はてなキーワード: 筋骨隆々とは
私はキャプテンアメリカが大好きだった。
筋骨隆々で、パワーで敵をなぎ倒す姿が大好きだった。
キャプテンアメリカのクッキーを焼いたり、キャプテンアメリカのクッションを購入するほど好きだった。
見直すことでMCUへの愛情が増す一方、キャプテンアメリカへの嫌悪感が増していった。
揺れながらトニーのわがままにうんざりしていた。この時の私はキャプテンアメリカを盲目的に信じていた。
キャプテンはヒーローとしての責任を果たそうとしているのに、邪魔をするトニーと考えていた。
だが、今はどうだろう。冷静に考えて欲しい。
街一つを簡単に破壊する力を持った人達が、野放しになっていたら危機感を覚えないだろうか。
アベンジャーズがヒーローとして戦わなければ、さらに悲惨なことになったのは事実だ。
だが、戦場がソコヴィアという遠い地だったために危機感を感じなかっただけではないか。
その時に何も制約を持っていないヒーローたちが現れて、人類を守るという行為を理由に日本を破壊して回ったらどう思うだろうか。
ここまで考え、アベンジャーズのために、人類のために、ヒーローを国連に管理してもらい、
みんなが納得できるように活動できるようにしようとしたのがトニーなのだ。
キャプテンアメリカはどうだっただろうか。
管理されたくないと仲間を連れてアベンジャーズを抜けただけである。
人類に危険視されているのに、空港で飛行機を破壊、ワンダに関しては一般人の車を次から次へと落として破壊していたではないか。
ここまでは考え方の違いなので、まだフォローする余地があると思う。
だが、最終的にキャプテンアメリカが何をしたか覚えているだろうか。
トニーの父親を殺したバッキーと、トニーの父親が作った盾で、被害者であるトニーを叩きのめしたではないか。
さらに最新作のファルコン&ウィンターソルジャーでも、キャプテンアメリカの人間性を象徴するエピソードがあった。
シビルウォーでは、キャプテンアメリカは追われる立場にあり、盾を国に没収されていた。
その盾をキャプテンアメリカに盗んで渡してくれたのは、シャロン・カーターである。
キャプテンアメリカのために、シャロンは国から盾を盗み、渡したのである。
キャプテンアメリカは感動し、シャロンにキスをするという印象的なシーンがある。
ファルコン&ウィンターソルジャーでは、シャロンのその後が明かされる。
幸せに暮らしていると思っていた。指パッチンで消えた人類の半分を助けたヒーローと両想いになっているシャロンなのだから。
だが、現実は違った。キャプテンアメリカのために国から盾を盗んだ罪が消えずに逃亡生活をしていたのだ。
この時キャプテンアメリカは何をしているのだろう。
インフィニティストーンを返却した後、自分勝手な理由でペギーカーターと楽しい人生を送っていたのだ。
100歩譲ってペギーと暮らすのは許そう。
だが、過去に戻ったキャプテンアメリカがシャロンを助けることはできたのではないか。
このとき私の中でキャプテンアメリカへの憎しみが最高潮に達した。
今までは気づかないようにしていたキャプテンアメリカへの憎しみが心の中から溢れ出てきた。
今まで違和感を感じていたが、何とか抑え込んでいたキャプテンアメリカへ負の感情がとめどなくあふれ出てきていた。
私はキャプテンアメリカが憎い。
私は20代くらいからゲイの友達が多く、とっても楽しく過ごせたので彼らのことが好きだ。
もちろん女の私をめちゃめちゃに嫌ってくる人もいて、当然そういう人とは仲良くなることもない。
一つの属性に仲の良い人も仲の悪い人も存在するわけで、一概に括って好きとか嫌いとか語らないようにしている。
話は変わるけど、私はラーメンが嫌いだ(塩強くて翌日胃もたれするから)
猫は可愛くて好きだけど、犬は嫌いだ(子供の頃に噛まれたから)
属性に対して嫌いと言っても許される範囲は「モノ(広げて人間以外の動物まで)」じゃないだろうか。
もちろんラーメンが好きな人のことも、犬が好きな人のことも何とも思わない。
面倒を避けるために面と向かって、その人が好きなものを否定したりもしない。
