はてなキーワード: ヤンデレとは
黒人、白人もアジア人も自分で自傷して他の人種に傷付けられたって騒ぐだけ騒いで解決した気になって悪化してるンゴ
最近日本にもそういう輩が増えてきて日本がアメリカのメンヘラ仲間になりつつある
アメリカってヤンデレも含まれてて嫌いだけど好きって言いながら銃撃つし
アメリカって平等を意識しすぎて馬鹿になって、生徒が頭悪いと先生の給料下げるから問題をもっと簡単に解けるようにしてる
だから生徒はちゃんと教育学べてないし、先生は先生でおかしい事を受け入れないとクビ
しかもちゃんとした教育は人種で変に分けるから黒人は頭悪い学校ばっかりだ
一般の白人が悪いわけでもなくて、上層の金持ち白人達が悪いのに黒人は教育をちゃんと受けられないから学力が低い
それを他の国の人は詳しく知らないからアメリカの問題は上層の金持ち白人達が見せている情報しかない
日本人は人種に関係なく日本に外から来た人はみんな「外国人」だし
そこに人種的意味はなくて「外の国の人」だから外国人は「外国人」でいる事を誇れる
たまに外国人が何か許せなくて差別する日本人もいるけど、人種というより「外国人」って言葉の中で嫌いなんだと思う
今は昔よりも外国の血が入ってたり、そのままの外国人でも平等に日本人社会の中でそれなりの教育が受けられる
もちろんその背景には沢山の日本育ちの外国人や混血の人達が日本人に気持ちを教えたからなんだけど
アメリカやアメリカの影響が強い国は「人種」で聞いて「人種」で否定する
そもそもアメリカは「人種」と「文化」の言葉の距離がありすぎる
国、歴史、考え、見た目、自分の心の性格などそういう意味含めで一般的に日本人は理解してる
だから「文化」を受け入れる事は「人種」も認める事に繋がるって理解してる
アメリカは「人種」は遺伝的な「見た目」だけ、「文化」は国、歴史だけ
ただ「人種」の意味なのにアメリカ人はそこに悪い意味を入れ込んでしまった
本当に意味わからないけど、ずさんな教育システムだからこんな意味不明な思考になる
皆まともな教育を受けられないから自分を安心させるまともな考えが出来ない
小さい頃に何でそういわれるのかを理解出来なくて解決に導けなかった
そういう大人がいっぱいいて意味わからん事を沢山悩みまくってる
学力の低下は問題を解決する能力を下げて何かの原因を責任転換をさせる
グローバル化してきて日本人が日本人としての意識が薄れてくると
アメリカの二の舞になりそうだ
佐々木俊尚は障害者を上級弱者として特別扱いするのはやめろとは言ってない。
ただサヨクが、同じ困ってる人でも特定の層だけえこひいきしてるよなーって言ってるだけ。
ここでサヨクが「俺らをバカにすんな!」ってキレるなら正しくキャッチボールができてる。
それだったら佐々木俊尚とサヨクの間でコロシアエーっていう気分になってたんだが。
ここで「障害者に失礼だ!」っていう言い方でキレだした。
佐々木俊尚は、サヨクたちは障害者を利用してわめくなっていってるのに「かわいそうな障害者ちゃんになんてこと言うな!」ってキレた。
佐々木俊尚も邪悪な人間ではあるが、さすがに今回に関していえばサヨクのキチっぷりが高すぎてヒくわ。
・綾波かアスカ派で争ってたら鈴原の妹のサクラが最強のヤンデレとしてすべてのヒロインをぶっちぎって優勝するらしい。
TVアニメ版2話から出ていて綾波よりもアスカよりも先に登場してた最古参のヒロインだったらしい。なるほど(なるほどじゃないが)
・ビアンカかフローラかで悩んでたら全然違う女が優勝してしまうせいで特にアスカ派の人間が全員頭パーンしてしまうらしい。
作品中に首無しのオタクたちが大量発生するシーンがあるらしい。
すべてのエヴァンゲリオンを終わらせるって、ファンが物理的に終わるっていう意味かよ。
