はてなキーワード: 必然とは
いつも通り、少なめにごはんを炊いた。
量が少ないというなら、
これだけ相手に伝えれば、十分だ。
はっきり言って不愉快だ。
栄養が足りないというなら、卵でも焼いて勝手に食えばいいし、別に食パンを焼いて食べるなどすれば良いだけのことだろう。
面倒なら牛乳でも飲んでればいいし、食後にヨーグルトを食べるなどいくらでも足りない栄養を採る手段はある。
当の本人は、相手がそれで不快になるとは一切思っていないどころか、こっちの受け取り方が悪いかのように思っている。
要するに、"気にするな" ってやつだ。
何故、その一言を付けたのか、問いただすと、「なぜ、炊く量を増やすのか相手に伝わらないから」とのことだった。
文面からは伝わらないかも知れないが、ぼそぼそと暗い感じで、その余計な一言を加えるものだから、理由はともかく、不快な気持ちになるのは必然だ。
それについても指摘したが、「疲れてるから」、「スーパーでレジが混んでたから」だと。
投げ掛けた言葉を相手がどう解釈するかは、その場の雰囲気、相手の考え方によって異なるものだ。
「そんなつもりは無い」と後から言ったところで、嫌味として受け取られたなら、その言葉は、嫌味を指す。
良くも悪くも毒が抜けたように思った。
それはある種ナルニア国物語のような、壮大な創世記の一部として各作品が意識されてるからだと思ってる。
バイオメガの終盤からシドニアはあの世界での転換期だったと思う。
それでもなお、生態が変容するほどの時間軸を経ても続いてることでガウナの脅威性を示し、
融合という形でそこからの再生を明示することで次世代への希望を匂わせたシドニアの騎士。
敵(異形の物)とのボーダーが曖昧な主人公という逆説的に強調するヒロイズムが見られたのが、
それに抗うように旧時代の人間らしさを引きずる主人公という逆転が起こっている。
融和的なようで獰猛な何ともいえないシドニアのラストをもって、
日本はまだ賢いよ。暴動を起こしても、この状況が何とかなるとは考えないだけ、他の国よりマシ。
実際、テロを起こしても日本の崩壊が早まるだけ。ますます現状を悪化させることを理解してる。
日本には、独裁者も超金持ちも存在しない。悪者がいない。ただ全体が愚かで知恵がないだけ。あと全体的に精神が幼いだけ。政府も目一杯やってこの状況。消去法と必然によって最善を選択してる。政治の現場を知らない人間は、もっと理想の選択ができると思ってるけど政治の現場はそうじゃない。
日本の政治家はまだ、サンドバックになりながら、日本のために働いてくれる、他国と比べ優しい方だ。日本に強者がいるとしたら激務をこなして経済を支えている超人であって、これを叩くと完全に日本は崩壊してしまうだけ。
最近は、ネットは変わったということを言う人も一巡して、そんな声も聞かなくなった気がするんだけど、読んでたらため息でるなあ。
斯く言う私も、学生時代は日陰者だったわけだかバリバリ社会不適合のオタク気質な人たちの影から匂い立つエネルギッシュさというのを肌身を通して感じていたつもりだ。ある時期までは、アニメを見ているとかラノベ的な小説を読んでいるというのは強烈なスティグマだったのを記憶している。
ネットの変質を端的に表しているのは動画サイトなんじゃないかと思っている。もしかしたら、自分がウブなだけかもしれないんだが、かつては狂酔なバカ(良い意味)が動画を上げていたんだけど、最近はどうも表面上バカな動画であっても金の匂いがする。金が掛かっているから自制が働いてツマラン動画になってる。megwinお前だよ。
一方で、技術はかなり進歩している。MADの動画編集なんて、指数関数的に技術が向上しているから1年経てば古くさくなっていると感じる。その技術をさ、金のためじゃなくて、おもしろい動画のために使ってくれよ。
ネットが一般社会化していったのは、普及率に向上に伴う必然だけど、悲観するひつようはない。このネット上に(あるいはネットでないどこかに)、かつてのネットのようなフロンティアがあるはずだ。アフィに汚染されてない、金のためじゃなく、バカ騒ぎがしたいから画面に向かうヤツがいるはずさ。
