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はてなキーワード: 院政とは

2021-07-11

日本天皇100~

101.称光天皇(1414~1428))

 在位中は後小松天皇院政を行った。病弱で子はなかった。

102.後花園天皇(1428~1464)

 譲位後に発生した応仁の乱を嘆いて出家政務放棄した足利義政を戒めたこともある。

103.後土御門天皇(1464~1500)

 大嘗会を催したが、直後に応仁の乱が発生したため、中世最後の大嘗会となった。

104.後柏原天皇(1500~26)

 即位時、朝廷財政は困窮しており、父であった先帝の葬儀も40日後、即位式も即位後21年という有様であった。

105.後奈良天皇(1526~1557)

 飢饉と疫病に苦しむ民を救うため、諸国一宮に直筆の般若心経奉納した。

106.正親町天皇(1557~1586)

 毛利元就の献上金で即位織田信長豊臣秀吉の援助で皇居の修復、伊勢神宮の造営などを実現した。

107.後陽成天皇(1586~1611)

 秀吉の援助で朝廷権威回復に努めた。聚楽第行幸を行った。学問を好み、日本書紀などの慶長勅版を刊行した。

108.後水尾天皇(1611~1629)

 紫衣事件により幕府対立し、譲位

109.明正天皇(1629~1643)

 女帝

110.後光明天皇(1643~1654)

 応仁の乱以降途絶えた伊勢例幣使を再開した。

111.後西天皇(1655~1663)

 明暦の大火、御所炎上など災害が重なったため譲位

112.霊元天皇(1663~1687)

 学問に優れ、6000を超える和歌を詠んだ

113.東山天皇(1687~1709)

 久しく耐えた立太子礼と大嘗祭復興させた。

114.中御門天皇(1709~1735)

 先帝の代に復興した大嘗祭が再び途絶えた。公事部類を残した。笛が巧く、狐ですら聞き入ったとされる。

115.桜町天皇(1735~1747)

 大嘗祭新嘗祭復興させた。

116.桃園天皇(1747~1762)

 竹内式部から垂加神道の進講を受け、宝暦事件が起きた。

117.後桜町天皇(1762~1771)

 日本最後女帝和歌を好み千数百首を詠んだ。 

118.後桃園天皇(1771~1779)

 在位中に安永御所騒動が起き、朝廷への監視が強化された。

119.光格天皇(1780~1817)

 父典仁親王に尊号を与えようとするも松平定信に阻まれる尊号事件があった。

120.仁孝天皇(1817~1846)

 学習所(後の学習院)の建設を命じた。

121.孝明天皇(1846~1867)

 安政5ヶ国条約に反対し、攘夷を主張した。反面、和宮の降嫁に賛成し、公武合体推し進めた。

122.明治天皇(1867~1912)

 大政奉還がなされ、明治政府誕生。在位中は大日本帝国憲法発布、廃藩置県国会創設など近代化が進められた。日清日露戦争勝利韓国併合により日本列強の仲間入りは果たした。

123.大正天皇(1912~1926)

 生まれつき病弱であったため、皇太子裕仁摂政に任じられた。在位中に第一次世界大戦が勃発。皇室として初めて一夫一妻を確立

124.昭和天皇(1926~1989)

 在位中に第二次世界大戦が勃発。日本の敗北を受け入れ、日本国憲法が制定された。

125.上皇(1989~2019)

 世界各国を訪問して皇室外交による親善に努めた。東日本大震災の際には自ら被災地訪問した。

126.今上天皇(2019~) NEW!!

日本天皇51~100代

51.平城天皇(806~809)

 官司の統廃合、観察使の派遣など行政の立て直しに取り組んだ。藤原薬子を寵愛したが、譲位薬子の変が起きたため、出家した。

52.嵯峨天皇(809~823

 薬子の変鎮圧弘仁格式新撰姓氏録編纂した。三筆の一人にも数えられる文化人

53.淳和天皇(823~833

 経国集令義解、秘府略を編纂させた。

54.仁明天皇33~850)

 在位中に令義解施行され、日本後紀が完成した他、承和の変が起き藤原氏繁栄の基礎となった。医学書道和歌など初学に精通した知識人

55.文徳天皇(850~858)

 続日本後紀編纂を開始した。病弱であったため、政治の実権は藤原良房がが握った。

56.清和天皇(858~876)

 幼くして即位したため、良房が実権を握り、元服後も握り続けた。在位中に貞観格式編集された。

57.陽成天皇(876~884)

 乳母子を殺す、宮中で密かに馬を飼うなどの奇行が多く、藤原基経譲位させられた。

58.光孝天皇(884~887)

 55歳という高齢即位し、基経に「実質的関白として政治を任せた。

59.宇多天皇(887~897)

 阿衡の変により、藤原氏を疎み、菅原道真を重用した。在位中に多くの歌人が輩出され、遣唐使廃止された。

60.醍醐天皇(897~930)

 藤原時平讒言を信じ、道真を左遷した。在位中に古今和歌集勅撰、三代実録、延喜格式編纂が行われ、その治世は村上天皇と共に延喜・天暦の治と称された。

61.朱雀天皇(930~946

 在位中は天災が多発し、平将門藤原純友が乱を起こすなど、多難な時を過ごした。

62.村上天皇946~967)

 乾元大宝鋳造し、天徳歌合、後撰和歌集などを編纂させた。

63.冷泉天皇(967~969)

 病弱であったため、藤原実頼関白として実権を握った。安和の変の後は、摂政関白が常置されることとなった。

64.円融天皇(969~984)

 藤原氏政権争いに翻弄され、出家文化人として風流生活を送った。

65.花山天皇(984~986

 女御の死を悼んだところを、藤原兼家に計られて出家した。

66.一条天皇(9861011)

 在位中藤原道長が実権を握り、紫式部清少納言和泉式部などの文化人活躍した。

67.三条天皇1011~16)

 藤原道長に絶えず退位を迫られ、眼病、脚気理由に退いた。

68.後一条天皇1016〜36)

