はてなキーワード: 純愛とは
残念だがそれほど人気がない。
俺は英国在住のおっさん。年始にロンドンで見たが、そもそも上映している映画館が少ない。毎日上映している映画館はロンドンで2-3か所。860万人住んでいるのに。
月に数回上映がそのほかに数か所。以上。ザッツオール。公開後1月以上経過しているから減ったのだろう。
客の入りは5割くらいで、そのうち6割がイギリス人、4割は東洋人。中国人韓国人日本人。
イギリスのメディアが君の名はを絶賛した、という記事は俺も見た。口コミサイトの評価も見てみたが、非常に良い。
更には上映後のイギリス人の反応を観察してみたが、満足そうに見えた。
ゆえに入口でのハードルなのだろう。ただし内容について「感動」「ラブストーリー」というよりは「展開が早く引き込むストーリー性」「映像の綺麗さ」が評価されているように思う。
若者のラブストーリーである「君の名は」がイギリスでアジア圏のようなヒットにならない理由は以下のように推察している。
今でも完全にそうです。宮崎アニメのように家族で見に行くならともかく、ラブストーリーをアニメで見ようという発想は世間の若者に全くないように思うし、他人に知られたら恥ずかしいことと思われる。
なお本作では奥寺先輩が煙草を吸ったり、瀧が酒を飲んだりするので12歳規制がかかっている。
作品にのめり込めるか、一番重要なのはこの点だと思う。瀧が三葉が男性として女性として魅力的に描かれているか。
多くの日本人には、瀧はイケメン、三葉は高校時代は可愛く大人時代は美人、という設定に異論はないと思う。
欧米人から見ると、経験に基づく推測だが、瀧も三葉も体が薄っぺらすぎる。
瀧は本人のときでもかなり「中性的」に寄っている。欧米人からジャニーズは中性的な子供に見えるということと同じである。
(3人組のうち)高木くらい男くさいほうがいい。イギリス人は瀧に対してこう言いたくなるだろう。「もっと肉を食え、ラグビーで体を鍛えて、女性を守れる男になれ、髪形もベリーショートかリーゼントにしろ」(適当
三葉は単純に子供に見えていると思われる。もっとグラマラスな魅力が出てこないとラブストーリーの主人公という雰囲気が出てこない。シャイな性格もマイナスだ。瀧の三葉くらい気が強いほうがウケる(作品内でもそうだったが)。
イギリス人のラブストーリーは顔を0.3フィートくらいの距離まで近づけてロマンティックな言葉を囁きあう感じなので、瀧と三葉の恋愛動作は非常に幼く見える。こちらの高校生は結構オトナである。
山頂で出会うシーンもイギリス人なら、強くハグして、濃厚なキスをして、0.3フィートである(超適当)。名前を書きあっている場合ではない。出会って3秒でハグキス0.3フィートである。高校生にそういう描写が許されているのかは知らない。
ラストシーンでいったん声をかけずにすれ違ってしまうシーンには、階段の一番下から大きく手を振って「Hey!!!, I think I met you sometime and somewhere!!!」と大声を出さないのか不思議であろう。奥ゆかしさは理解されてもそこから生じる感動は理解されないと思う。実際に泣いている人は少ししかいなかった。クライマックスの「すきだ」も字幕だからね。手によくわからん文字が書いてあって字幕でI love you。ちょっとねえ。
日本人のおっさんである俺にとってどうだったかというと「超面白かった」。イギリス、日本、機内の計3回も見てしまった。最初に見たのは機内だったが、中年のおっさんがうるうるしているのを見てCAさんはドン引きしていたことであろう。少し気になるのは日本での作品への「評論」である。確かに整合性がおかしいところは多い。私は3年のずれに気づかないことよりも、この広い宇宙で隕石が1200年周期で同じ場所を直撃することのほうが超天文学的確率というか、分母が10の何乗になるのか、そのほうがずっとありえないと思いながら見ていた。変電所の爆破は中部電力に連絡が行ってしまったので町を救ったからお咎めなしになるものではあるまい。ああいう会社は融通をきかせるのが難しい。テッシ―の「髭剃れ」の話は収監されていたから?などとも思った。しかしながら、内容の整合性に難があってもそれ以上の魅力で引っ張ってくれれば私はそれでいいと思う。官僚や銀行員のような減点主義で映画を見てもつまらんでしょう、と個人的には思う。
