はてなキーワード: 関西とは
甥っ子がもう1年ほど家に引きこもっている。弟は3年前に仕事の都合で大阪から東京に引っ越していった。そのため甥は中学から東京の学校に通い始めた。最初は楽しく過ごしていたそうだ。暫くして表情が暗くなり家であまり喋らなくなっていき、ほどなくして学校にいけなくなったと聞いた。原因はいじめだった。
最近のバラエティーは関西人や関西弁をdisって笑いにするシーンがよくあるらしい。あまりテレビを見ていないのでわからないが昔の、関西出身者大阪出身者本人が自虐的に大阪を笑う構造とは違うそうだ。
関西人が嫌いというのはネットでもよく見かける。差別に敏感そうな人でも平気でそう書いてるのはよく見る。絶対的な首都東京を一段低い場所から好き勝手に扱き下ろすことは確かに関西の番組でもよくある。だがそこには東京が上という自虐が含まれている前提があった。
関西弁を喋るなよ、がいじめの切欠だったそうだ。前日に見たテレビの受け売りで言ったと後に謝罪に来たいじめ加害者たちは語っていたそうだ。甥は標準語を喋ろうとしたが恥ずかしくてなかなか喋れずそれがいじめを加速させたらしい。
でも国語は抜群に出来たし、自慢じゃないけど関西トップの某学習塾全体でも一番出来てた。
でも読書感想文だけは大っ嫌いでいつも嫌々書いてた。
当時の僕が感じていた違和感はたぶん自分の文章能力と作品の魅力の乖離。今でも、素晴らしい文学作品の魅力なんて言葉じゃ伝えられないと思ってるし、評論家はそこを突き詰めるからプロなんだと思うし。
小学生なんかに書き切れる訳ないんだよ。書けたつもりの奴は嘘をつくのが上手いだけだ。
でも、その嘘をつく奴、大人に媚びるのが上手い奴が入賞したりする。僕は納得出来なかった。
自分の心に嘘は付きたくなかった。せめて文学作品にだけは真摯でいたかった。
真面目な小学生だったんだな。
関西の私鉄は、無料の特急や乗り継ぎ連絡のよい急行や準急が走りまくっているから、最大の繁華街までが本当に近い。
大阪駅からJRで53分も電車に乗ったら、滋賀県の草津駅、兵庫県の加古川駅まで行ってしまう。
ちなみに京都-大阪間29分、大阪-三ノ宮間22分。中央線沿線の感覚でいくとそれぞれ高槻と西宮があれば十分だと思うが。
千里、樟葉、泉北とかだとニュータウン周辺は自宅の周りではロードサイド文化を満喫でき、電車に30分揺られれば、中心部の繁華街に出られる。
両方楽しめていいじゃないの。
日本政府から離脱したほうが効率的な社会運営が可能であると橋下徹は思っているのではないかと強く疑っている(そして個人的にはそれが悪いとは思わない)。道州制は軍事外交などを除く権限を日本政府から「奪う」あるいは「奪還する」のが目的であるし、都構想も関西に『都』を作るためだった。関西維新の会設立を明言したのは『東京』に影響されない仕組みが必要であるからだと私は解釈している。彼の思惑は最初から今まで一貫しているのだ。
その道の行き着く先には、『独立』がある。彼がそこまで織り込んで活動しているのかは分からないが、彼はアホではないのでこの道を進んだ結果そういうことになると分かっていないはずがないと思う。
正直に言えば落ち目の日本政府に付いて行っても得はない。関西自体が時代に応じて自由に選択できればいい。日本政府が東京以外をそこまで重視していないのも事実ではあるし、それならばこちらから日本政府から出て行くのも選択肢として有り得るのだ。そういう意味ではまさに大阪人らしい合理性である。『日本』という集団に対する愛着は、関西では全体的に弱いと感じる。東京の方が圧倒的に強い。
沖縄は独立しても経済的に成り立たないだろうが関西の規模なら十二分。
有史以来明治維新まで都が置かれた関西ではあるが、天皇を捨てるのが早いのも恐らく関西になるのではないか。
※ちなみに私は反天皇でもなんでもありません。
※ややこしい書き方してすいません。「都道府県」単位での人口のことです
20代後半男既婚子無し(作る予定はある)
・趣味に関して
自分の趣味は(オンライン含む)ゲームなので「ネットとアマゾンがあれば困らない」っていうのは半分正しい