 道長の孫。在位中は道長・頼通が実権を握り、藤原氏の全盛期を迎えた。

69.後朱雀天皇1036~45)

 在位中は頼通が関白として実権を握った

70.後冷泉天皇1045~1068)

 在位中に平等院鳳凰堂が建立され、前九年の役が起きた。

71.後三条天皇1068~72)

 藤原氏を疎んじ、新政を行った。記録所を設け、成功、重任を禁じ、宣旨枡を定めた

72.白川天皇1072~86

 在位中に富士山噴火後三年の役が起きた。譲位後、院生を行った。

73.堀河天皇1086~1107)

 在位中は院生が行われたが、藤原師通の補佐により自らも政治に関与し末代の聖王と称された。

74.鳥羽天皇(1107〜23

 譲位後、崇徳~後白河の3代に及ぶ院政を行った。崇徳院を無視して、後白河天皇即位させたことが保元の乱の原因となった。

75.崇徳天皇(1123~41)

 鳥羽上皇冷遇され、譲位させられた挙げ句、息子の即位も阻まれた。これを不満とし、保元の乱を起こすも敗れ、讃岐に流された。死後怨霊として恐れられた。歌人としても名高い。

76.近衛天皇(1141~55)

 17歳で亡くなったため、崇徳院、藤原忠実・頼長親子に呪われたのではないかと噂された。

77.後白河天皇(1155~58)

 保元の乱崇徳院を破った後、譲位院政を行った。平治の乱治承・寿永の乱鎌倉幕府成立などの激動の時代の中、権謀術数を巡らせ朝廷権力を維持した。

78.二条天皇(1158~1165)

 崇徳の子差し置いて、皇子になったため、保元の乱が起きた。即位後は後白河院院政抵抗するも病気のため叶わなかった。

79.六条天皇(1165-68)

 自身への敵対勢力擁立されることを恐れた後白河院によって、わずか4年で譲位させられた。

80.高倉天皇(1168-80)

 清盛と後白河院対立に苦しめられ、譲位した。

81.安徳天皇(1180~1185)

 壇ノ浦の戦いで入水した。日本史上最も短命な天皇で、わずか7歳で崩御した。

82.後鳥羽天皇(1183~98)

 譲位後、土御門~仲恭の3代にも及ぶ院生を行う。承久の乱に敗れ隠岐に流された。

83.土御門天皇(1198〜1210

 父である後鳥院とは不和承久の乱にも加わらなかったが、自ら望んで土佐に流された。

84.順徳天皇(1210~1221)

 承久の乱に参加するために譲位し、佐渡に流された。

85.仲恭天皇(1221)

 父順徳が倒幕を企てたため、即位後78日間で廃位された。

86.後堀河天皇(1221~1232)

 わず10歳で即位したため、天皇になったことのない守貞親王後高倉院として異例の院政を行った。

87.四条天皇(1232~1242)

 滑石を用いたいたずらが原因で転倒し崩御した。

88.後嵯峨天皇(1242~1246)

 譲位後、2代にわたる院政を行った。死に際して、帝位継承者決定を幕府に委ねるとしたため、南北朝問題の原因となった。

89.後深草天皇(1246-1260)

 持明院統いわゆる北朝の祖。

90.亀山天皇(1260~74)

 大覚寺統いわゆる南朝の祖。父後嵯峨院に愛され、兄後深草院差し置いて子の後宇多天皇即位させたため、南北朝問題の原因となった。譲位後南禅院を建立

91.後宇多天皇(1274~1287)

 大覚寺統。在位中に元寇があった。譲位後、持明院統伏見天皇即位させるが、続いて持明院統後伏見天皇即位には反対したため、両統送立が始まった。院政を行うが、後醍醐天皇対立し、政治から身を引いた。好学の天皇として知られる

92.伏見天皇(1287-1298)

 玉葉和歌集勅撰させた。

93.後伏見天皇(1298~1301)

 譲位後、院生を行う。元弘の乱後、東国へ逃れるも捕らえられ出家した。

94.後二条天皇(1301~08)

 大覚寺統持明院統から2代続いて天皇が出たことに後宇多院が抗議したため、幕府の計らいで即位。両統送立が始まった。

95.花園天皇(1308~1318)

 大覚寺統教養人で風雅和歌集勅撰させた。

96.(南1)後醍醐天皇(1318~1339)

 鎌倉幕府打倒に貢献した後、建武新政を行う。足利尊氏に敗れ吉野に逃れ南北朝時代が始まる。

97.(南2)後村上天皇(1339〜1368)

 高師直に攻められ賀名生に逃れる。一度京都を奪還するもすぐに北朝に奪われた。その後も京都回復を狙い、各地を転戦するも果たせなかった。

98.(南3)長慶天皇(1368~1383)

 和歌を愛し、五十番歌合、五百番歌合などを催した。

99.(南4)後亀山天皇(1383~1392

 足利義満の誘いの応じて、南北朝和解を実現。しかし、義満の死後冷遇され、和平の条件であった両統送立も果たされなかった。

北1.光厳天皇(1331~1333)

 後醍醐天皇の失脚を受けて即位したが、鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐廃位光厳即位否定された。

北2.光明天皇(1336~1348)

 足利尊氏擁立により即位譲位後、観応の擾乱によって南朝に捕らえられるが後に解放された。

北3.崇光天皇(1348~1351)

 譲位後、観応の擾乱で捕らえられた。琵琶を愛した。

北4.後光厳天皇( 1352~1371)

 後村上天皇の一統が破れると、足利市擁護され即位した。南朝攻撃に遭い、美濃近江などに逃れたこともあった。

北5.後円融天皇(1371~1382)

 足利義満擁立されて即位譲位後、院政を行った

100.(北6)後小松天皇(382~1412)

