はてなキーワード: 正親町天皇とは
101.称光天皇(1414~1428))
102.後花園天皇(1428~1464)
譲位後に発生した応仁の乱を嘆いて出家。政務を放棄した足利義政を戒めたこともある。
103.後土御門天皇(1464~1500)
大嘗会を催したが、直後に応仁の乱が発生したため、中世最後の大嘗会となった。
104.後柏原天皇(1500~26)
即位時、朝廷の財政は困窮しており、父であった先帝の葬儀も40日後、即位式も即位後21年という有様であった。
105.後奈良天皇(1526~1557)
飢饉と疫病に苦しむ民を救うため、諸国の一宮に直筆の般若心経を奉納した。
106.正親町天皇(1557~1586)
毛利元就の献上金で即位。織田信長・豊臣秀吉の援助で皇居の修復、伊勢神宮の造営などを実現した。
107.後陽成天皇(1586~1611)
秀吉の援助で朝廷の権威回復に努めた。聚楽第行幸を行った。学問を好み、日本書紀などの慶長勅版を刊行した。
108.後水尾天皇(1611~1629)
女帝。
110.後光明天皇(1643~1654)
111.後西天皇(1655~1663)
112.霊元天皇(1663~1687)
113.東山天皇(1687~1709)
114.中御門天皇(1709~1735)
先帝の代に復興した大嘗祭が再び途絶えた。公事部類を残した。笛が巧く、狐ですら聞き入ったとされる。
115.桜町天皇(1735~1747)
116.桃園天皇(1747~1762)
117.後桜町天皇(1762~1771)
118.後桃園天皇(1771~1779)
父典仁親王に尊号を与えようとするも松平定信に阻まれる尊号事件があった。
120.仁孝天皇(1817~1846)
121.孝明天皇(1846~1867)
安政5ヶ国条約に反対し、攘夷を主張した。反面、和宮の降嫁に賛成し、公武合体を推し進めた。
122.明治天皇(1867~1912)
大政奉還がなされ、明治政府が誕生。在位中は大日本帝国憲法発布、廃藩置県、国会創設など近代化が進められた。日清・日露戦争の勝利、韓国併合により日本は列強の仲間入りは果たした。
123.大正天皇(1912~1926)
生まれつき病弱であったため、皇太子裕仁が摂政に任じられた。在位中に第一次世界大戦が勃発。皇室として初めて一夫一妻を確立。
124.昭和天皇(1926~1989)
在位中に第二次世界大戦が勃発。日本の敗北を受け入れ、日本国憲法が制定された。
125.上皇(1989~2019)
世界各国を訪問して皇室外交による親善に努めた。東日本大震災の際には自ら被災地を訪問した。
126.今上天皇(2019~) NEW!!
上月城主となっていた寺元生死之助は、陸路から進軍してきた松永軍を相手に防戦していたが、
そこに海から尼子勝久の軍勢が到着したので、生死之助はさっと搦手の門を開いて迎え入れた。
生死之助は、鹿之助に対して何事か策を献じたあと、逃げ帰ったていで富田城に戻り、
「松永弾正と尼子勝久とで一万余りに攻められては太刀打ちできず」と申せば、
九郎左衛門は毛利を頼るしかあるまいと五千の援軍を借り受けた。
元気づいた九郎左衛門は手勢の八千人も連れて城外に陣を構え、そこに尼子勝久の軍が攻めかかった。
九郎左衛門の兵は、先鋒の鹿之助を取り囲んだが、あっというまに蹴散らされ、城門の内に退がるよりない。
城に籠もられると、さしもの鹿之助も攻めあぐねて、その日は退却となった。
「悪逆無道の尼子九郎左衛門、はやく馬より下りて首を渡せい」と呼ばわると、
九郎左衛門も「小倅ごときに討たれる九郎左衛門にあらず」と前に出てきて采配を振るう。
さらに鹿之助が「こののち三声と叫ばぬうちにその方の生命は寂滅する」と挑発すれば、
九郎左衛門はさらに怒り「三声は愚か千声万声でも発してみせるわ、我を生け捕る者があるか」と叫んだ。
その声が終わらぬうち、傍に立っていた寺元生死之助が「汝を生け捕るものはこれにあり」と応えるや、
九郎左衛門を馬上より引きずり下ろしてあっというまに縛り上げてしまった。
その隙に生死之助は九郎左衛門を抱えて尼子勝久の陣中に転がり込む。
毛利家の河野四郎は薮中茨之助と戦って斬られ、同じく毛利家の来島太郎は荒波錨之助に首を引き抜かれた。
九郎左衛門の配下の赤星軍八は皐月早苗之助と、田原兵次は秋宅庵之助と戦っていたが、やがて討ち取られた。
その他の勇士たちも各々活躍し、ついに大勝利と相成ったのである。
尼子勝久が城内に乗り込むと、生死之助が縛り上げた九郎左衛門を引っ立ててきた。
勝久は「いまぞ天罰の蒙る時節到来」と自らその首を打ち落とした。
兵たちは勝鬨を上げ、民百姓も多いに喜び、尼子家の再興を祝したのだった。
ちょうど正親町天皇の即位があり、毛利元就も上洛して献納品を奉ったところ、
義輝公の母君から「尼子と和睦して義久を返してやってくれ」と頼まれた。
やむなく元就は頷き、これで尼子と毛利は和睦して、義久は丁重に送り返された。
義久と勝久はついに親子の再会となり、また忠臣義士らを集めて労い、
とりわけ功のあった十名、
大谷古猪之助
寺元生死之助
横道兵庫之助
早川鮎之助
高橋渡之助
秋宅庵之助
薮中茨之助
荒波錨之助