雑誌BRUTUSのNo.933でアイドルマスターの特集が組まれ、そこで夢見りあむがヤンデレアイドルとして説明されたらしい。
すると雑誌に対して「りあむはヤンデレじゃない」という感想を持った人が割と見かけられた。
個人的には夢見りあむがゲームやそれ以外のメディアでヤンデレとして描かれようが描かれまいが面白ければどっちでもいいんだが
まず何らかの対象について病的な愛し方をする人をヤンデレと定義すると
夢見りあむはアイドルになる前は普通でないアイドルオタクであったので確かに「アイドル」という概念を病的に愛していた可能性はあると思う。
愛し方が病的だったために周りのアイドルオタク達との間で軋轢が生じて少なからず炎上していたという考えも出来なくはない。
しかしアイドルとしてスカウトされて3ヶ月後の総選挙で彼女は190人中で3位を取ってしまう。
ロクでもない人間と自覚していたりあむが素晴らしいアイドル187人より上のアイドルになってしまった事で彼女は苦悩した。
ヤンデレアイドルの佐久間まゆで喩えるなら、自分の面倒を見てくれるPを登場直後から病的に愛していたのに
3ヶ月目に大量の下痢便をPの顔面に不可抗力でぶち撒けてしまうようなもんだ。
今までのような愛し方も上手く続けられなくなるのも無理は無い。
それでも総選挙から4ヶ月後に夢見りあむは何とか吹っ切れる事が出来た。
ロクでもないアイドルである事は変えられないとした上でそんな自分を持て囃すアイドルオタク達に
そのままの自分をぶち撒ける事にした。
「アイドル」の概念に迷惑をかける事になってしまうかもしれないが、アイドルらしくもない自分を持て囃すアイドルオタク達が悪い!
そんな責任転嫁も込みの上で「アイドル」をまた愛せるようになった訳である。
昔とは違う愛し方になってしまったが愛する相手への迷惑等も意識するようになった分だけ健全な愛し方になったと私は思う。
そして1年が過ぎ、りあむは「アイドル」をより知った上でそれを太陽のようなものと持ち上げたりしながら愛し続けている。
迷惑を掛ける事は自覚しているが少しずつでも「アイドル」にマトモなお返しも出来るようになってはいる。
近年「サイコパス」という言葉がカジュアルに使われることが増えた。
シリアルキラー・異常性愛者・ヤンデレなどと混同され誤用されている。
これは「悪の自覚がない」とは異なる。
悪いことであるとは知っているが、
そのためサイコパスは平気で嘘をつく。
自分の業績を捏造し、失敗しても巧みに言い訳をするので、表面的には魅力的に見える。
普通なら良心の呵責でブレーキがかかるところを、サイコパスなら躊躇いなく踏み込める。
それはある種の決断力とみなされうる。
サイコパスの多くはただの「嘘つき」として生きている。
社会生活上に困難をもたらす人間の特徴を「障害」と定義するならば、
サイコパスたちは「生まれつき良心に障害を抱えている」だけでしかない。
故に「反社会性パーソナリティ障害」という病名がつけられているのである。
サイコパスへの理解を阻害し、彼らが引き起こす問題をさらに大きくするだろう。
どちらかというとそうだったらどうしよう?という感じなのでここに吐き出しておく。
恋人は明らかに喪デブな自分に対して「理想的」「もっとお肉ついてもいいくらい」「大好き」ともうめちゃくちゃに褒めてくれるありがたい存在だ。
見た目もオシャレに気を使ってるのが分かるし顔自体もそんなに悪くない。似てる芸能人がいるタイプ。
でもトキメキというのが感じられない。
なんとなく「いい人だな」「好きだな」と思う程度。
好きだとアピールしてくれるから付き合って、自分もまあ嫌いじゃないので「好きだ」とは言っているが、正直愛してるかと言われると首を捻ってしまう。
二次元の嫁はそれはもう可愛くって一途で献身的で料理は…まあ炒め物ばっかりだがそこもいい。
