はてなキーワード: 戦国武将とは
治ったと思って放置していたらまたあの忌々しいプツプツが手のひらと指先に出てきて正直本当にムカついている。俺自身にも菌にもだ。
みんなも自分がかかったときは気を付けてほしい。水虫との戦いは蛮族か戦国武将の精神をおろしてカビの女子供まで根絶やしにするつもりでないとダメらしい。
俺の水虫は手のひらや手の指にも出るタイプで、皮に水泡が生じてかゆみもなくむけた後、同じことがそのまんま、その下の皮にも起きてどんどん地層がえぐられていく。
治ったときは(治ってなかったわけだが)殺真菌クリームに喝采を送った。ざまあみろカビ野郎。二度と俺に逆らうな、わかったかクソが。
あの憎たらしいプツプツと再見したときはゾッとした。怒りよりも恐怖が最初に来た。あの有名な蓮コラが何故人々の恐怖をかき立てるのかはじめて心の底から理解した。俺の体が何か得体の知れないものに侵食されて食い荒らされている。
Kindle Oasisを買った。Kindleには何千冊も入るので旅先にもこれ1つ持っていけば数千冊の本だって持ち歩ける。好きなものを好きなときに読めるのだからありがたい。旅先にもっていく本の重みで腰がやられそうな悩みを解消できる。
あと、目当ての本がすぐ見つかるのが良い。買っておいて後で読もうと思ったり読み返そうと思っても当の本がどこにあるのか思い出せない探すのに大層な時間がかかると言う悩みがある。Kindleはこれを解消してくれるのである。Kindleデバイスで検索すればその本がすぐ出てくるのだからありがたい。
なので、本はKindle版があるのなら全てその版を買うようにしている。こういうことも考えてジェフベゾスはKindleを開発し続けているのだろうと思う。この人物は世界中の人々のライフスタイルを変えた。偉い人だ。ビジネスの成功者は人を殺すとことなく多くの富を生み出し、従業員だけでなく、それに付随してビジネスを行う人々をも支え、養っているわけであって、戦国武将などとは次元の異なる偉さを持った人々といえる。
現代はいってみれば経済戦争の時代というべきときであってそういう次元の戦いの中で学べるとは有難いものである。戦に命をかけずとも良い。核兵器という使えば双方を壊滅させてしまいかねない武器を手に入れることによって狂ったような均衡状態の中で平和な時代を生きていけると言うのも皮肉なものであって、まるで白刃の上を裸足で渡るようなスリリングな時代であるとも言える。
話を戻す。ところでKindle Oasisにはマイクリップと言う文書がいつの間にか画面に現れる(Oasisに限らないのかもしれないが。→ paperwhite にも同じ機能があった)。これはなんだと思って開けてみれば、それは自分が読んだ本のハイライトした箇所が抜粋されて1つのファイルにまとめられているのであった。これはとても良いアイディアではないか。自身が感銘を受けたフレーズがまとめて見られるのだから、よほど読書の楽しさを知り抜いた人が開発したにちがいない。
Kindleは Paperwhite をこれまで使ってきたのだがOasisは反応速度が段違いに良い。こんなに動作のスムーズなKindleをAmazonはつくれたのかと驚いた。Kindle Oasisは買って良い。
また厳密には転移にも転生にも含まれないが一括りにされがちな類型として
などがある。
実際のところは近世くらいの設定も多く、近代レベルまで魔法文明が発達した世界もある。
よく言われるドラクエなどよりも、TRPG由来の設定が多いように思われる。
基礎的な設定をもとに主人公が独自の魔法を開発するようなものもある。
転生ものだと後者が多いか。幼少時から試行錯誤して新たな魔法を生み出すパターン。
言語については、神様チートの転生特典や、翻訳魔法・魔道具などで解決することが多い。
「過去に転生者がいたので日本文化が広まっている」といった解決の仕方もある。
ゲームが現実化した場合は、「元となったゲームが日本語だから」でさまざまな問題がクリアされる。