 後亀山天皇から神器を受け、南北朝合一が成された。

2021-06-06

竹中がまだ居るらしいが

菅さん限界

竹中院政敷いてる。

総務大臣副大臣関係

政治家って、一人で正しい事言わないといけない。人間関係わず

菅さんは、それができない。

普通なら即パソナを切る。

2021-02-12

川淵さんの超素早い手のひら返し、森に言われたから直接断れないけど泥船の理事長にはなりたくないからわざとやったんじゃないだろうかと思ってしま

なんか決まったちゃいそうな雰囲気も感じてきたから森を裏に置く院政しまーすとかまで言い出して

2021-01-28

anond:20210128121511

そんなことしてもどうせ院政になるだけ

2020-09-01

 安倍晋三首相自身の在任中に敵基地攻撃能力保有方向性を示す意向を固め、与党幹部に伝えていたことが31日、分かった。秋田山口への配備を断念した地上配備迎撃システムイージス・アショア」計画代替案の考え方も同時に打ち出す。複数政府関係者が明らかにした。

首相、在任中に敵基地攻撃方向性 与党幹部へ伝達、9月前半NSC | 共同通信

これっぽい。

 こうしてみてみると、保守派一方的安倍政権に対して期待し、抱いた「夢」は、ほかならぬ安倍総理自身の手によってことごとく反故にされ、夢想に終わった。しか保守派は、多少の振幅はあっても最後最後まで安倍政権支持を崩すことはなかった。辞任表明を受け、早くも保守界隈では「第三次安倍政権待望」や、「病気療養後の院政」を望む声まである

 自らの託した「夢」がことごとく「裏切られて」も保守派安倍政権を思慕し続けた理由とは何か。それは安倍総理個人が時折見せる保守派へのリップサービス存在であったことに他ならない。

保守派が抱いた安倍政権への「夢」の結末~保守派は総理に裏切られたのか?~(古谷経衡) - 個人 - Yahoo!ニュース

2020-08-29

anond:20200829023044

そのための党員排除総裁選でしょ。

麻生も出ないってことだし、ほぼほぼ岸田禅譲で決まりだろうし。

禅譲なら院政安倍の睨みが効くから体制にゆるみが出ることはないんじゃないかな。

2020-08-28

安倍が辞める。

安倍総理を辞めるそうだ

こんなに嬉しいことはない

こんなに嬉しいことはない

大事ことなので二回

万歳

日本にはまだ望みがあった

少なくとも最悪の政権からは逃れられた

安倍がこの7年で日本に残した爪痕は小さくない

復興には何年(何十年?)かかるかわからんが(すでに未曾有の災害級)とりあえず会議議事録残すところから初めて欲しい

そこからかよ!って思うかもだが本当にそんなとこまで日本は壊された

問題は次の政権安倍方式採用しないことだ

官僚の人事を掌握し中身のない答弁で国会追及をかわし国会の開催要求も聞かずに憲法無視文書改ざん破棄シュレッダー、法によらずなんでも閣議決定で済ます、そんな国会軽視国民無視政権を生まないためにまだまだきちんと注視する必要がある

院政などもさせないように気をつけないといかんが

それでも安倍はもう総理を辞める

ひとまず最悪の総理大臣は去る

いじましく狡猾で小物、凡庸で器の小さいおよそ総理としての品性を持たない類人猿安倍晋三

金輪際もう総理になろうなどという大それた望みは捨ててくれ

夢は昭恵の布団の中だけで見てくれ

安倍が辞める。

こんなに嬉しいことはない。

2020-02-25

anond:20200225091134

いまんとこは岸田に禅譲して安倍院政ってのが確率高いんやろ。

そこでガースーのクーデター成功するかどうかよ。

2020-02-14

安倍さんすごい

常人ではないよね。

自民党のあらゆる欲望に応えられる「無敵のモンスター」。空前絶後。この超人的な鈍感無敵さは、前にも後にも並ぶ人はいない。

自民党政治屋にとってこんなに都合の良い人はいない。もう2度と出てこないレベルボーナスステージ欲望の赴くまま、なんでもやりたいようにできる。

自民党政治屋もすごいよな。現代院政政治を敷くために、安倍さん特殊な才能(純粋さと鈍感さ)を見抜いて、ここまで安倍さんを無敵化・モンスターに育てて、その影に隠れて好き放題日本をいじってる。日本まるごとだめにしても「おれじゃないもんね」と目を瞑ったり涼しい顔で過ごしてる。

普通だったら、良心の呵責で100万回死ぬくらい、首を吊ってるよ。並の精神力じゃ無理だよね。

そういった方々に骨までしゃぶり尽くされてもゾンビの如く耐えられる安倍さんってほんとすごい。

「最強とは、勝つことではなく、あらゆる手段を用いて負けないことだ」というすごい戦術リアルタイムで見ることができて、正直やばいと思うけど、感動すら感じることもある。反知性主義ケーススタディだ。

良い仲間と努力ベクトルの向きさえあっていれば、素晴らしいリーダーになれたと思う。自民党は、唯一無二の人材を「悪魔のための適材適所」に用いてしまった。それだけが残念だ。

合掌

2018-05-19

anond:20180519155442

日大No2の地位を守るためには、監督を辞める方が得策だと踏んだんだろう。

既にコーチ監督へのイエスマンで固めているので、院政可能だろうしね。

2018-04-12

anond:20180412132346

うっすらと、毎度の次挙げた奴を適当否定して、だから安倍がいいんだという消去法での安倍肯定に見える。

あえて挙げるなら、岸田は安倍の犬で安倍院政敷くためのものだろうから安倍、岸田以外。石破あたりになるんでね?

2018-03-23

天皇制必要ない

最近ちきりんという人が天皇制は素晴らしいという記事を続けて書いていて、多少納得する点もあるけど、ここであえて反対の論陣を張ってみようと思う。

天皇制はいらないという理由は以下の通り。

身分制度肯定

まあこれは全ての君主制に言えるけど、

まれた時から一部の人が何らかの特殊ステータスを持っているというのは

今の日本平等民主主義人権擁護原則にそぐわないよねという話。

性差別的な継承制度

歴史的女性天皇がいたにも関わらず現在ルールでは女性天皇になれないし、

女系ダメというのも歴史的文脈以外の合理的理由づけはない。

女系男系君主としての資質に差が出るのか?

