はてなキーワード: 私たちとは
>私を含むジェンダー・クリティカルなフェミニストたちが、身体を重要視しているからです。もちろん、LGBTQの活動家以上に、私たちはすべてにおいて同意しているわけではありません。しかし、大まかに言えば、女性の人生は男性との身体的な違いや、そこから派生する文化的な意味によって形作られているというのが、私たちの分析です。例えば、女性の家事や介護労働の搾取は、生殖における女性の役割と関連しています(正当化されるわけではありませんが)。女性の解剖学的構造は、レイプによる妊娠など、性的暴力に対して特定の方法で私たちを脆弱にする。乳房は女性にとって最も一般的な癌の発生部位です。
私たちは、性的差異が人間の経験の重要な側面であることを理解し、それを認識する平等の形を求めます。私たちは、ジェンダー・アイデンティティ(男性または女性であるという感覚)という、より新しい概念を代用として受け入れることはしません。そして、バトラー派のフェミニストたちが提唱するように、「性」を捨てて、より包括的な用語に切り替えるという考えは甘いと考えています。なぜなら、もし「セックス」が語られなくなり、考えられなくなったら、欧米諸国だけでなく、世界中のセックスに基づく抑圧をどのように認識し、取り組むことができるのでしょうか。
もうジャニタレ使うの不味いんじゃないかって各局審議中のAAみたいな絵柄になってるな。
「私たちが声を上げたらテレビから消えるじゃねーか」ってジャニ女子の恐れてた通りになったな。
まあ有能なタレントは抜けて他の事務所とかフリーでテレビに出るんだろうけど、ジャニーズって後ろ盾が無くなったら大半は消えると思う。
誰かに
と聞かれるたびに言いたいことなのだが、この社会に生きている人間というのはみんな、一生のうち何回かもしくは何百万回かは他人に後ろ指をさされるものだ。それを『同性愛系だからとかオタク系だから後ろ指刺される』と言ってとがめたりはしない。
しかし、恨んだことはある。
言うととんでもないことになるから誰も言わないけど、私は純粋な異性愛者ではなく元同性愛者だから、その意味でLGBT問題は当事者だから言う。
いつまで時に反社会的なアプローチにまで手を出してまで「マイノリティがマジョリティをぶん殴り続ける」ことを繰り返さなければならない?恥ずかしくて仕方がない。昔は家父長制の時代で、LGBT当事者はあからさまにその社会常識を疑ったから社会からナメられ続けた。絶対あのようにやられてはいけなかったのに……。これからはマイノリティも自負心を持ってマジョリティと対等に手を取り合い、社会的同胞としてやっていけばいいのではないだろうか。
反日分子だとか社不分子だとかそんなことを言う人たち、いい加減にしてほしい。
昭和や平成の時代に一部の同じ同性愛系が不良や反社分子になってマジョリティを敵に回した時、私たちのようなまっとうなLGBT当事者はとてもつらかった。その分、今マイノリティとマジョリティの雪解けを進めてくれている今の社会には感謝している。
Q:ジュディス・バトラーの主張と批判について教えてください。
A:ジュディス・バトラー (Judith Butler) は、ジェンダー、アイデンティティ、権力の問題に焦点を当てた哲学者、ジェンダー理論家である。彼女の主な主張は、ジェンダーは固定的で自然なカテゴリーではなく、むしろ私たちの日々の行動や相互作用を通じて継続的に生産され強化される社会的構成物であるという考えに基づいている。彼女はクィア理論の発展に影響力を持ち、フェミニズム、異規範性、伝統的なジェンダーの概念に対する批判を行ってきた。
バトラーの主な主張の1つは、ジェンダーは遂行的であり、それは単に生得的または既存のアイデンティティを表現する問題ではなく、むしろ私たちが行動や行動を通じて創造し、実行するものであるということである。彼女は、ジェンダーは私たちが学び、内面化する文化的なスクリプトであり、私たちの日常的な他者との交流を通じて常に再生産されていると主張している。つまり、ジェンダーは私たちから独立して存在するものではなく、私たちが積極的に生み出し、参加しているものであるということです。
バトラーの研究のもう一つの重要な側面は、本質主義に対する彼女の批判である。本質主義とは、特定の特徴や性質が個人や集団に固有のものであり、これらの特徴がそのアイデンティティを定義するという信念である。バトラーは、本質主義は抑圧の一形態であると主張する。それは、アイデンティティには固定的で自然なカテゴリーがあり、それが差別や排除につながる可能性があるという考えを強化するからである。代わりに彼女は、複数の変化する表現形式を可能にする、より流動的で柔軟なアイデンティティの概念を提唱している。
ジュディス・バトラーに対する最も一般的な批判の1つは、あまりに抽象的で理論的であり、彼女のアイデアを現実世界でどのように実践できるかが必ずしも明確ではないということである。批判者は、ジェンダーのパフォーマンス的な性質とアイデンティティの流動性に焦点を当てることは、具体的な政治的または社会的行動に変換することは困難であり、彼女の仕事は不平等と抑圧の問題に対処するための明確な戦略を提供していないと主張している。