私の親友は筋骨隆々の男性が好きだ。私はあんまり好みではない。どちらかというとシュッとした細い身体つきがタイプだ。
でも、それをもって「マッチョ好き」とか「マッチョ嫌い」とは話さない。心の中で思うだけにしている。
ネットなんかだと好きという話を書き込んでも、嫌いというリプライが飛んでくることが多い。
自分の好きな人が、雑に属性でまとめられて嫌いと言われるのは耐えられない。だから、好きというのも公言しない。
中学の時にイジメられたことがあった。イジメた同級生の女子を私は一生許さない。
今でも大嫌いだし、同窓会で会ったら水をぶっかけるかもしれない。
宇宙に夜明けは存在しない。なぜなら地平線が存在しないからだ。
宇宙空間では、太陽は暗闇の中にポツンと存在する少し大きな光に過ぎない。真夜中の道路脇にある自販機の明かりを夜明けと思う人はいないだろう。
宇宙に夜明けが来ないなら、そこに浮かんでいる宇宙ステーションにも夜明けは来ないのだろうか。
宇宙飛行士は毎朝どのようにして起きているのだろう。朝起きて、太陽というには名ばかりの、暗闇の中の眩しい光を目にしたとき何を考えるのだろうか。私は知らない。
我々が宇宙ゴリラの存在に気づいたのはいつだったのだろう。明確に記憶している人はいない。
しかし、我々がその存在に気づくずっと前から宇宙ゴリラは宇宙にいたに違いない。
いつから存在していたのかなんて、宇宙ゴリラ自身だって知らないだろう。それは人類や地球の生き物がいつから存在していたかという問いと同じようなものだからだ。
宇宙ゴリラステーションに起床アラームが鳴り響く時、宇宙ゴリラはまだ眠そうな目を擦りながら起きてくる。そして体操室で体操をするのが日課になっている。
私が「おはよう」と言うと、宇宙ゴリラは返事の代わりに満面の笑みを返して体操室へと入っていった。
宇宙ゴリラは人間よりも遥か昔から宇宙にいるので、宇宙での正しい暮らし方を知っているのだ。体操をするのもそれが理由だろう。
宇宙船の丸い窓からは地球と月と太陽が見えている。宇宙ゴリラはこれらを見て何を考えるのだろうか。
一度だけ聞いてみたことがあるが、曖昧な返事を返されただけだったので、少しがっかりした記憶がある。彼らにとっては暗闇に浮かぶ他の星々と同じように見えているのかもしれない。
朝の体操を終えて戻ってきた宇宙ゴリラは私の目の前にある椅子に座った。私はその筋骨隆々とした身体を何となく眺めていた。上腕三頭筋が盛り上がっている。
重力に耐えるために通常の三倍は鍛えているという話もあながち誇張ではないだろう。
私たちは未知のものを発見した時、しばしばその発見自体を特別なものだと思いがちである。
しかし、発見前でも発見後でも、それが存在しているという点では何も変わらないのだ。ただ我々の視界に映るようになったというだけのことである。
当たり前だが、宇宙ゴリラは宇宙ゴリラであり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
巨乳という身体的特徴の誇張を「性的な表現」と表記するのはいかがなものかと。性別に関係なく、筋肉量が多い人もいれば、胸や臀部に脂肪が多い人もいる。積極的に自らの身体を表現する人もいれば、それを望まず隠す人もいる。身体の在り方も表現の在り方も自由であるべきなのに、それをことさら「性的な表現」と主張して物事を荒立てさせて表現を委縮させてはならない。
生殖器や性交・性交類似行為の表現を「性的な表現」とするのはわかるが、大胸筋や乳房が肥大なことを意味する巨乳を「性的な表現」とするのは旧態依然としたジェンダーを殊更強固にするだけで、男女同権の実現を遠ざける悪しき風習であると考えられる。ニューヨークでは男女同権を訴えるために女性も公共の場でトップレスになる権利を主張しているというのに。
表現から何らかのジェンダーを読み取ることは自由である。巨乳を女性らしいとしたり筋骨隆々な人を男性らしいと読み取ったりして、そこから更に「性的な表現」を連想するのを咎めてはならない。しかしながら、それを「性的な表現」と発露することは悪しきジェンダーギャップの強化へと繋がることになるので、今後は控えてほしい。