いわゆるヤンデレだがもう本当にそこがいい。かわいい。愛しい。
そう、本気で愛しいし結婚したいのだ。嫁と。
そんな自分が本当に三次元の恋人と付き合っていけるのか、今不安でしょうがない。
付き合ったばかりだからまだ実感が湧いてないのかもしれないが、どうなんだろう。
似たような経験持ちの既婚者や恋人持ちがいたら話聞かせて欲しい。
長かったのに読んでくれてありがとう。
[追記]
キスとか手を繋ぐとかはまあ出来るな……嫌じゃないし気持ちいいな……恋人がいるってこんな感じか……って感じだけどやっぱりときめかないんだよな。
これが嫁だったら一緒にいるだけで幸せでトキメキがやばいんだと思うとなおさら申し訳なくなる。
相手にも失礼っていうのはわかる。
相手を傷つけないうちに別れたほうがいいのかもな。
[追記2]
気をつけるよ。
相手のことは大事にしたいと思ってるし相手も自分を大事にしてくれてるのが伝わってくるからそれに応えたいと思う。
今の恋人は…という話だが、恋人は正直いわゆる「重たい恋人」というやつで結婚を前提に付き合いたいと言ってきたので、もしかしたら結婚するかもしれない。
普通はよく分からなくてもブラックボックスで済むものはそういうものだと思ってすっ飛ばすものだし、世の中ほとんどそうやって回っている。
しかし、あれも分からん、これも分からん、ちょっとでも分からんのが我慢ならん、というなら徹底してやるしかない。
今の時代は大変恵まれていて、自作OSや自作CPUの日本語の本があるし、GitHubとかにも多くの情報がある。
OSは作らなくても、何かをBootさせるコードを書いてQEMUで動作させるぐらいまではできるはず。
近い将来ガンダムにいきなり乗り込んでモビルスーツのOSレベルからその場で書き換えて敵を撃退できるかもしれない。
そうすれば敵のお姫様にもモテるし、味方のヤンデレにもモテるようになるだろう。
そう、ITができれば姫にもヤンデレにもモテるようになるのである。
現実はそんなことあるわけないけど、そう思うことでモチベーションアゲアゲにして生きていくのである。
つらい
ギャルゲーのオープニングムービーのノリで紹介していきたいと思う。含ネタバレ。
「私なんかね、髪の長い下品な女の子二百五十人くらい知ってるわよ、本当よ」
ノルウェイの森はご存知ダブルヒロインシステムで展開する物語であり、正ヒロインの直子に対する反ヒロインがミドリである。ミドリは深い自己反省を行う直子とは正反対のキャラクターとして描かれているものの、要所で当を得た優れた知性の持ち主でもある。物語の途上、直子との恋愛に疲れ果てていく主人公のワタナベに対して次第に親しみを募らせていき、最終的には恋に落ちる。明るくユーモラスだが苦労人でもあり、「人生はビスケットの缶のようなもの」という独自の哲学を披露する。
「たぶん私たち、世の中に借りを返さなくちゃならなかったからよ」
正ヒロイン。ヤンデレの先駆け。高校時代に亡くなった恋人の記憶を延々引きずり続けており、その代償行為としてワタナベとの関係を求めた結果、人生が取り返しのつかないほどこじれてしまった。曰く「自分自身が二つに分裂して木の周りで追いかけっこしている」。物語の中盤から京都のサナトリウムにて療養生活を送ることになるが、最終的にワタナベの魂を深淵へと引きずりこむこととなる。
「私たちがまともな点は、自分たちがまともじゃないってわかっていることよね」
ダブルヒロインと銘打ちつつも、中盤以降登場するサブヒロイン。
若い頃は有能なピアニストであったが、演奏のストレスにより精神に不調をきたしてしまい、それ以来人生に振り回れされ続ける。挙げ句の果てに、教師としてピアノを指導していた美少女にレズレイプされそうになるなど、人生が取り返しのつかないほどこじれてしまった。主人公とのラストシーンで読者を激しく混乱させる。