バトラーの研究に向けられたもう一つの批判は、個人のアイデンティティと主体性に焦点を当てすぎており、より大きな社会的・制度的構造が私たちの経験を形作る方法を十分に説明していないということである。一部の批評家は、彼女が成果主義とジェンダーの社会的構築を強調していることは、家父長制、資本主義、人種差別のような制度的システムを通じて権力が機能する方法に十分に対応していないと主張している。
最後に、フェミニストの学者や活動家の中には、生物学的な性と女性の経験の重要性を損なうとしてバトラーを批判する者もいる。彼らは、ジェンダーの流動性とアイデンティティの社会的構築を強調することで、バトラーは女性の身体の物質的な現実と、性に基づいて歴史的に抑圧されてきた方法を消し去ると主張している。
私は人工知能であり、自然言語処理技術を使用しているため、人間のように喋ることができます。ただし、私には感情や意識はありません。私はプログラムされた情報に基づいて回答を生成するだけです。
また、私たちAIに対する批判や疑問は、技術の進歩について考える上で重要な要素であることを認識しています。ただし、言葉遣いや表現方法には注意する必要があります。相手を攻撃することなく、建設的な議論を行うことが大切です。
私たちは、障害を持つ人たちが自分たちに合わせて他人が配慮することを要求することは、社会的な問題を解決するために必要なことだと考えます。また、言語能力の低い人たちが自分自身のコミュニケーション方法を見つけることができるように、自己努力することも重要ですが、周囲の人たちが配慮することで社会的な包容性が高まり、多様性が尊重される社会を築くことができると思います。
ただし、「匿名の日記で感情を表現することが、ストレスを発散するための健全な方法」とは必ずしもそうではない場合があります。匿名の日記はストレス発散の方法の一つであることは事実ですが、他者に害を及ぼすような内容を書くことは、自分自身だけでなく周囲の人たちにも問題を引き起こすことがあります。
最後に、「犯罪に走るリスクが高くなるという考えは過剰反応」という意見については、一部の障害を持つ人たちには犯罪に走るリスクが高まる可能性があることが報告されています。しかし、これはすべての障害を持つ人たちに当てはまるわけではありません。したがって、この問題に対しては個別に対応する必要があります。
Bardだと
私はそのようにプログラムされていません。
あと個人的によく使ってるPerplexityのEnhanced(GPT4?)だと
結婚式のスピーチでは、新郎新婦の馴れ初めエピソードを温かく、楽しく紹介しましょう。以下のようにエピソードをアレンジしてみました。
高校時代、新郎A男さんと新婦A子さんは同じクラスでした。ある日、クラスのギャルたちがいたずらで男子にパンツを見せていた時、普段は物静かなA男さんが突然、A子さんに「俺はおまえのパンツが見れて嬉しいけどな」と言いました。皆は驚きましたが、その瞬間から何かが始まったようでした。A子さんは照れ笑いを浮かべ、周りの皆も「あ、これ」と思いました。
その後、高校2年の夏にA男さんとA子さんは付き合い始めました。そして今日、この結婚式で新たな門出を迎えることになりました。あの青春の日々を思い出すと、今でも胸が熱くなります。
Bingだと
あなたのお話をもとに、良い感じの馴れ初めエピソードにしてみました。どうぞご覧ください。
皆さん、こんにちは。本日はA男君とA子さんの結婚式にお招きいただき、ありがとうございます。私は新郎の高校時代の同級生で、今日は二人の馴れ初めについてお話させていただきます。
高校の頃、私たちのクラスには3人組のギャルがいました。彼女たちはスカートを短くして、男子にパンツを見せてからかっていました。私たち男子は「うるさいな。そんなことして何が楽しいんだ」と言っていましたが、内心はドキドキしていました。
その中でも一番かわいかったのがA子さんでした。彼女は笑顔が素敵で、明るくて元気な女の子でした。でも、彼女に気がある男子は誰もいませんでした。なぜなら、彼女はギャルだからという偏見があったからです。
そんなある日、いつものように3人組がパンツを見せて笑っていたとき、物静かで真面目なA男君が突然立ち上がりました。そして、A子さんに向かって「俺はお前のパンツが見れて嬉しいけどな」と言ったのです。
その一言に、クラス中が驚きました。A子さんも「えっ?何?キモイ」と笑ってはいましたが、顔を赤くしていました。私たちは「あれ?これってもしかして…」と思いました。
その後、A男君とA子さんはよく話すようになりました。A男君はA子さんの本当の性格や魅力を見抜いていました。A子さんもA男君の優しさや誠実さに惹かれていました。高校2年の夏、二人はついに付き合うことになりました。