国の「象徴」が性差別イデオロギー生産し続けるのはどうなのと。

天皇制非人道性

皇族は各種基本的人権保障されていないため、言いたいことも言えず

まりにも責任の大きい仕事をしなくてはならない。

今の日本平等民主主義人権擁護原則にそぐわないよねという話。

さらに、日本独自の状況として皇位継承者とその妻は子供を産めというプレッシャーも相当なもの

皇妃と皇太子妃に期待されている素質は文字通り「産む機械」となること。

精神を病む人が続出するのも頷ける。

将来の天皇資質

今上天皇君主としての資質国民に寄り添う姿勢歴史的にも世界的にも最高レベルなのは疑いない。

だが将来にも渡って彼のような国民から支持される天皇及び皇族が出てくるのか?

歴史的精神を病んだ王族は多く、日本はすでに皇太子妃がダウン。

これから皇族の子供たちは現代社会監視プレッシャーに耐えられるのか?多分無理。

摂政を置いてもいいがそれで国民の支持が得られるのか。

皇室外交意味がない

日本民主主義国、他の君主制国家も大体民主主義

間接的とはい国民意思政策決定されるのに、王室同士で付き合う意味が本当にあるのか?

1913年にはロシア皇帝イギリス国王ドイツ皇帝の娘の結婚式に一緒に出席して仲良くしていたが

全く意味はなかった。ちなみに彼らはいとこ同士である。100年前の半独裁国家でさえこれ。

日本皇室世界で支持されている?まとめサイト以外のソースplz

歴史的価値をどう評価するか

ちきりん氏はとにかく歴史けが正統性の源であり、

それゆえ昔から続いているものを変更するなんてありえないという主張だが、

そもそも現状の天皇制自体明治憲法戦後体制ミックスで作られたもの

それ以前の歴史を見れば極めて異質な制度になっている。

女性天皇複数いたのもそうだし、過去天皇はみな仏教徒で、好き勝手引退し、好き勝手継承者を選んでいた。

もし昔の天皇が今と同じように後継者問題に悩まされていたら女系だってなんだってありだったろう。

政治的にも親政院政、なんかよくわからんが偉い人、神聖不可侵大元帥コロコロ変わっている。

女系男系議論にも関わってくる話だが、天皇制正統性歴史的文脈だけから来るものではない。

天皇現在地位国民の総意に由来するもので、天皇がどのように職務を務めるかという点が今の国民天皇制への支持の大きなポイント

その点を今の天皇は非常にうまくやっている。平成になって天皇廃止論が鳴りを潜めたのも現在天皇国民に近づこうという姿勢があるから

阿呆天皇になったらいくら歴史があってもだれも支持しない。

逆に言えば今の天皇職務をうまく果たせる人なら役割を果たせる。

天皇制以外の元首可能

ちきりん氏は「『民主的な、差別のない方法天皇を選ぶ』なんてことをしたら、誰もそんなもの価値を認めなくなる。」と書いているが、

実際そうとは言い切れない。いい例がカナダ総督(ガヴァナジェネラル

カナダ総督憲法君主役割をはたしていて、任期は五年、実務上は首相が選ぶわけだが、

現在は元宇宙飛行士女性フランス語話者、その前は英語話者の高名な学者

その前は元ハイチ難民フランス語話者黒人女性ニュースキャスター

その前は中国系女性が任命されている。

民主的な、差別のない方法天皇を選ぶ」を地で行っているわけだが、

価値が認められなくなるどころか逆に多様性とその理念から幅広く支持されている。

歴史こそすべて!英国王室最高!ならカナダもそうできた。

まあ日本カナダでは歴史社会も全く違うわけで、いきなりカナダ風人選を日本に持ってくると

向井千秋滝川クリステル、CWニコルのような人選となり支持されるとは思えないが

無党派である程度業績と知名度のある人を

日本人の代表」として天皇が今やっている職務外交被災者慰問等を

任期を区切ってやってもらうというのは十分可能ではないか

さら現代価値観に配慮した人選、世界活躍した人の人選は他国からの人気も天皇以上に十分期待できる。

2017-12-25

anond:20171225170830

でもまあ昔の院政みたいで非常にロマンを感じる話ではある。

anond:20171225170509

そういう話なのね、

二重権威理由は後付な気がするなー

昔の院政になるわけでもないんだし

2017-10-24

anond:20171024103009

おっしゃることはもっともなんだけど

野党の主戦が実質旧民主政権の主戦ってところで

自民党が大ポカをしていない現状では

何を提言しても実行能力を信用されない可能性が高い

個人的には旧民主政権反省総括を真摯に大々的に行い

パフォーマンスでもいいか謝罪行脚に回り

その上で今の主戦は院政でもかまわないから裏に回る

そして、小泉進次郎世代くらいの若手に表に出る要職を任せ

次世代対立軸を強引に作ることで

自公政権内においても安倍から若手への権力移譲を早めるってのが

いいんじゃないかと思うんだがどうだろうか

2017-06-04

山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない

山川出版の日本史いかに凄いかについて情熱的に説明する」

http://blog.tinect.jp/?p=40198

はてなブックマークの人気記事だったので開いてみたのですが、驚くほど中身のない記事でした。

これ、おっさん居酒屋でしゃべっているレベルですよね??