http://synodos.jp/society/15869
について、まぁすこし前に流行った弱者男性と同形の議論だよね基本は、そして弱者男性議論と同様に根本的に間違えてる部分がある。
これに対してコメントを見てみると
それ以前に当事者の運動すらないのに、「被抑圧下で権利主張を行うマイノリティ」に対して自分たち以外の権利獲得・保護まで一方的に背負わせるのは無理筋だと思います
LGBTが包含しにくい勢力をLGBTと同等の勢力と多数派が認めればいいだけでは。少数者はひと固まりになるべきてのは押し付けに過ぎない
分かるけど「お前らの運動は思想的に無矛盾じゃないからニセモノ!」って足引っ張るのはやめような。オタクはオタクで頑張れ。共闘はできなくても互いに応援はできるはず
考えてみれば当たり前だ、そもそも論理を貫き通せばそれでOKなら、差別そのものがとっくの昔にこの世にないはずだ。となれば必然、運動は論理を超えた、つまり矛盾を含むことになる。
論理的には山口氏は正解だろう。「性的少数者は守られるべきか?」「多様性は擁護されるべきか?」という直截な疑問にLGBT側の多くの人間は留保を付けずに「YES」と答えられないのではないか。そして留保を付けた途端、この教条の絶対性は揺らぎ、次なる理由を求められることになる「では、なぜLGBTだけが?」「その理由は?」
理由など無い、たまたま自分かあるいは近しいところにその当事者がいたとか、そういう理由ならあるだろうが。論理的な説明は無い。
こうした運動にとってロジックは「根拠」ではなく「道具」に過ぎない、ってことをわかってない。まず第一に「ある特定の差別解消」という恣意的な目標があり、ロジックは都合のいいものだけ後付けされる。そんなことはわかった上で、なのかもしれないが。
なぜ矛盾してもいいのか?
それはそもそも第一の目的が「論理性の追求」などではなく「ある特定の差別解消」だからだ、この目的のもとに、手段の(特に論理的)正当性は言ってしまえばどうでもいい。そもそも論理的であるべき(矛盾すべきでない)とする論理的な理由は無い。それは常に(他の場面でも)戦略的なものだ。
そう、戦略だ。ここに山口氏の主張をベタに受け取る上記の反論の未熟さが伺える。彼らも分かってるはずだ、ここにはコンスタティヴではない、パフォーマティヴな意図が隠されていると。
被差別者は矛盾してもいい、そのことには論理的な正当性すらあるが、一方で戦略的にはよろしくない。大半の人間は馬鹿だから「矛盾してもいい」ことを理解できないし、となると論理的矛盾は論理的ではなく戦略的な足かせになる。
彼らがやるべきは「その言い分は戦略的にまずい」とコンスタティヴに言ってしまうことではなく、山口氏と同様にパフォーマティヴな意味を獲得する論理ゲームに参加することだ。
彼らは勘違いしている。これは「論理的正当性」という称号を賭けたただのゲームなのだ。これを獲得すると「説得力」という全然論理的には役に立たないが戦略的に役立つものが手に入り、逆に負ければ論理的には全く問題ないにもかかわらず戦略的には大きなリスクを負うことになる。
彼らは文章の表層に表れる論理ゲームしか見えていない、その上空で展開されるメタ称号争奪の戦略ゲームが見えていない。彼らは「論理より戦略を考慮しないと」と言うわりに自らの戦略的位置・意味には驚くほど鈍感だ。正しいことを言ってればいいわけじゃない。
論理ゲームの勝敗が戦略ゲームの戦況に影響を与えるということ、この簡単な事実を前提とした意見は残念ながら今のところあまり見られない。
少なくともブログとツイッターを併用してる人達はブログを使う意味を失うと思う。
今までわざわざ分けて書いていたのを1つにまとめられるようになるのにあえてしない理由がない。
ブロガー同士の繋がりだって可視化されやすくなってグループの作りやすさも段違いだ。
昼間は軽く短いつぶやきをして、夜になったらそれについて少し詳しく話すことだって出来る。
ツイッターで起きたことについて少し詳しく話しますのでブログ見てください何てこともなくなるし、