転生の際に神様から特典が与えられる転生チートと、主人公が持つ知識を活かす現代知識チートに大別される。
知識チートの場合、「なぜ主人公がそんな知識を持っているのか」という疑問を解決するため、主人公が学者肌の人間であることも多い。
転生特典で「インターネットに接続できる」「現代からあらゆるものを取り寄せられる」みたいな設定にすることもある。
逆に主人公が「チートできるほど知識がない」と早々に諦める話も多い。
現代知識チートを文明の発展に全振りするような話は「内政チート」と呼ばれる。
料理・グルメ系も一種の知識チートであろう。醤油。マヨネーズ。
ゲーム系だと「ハズレスキルだと思ったら使い方次第でめちゃくちゃ使った」みたいな話も多い。
王国=善、帝国=悪というのはフィクション全体のお約束だと思うけど、
なろう系の場合は皇族や貴族、あるいは魔族に転生する話も多いので、むしろ帝国のほうが舞台になりやすい気がする。
MMORPG的なスキルツリーを成長させていくだけでなく、「恐怖を感じることで【恐怖耐性】が上がる」といったような演出も多い。
「アイテムを鑑定する」「相手の正体を見破る」といった使い方で活躍することもある。
類似の便利機能としては、どこでも開けてなんでも入る「アイテムボックス」も人気が高い。
もうこういう話もいい話なんだか悪い話なんだか自分の中でわからなくなってきた。
戦争の英雄みたいのは、日本でも戦国武将レベルとか著名な政治家とかでもいるし、外国にもいっぱいいるんだけど、この原則で
「罪のない人たちの命を奪うことに、誇りを感じるべきでしょうか?」
って問い詰めてくるような人って、正しいかも知れないけど面倒臭い人じゃん。きのこ雲のマークを世界中に押し付けて来ているんなら反発するかも知れないけど、地方都市のどこかでそれをやっているから、わざわざ出張って行って説き伏せたりしてもいいけど、しなくてもいいような気もするんだよなぁ…
なんとなく日本人として心が痛むし、出来れば止めて欲しいってのも理屈としては解るんよ。
たとえば、韓国の人とか豊臣秀吉の事メチャメチャ嫌っているんだよ。日本国内での秀吉の英雄視するのとか、ピリピリしてくるし、文句も言ってくるんだけど。現状、そんなに日本国内での秀吉排斥は主流になっていない。だけど、このやり方って、そのうち韓国人が日本に対してやってくるような気がするんだよなぁ…面倒臭いなぁ…その時はちゃんと拒否出来るといいなぁ…
今話題になっているあいちトリエンナーレについて個人的に思うことが色々あったので書こうと思う。細かいことを話して特定されると普通に死ぬのでぼかすが、一応運営ボランティアとして展示に参加している。
クソ長い。
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最初に断っておくと、今話題になっている「表現の不自由展・その後」についてだが、私はぶっちゃけ見ていない。今となっては炎上が勃発した時点で見に行っておくべきだったと後悔しているのだが、いやだってまさか3日で終わるとは思わねえもん。
と、いうのも事前のボランティア研修とかで「表現の不自由展・その後」に注目している人は私の知る限りほぼ皆無だったからだ。一応警備対応とかの事情で説明は受けたがそれについて「楽しみだ」とか「心配だ」とか言っている人は居なかった。別に目を逸らしていたとか重大性を認識していなかったとかではなく、ちゃんと理由もある。
他の人は知らないが、個人的には「表現の不自由展・その後」については「色んな理由で各地の展示会から撤去された作品を集めてみました」くらいの認識だった。面白そうな企画だ、地獄のデスマッチ感がある。しかし確かに面白そうだが、言ってしまえばそれだけなのだ。
話が変わるが我々ボランティアが研修で何をやっているかと言うと、作品の知識を蓄えるのではなく、自身の感性に従って自由に鑑賞する、所謂対話型鑑賞とかVTS(定義は微妙に違うのだが)と呼ばれているものを実践している。具体的にどんな感じかというと、背景知識はほぼなしで作品を見て