「なんかさ、うまく言えないけど、本当の弟みたいな気がしてるんだ」
『海辺のカフカ』はドイツにおける「フランツ・カフカ賞」やイスラエルの文学賞である「エルサレム賞」の獲得への原動力となった作品であり、ギリシャ悲劇の色彩とインスピレーションを帯びたポップな文体が特徴である。主人公は十五歳の少年で、田村カフカという偽名を名乗っており、作中においてその本名は明かされない。
作中一番最初に主人公が邂逅する他者がさくらであり、彼女もまた苦労人。幼少期から両親との折り合いがつかず、一刻も早く自立し一人で生きていくことを人生の方針にしていた。職業は美容師。
主人公はかつて姉と両親の四人暮らしをしていたが、その途上で母と姉は家を去っている。主人公はその、顔もろくに覚えていない姉の姿を、さくらへと重ねるのである。ヒロインというか擬似的な姉とも言うべき存在。
「あなたは誰なの? どうしていろんなことをそんなによく知っているの?」
正ヒロイン。五十代の美しい女性であり一切が知的に洗練されているが、巨大なオブセッション(強迫観念)によって人生を摩耗させている。
彼女の人物設定は『ノルウェイの森』をなぞる形となっており、先に紹介した直子の鏡写しのような存在である。彼女が勤めている私立図書館は、かつての恋人の父親の所有であり、話がややこしくなるのだけれどこの父親は物語中には登場しない。問題はその恋人とのことで、彼女は幼少期から恋人と親密な関係を築くのだけれど、最終的に死別する。それから三十年以上もの間、彼女は自身の空虚な人生に苦しみ続けた結果、主人公と出会う。
「いつそれを言ってくれるか、ずっと待っていたんだ」
ヒロイン欄にこの人物の名前を記すこと自体が既にネタバレなのだけれど、とにかくヒロインの一人。ボーイッシュ枠。
美しい太った娘。村上春樹は1979年にデビューして以来、1987年に至るまで十年近くキャラクターに名前を付けるのが恥ずかしかったとのことで、一部の例外やあだ名を除いてキャラクターは無名である。よって1985年に出版された本作においても、一切の登場人物の名前は明かされない。
幼い頃に家族を全て交通事故で失って以来、祖父である天才科学者の「博士」の元で純粋培養された少女。十七歳。教育方針によって学校には通わず英才教育を受ける傍ら、適度に脂肪を取らされ、適度に太らされている。性欲一般に関してあまり理解しておらず、主人公に何かと性的な質問を向けては困らせる。
「博士」による教育の結果、語学などの現実生活を送るための技術を複数習得している才女。決断力というか胆力があるが、どこかしら世間知らずな面は否めない。
「それが何かはわからないけれど、どこかで昔感じたことのあるもの。空気とか光とか音とか、そういうものよ」
多重世界の表の側である『ハードボイルド・ワンダーランド』に登場する娘。なお裏の世界である『世界の終り』においても、同一存在として主人公の前に現れる実に因縁深い存在でもある。図書館のリファレンス係をしており、主人公が一角獣に関するテキストを請求したことから親しくなる。大食漢であり給料の大半が食費に消えるが、上記の娘とは違い極めて均整の取れたスタイルの持ち主である。
「――私の心をみつけて」
多重世界の裏の側である『世界の終り』に登場する娘。リファレンス係の娘の多重存在。「古い夢」と呼ばれる一角獣の頭蓋骨を、図書館で管理している。
『世界の終り』においては心は動き回る影の形で存在しており、影は人が大人に成長する前に特殊な器具によって切り離され、埋葬される。その儀式を経た後は全ての人間は「完全」となり、年を取ることもなく何かに怯えることもない。彼女もまたそのようにして心を喪う中、やがて外の世界からやってきた主人公と出会う。
「俺は君をどうしても外につれだしたかったんだ。君の生きるべき世界はちゃんと外にあるんだ」
