はてなキーワード: 平行線とは
覚えてない方はこんにちわ。
今回も長文でごめんなさい。
わたくし実はクレーム担当という側面もございまして、先日ちょっと話題になってた某オリエンタルランドにおけるチケットクレームの件を少し考察してみたいと思います。
要約すると「特別なチケットをもらったのに、入場制限がかかっていて入れないのはおかしい。それをなんとかしないディズニーは殿様商売だ」といったものです。
まず、クレームに対応する上での鉄則がありまして、その話を一つしてみます。
今回で言えば、「特別なチケットで入場ができなかった。」さらに踏み込めば、「それによって家族の労力が無駄になった。」というものです。
その結果として、大半の場合、その被害に見合った補償、もしくは解決のための要求がなされます。
それが今回で言う、「なんとか入場させて欲しい」だったり、「せめて心付けほしい」といった内容だったわけです。
クレーム対応とは、一見この2つに対して解決を行うものと思われています。
しかし、クレーム対応が最もこじれるポイントは、その解決にこだわりすぎてしまうことでもあります。
「相手の言う被害と要求に、絶対にこだわってはいけない」ということです。
さて、今回のクレームにあたって、現段階で明るみになっていない部分があります。
クレーム対応とは、即ち、この「原因」を読み解くことが全てといっても過言ではありません。
今回の方のブログを拝見すると、この原因部分がまだ解決されていない印象を受けました。
それは、「もらったチケットが特別なものである」という誤解です。
他の方の反応を見るに、このチケットにはそうした特別な能力はなかったようです。
その誤解が解決されないままに、いくらディズニー側が解決手段を提示したところで、当事者としては納得ができるわけがないのです。
なぜなら、自分の被害の責任は先方にあるという誤解が解決されていないからです。
本来、クレームに対応するにあたって、こうした「相手の考える原因」を紐解くことが真っ先に求められます。
そのためにヒアリング技術などを用いて、まずは相手の話を聞き出すことが必要なのです。
今回であれば、このチケットが特別なものではないという誤解を解くことが、まずはこの対応において再優先になります。
しかし、ここで相手方の無知や調査不足を指摘するようでは、さらなるクレームに火を付けてしまいます。
ここは解決を優先させて、説明責任が不足していたことに原因をシフトさせる必要があります。
「当方の説明が不足しておりまして、誠に申し訳ございませんでした。大変恐れ入りますが、当チケットは入場規制が発生してしまった日には入場することができません。誤解を招く結果となってしまい、誠に申し訳ございませんでした。」などでしょうか。
ここで大切なことは、できないことはできないとはっきりと相手に伝えることです。
ここに少しでも緩和の余地があると、相手に食い下がるポイントを与えてしまうことになります。
これによって、「当日入れるはずのチケットで入れなかったことに対する被害」を、「当日入れると思い込んでしまった勘違い」にシフトさせることができました。
そうなれば、もともとあった「その日に入場できないとおかしい」という要求は意味を成さなくなります。
これによって、本来の問題に対する解決は、「チケットの説明不足に対する謝罪」、もしくは「それに見合う対応」に変わるわけです。
説明不足(ただし、ある程度説明責任を満たしていたとして)、もしくは当人の勘違いが原因となれば、本来あると思い込んでいた当日入場できる権利は行き過ぎた要求になります。
それでもなお要求が続く場合は、今度は過剰な要求に対する対応へとシフトすることができるようになるわけです。
ただ、今回の件に限っては、何故入場制限が必要なのかというポイントに対する説明も不足しているように感じられました。
ここにも原因に対する勘違いがありそうなので、説明があると解決が早まったように思えます。
「お客様に快適に楽しんでいただくために、一切の例外を作らず対応させて頂いております」
「これだけの混雑ですので、小さいお子様をお連れの場合であればむしろ入場をすすめることはできません」
「警察からの指導のもと、パーク内でのお客様の安全を優先することが義務付けられています」
「何かしらトラブルが発生してしまえば、今後さらに厳しく入場制限を設ける必要が発生してしまいます」などなど。
実情は知りませんが、あくまでサービス提供側の都合ではなく、お客様のためにあるルールであることが伝わると良いのだと思います。
さて、今回に限っては、当人を後に引けなくさせるもう一つの要因がありました。