こういう「上司に迫られたら男女関係なくいやでしょ」って話、女性上司じゃなくてセクハラ受ける方ががノンケと仮定したうえでゲイ男性上司に設定した方が解りやすいと思うんですね・、それでも「相手が二メートル越えの筋骨隆々の男性」とかいう条件をいれないといけませんが。要は「相手がなりふり構わず本気できたら絶対に勝てない」という状況の怖さを理解してもらわないと。「いくらなんでも人生捨ててまでレイプする頭おかしい男がそのへんの会社にそうそういるわけないから特殊ケースだろ」と思うかもしれないけど、犯罪者だってバカばかりじゃないんだから裸の写真撮って「ばらしたら会社にも地元にもばらまいてやる」とか「チクられたら俺もおしまいだからチクったら差し違える覚悟でお前を殺しに行く」とか人生が終わらない状況に持ってく可能性もかなりあります。下手したらその後も脅されて体の関係を迫られるかもしれません。つまり男性は女性にとってすべてレイプ魔ではけっしてありませんが、潜在的にレイプという形で人生を滅茶苦茶にできる力がある相手なわけです。それをどうかわかってほしい。
こういうと一部の男性から「同じ好きじゃない相手でも同性に迫られるのと異性に迫られるのじゃ違いすぎる」という意見をきくけど「絶対に性交したくない相手」という意味では同じです。そういう男性の中では「受け入れられるイケメンと自分は、色々違いがあるとはいってもそこまで違いはないしゲイに迫られる恐怖と釣り合うわけがない」という意識が底にあるのかもしれないけど、全然違います。これは、最近よく結婚関係の話題などでみる「男性の方が性的に相手にしてもいいと思える相手の範囲が広い」という統計結果からも、わかってもらえるんじゃないかと思います。
こういう「上司に迫られたら男女関係なくいやでしょ」って話、女性上司じゃなくてセクハラ受ける方ががノンケと仮定したうえでゲイ男性上司に設定した方が解りやすいと思うんですね・、それでも「相手が二メートル越えの筋骨隆々の男性」とかいう条件をいれないといけませんが。要は「相手がなりふり構わず本気できたら絶対に勝てない」という状況の怖さを理解してもらわないと。「いくらなんでも人生捨ててまでレイプする頭おかしい男がそのへんの会社にそうそういるわけないから特殊ケースだろ」と思うかもしれないけど、犯罪者だってバカばかりじゃないんだから裸の写真撮って「ばらしたら会社にも地元にもばらまいてやる」とか「チクられたら俺もおしまいだからチクったら差し違える覚悟でお前を殺しに行く」とか人生が終わらない状況に持ってく可能性もかなりあります。下手したらその後も脅されて体の関係を迫られるかもしれません。つまり男性は女性にとってすべてレイプ魔ではけっしてありませんが、潜在的にレイプという形で人生を滅茶苦茶にできる力がある相手なわけです。それをどうかわかってほしい。
こういうと一部の男性から「同じ好きじゃない相手でも同性に迫られるのと異性に迫られるのじゃ違いすぎる」という意見をきくけど「絶対に性交したくない相手」という意味では同じです。そういう男性の中では「受け入れられるイケメンと自分は、色々違いがあるとはいってもそこまで違いはないしゲイに迫られる恐怖と釣り合うわけがない」という意識が底にあるのかもしれないけど、全然違います。これは、最近よく結婚関係の話題などでみる「男性の方が性的に相手にしてもいいと思える相手の範囲が広い」という統計結果からも、わかってもらえるんじゃないかと思います。
生まれながらにして男性の肉体を持ちながら、オペやホルモンを強制されず、女性の心を持つトランス女性が女子スポーツに出るのがみたい。
例えば陸上。
女子で初めて100m10秒の壁を破る選手が出てくるかもしれない。
大きな話題になること間違いなしだから、あらゆるトランス女性に勇気を与えるだろう。
例えば重量挙げ。
男子と並ぶどころか、男子の記録を塗り替えるようなトランス女性が現れるかもしれない。
女子の中では強いが男子には敵わない、なんて感覚は無くなるだろう。
女子選手のタックルをものともせずタッチダウンを決めるトランス女性のランニングバックや、クォーターバックが投げるまで決して相手を近寄らせないトランス女性のラインなど、見応えあるに違いない。