おまけ。
『世界の終り』に登場する主人公の影。頭の回転が速く機転が利くが、主人公と切り離されてしまったため大きく体力を奪われており、ほぼスペランカーと化している。
『世界の終り』において門番の男に幽閉され、真綿で締め上げられるような虐待を受け続ける。
俺は『騎士団長殺し』を除いて全ての長編を読破しているんだけれど、まだまだヒロインはたくさんいる。あるいは続編を書くことになるかもしれない。
天体観測好きな不思議っ子大正帝、水着ロリっ子安徳帝、ヤンデレ崇徳帝、年齢不詳のお局後白河帝、文武両道だけど反抗的なヤンキーの首領後鳥羽帝、家族思いの心優しいおっとり少女土御門帝、おっぱい大好きですぐハニトラに引っかかる残念なイケメン称徳帝、ロリっ子揃いの中に時折紛れ込むトラップのショタたち、よりどりみどりじゃないか。なんで歴代天皇を性転換しないんだ。
歴代総理も女体化ならさして燃えなかっただろうしな。陰険でケチケチしたメガネっ娘東條ちゃん、デブ専御用達キャラの高橋ちゃん、太まゆげの村山ちゃん、勉強はできないけどカリスマがある田中ちゃん、セーラー服を着こなすスラッとした美女米内ちゃん、弟の彼女とクリソツな岡田ちゃん、一匹狼のサバサバ系芦田ちゃん、と並べれば大抵のオタクは食いつくだろう。
真夏の屋外オールナイト開催のフェスが今年は10周年!のはずがやはり一旦は延期になり、昼から夜まで×2days開催@屋内となったのが先日三連休の話。
色々考えたけど行きたかったので行ってきた。(2日目のヘルシンキ〜フジファ。)
密集、密接対策としては、ふつうスタンディング席であろうところの半分以上を椅子の席(ちどりに使用禁止の張り紙)にしてあり、スタンディング席もバーでこまめにエリア分け&ひとりぶんのエリアのグリッドが線引きされていて、近接は無いようにしてあった。後述するが観客側のマナーとしてもも大きい声を張る行為は一切なかった。
ケバブ等の軽食はあったけれど、飲食用のテーブルは無し。アルコール類も無し。通路や物販列も空いていて、端的に言って日々のJRの方がよっぽど密接密集している…。
ドアノブ等もダスキンがまめに拭いているらしい。換気の具合ばかりはわからないが、ちょっと涼しかったし酸欠感も無かったしで、きっと良いのだろう。
総じて、「これで駄目ならもうどうしようも無いだろう」「首都圏近場でのおでかけや外食、日々の勤務よりも安全だろう」という印象だった。
会場入りした時にやっていたのはヘルシンキラムダクラブのリハ。「しゃれこうべしゃれこうべ」、たぶんそういう他意はなくただヤンデレっぽい歌詞だと思っているけど、それでも「死なないで」「地獄でワルツを踊りましょう」に乗せて客席がビジョンに抜かれ、2mピッチで棒立ちな観客や一面の背もたれの「使用禁止」のチェック模様を突きつけられると、失われたものを突きつけられるようだった(このご時世にそもそもフェスなんてまるごと失われるべき、という意見もあるだろうけど。)
いざ本番が始まると、色んなことを忘れさせてくれるような素晴らしいステージだった。
ドミコ、リーガルリリー、オーサムシティークラブのあたりがそうだろうか、バンドの世界観がしっかりしていて、それを垣間見て味わうようなタイプだと、純粋に生音やステージに熱中させてくれるようだった。
ただ、フロンティアバックヤードが「こっちから見ると異様な景色で、おじちゃんびびってるよ」みたいなことを言っていたが、ステージから客席を見た光景こそが異様なのだろう。しかし、客席からステージを見る限り、無心に熱中できる瞬間もあった。
モノノアワレはMCで飄々と状況を受け入れていおり、らしく、面白かった。