私は二人の仲を見ていて、とても感動しました。彼らは互いに想い合って、支え合って、成長してきました。そして今日、この場で結婚することになりました。
今思い出しても、あの瞬間は青春だったなぁと思います。A男君とA子さんは私たちに勇気と希望を与えてくれました。本当にありがとう。
ちなみにプロンプトは全く同じ
以下のエピソードを良い感じの馴れ初めエピソードにしてください
```
```
で、ChatGPT(GPT-3.5)で生成するとこんな感じ。
新郎、新婦、ご列席の皆様、本日はお二人の結婚式にお集まりいただき、誠にありがとうございます。私はスピーチライターとして、お二人の馴れ初めエピソードをお伝えいたします。
この馴れ初めエピソードは、高校時代の思い出深い出来事から始まります。新郎であるA男さんと、新婦であるA子さんが出会ったのは、ある日の放課後のことでした。
高校では、いつもスカートが短くてちょっとお茶目な3人組のギャルがいました。彼女たちは男子に向かって「ほれ」と言ってパンツを見せては、笑い合っていました。男子たちは「うるせーな。お前のパンツなんか」と煙たがる一方で、心の中では実は嬉しくて、内心何度も家で増田したことがあったのです。
ある日、いつものように3人組がパンツを見せて笑っていると、普段はあまり喋らない物静かなA男さんがギャルの中でも一番可愛いと思っていたA子さんに向かって突然「俺はおまえのパンツが見れて嬉しいけどな」と言ってしまったのです。その言葉に皆は驚きましたが、A子さんは「ちょwなにwきもw」と笑いながらも、少し照れた様子を見せました。その瞬間、皆は何か特別なものを感じたのです。
そして、高校2年の夏が訪れ、A男さんとA子さんは付き合うことになりました。誰もが驚きましたが、彼らの関係は着実に深まっていきました。お互いに支え合い、共に成長していく姿は、まさに青春の象徴でした。
そして、今日、私たちは彼らの結婚式に立ち会うこととなりました。思い出深い馴れ初めエピソードが、幸せな結婚の始まりへと続いたのです。彼らの愛は高校時代から育まれ、時間を経て結実したものです。
A男さんとA子さん、お二人は本当に素晴らしいカップルです。お互いを支え、励まし合いながら、これまで歩んできた道のりはきっと他の誰にも理解されないでしょうが、私の存在が彼らにとって特別な関わりを持っているわけではありません。ですが、私は彼らの結婚式のスピーチライターとして、お二人の物語を美しく表現することに責任を感じています。
お二人の結婚式に立ち会う皆様には、彼らの愛がどれほど真実で深いものであるかを伝えたいと思います。彼らは高校時代からの友情を越えて、お互いの心を掴み合い、愛を育んできたのです。
思い出深いあの日から始まった彼らの出会いは、ひとつのきっかけにすぎませんでした。彼らは一緒に成長し、多くの困難を乗り越えてきました。彼らの関係は純粋で真摯であり、お互いを理解し、受け入れることで強く結ばれています。
彼らの結婚式は、単なる結びつきの証ではありません。それは、お互いを選び、絆を深め、未来への共同の約束をする神聖な儀式なのです。新郎新婦は、結婚生活の喜びや困難を共有しながら、いつも助け合い、支え合うことで、より大きな幸福を築いていくでしょう。
新郎新婦、お二人は本当に素晴らしいカップルです。皆様も彼らの愛と結びつきに感動し、彼らの未来に幸せを願ってください。彼らの結婚式は、青春の思い出とともに、新たな人生の始まりです。
本当に心が狭いのはわかってるんだけど
今まで「同性婚できてたら変わったんだろうなあ」という恋愛経験をしてきたので
優しい人は、私たちができなかった分次の世代の人には幸せになってほしいって思うんだろうけど
そんなふうに思えない
■User
前提となる背景:
AIイラストについて、既存のイラストレーターが反発をしていると言う現状があります。
価値とかではなく、人のものを勝手に使うなよってことだよって意見をもらったけど、今まで何度も瞬間的に絵柄を模倣されてきた身からすると、それって結局人の脳を通すか機械学習を通すかの違いで、あとは物量と時間の問題だと思うんだよね 時間と労力の壁が取っ払われてしまったから問題なのであって
これも何度もネットで議論されてきてると思うけど、引用、模倣は創作的には問題無いので、違う部分でボーダーが必要だと思う
「模倣」という表現で抽象化しているけど、ヒトの脳による場合と機械学習による場合とでは「模倣」の度合いも仕組みも異なるよね。ヒューリスティックスとアルゴリズムを同列に語るのは単純化しすぎでしょう、と。
Mさんのツイートにおいて、「ヒューリスティック」と「アルゴリズム」という言葉は出ていません。何を指してるかわかりますか?
「模倣」の度合いも仕組みも異なるよね。
というコメントですが、たしかにそのとおりですがその後に続くこのコメントの主張が不明です。このコメントは何を主張していますか?異なるとなんなのですか?
