はてなキーワード: ぼんやりとは
ふとmasudamasterさんの話を思い出した。 http://masudamaster.hatenablog.jp/entry/2017/08/09/123841
男女平等がある程度すすむと「女性が背負って立つ」みたいな状況も一部で出てき始めるわけだけど、そうなると女性観点でも面倒になって、社会運動が勢いを失っていく。
30年くらい前からのフェミの活動をぼんやり思い返してみると『優秀な一部の独身女性のための活動』が達成された段階で、熱量は失っていってる印象がある。
これは私の印象なのでもちろん「そんな事ねーよ。フェミは今が最盛期だよ!」と叫ぶのも良い。
ただフェミの中の構成員で、やっぱり優秀で説得力を持ち得るような人材って、普通に仕事に入っちゃってて別に困ってないから、自分の仕事に励むだけで別に弱者のためにアレコレしたりしないよね。仕事忙しいしね。
若くて優秀な女性が今更フェミに傾倒するメリットがあまりない。いまさら「女性に仕事を!」みたいに訴える必要はない。
結果的に残っているのは「昔からいるおばあさん」か「優秀じゃない女性」の割合が増えていってしまうのかな、と。
優秀な女性は、単に「仕事しながら育児できないから保育園はよ!」って自分観点での不満を述べるだけだ。
もちろん保育園はあった方がいい。 もう女性が自宅で育児/家事のみしていた時代には戻れない。男女ともに働くような時代になってしまったのだ。
日馬富士のニュースを目にする度にややもやもやとするのは、多感な時期に彼を育ててきた人々、彼を指導してきた人々のことを考えてしまうからだ。
引退の会見の場でさえあれは指導だったと主張していた日馬富士だが、彼のその考え方を育んだのは周りの人々だったのではないのだろうか。
虐待の連鎖ということがよく言われるが、暴力を伴った「指導」を受け続け、それが必要なことなのだと納得させられて育ってきたら、「指導」には暴力が伴うという「常識」を持った人間に育つのではないか。
もちろんこれはただぼんやり想像しては嫌な気持ちになっているだけだ。
しかし日馬富士について正論でもって糾弾する人々を見る度になんとなく、例えばそれは搾取だから安いものを買うのはやめなさいと主張するハリウッドスターを見たときのような、例えばそれでもここまで育ててくれたのだから家族には感謝しなさいと諭す健やかな人を見たときのような、例えば毎晩両親が怒鳴り合う家の子どもに勉強ができないのは努力していないからだと叱る人を見たときのような、もやもやした気持ちになってしまうのだ。
タイトルのとおりです。
楽しみにしていた演劇の公演が中止になったことに起因する感情を整理するために書いています。まさにチラ裏。でも切実なんだ。
数ヶ月前からずっと楽しみにしていた公演の中止を、さて劇場に向かうか!と意気込んで現地に向かう電車に乗り込もうとした駅で知った。
この時点で公演開始の二時間少し前。ギリギリの判断だったろうと思う。
休みは一日だけなので、夜公演を観劇したら次の日の朝イチの飛行機で帰って仕事、という弾丸ツアー。
出演している俳優のファンで、まさか彼が有名劇団の有名タイトルに出演できるなんて夢でしか考えてなかったから、出演情報を知ったときは物凄く歓喜した。
しかも日本では唯一の360度回転舞台への出演。確実に推し俳優の非常に重要な経験になるだろうし、その経験を力にできる実力のある人だと信じているので、ただただ嬉しかった。
気合いを入れてチケットを取り、数ヶ月を指折り数えて当日を待ち、あとは現地に向かうだけ、となったときに知った公演中止の情報。
しばらく、動けなかった。
比喩ではなく、人間って信じたくない事実を前にすると、文字通り動けなくなるということを実体験してしまった。
少し立ち直って色々調べてみると、似たような事態のときはチケット代金の払い戻しがあるらしいことがわかった。
そりゃそうだ。
そりゃそうだ、良かった。
けど、でも、遠征費は…?