「画面は綺麗だけど、人物の顔が悲しそう、破局を予兆しているのでは?」
などとそれぞれの感性や経験に基づいて解釈を語りあうのだ。これが結構楽しい。例えるなら深夜のファミレスでオタクが集まってエヴァ最終回について語り合っている状態に近い。割と何分でもやっていられる。
だがそういった観点から見ると、「表現の不自由展・その後」があまり魅力的でないことは分かってもらえると思う。「近代化」、「ジェンダー」、「作家自身の半生」、トリエンナーレには複雑なテーマを持った鑑賞しがいのある作品が沢山出品されている。「表現の不自由展・その後」は企画としては面白いがある意味「企画落ち」なのだ。事前に具体的な作品内容が分からなかったというのもあるが、それ以上掘り下げようがない。寧ろ中止になった今の方が色々語れる。
そんなわけで「表現の不自由展・その後」がここまでの話題になったのはかなり意外だったし、多くの人にとってあいちトリエンナーレの第一印象がそれになってしまったのは少し残念でもある。
さて「表現の不自由展・その後」の中でも特によく燃えていたのが慰安婦と昭和天皇絡みの展示だと思う。政治的にインパクト抜群だからだ。だがここまで千字くらい駄文を読まされて大分心と頭が冷え切っているところだと思うので、少し冷静に展示のコンテクストについても考えて欲しい。
「表現の不自由展・その後」は「あちこちの展示会で撤去されたやつを集めて展示する」というコンセプトで行われている。よってこの企画で展示されているのは慰安婦像それ自体ではなく、あくまで「どっかから撤去された慰安婦像」なのだ。
ソウルの日本大使館前に慰安婦像が設置されたとき、メディアはこぞって大使館と慰安婦像が一緒に映った映像を放送したと思うが、あの報道に対して「不快だから映すな」と怒った人は居ただろうか。まあ居なくはなかったかもしれないが、多分映さない方がもっと怒られるだろう。怒らないのはそれが「大使館の前に慰安婦像が設置されたという報道」だとコンテクストも含めて理解しているからだ(勿論どちらの場合も制作サイドの意図は別にあるのだが)。
今回の展示ではそこのコンテクストがおざなりにされたまま、日本に実物の慰安婦像が展示されているというインパクトと、SNS上の断片的な情報で事態が拡大してしまった感がある。
また若干話が大きくなるが、余裕があったら歴史的なコンテクストについても一度考えてみて欲しい。慰安婦像というと直ぐに反日というイメージに結びつけがちだが、何故そう思うのか。
そもそも慰安婦なんて居なかったと考えている人からすれば一応理屈は通っている、悪意のある捏造ということになるからだ。
しかし、詳細については諸説あるが、そういうものが存在したということだけについては歴史的資料も揃っているし、両国の見解も一致している。つまるところ歴史に認められているのだ。
負の歴史を展示し続けることは未来に生きるだれかにとっての悪意になるのか、日本を始め第二次世界大戦に関わった各国には慰霊碑やモニュメントがある、ドイツやカンボジアには国内の虐殺を記憶するモニュメントがある、それを見て不快になる人はいるだろうし、寧ろ不快になるべきなのかもしれないが、ならそれらは排除されるべき悪意なのか、そもそも悪意は無条件に「悪」なのか。
場所によって反応も変わる、オバマは広島の原爆資料館に行ったが、アメリカでスミソニアンがエノラ・ゲイ展示をやろうとしたときは退役軍人たちから大バッシングが来た。そういった反応の違いは展示の意味、ひいては歴史の意味に影響を与え得るのか、得ないのか。
そして誰の、誰に対する悪意なのか、人の属性は一つでないし必ずしもはっきり分類出来る訳でもない、あなたが引いた「味方」と「敵」の線など気にも留めず他人は好き勝手踏み越えて生きる。例えば、韓国人男性と日本人女性が慰安婦について議論しているとして、彼らは一体どの立場にいるのか、そこに存在する先入観は何か。