『詳説日本史』を引用するなり参照するなりして、具体的にどこがどうすごいかを語ってほしかったです。

僕も10代の頃はあれが本当に理解できなかった。けど今ならああい教科書が作り続けられる理由がよくわかる。物事を語るにあたって、中立を維持しようとするとなると、事実しか語れなくなるのである

ストーリーというものは、基本的には何らかの価値観を元に構築されるものである日本民族いかに優れているかという視点で歴史を分析すると、それは右翼的な記述にならざるをえないし、平等であろうとすれば、それは左翼的価値観を元に記述せざるをえなくなる。

客観的な記述がされている、左右に偏向していない、中立だからすごいゾ、という感想には呆れ果てました。

いったい全体、どこが情熱的ですか? 教科書を読み返さず、いい加減な記憶をもとに語っても、多分これくらいのことは言えると思います。 

  

クソ記事を読んでしまい、あんまりにもムシャクシャしたので、私が自分で『詳説日本史』を引っ張りだしてきて調べました。

例えば「源平の騒乱」という項目は、次のように記述されています

平清盛後白河法皇幽閉し、1180年に孫の安徳天皇を位につけると、地方の武士団中央貴族・大寺院のなかには、平氏の専制政治に対する不満がうずまき始めた。この情勢を見た後白河法皇皇子以仁王と、畿内に基盤を持つ源氏源頼政は、平氏打倒の兵をあげ、挙兵を呼びかける王の命令(令旨)は諸国の武士に伝えられた。

これに応じて、園城寺(三井寺)や興福寺などの僧兵が立ち上がり、ついで伊豆に流されていた源頼朝信濃の木曾谷にいた源義仲をはじめ、各地の武士団挙兵して、ついに内乱全国的に広がり、5年にわたって騒乱が続いた(治承・寿永の乱)。

平氏は都は福原(現・神戸市)へと移したが、まもなく京都にもどし、畿内を中心とする支配を固めてこれらの組織に対抗した。

しかし、畿内西国を中心とする養和の飢饉や、清盛の死などで平家の基盤は弱体化し、1183年(寿永2)年、平氏北陸で義仲に敗北すると、安徳天皇を報じて西国都落ちした。やがて、頼朝の命を受けた弟の源範頼義経らの軍に攻められ、ついに1185年に長門の壇の浦で滅亡した。

この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。

ここには明らかに編者の歴史観と、因果関係説明が詰め込まれています

  

まず、平清盛後白河天皇幽閉したこと、安徳天皇即位させたことは、この教科書では「平氏の専制政治」と評されています

当時の人たちがそう感じていたのか、それとも教科書の編者がこの評価を下しているのか、どちらなのか判然としませんけど、ともかく本書はこの評価にもとづいて記述がされています

  

次に、この「平氏の専制政治」が地方の武士団中央貴族・大寺院の不満につながって、 以仁王源頼政はそういう情勢を見たので挙兵したと書かれています

これはまさしく因果関係に言及しているわけです。

  

このように、教科書は単なる事実の羅列ではありません。歴史に対する評価因果関係がしっかりと述べられているのです。

そこにどういう学問的な裏付けがあるか、歴史学に無知な私はよく知らないです。あのブログ記事ではそのへんの話を説明していると思ったのですけど、まったくの期待外れでしたね。

  

なお、この教科書とおなじ編者がつくった参考書『詳説日本史研究』(山川出版社)によると、次のように説明されています

治承・寿永の乱は、一般には源氏平氏の戦いといわれている。しか歴史学的にみた場合、この全国的な動乱を単に源氏平氏勢力争いとみるのは正しい理解ではない。以仁王挙兵以降、軍事行動を起こすものが相次いだ。美濃近江河内源氏若狭越前加賀の在庁官人、豪族では伊予の河野氏・肥後の菊池氏である。彼らはあくまでも平氏の施政に反発したのであって、はじめから源氏、とくに源頼朝に味方したわけではない。彼らの背後には在地領主層があり、在地領主たちは自己の要求を実現するために各地で立ち上がったのである

彼らの動向をまとめあげ、武家棟梁となる機会は頼朝以外の人、例えば源義仲源行家、あるいは平宗盛にも与えられていた。頼朝が内乱に終息をもたらし得たのは、彼こそが在地領主層の要望に最もよく答えたからである。この意味で幕府の成立は、時代の画期ととらえることができる。

教科書である『詳説日本史』では、これがたった一文にまとめられているのです。

この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。

こういう史観が妥当なのかというのは、私にはちょっと分からないんですが、この点を強烈にプッシュしているのが『詳説日本史』の特徴と言えるでしょう。

他の教科書を読んでみても、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)を除き、この史観はあまりプッシュされていないと感じました。

  

【参考文献】

山川出版社『詳説日本史』(日B 001)

山川出版社『高校日本史 改訂版』(日B 017)

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B 018)

東京書籍日本史B』(日B 004)

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

桐原書店新日本史B』(日B 011)

(このエントリは上記7冊を参照しています。いずれも平成22年ごろ購入。)

  

  

  

余談:教科書の読み比べ

  

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B 018)

伊豆に流されていた源義朝の子・源頼朝も、妻・北条政子の父北条時政とともに挙兵して南関東を掌握し、10月には源氏根拠地鎌倉に入った。頼朝は父祖以来の結びつきを背景に、三浦千葉上総氏などの有力な東国武士主従関係を結んで御家人とし

頼朝の挙兵が、東国武士との「父祖以来の結びつき」を背景にしていたものだったということは、他の教科書ではなかなか分からないと思います

三浦千葉上総という武士名前が沢山出てくるのもおもしろいですね。(三浦氏名前が出てくる教科書は多いですが、それはこの時点ではなく幕府成立後、十三人の合議制か、宝治合戦ときに唐突に登場します。)

[寿永二年十月宣旨から義仲滅亡までの]この間、鎌倉の頼朝は没収した平氏の所領(平氏没官領)を法皇より与えられ、経済基盤を固めていった。また御家人を統制する侍所を設置し、その長官である別当には和田義盛を任命した。これに加えて、行政裁判制度を整えるための公文所(のちに政所)・問注所がおかれ、その長官にはそれぞれ京から招かれた朝廷の役人である大江広元三善康信就任した。前後して、義経軍らは一の谷・屋島平氏を追い、1185(文治元)年に壇ノ浦平氏を滅ぼした。