キネマ旬報のベスト10がどういう選考基準なのかHPを見てもよくわからなかったが、アジアで数千万人を引き付けた映画よりも、日本映画だけでも10個も上位があったら、それって大ニュースなのではないかと思う。売れる映画と良い映画は違うというのは一部分かるが、それよりはもっと簡単に説明できる言葉があるのではないか。スノビズム。大衆は見る目がない、ということだもの。
同業の監督や評論家の「売れる要素だけ詰め込んだ」とか「モチーフがありきたり」の批判に対しては、おっさんは長く生きているので、30年前の「ノルウェイの森」騒動を思い出す。「100%の純愛小説」と付けてクリスマスカラーで売り出した同書は「君の名は」と同様に爆発的に売れ、今ほど有名でなかった村上春樹をスターダムに押し上げると同時に、評論家から「誰でもかける薄っぺらい通俗小説」「ありきたりの三角関係」などの多くの批判が浴びせられ、その騒動で村上春樹は心を痛めて日本を離れた。彼の作風にも影響が出てしまった(軽妙さが失われた)と思っている。
友人にどうしてもと誘われて「君の名は。」を見に行ったが激しく嫌悪感に襲われた。
言いたいことは山ほどあるがそれぞれ大体言及されているから改めて言わないとして、とにかくもういい加減にしてほしいのはロリコン教育アニメはもうやめろということだ。
宮﨑駿が散々に使い潰した、思春期女子による性の目覚めを繊細な心理描写と褒めそやす文化にはもううんざりだ。
それでいて皆が美しいと褒めるのは性に目覚める前の純粋さである。
大人の女性を引き合いに出して、まるで汚物のように描くのはほんとうにどうかしている。
これだから日本人は女性が性に目覚めることを汚らわしいことだと信じて、いつまでたっても処女性が重宝されてしまうのだ。
江川達也が宮﨑駿に対して鳴らした警鐘の意味を理解していないとは言わせない。
宮﨑駿が去った後、庵野があれほどまでに処女神話を打ち砕いてくれたと言うのに新海誠なんぞという空気読めない男がまたしてもやらかしやがった。
まさか新海作品に巧妙かつ山ほど詰め込まれていたエロとバイオレンスを見逃したはずはないだろうな。
異性への興味、性器への接触、三角関係と略奪愛、BL、百合、大人への憧れ、大人同士のワンナイトラブ、口噛み酒の白濁とした変態性、よつはへのペド性、数え上げればキリがないが、断言して言えることは純愛は一つとしてなかったということだ。
(主人公同士の恋愛は吊り橋効果だと断言して良い。少しネタバレだが、彼らの恋愛が目覚めたのは会えなくなったことが直接の要因になっているからだ。)
でなければ途中からみつはがブラを付け始める書き分けはいらなかったはずだ。
あれは女性の心理的変化や成長を描くための演出ではない。お前らを落胆させるためだよ。このド腐れロリコン野郎どもが。
エロゲには泣きゲーというジャンルがある。傾向として18禁要素は少なく、その必然性が薄いこともままあることから時にエロ不要論が主張されたり、あるいは泣きゲーはエロゲではないと揶揄する人もいるジャンルである。
しかし「一般に、泣いたあと人間は気分がよくなる」(ウィリアム・フレイⅡ『涙―人はなぜ泣くのか』)。快楽を得ながら体液を体外に排出する行為をエロと称するのであれば、その意味で泣きゲーがエロゲの一ジャンルであることは間違いない。
泣きゲーはある日突然出現したものではなく、それはどうプレイヤーの涙を誘ったかの技術の積層であり、様式の歴史である。個々の作品論は星の数ほど存在し語り尽くされてきたが、この歴史という点での言及は少ない。当時それは歴史ではなくリアルタイムだったのだから、当然といえば当然ではあるが。
2016年現在、エロゲ論壇は死に、泣きゲーが語られることも少なくなった。
だが、だからこそ、最初からぶっ通してやり直してみることでその変遷について、その後に何が継承されていったのかという点で俯瞰することが出来るのではないか。