ブログで起きたことについて少しツイッターで話させてくださいなんて前置きする必要もない。
全部ツイッターの上でやることが出来る。
キャラクターや発言の内容を使い分けたいならサブアカウントを作ればいいことだ。
メインアカウントでの発言の補足にサブアカウントを使ってメインアカウントの発言を引用したりも出来る。
見てる側にしたってメインアカウントとサブアカウントを同じTLやリストで流せばブログとツイッターという二つのメディアを見なければいけない頃よりよっぽど便利だ。
http://azanaerunawano5to4.hatenablog.com/entry/2015/12/22/155416
この嘆きはよくわかるが、仕方がない。はてな運営自体がそういう風になっているのだから。
現在のはてな運営の態度はこうなっている。「直接相手を名指しした場合、そこそこまともな批判でも通報されたら記事を消せ、と機械的に処理される。」「それでいて直接相手を名指しない形で悪口を言ってくる増田やブロガーをはてな運営に通報しても「第三者からみてあなたのことを言ってると明らかじゃないので対応できません」といって対応してもらえない」つまりはてな運営の態度を忠実に解釈するのであれば、「主語や目的語を薄めて (主語がぼやけている代わりに、特定の誰かを批判しない)」「動詞や形容詞を過激にする (あきらかに語る内容に比べて表現が煽りになっている)」というものがはてなにおいては最適解ということになる。はてなにおける最適化とは、虚空に向かって過激な発言をすることなのだ。みんなが自分の庭に井戸を掘って「王様の耳はロバの耳」に類する鬱憤を吐き出すのが理想の姿なのである。サラリーマンや社畜といった特定の誰かをささない抽象的なイメージに対してはどれだけ過激な悪口を書いても良い。それでいてそういう発言をする人間にちょっとでも「それは言いすぎだ」と批判をすれば「匿名の暴力」「魔女狩り」「罵声を浴びせる人たち」となるのだ。そういう人間がいまのはてなブログの運営の答えなのだ。
はてな村かかりつけの医師がこんなことを書いていたがこれは必然の結果だ。
http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20151107/1446854595
はてなブログは、トラバによる明確なつながりを捨てた。それによって虚空に向けて叫ぶ人材を求める仕組みになった結果、人とのつながりを求める人間は表現自体には過激さが求められるようになった。それでいて、直接個人に言及することを憚るよう運営は求めた。言及する対象が抽象的になればなるほど、人間は発言が雑で大げさなものになっていく。その結果、具体的な話よりも、ぼんやりした、中身の薄い、それでいて表現だけが大げさな記事が目立つようになった。なにせ、どれだけ価値があろうとも、具体的ななにかに関する直接的な言及は一切アウトなのだから、価値あるものは何も蓄積されない。アニメやラノベ作品についてさえ具体的に言及すれば天狗が襲い掛かってくるという噂が広がるに及んで、もはや人々は自分事以外で他人については何も語れなくなってしまった。はてなでは糸電話のような慎ましやかな通話はもはや消失し、拡声機をもって大声で喚く人間が盛り上がりそれをはてな村の老人たちがやれやれと嘆きながら何もしないという、発展性の全くないコミュニティと化した。誰も他人の話をまともに受け取ろうとしない。 ただみんなが自分の話を聞いているという妄想だけを頼りに大声で自分の言いたいことを喚くだけだ。 はてな村にもはや以前のようなつながりは存在しない。
>本当に「鼻持ちならない、海外自慢の人間」になるのか、
かつ、自身の価値観が、どちらかに寄っていると、寄っていない方のグループから叩かれる。すると、人間誰しも叩かれると、その人間を嫌悪するのは当然の反応。
対策としては、別グループから叩かれても、痛くも痒くも無いように聞き流す境地が必要。ハナクソと言われたら、「誉め言葉だ」と思うみたいな。