もしここまでにこの要因を見抜けた人は、クレーム対応においてかなりの才能があるといっていいと思っています。
もし、本人だけであれば、この方はこれほどまでに食い下がることはなかったかもしれません。
人知れず一人で恥をかいたならば、こっそりと身を引くことは容易いからです。
しかし、今回はこのまま引き下がれば、家族の前で大きな恥をかいてしまうことになります。
文章の内容から見るに、そのことは彼の中で絶対に許されるべきことではなかったのでしょう。
例えばここで、パークの説明員(しかもそれなりの責任がある人物)が、家族の前に立ち、説明不足を謝罪していたら解決はもっと早まったかもしれません。
なぜなら、それによって自分の力で謝罪させたという男性のメンツが保たれるからです。
こうした相手が引き下がれなくなった理由を素早く見つける能力は、クレーム対応において非常に優れた能力であるといえます。
まとめるとこんな感じです。
・ヒアリングから原因を読み解き、全てを聞き出した上で間違っていれば正しい原因へと導く
・正しい原因から被害に対する誤解を説明し、適正な被害とそれに対する解決策を提示する
・この時、相手がなお元の要求にこだわる場合、過度な要求として態度を改める必要がある(第三者が介入した時に有利になる)
・一連の内容以外、相手が引き下がれなくなっている理由があれば、察知して解決策を提案する
・ルールを主張する場合、それは運営側の都合ではなく、あくまでお客様の権利を守るためであることを前提として説明する
当然実際のクレームは、簡単にフローチャートでわけられるようなものではありません。
しかし、こじれてしまう理由のほとんどは、原因を共有しようとせず被害と要求にこだわってしまっていることも事実です。
クレームを訴える側は要求が正当だと信じ、クレームに対応する側はクレームが不当だと戦うことになってしまうわけです。
被害の責任がどこにあるか。それによって相手の要求がどこまで現実的であるか。
クレームの解決において、両者がその部分をどこまで正しく共有できるかが最も重要なポイントといっていいと断言できます。
尚、クレーマーが要求を通すための常套手段に次のようなものがあります。
・解決にかかった時間をどうするつもりだ。
今回も数時間を無駄にしたことが言及されていましたが、全てとは言いませんがこれらの都合は先方にあります。
諦めなかったのは先方ですし、予定があるのも先方の都合です。
それによってクレームを受ける側が態度を変える必要はありません。
そんな要求に屈することなく、勇気を持って毅然と対応してもらいたいと思います。
蛇足ですが、例えば今回の例に限っては、後日利用できる日付確定型の入場チケットに変えることが妥当なところではないかなと思いました。
さて、運営側として読まれる方も多いかと思うのでここで忠告を一つ。
クレームを解決するにあたって、ルールを主張することは大切なことです。
しかし、解決を優先するあまりにその都度ルールを変えてしまうようでは、それだけ信用を失うことを意味しています。
クレーム対応は組織を成長させるものとして、不明瞭な部分を明確にするために役立てるのがいいのではないでしょうか。
パチンコなんかで言うと理不尽な要求なんて日常茶飯事なのですが、それが理不尽かどうかはその時点ではこちらの視点でしかないわけです。
たとえそれがどんな要求であれ、まずは原因を紐解かずして解決はないと言えるのです。
寿司職人の話で盛り上がってますが、このふたつを混同しているから議論が平行線なわけです。
前者は何年かかっても完成に辿りつけませんが売れるかどうかははじめから無関係で(流派ブランドとして担保されている分はありますが)、後者は完成度よりセンスが問われて数ヶ月も練習すれば売り物することができます。
前者は流派を学び生み出す人で、後者は流派を模倣して陳腐化させる人です。(まれに本物が生まれますが、それは全く別の流派を生み出します。)
それぞれの立場にいる人はもともとの目的が違いますし活躍する舞台も違います。
それを一緒くたに考えているのは消費者であり、そもそも当事者にしてみれば議論そのものがナンセンスなのです。
簡単に言えばお金が目的か否かという決定的な部分で違うのです。
芸術を志しながらお金の心配をする人はさっさと商業藝術と開き直りなさい。
道を追い求めしものより。
深夜テンションで書き上げた長ったらしいだけのポエムを読んでくださったようで、まずは感謝です。
感じ方は人ぞれぞれで良いのですが、こちらの書き方が良くなかったのもあり齟齬が生じている部分が有りまして、そこだけ訂正させて頂けたらとおもいます。
そういう意味で http://anond.hatelabo.jp/20151020032308 の