ただしゲーミングマウスやヘッドセット等の実物を見て買いたいものが欲しいときは秋葉原が恋しくなる
また同じ県内でも場所によってはネット回線が貧弱な場合があるのも注意
東京往復するだけで数万円かかるうえ、日帰りでは無理な時間がかかるので金銭的にも時間的にも体力的にも厳しい
東京は遊びに行くところであって住むところではない
みたいなことをいう人がいるけど
それは東京…あるいは東京に日帰りで行ける距離に住んでいるから言えることだと思う
いつでも気軽に遊ぶための街東京に行けるから東京に住む意味があるのだ
ちなみにアウトドアな趣味がある人は海も雪山もゴルフ場も一時間未満で行けるので便利かも
しかし大人になるまでは親に車で送り迎えしてもらわないと遊びも買い物もめんどくさいことこの上ないのでリア充オタクに関わらず絶望的
・生活
やはり実家があるのは強い
これから子供ができたらなおさら実家に世話になることも増えると思う
経済的にも両親共働きなので(今は結婚して別居してるけれど)世帯収入が多く余裕もある
食べ物は美味い
食べ物に関して困ることと言えば東京にいたときは居酒屋めぐりを趣味にしていたけれど
田舎に来て無理になった
まず選択肢が少ない
そして車じゃないといけないので代行代が半端ない
結果自宅で発泡酒を飲むだけになった
というか車がないと生活できない
仕事もできない
一人なら電車がいいけれど、家族がいると車生活がいいと感じている
なんてことともおさらばできるのは嬉しい
買い物に関しては東京にいたときもアマゾン中心だったし大型ショッピンセンターがあるのでそこまで困らない
普段着はユニクロ、スーツはアオキ、日用品はニトリとダイソーがあれば事足りる僕みたいなタイプの人間なら大して問題にならないと思う
・人
民度は低い
そしてやはり過干渉
東京の無関心さがたまらなく心地よかった僕にはこれが一番つらいところかも
例えるなら「困っている人がいたとき無視してスルーするのが東京、指差して嘲笑するのが田舎」である
治安に関しては車移動なので良い悪いはともかく安全(ただしそれ以上に交通事故の危険性があるけれど)
ただし、治安の良さとは違うが競合相手の少なさからか都会だったら一瞬で淘汰される詐欺レベルの低品質なサービスが横行しているのには注意
・教育
まだ子供はいないけれど子供をいかにマイルドヤンキーにしないかが個人的な課題
費用に関しては私立のほうが偏差値が低く高校まで公立で充分だが(受験に失敗すると私立に行くはめになるが)
大学は駅弁以外はまともな大学がないので県外に出るとなると結局金はかかる
・経済
家賃は確かに安い
家族用のマンションなら東京の半額(ただしプロパンなので光熱費は高い)
今住んでいるのは2DK共益費駐車場(2台)込で7万くらい
そして東京ほど金を使うところもないので金は貯まる
…のだがその分すぐ家建てたりするので(前述した子供の教育費なども含め)結局それなりに金は必要
・結論
(そんな人いないと思うけど)それでも地方に住みたいというなら東京に気軽に行ける距離で
以上
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150803/k10010176121000.html
これは非常に興味深い。
特にこの部分
『「アメリカが原爆を投下したことについて現在、どう考えていますか」と聞いたところ、
「今でも許せない」と答えた人は、広島で43%、長崎で46%、全国で49%でした。
一方、「やむを得なかった」と答えた人は、広島で44%、長崎で41%、全国で40%で、
広島では、ごく僅かですが、数字の上では「やむを得なかった」と答えた人が、「許せない」と答えた人を上回りました。』
小学生まで広島にいて、中学生から関西の進学校に通った個人的な経験から思うことを書いてみる。
(僕の小学校だけではなく広島がそんな感じだった、のを前提とする。経験からおそらく正しい)
まず、中学生の時に驚いたのは、同級生が原爆が落ちた日を知らなかったことだ。
もちろん全く知らないわけじゃなかったが、知ってる人でも、笑いながらあれ広島9日だったっけ?