また、嫌われて離れていったらラッキーっと思う。さらに良い人との新たな出会いが待っているんだと思う。
だけど、複雑な利害関係が絡み合う場合や、出られない共同体にいる場合は、嫌われても嫌っても、どうせ離れられない。
直すこともできないし、使い分けられる量にも限界がある。完全な二重人格になら無い限り、異なる価値観を完全に切り替えるのは不可能。
2つのグループならまだましな方で、社会には、5つも10個も異なる価値観のグループが存在する。その全てに属そうと思えば、まあ、10重人格を使い分ける特殊能力が必要。これは、もう想像を絶する苦しみ。そして、それだけ努力しても今度は多重人格だと罵られるので、
どこまでいっても罵られる、のはかわりない。
この苦しさが分かる人間には、人との違いに寛容なので、分かってくれる人も存在する。
そして、日本も世界も意識の2極化は進んでいて、溝は深くなりつつある。
違いをどこまでも受容していく人、違いをどこまでも否定する人。
>本当に「鼻持ちならない、海外自慢の人間」になるのか、
かつ、自身の価値観が、どちらかに寄っていると、寄っていない方のグループから叩かれる。すると、人間誰しも叩かれると、その人間を嫌悪するのは当然の反応。
対策としては、別グループから叩かれても、痛くも痒くも無いように聞き流す境地が必要。ハナクソと言われたら、「誉め言葉だ」と思うみたいな。
また、嫌われて離れていったらラッキーっと思う。さらに良い人との新たな出会いが待っているんだと思う。
だけど、複雑な利害関係が絡み合う場合や、出られない共同体にいる場合は、嫌われても嫌っても、どうせ離れられない。
直すこともできないし、使い分けられる量にも限界がある。完全な二重人格になら無い限り、異なる価値観を完全に切り替えるのは不可能。
2つのグループならまだましな方で、社会には、5つも10個も異なる価値観のグループが存在する。その全てに属そうと思えば、まあ、10重人格を使い分ける特殊能力が必要。これは、もう想像を絶する苦しみ。そして、それだけ努力しても今度は多重人格だと罵られるので、
どこまでいっても罵られる、のはかわりない。
この苦しさが分かる人間には、人との違いに寛容なので、分かってくれる人も存在する。
>本当に「鼻持ちならない、海外自慢の人間」になるのか、
かつ、自身の価値観が、どちらかに寄っていると、寄っていない方のグループから叩かれる。すると、人間誰しも叩かれると、その人間を嫌悪するのは当然の反応。
対策としては、別グループから叩かれても、痛くも痒くも無いように聞き流す境地が必要。ハナクソと言われたら、「誉め言葉だ」と思うみたいな。
また、嫌われて離れていったらラッキーっと思う。さらに良い人との新たな出会いが待っているんだと思う。
だけど、複雑な利害関係が絡み合う場合や、出られない共同体にいる場合は、嫌われても嫌っても、どうせ離れられない。
直すこともできないし、使い分けられる量にも限界がある。完全な二重人格になら無い限り、異なる価値観を完全に切り替えるのは不可能。
2つのグループならまだましな方で、社会には、5つも10個も異なる価値観のグループが存在する。その全てに属そうと思えば、まあ、10重人格を使い分ける特殊能力が必要。これは、もう想像を絶する苦しみ。
この苦しさが分かる人間には、違いに寛容。
>本当に「鼻持ちならない、海外自慢の人間」になるのか、
かつ、自身の価値観が、どちらかに寄っていると、寄っていない方のグループから叩かれる。すると、人間誰しも叩かれると、その人間を嫌悪するのは当然の反応。
対策としては、別グループから叩かれても、痛くも痒くも無いように聞き流す境地が必要。ハナクソと言われたら、「誉め言葉だ」と思うみたいな。
また、嫌われて離れていったらラッキーっと思う。さらに良い人との新たな出会いが待っているんだと思う。
だけど、複雑な利害関係が絡み合う場合や、出られない共同体にいる場合は、嫌われても嫌っても、どうせ離れられない。
直すこともできないし、使い分けられる量にも限界がある。
http://anond.hatelabo.jp/20151114203911