それも二人ぶん。
少し自分と母の話をする。
去年、新しい商売を始めた。脱サラみたいなものだ。母が手伝ってくれている。というか主力である。
一年経ってやっと少し余裕が出るくらいの売り上げが上がった。
私が観たかった推し俳優は、母の最推し俳優でもあって、二人して出演を喜んだ。
今回の東京遠征は、一年頑張った自分と母へのご褒美の意味が強かった。
……。
誰が悪いわけでもないことは分かっている。
何しろ日本に唯一の劇場だ。機材のメンテナンスにしたって、初めてのことだらけだろう。
演者やスタッフに怪我がなくて良かったと喜ぶべきところだ。(スタッフの怪我については正確な情報があるわけではないので詳細は分からない。ただ、誰かの怪我や事故での中止でなくて良かったという意味合いである)
悪かったのは運だ。
わかっている。
どうしようもないことだ、こういうこともある。
でも、でもなあ。。
観たかった。
推し俳優の、座組みの、今しか観れない板の上の生き様を観たかったんだ。
遠征費が補填されないとか云々はあるけど、お金はまた頑張って働けばいい。
それが、涙が出るくらい悔しい。
(なにしろ、またすぐに遠征できるほどの金はない。チケットもない)
(ちなみに2月には再度観劇予定でチケット確保済みだ。しかし初演すぐと、千秋楽間際では観れるものが違うだろう。両方を体験したかった。。)
ということをホテルで酒を呑みながらチマチマ書いてみている。吐き出すって大事だね。思ったよりスッキリしました。ありがとうございます。
書いて良かった。
ちなみに公演中止を知ってから時間を持て余したので、田舎じゃ施設すらない4DXでITを観て(子供たちのSAN値が心配だった)、田舎じゃ上映すらしてない話題のKUBOを観たので案外充実した時間を過ごしました。
三味線かっけええええ!!
私が気にし過ぎていると、母に気を遣わせてしまうので、愚痴ぐちするのはこれで終わりにします。ありがとうございました。
ちくしょー!!
中学時代、BLを通じてセックスと言うものの存在を知った私は、暇さえあればセックスのことを考えてニヤニヤしていた。世の中にあふれるセックスに関する言葉、たとえば3Pやら駅弁やらという言葉を日常生活の中に発見してはニヤニヤしていたし、シャーペンの芯がHなことにすらニヤニヤしていた。名作野球漫画のH2にすらニヤニヤしていたし、「アナリスト」とかいう単語にたいそう興奮していた。
そんな私の当時のもう一つの趣味は宝塚だったのだが、当時から大好きで何度も見ている公演に、普通にセックスの隠喩があったにも関わらず、全く気づかず過ごしていたことが最近わかった。「エリザベート」という作品で、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフが、娼館をまるごと宮殿に取り寄せたシーンである。もうこの時点でセックスセックスなのだが、家臣が「女性を用意しましょう」みたいなことを言ってのことだったので、ぼんやりと、なんか美人を連れてきてお茶でもすると思っていた。あれだけ日頃セックスセックスで染まっていたのに、全く気づけなかった。
以下は、娼館のママが皇帝にバラエティ豊かな女の子たちから自由に選んでさあどうぞみたいなシーンの歌の歌詞である
遠慮せず気取らずに ささ召しあがれ
そんなの店内がぼんやりと臭くなるだろう
うっちー……
常々思ってるけど、うっちーもう好き好きオーラを隠しきれてないだろ
無理やりもこっちの隣に割り込む、
割り込み後、もこっちの方ばかりを見る
吉田さんがあんな格好してるのにもこっちだけを見つめるのもう、もう
焼肉回のときも、周りにみんないるのに、もこっちにアプローチしかけてたし
もうこれ、実はみんなにバレバレなのかもしれないな
今回の最後のコマの後ろで、うっちーの友達たちが実は後ろから見張ってて
もこっちグループの中だと、これに気づきそうなのがガチレズさんしかいないのもまた面白いなあ
うっちーが幸せな最後を迎えられるのかが気になって気になって、夜も8時間しか眠れません(アニラジによく送られるゴミみたいなふつおたにありがちな文言)だよ
告白まで行くのかな
それとも、もこっちが薄ぼんやりと自分への好意を気づくぐらいかな