というようなレベルだった。
広島の公立の小学校では、ほとんど全員知っていたし、知らなかったとしてもそれが何か恥ずかしいことである、という雰囲気があった。
それが、知的レベルが相当高いはずの進学校でこんな感じなのか、というのは、良い悪いではなく、単純に驚いた。
広島で原爆が落ちた日、というのを他のことで例えるなら、たとえば、阪神大震災が起こった日、東日本大震災が起こった日。
それが近いと思う。その地方にいた人はおそらく起こった時間まで覚えているだろう。
それと同じ。広島では小学生でも、原爆が落ちた時間まで覚えている。
広島では小学生はどんな感じだったかといえば、ことあるごとに原爆の話を聞くし、戦争についての話も聞くことが多い。
それは、反戦教育、という言い方になるのかもしれないが、小学生からしたら客観視はできないし当たり前のことのようにその中で育った。
中でも、僕の小学校では、僕が3年生の時から「平和集会」というイベントが1年に1回開催された。
それまでは学年ごちゃ混ぜの運動会みたいなものが開催されていたのだが。
平和集会というのは、各クラスで、平和に関するプレゼンをしあうものだ。歌や劇や朗読や方法は自由。
その結果、僕はどうなったか。
ほんとうにうんざりした。
それは小学校6年生の作文に書いてあったのをこの前見つけた。(写真で出しても良いぐらいだ)
何年も続けてやってたら、同じ話ばかりだしプレゼン作るのもうんざりする。
おそらくこれは僕だけではなかったと思う。
一つの例として、小学校6年生の時に、湾岸戦争が始まったのだが、その時クラスの男子何人かは「やったー」と叫んでいた。
僕は叫ばなかった。そして、女子はもちろんたしなめたが。
それは単純に幼さとも言えるが、その背景に平和教育への反発があった気がしてならない。
やりすぎは良くないのではないか、と思っていた。
原爆に関しても、そんな感じだった。
原爆原爆うるさいよ、と。そんなに言ったって、落とされる方にも問題はあっただろ、と。
そんな気持ちになっていた。
で、このアンケートの結果。
もしかしたら、そういうことなんじゃないか、という気がしてしまうのだ。
原爆落とされた日はもちろんおぼえているけど、だからって今でも許せないとは言い切れない。そんな空気を感じてしまう。
一応、これでは終わらない。終われない(笑)
中学生ぐらいまでは、そんな風に、今言われているのとは違う意味での「自虐史観」のようなものを持っていた。
僕が大学に入った頃、98年ぐらいから右傾化ブームが訪れる。きっかけはおそらく小林よしのりの「戦争論」だろう。
僕もなんとなく読んだし、そんな雰囲気が自分にも周りにもあった気がする。京都大学でも。
そうすると、だんだん核武装論みたいなことをいう人も出てきて、口に出してもおかしくない雰囲気が出来てきた。
それはおそらく今にまで続いているだろう。
たとえば、石原慎太郎なんかが言ったりする。
ところがだ。
核武装については完全に反対だ。
よく言われるのは、持っても誰も使えないんだから大丈夫、国際的な地位を高めるためだけだ、という理屈。
でもそれは明らかにおかしい。本当に使えないなら初めから核の脅威などない。本当に使えないなら持つ意味もない。
で、持ったとして、もしも打たれたら打ち返すのか。ちょっと待ってくれ、と思う。
「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」という原爆死没者慰霊碑の碑文がある。
時に右寄りの人から、これは我々は被害者であり自虐史観だ、という意見を聞くことがある。
それは違うと思う。
原爆というのは、誰がやったとか、誰が被害者だとか、そういうレベルの話ではないのだ。もう絶対的な破滅的な悲劇なのであって、その点において人類全員の罪なのだ。
そういう発想なのだと思う。って今調べたら、広島市のホームページにもそう書いてあった。
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1137568968454/index.html
ということは、だ。これは、仮にもう一度原爆を落とされたとしても、自分たちが打ち返す、なんてことはありえない、という意味であるはずだ。
誰が落とすとかではなく、もう一度原爆が落ちる、ということ自体を否定する、そういう気持ちを表しているはずだ。
なんなら、どこかの国がどうしてもどこかに落とすというのなら、それならもう一度ここに落としてくれ、と。そんな気持ちにすらなる。