http://anond.hatelabo.jp/20151115051501
何かを批判していないとプライドを保てない人々というのは、もう脳がそのように出来てしまっている。
だから、本人は改めた気になっていても、その性分はなかなか直らない。元増田も、私も含め。
自分の発言が、非建設的で悪意的見方にすぎる事を自覚できていたとしてもだ。
すばらしい物の見方をしていて魅力を何倍にもして伝えてくる人を目の当たりにすれば、彼らも一度はそれを賞賛する。
でも、次には文句を言い出すのだ。一度欠点だと認識したものは、どう繕っても欠点としか見れないのだろう。
私は2chのアニメスレに、何度か優れた考察をするブログのURLを貼った事がある。すると毎回そういう流れになる。
「でも○○のパクリだから台無しだ」「こんなガバガバ脚本なのが悔やまれる」と。
もはや、ネットはネガティブな思考回路を増幅・拡散するための装置になっている。
とはいえ彼らも最初からアンチなわけじゃなく、むしろファンで熱心に見続けている者が多いとは思う。
しかし、作品を受け入れて楽しんで見ようという姿勢になれないから、監督や脚本を責め立て、自分の理想を延々と垂れ流す。
ひとつは、神経質すぎる、理想主義すぎる者の声が目立つ仕組みだからだろう。
そういう人格になる理由は様々だが、ことアニメに関しては「キャラクター性至上主義」を煽る文化に一因があると思える。
魅力的なキャラが何より大事だから、特定キャラをsageるような役回りが許せない。シリアスな展開を容認できない。
また、「キャラが脚本に踊らされてる」みたいなトンチンカンな発想になってしまって、ストーリーを受け入れることができない。
もちろん、アニメ化以前からキャラクターが確立している作品もあって、一理ある場合もある。
だがアニメ化にあたって、物語性の薄い日常系にするならともかく、ドラマを描くなら多少のキャラ改変はポジティブに捉えるべきだ。
なぜなら、既存のキャラに囚われてキャラに自走させていたら、一本のドラマになるようイベントを発生させていくのは難しいからだ。
なので、「常識的にこんな事になるはずないだろ」とキャラの浅慮や落ち度を批判するのも的外れになる。
常識的に起きないようなイベントが重なった世界線がドラマになるのだ。
限られた時間枠のなか、絵で表現するアニメというのは、作るにも観るにも高度にクリエイティブな行為だ。
大事なことほど明確に描かれず、テーマ上不要なシーンは大胆にカットし、必要なシーンは大げさに描くケレン味が評価される芸術だ。
だから、観る側にも、脳内補完をしてやるための想像力と頭の回転が求められる。
だが最近は、漫画ですらうまく読めない若者が出てきたという話も聞く。
そういう状況では、このアニメ的な作法を飲み込めず、説明不足・置いてけぼり・駆け足すぎと感じ憤る人も出るだろう。
そういう人にとっては、アニメを違和感なく観れている人というのは好意的に見すぎの「信者」であり、愚か者にすら見える。
だが前述のように、アニメというのは構造的に、ある程度は好意的に汲み取ってやることが求められるものだ。
アラを探すような鑑定姿勢で見ていると、好意的に見ていればケレン味として消化できる些細なハッタリにも躓いてしまう。
すると「破綻している」という印象に囚われ、世界観にも没入できず、もう「楽しむために観る」という本来の姿勢には戻れなくなる。
その状態に陥ると、感動的な場面も素直に感動できなくなるばかりか、ちりばめられた演出も見落としがちになるだろう。
作品を楽しめている人とそうでない人の差は、感動できるような美点を「見出している数」の差だ。
アニメというのも芸術の一つであり、芸術というのは、言語化できないような抽象的なところから意味を見出すからすばらしいのだ。
また、ネットでは、批判できる人間が「通」であり賢いかのように見えてしまう。
その上、「好きだからこそ許せない」と批判されると共感を呼びやすい。
それが実際はトンデモな批判でも、通っぽさが伝わるとROMのにわか層には説得力をもって伝わるのだ。