うっちー、がんばれー
本日たった一杯の酒を飲んで帰ってきた。酔ってはいない、でもいつもよりは冷静ではない頭でふと思った。
「(ああ、鈴木拡樹が好きだな)」
同時にちょっと泣きそうだった。
私はジャニオタだった。だった。過去形である。自担がジャニーズ事務所を、芸能活動自体を辞めたのである。
やむなし。それ以外に言えることはない。ただ心はぼんやりしていた。とても長いこと。
私は自担が好きだった。とても好きだった。アイドルとして大好きだった。アイドルとただの一ファンであることが私の誇りだった。私がたった1人の私として精一杯生きる中で自担を自分の自担として声を大にして応援できることが幸せだった。彼に溺れずに彼を糧に頑張れることがあの頃の私を生かした。
詳しくは以下ブログを参照されたしなのだが、本当に好きだった。そして楽しく充実した日々だった。
http://d.hatena.ne.jp/mimakl/touch/20111014/1318571162
あの頃の自分の瞳を覗き込めばきっと星が見えるだろうと思う。キラキラと前向きに輝く星。
今日の日までしがみついてきたとは思わない。ただあの日々と比べて推せるか推せないかでその後出会った色々な人たちを推し量っていたとは思う。
昨日でも一昨日でもない、なんでもない今日だった。
長かった。私は6歳、歳をとった。
あの頃を閉じ込めたガラスケースはまだ心の中にある。少しホコリは積もったけど輝きはまだまだ色褪せない。楽しかった、あの日々。
同じように推す必要はない。
まったりいこうと思う。
いま仕事中だけど、どーしても集中できないし、今の心身の状態をメモする。
帰って横になりたいけど、部屋が散らかり放題で心休まらない。断捨離したいけどなかなかできない。
とにかく、誰もいなくて、何もなくて、静かで、暑くも寒くもなくて、明るくも暗くもない空間で、ぼんやりしていたい。好きな音楽でも聴きながら。絵も描きたい。
○朝食:なし
○間食:なし
○調子
はややー。
しんどい。
仕事はトラブル対応もしつつ、こなさないといけない仕事はこなしたので問題無し。
リーリエロスのショックから立ち直れずに、SMはシナリオクリアだけで終わっちゃいましたが、今回は久々に対人戦もやろうかなあ。
○トゥーヒューマン
北欧神話(オーディンとかヴァルハラとかロキとか)を題材にした、サイバーパンクSFのアクションゲーム。
ゲーム部分はハクスラ要素強目のアクションゲームかな、ランダムでいろんな強さの武器や防具が落ちる感じ。
右スティックで攻撃なのが初期のモンハンっぽいけど、すぐ慣れたし、序盤でまだ敵がザコいからか楽しくプレイできてる。
ランダムドロップのアイテムだけじゃなく、クラスを選択しての成長要素もあり、僕は「サイバネティクのディフェンダー」にした。
これは、武器のコンボ技みたいなのを捨てて基礎能力が高く、かつ防御によった近接戦闘専門のクラス。
さくさくプレイしたかったので、ちょうどいい感じで、ストレスなくプレイできている。
まず先に褒めておくと、映像は今見てもそこそこ綺麗だし、なによりキャラクタの演技が自然でカメラワークも凝っていて
最近でもたまに見かける「基本は棒立ちでしゃべるときだけ腕を振る人形劇」みたいなしょうもないムービーシーンと比べれば断然優れているし、面白い。
オープニングの酒場での戦闘シーンは、そのサイバーパンクな雰囲気と相まって、ちょっとした映画の始まり並のワクワク感。
だけれども、どうも主人公のバルドルは奥さんを亡くしており、その奥さんの死に仲間の神々が関わっているのでは? と疑っているという書いてしまえばこれだけのストーリーが、ちょっと専門用語が多すぎてちゃんと吹き替えローカライズされているのに、全く頭に入ってこない。
今このあらすじ書いたのも説明書を読んだのとぼんやり頭に入ってきた用語を当てはめての想像で、間違っている気すらしている。
あんまり他のゲームと比較してどうのこうの言いたくないけど、これこそFF13の「パルスのファルシのルシがパージでコクーン」の方が100倍わかりやすい。
いや個人的に「パルスのファルシのルシがパージでコクーン」が別にわかりにくいと思わなかったからなのもありますけどね。