もう一度、原爆が落とされるような世界なら、もうここにはいたくない。そんな気持ちにもなる。
で、ここが重要なところ。
僕がこんなことを思えるのは、おそらく、本当にうんざりするほど、勢い余って落とされても仕方なかったんじゃないか、と思ってしまうほどに、
原爆について、その悲惨、ありえなさ、どうしようもなさ、を叩き込まれたからではなかろうか。
体験こそもちろんしてはいないが、理屈ではなく、肌感覚としてそれを学んだからではなかろうか、と。
そんな気がするのである。
実は僕は自衛隊を持つことには一概に反対はしない。だが、核武装は絶対反対だ。
これを説明するには、たぶん刷り込まれた肌感覚としか言いようがない気がする。
ということで、この理論を裏付けるための一つの予言をしてみよう。
おそらくかなりの数、下回ると思う。
こちら東京23区。わりと同世代。同じく朝はパン。目玉焼きとハム、またはベーコンとかかなあ。小中は給食、昼に家で食べるときは麺類が多く、夜は常にご飯食で、おかずはまあ一般的なレシピ本に載っているようなありふれたメニューに、母が祖母から受け継いできたようなものも多少で一汁三菜程度。大皿ものはあまりなかった。
ところで(と言いつつこれが本題)“超熟”は20世紀終わり頃に登場した商品なのだが、関西では“絶対超熟(PASCO)”という商品があったのだろうか?(新しい商品を買うと、保守的な家族に何かしら文句を言われていたのだが、超熟に関しては「当たりだった」と褒められた記憶がある…)それまでスーパーの食パンの主流といえばヤマザキのサンロイヤルブレッドだった。超熟以降、追随して急遽開発したと思われる類似コンセプトの“超芳醇”主流になってもう15、6年くらいになったと思うのだが、記憶違いではない?(最近では東洋水産の“正麺”と、後追いで雨後の竹の子のごとく生麺風インスタント麺が登場しているが、そんな感じ)
三丁目の夕日を読んでいて、ふといずれ自分が子供の頃食べてた食事も珍しく思われるのかなぁと思った。
小学校のときは給食だったから、朝はほとんどパン。絶対超熟(PASCO)。
トーストにしてマーガリンとジャムを塗ったり、ダイエットなんかも気にする年頃になるとマーガリンはやめてクノールのカップスープに浸して食べたり。
お昼はお弁当。玉子焼き、ベーコンとピーマンの炒め物、昨日の晩の残り物の煮物、牛肉の生姜煮、にんじんといんげんの豚肉巻き…。
冷凍食品なし。逆に冷凍食品のおかずの友達が羨ましかった。海苔巻きチキンとかちっこいグラタンとか…。今は、今となってはマミーの弁当のスヴァラシサはわかるけどね。
夕飯はうちの家は基本大皿料理。それをみんなでつついて食べる。
なんせ野菜が多かった。
菜っ葉とお揚げの煮物、こいもの煮物、お豆腐と大根を炊いたやつ。
あと茄子の素揚げにマヨネーズとしょうゆかけた謎の旨すぎのやつ。ゆで卵の黄身だけ取り出してベーコンとかマヨネーズであえてまた白身に戻してフライにしたやつ。ロールキャベツ。うどん。
お肉は時々。おかんの作るハンバーグとんでもなくおいしい。あとグラタンもおいしい。
洋食が出るとテンション上がった。あと焼肉は家の庭でやってた。
おやつは家にあるクッキー食べたりポテトチップス食べたり、あとばぁちゃんからもらう白餡が入ったちっこい四角い焼き菓子。
お寺さんでもらう丸いおもち、祭りでもらうゆでたての枝豆、近所の小売のお店で買うウイスキーボンボン。
自販機で出会う新商品。アンバサのいちご味出たときのアガリ感。
そんな80年代のメシ。
マジで。特に絵描きは。一方通行の時はいいんだけどフォロバされた時がヤバイ。
更に更に相手が過激派だったりするとほんともうヤバイ。ヤバイアンドヤバイ。もう毎日ヒヤヒヤよ。
だって好きな絵師だよ。斜陽ジャンルのマイナーCPをたった一人で布教してきた宣教師だよ。なんなら神だよ。
嫌われたくねーじゃん。地雷踏むと嫌われちゃうじゃん。地雷踏みたくねーじゃん。
自カプ語るのにも配慮するじゃん。どこが地雷かわかんねーしさ。好きなように語れなくなるじゃん。
もうだんだんしんどくなってくるじゃん。そのCPのことあんまり考えたくなくなってくるじゃん。
いやマジで。そこまで考えねーだろとか思うかもしれないけどマジでほんとこうなるから。
トスツイートってtosにリプライつけてツイートするとTLに表示させずにツイートできるっていうクソ便利なアレ。
よくなりきりがこれ使ってイメプしてるよな!「@tos んっ」で検索検索ゥ!