格闘技なんかは1番興味がある。
未だ無敗のギャビ・ガルシアの牙城を打ち崩すのはトランス女性かもしれない。
男子の試合ではサップノゲイラやヒョードルチェ・ホンマンのように体格差やパワー差を技でひっくり返すような試合があるが、トランス女性とギャビ・ガルシアからは高山ドン・フライのような名勝負が生まれるかもしれない。
プロレスなんかは既に男女混合の試合が行われているので最もスムーズに参入できるだろう。
かつて男子は勝って当たり前、女子は負けても大健闘で勝てば大金星とされていた時代が過去になるだろう。
負けたら大恥なんて言われる男子選手もあのトランス女性と戦ったなんて凄いと賞賛されるかもしれない。
女子プロレスの地位確立のレジェンドと言われるファビュラス・ムーラやメイ・ヤングがご存命だったら、新しい女子プロレスの形を見てもらいたかった。
男女でレスリングを組み、負けた方はお察しの通り。試合中に脱げることも当然だし、関節を極めつつ、なんてこともある。
当然筋骨隆々の女子選手が圧倒的なパワーで青菜のような細い男子選手を捩じ伏せるのもある。
関係ない話だが。
昨今、どうにもフェミニストとやらが「女性の性的搾取ガー!」とか「クソオス死すべし慈悲はない」とか騒いでおられるが、
ふと疑問に思ったのだ。本当に女性だけが「被害」にあっていたのか?
例えば、献血ルームとコラボした「宇崎ちゃん」その巨乳っぷりが「奇形」「奇乳」だとして糾弾されていたが、では男性は?
女性に乳房あれば、男性に陰茎あり。陰茎を題材にした漫画がこれまで全く無かった訳ではないだろう。
それに我々は「宇崎ちゃん」よりもずっと前から、男性の象徴たる「もっこり」をギャグ(もっと言えば、"お決まりの流れ"の起点)として見ているはずだ。
そう、つい昨年に新作映画が公開された「シティーハンター」の主人公、冴羽獠だ。
黙っていればクールな裏世界No.1の"掃除屋"にして、比類なきスケベ男。依頼人の女性に手を出そうとしては相棒の槇村香に天誅を食らっている……
その"天誅"の起点にあるのは、彼の人間離れした性欲から来る「もっこり」であったはずだ。
また、インターネット上では「ガチムチパンツレスリング」や「やらないか」「真夏の夜の淫夢」といった、
(雑に言ってしまえば)男性の性欲がネタとして笑いのタネとなっていたはずだ。それも、誰からも糾弾されることなく。
かたやオッパイ。かたやチンポ。揉んだり揉まれたり、時には盛り上がったり潰れたりと、性の対象をギャグ化しているのは、30年も前から変わらないのではないか?
(なお、「宇崎ちゃん」自体は彼女の胸をギャグ扱いした漫画ではなく、主人公と宇崎の日常がメインとなっている漫画であるということを、念のため追記しておく。)
例えばグラビアやレースクイーン、成人向け雑誌といった具合に、自らの肢体を見せつける仕事。
グラビアについては撮影対象が男性でも女性向け雑誌においては女性を撮影したそれと変わらない(むしろ、もう少し生々しく過激なのでは?と感じさせるような)ものが掲載され、
しかもそれらは、なにもコンビニの限られた狭いスペースなんかではなく、むしろもっと堂々と棚に(文字通り)陳列されているではないか。
レースクイーンのような、男性の肉体を使った仕事は、探せばそれこそ男性風俗店やゴーゴーボーイといったものもあるが、
我々はレース会場でもナイトクラブでもない、むしろもっと公共の電波で男性の肉体を見て、それも笑っていたはずだ。
小島よしお、とにかく明るい安村、アキラ100%。いわゆる「裸芸人」だ。お笑いにおいてこれほど「裸」が笑われるのも男性くらいなものだろう。
もちろん彼らはその芸を仕事にすることを選んでいるし、我々もその芸を見て笑っているのは、「それ」が彼らの仕事であると理解しているからだろうが、
これがもし「男性にしかできない仕事」としてピックアップされたらどうなるだろうか。
かたや華やかな衣装を着て商品のPRやイベントの応援役。かたや己が身(と競パン)ひとつで笑いを取る者。その役割は、果たして替えが効く(効いた)のだろうか?