パルスが世界全体の総称で、ファルシがパルスのいろんなことを管理する神にも等しい超常的存在で、ルシがファルシが人間から選んだ手先で、パージがパルスから追い出されて難民になることで、コクーンがパルスに浮かんでる球体状のライトニングさんたちが暮らしてた街でしょ。
別にFF13好きでも嫌いでもないし一周しただけだけど、ググらずに思い出せるし、プレイ中もとくにこれらの用語がわからずに理解できないことはなかった。
なんだけど、トューヒューマンの専門用語は、まずもうどれが専門用語でどれが一般的な用語なのかがさっぱり理解できないから「パルスのファルシのルシがパージでコクーン」みたいな揶揄う文言すら思い浮かばないんだよね。
まあ、まだ序盤だから適当に流しておいて、あとあとなんとなく理解できていくんだろう。
SFとかファンタジーの用語をなんとなく流しつつストーリーを楽しむのは、普段でもよくあることなので、あまり否定的にならずに、ちゃんと真摯にプレイしよう。
繰り返しになるけど、ムービーの出来はすごくいいので、そういう映像美を見るのも楽しみだしね。
●3DS
○ポケとる
日替わり系をこなしたあと、レックウザレベルMAXを39までクリア。
別に号泣するとかじゃないけど、ただ彼女のことをぼーっと考えて時間だけが過ぎていく。
ていうかそんな親しかったわけでもない。中高一貫の女子高で同級だっただけだ。
私は自分で描いた拙い漫画をせっせと刷ってコピー本にして地元の小さなイベントの端っこで配ってるようなオタ女で、同じようなオタ女たちとよくつるんでたけど、彼女はとびきり美人で性格も社交的だったから、そういう子が集まる派手めなグループにいた。
高校になっても私は受験組、彼女は附属大推薦組で、選択授業が被ったことはほとんどない。
唯一の接点が管弦楽部。でもこれは学年の4分の1くらいの子が所属するような大所帯だったから、そのなかでもやっぱり仲良しグループはあって、そこでも私は彼女とつながりはなかった。
ただ、彼女は目立つ子だったけど、少し要領が悪いというか、世渡りが苦手というようなところがあって、一度だけ、見かねた私が半ば強引に手助けしたようなことがあった。助けっていうほど大げさなものではなくて、普通にクラスメイトが困っていたら皆するようなことだったけど、それでも彼女は恩義を感じたのか、たまに話しかけてくれるようになった。彼女は優しい。
それでも、そのころの私たちには中高生にありがちな、グループの体裁みたいなものがあったから、話すときはなんとなく二人きりになったときだけだった。彼女は私のしょうもない話によく笑ってくれた。その顔がすごくかわいいので、私はくだらない持ちネタを繰り返した。彼女が笑うと満足した。
一緒にどこかへ遊びにいったりしたことはついぞなかったけど、彼女は地元の楽団にも参加してて、あるとき私を誘ってくれた。
大きなコンサートがあるときは、人数確保のために楽団員が知人を紹介することができるシステムだった。チェロ(私の担当楽器)が足りなくて、よかったらきてくれない?なんて言われたら行ってしまう。ふたを開けてみれば私しか誘われていなかったので、ちょっとした優越感でニコニコしてしまった。たぶん本当にチェロの人員だけが足りなかったからだろうけど、彼女から選ばれることは得意な気分にさせた。
彼女はバイオリン(とても上手)なので練習は別々だったけど、最後の合わせでは一緒に帰った。電車で座って、それまででいちばん長くしゃべった。私はそのとき彼女に外部受験して地元を離れることを話し、彼女は私に子供が好きで音楽の先生を目指していることを教えてくれた。
そうして私たちはそれぞれ進学し、二年の冬に彼女は亡くなった。
葬儀はご家族だけで執り行われて、私たち卒業生は母校でお別れ会を開いた。
そこで区切りがついたつもりだったのに、その後しばらくして、飲み会で入ったお店で流れているBGMが、あの、彼女と参加したコンサートの演目だと気づいたとき、すごく動揺してしまった。お酒が入ってたからかもしれない。
それから度々、突然彼女のことが心に浮かんで、とても寂しくてやりきれない気持ちになってしまう。心が体の真ん中から徐々にずれていって、そのままどこかにいってしまう。誰かを亡くした人ってみんなこんな気持ちを抱えて日々生きてるの?こういうのどうやって乗り越えてるの?寂しくて仕方ない。