で、愚痴だわ。そうその方毎日愚痴ってたんだよね。嫌いな食い物から他カプクラスタとの受けの解釈違いから。
そりゃあもうぎったんぎったんに。見ててしんどくなるレベル。じゃあ見なきゃいいじゃんって話なんだけど見ちゃうんだよな!自分がいつ言われるかわかんねーしさ。
私その人に会ってから@tos使うのやめたわ。信用問題に関わってくるなと思った。
私の思い込みだと思うけど唯一の同CP者だったからか多少は気に入られてたような気がする。リプライとかいっぱいくれたし、多分
いや違ったら恥ずかしいんだけどさ!いやでもね?私がそのCPで本出して地方イベ出まーすって言ってたらその神もそのイベントに来たんだよ。
いや近県住みとかだったら分かるんだけど関西から東北。飛行機。テラ飛行機。
同じ日にその人の住んでる県の近くでもイベントあったのにトーホク。
ハア?たまたまだろ自惚れてんじゃねーよハゲって思われるかもしれねーけどDMで言われたんだよ。
〇〇さんの本のために行ったようなものですって、
ピャアアアアアアみたいな声出たわ。マジで。社交辞令かもしれねーけど、社交辞令だと思うけどほんともう額床に付けて土下座したい気分になった。
あのCPであんなクソペラい本出してすみません同人経験薄いんです許してくださいって。許されねー!
あのイベントの日5時間神の隣に椅子並べてガタガタ震えてた。ぼっち参加だったからしんどかった。どう過ごしたかは覚えてない。なんか緊張で終始腹が痛くて仕方なかったのと神がイベント後にカレーの写真あげてたのは覚えてる。
その後も色々と本当に本当に親切にしてくれたんだけど当時はすごく負担に思えて毎日胃痛胃痛胃痛だったし時々ゲロ吐いたりしてた。
段々Twitterも開かなくなって他のCPばかり考えるようになってそのジャンルからは離れていった。
逃げるようにジャンルから去った事をその方だけでなく他に仲良くしてくれた方にも凄く申し訳なく思うし、その方が私が消えたあと残念がっているようなツイートをしてて胸が傷んだけど、そのジャンルから離れて、その方とも離れて、正直胸がスッとした。胃痛もゲロも無くなった。
今はその時とサークル名もペンネームも変えて斜陽ジャンルのオンリーワンCPで細々とやってる。
一人で活動するのって楽なんだなと思った。新規の方も暫く来ねーだろうし。
その方も、その方の本もまだ大好きなので友達におつかい頼んで未だに読んでる。
うどんレシピには「ハレのうどん」と「ケのうどん」があると思っている。「普段着のうどん」「よそゆきのうどん」と言い換えてもいい。
家族や友人など人に出せるものがハレ、ちょっと人様には出せないけどササッと自分だけ食うのに適しているのがケである。
ハレとケの境目ははっきりしないが、
などが多ければ多いほどハレに寄っていく。
これまでに書いてきた本カテゴリーの中では、おとうふうどんや柚子わさびうどんがケ、パッタイ風や広島つけ麺風がハレだと認識している。
ケの極北はかけうどんだろう。自宅での作り方で一番簡単なのは、
という2ステップ。洗い物も丼と箸だけ。
ヒガシマルのうどんつゆもテーブルマークの冷凍うどんも美味いんだけど、しかし、さすがにずっと食ってると飽きる。
自分は納豆が好物であることから、ここに納豆を加えることでワンランク上のケのうどんを探求していきたい。
不味くはないが、つゆが薄口醤油ベース・添付のたれが濃口醤油ベースでなんとなく相性が良くないような気がする。
手間:★☆☆☆☆
味: ★★★☆☆
つゆをヒガシマルから濃縮めんつゆ(我が家ではにんべんのつゆの素を使用)をお湯で割ったものに代える。