ということでやり直したので、増田に書きなぐっておく。
そもそもエロゲの目的は何かといえば、もちろんエロである。主役はエロCGであり、脇役に過ぎない物語の出来を評価する者などいなかった。
その様子が変わり始めるのは80年代後半、『リップスティックアドベンチャー』(フェアリーテール,1988/5)辺りからである。エロゲが一つの娯楽物語として成立することが示されたことでプレイヤーはその物語性に目を向け始め、脇役だった物語はSFやホラーなど様々な要素を取り入れていく。その一つが「感動」であった。
例として、早くも1991年の『ELLE』(elf)に対して「ホロリとした」という感想が存在する(小林義寛『ゲーマーはエロと戯れるか』)。泣ける物語かというと微妙だが、今プレイしても確かに面白いSFエロゲであり、感動的要素が含まれていると言える作品である。
人は感動すると涙腺が弛むことがある。逆に言えば、涙腺が弛む種類の感動がある。この点での先行研究として米沢嘉博の『マンガで読む「涙」の構造』があるが、そこで昭和の泣ける少女マンガ、少年マンガを分析した米沢は、女性は不幸における愛と感動の物語に泣き、男性は友情、努力、勝利の感動に泣く、としている。
男性向けであるはずのエロゲはしかし、何を血迷ったか「不幸における愛と感動」を物語に取り込むことに成功する。
『DESIRE』(C's ware,1994/7)、『EVE』(C's ware,1995/11)、更に『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(elf,1996/12)と傑作を連発した剣乃ゆきひろはいずれも物語の中核に少女の悲劇を配した。それは壮大かつ感動的な物語の帰結としての落涙をしばしば生み、その感想に「泣いた」というものが少なくない。
さらに『同級生2』(elf,1995/1)の桜子シナリオにおいていわゆる難病物がエロゲに導入される。それは当時十分に涙を誘うものであったとして、これが泣きゲーの元祖だとする説も存在する(小林,前掲)。
努力・勝利の感動が無かったわけではない。例えば『闘神都市2』(ALICESOFT,1994/12)は自分の無力さが生んだ悲劇をきっかけに、強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す物語であり、高く評価された。……しかしそこにはやはり「悲劇」がつきまとっている。
「不幸における愛と感動」は、こうしてエロゲで広く受けいれられていく。
難病物は概ね、主人公とヒロインの仲が深まるにつれて病状が悪化する展開をとる。これを病気に限定せず、「不幸」に一般化したものを涼元悠一は「萌やし泣き」と呼ぶ(涼元悠一『ノベルゲームのシナリオ作成技法』)。ヒロインとの幸福な日常をまず描いてから一気に雰囲気を暗転して二人の不幸な状況を綿密に描写、涙腺の緩んだプレイヤーに最後の一押しをするという、泣きゲーに慣れた人にはお馴染みのそれである。
この萌やし泣きは、しかし突如エロゲに登場したわけではない。
前述の闘神都市2には、ごく短いが構造上萌やし泣きと解釈しうるイベントが存在する。同級生2の桜子シナリオは難病物である以上もちろん萌やし泣きだが、その不幸描写は非常に短く、またオチが「主人公の勘違い」というギャグである。それは手法としては古くから存在しており、変わってきたのは、それを物語上どの割合で展開するかという点であった。
1997年5月、それが一つの分水嶺を超える。『ToHeart』(Leaf)のHMX-12マルチのシナリオは、萌やし泣きを1ルート全てを費やして実現した。
おそらくこれが(エロゲ上で)萌やし泣きの威力が十分に発揮された最初の例だろう。彼女の物語は感動的な場面をクライマックスに据え、それ以外の要素――ギャグも皮肉もセンス・オブ・ワンダーも滲ませること無く、ストレートに終わった。そのシンプルさに価値があったと言え、本作は多くのプレイヤーから「泣いた」と絶賛された。