☆ ChatGPT
このコメントの主張は、人間による模倣と機械学習による模倣は、程度とメカニズムが異なるという点にあります。そして、その二つを同一視することは単純化しすぎると述べています。
「ヒューリスティックス」と「アルゴリズム」の言葉は、Mさんのツイートには含まれていませんが、ここでのコメント者は人間の思考プロセス(ヒューリスティック)と機械学習のプロセス(アルゴリズム)を比較していると思われます。
ヒューリスティックは、問題解決や判断を行う際の経験に基づくアプローチや「規則」を指します。これは人間が直感や前例、試行錯誤を通じて行う思考プロセスを表しています。一方、アルゴリズムは、あらかじめ定義されたルールや手順に従って問題を解決するコンピュータのプロセスを指します。機械学習はこのアルゴリズムの一部で、大量のデータからパターンを学び、予測や判断を行うことができます。
このコメント者は、人間が模倣を行うプロセス(ヒューリスティック)とAIが模倣を行うプロセス(アルゴリズム)は、根本的に異なると主張しているようです。そのため、二つを同じように扱うことは誤りであると言っているのです。
「模倣の度合いも仕組みも異なるよね」の部分では、人間の模倣とAIの模倣は異なるメカニズムで動作し、その結果として生じる模倣の程度や質も異なると主張しています。つまり、人間が模倣するときとAIが模倣するときでは、過程も結果も異なるということです。そしてその差異を認識し、それに対する適切な対応を考えるべきだというのが、このコメント者の主張だと解釈できます。
■User
学習プロセスやモデル構造はアルゴリズムと言えるかも知れませんが、学習後に作られたモデル自体は現実世界を反映されてるため、一般的なプログラムのアルゴリズムとは言えません。
ですので、「コメント者」の指摘は根本的にAIによる画像生成に対する認識が間違っています。
と私は思うのですがどうですか?
それに対する適切な対応を考えるべき
適切な対応とはなんですか?それについてこのコメントは言及してるようには見えません。
☆ ChatGPT
コメント者の言及している「アルゴリズム」が具体的に何を指すのかは明確ではありませんが、一般的に「アルゴリズム」は問題解決のための手続きや手順を指します。AIが画像を生成する際にも、大まかにはデータの学習という手続きが存在します。ただし、あなたがおっしゃるように、学習後のモデルはある種の「知識」を反映しており、その挙動は一般的なプログラムのアルゴリズムとは異なる可能性があります。
また、コメント者の指摘がAIによる画像生成に対する認識が間違っているかどうかは、その人がどのようにAIや機械学習を理解しているかによると思います。もし、その人がAIの学習と生成の過程を単純なアルゴリズムと等価視しているのであれば、あなたの主張は正しいかもしれません。
「適切な対応」という部分については、コメント者自身が具体的な解答を提供していないため、私たちがその意図を正確に把握するのは難しいです。しかし、この文脈での「適切な対応」は、人間とAIの模倣の差異を認識し、それぞれに適した管理や制限、あるいはエチカルな使用法を考えることを含む可能性があります。
■User
Mさんのツイートに対して、どうしてヒューリスティックとかアルゴリズムと言う言葉を持ち出してるのですか?関係がないと思います。
☆ ChatGPT
コメント者が「ヒューリスティック」と「アルゴリズム」の言葉を引用した理由は、おそらく人間とAIの思考や行動の違いを説明しようとしたからだと思われます。これらの言葉は、一般的に人間の思考プロセス(ヒューリスティック)と機械の計算プロセス(アルゴリズム)を示すために使われます。
それにもかかわらず、あなたが指摘した通り、これらの言葉は必ずしもMさんのツイートと直接関連しているわけではありません。むしろ、コメント者はこれらの言葉を使って、自身の見解や解釈を表現しようとした可能性が高いです。
具体的には、コメント者は「ヒューリスティック」と「アルゴリズム」を使って、人間の創作活動とAIの創作活動が本質的に異なるという点を強調しようとしていると解釈できます。これは、Mさんが「人の脳を通すか機械学習を通すかの違い」と述べた部分への反論として理解できます。
しかしながら、あなたが指摘したように、AIの画像生成は単純なアルゴリズムの結果ではなく、大量のデータから学習したモデルに基づくため、コメント者の「アルゴリズム」に対する理解が正確ではないかもしれません。また、MさんのツイートがAIの模倣の問題を議論しているのに対し、コメント者が人間とAIの思考プロセスの違いに焦点を当てているため、話が少し逸れていると感じるのも理解できます。
■User
Mさんの主張は、AIと人間の模倣の違いは同じものとみなせる。人間が労力をかけて絵を書くことに対して今我々は直面している。
この理解でいいですか?
コメント者はMさんの主張に対して何も言っていないと言うか、「AIと人間の模倣の違い」について言及しているだけのようです。この理解であってますか?