「今回、私達は発声できる形で、皆様は発声できない形でやらせていただいており、人間は声に出さずとも心で話すことができ、それが悩むと言うことですが、人間は生物で唯一悩むことができるといわれており、それは置いておきまして、…」からの早口言葉ソング。
モノノアワレは完成度高かったな…ただ曲間の沈黙の瞬間に何度も隣のリハのドラムスがなっちゃってたのだけが邪魔だったけど、最後のそういう(曲間で一瞬シンとなってとなりのリハの音がにわかにとても響く)タイミングでボーカルがもっとおっきい声で「せーのっ!」て叫んで最後の曲に入ったの格好良かった。
四星球は音源ではなくライブこそが本番のお祭り屋、盛り上げ屋なので、どうするんだろうと思っていた。いざステージが客席から堪えきれないしのび笑いを誘い、内心を盛り上げ、(腿上げは息が上がるのでグレーだと個人的には思うけど…まあ短時間か)盛り上がりを表明できずもどかしい観客に「みんなが心で一緒に歌っているのが、心でわかります」「フェスなんか来て罪悪感はんぱないでしょ?」「でもその罪悪感が皆を守ってるんです」「皆が守っているのはガイドラインなんていう堅苦しいものじゃない、エンタメ業界です」の語りはアツかった。
冷笑したくなる陳腐な熱いセリフを、本気のように聞かせる、本物のアツい思いに感じさせる四星球は、これを言うのは恥ずかしいしなんだか負けたような気がするけど、やっぱりすごい。四星球が言う「10周年おめでとうございます」はなんだか重く聞こえる。
で、ヒリついたタイマンバトルのような、いっそ客席を無視してるようなマジで痺れるドミコを挟んで(なんだこの順番は。)ポリシクスも盛り上げ屋だけど、対称的だった。
「みんな〜盛り上がってるか〜い!」みたいな問いかけに返ってくるのは、どこまでも、拍手。いつもだったら客席からマイクとアンプに負けないくらいの歓声が上がるのに。
声が裏返ったボーカルの絶叫コール、アンド、キャパシティ50%未満の歓声も口笛もない拍手のレスポンス、は何度か繰り返された。
ステージの上は「新しい生活様式」を噛み締めているようにも打ちのめされているようにも見えたけれど、本心はわからない。
正直言って四星球がいなかったら我慢ならなくなって叫び返してたやつが出たと思う。隙のない三密回避(&ノンアルコール)の運営と四星球の演説があって、やっと、何度呼びかけられても拍手だけが返せたのだと思っている。
途中からステージに「観客のレスポンス」のSEのボタンが登場して観客はジェスチャーでタイミングよくボタンを押そうぜ、となった。「このボタン、いいね、いつでもアリーナ級のレスポンス返ってくるんじゃん」と笑いを誘ったけど、こっちはちょっと泣きそうだった。
フジファの途中で帰ってしまったけれど彼らも「マイペースに世界観を見せつける」というよりは真摯に受け止めて寄り添って悩んでみせるタイプ。初代ボーカルが急逝しているのでどうしても古参ファン的にはシリアスな色が強い。(11年前なので知らない・実感のないファンも多いだろうけど…今回ポリシクスとストレイテナーの間では年齢層高そうだ。)
初参加、夏にやりたかったなあ、という話からの夏のノスタルジーどまんなかソング「若者のすべて」はしんみりした。盆踊りのような振り付けの曲があり、これが良かった。いちばん動けたし、夏だったし。しっかり楽しめたし、揺さぶられて、良いステージだった。
全体として、三密回避で無発声だとどうしてもお祭り騒ぎはそりゃあできなく、内心ムチャクチャ盛り上がってるのに地蔵化させられているように思う瞬間もあって、仕方がないけどももどかしかった。いまヤバくなってるこの思いをステージに返したいのに…みたいな。
熱狂できない、集団催眠みたいにヤバくなることはない。仕方がないけれど…
良い点として、立ち位置や座る位置を工夫すれば、過去最高にステージが良く見えたのと、私も年なので座って見れたのはラクだった。大きめのカバンのままでも邪魔にならないのも楽ちんだった。