成人向け雑誌の件については先の男性グラビアと似た話になるし、最初の漫画の話とも被る話になるが……
昨今世間を賑わせている、男たちが激しく乱れ、愛し愛される漫画……いわゆる、ボーイズラブ漫画についてだが相当するだろうか。
まずタイトルだ。そもそもでタイトルの時点で「セックス」という単語が伏字無しで堂々と並ぶのはこのジャンルくらいだろう。もしこれが女性を主人公にした漫画であれば間違いなくカーテンの向こう側においてあるに違いない。
しかしこのジャンルの漫画は、カーテンの向こうには置かれていない。少女漫画などが並ぶ棚の近くのワンスペース、ならまだしも、書架をまるまる1連以上を占拠している店舗もある。
もちろん購入の際に年齢確認なども要らない。バレなければ小学生でも買えると言ってもいい。
そして肝心の中身だが、これまた過激な濡れ場が登場する。表紙と数枚の目次、扉をめくったらすぐに濡れ場を見た、という読者もいるかもしれない。
構図などで上手く隠されているとは言え、ヤっていることは紛れもない性行為である。それはカーテンの向こうの本と変わらないはずだ。
たま~~~~~~に見る反論に「ボーイズラブ漫画には愛がある!ただのエロ漫画には無い!」というものがあるが、
それならば愛もへったくれも無い時期、漫画にすれば第1話の時点で主人公がレイプされる部類のボーイズラブ漫画はどうするのだろうか。
ひとくちにボーイズラブ漫画と言っても、濡れ場の無い、いわゆる純愛を描いた作品が多いのも事実ではあるが、
そうした作品の横にはカーテンの向こう側と大差無いような過激な作品も存在しているのも事実だ。
これが男性を「性的に搾取」していないとするならば何なのか、誰か教えてはくれないか?
それが必要不可欠な表現だとして擁護されるのであれば、カーテンの向こう側の漫画だって必要不可欠な表現で描かれたものでは無いのか?
よくフェミニストの言う「性的搾取」の論の中で聞こえてくるのが、「露出の多い服を着ていると男性に性的な目線で見られる」とあるが、
では男性が露出の多い服(おおかた、タンクトップにハーフパンツ、スニーカーかサンダルといったところだろうか?)を着て歩いていたらどうだろうか。
そしてその袖から、筋骨隆々の肢体が惜しげもなく陽に当たっていて、少し日に焼けて汗ばんだ肌がまるでキラキラと輝いて見え―――
といった具合の光景がもし広がっていたとして、果たして世の女性はその男性に「性的魅力」を全く、それはもう全く、全くもって魅力の無い存在だと切って捨てることが出来るのか?
あるいは電車の中、それも日光の届かない地下鉄の車内で、シンプルな半袖ジャケットとケミカルウォッシュのジーンズにクラッチバッグ、少し高価そうなネックレスを身に着けている笑顔と白い歯の眩しい青年を見て、
少しも、ほんの僅かにも、目もくれず歯牙にもかけずスマホに夢中になってしまうのか?俺だったらスマホ見ながらどっちもガン見するけど
だが、もしも、もしも、だ。彼女たちが「着ている服のせいで」性的な視線を浴びるのであれば。
「何を着ていても」性的な視線を「女性だから」という理由で浴びせられるのであれば、
もっと言えば、「性的な視線」を「女性だから」という理由だけで「耐えられないほど」「浴び続けている」と彼女たちが主張するならば、
それはもう家から外に出て社会生活などしている場合では無いのでは?
というよりも、そもそも「着たい服を着たい!」と言っておきながら露出の多い服を着て「見るな!」というのはあまりにも矛盾しているし、
そもそもで見られていることに勘づいている時点で相当な自意識過剰では?