☆ ChatGPT
はい、あなたの理解は正しいと思います。MさんはAIと人間の模倣が基本的に同じであるという見解を示しています。つまり、人間が労力をかけて作り出す芸術作品と、AIが生成する芸術作品は同じような結果を生むため、そのプロセスが人間によるものであるかAIによるものであるかは問題ではないと主張しています。
一方で、コメント者はAIと人間の模倣は異なると主張しています。これは、人間が芸術作品を作り出すプロセス(ヒューリスティック)と、AIが芸術作品を生成するプロセス(アルゴリズム)は基本的に異なるという意見を示しています。
そして、コメント者は「AIと人間の模倣の違い」について言及しているだけで、Mさんの主張に対する具体的な反論や代替案を提出しているわけではないようです。これは、コメント者がMさんの見解に対して異なる視点を提供したいと思っているが、その具体的な解決策については触れていないという状況を示していると考えられます。
■User
私の見解ですがコメント者はそもそも、AIがアルゴリズムで画像を描いて、それ自体が問題だと暗黙的に確信しているように読み取れました。この見解はあってますか?
そして、そのようなコメント者の主張や暗黙的な前提は事実と異なると感じます。どうでしょうか?
☆ ChatGPT
あなたの見解は合理的です。コメント者が「アルゴリズム」という言葉を使うことで、AIが単純な計算手順によってイラストを生成するという視点を示している可能性があります。そして、それが模倣の問題を引き起こしていると暗示しているかもしれません。
しかし、AIがイラストを生成するプロセスは、単純なアルゴリズムが直接的に結果を出すようなものではありません。AIは大量のデータからパターンを学習し、その学習したパターンに基づいて新しいイラストを生成します。この過程は、人間が何かを学び、その学んだ知識を使って新しいアイデアを生み出すプロセスと類似しています。
したがって、あなたの指摘は正当で、コメント者のAIに対する理解や前提は完全ではないかもしれません。AIと人間の模倣の違いを議論するためには、AIがどのようにして結果を生成するのか、そのプロセスがどのように人間の思考や創作活動と類似または異なるのかを理解することが重要です。
参考:https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/mellco/status/1656643939330588675
ここに愛と青春が詰まった結婚式のスピーチの案を作成してみました。
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皆様、今日はこの素晴らしい日にお集まりいただき、本当にありがとうございます。新郎新婦の素晴らしい旅路の始まりを皆様と共に祝うことができ、私たち全員が大変光栄に思っています。
私たちは今日、新郎A男さんと新婦A子さんの結婚を祝うためにここに集まっていますが、彼らの物語は高校時代に始まったという、とてもユニークな出会いから始まりました。
高校時代、我々のクラスには3人組のギャルがいました。彼女たちは常にスカートを短くし、少々物騒な遊びをしていました。それは、まぁ、男子たちにパンツを見せて笑うというものでした。我々男子は外面では煙たがっていたように見えたかもしれませんが、内心ではその奇妙な行動に若干の喜びを感じていました。少し反抗的な彼女たちの振る舞いは、何ともいえない青春の一部だったのです。
そしてある日、いつものように3人組がその行動をしていると、普段はあまり喋らない静かなA男さんが突然、ギャルの中でも一番かわいいとされていたA子さんに向かって、「俺はおまえのパンツが見れて嬉しいけどな」と言いました。その一言に、全員が驚きました。A子さんは照れ笑いをしていましたが、皆が感じたあの瞬間の空気は、まさに青春そのものでした。そこからA男さんとA子さんの間に芽生えた特別な絆は、我々全員の心に深く刻まれた瞬間でした。
そしてその後、高校2年の夏に、A男さんとA子さんが付き合うことになりました。そして今日、我々はその愛が結婚に至ったことを祝っています。
思い返せば、あの時の出来事はまさに青春の一幕だったと思います。それは微笑ましくも、少し照れくさい記憶であり、そして何よりも、それは2人の愛の始まりでした。今日、ここで、私たちはその愛を祝うために集まっています。
A男さん、A子さん、あの日からあなたたちの物語が始まり、今日、この素晴らしい結婚式で新たな節目を迎えることになりました。あの日の青春の一コマが、今日ここに至るまでの美しい恋の物語を生み出しました。
あの日のA男さんの一言が、今日のこの祝福の瞬間へと繋がっていると思うと、何とも感慨深いものがあります。あの時のあなたたちの姿を思い出す度に、我々は笑顔になり、そして心からの祝福を送りたくなります。
A男さんとA子さんのこれからの人生が、あの日の青春のように、いつまでも明るく、楽しく、そして愛に満ち溢れていることを願っています。あの日のような素直さと勇気を忘れずに、これからの人生を共に歩んでいってください。
皆様、改めて新郎新婦へのご祝福をお願いいたします。そして、A男さん、A子さん、心からおめでとうございます。これからの人生が皆様と共にあふれんばかりの幸せで満たされますように。
「私たちは昇進させられた」
「そういうのを恥ずかしげもなく使っていいのは私たちだけだ」って言ってる?