そしてもう一つ、作り手の意思という点でも分水嶺を越えたものが登場する。『MOON.』(Tactics,1997/11)が「鬼畜サイコ涙腺弛まし系ADV」と自ら名乗ったことは、その後の歴史的意味でも強く象徴的である。もし泣かすという意思で作られたものを泣きゲーと呼ぶならば、その明示という点で最初の泣きゲーは本作と言うこともできるかもしれない。
MOON.は大量のエロシーンを擁し、エキセントリックな人物造形も無く、萌やし泣きでもない。後の作品よりも本作が泣けるし好きだという人もいるが、多くの人を確実に泣かせる威力に本作があと一歩不足したことは事実と思う。
とはいえエロゲはついに、プレイヤーを泣かすことを主目的とし始めたのである。
ToHeartで泣かせる物語構造が確立し、MOON.で泣かす意思が示され、そしてそれは『ONE』(Tactics,1998/5)において結実する。MOON.のスタッフが作ったそのエロゲには、萌やし泣きが全ヒロインのルートで導入された。
当時の多くのプレイヤーにとって、それは致死量だったと言っていいだろう。
本作はMOON.と変わって18禁要素は非常に薄く、無くても物語は成立する。物語は全ルートで感動と涙が目的に据えられ、それしかない。にも関わらずこれがプレイヤーの絶賛を浴びたことは、「泣かせること」がそれ単独でジャンルを成立させられることを示していた。
今やり直してみると甘い部分も多い。しかし『sense off』(otherwise,2000)、『それは舞い散る桜のように』(BasiL,2002)など、本作の影響下にありつつも秀逸な作品がのちにいくつも生まれたことを考えれば、その影響力と価値を軽んじられる者はいないだろう。
6月、MOON.を作りONEを作ったチームは独立してKeyと名乗り、『Kanon』をリリースする。これがどれだけの信者を獲得したかは言うまでもないだろう。
特に技術的な面でKanonはONEよりも洗練されている。OPとED、泣かせるための特殊演出などのソフトウェア面はもちろん、泣かすための専用BGMが用意された、という点も大きい。1997年の『アトラク=ナクア』(ALICESOFT,1997/12)は物語のクライマックス、その絶望的状況下で「Going On」が初めて静かに流れ出すことで異様な精神的高揚をプレイヤーに与えたが、これが事前に何度も使われていたら効果は半減していただろう。これと同様のアプローチをKanonは泣かすという目的で採っている。
Kanonから3週間後に発売された『加奈』(D.O.,1999/6)もまた、この時代の泣きゲーの金字塔である。ONEやKanonが物語を中盤過ぎまでギャグで埋め尽くしたのに対し、加奈は10年以上に渡る兄妹の闘病生活を正面からシリアスに描いた難病物である。リアリティのある物語という点で「新しい」泣きゲーだったと言え、今なお評価は高い。
――一方で、ToHeartもONEもKanonも加奈も、悪く言えばただのお涙頂戴である。ハッピーエンドは奇跡や幸運によってのみ訪れ、主人公たちは運命に翻弄される無力な存在でしかない。こうしたお涙頂戴は今も昔も根強い人気を誇るが、一方で毛嫌いする人がいることも事実である。
興味深いことに泣きゲーは、これらのお涙頂戴では泣けない人々をも泣かせようとするかのように、別の「泣かせる何か」の模索を少しずつ始めていく。
知名度も低く地味だが言及しておきたい良作として、1月に発売された『Lien』(PURPLE,2000/1)がある。不慮の事故で幽霊になった主人公とその周囲の人々が残された2週間でその死に向き合い、改めて別れを告げる物語であり、主人公が生き返ることは無い。従ってお涙頂戴の文法に則っているが、しかしその最後において、彼らは前を向き、笑顔で別れを告げる。別れは悲しみしか生まないものではなく、人の強さを示すものでもあることをLienは描いていた。
そして9月、Keyのリリースした『AIR』は約束された勝利を遂げる。物語はもちろん難病物で、ヒロインは最後に死ぬ。その死を「ほとんどなんの意味もない」(東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』)とするならば、これは従来通りのお涙頂戴だろう。