ここで指しました「アイドルたち」は、「自分がプロデュースしているアイドル」ひいては「アイマスというコンテンツ内においてアイドル活動をしているキャラクター」という意味でしかありません。
また、「アイドルたちは凄いのだ」という言についても、「彼女たちは凄いアイドルだ」という意味だけではありません。
凄いというのは、もちろんtalentであったり、あるいはpossibilityやpotentialであったり、中々言語化出来ないのですが、もっと多義的なものに掛かります。
たとえFランクアイドルであっても彼女は凄い。ファンが一人しかいなくても彼女は凄い。
どうしてそんなことが言えるのか。
プロデューサーたる自分がアイドルに凄さを感じたら、まずはそれでよいのです。あとはその凄さを伝えること。それがプロデューサーのお仕事。
アイドルとプロデューサーがどうやって歩いて行くか、畢竟、アイマスとはそういうものなのです。
アイドルモノとして見た時、やはりこれは異色なのでしょう。
ですから、
あの身内で完結してる感じはアイドルっぽくない
というのは至極真っ当な意見だと思います。でも、ごめんなさい。これはアイマスなんです。
(これは本当に、そうとしか言いようがなくて、それは多分に私の力量不足なのだけど、いつかきちんと言語化出来るようになりたいものです。)
美城常務と武内Pのプロデュース方針の違いはこの「アイドルの凄さ」をどこまで採択するかの違いと言えるかもしれません。
美城常務は目に見える凄さとしての能力の高さや、カリスマ性・スター性のような概念的でこそあれ分かりやすい凄さを求めました。
それに対して武内Pは、そもそも実在するかわからなくても、自分が感じた凄さを信じるプロデュースをしました。
「だって可能性感じたんだ。そうだ、ススメ!」その根拠は?「笑顔です」
アイマス的な王道は武内Pです。ですが、このアニメは常務の考えも否定しませんでした。
武内Pに見えなかったが常務には見えてる星がある。あるいはその逆も。
常務的な考え方でもって「アイドルたちの凄さ」に共感できなかった人間もいれば、武内P的な視点でもって「アイドルたちの凄さ」を感じ取った人間もいる。
主観なのですからこの差は埋めようがありません。しかし互いにそれを否定しあうこともありません。
もしかしたらいつの日か平行線を飛び越えたアイドルの凄さを目撃するかもしれませんから。
結局何も訂正してないですね。ごめんなさい。
ドーモ、信者です。
最終回、とても良かったと思いました。
これまでの総括として、また、これからのはじめの第一歩として非常に良い物を見させてもらったなと。
そうです。このアニメははじめの第一歩なのです。最終話を経て、我々プロデューサーはバトンを託されました。
シンデレラガールズはこれからも続いていく、広がっていく、進んでいく。そのプロデュースは私達がするのだと。
そう言われた気がして、最終話によくある喪失感・寂寥感ではなく、多幸感と高揚感に包まれ最終話を見届けました。
さて、全話数を語ろうとすると時間もスペースも尽きないので、25話にのみ限って簡単に語らせていただきたいと思います。
25話で描かれた、シンデレラの舞踏会、これはただのライブではありませんでした。
しかし、この混沌としたイベント形式にこそシンデレラガールズらしさを感じました。
フェス形式のイベントではすべてのステージを見ることは出来ません。それはつまり見ていないところでも何かが起こっているということでもあります。
モバマスにおいて、すべてのアイドルをプロデュースすることは時間的にも財力的にも不可能です。だから大抵は担当を決めてその子を集中的にプロデュースしていく。
では、担当ではない子は?それは見えていないだけであって、どこかの誰かの前で何かとっても魅力的なことをやっているのです。
そうこうしてると、舞台裏で美城常務と武内Pの最後のポエムバトルが始まりました。
何を第一義とするかで根本から異なる二人は終ぞ平行線のままでした。しかし、アイドルはその平行線すら越えて行くと答えます。
この言葉に、アイマスというコンテンツがどうしてこんなにも強いのか、その一端を垣間見た気がします。
美城常務と武内P、どちらのプロデュースが正しいのか、このアニメはその決着を付けませんでした。どちらも正しいのです。
そして、二人は和解まではしなかった。和解なんて必要ないのです。ただ必要なのはアイドルたちは凄いのだというコンセンサスのみ。
なんとも力強い宣言ではないでしょうか。
ライブシーンです。
遂にきました「生!ハム!メロン!」そして、3話を踏襲した演出でありつつも、その時は見えていなかった観客の表情がしっかりと見えている。