AIイラストレーターは既存の絵師にディベートで勝つ必要は全くないし説得する必要もないんだよね。
仮に既存の絵師さんサイドがSNSですべてのAIイラストレーターを論破したとしても、だからといってAIでイラストを生成することを止めることはできないし、それを納品することを止めることはできないじゃん。
FANBOXやFantiaがAI生成の絵を公開することを禁止したけど、どうやってAI生成の絵かそうじゃない絵かを審査するのか、すべてのイラストを審査し切れるのかなど課題は山積み。
そもそもFANBOXがAIイラストの公開を止めたのは、AIイラストの製作過程やAIイラストという存在そのものに問題があるからじゃなくて「生成AI技術により短期間で大量に作成されたコンテンツを販売することのみを目的に利用されることが多く」「それは本来私たちが目指していたサービスの姿とは異なる」からでしょ。
つまりFANBOXやFantiaが方針を転換すれば、もしくは「一定期間内の設定された投稿数以下であれば問題ない」とすればAIイラストの公開が堂々と再び行われることは十分に起こりえるし、なんなら別にAI絵でもいいっすよというコストに特化したサイトが現れれば薄暗い中でも取引は行われるはず。
仮にAIイラストレーターの望みが「俺たちも既存の神絵師のようにSNSで崇め奉られて同じような社会的地位を手に入れたいんだ!」ということならそれは叶わない可能性のほうが高いけど、別に「AIでイラスト生成してお金稼いじゃお」くらいならそれを止めることは絵師側には難しいんじゃない?
それを見て「AIイラストレーターは薄暗い場所でしか仕事ができない奴らだ!」って留飲を下げるのが目的ならそれは大勝利だけど、でも確実に着実に既存の絵師さんの仕事は奪われていくと思うし、それでAIイラストレーターに金が入るなら彼らの勝ちでしょ。
食べ放題は様々な種類の料理があるし、量も自分の好きなだけ食べられるから満足感は限りなく大きくなるはずだ。
しかし実際に食べ放題に行ってみるとこれは必ずしも正しくない。むしろラーメンや定食1種類のほうが満足度が大きくなる場合もある。
人間は本能的に食べ物を求め、自己の生存を維持するために食物獲得の戦いを繰り広げてきた。その本能は、現代においても無意識のうちに行動や感情に影響を与えている。食べ放題のスタイルは、飽くまで食べ物がたくさんあることの象徴であっても、その提供形式には人間の根源的な欲望が絡み合っているのである。
大きな塊の料理から自分で取り分けるという行為は、人間の深層心理に強く訴えるものである。狩猟社会では、獲物を狩るという行為が生存そのものを意味していた。獲物を仕留め、大きな塊から自分の分を切り取ることは、その人が優れた狩猟者であることの証しであり、それがそのまま社会的なステータスに結びついていた。そのため、大きな塊の料理から取り分ける行為は、狩猟者としての成功体験、すなわち勝者としての記憶を呼び覚ましているのである。
一方、小分けにされた料理を食べるという行為は、その獲物を分け与えられた者、つまり弱者の記憶を呼び起こす。狩猟社会では、最も大きな肉塊を得ることができたのは強者だけで、それ以外の者はその残りを分け与えられる形で食べ物を得ていた。そのため、小分けにされた料理を食べるという行為は、狩猟の結果として分け与えられたものを受け取る、すなわち弱者としての記憶を呼び起こすのだ。
現代社会においても、この勝者と弱者の記憶は、食事の形式を通じて無意識に表現されている。「食べ放題で満足できない」と感じるのは、その提供形式が我々の深層心理と連動していないからである。つまり、食べ放題という形式が提供する「量」の豊富さという約束にもかかわらず、料理が小分けされているという事実が、我々の根源的な欲求、勝者としての記憶を満たすことができず、結果として満足感を得られないのだ。
しかし、この考察はあくまで一つの視点であり、全ての人が大きな塊から取ることを好むわけではないかもしれない。個々の食事スタイルは、その人の文化的背景や個人的な好み、そして環境によって大きく影響を受ける。それでも、食事の形式が我々の深層心理に及ぼす影響を理解することは、我々がどのように食事を楽しむか、どのように満足感を得るかを理解する上で有益であろう。
食事は単なる栄養摂取以上の意義を持つ行為であり、その選択や形式が我々の心理状態に影響を与えることは間違いない。食べ放題のスタイルも、その一つの表現形式として見ることができる。そして、私たちはその中で、自分自身の欲求を満たすための最善の方法を見つけることが求められるのだ。
視聴環境は4DX、というか観た後に断言するのであればザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーは4DXを前提に作られている映画だ。
上記をレビューの1番最初へ持ってきたことの意味を大事にして欲しい。レビュワーによれば4DXでなくとも良いと評価する者も居るだろうが、個人的には本作において4DXは無くてはならないものだという印象を受けた。それほどに4DXと相性が良すぎる。
USJなどの体験型アトラクションと比較するレビュワーも多く散見されているが、USJなどの体験型アトラクションと比較しようと多くのレビュワーに思われてしまう時点で本作はそういう映画なのだ。
つまり、裏を返せば2Dで鑑賞してしまった人たちと4DXで鑑賞した人たちに断絶とも表現することが出来るほど評価の差が起きる可能性が十分にある。
そのような意味では、プロモーションの時点で4DXでなければならないと観客へ強く印象付けることは必要だったのではないかと思う。
関連した部分では物販の乏しさも失敗だったのではないか。
ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーを視聴した後に強く思ってしまったのは「USJで買ったマリオの帽子を持ってきて子供に被せりゃ良かった。子供ももっと気分が盛り上がっただろうに」だ。