関西風より断然合うが、飽きる。かけうどんに納豆を入れるとどんどん底に沈んでいくため、つゆは全部飲むことが前提になる。じゃないと納豆粒が残っちゃってもったいない。
感覚として、ヒガシマルのつゆは飲みきれるが、めんつゆは薄めにしても飽きてくる。途中で七味をかけて乗り切ることは可能だが、あまり推奨しない。
味: ★★☆☆☆
濃縮めんつゆをお湯でやや濃いめ(飲めるけど濃いかな?程度)に割る。量はうどんの腰ぐらいまで。
はなまるうどんのぶっかけのイメージで作ってみたらこれが大正解。残った納豆も食べやすい。
手間:★★☆☆☆
味: ★★★★★
濃縮めんつゆをそのままうどんに掛け(掛け過ぎ注意)、納豆を乗せて混ぜる。
これも味は悪くないが、讃岐うどんに納豆が絡まずめっちゃ食べにくい。
最終的に「納豆風味のうどん」と「納豆単品」を別に食べてるような状況になる。
手間:★☆☆☆☆
味: ★★★★☆
今回は「ケのうどんとしての納豆うどん」を検討したため、なるべく手間の少ない方法を取り上げた。
面倒でなければ納豆を包丁で叩くとか、釜玉にするとか、冷うどんにしてオクラやメカブ、モロヘイヤと一緒に「ねばねばうどん」にするとか(これは立派なハレのメニューですね)、より美味しく食べる方法はあると思う。
ただ、「ちょっと小腹が減って、冷凍庫にうどん、冷蔵庫に納豆がある」というような時にはぶっかけうどんスタイルが有利であることが強く示唆されます。なお、先日スーパーの納豆売り場で購入した納豆用やくみを入れたらますます幸福度が上がった例も報告されています(俺:n=1)。
名前までつけていた彼女が、やっぱり子どもはいらないと言い出した。その理由が、一般的なのか特殊なのか男の僕にはわからない。出産が怖いとのこと、らしい。いざ子どもをつくることが現実となりはじめて、怖くなったから、と彼女は言った。
僕も、子どもがほしいか、ほしくないか、正直よくわからない。生き方が多様になったとはいえ、(少なくとも僕の周りでは)結婚したら子どもをつくることが当たり前とされていて、結婚した人に子どもは?という質問はよく耳にする。子どもをつくらない人を否定するつもりは全くないけど、僕自身も結婚したら子どもはつくるもんだと思っていた。
そんな中、彼女からの突然のカミングアウト。1番最初に思ったのは、後悔してほしくないなーということ。ネットでもリアルでも、やっぱり子どもに執着してる女の人を見るので、女性は子どもをつくることが一つの幸せっていう偏見はあるし、実際にそう思ってる人が多いんじゃないかなと思う。ましてや、彼女は子どもが好きだし、今まで子どもをつくるつもりでいたのに、それを急につくらないって、後悔しないはずがないって思った。後から子どもがほしいと思うのが年齢的に早ければ全然問題ない。その時につくればいいだけの話だから。でも、35歳越えるとさすがにきつい。それは偏見でもなんでもなく、障害をもった子どもが生まれる確率が増加することや、そもそも妊娠しにくくなることは、科学的に証明された事実だ。
それで、説得した。僕はどちらの結論でもいい。子どもを産むのは君だし、子どもができたら全力でその子を愛すし、もしできなかったとしても、その分君をずっと好きでいる。ただ後悔だけはしてほしくない。たぶん君が後悔すると思うから、今これを言ってるんだよ。
それだけ言っても、彼女の答えは変わらなかった。