これだけでもう十分です。泣きます。
フル尺のダンス?デレステで見れる。そんなことよりも、袖から見守る美嘉や、ステージを終えて「いい笑顔です」と言われたときの3人の表情のほうがずっと大切なんです。
作画開放的な意味では後半のほうが注目されてるのでしょうか。実際ものすごいカロリーかけてましたし。
さておき、新曲タイトルに@がついてるということだけで、もう感慨深い。また歌詞の中でシンデレラというワードが出てきました。
これは、最初のテーマ曲であるお願いシンデレラ以来。どういう意味が込められてるかはおいおい考察していきたいところです。
カーテンに映るシルエットから始まるステージ演出は劇マスのM@STERPIECE、後半ダンスをせずに並んで歌ってるのはアニマス最終話の私たちはずっと…でしょうのオマージュでしょうか。
(そういう意味では円盤の修正でも体の揺れだとか細かい動きが加わってるくらいでガッツリ動いてるとか無いんじゃないかと思います。)
ライブシーンの合間合間にステージセットや照明器具、客やスタッフなどを描くのはアイマスの特徴じゃないでしょうか。
こういう描写によって、ステージの実在感(夢や幻想の類ではないのだということ)を表現してるんじゃないかと思ってたりします。
それと、指先の動きに本当に力を入れてます。「自分励ますエールに変わる」のとこの智絵里の指先の動きとか、ゾクゾクするくらい良い。
そして、エピローグ。CPには2期生が入ってきて、ということは1期生は解散したということでしょうか。メンバーはプロジェクトの枠にとらわれずそれぞれの活躍をしているようです。
コレです。コレが見たかった。
平行線を越えていくアイドルの可能性、それを追求していくうえでプロジェクトの枠組みにこだわることは小さすぎる。ならば、解散しつつもCPの活動で得たものを胸に進んでいくというこの美しさ。
765プロという枠組みは壊せなかったがためにアニマスでは描けなかった、ミリオンでもSideMでも描けない、346プロというもうひとつ大きな枠組があるシンデレラのみが描きえたエンディングです。
先輩から受け継いだ衣装で歌うのはお願いシンデレラ、すなわちシンデレラガールズとして最初に出たテーマ曲です。
自分たちをシンデレラガールズと呼び、この曲を歌うことで、1話に再帰するとともに、その先にも遥かに続く大きな流れを想起させます。
こうして、アニメシンデレラガールズは終わりましたが、シンデレラガールズというコンテンツは歩みを止めません。
自分の見る店では飲食物の隣にはないとかエロコーナー自体がなかったりとか色々。
そこは良く考えなければとも思うし、様々な商品を手狭で扱う店である以上仕方ない部分もあるのではとも思う。
よく読んでくださいね。
メッセージを含むかどうかは関係なく、依存症の親を持っているとか多少特殊条件かも知れませんが、それが原因で暴力などに繋がるルートはあります。
というかメッセージを含んでいないとか言うのであればエロにも娯楽以上のメッセージは入ってないと思いますが。
酒煙草とエロの直接関係性で話をしてるのではなく、コンビニにおいてある年齢制限物、それにより何かしらの被害や、嫌悪を想起させる物として同列の比較をしてるだけです。
元記事で嫌悪側の偏見差別混じりの事情だけ語られてたから、こちら側の事を書いているのですが。
結局コレなんだよな
元記事の方から嫌悪という物差しでこちらとそちらを線引きして書いてあるから、それじゃどこまでも平行線だと書いてありますが。
http://ninicosachico.hatenablog.com/entry/2015/10/02/094612
読んだ。ブコメでそれはどうよと書こうとしたけど全然はみ出た。
表題通り「嫌だな」という気持ちに、ああそうだね 申し訳ないねと思う事はあるが、
だから今より更に隠そうとかどうにかしようとかカード式にとかいう話には全く賛同できない。
加えて、このエロを好む側と嫌悪する側とで線引きしてどうよ?って言ってる以上、どこまでも平行線か、より札束ビンタした方が勝つだけという話にしかならないと思う。
まずこの「嫌だなぁ」からの話読んでてコンビニなら「酒」と「煙草」に置き換えても同じじゃんと思った。
我慢できたけど目に入ったから後々イライラで子供が当たられる。
若者が酒買って店の前でウェイウェイ騒ぐ。
他にも酒煙草にまつわる不快なことなんていくらでもあるし、子供の時トラウマ植え付けられたら同じく蘇るだろう。
でも大多数が求めてるし!とかココで数の正義を持ち出すのであれば店にもよるけど、男性客が多くてエロ本置いてる店舗ではエロ置くが正義なのだから黙れになってしまう。(現状はそう)