しかし、彼女が無意味に死んだことが悲しくてプレイヤーは泣いたのだろうか。
もちろんそういう人もいるだろう。だがかの有名な「ゴール」は、彼女が最後まで努力し、やりきったこと――笑顔で幸福な記憶を全うしたからこそ、泣いた人も少なからずいたと筆者は考える。最後の別れにおいて、彼女は必死で前を向いていた。
悲劇の象徴としての別れの描き方と、それに対する姿勢は少しずつ変化を見せ始める。
ところで萌やし泣きの多くは幸福8割、不幸2割程度の文量配分で構成される(※数字は筆者の体感であり、根拠はない)。これを反転し、幸福を2割以下、不幸を8割以上にするとどうなるか。
MOON.もその一つだが、『DiaboLiQuE』(ALICESOFT,1998/5)や『銀色』(ねこねこソフト,2000/8)など、爆発的に売れることは無くとも鬱ゲーは途切れること無く続いてきた。特に銀色の執拗な鬱展開は秀逸であり、未だ根強くファンがいることも頷けるものである(個人的にはDiaboLiQuEももっと評価されていいと思う)。
そして8月、幸福と不幸がほぼ半々、つまり鬱ゲーであり泣きゲーでもある『君が望む永遠』(age,2001/8)が発売される。
男女関係の修羅場をシリアスに描いたエロゲといえば『WHITE ALBUM』(Leaf,1998/5)が有名だが、そこでは主人公が修羅場の矢面に立たされることはない。対して本作のメインシナリオでは主人公は徹底して矢面に立たされ、主人公が別れを切り出すことでのみ悲劇は終幕する。
誰を切り捨てるかは、プレイヤーに選択肢が突き付けられることで行われる。だからこそ最後に彼らが再び笑い合える可能性が示されることはプレイヤーを安堵させ、涙を誘った。彼らは奇跡によってではなく、心の強さによって悲劇を克服する。
さらに11月、物語の殆どがギャグで占められ、物語の構造自体は従来の萌やし泣きの延長ながら、にも関わらず枠を踏み越えたものが登場する。『家族計画』(D.O.,2001/11)である。
家族に捨てられた連中が偶然集まり、やむなく家族を偽装し、衝突しながら家族になっていき、崩壊し、再び家族になる様が描かれる作品である。加奈やAIRでも家族愛は描かれたが、いずれも兄妹あるいは母娘の二者間に閉じている。対して家計は父母兄姉妹という集団の絆を描く。
襲いかかる不幸は彼らの手によって跳ね除けられる。プレイヤーはもはや誰かの不幸にではなく、茉莉がお兄さんになって下さいと訴え、準が最後にスプーンを咥え、その家族としての努力が実ったことに涙する。
なにより家計ではもはや誰一人死ぬことはない。君望もメインシナリオでは誰も死なない。誰かを失う悲しさだけが泣かせる手段ではない。悲劇に敢然と抗い、心の強さで打ち勝つだけでも人は泣くのである。
……などと枠を広げ、新しい要素を貪欲に取り込むパイオニアばかりではない。泣きゲーというジャンルを充実させたのは既存の要素で構成された作品群である。
例えば『flutter of birds』(シルキーズ,2001/2)は極めて基本に忠実な難病物だし、特定ルートで萌やし泣きを取り込んだ『みずいろ』(ねこねこソフト,2001/4)や『水夏』(CIRCUS,2001/7)、『グリーングリーン』(GROOVER,2001/10)はいずれも好評を博した。またDESIRE同様、悲劇的シナリオの感動としての落涙であれば『腐り姫』(Liar Soft,2002/2)はこの年の作品では秀逸である。
また、集団間の絆も広く扱われていく。
『うたわれるもの』(Leaf,2002/4)ではSRPGというジャンル上の必然もあるだろうが、家族的な仲間との絆が描かれている。『世界ノ全テ』(たまソフト,2002/4)や『ロケットの夏』(TerraLunar,2002/10)は後半こそ二者間が主軸になるものの、いずれも部活を通して仲間と触れ合うことで主人公が成長し、仲間との絆を育むことで成立する物語である。