と、一介の男は思うのだ。
残念なことに、俺は男だ。クソオスだ。
だが、俺は俺のことを性的に見ている男がいることを知っているし、
俺が変なフェチを拗らせただけなんだけど。
とまあそんなわけで(どんなわけだよ)、性的な目線で見られること自体については、一般的な男性よりは理解があると自負はしている。
もっとも、日常的に性的な視線を浴びているわけでは無いから、自分が理解しているのは彼女たちの苦痛のうち、ほんの氷山の一角なのだろうけど。
だんだん纏まらなくなってきたな。はやく筆を折って神棚に置きたい気持ちでいっぱいなので〆に入る。
要は、女性だけが性的な風体の中生きているわけでは無いだろう?ということだ。
女性だって、男性を性的に見ることがあるはずだし、あなたの母親だってあなたの父親に性的魅力を感じたからセックスをしたんだろう。
そのあたりの家庭事情は分かりませんけど。
片一方だけをあげつらい、自分たちが正義であるとセッ、錯覚している様子は、
傍から見ていると隣国が繰り返す軍事行為のようで、それは幼稚園児どうしの喧嘩と何ら変わらないように思えるのだ。
「あの子が先にぶったから!」「違うもんこの子が私のこといじめたもん!」
そんな喧嘩を三十路もとっくに過ぎたミソジニー拗らせた大人がしているって、恥ずかしくないんだろうか。
クソオスの俺には何一つ分からないのだ。
だって俺は性的な目で見られたって別に構わないし、性的なコンテンツだってちゃんと弁えたうえで付き合ってるし。
だからフェミニストという名の幼稚園児たちよ、一体何が気に入らないのか、もう少し落ち着いて話してくれないか。
頼むよ。なあ。
割と好き放題、頭に浮かんだことを☆PON☆っと出しただけの増田なので、
従動で人を投げ飛ばしたら
死んじゃった
と誤った。
そう、この程度 そうね。
思った、思わなかった。
そうね。
2年間延々とそういう感じ。子の程度は良い。まぁ、そのひとにとっては、この程度。しょうが無い
従動で、投げ飛ばしっていい。
県道でぶっ叩いてい。
そりゃ、その程度。。訓練だからいい。
訓練だからいい。
しょうが無い。50年間、そうだった。
この程度。
オタクは異常S問Yがバウ、
えたひにん、アボリジニずっとやってきた。自分がやられたとして、しょうが無い。 これが 現実。
その人達の子供と、その人達さ、政権を取る。そうすると、たしかに、それが普通。
平成の30年より長い。すこしちがうけど、ことばがわからないから。
ありがおつ平成
オタクは毎日何人かでつるんでデレステやらバンドリやら荒野行動やら楽しそうなスマホゲームで遊んでいるようですし、
少し前には五等分の花嫁のヒロインの話で動物園のサル山の如く盛り上がっているのを見たことがあります。
淫夢語録はオタクどもの間でちょっと面白い定型句のコミュニケーションとして使われているようです。
かくいう俺もなんとかぼっちにならないように一部の連中と淫夢語録で会話したりもします。
最近のインターネット上では鬼滅の刃とかいう漫画アニメが人気らしいですね。
みんなが喜んでみているようなので俺は覗きすらしていませんが。
自分の高校の国語教師(四十代後半と思われる)がかまど丹次郎だかなんだか鬼滅の刃のキャラクターの名前を出してきたのには心底驚きました。
いつからクッセエ萌え豚アニメや淫夢はこんな日向の連中に浸透したんですかね。いつから”オタク”という存在がこれほどライトなものになってしまったんですかね。
どうしてこんな奴らのことをわざわざオタクと呼ばなければいけないんでしょうか。
こいつらのことをオタクと呼びたくありません。
中学生くらいのときはそういう奴らとつるんでたんでいっちょ前に「あぁ^~心がぴょんぴょんするんじゃぁ^~」なんて言ってましたよ。喜んでわめいてましたけれども。