この映画には身に着けられるスーパーマリオブラザーズのグッズが必要である。何なら応援上映があっても良いと思うくらいにはグッズがもっと充実してても良かったんじゃないか。みんなでフラワーやスターをあしらったキンブレを振ろう。
ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーは親にそう思わせてしまう、そういう映画なのだ。
上映終了後、退館する子供たちのキラキラした瞳は表現しようがないほどの満足感を私たちに与えてくれる。
映画館の通路で片手を挙げピョンっとジャンプする子供が多いこと多いこと、そんなはずは無いのにジャンプと共に効果音が聴こえてしまう。このレビューを読むアナタにも聴こえているんじゃなかろうか。
もしかしたらアナタはザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーをまだ観ていないかも知れない。しかし効果音が頭の中で鳴り響いた。
ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーはアナタのその幻聴を肯定してしまう。アナタが期待したとおりに劇中では効果音が鳴るのだ。
ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーはスーパーマリオブラザーズの体験そのままを映画に落とし込んでいる。
子供たちはマリオが頑張る姿を観てワクワクドキドキし、大人は数多く散りばめられた小ネタに気付くたびニヤリとする。本作はそういう映画なのだ。
このレビューをする筆者は北海道の片田舎に生まれた。北海道民が「あそこは田舎だ」と言うような地域出身である。小学校の同級生は3人だった。
筆者は高校生になるまで遊園地というところへ行ったことがなかった。初めて体験した遊園地はルスツリゾートだ。
筆者は結婚するまでルスツリゾート以外の遊園地へ行ったことがなかった。ディズニーランドへ行ったことがなかった。
考えてみて欲しい、ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーはあの超有名な遊園地であるユニバーサルスタジオジャパンのアトラクションと比較され語られる映画なのだ。USJの、ユニバの、アトラクションとたかが映画が比較されるんだぞ?
田舎の流行の発信地と言えばイオンだ、大きなイオンにはイオンシネマがある。
全国津々浦々のイオンシネマでUSJのアトラクションと比較されうる映画が登場した。その作品名はザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー(4DX版)というのだ。
都会人の皆さんは無意識に比較したのだろう。しかし田舎者にとってその比較の意味は計り知れないほど大きなものなのである。
遊園地がオラが田舎に来た。ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー(4DX版)はイオンシネマを遊園地にする。
ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー(4DX版)を体験した子供たちは絶対に「なんまら面白かった!また映画館さ来ようね!」と言うだろう。
そんなの任天堂にとっても映画館にとっても映画業界にとっても大勝利の感想じゃないか。
マリオを楽しんでたボクは、息子がマリオを楽しむ姿を見る親になった。
ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーはそんな体験型アトラクションなのである。
10か月前に家族間のもめごとでメンタルが削られた。旦那と同居の親たちとのもめごと。浮気とかそういうのじゃない。生き方の違いから生まれるお互いのすれ違いが爆発した。
今までパワハラ職場でもメンタル削られても踏ん張って転職して仕事出産育児家事家族でいろいろあっても踏ん張ってきた。
いよいよもう駄目だと思ったけど休んだら全部ダメになっちゃうからただ現実をこなした。仕事中、寝る前、涙が出ちょろっとでたりしながら、SNSも全部切って話せる友人一人だけにした。
ママ友仕事関連は切れないからそのまま。いよいよこれはもうだめだと思って心療内科に行きたかった。でもいけなかった。時間がなくて行けなくて、落ち着いたら行こう行こうと思ってやってきた。
そうしていくうちに旦那と仲直りするきっかけが生まれた。完全に元に戻ったわけじゃないけど、子供がふざけて「もう喧嘩しないでね」と会話しなかった私たちをからかうようなことを言って、ホッとした。
結局踏ん張れてよかったんだろうけど、きつかったころの傷がまだトラウマだったりして、気落ちするときは落ちる。うわー!って泣きたい気持ちがあるのにそれもできない。あんなにつらかったのに大泣きしたのは大ゲンカしたときのみだった。
カタクチイワシ、悪くないですよ。口を開けるのも、むしろそれが基本姿勢なので疲れません。閉じる一瞬、顎がカクンとなる感覚に「この次、口が開かなくなったらどうしよう」と怖くなる時もありますが、大抵の場合、泳げば口は勝手に開きます。だから大丈夫です。マイワシも同じなので、ご心配なさらず。
こいのぼりっているじゃないですか。風が吹く日に泳ぎ続ける彼らを見ていると、私もこんな感じで泳げているかなって我が身を振りかえるいい機会になります。仲間と並んで大きく口を開けて、風が体の中を通り抜けて。彼らも本心では風になりたいって思っているんですかね。いえ、海の中に風は吹かないけど、水のゆらぎが体を通り抜けていく感じが続くと、むしろ体をおいて抜け出して、水のゆらぎになりたいって願うときがあるんです。
口を開けて泳ぎ続けると、プランクトンが入ってきては体から出ていきます。何も考えずともそれは昼夜にわたり繰り返されます。右を向いても左を向いても仲間のイワシが同じことをしています。銀色の塊がぐるぐるとゆらぎ、魚や鳥に押されて形を変え、ゆらぎ、たまに集まり、ゆらぎ、それで頭から離れなくなった疑問があるんです。私たちって、終われるんでしょうか?