卒業式も寂しかったけれど、これからみんな別々の道でそれぞれ元気にやっていくんだという信頼や希望のようなものがあったから、こんなどうしようもない悲しみだけではなかった。こんな私でも日々をあれこれなんとか過ごしているのに、彼女はどこにもいなくて、なにもしない。働いたり遊んだりしないし、バイオリンを弾かないし、笑ったり泣いたりしない。もうなにも作らないし、生まないし、何にも干渉しない。そんなことがあるだなんて思いもしなかった。あの、音楽室で隣に座って笑っていた人間が、この地球のどこにもいない。頼むからみんな長生きしてくれ。
彼女との記憶なんてこれだけで、でもそれだけをずっと繰り返し思い出してしまう。彼女のご家族はお別れ会で初めて拝見したし、グループにいるときの彼女とは関わりがなかったので彼女と共通の友達はいないし、誰とも彼女の話をできなくて、ここに書いてしまった。文字にしてたら落ち着いてきたから、明日からまた静かに日々が過ごせそう。表現の自由はすごい。
ていうか読み返すと自分のことばっかりでめちゃくちゃ気持ち悪い。彼女のご家族のほうがずっとずっと寂しいでしょ。お風呂入って寝ます。
職場に行くのが辛い。
転職したばかりだというのもあるが、前職と大体同業なのに、私の今までのスタンダードと今の職場のスタンダードが違い過ぎて業務がまずしんどい。
正直、人間関係も上手くいっておらず孤独感と自分の役の立たなさに毎日自己肯定感がすり減っている。
今までの職場で業務が辛いことはあっても職場の人間関係が悪いことは無かったのでどうして良いかも分からず土日はひたすら仕事のことを考えないようにしている。
が、ここ最近職場で泣きそうになったりすることもあり、そろそろやばい気がしている。まさか自分がこうなるなんて夢にも思わず、これがうつ病なのかなとぼんやりと思ったりしている。
転職、休職、退職。どれも何かに負けた気がするのでしたくない。どの選択肢をとっても別に死ぬわけではないのだけれど、決断して実行する余力が無くて何となく耐えながら明日も職場に行くんだろうな。
愛想がよくたくさん挨拶をし、みんなにも好かれている風で
あっという間に馴染んでいて、羨ましくもあった
何をしたのかは知らない
けれど周囲は歓迎ムードだったし、不信感をギルドの人たちにチクるほどには私はギルドに馴染んでおらず、やむなくぼんやりスルーしていた
今日、彼女の除名処分を知って、ああやっぱり、とどこかで思っていた
話変わって、会社にすごくいい子なのにどこか引っかかるという子がいた
どこがどうとは言えなかった
話すと人当たりも良く
あれこれ頑張っているのも伺えた
けどなんとなくの不信感というか不安感というか、安定感に欠く印象があった
やっぱり私は会社というコミュニティで不信感を語るほどには周囲に馴染んでおらず
ただ、ぼんやりと何か引っかかる というのは
仕事帰り、まっすぐ帰宅する気分になれずに寄り道して、ショッピングモールで化粧品を見てた。
このアイシャドウ可愛いな、あれ新作出てる、とかぼんやり考えながら見てるとき、聞き覚えのある甲高くてでかい声が聞こえて
ふと店舗の入り口に目を向けたら職場の嫌いな女の人が入ってくるところだった。
その人の姿が視界に入った瞬間に私は背を向けて逃げ出した。脊髄反射と言っても過言ではない。
多分、向こうもこっちに気付いてたと思う。目が合うことはなかったけど。
上司に対する態度があんまりにも横柄で、公私の分別があやふやで、機嫌の悪いときはそれを振りまきながら仕事するような女性。
私語もお茶を入れに給湯室にいく小休憩もめちゃくちゃ多い。
(あと何故かお茶を入れに行くのは絶対にその女の人の隣の席の女性と行く。ツレ給湯室。それは隣の席の女性も悪いとは思う)
でも勤務歴だけは長くて、あと会社の規模が小さいからボスになってる。
どこかで「良いお局と悪いお局」って表現を見たことがあって、その「悪いお局」にめちゃくちゃ当てはまるようなひと。
仕事でなければ絶対に関わりたくない、という思いが強すぎて逃げたけどやっぱり後ろめたさもある。
もしかしてあの人も少しは傷ついてるのかな?