ネット世代はとくに、こうしたネガティブ思考に誘う罠にハマりやすい環境に生きている。
この手の重箱の隅批判が公益を生むこともある政治や行政への批判あたりならまだマシだ。
が、アニメ漫画なんていうのは、趣味で自分が楽しむためのもの。
こりゃダメだと思ったら「自分には合わなかった」と去ればいいだけの分野のはずだ。
それなのにネガティブ発言をする人が繋がりあい、存在感を発揮する状況は、いかにも不健全だ。
こういうネガ・dis思考はtwitterやLINEやまとめサイトのような所からどんどん伝播していく。
軽いキャラdis風だったり、「また○○(脚本家の蔑称)か」みたいな受け入れやすい形で。
もっと作品やクリエーターへの敬意があって然るはずだが、そういう感覚を持てるのは「古き良きオタク」気質の人。
大量のアニメを消化していくイナゴのようなアニメファンは、下手に知識を得ても、斜に構えたような感じになりがちだ。
結局なにが言いたいかというと、そういう通ぶって批判する人をなじりたい訳ではない。
むしろ、そういう人が目立つのは時代の必然と考えたいという話。
目の前に広がる不快な現状をみて、
その中心にいる「人」を責めて鬱憤を晴らすダサいおっさんが元増田なら、
「ネット社会」という環境を憂えて俯瞰した気になっているダサいおっさんが私だ。
どんな形であれアニメ批判に関わると、こういう泥沼にハマって闇に堕ちていく。
そこだけ見ても、「良さだけを語れる」オトナの神々しさが感じられると思う。
ネットでは、増田でくらいは、そういうドロドロした感情を出してもいいと思って今書いているが、
でもリアルやSNSみたいなところでは、なるたけ「良さだけを語れる」「馬鹿に構わない」人間でありたい。
つい、「ここは良いけどここはダメだよな」みたいな両論併記的・中立的・評論的な物言いをしたくなる時も、
それは大体抑えたほうがいいと肝に銘じよう。趣味についての話なら。
しかし、完全にそういう人間になるには、そもそもネット上の素行についても
「わざわざ下卑た場所を覗きに行かない」「そしてそこでマウントしない」を身に着けている必要があるのだろう。
一度泥沼の味を覚えた身としては、それは難しいように思える。
なにしろ、そんな場所を見に行くことを忘れるような社交的なリアルの付き合いがないのだから。
ああオトナになるのは本当に難しい。
パリにおけるテロの一報を聞いた時、シリアやイラクの『まっすぐな国境線』を私は思った。
『ISを空爆しているからテロに遭った』という単純な話ではないのだ。
その『国民国家』が軍事力で相互に牽制し合う秩序、『ウェストファリア体制』ができたのは1648年。西欧という、極小の地域で生まれた。
18世紀以降、西欧諸国はこの『国』という真新しい概念を世界中に押し付けていく。
日本も例外ではなく、武力による恫喝でウェストファリア体制に組み込まれた。
明治維新と言えば聞こえは良いが、列強の外交圧力に屈服したにほかならない。
ウェストファリア体制の押し付けで、最も割を食ったのは中近東とアフリカだろう。
かの地域に『国』などなく、あるのは氏族社会(日本では部族(tribe)社会と呼ばれるが、国際的には氏族(clan)を用いる)だけであったし、今もそうだ。
氏族社会にとって『国』は不要どころか、不自然な国境線と独立・民族戦争を生んだ悪魔と言って良い。
うまく想像できない人は『明治維新に失敗した日本』を想像すれば良い。
成り上がりの強国に植民地支配され、解放後もモノカルチャー経済で貧困に喘ぎ、近代化できずにいる日本を想像すれば良い。
恨みを持たない方が不思議だろう。
英仏露が中近東を引っ掻き回した、100年前の一次大戦も『国』の押し売りであった。
同情しなくもないが、被害諸国から見れば悪の統領である。9.11は必然だった。
時に米国と対立するフランスだが、両国の同盟関係は100年以上も続いている。
サルコジ以降はNATOにも復帰したから、軍事同盟国でもある。
パリにおけるテロは、9.11をスケールダウンさせただけで、構造は同じだ。起こるべくして起きた。
日本は?