話が大分概念的になってしまったが、何が言いたかったかというと、コンテクストというのはそれだけ膨大で複雑なのだ。
勿論コンテクストには政治性だって含まれる。慰安婦像が純粋に歴史的なモニュメントというより政治的に使われているのは明らかだし、恐らくそれは大半の日本人のせいではないので、あんな一触即発なもの見たくも聞きたくもない、というのは分かるし別に普段はそれで構わないと思う。
ただ死ぬほど暇なときにでも少し考えてみて欲しい。メディアの報道を見ていると日韓で政治的な同意が得られれば慰安婦像は撤去されていると考えている人もいるようだが、その必然性はない、だって歴史に認められているから。というかそれで撤去されたらマジで純粋なプロパガンダだったって言っているようなものだからやめろ。
像はコンテクストの中で存在し続けるし、今回の展示もそのコンテクストの一部である。
批判するにせよ擁護するにせよそこに対する考察がなければそれはインパクトに押された感情任せでしかないだろう。
それでも慰安婦像許せないし完全に撤去したいんだけどっていう人はどうすればいいかって?そこも歴史に学ぼう。
アメリカでコロンブスとかリー将軍の像が次々撤去されているのはニュースで聞いた人もいるだろう。時代の変化とともに歴史観は書き換わる。虐殺や奴隷制擁護者としての側面が評価され、彼らは英雄ではなくなった。もはや歴史に認められていないから像だって撤去される。
個人的には英雄として評価されていた歴史も含め展示するのも面白いんじゃないかとも思うが、少なくとも公共の場のモニュメントとしてはふさわしくないと判断されているのだ。
つまり慰安婦像を撤去したいのなら何らかの方法で歴史観を書き換えれば良い。そして歴史学の徒は全力で戦って阻止すれば良い。
トリエンナーレ運営が「表現の不自由展・その後」の公開を取りやめたことについて、ネット上では様々な意見が飛び交っている。これについては「脅迫に屈した」とか「作家に許可をとっていなかった」とか確かに色々と問題がある気はするのだが、津田総監督や大村知事が会見で言っていた「安全管理上の問題」という観点からは正直仕方がないと思っている。
第一に展示施設自体の問題だ。あいちトリエンナーレには複数の会場があり、「表現の不自由展・その後」が展示されていたのは愛知県文化センターの8階、所謂「県美」だ。関係者の名誉のために言っておくが、日本は災害が多いだけあって美術館や博物館といった文化施設の安全管理にはそれなりに注意が払われている。耐震設備に水害対策、防火設備、さらには盗難や破壊防止のための監視員や監視カメラが多くの施設で導入されている。
しかしテロや大人数による襲撃までは対応出来ないというのが現実だろう。海外の博物館ではそういった事態も想定して手荷物検査などを実施しているところもあるが、日本でそれをやるのは割に合わないと言わざるを得ない。
第二に運営側の問題。最初に言っておくがあいちトリエンナーレのような文化事業というのは基本的にクソクソ&クソ金がない。
確かに税金から拠出の予算10億は大金だ、これだけあれば50回くらい安心して老後を過ごせる。しかしそれでアーティストを100人くらい呼んで75日間展示会をやれと言われたら難易度はルナティックだ(他に寄付金とかもあるので実際の予算規模はもっと大きいはずだが)。
よって私も含めた運営スタッフの多くはクオカード1枚で半日働くボランティアである。加えて事前に結構勉強もしないといけないし、当然交通費とかも出ない。
これだけ聞くと何が悲しくてそんな苦行をとか思われるかも知れないが、最初に言った通り美術館とか博物館とかも含めて文化事業は取り敢えず金がないので、もうそういう人たちがいないとほぼ成り立たないのだ。そこで講習会とかバックヤード体験を餌にこじらせ教養オタクたちをボランティアとして釣っている、というか釣られている(※個人の感想です)。言っていて悲しくなるし話が逸れるのでそこら辺は省くが、つまるところ何が言いたいかというと、テロとか起きると我々はタダ働きの挙句何も出来ずやられる。勘弁して欲しい。