高校生になったらなったでこんなクソすれた逆張りウンコに成り下がって女児アニメ見てます。5年後の俺はこの俺を殺したいだろうな。
以上感情にまかせっきりで書いてましたが多少は理性的に書きます。
”オタク”というアイコンはすでに日陰者からウェイ系の連中に引き渡されました。
俺は若いのでよく知りませんが、90年代~00年代くらいまではオタク文化はある種のカウンターカルチャーだったんですよね。
筋骨隆々元気溌剌な連中から隠れて教室の隅っこに2~3人で集まって深夜アニメの話をするとか。
そんなものは現代の高校にはありません。少なくとも俺の高校にはない。
深夜アニメどころか明らかに社会道徳にもとっていてカウンターカルチャーになりそうな淫夢でさえライトオタク共の間にも普及しているし、
そういうライトオタク共はデカい顔して教室の真ん中で机を囲んで昼飯を食ったりしています。
俺のような教室内の2~3人の日陰者たちが共有できるカウンターカルチャーなどというものは現代には存在しません。俺はどうすればいいんですか。助けてください。
私の心のバイブルである「スーパードクターK」をお勧めしよう。
ジョ○○や北○の拳を彷彿とさせる絵柄で筋骨隆々の神のメスを持つと言われる闇の医師Kがヤクザや臓器販売組織などと闘う漫画であるが、
中盤以降はヒューマニズムが色濃く出始め終盤では完全に人情ドラマへと変わっていく。割と癖の強い浪花節ではあるが、古き良き人情を感じさせる物語が多数ある。
今となっては古いが、当時の最新医学の勉強にもなる。また、続編は今現在も連載中であるところもポイントだ。現在の最新医学の知識が身につくだけでなく、
続編はKのクローンが主人公で、1巻の時点で小学生の彼が大人になった今も続いているので我々読者は親か親戚にでもなった気分で彼の成長を見守れるのが魅力だ。
学生の時住んでた部屋は、風呂トイレ台所共通メシ付きの寮のようなところだった。
当時ですら古式ゆかしい形式で、応募者が少ないゆえに対象が広かった。
隣部屋は学生ではなく、どこかの会社の社員寮扱いのようだった。
1週間ほど滞在するという。少し立ち話したあと、互いの部屋に戻った。
数日後の夜、おっさんが訪ねてきた。
やはり少しだけ立ち話をして、少しだけ無言になったあと、部屋に戻っていった。
筋骨隆々とした肉体にタオル一枚、ほんのり汗を滲ませ、意味ありげな無言の目線。
ぞわぞわっ、と来た。
品定め、だったのか。
狙われた恐怖、襲われなかった安堵、何故こんなことがという疑問、頭の中をぐるぐるしてた。
自制心を持っててくれて良かったけどさ。
それから、女ってスゲーなと思った。
肉体的優位な男に言い寄られるって超こわい。
そういうの日々上手に受け流してんだなー、と。
おわり。
「これは『男らしさというのはああいうものだ!』という社会からのメッセージである!」とか俺がフェミの真似して主張してみたところで、誰もそんなものに共感なんかしないし、当のフェミさんこそ自意識過剰とバカにしちゃうわけ
それこそあの件の弁護士も「あなたに求めているわけではない」の一言で切り捨てちゃう
フェミに限らず、繊細チンピラの皆様の言うことにどうも同意したくないのって、つまるところこういう点にあるんだよね
いくら御大層な理論をぶち上げたところで、結局それは自分が可愛い・かわいそうと思う相手以外には適用されない
そう思われない、同情を集められない、だから理論にも手のひら返される、そういう側にとっては、そんなもの支持してやるメリットなんかなーんにもないわけだ
どうせ被害者面したって笑われるんなら、お前がそうした時だって同じように笑って足を引っ張ってやる
ただそれだけのことだよ
元増田です。筋骨隆々の雄牛、強そうな上に可食部多そうで良いですね。ありがとうございます〜!