考えるだに恐ろしい。
フランスと同じではないか。違うのは『ISを空爆していないこと』だけだ。
日露戦争の時は『列強に一矢報いた第三世界の星』だったかもしれない。
しかし、その栄誉はすっかり摩滅し、今は跡形も無い。
イラク戦争を支持・派兵し、米国の同盟国で、米軍海外基地(規模では世界第二位)を有している。
湾岸戦争の時のように、大金をバラ撒くのか? 口だけの『平和外交』を続けるのか?
馬鹿にされるだけだろう。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/11/07/2015110700529_2.html
【コラム】中・日と対峙する韓国、生存懸けて原潜建造計画を推進せよ
偶然にも韓国海軍が観艦式を行った数日前、日本の海上自衛隊も観艦式を行っていた。海自は質的には米国に次ぐ世界第2位と評価されている。今年の海自の観艦式には韓国からも駆逐艦が参加したが、現地に行った海軍関係者の話によると、海自の偉容もかなりのものだったという。日本は国民全体が海軍に大きな関心を寄せていることもあり、観艦式の参加チケットは一時8万円近い高値で取引されていたという。その日本が少しずつその野蛮な姿、いわば日本人本来のものかもしれない姿を示し始めている。必然かどうか分からないが、われわれの命綱である南シナ海でも尋常でない雰囲気が漂い始めている。
よその民族を「少しずつその野蛮な姿、いわば日本人本来のものかもしれない姿」と平然と憎悪表現を使用するレイシスト新聞が、大手紙の一つとなっているのが韓国の現状である。
一番の理由は袋から取り出してそれを保温器に詰めてるのを見てしまった事が大きい。
やっぱり手作り100円のミスドと業者かつヤマザキ製ドーナツとじゃ前者選ぶよね。
ローソンドーナツはよくよく食べ比べてみると、保温状態にもよるけど、食感がネチャっとしてるし
味も大味でひたすら甘いだけって感じがある。
ミスドのオールドファッションは食感がサックリしてるおかげでローソン同様の甘さも上手く中和できてると思う。
そういう意味じゃローソンドーナツは手頃な値段で売ってるから使えるんだろうけど
ミスドにしたっていつも3,4個しか買った事ないから、6個とか10個とか買いたいと思った事ないし。
要するに僕はドーナツに対してあまり積極的でなくなったと思う。
職場に送ってもらって、裏口まで歩いていると自転車に乗った彼が普段していないマスクを着用してしんどそうな顔をして現れた。
彼を見て、一瞬、私の動きが止まる。
こちらを見ている、気がした。
そんな訳ないと自分に言い裏口の扉をくぐる。
後ろから、彼が着いて来る。
急ぎ足になった私は、彼が来ているかを確認する為に振り返る。やっぱり着いてきている。彼も仕事があるのだから当たり前だ。
また私は彼を確認したくなる。だってこんなにも偶然会える事を願っていたのだから
けれどさすがに後ろを何回も振り返れば怪しいだろうから我慢して、ゆっくり歩けば彼が後ろから追い抜いてくれるかもしれないのに、あまりの偶然に私は焦って急ぎ足で歩いてしまう。
ロッカーに着く。私はドキドキと高鳴る胸を落ち着かせる為に深呼吸をした。
会えたのだ、本当に。
ずっと願っていた、偶然で。
私が買い物をしに行けば会えるのは当然なのだ。
けれどそれだけでは嫌だと、同じ館内で偶然見つけた求人広告に電話をして働き出した。
同じ館内で働いている人としていつかは会えるかもしれない、すれ違って挨拶が出来るかもしれない、と思って毎日を頑張った。
今日はまさしくニアピンではないか。もう少し働いていたら本当に彼と挨拶を交わせるかもしれない。もう少し、あと少し。
その日までどうか辞めないで。挨拶だけだから。きっとそれより高望みはしないから。