あるもの、と考えていたものがなくなると、ぽっかりと穴が空いたような感じがした。将来思い描いていた家族像が、4人から2人になって、さびしくなったのが正直なところだ。でも、僕たちは、子どもをつくるには未熟なんだろうと思う。彼女は子どものおむつ替えるの無理かも、と言った。彼女は子どもが好きなんだけど、それはかわいいものが好きの延長なんだろう。彼女はディズニーが大好きなんだけど、もちろんキャラクターには生活感なんて全然なくて、そういう表面上のかわいさしか彼女は受け入れることができない。僕も子どもは好きだけれど、彼女のお父さんが彼女にしたように、金曜の夜に関西から高速でディズニーに向かって、日曜夜に帰ってくるみたいなそんなこと、仕事で疲れてできそうもない。2人とも子どもは好きだけど、親としての役割を果たすことができないと思った。
当たり前なんだけど、子どもがいれば幸せになれるなんてない。僕自身親が喜ぶようなことなんて、ほとんどしてない。むしろ、子どもがいるからつながってるカップルだっているだろう。そうはなりたくない。子どもがいなくても、一緒にいられる関係を保てる関係が理想だし、そうありたいと思った。そう考えるといなくてもいいかもしれない。子どもをつくらなかったら、確実に金銭面では豊かになるし、自由な時間も増えるだろう。お金と時間があれば、人生の選択肢が増える。専門職だから、全国各地いくことができるし、理論上は夏は北海道に住んで、冬は沖縄に住むことだってできる。努力すれば海外だっていけるし、住みたくないけど、高知にだっていける。
ずっと不思議だった。なんで周りの人で、不倫とかセックスレスとか、夫婦間が冷めきったカップルが多いのか。結婚してる先輩が言ってた。それは恋人から家族になるからだよ。その先輩は去年離婚した。僕自身も前に結婚していたことがある。そして、その先輩の言葉を実感した。セックスレスになり、結局だめになった。もう結婚なんて、と思ってた矢先に今の彼女と出会って、自分のことしか考えてこなかった僕が、この人のために生きていきたいと初めて思った。すぐに結婚を申し込んだ。最初は、もちろんものすごく拒絶されたけど、何回もお願いして、先日なんとかプロポーズをオッケーしてもらえた。
子どもをつくらずに、自分達の欲求を満たしてばっかりいることは、人として正しくないのかもしれない。生物学的にも、社会的にも。彼女が先に死んだら、僕を看取ってくれる人はいないのかもしれない。それでもいいか。来世とか天国とか信じてないけど、その時だけは天国にいる彼女と会えると思って笑って死ぬよ。でも、そんな体験させたくないから、彼女より先には死ねないけど。
大阪、東京、さらに地方の10万人の街、地方政令市、などなど、で暮らしたことある俺が調べてみたよ!
東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県の4つを合わせた人口は3562万人!
この人たちは、俺らは東京周辺に住んでる、日本でも中道の人間だぜ!って思っていることでしょう。
実際、1/4を超える割合です。
紛れも無い都会人ですね。
実際は、房総半島の先っぽとかは絶望的な田舎なんだろうけど、ざっくりとした話だから許してね。
大阪府、京都府、兵庫県、奈良県、滋賀県の5つ合わせると1991万人!
この人たちは土曜のお昼に新喜劇見て、せやねん見て暮らしています。
16%というと、時計で言えば12時間中2時間をしめているので、それなり、ですよね。
都会人です。
日本海側や琵琶湖の東側とかは死ねるけど、気にしない気にしない。
関西ほどじゃないけど、かなり近い数字になっていて、人口の9%を占めます。
岐阜県が案外人口多くて、案外名古屋にすぐ出れることを、関東人は知っているかな?
ここまで、いわゆる三大都市圏が出ましたが、この合計ですでに日本人口の53%を占めていますよ。
つまり、日本人の半分以上が大都市に暮らしてるってことですね。
じゃあそれ以外は田舎?