最後に若干抽象的な話になるのだが、良くも悪くもあいちトリエンナーレは寄せ集めというのがある。
運営側の細かい事情は知らないが、直前までどんな作品が出るか分からなかったりしたので、少なくとも運営と作家が一体となって特定のテーマに沿った展示を作るという感じではないと思う。恐らく「情の時代」とかいうぼんやりしたコンセプトに基づいて作家を招待して展示スペースを用意している感じだ。
「表現の不自由展・その後」だって別に運営が企画した訳ではなく、かつて行われた「表現の不自由展」を招待しただけだ。
展示施設の職員に至ってはそれを公務員の業務として受け入れているだけである。
よって、運営の中心スタッフ、末端のボランティアスタッフ、施設や関連団体のスタッフ、さらに作家間で一人一人が一つ一つの作品に全て賛同しているとかそんなことはあり得ない。まあそれはある程度の規模の組織では当然のことだと思うし、そうでなければ大規模で多様性のある展示会なんて開けないだろう。なので断っておきたいが、会場とかSNSで関係者に絡んで「トリエンナーレの見解」とやらを聞き出そうとしてもそんなものはない、せめて総監督に聞いてくれ。
そんな緩い結束でつながっている人々を「脅迫に屈しない覚悟」に巻き込むのは正直言って無理がある。
それらを踏まえてトリエンナーレ運営の対応はある程度仕方なかったとは思うのだが、しかしそうせざるを得ない状況には大きな問題がある。
先述の通り、施設や組織の問題でテロや脅迫に対応することは出来ないし、安全上の問題を考えると「表現の不自由展・その後」の展示中止は仕方ない側面もあると思う。
しかし考えてもみて欲しい、そもそも武器とかガソリン持った奴相手に対抗できる団体・個人がこの国にどれだけいるのだ、極真空手の総本山とかか?結構な大企業だって本気で襲撃されたら対応出来ないことの方が多いだろう、必然的にそれを仄めかす脅迫の時点で相手側の要求を飲まざるを得なくなる。
暴力による権利への挑戦に対しては個人レベルでなく、社会全体として対抗しなければならないし、行政側には憲法に基づいてその義務がある。
最初に特定されたら困るから匿名で意見すると書いたが、そもそも身の危険を感じて発現を躊躇しなければならない状況自体がおかしいのだ(勿論それとは別に自衛はするが)。
また、津田総監督が会見によると脅迫と並んでまずかったのが「電話」らしい。
抗議の電話でまず事務局の回線がパンク、結果つながらなかった人たちが県美や文化センターに掛け、何の対策もしていない職員が罵声を浴びせられる、しかも公共施設なので切らずに対応しないといけないという事態になったらしい。所謂「電突」と呼ばれるものだ。
ネット炎上とともに話題になることの多い電突は、市民による集団的抗議の形態とも見做せるが、一方でインターネットという新興メディアによるメディアスクラムともとれる、特にやられる方からすればそうだろう。
確かに組織には説明責任がある、取材と報道の自由もある。けどそれが対象となる人々の生活を過度に制限するようになればそれは権利が守られている状態とは言えないし、何かしらの法にも触れそうなのだが、恐らく相手が不特定多数ということで対策が難しいのだろう。スクラムを仕掛けた側を罰しろとかではなく、対象となった側を守る為の社会整備は必要だと思う(と、ずっと前から言われている気はするのだが…)。
誤解しないで欲しいが、ここでいいたいのは抗議をするなということではない。
表現の自由というのは反論されない権利などではない、ただやり方の問題だ。
話がまた大きくなるが、個人的にはどれだけ平和主義を語っても「戦い」なんてものはなくならないと思っている。政治も、経済も、受験も、スポーツも、婚活も、創作も、結局は「戦い」なのだ、ただそれをいかに物理的な暴力を伴わず決められたルールの範囲内でやるかが、人類が積み上げてきた理性とか法治とか文明の指標なのだと思う。
