きなキャラを好きと言うのは男友達の方が多かったから。まあ、SNSも発達していなかったし、インターネットもそんなにする方じゃなかったから分からないが。
そんな感じなので、周りからは「そのキャラ?珍しいね」みたいな反応をされたが、私はどんなに他のキャラがかっこよくても可愛くても彼だけが魅力的に見えていた。多分この時もリア恋だったんだろうなと今になって考える。その時はリア恋も同担拒否も言葉を知らなかったし、そもそも拒否する同担がいなかったから、夢小説を読んで「いいな~彼とこうなれたらな~」とぼんやりと思うに留まっていたけれど。
その後、アニメが新シリーズに入り、私はゆっくり何となく離れた。離れていた間は色んなものを好きになった。アイドルも若手俳優もソシャゲも覇権アニメもマイナーなアニメもとにかく沢山好きになった。
沢山好きになっている間に中学生の私は大学生になっていた。そのアニメのことは懐かしい思い出話に変わった。
そんな私が再燃したきっかけは、その懐かしい思い出話の延長線上だった。
友だちとカラオケに行った時のこと。思い出話に花が咲いて、「そういえばあのアニメみんなハマってたよね、映像とかあるかな」とアニメのエンディング曲を入れた。思った通りアニメ映像が再生されて、思い出話は目の前の出来事に変わった。当然私の好きなキャラの映像も流れる。久しぶりにちゃんと見た彼はやっぱりすごくかっこよくて、彼だけが魅力的に見えた。そして私は
この時はまだ、懐かしいアニメを見てそれなりに思い出に浸るだけのつもりだった。しかし、1話を見た時点で思い出じゃ済まないほどまた彼に惹かれてしまった。それもそうで、私がそのキャラを好きになったのは第1話の登場シーンだったから。そして、話数が進む事に以前は気づかなかった彼の好きなところがどんどん増えて、「やっぱり私はこの人のことが好きなんだ」とどうしようもなくなった。もうこの時点で割とリア恋だが、それは認めたくなくて。なんでかって私は成人、相手は中学生。中学生にリア恋してる成人済み大学生、傍目から見たらお近づきになりたくなさすぎる。彼は、作中で大人になった姿も公開されているが、その時は彼の中学時代を見てそういう事になっていたので「中学生にリア恋はキツいぞ自分」となんとか自分を律して、推しキャラの一人として見ていた。
そのアニメには、彼が彼の親にしたいことをさせてもらえなくなりそうになるエピソードが3~4話に渡ってあった。中学生当時、「推し大変だな~早く和解できるといいな」ぐらいに見ていたエピソードだったのが改めて見た時、彼の表情の移り変わりが、少ない言葉が、1人きりの決意が、全部が切なくて痛くて、どうして今彼の隣にいるのが私じゃないんだろうって苦しくて悔しくていつの間にか泣いていた。と同時に、目に入る彼の夢女子の存在が嫌になって、彼と女の子キャラの二次創作も嫌になって、そんな風に嫌になっている自分さえ嫌になった。でも気持ちだけは加速していく。私だけのものにしたいとかなってほしいとかは言えないし言わないけれど、せめて誰のものにもなってほしくない、でも一山いくら、十把一絡げの人間にはなりたくない、彼の特別になりたい。なれるわけないのに。好きの中にぐるぐるした感情が募って苦しいのに言葉に出来るのは「好き」だけ。毎日毎日こうやって彼を拗らせていったけど誰にも言えなかった。周りにリア恋夢女子も同担拒否もいなかったから。そりゃあ言ったら理解はしてくれたろうけど、こんな重たい気持ち理解させるのも忍びなかった。
結論、どうしようもなくなって所謂「夢垢」を作った。勿論同担拒否だし、人間を1人挟んだ先に同担の存在を感じるのさえ嫌悪感があるのでフォロワーに私の同担がいる人間も拒否しているし、彼を拗らせる日々も続いている。でも同じような人間と繋がることで何とか保っている節はある。
来年はそのアニメの新作が放送される。今よりもっと彼を拗らせるんだろうなと思って今から憂鬱だ。でも見ないという選択はないから更にぐるぐるする。
自分でもアニメに再燃したくらいでこんなになるとは思わなかった。自分の方がおかしいのも自覚している。でも苦しいくらい彼のことが好き。