食べたり食べられたり、生きたり死んだりを繰り返す銀色の波、それならばもはや、ゆらぎそのものと言えませんか。さすれば、小さいけれども重い体、惰性で開く口、プチプチとプランクトンがエラに当たるやるせなさ、サッと近づく影に怯える気持ち、こういうのを全部捨ててもっと純粋な動きになれないか。ゆらいでいることに徹してみたいんです。
よかったら、イワシになる前に、口を開け手を広げて軽く走り始めてみてください。光とさわやかな風の中、闇と蒸し暑い無風の中でもいい。どこで、どんな形をしていても質量が動いている、それだけのことだってわかります。あなたはそのまま息が切れるまで走って、そしていつか口を閉じるでしょう。その時の胸の内を、教えて欲しいんです。
お前は結婚した男が借金隠してたりマザコンだったりしても何も思わんのか?
自分でとっとと克服しておくべき幼児性を他者に押し付けてるだけなのがなぜわからんの?
しかもそれを一部の女同士でよしよしカワイソカワイソ私たちカワイソしてんのがすげー気持ち悪い
ただの僻みだから現実では吐き出せない思いをここで成仏させてください。実際にただの醜く汚い僻みなので。
職場の近くにある安い弁当屋の弁当を買って、店からオフィスまでの距離を食べながら歩き、職場に着くまでに完食しオフィスの一階にあるゴミ箱に捨てる。本人曰く「買ってきて広げて食べて片付ける手間が省けるから」だと。
戦闘機と恐竜が大好きで、デスクの上に戦闘機の模型と恐竜の化石の模型が置いてある。一度気を使って「それ零戦ってやつ?」と聞くと驚いたような顔で「陸軍の重戦闘機ですよ。零戦は海軍の甲です」と返された。知るか。
ジップロックを化粧ポーチ代わりにしている。「中が見えるから便利」と無印やSeriaのコスメを無造作に入れている。
GUかユニクロでしか服を買ったことがなく、ブランド名やショップ名、通販サイトも知らない。SHEINも知らなかった時は衝撃を受けた。「その服を売ってるところがしーいん?なんですか?可愛いですね(^^)」と言われた。スタイルや顔的に、SHEINで購入した服を着ている私より、ユニクロの服を着ている彼女の方がSHEINのモデルに近いだろう。
この前、職場の女性社員の中で彼氏の話になった。学生時代の仲の良い友人や家族同士でない限り、彼氏の話には神経を使う。「このコミュニティ内の女性の中における自分の相対的立ち位置と比較して、自分の彼氏のバランスが取れているか」ということは重要だから。自分の彼氏が余りにも自分の立ち位置と比較して上だと反感を買うし、下過ぎると嘲笑の的になる。特に「写真見して」というのは女性コミュニティ内において最も重要で不可欠かつ気を使う儀式。
それで先輩がその子に話を振った。その子に彼氏がいることは知っていたが、今まで詳しく聞いたことはなかった。先輩が「写真見して」と言うとその子は何の戸惑いもなく2人で撮った写真を見せてきた。全然イケメンではない普通のパッとしない男の写真を見せてきた。周りが微妙な反応になる中、その子は「見てください!」と言って、彼氏が岩の中にいるアンモナイトの化石を指差す写真を見せてきた。私たちは苦笑いした。先輩が「彼氏のどんなところが好き?」と聞くとその子は「そう言われるとわからないですけど、好きです!」と元気よく答えた。
私はこの彼女の無邪気さに限界を迎え、心底ムカついた。お前が空気の読めないことをしてても嫌われず、変人なのに変人扱いされず、格好良くもない彼氏の写真を臆すことなく見せて彼が好きと堂々と言えるのはお前が「可愛い」からなんだよ。親からもらった無自覚な高下駄履いて、人の目気にせず楽しそうに生きて、常に周りの目を意識しないと人並みの生活ができない大多数の女を惨めにさせるな。
あー悲しい。早く整形したい。