抗議は存分にやればいい、カウンターとなるアートを作成しても良いし、ネットに長文を書き込んでも良い、署名やデモでも良い。そして表現の自由と言っても万能ではない、脅迫罪、威力業務妨害罪、侮辱罪、名誉毀損罪、プライバシー権、著作権…憲法に定められた公共の福祉の概念に基づいてそれを規制する法律なんてごまんとある。そのうちの何かに抵触してそうなら訴訟という手もある。ただやるからには全て合法的にやれというだけの話だ。
pixivで気に食わねえ解釈を見つけたら自分の解釈を倍の質と量で投稿して相手の筆を折るのが仁義というものだろう。すまない今のは完全に個人の意見だから忘れてくれ。
じゃあこの場合どうしたらいいのか。
少し話が飛ぶが比較のため「コンビニエロ本問題」について話させて欲しい。「コンビニエロ本問題」とは女性客などからの抗議を受けてコンビニから18禁の本が撤去されている事態のことだ。あれを表現の自由と結び付けて語る人もいるが、私はそうではないと思っている。
何故ならあくまでコンビニは民間の営利団体だからだ。コンビニ業界に詳しい訳ではないので話半分に聞いて欲しいのだが、もしコンビニ側が「エロ本を撤去しないとタピオカを積んだトラックで突っ込む」とか脅迫を受けているならば、それは許すべからざる犯罪だ、しかし多分そうではないだろう。
抗議が原因と言われているが、恐らくより正確には「エロ本絡みの抗議や客足減退に対してエロ本の売り上げが割に合わない」が原因なのだと思う。
コンビニで18禁本を最後に買ったのはいつだろう、正直質はともかく量と利便性はネットの方が格段に上だと思う。正確な売り上げは知らないが、エロ本だけで月々1兆円くらい純利益が出ているなら、あの容赦のないコンビニ業界が Permalink | 記事への反応(15) | 22:16
天下布武を唱え、腹心であった飯島摂津守及び家臣団五人衆、すなわち中居弾正、木村内匠、稲垣五郎右衛門、香取金吾、草薙武蔵らの離反も、その強大な力により押し潰し、今や鳥を落とす勢いであった喜多川右府が、突如、京にて薨去されたとの噂が、日の本じゅうを駆け巡った。
ある者は流行病によるものと噂し、またある者は家臣による毒殺とも噂しあったが、果たしてその真相は、右府の生死も含めて杳として判らなかった。
マスメディアが十分に発達した現代とは違い、当時は、重大な事件は全て人々の口伝えに頼らざるをえない。戦国武将達は、不確かな状況の中で自らの去就を決めねばならず、その対応如何によって、ある家は栄え、ある家は滅びるといった悲喜劇が、絶えず繰り返されたのであった。
ところで、右府のもとには、二人の有力家臣がいた。木村内匠と滝沢左近である。
木村内匠については、飯島の乱において仲間の謀議を主君へ密告した功により取り立てられ、右府からの覚えもめでたく、非常に権勢を振るったことは、既に述べた。(https://anond.hatelabo.jp/20160119162624)
もう一人の重臣、滝沢左近は、元は一介の素浪人であったが、右府に仕官すると俄に頭角を現し、今や右府の最側近として大いに活躍していた。
さて、両者ともに、この悲報に接したのは、京から遠く離れた土地であった。
その時、木村内匠は、右府の命を受けて城攻めを行っていた。梅雨空の下、城の周囲に幾重にも堤を築き上げ、増水した川の水を中へ流し込む「水攻め」を行うこと約1ヶ月、もはや天守は湖の中の孤島と化していた。
「ってゆーかさぁ、もうそろそろ落ちるんじゃね?」
そんなある晩のこと、勝ち戦への楽観が広がりつつあった木村陣営に、突如、右府逝去の激震が走った。京からも離れていたため情報が錯綜し、いつしか町奉行である東山越前守により弑逆されたとの誤報にすり替わっていたのだった。
突然の悲報に接し、大声を上げて悲嘆する木村内匠に、その妻、静御前は冷徹な言葉を投げかけた。
「殿さま!今すぐ京へ引き返して、逆賊、越前守を討ち滅ぼし、御館様の無念を晴らすのです!」
「よく言うた。それでこそ我が妻よ!」