向こうも私のこと嫌いなんだろうし何も言ってこないと思うけど、仕事でキツく当たられたらどうしよう。
なんか私もその人と同じステージに降りちゃった感ある?
そんなことぐるぐる考えてしまう。
もうすぐ二十七歳になる。
紙に書いて壁に貼って、誕生日になったら剥がせばいいのかもしれない。
「今、俺は26歳! 社会人4年目! ここが頑張りどき!」
みたいなことを正月にでも筆で書いて、壁に貼っておく。
誕生日が来たら剥がす。そして次を貼る。
「今、俺は27歳! 社会人5年目! 上からの評価だけでなく、後輩の育成も、ね!」
時間は流れてゆく。
いや、流れているはずだ。
僕の中の時間は止まったまま、現実世界の時間だけが過ぎている。
27歳になるのもビックリする。
22歳になったときはまだ覚えている。
そこからの5年、何かあったのか?
子供のいたずらで、時計を針をぐるぐると何回も何回もまわして、気がついたら2017年になっていたような気さえする。
サラリーマンになんてなりたくなかった。
フリーターになって夢を追うとか、まあそのぐらいの選択肢はあったけれど、実質的に就職する以外の選択肢はなかった。
労働ということに、価値を見出せなかった。今もそうだが、昔からそうだった。
就職活動。
長い年月を費やしたけれど、今の僕にはほとんど記憶がないのは、忌々しい記憶だったからだろう。
長い就職活動だった。
会社に入ってくる後輩は、学歴も就職活動のハードさも、ワンランクもツーランクも落ちるような奴らだった。
結局は運なのだと思う。
僕の同期は、就職留年したり、未だに実家に寄生したりするが、それはなんだったのだろうか?
そんなものは存在しなかったかのように、日経平均は上昇し続けている。
そして僕もまた、そんなものは存在しなかったかのように、安定した暮らしをしている…
リクルート的な価値観に従うならば、仕事というのは自己実現の手段でなければならない。
仕事を通して、大きな変化を社会に与えて、それを通して自分という存在が救われるのである。
その文脈において、僕がしている仕事は、まったく価値のないものでしかない。
僕の勤めている会社の利益だけを考え、その関係者だけが幸せになるものでしかない。
やっていることが、FAXからExcelの穴埋めに変わったくらいか。
技術者気質だが、管理職としての自分の役割も理解して、高いレベルでバランスのいい部長がいて、
放任気質でどうでもいいところはノータッチにして、締めなければいけないところは締める課長がいて、やりやすい。
そういう上司のもとで、それなりの成果が出せている気がする。
そんな恵まれた環境でも、三年目くらいまで、どうしようもないくらいの焦燥感があった。
自分の技術力とか、会社の求めているマネジメント能力とか、そういうものへの反発があった。
早晩潰されてしまうのではないか、という不安は常にあったけれど、色んなものに恵まれて、そんなことはなかった。
僕が居心地がいい環境というのは、ずっとなかった。
家庭でも、学校でも、バイト先でも、そんな環境はなかった。友達や恋人の部屋でさえも、僕は居心地の悪さを感じていた。
極力シンプルに生きようと思っている。
平日はそれで過ぎていく。
休日に色んなことを考えてしまうが、それだけが僕の生きている時間なのだと思う。
平日はそれでいいと思う。
よくもわるくも、僕はサラリーマン(社畜)である自分を受け入れつつある。
今の日本には、僕と同い年で、同じくらいの給料をもらえている人間なんてほとんどいないのだ。
けれど、それは結局、失われた20年に突入した日本の大半の若者が得られなかった、ある時代は当たり前だった待遇でしかないのだと思う。
もちろんそういう詭弁をもって、仕事をやめて、自由を手にしようということではない。
何が言いたいかというと、このままだと、僕に許された幸福に続く道のりは、
いい奥さんをもらい、仕事を頑張り続けることだということしか残されていない、ということなのだ。
幸福に関しては書きたいことがたくさんあるけれど、はたしてそんなことなのだろうか?