いわゆる大都市に通勤したり気軽に遊びにいったり、ではないけど、自分の街はそれなりの都会で満たされてるぜ!って人です。
この人たちは、自分たちが中心じゃないことを知っているので、ローカルなメンタリティを持って生きています。
が、関東人がバカにするような田舎じゃなく、都市にあるものは大体そこで買えます。
種類は選べなかったりするけどね。
札幌、福岡、広島、仙台、北九州、新潟、浜松、熊本、静岡、岡山、この10都市の合計で1034万人!
県じゃなくて全部、市のことだよ!
これが全て田舎か?というと必ずしもそうではなく。
例えば福岡県は福岡市と北九州市を擁する九州の中心都市ですが、福岡市のベッドタウンをカウントしてません。
それと、田舎県の高知県や香川県でも、県庁所在地とそれ以外の街では天と地の差があります。
しかし、それでも一応、残りの人々は、そんな気軽に街には行けず、行けても地方中核都市、という環境です。
申し訳ないけど、ざっくり田舎と言ってしまいましょう、ここでは!
県庁所在地だけここでくくり出すのは大変だし、ん?米子?鳥取?みたいなことも起きるからね!
案外、多いよね?
都会・田舎論争が起きる時って、関東人28%と田舎人39%の構図になって、関西人東海人地方都市民33%が両方わかるんだよなァ、な感じになってるんじゃないかね。
両方経験してる人は案外どっちかの立場を強く推してる気がするし。
これ、いい感じのバランスじゃない?
関東人28%、田舎人39%、関西人東海人地方都市民33%、って。
関東人は最多数の中心派閥ではあるけど、自分の環境や意見が、日本人の総意である、当たり前である、なんて思い込まないことね!
ところでこれを面積でするとどうなると思う?
関東3.6%、関西6.0%、東海5.7%、地方都市2.2%、それ以外の田舎82.5%ってなるんだ。
なんだいそりゃ、って話だよね。
正直キャパがどうのこうのとか、そういうの凄い嫌で。なんでこんな狭い会場でするんだとかチケットとれないじゃないかとか。
ずっとイライラしてた。こんなことする時期じゃないと思う。こんな会場でやるグループのファン規模ではない。
結果として、自分は運よくチケットが手に入り、参加することができた。
ハッとした。この公演はドームではできない。ハッとした。あぁ、彼らは楽しいことをしたいだけなんだ。
そうだ、彼らの公演って大体ものすごく楽しいんだ。楽しいから参加したいんだと。
でも、それなら公演数や地域をもっともっと増やすべきなんだ。そうだ。
てっきり、彼らは「今じゃなくても出来ることを、あえてやろうとしている」のだと思っていた。だって数か所でのアリーナツアーって、関ジャニ∞には小さすぎる。
しかし「今できないことを、あえて無理してやろうとしている」のが、この関ジャニ∞リサイタルなのだ。ハッキリそう感じた。
しかし無理をしているには変わりない。それはどうなんだろう。
「無理をしない関ジャニ∞」ってのは、どうも好かない。だけど、だけど今回のツアーはどうなんだろう?
楽しかったから良い という思いと じゃあ…もっとたくさんの人が入れる環境で… という気持ちが錯綜している。
入ったやつがなにを言っても、いいから黙ってろと思うかもしれない。
チケットが入手できなかった人にネタバレをすると、今後リサイタルでは感動的演出は一切なく大事な話が始まりそうでもなく、その場に居ないと今後の関ジャニ∞の活動を追いかけることができないような公演内容でもなかったことを、念押ししたいと思う。
彼らはストーリーを持ったグループだから、なんとしてでも入らないとという思いに駆られがちだけれど、そのストーリーがまた新しく増える内容では無かった。
しかしとても楽しかったです。入った人が満足し楽しめるだけの公演はしていました。彼らはしっかり仕事をしていました。
次はファン規模に見合った形式でやってや。ええ公演やったのに、感想言うのもためらう。ヲタ同士もピリピリやで。ヲタ同士って大切やねん。ほんま、大変やわエイト。地元関西から各地域に、気ぃつけて行っといでや。