なんて、全部作り話でした。チャンチャン♪
(少なくとも現代の)お笑い芸人あたりは、ヨゴレ芸をはじめとして、人サマ(および抽象化したもの)を差別して笑いを取っているのが沢山...もっとも、古典落語でもアホを題材にしているものは沢山あるけど
矛盾させたら、テレビ局にとって簡単でオイシイだろう「バラエティ番組」が綻びてしまうからね。営利団体以上の尊厳を捨ててきているメディアにとって、都合の良い基準を使うことは必然かな。
http://anond.hatelabo.jp/20151016104153
「チビ」はあまり聞かないけど、「ハゲ」「デブ」については、関連スポンサーを応援する意味でも、今後も差別の対象にされつづけていくことかと。
今はもうサービス終了してしまったあるMMOで、あるプレイヤーに告白された。
男だと思われていたらしい。
そのMMOは文字チャットが主流で、音声チャットは一部の廃人プレイヤーが使ってるぐらいだった。文字しかなければ、性別は偽りやすい。
とはいえ、自分はネナベをやるつもりは毛頭なく、なんならサブキャラは女性だった。もともとネットゲームデビューはPSO(DC)で、あの作品は性別もキャラ性能の一部だったので、必然、「使いたい性能で性別が決まる」文化であり、中でも凝り性の人々は、使用キャラによって口調を変えるぐらいのことはやっていた。
使用キャラはプレイヤー自身のアバターではない。けれど、女性キャラが「俺」と言ったり、男性キャラが「あたし」と言っていると、口調とビジュアルがなんとなくそぐわない感じがする、だから操作キャラに合わせる形で喋り方のほうを変えてしまう。
そんなスタイルに慣れ親しんでいたせいで、男性キャラを操作している時は男性として違和感がないように、女性キャラを操作している時もまた違和感がないように、喋る癖がついていた。
漫画の顔と吹き出しの組み合わせを考えるようなものなんだと思ってた。その「吹き出し」のイメージも、きっとPSOのせいだ。
そしたら、男性キャラでプレイしている時に知り合った人から、見事に勘違いされてしまっていた。中身の性別を隠してはいなかったけど、狩りやらに出かける時にわざわざ「中身は女なんですよ」なんて言わない。そのまま何度かパーティーを組んで遊んでいるうちに、惚れられていたらしい。
あまり人が来ないエリアに呼び出されて、好きだと言われた。中身が好きだと。
大慌てで中身は女だと説明したが納得してもらえるには時間がかかった。結局、ふだんの自分の口調で喋るように修正し(これが私にはつらかった。ドラゴンボールの悟空の吹き出しに「あたしも宿題やってないよー><」と書き込むような辛さなのだ)、なんとか受け入れてもらった。
彼女にとっては、操作キャラはアバターで、当然プレイヤーとキャラクターの性別は同一、ということだったんだろう。
そのMMOも女性キャラ比率が高く、その中には当然、多くの男性プレイヤーが含まれていたと思うのだが……もちろんその逆だって。
今思い返すだけでも、異性キャラを使っていたプレイヤーを両手で足りないほど思い出せる。
私のようなスタイルのプレイヤーにとって、文字チャットはキャラクターの見た目に合わせて内容を変えるものだ。
その口調も、時には考え方すらも、自分自身とイコールではない。
誰もがそうしているとは言わない。けれど、自分の多数の操作キャラの間に人間関係すら構築し、例えば兄と妹をそれぞれにキャラメイクする遊び方だって確かにある。そして私は今でもPSO2で、男性キャラと女性キャラそれぞれをちまちまと育成している。
もうチャットに明け暮れるほど遊べてはいなくて、フレンドも作らない万年ソロだけれども、もしもチャットする機会があったなら、それぞれに口調は違ってしまうと思う。