コンビニ誌は既に書店売りの物と比べれば馬鹿馬鹿しいくらい内容など自主規制をしている。
表紙もエロいらない層からすれば刺激的かも知れないが、直接的な表現は避けられている。
他にも注意◯回で休刊・廃刊とか復帰不可な規制だってあるから慎重に配慮のマージンも取っている。
極端な話、規制がなければ近所の学校の制服に酷似した衣装を来た娘がはだけてるのを表紙にし、伏せ字で近所の学校や有名校の「女子高生」と直接的表記をして作る事だってできるし、胸・お尻・水着どころか、乳首・性器押し出してだって作れるでしょ。(お国的にモザイクだって記事で出てる外国と比べりゃ変な規制だし)そういう表現の方がコンビニでエロ買う層には売れる。(まぁやったら結果、外圧での規制は強まると思うけど)
一般的に販売スペースを隅に小さくしていっているのだって配慮だろう。(酒とか煙草なんて、年齢制限掛かってようがガンガン展開して売ってるのにね)
で、その配慮の結果が全てかは別としても売上が落ちて来ると直ぐに仕入れを切られ、全国的には成人誌スペースすら削られてるコンビニも増えてきてる。
個人的には配慮しろ→した結果売上減→売れないのが悪いから切られるってのも酷い話だなと思うよ。
ただそれでもコンビニに置くことのメリット(売上)があるから自主規制や元記事のいう「嫌だな」にもなるべく配慮してやってる。(全部が全部かはしらんけど)
そして提案のカード販売式だけど、嫌悪層・決まって買う層からしたら、そりゃ平和な解決策だと思うけど、制作側からしたら表紙は唯一のセールス点なのよ。
エロ本なんて特に前述のように場所隅だし小さいしだし、他のメディアやポスターとかで大々的に宣伝できる訳でもないんだから、本当に唯一が表紙なの。
カード式などで表紙画像小さくするとかなしにして、代替になる物ってある?
代わりにフライヤーや煙草と同じようにレジ横に置いてくれる?無理でしょ。
その唯一アピール削って売上減→売れないし置かないねになったら…というかなるけど、それは結局気に入らない方力づくで潰してるのと変わらないと思うけど。
あと雑誌とか本は基本委託販売なので、他の仕入れと違って売れなかった分は丸々出版社が持つの。
その上で置いてやるけど一切主張するなって事でしょ?
エロ嫌い層からしたらそりゃ結果根絶コースで万歳だろうけど、好きな層とか制作側からしたらたまらないよ。
無法地帯でやりたい放題やって規制なら仕方ないと思うけど、現状ホントに馬鹿みたいに自主規制してる(コンビニ誌は)中で、感情面でどうにかせよって言われても、その段階的な声を逐一受け入れたらなし崩しで完全規制根絶コースなので賛同できないし反対。
というか現状がその度々くる嫌悪の声に対応してきてコンビニ誌に関しては規制配慮は強くなっていってる。
あとエロがふつうに入ってくる日本は異常だ、外国ではってのもあるけど、外国で酒煙草が自販機とかでも時間制限なく買えるし、ガンガンCM宣伝やってたりする国も珍しい方じゃないの。
元記事のはエロから遠ざかる権利って書いてるけどエロ無いコンビニもあるし、隅の方に小さくなんだから、遠ざかりたければそれこそ近づかないで、互いに仕方ないねで妥協し合えば良いのに。
そちらの事情はそちらだから雄弁と主張するけど、こちら側の事情(規制の推移とか)はまったく調べもせず「嫌だなぁ」で括られるのもたまらないね。
個人的にはエロ嫌悪組は嫌だから調べもしないでとにかく視界から消したい。の結果どこまで配慮しても要求が強くなる印象がある。
って何よ?
22歳にして俺にも初めて彼女が出来た。
出会って1ヶ月半で付き合って10日位なんだが、付き合ってる感じがしなくて困ってる。
話は合うし一緒にいて楽しいと思うんだけどどうにも友達感覚が強すぎて、キスしたりエッチしたりとかに全くなれそうもない。
俺は彼女のことが好きだと感じてるけど、彼女は俺のどこが好きなんだろうか全く思いつけなくて辛い。
彼女は忙しい人だから週に1回くらいしか会えないし、LINEするのもなんだか憚られてしまう。
誰かと付き合ったら、人生すごくハッピーな感じになって少しのストレスもすぐに吹っ飛ぶようなものだと思ってたけど、逆にいろいろ考えてすごく消耗してる自分がいる。
別れたいとかは思わないけど、なんかこのまま妙な友達感覚のまま平行線をたどっていってしまうのではないかと思うとすごく苦しい。
彼女に好きになってもらうためにどうすればいいんだろう。
たとえば北斎も肉筆だと
http://fast-uploader.com/file/6995210605446/
こういう写真かよ!っていう絵を描いているんだ。
なんで生首?