[]は引用者註。

この教科書の特徴は、幕府の政治機構の形成過程を、治承・寿永の乱の進行に併記していることです。

鎌倉幕府の成立が1192年(いいくに)なのか、1185年(いいはこ)なのかという論争は、世間でよく知られているぐらい有名になりました。どちらが正しいかは諸説あるとしても、ただ一つ言えることは、どこかの時点でいきなり幕府が完成したというわけではありません。治承・寿永の乱が続いていた期間に、徐々に幕府の政治機構が形成されたのです。この教科書はその史観が反映されています

  

  

  

桐原書店新日本史B』(日B 011)

北条時政の援助によって挙兵した頼朝は、東国武士たちに支持されて、富士川の戦い平氏を破ったが、その後は鎌倉にとどまって、東国地盤を固めることに専念した。これに対して平清盛は一時、都を福原神戸市)に移して態勢を立てなおそうとしたが、まもなく京都に戻り、1181(養和元)年に病死した。一方、義仲は1183(寿永2)年、北陸方面から急進撃して、平氏一門を京都から追い出した。しかし、義仲は後白河法皇対立したので、法皇は同年、頼朝に東海東山両道(東国)の支配権を認め、義仲追討を命じた。頼朝は弟の範頼・義経らを上京させて、義仲を討たせた。範頼・義経さら平氏追討に向かい、1185(文治元)年、長門壇ノ浦平氏一門を滅ぼした。

この教科書歴史用語の詰めこみを回避しているようで、内容は簡単、文章としても平易です。

上記引用でも分かるとおり、「頼朝に東海東山両道(東国)の支配権を認め」という記述があるくせに、寿永二年十月宣旨というキーワードがありません。治承・寿永の乱、一の谷、屋島の戦いなどは年表に記載されていますが、本文中に記載なし。養和の飢饉、平氏都落ち安徳天皇を伴ったことも言及なし。

というわけで受験生には不向きですが、他の教科書にはない特色もあります

  

鎌倉将軍に尽くして家人となった武士のことを、鎌倉御家人といった。鎌倉御家人になる目的は、将軍面接して(見参)、先祖伝来の所領を承認してもらい(本領安堵)、さらに勲功のあった者は新たな所領を恩賞としてうける(新恩給与)ことにあった。

教科書の中では唯一、桐原書店けが「見参」を掲載しています。これは鎌倉幕府の権威の構造がどういったものであったかを知るための手がかりになるかも。

(他の教科書ではこの用語がないどころか、「将軍面接して」という説明も省かれています

  

["新恩給与"についての註]

土地のものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権を与えられるのが普通で、そのおもなものが地頭職であった。

これは「職の体系」のことを言っています。他の教科書とは違って、地頭をあえて「地頭職」と見なす視点を紹介し、その意味するところを簡潔に説明しているのがすごい!

所有権が重層的に重なりあっていたというのは、中世土地支配構造を知るうえで一番大切なポイントだと思います

なお、山川出版の『日本史B用語集』には「職の体系」という用語は不掲載で、かわりに「職」の項でそれを説明しています

職(しき)②:一般に職務に伴う土地からの収益とその職務自体を指す。荘園場合、有力者への寄進が何回も積み重なり、下記のような複雑な職の改装秩序を生じた。

本家職①、領家職②、預所職②、下司職②、荘官職①

  

[引用者註:丸の数字はこの用語を掲載している教科書の数]

山川出版『日本史B用語集』より

この説明は悪くないと思いますが、桐原書店は「土地のものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権」のことと明記しているので、その方が的確です。

しかも、いかんせん、『日本史B用語集』は「職」の用語説明を「院政期の社会文化」のページに掲載しているので、これと鎌倉時代の地頭職との関連が全然分からないです。そして「鎌倉幕府の成立」のページにある「地頭職」の用語説明は、次のようになっています

地頭職(じとうしき)⑤:職とは役職に伴う権益意味。地頭職は御家人が地頭に任命されて認められた兵糧米の徴収や免田(給田)経営などの権利

  

山川出版『日本史B用語集』より

これは間違っていませんけど、この説明を読んで、重層的な土地支配構造があったことを理解できますか? 絶対に不可能ですよね?

せめて「職」「地頭職」という用語同士を紐付けて相互参照させてほしいです。ふざけんなってかんじです。

  

さて、桐原書店教科書に話をもどすと、欄外にこういう豆知識も載っています

幕府とは、近衛府の唐名であるが、転じて近衛大将の居館のことをいった。のちには近衛大将とは関係なく、武家政権意味する語となった。頼朝は1190年に上洛し、右近大将に任ぜられたが、まもなく辞任した。

[ふたつの源頼朝像]

Aについては南北朝時代武将とする説もあり(伝・藤原隆信筆,京都神護寺蔵)、Bも注目されるようになった(山梨甲斐善光寺蔵)。

とてもユニークですね。受験には使えないかもしれませんが、知っておいて損はないです。

  

  

  

東京書籍日本史B』(日B 004)

養和は平氏政権が用いた年号で、これを認めない頼朝の支配する関東では、ひきつづき治承の年号が用いられた。

網野善彦著作『東と西の語る日本の歴史』に、たしかこの話があったと思います

他の教科書には載ってませんが、ピンポイント東大入試に出題されました。

  

源氏鎌倉の関係は、源頼信のころに源氏氏神となった石清水八幡宮を、前九年合戦の際、子の頼義が相模国由比郷に勘請して鶴岡若宮八幡宮前身)を建設したことから始まった。鎌倉は前面に海をもち、三方を山にかこまれた要害の地で、切通によって外部と結ばれていた。

鎌倉という土地をこれだけ情熱的に語っているのは、東京書籍教科書だけです。

上記引用とはまた別に、「コラム 武家の都鎌倉経済流通」というのも掲載されています

東大入試では、「院政時代から鎌倉時代にかけての京都と鎌倉都市の発展」について論述させる問題が出されたことがありますが(1990年)、この教科書はその答案を書くうえで非常に役立つものだと思います

  

  

  

山川出版社『高校日本史 改訂版』(日B 017)