木村は電撃を受けたように飛び上がると、すぐさま敵方と講和を取りまとめ、全軍を京へ向けて引き返し始めた。
一方、滝沢左近は、遠く関東にてこの悲報に接した。ただし、右府の側近中の側近であったことが幸いし、在京の東山越前守から直接、正確な情報を書簡で受け取ることとなった。滝沢左近は、俄に活発化した敵勢と対峙しつつも、手堅く京へ軍勢を引き返した。
実際のところ、この時点では右府はまだ逝去してはいなかったが、今で言うところのクモ膜下出血により、ほぼ危篤状態であったらしいので、死へ向かいつつあったというのが真相であろう。だが、意識を失う直前、右府は「余の影武者を立てて、死を三年間、隠すように」との遺言を、側近の東山越前守へ伝えていたため、先のような虚実入り混じった噂話を生む結果となってしまったのだった。こうして、両者が接した情報の確度の違いが、やがて両家の命運を全く違うものにしてゆく。
まずは木村内匠であるが、弔い合戦のつもりで軍勢を摂津と山城の国境、山崎まで進めたところで、東山越前守の軍勢と対峙することとなった。
「やれ、賊軍ども、なにゆえ京へ攻め上った!御館様に楯突くものは、尽く成敗してくれる!」
木村内匠、答えて曰く、
「傍ら痛いわっ!お前こそ、御館様の亡き後、政を私しようとする賊軍であろう!」
「何をたわけたことを!ここに、御館様はおわすぞっ!」
銅鑼の合図とともに東山軍が左右に割れると、その間から見覚えのある輿が進み出てきた。そう、それは右府の豪奢な輿であった。
「やばっ!御館様!」
突然の状況に、木村軍は戦わずして敗走を始めた。更に間が悪いことに、関東より引き上げてきた滝沢軍が退路を断つ形になり、木村軍は徹底的に殲滅されることとなった。
ちなみに、東山越前守の機転によって引き出された輿であったが、その中には、既に意識のない主人が乗っていようとは、木村内匠は知る由もなかった。
こして敗退した木村内匠は、ひとり戦場より落ち延びると、ある禅寺でひっそりと出家して生き延びたという。一時は、かつて裏切った自分の主君であり、既に出家して名を改めていた飯島摂津守の元に、弟子として身を寄せていた時期もあったようであり、何とも皮肉な人生である。
日本に未来は無い!
いや、これは日本に限った事ではないかも知れないが、そう思う。
戦国時代、戦国武将達の間では「人生50年」と言われていた。
この、人生50年については、現代の計算方法で計算すると50ではなくもっと短かかったとも言われている。
江戸時代の平均寿命は30~40歳前後だったという。
これについては、早くに亡くなってしまう人が多かったため等のばらつきがある様だが。
最近、延命治療だ何だで70歳~80歳まで生きる人は増えている。
しかし、そこまで長く生きる人が増える事で、痴呆老人が増加しているという問題が出てきている。
今の日本の制度は、大半の人が70歳~80歳まで生きる事を想定した仕組みになっている。
その制度を作っているのは、言うまでもなく国会議員だ。
では、国会議員の平均年齢は現在どうなっているのか…というと、55歳となっている。
勿論、若手もいるだろうが、60歳・70歳の国会議員も少なからず居る訳だ。
そういう人達の集まりによって形成されている国会が、果たして40歳以下の国民のためになる
国の運営をするだろうか?
否!
自分達がこれから年老いた時でも有利になる国家運営を考えるだろう。
日本に未来を作るならば、国会議員に定年を設けるべきだろう。
国を運営する大きな仕事をしているからという理由で庶民とは大差のある高給をもらい
安泰な老後の待っている国会議員。
そういった国会議員の家系を紐解いてみれば
江戸時代の大名の子孫、明治時代でいう貴族・士族の子孫も少なくない。
江戸城という器が国会議事堂に変わっただけで、政治という中身の部分でやっている事は
何も変わっていない。
こんな日本で若者にどうやって希望を持てと言うのだろうか?
今の日本は、技術だけは進歩しているが、行われている政治は江戸時代と何ら変わりがない!