うーん、ほら、生首の絵の扇子で扇いだら涼しくなりそうじゃん(笑
単体ならっていうのは、透視遠近法みたいな絵がないっていうことかな?
有名な冨嶽三十六景は70代の作品だが、30代で既にたとえばこんなやつがある。
http://fast-uploader.com/file/6995210740539/
カンペキだね。
これと似たような構図を年代順にならべてやる。
http://fast-uploader.com/file/6995211010479/
70代
http://fast-uploader.com/file/6995211188891/
これ、よくみると、消失点が1点にならない。
左右の橋の梁の平行線を伸ばしてぶつかる消失点は水平線の彼方、両脇の屋敷の屋根の平行線を伸ばしてぶつかる水平線は橋の下かその少し奥。
これが、忠実な一点透視だったらつまらない作品だったとおもわん?
絵の中に動きがあるのは、ちょっと崩れてきてるおかげ。
80代
http://fast-uploader.com/file/6995211441686/
ぱっとみ同じ構図の一点透視のようで、二点透視にも見え始め、仰ぎ見てるようにも見えたり見下ろしてるようにも見え、ってことは三点透視かとおもいきや、そもそも透視図法(平行線がいつか交わる)じゃなくて投影図法(平行線はどこまでも平行)なんじゃないかと見える。
一番手前の人物にフォーカスを合わせるとそういう絵になり、その奥の人物にフォーカスを合わせても絵としてなりたち、人物を辿ってるうちに奥に奥にと視線が誘導され、そのたどる先には富士山。
多重視点というのは、「ピカソの絵は右から見た絵と正面から見た絵が合成されていて」みたいな説明をされるあれ。
ピカソの作品はそれだけじゃなくて、いろんな意味で工夫させすぎてて、話が脱線してしまうので、わかりやすくキリコ
http://www.geocities.jp/syu_58jp/we2/1.JPG
この絵のようなやつ。
http://www.geocities.jp/sakushiart/bizu/251.JPG
線遠近法的に忠実に描くと、
http://www.geocities.jp/sakushiart/bizu/252_4.JPG
こうなる。
人物やモノ画中にたくさん配置して、奥のモノ、人物は小さく、手前の物を大きく描くことで絵の中の遠近を表現するっていうのは、基本ではあるが、
それをやめて、横一列に均等に配置することで、絵にリズムが生まれる
これについても、似たようなことを既にやってる北斎
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-94-64/otyaken_suki69/folder/1050996/44/47018044/img_8?1382279701
なんというリズム感。
これ、どこがおかしいかわかる?
シャチホコってさ、近くで見ると当然巨大じゃん。そうしたら、本当は
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0a/The_Great_Wave_off_Kanagawa.jpg
波をシャチホコに置き換えたら富士山はこのくらい小さくないと絵としておかしい。
この構図になるのは、望遠レンズでズームで覗いてるという設定の絵だっていうこと。
http://pds.exblog.jp/pds/1/201011/22/10/b0111910_1061561.jpg
http://tenkijuku.com/qa/kisyoudai/hugoku.jpg
当然もう残っていないけど、百二十畳の巨大な紙に、高いところからみないとなんだかさっぱりわからん巨大な絵とか描いたっていうんだ。
そういう高いところからみないとなにを描いているんだか本人もわからない絵というものは、「この座標でこの角度で線を曲げて」っていう座標の概念がないとどうやっても描けないわけで。
北斎というと、80過ぎてるのに110歳くらいまでの人生設計(当然自分の画力について)を立てる貪欲さで、当時の平均寿命の倍くらい生きてるのに死ぬ間際に「まだまだ描きたりねぇ(意訳)」といって死んだというエピソードが有名なので、描いて描いて描きまくったというイメージが強い。