こののち、後白河法皇義経を重んじ、頼朝追討の命令を下したが、これに失敗すると、頼朝はその責任を追及し、逆に義経追討の命令を得た。さらに頼朝は義経をかくまっていた奥州藤原氏を滅ぼそうと朝廷に追討の命令希望したが、法皇がそれを拒否すると、1189(文治5)年に頼朝は追討の命令を待たず、大軍をもって奥州藤原氏を滅ぼした。ここに全国を平定し、その後、法皇死後の1192(建久3)年に頼朝は念願の征夷大将軍に任じられた。

頼朝の悪人っぷりがこれでもか!?というぐらい強調されています

あいつは自分の野望を実現するため、ときには法皇に逆らって圧力をかけたり、朝廷命令無視して独断専行する奴だった、ということを言いたげな記述です。

  

それはともかく、奥州藤原氏を守ろうとした法皇朝廷側と、それを潰そうとした頼朝の厳しい対立がわかるのは、この教科書だけでしょうね。

両者のぴりぴりした緊張関係が伝わってきます

関西にある政権東北地方を使って、関東独立の動きを牽制するというのは、日本の歴史において繰り返し出てくるパターンなので、この視点を漏らさず記述しているところはアッパレ

  

  

  

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

平氏安徳天皇を奉じて西国に落ちていったが、後白河法皇は京都にとどまり、新たに後鳥羽天皇をたてて政権を維持した。法皇は義仲には平家追討を命じるいっぽう、頼朝には上京をうながして、京都の義仲に対抗させ、武士たちをたがいに牽制させて政局の主導権をにぎろうとした。しかし頼朝は、東国の安定に意をそそいでみずからは鎌倉を動かず、弟の範頼・義経を上京させて、1184(元暦元)年、義仲を討たせ、源氏一族の長となった。ついで義経らは、その当時勢力回復して都にせまっていた平氏を一の谷・屋島などの合戦でやぶり、さらに翌1185(文治元)年にはこれを長門壇ノ浦に追いつめて滅亡させた。

この時代に2人の天皇が同時に存在していたとする視点を取り入れているのがナイス

都落ちした平氏はそのままあっけなく滅んだわけじゃなくて、京都にいる天皇とは違う天皇を奉じて勢力を盛り返していたのです。

どちらの天皇が正統かというのは、つまるところ結果論にすぎません。この教科書はそんな歴史観に基づいて書かれています

  

ちなみに、この教科書の編者は、大半が関西教育機関に属する人たちみたいです。後白河法皇平氏を主軸にした書き方は、編者の関西びいきが反映した結果なんでしょうか。(笑)

例えば奥州合戦について、「奥州進撃のために頼朝は東国だけでなく西国武士もひとまず鎌倉に動員し、これを機会に国ごとに御家人組織の整備をいっそうすすめた」とありますさら西国御家人東国御家人とどう違うかを説明しているのもおもしろく、この教科書関西中心っぽい史観は独特です。

  

  

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

  

……って、おい!? 増田がここで文章を掲載できなくなったんだが??

せっかくこの先が本番なのに、文字数の上限なのだろうか。

つづき→http://anond.hatelabo.jp/20170605001028

2017-03-23

http://anond.hatelabo.jp/20170323162129

ここに書かれていることは概ね正しい.この方は自分モチベーションが低下したことを嘆いておられる.そういう方々は大学に多くいる.しかし,日本大学にはこのような劣悪の環境の中で,モチベーションが低下せずに生き延びている集団も一部存在する.それは最近流行りの言葉で言えば,サイコパス教授だ.学生ポスドク助教そのすべてを人間として扱わず自分出世or地位or名誉のために利用する.そのため,この劣悪な日本環境の中でもそれなりの成果が出る.その業績を元手に,大型予算が当たる.更に悲劇が拡大する.私の少ない知り合いである若手研究者と話しただけでも,医学系や生命科学系,工学系(の中のどの分野でも),農学系.どこにでもいる.比較若い分野である情報/計算機科学にもいる.

最近の若手研究者は目が死んでいる.最近医学の発展により,これらの教授寿命は長い.国立大退官後も院政を引いて分野内で君臨する.偉い先生基調講演をさせるためだけの謎のシンポジウム企画される.下々の者が奔走する.ポスドク助教が偉い先生パワポをつくったり,大型予算提案書や報告書をつくったりしている.そして,外部向けには「うちのラボ生産性の高さの秘訣は若手研究者自由環境を与えることです」みたいなことを言っちゃう.若手研究者マジで国外研究機関に行った方が良いと思う.

ちなみに私は,飲み会の場で(直接の上司ではない別の教授に)口が滑って,「海外大学で働きたいっすわ.研究だけしたいっすわ.(研究上ではない上司の尻拭いの)雑用もう嫌っすわ」と言ってしまい,(直接の利害関係がない)その教授にブチ切れられた.いま思えば,自分がそういうことをしたら,周りの若手が真似をする負の外部効果があるからだろう.

海外大学研究者と話すたびに「日本大学ってなんであんなにヒエラルキー構造なの?バカなの?死ぬの?」と言われる.そのたびに儒教の影響じゃないっすかねと言っている.(とはいえ,私はよく知らないが,バイオ化学であれば,海外ラボも完全なヒエラルキー構造なのだろうと思う)

念のために書いておくと,私は海外大学で働くことを決めた.じゃあ,いいじゃんと言われるかもしれないが,自分母国に愛は当然あるし,母校にも愛はある.なので,国内大学の質が上がったり,生産性が上がることは素直に嬉しい.どうにかしたいとは思う.が,個人の力でできることは本当に少ない.ただただ悲しい.

2010-06-26

岡田監督への手のひら返しを批判したいだけの人へ

「手のひら返しがひどい」という批判が度を過ぎているので書いておく。

大会前に言われていたことは「このままでは負ける」であった。

事実、直前の親善試合では負け続けていた。

だからこそ、岡田監督は中心選手中村俊輔を外し、戦術の大幅な変更を行った。

それで勝った。

見ようによっては、「このままでは負ける」という意見が正しかったわけだ。

大会前の岡田監督は批判されるべきサッカーを行っていた。

大会中の岡田監督は賞賛されるべきサッカーを行っている。

それだけの話だ。

友愛」という理想論と、小沢院政を批判されて、

「最少不幸社会」と「脱小沢」へと路線転換した民主党を思い出せばいい。

それにより民主党支持率が上がったことを指して、

国民の醜い手のひら返しだ」と批判する人はいるだろうか?