僕にはわからない。
わかる人間なんているのだろうか?
この文章で、誰かを批判しようとか、肯定しようとかいう気持ちは一切ない。
そんな諺があるのかは知らないけれど、仕事で車を使うようになってそう思うようになった。
当たり前の話かもしれないが、駅前は駅やデパート、その他商業施設が充実しており歩行者が多い。
歩道が広く作られていて、車の交通量も多いことから、自然と車もそこまで速度を出せない環境になっている。
そうすると集団心理のなせる技か、まあ信号無視をする歩行者が目についてしまう。歩行者の絶対数が多ければマナー違反を行う人も比率として増える事が考えられる。とは言え、決して少なくないように思えてしまうのは運転者目線故だろうか。
信号無視は以ての外でこちらの認識が遅れれば本当に事故に繋がりかねないし、車の平均速度が低いことを前提に横断歩道すらない所を当たり前に飛びだしてくれたりもする。
それでイヤホンつけてスマホ見ててくれてるんだからもうクラクション鳴らしたくて仕方ない。
ゆっくり近づいて渡っていくところをじーっと見ていると、何だこの野郎くらいに睨み返してくれてますけどこちらには後続車がいるんですよ。
あとは横断歩道が点滅してる時に走って向かってくる人。
でもさー、信号点滅中、横断歩道までは走ってくるのに、横断歩道に出た瞬間から、赤信号になろうが歩行者の権利としてゆっくり歩く人もいるんだよね。
そりゃそうなんだけど、歩いたっていいんだけど、減速しないでそのまま小走りで渡ってくれてもいいんじゃないの…と思ってしまう。そこまでは走れたんだからさぁ。お年寄りならそんな風には考えないからさぁ。
極めつけとして、駅徒歩数分のところに住んでいる今、これも仕方ないんだけど路駐してお出迎えをしている車が沢山いる。仕事を終えて家の駐車場に右折で入ろうとすると、見事に駐車場入口を塞ぐように車が停まっていることが少なからずある。バリケードですかね。
クラクションを鳴らすのも嫌なので、駐車している車に近づいてみると、スマホをぼんやり見ている運転手さんがいたり。
突っ込みそうな距離で止まっている対向車に気づいて睨みつけてくる人もいて、指でチョチョイと駐車場を指差したら慌てて去っていく。
そちらは稀な経験かもしれませんがこちらは2週間に1度くらい経験してるんですよ。
せめて睨まないでほしい。
少し話題がズレました。
これが郊外だと車の平均速度がもっと出ていて、歩行者の数も相対的に減るからなのか、信号無視をする人を見かける機会は大分減る印象がある。
確かに国道クラスの道路で信号もないところを渡ろうとする歩行者もいないでもないけど、そういう人は車がいないタイミングで安全にマージンを取って?小走りで渡っていく気がする。気がするだけか?
書いてて思ったが、駅前は通勤時間に、郊外は日中に車で走っていることも関係あるかもしれない。