光る棒とか公式アイテムであったらまた少し発散できたかな? マックスのぶち上げ盛り上がりは盆踊りのような動きになるので、お祭り屋タイプのバンドにはそのつもりでステージ組み立てて貰えたら新しい楽しさがあるかも知れない。
最後になるけれどもあらためて、日頃の暮らしよりもよっぽど三密回避なフェスを開催してくれて感謝。叫んだりたむろったりも無かった観客に感謝。ライブってやっぱ良いね。
男オタクはシコれるかシコれないかでキャラを判断しているので、彼女にしたいかどうかということは考えない
仮に「彼女にして〜」と言っている男がいるとしても、それはセックスがしたいという意味である
(これは現実の女性の場合でも当てはまる場合が多々ある発言だが、フィクショナルな対象に向けられるほうが無反省に沢山使われやすいことは言うまでもない)
涼宮ハルヒは現実にいたらヤバい女で、かつ人気のキャラであるが、それはハルヒを彼女にしたいからではなく、ハルヒの体が射精を促すものだからである
(これは京アニがエッチな公式絵をたくさん供給してくれたということではなく、彼らはホントに「エッチな体のキャラ」としてハルヒの存在を捉えている)
(また、ハルヒにはキョンという存在がおり、その乱暴な愛が自分=読者(≠キョン)に向かないので安心してハルヒのエッチな体に射精することができるという点でもうってつけである)
最近では対象への射精を考えないタイプの消費を男オタクがすることもあり、百合豚にその典型をみることができる
この場合でもめんどくさい女=サイコレズを愛でる文化はあるが、やはり自分に愛の矛先が向かないということは重要である
かつてヤンデレという典型が流行したことがあったが、一過性におわったのは、男オタクたちが自分達や主人公少年に向けられるクソデカ感情の機微を咀嚼しきることができず、表面的な暴力性としてしかヤンデレを捉えきることなできなかったからである
(それはヤンデレの登場からすぐ猟奇と混同され取って変わられたところにみられる)
このことが示唆するのは、射精のためにキャラクターを消費する男オタクにとっては、キャラクターの感情や機微というのは手に負えないものであって、その大きな表出はネタとして消化するよりないものだったということである(ヤンデレの妹シリーズをみよ)
サイコレズを崇める百合豚は、百合の間に自分のちんぽを挟まないことで、クソデカ感情によるドライオーガズムを可能にした男オタクの姿である
そいつは等身大で二次元的ではなく三次元的なキャラ作りと評価していたが、正直今の創作物からそれらがすっぽり抜け落ちてるだけなんだよね。だから今になって80年代回帰が緩やかに起こると、かつての表現が非常に新しく見えてきてしまう。それらはかつて90~2006年代の属性(ツンデレ・ヤンデレ・妹等)の多出によって失われたテクニックの一種なんだけど、今になってリアルな人というものそのものが見直されてきて、スポット的に人気になった。みんなそろそろ、というかようやくテンプレ的なキャラに飽きが来てしまっているのではないかと。とはいえかのかり作中にも十分あテンプレキャラやパターンはあるし、80年代だってテンプレとパロディの宝庫だった。多分グイグイ来る女とか見ている男たちが気持ちのいいテンプレは残ってゆくんだろう。個人的にはあんなグイグイくる女や妙に女房めいた決断や決意を迫る女がいたら疲労感を感じるが。
テンプレがなくなれば映画や邦画と変わらなくなってしまいかねないが、全くやってないことをやる土壌は年々失われていると思う。競争激化で冒険することができない。結果的に王道はある程度踏襲される。今はただ巡ってきてるだけかなあと。人間味という測れないパラメーターを重視するのは個人的には好きだけどね。テンプレのツンデレとか連発されるよりいい。