捕食動画は興奮するね。
俺のお気に入りは、アフリカスイギュウがハイエナの群れに追われてるやつ。
筋骨隆々の雄牛が襲われてて、最初は角を振るって反撃してるんだけど、
ハイエナの執拗な攻撃で徐々に疲労が蓄積し、動きが鈍くなっていく。
囮のハイエナが雄牛をひきつけている内に、スキをついて、別のハイエナが雄牛のぶらぶらの無防備な金たまに喰らいつく。
金たまに喰らい付かれた雄牛は、苦しそうな声を上げて、腰からヘタりこんでしまう。
喰らいつかれたまま、雄牛は何とか逃げようとするも、腰が上がらず動けない。
とうとう金たまを食いちぎられてしまい、苦痛に満ちた声をあげて横たわってしまう。
bull balls eatingとかで調べると出てくるよ。
彼と僕は三年間とも同じクラスに属し、同じ部活に入っていた。部員数はとても少なかったため、必然的に僕達は仲良くなった。授業が終わったら部活が始まるまで、二人で教室に残って宿題をした。部活が終わったら、夕暮れの中、自転車を押して二人で他愛もない話をしながら帰っていた。
高校二年の冬、彼は肩が痛いと言い出した。僕達は皆、ただどこかでぶつけただけの軽い打撲だろうと思っていたが、その痛みは次の年の夏まで続いていた。さすがに何かおかしいと思った彼が病院に行き、検査をうけると、骨の癌だということがわかった。
彼は、一言でいえば、人望があった。筋骨逞しく文武両道で、理知的だった。それでいてユーモアや冗談が好きで、いつも周りの人々を笑わせていた。何よりも、彼は優しく、思い遣りのある人だった。だから、彼の周りにはいつも人が集ってきた。それは彼の入院中もそうだった。抗癌剤の副作用にもめげずに、面会に来た友人達に気丈にふるまい、退院した後はどうしようかなど、将来の希望を語っていた。実際、彼は退院し、志望していた大学に入って大学生活を楽しんでいた。彼女もできたようだった。
しかし、子供の癌は進行が早い。化学療法で殲滅できなかった癌細胞が他の組織に転移し、彼の癌は再発した。癌切除手術、抗癌剤、退院、再発して入院、手術、抗癌剤、退院、入院、その繰り返し。筋骨隆々だった彼の体は段々と痩せ細り、頬もこけていった。抗癌剤の副作用は彼の精神をも蝕み、面会をする度にぽつぽつとネガティブな言葉を吐くようになっていった。誰が見ても、彼の予後は絶望的だった。
僕にできることは何もなかった。衰弱していく彼を真横で見ていてもなお、死相の出てきた顔を間近に見ていてもなお、僕にできることは一切なかった。そのことが僕はとても悔しかった。だから何か僕ができることを探して、考えついたのが、生命科学の研究者になることだった。
馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれないが、僕は死後の世界について考えていた。人が死ぬとどうなるか、僕達は知りえない。だからこそ、死後に天国のような世界があり、そこに彼がいる、そんな可能性が存在する。死んだ後、無に帰すならばそれでいい。だが、天国のような世界があった場合、僕は生前こんな風に頑張ったと、彼に報告したい。生命科学の発達は、かつては治療する術のなかったような病気に対する治療法を確立させてきた。だから僕は生命科学の発達に貢献し、それを彼に報告したいと考えた。今振り返ってみると、なんて馬鹿馬鹿しい考えなんだろうと自分でも思う。
博士課程を卒業し、がむしゃらに研究活動を行い、数年が経った。どうやら研究者の道で成功するには、情熱、実力、コネ、運の全てが必要らしい。生命科学の発達に貢献したい、という漠然とした動機でやっていけるほど甘い業界ではない。それに最近、ある致命的なことに気づいてしまった。
僕は彼のことが好きだった。片思いだった。高校生の時にはただの憧れだと思っていたが、大学生になり、自分が同性愛者だと気づいてから、彼への想いを認識した。もちろんそのことは彼には伝えていない。伝えないまま、彼は数年前に死んでしまった。しかし、死んでもなお、彼を慕う気持ちは変わらない。僕は、死後の世界で彼と逢えるという一粒の可能性に賭けて、辛い研究生活を送ってきた。
しかし、最近致命的なことに気づいてしまった。なんで今まで気づかなかったのだろう。
それは、もし死後の世界で彼に報告できたとしても、彼は僕のことを気味悪く思うだろうということだ。彼は彼女と一緒にいる方が楽しいに違いない。
彼への想いは今も変わらない。ただ、目的を失った僕は、宙ぶらりんのまま、見えなくなった将来を悲観している。
読んでくれた人へ最も伝えたいことは、大切な人には定期的な検診や人間ドックを受けさせた方が良いということだ。特に、子供には。