しかし、その実際は、それプラス、数学も物理も幾何学も絵に応用して、古今東西、みたこともないものだろうと文献調査だけで描き(中国くらいならまあ、古代インドとかどうやって描くんだよ!!見たことないはずの象を右からも左からも正面からも後ろからもかけるとか、どうかしてる。)、漫画の効果線やトーンのかなりを発明し、その後の絵画の歴史で発明された技法をその100年前に実験しつくし、鎖国の時代なのに西洋の銅版画や油絵の解説書をつくり、中国画の技法も日本画の技法も操り、いうなれば、異星人。
まあつまり、線遠近法は北斎より少し前の時代に入ってきたんだが、カンペキに理解をしたのが北斎。
自在に使いこなし、それを捨て去り、違う境地、もう前衛芸術の実験のようなレベルに高めたのが北斎。
その後は幕末、文明開化で西洋画が入ってきて、もう一回遠近法ブームが起きて、
みたいなムーブメント。
油絵が始まり、浮世絵(版画)の絵師たちもそれに近い木版画を作った。
初めてやったのは小林清親って人で、水彩画風の版画、ついには油絵風の版画まで辿り着くが、結局彼の画風はいわゆる浮世絵的な絵に戻る。
写実的(性格な遠近法、陰影表現)ってのは、いちどはそれに熱中する麻疹みたいなもの。
その後の時代だと、吉田博、川瀬巴水とかが水彩画のような木版画で有名だが、小林清親は浮世絵の構図、モチーフを水彩画の手法、油絵の手法で再構築した感じなのに対して、吉田博、川瀬巴水は洋画を木版画にしましたって感じだから、浮世絵や日本画の子孫じゃあないと思う。
吉田博
多分本人はなんで炎上しているのかよくわかってないと思うんだけど、炎上の理由は森本氏の勘違いによるものだと思う。
その勘違いとは、「世の中の人も自分達と同じように、名誉やお金を抜きにしてでも純粋な気持ちで取り組みたい仕事がある」というものだ。
違う。世の中の大多数の人は、お金や名誉や生活の為に仕事をしているのだ。
森本氏は「クリエイター達は、お金や名誉のためじゃなく、デザインを愛する純粋な気持ちを持ってこのコンペに望んだ」ということを
言いたかったんだと思う。そしてそのことを伝えれば、みんなが理解してくれると思ったんだと思う。
でも、世の中の大多数の人はそれを理解できないのだ。なぜなら、仕事を愛している人なんてほとんどいないから。
全身全霊、お金や名誉と関係なく取り組める仕事なんて、みんな経験したことがないし、しようとも思っていないのだ。
だから多くの人は「オリンピックのロゴコンペという大舞台で、金と名誉のために盗作したんだろう。」と思い込む。
世の中の人は、風立ちぬの堀越二郎ではないのだ。仕事に対して、純粋で美しい気持ちなど持ち合わせてはいない。
おそらく、多くのクリエイターも森本氏と同じような勘違いをしている。
なんか妻の言うところの恋とか愛とかいうのがわかってないっぽい。
ペットとかに注ぎ込む感じの類の割と上からっぽい愛情とか、子供かわいいなあとか、
そういうは感覚としてわかるつもりなんだけど、異性を恋人として~みたいなのがどうもよくわかってないんじゃないかと自分でも思う。
妻から
「あなたは友達としてはすごく面白くていい人だし、あなたのことは好きでいたいと思うけど、
恋人や夫婦としてあなたと一緒にいると愛情が感じられなくてツライ。
それがたとえ病気(発達障害)のせいだとしても、もうしんどい。」
と言われてしまった。
「好いてくれてるのはよくわかるんだけど、なんか違う」と言われてしまったが、
でももう精一杯表現しているつもりなのでこれ以上どう表現すればいいのかわからなくて『?』を浮かべてしまう。
週末に、泣きじゃくる妻をなだめながら、
何が問題点なのか探ろうとして色々話したり紙に書いたりしたけど、問題の発生パターンとしては
妻が「愛情があれば当然こうしてくれるだろう」と期待している行動を俺がとらないことで妻が疑問や不満を持つ。
↓
妻から「なぜこうしてくれないの?」といったことを言われるが、
なぜそうしなければいけないのかがさっぱりわかってない俺が「えっ?なんで?」といった質問を返したり「○○だからこうしたよ」といった返事をする。
↓
まさかそんな(当然だと思っている)ことで必要性をそもそも理解していないっぽい返事がくるとは思っていなかった妻が混乱したり諦めたりする。
みたいなことが日常の中にありすぎるらしい。なるほど、確かに疲弊しそう。
色々話してわかったのは、