あーあ、彼が好きっていう感情だけで生きていけたら幸せなのになあ。
最後に、もしここまで読んでくれた人がいて、私が誰のリア恋なのか察しても私のことは探さないでください。
追記:どうしても気になった誤字と箇所直しました
ストロング・ゼロから5年。街の様子はすっかり変わっちまった。今立っているのは子供の頃にあいつらと遊んだ公園。そこすらも汚染されている。あの大爆発から、俺たちの生活に残っているもので以前と同じものはもう何もない。街だけでなく誰も彼も何かが変わっちまった。
それははじめ、化学工場かなんだかが爆発したと報じられ、街のみんなも最初はそう信じていた。しかしニュースの情報量が減るにつれて巷に流れる怪しげな噂の量は増えて言った。誰が言い始めたかは知らないが、いつしか俺たちはその出来事を「ストロング・ゼロ」と呼ぶようになっていた。ストロング・ゼロから5年。謎はまだまだ深まるばかりだ。
そんな時に出会ったのがコウスケだった。コウスケは同じ大学の同期。もう卒業の年で大概の奴らは就職が決まって浮かれているか、決まってなくて絶望してるかのどちらかだった。まあそれは普通の場合。俺とコウスケは何にも考えていなかった。ただ薄れゆく現実感の中で時間が過ぎるのをぼんやりと眺めているような生活をしていた。何も起こらない淡々とした日々が続く中で俺にとってさいわいだったのは、大学の売店で俺が釣り銭を落とした時、拾ったやつがコウスケだったってことだ。コウスケは開口一番こう言った。「おまえ、ストロング・ゼロを知ってるか」
普通だったら怪しい勧誘か何かの手先かな、で終わるだろうけどコウスケは妙に気になるやつでそれから話し込んでしまった。俺はストロング・ゼロのことは何一つ知らない。最初はそう言ってはぐらかしてやり過ごした。コウスケがどの程度のことを知ってるかってのも気になったし、探りを入れる意味合いもあった。コウスケは勝手にベラベラと喋り出した。どれも字が読めるようなまともなやつなら知れるようなことばかりだった。唯一気がかりだったのが、なぜこいつはそんなにもストロング・ゼロに思いいれがあって、それを俺に話しかけたのだろうというところだった。
それから俺とコウスケはちょいちょい遊ぶようになった。お互い何にも考えていない同士。現実に現実感を見出せない同士気があったのだろう。大学の講義に行くでもなく、ただ周辺や敷地内をうろついては適当なベンチで酒を片手にあることないこと話し込んだ。ストロング・ゼロのことは不思議なほど話題に上がらなかった。
その日の夜も俺とコウスケは酒を片手に語り合っていた。いつもと違かったことといえば、コウスケはいつもより積極的に酔っているように見えた。案の定、俺はコウスケを家まで送ることになった。家に送り届け、帰ろうとした時、コウスケは突然口を開いた。あまりにも切羽詰まった様子で言うもんだから、さすがに驚いてしまった。
知らないと言って帰ろうとしたけれどコウスケの力は強かった。肩が痛かった。なんだよ、知らないって言ってるだろ。どうしたんだよ。
「俺、お前があの場所にいたのを見たんだ。知ってるだろ、知ってるなら教えてくれ」コウスケの目は本気だった。
年相応な年のとり方ってなんだ?
どうしたかと聞いたら、父が突然実家で飼っている犬を保健所につれてけと怒鳴ってきたらしい。
妹はこれにショックを受けたのと、何てこと言ってるの!と父と口論になったらしい。
今まで父は温厚な人だった。
突然片目を失明し、それが糖尿病が原因だったりして家族で心配し、支え合ってきた。
最近、歳のせいか物忘れがあって家族でそれを教えてあげると逆ギレするらしい。
もう、話が通じないし、人格が変わってしまってどうしようと妹が泣きながら訴えていた。
私の母は外国籍で日本語で100%意思疎通ができないから、この状況を病院で説明するのも難しいし、あんまり問題視していないみたい。
妹にはとりあえず実家の居心地が良くないなら、一人暮らししていいよ、と言っておいた。
晩節を汚すってこういうことかな、とあんまり両親が好きじゃない私はぼんやりおもった。
あーあ、こまったな