……いるな。

とにかく、おまえら「サッカーはよく分からないけど手のひら返しは醜いと思う」って言いたいだけだろ?

自発的に「ごめんなさい」をするのは構わないが、誰かに「ごめんなさい」を強制するのは良くないと思うぞ。

2010-01-15

小沢幹事長逮捕してほしいと一番思ってるのは首相ではなかろうか

首相なのに実質的権力がほとんどなく若手起用案や暫定税率の引下げ案を潰されてるし、こうした「院政」が支持率にも悪影響を与えている。鳩山首相は正直小沢幹事長をじゃまに思っているのではなかろうか?強制捜査に関するインタビューを見ていても批判してはいないけど擁護するわけでもなく、「党内での影響力から批判はいえないけど、とっとと逮捕されろ」的な態度に見えたんだが。

2009-09-12

http://anond.hatelabo.jp/20090912125436

マクロ経済の理解も相当怪しいのでその意味でもやめてほしい。

その人事を小沢がつぶそうとしてるらしいから、それに期待してるけど。

日銀総裁人事のときも小沢が同意しようとしてたら若手が財金分離がどうのとごねて結局日銀プロパーばかりになっちゃったし。院政とか二重権力とか言われるけど小沢の力が強いほうがマシになりそうな気もする。

2009-02-15

http://anond.hatelabo.jp/20090214185237

小泉が「怖い」としたら、小池百合子とかを立てて院政敷く計画をフツフツと練ってるかもしれないからで、風向き次第ではそうなる可能性がゼロでも無いというところ。でもって小泉が「何考えてるか分からない」としたら、基本は目立ちたい人だから「もういっぺん俺が」とか思ってるかもしれないところで、そういうこと考えてる可能性もゼロではなさそうな所が実にイカレてる。

アレがなんで人気あったんだか未だに分からない。たとえばアレが身近な上司だとして、人間的に信頼できるかっつーと全然だとしか思えないわけなんだが。アレに比べればまだ以前の野中とかの方が遥かに信頼できるわ。一人の人間として。小泉みたいなああいうどっか壊れたような人間は、どうも信頼できないよ。とりあえず俺は。

2009-02-10

http://anond.hatelabo.jp/20090209174338

業種はWebサービス屋で変なポータルサイトつくってた。

  

1.始まりは適当

 自転車じゃ食っていけない気がして、ウェブ系の仕事を始めた。

 友人に仕事を融通してもらったり。アルバイトみたいなものだ。

 

2.慣れてきた

 仕事仲間は奥さんと犬と幼馴染。

 儲かりはしないが給料もろくに払っていないのでなんとかなってた。赤貧だった。

 

3.傍らでつくってたポータルサービスに人が?

 いつのまにか人が居つくようになった。理由はいまだによくわからないが、きっと作ったものが凄いからだろう。

 でも収入はお小遣い並み。所詮趣味か。ポータルで話題になり始めたので仕事がとれるようになった。

 人も増えてきた。

 

4.夢がキラ☆キラ

 ポータルサイト広告収益をあげるようになってきた。夢がいっぱい。

 独自に動画サービスつくったり、アバター地図上を歩きまわるサービスを導入したり。

 今思えばこのころが一番楽しかった。

 

5.満を持してプレス発表

 割と大きめな会場かりて大発表大会。アメニティグッズでガムとか配ったりしてみた。

 各種ニュースサイトに流れてベタサーバが落ちる。それまであったデータとかがゴミになったり。

 このころがピーク。

 

6.事業拡大につき一緒に働く仲間を募集します!

 すでにPVは下がり始めるがなぜか人材募集

 営業やマーケティング(笑)を強化。

 

7.いざ新天地へ

 東京や!アメリカや!

 事務所が狭くなったので引越し

 今後のことを考えて今までの倍の広さにしました。

 

8.破滅への序曲

 東京もんはいらんと京都に出戻ったことで離反者が続出。

 現状脱出を目指していろいろ試行錯誤。

 この辺りからいろいろ壊れはじめる。

 

9.時代はソーシャルネットーワーク

 このころmixiが人気絶頂。

 これからはポータルSNSの時代や!とか言ってた。

 

10.新たに生まれ変わります宣言

 ユーザー同士の緩いつながりを目指したサイトリニューアルする。

 開発陣からはOSS使えば?とか声があったが社長が一蹴。

 独自なものにこだわる。

 とはいえ無計画に膨らんだ機能のつじつまを合わせるプログラミングする日々。むなしい。

 この辺りからバカバカしくなる。

 

11.○○のような△△サービス

 YouTubeのような動画サービス動画共有追加

 Flickrのような写真投稿サービス写真共有追加

 pixivのようなイラスト投稿サービスイラスト共有追加

 diggのようなブックマークサービスソーシャルブックマーク追加

   

 とりあえずいろんなサービス追加しまくってサイトカオス状態。

 

12.時代はOpenIDだ!

 しかし効果がなかった!

 

13.時代はモバイルだ!

 しかしPGがいない!

  

14.時代はマイクロブログだ!

 ちょっと息を吹き返した!

 

15.時代はWiiだ!

 ちょっと息を吹き返した!

 いまここ

 

今のところ会社は存続している。だが会長がご高齢なので後継者問題に社内が揺れている。

まだ生まれたばかりの子供会長に据えて院政をしようと謀っているようだ。

すでに既出ネタだったようだ。反省はしていない。

http://anond.hatelabo.jp/20090210124712

2009-01-12

http://anond.hatelabo.jp/20090112124316

まあ、小沢自身に総理大臣を務める気はサラサラないだろうけどな。その代わり院政敷いて政権何代にもわたって操る気は満々だけど。

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