「妻が抱く感情の中に、俺が理解できていない感情があるっぽい」
「妻は何か俺がしているのとは別の形での日常的な愛情や好意のアウトプットを求めている」
「教えてもらうと表面上、妻の求める愛情表現のフリはできるが、根本的な部分がわかっていないのですぐにボロが出たり、
かなり俺が我慢を強いられる形になってストレスを感じたりしている様子を見て、
妻は『ああ、わかってないんだな』と感じて愛情がないように感じたり、余計むなしくなる」
「言えばすぐやってくれるけど、言わないとやってくれないんじゃ意味がない」
といった感じ。
そしてそんな状況だったのに
「(発達障害が判明したり給料が下がったり)課題は色々あるけど二人仲良く幸せに暮らしている(未来は明るいゼ☆)」
俺としてはなるべく一緒に過ごす時間を増やすようにしたり、娯楽を楽しんだり、
ちょっとしたことで気を遣ったりねぎらったりみたいなことをしてきたつもりなんだけれど、
うーん、やっぱり妻の言うような恋人と友達の差とやらが俺にはよくわからない。
恋人=セックスしてもいい仲のいい友達で、不義理なことをすると何らかのペナルティがあるもの
といった形で、恋人も友達の延長線上のもので、立場に名前がついてちょこっと昇格した感じだとしか認識できていないのがそもそもダメっぽくて、
なんか妻と話してると、『恋愛感情』と『友達として好き』の間になんかよくわかんないけどすごい断絶があるっぽいんだけど、俺の中でそこは完全に地続きだ。
思えば、あの子が(恋愛的に)好きだ、みたいな主体性あふれる感情をあんまり持ったことが、まだないのかもしれない。
いつも、その時一番仲良くしてた女子からある日突然告白されて、彼女の枠が埋まってなかったら受け入れて、
でもまあ俺の側の関わり方は別に変わらなくて、キスやセックスとかするようになったのと、一緒にいる時間が増えたかな?みたいなパターンばかりだった。
物語の中で出てくる恋愛表現も、登場人物の感情の動きや行動原理にこれっぽっちも共感できなくて、みているのが苦痛になることが多い。
そんなノリの交際を8年ほど続けて、年齢的なこともあるし世間的には結婚ってのをするのがええんやろ?っていう気持ちで結婚してしまったのが失敗だったのか?
結局、二人でいくら話をしていても、根本的なところが理解しあえなくて平行線なので、
間に立つ人を用意しないと話し合いが成立しないから無駄だね、というところに落ち着いて、その後仲良く外出した。
なんかこう、圧倒的に俺の脳が未熟なのかなあ……。
そして過去の経験上、問題の存在を認識できたから、何年か悩んでればある日突然視界が開けるような感じでその悩みポイントだった感覚を理解できるような気もするんだけど、
いつ来るかわからないその瞬間を待ち続けるような時間はあまりなさそうだなあ……。
どうしたらいいんだろう……。
なんか付き合い始めた高校生の頃から先延ばしにし続けたしょうもないスレ違いみたいなところで悩んでる感じがする。
実は言うほど大したことじゃないのかもしれない。
ずっと恋愛関係については俺が一方的に変なんだと思ってたけど案外そんなもんっていう事例も多いみたいだし。
でも妻は心身症発症しまくってるぐらいだからだいぶ思いつめてるみたいだし。どうしたものか。
20代後半にもなって恋愛相談に医者を使うっていうのも結構恥ずかしいことのような気もするけれど……。
確かに3年ぐらい遠距離になったけど特に大した苦も無く続いた気がする。
「そういうスタイルの愛の形もあってええねんで、それも立派な『愛』やで」っていうのをお互いが受け入れられるかどうかなのかなあ?
トラブルになる可能性の高いブラッククライアントについて、見分けるための特徴を少しだけ書いておく。
「スーパーブラック」は制作費を踏み倒される可能性が高く、「マイルドブラック」は制作費に見合わない可能性が高い。
こうして並べてみると「当然だろ!」と言ってしまいそうだけど、上記に当てはまるクライアントは珍しくない。
特に「契約書等を交わさない」などは、小規模~中規模程度の会社だと普通。
メールや電話で依頼されて、見積書→制作→納品→請求書って流れで。
最初は人当たりの良いクライアントも多く、ついつい信用してしまいがち。
でも少しでもトラブルが起きるとブラッククライアントに豹変する。
独立したばかりの頃は、上記のブラッククライアントに遭遇する可能性が高い。