ONEとKanonとAIRを足して3で割ったような『SNOW』(Studio Mebius,2003/1)、あるいは『てのひらを、たいように』(Clear,2003/1)では、困難に対する仲間の存在がより大きな価値を持つ。その最後は奇跡による解決とはいえ、ヒロインのために仲間全員が努力し、足掻くことでハッピーエンドが訪れる様は「与えられたもの」というより「勝ち取ったもの」という印象が強い。
これらを「みんなは一人のために」とするならば、「一人はみんなのために」もまた登場する。『CROSS†CHANNEL』(FlyingShine,2003/9)である。
ToHeart型のよくある学園物語に始まり、それが綱渡りの上で構築されたものであることが明かされ、ばらまかれた伏線が繋がっていく様は見事の一言に尽きる。と同時にそれは、心の壊れた主人公が何度も失敗しながらトラウマを乗り越え、仲間のために自己犠牲を重ね、それによって心を再構築していく物語である。その実に静謐な最後において、そこで彼が平穏と幸福を遂につかんだことに、タイトルの意味と、そして彼が勝ち得たものが明かされることにプレイヤーは涙を流す。
そして1月、『Fate/stay night』(TYPE-MOON)が発売される。絶望的状況下で静かに流れだす「エミヤ」はプレイヤーに凶悪な興奮を与え、「強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す」展開に涙を流した。
そこに「友情、努力、勝利の感動」があることを疑う者はいないだろう。
泣きゲーというとKanonやAIRがよく話題に出されるが、「泣いた」という感想がC†CやFateにも多く存在することは事実である。と同時に、いずれにも物語の重要な位置に少女の悲劇と愛が配置されている。
そしてこれまで言及してきた「不幸における愛と感動」の泣きゲーに、努力や勝利が全く存在しないわけでもない。その努力が実ったかどうかの差はあれど、必死の行動があったことはどの作品でも紛れも無い事実である。
としてみると、「泣いた」と感想を多く有する作品、すなわち泣きゲーには「不幸における愛と感動」と「友情、努力、勝利の感動」の要素が、両方含まれていると捉えても間違ってはいないだろう。そしてそうだとすれば両者は対立するものではなく、両立するものと言える。
そう捉えるならば泣きゲーの歴史とは、時代によって、作品によって、この両者の配分を巡る歴史だった、ということもできるように思う。
いい加減読んでいる人も飽きただろうし2005年以降は割愛するが、一つ言及するなら不意打ちという手法が導入された点である。
例えばいかにも安っぽいハーレムものとして始まりながらシリアスなSF展開を経て感動的最後を迎えたり、あるいは陰惨な陵辱物として始まりながら見事に綺麗な純愛物へと変貌したり、泣きゲーとしての姿勢を最初は微塵も匂わせず、突如牙を剥くものが2005年以降に目立ち始める(いずれもタイトルは念のため伏せた)。
また泣けるイベントが用意されていても、それが作品としてのクライマックスと一致しないことが珍しくなくなる。中には語るべき物語は全て終わり、エピローグの最後の最後で油断しきったプレイヤーに猛然と襲いかかるものもある(いずれもタイトルは以下略)。
昨今、泣きゲーが減ったと言われることがあり、実際、一見してわかりやすい泣きゲーを現在はあまり見かけない。しかしプレイヤーを泣かせることが主目的化した時代を超えて、泣きゲーとしての技術や様式は再び物語を盛り上げるための一要素へと還元されていった、というのが現代の流れだとすれば、それは死につつあるのではなく、むしろ要素として広く普及し、遍在したことで目につきにくくなった、ということのようにも思えるのである。
リアルタイムにこれらを経験した人にしてみれば、有名作を並べただけでなんの面白みもない内容と思う。申し訳ない。が、今20歳前後の若者にとってみればFateですら12年前の古典である。「泣きゲーの元祖」がなぜ人によって違うのか。なぜ未だにはわわとかうぐぅとか言ってるヤツがいるのか。若者がそんなことを知っている方がおかしいし、それを知るために最初から全部やり直すなど正気の沙汰ではない。
かつて何が起きて、それが今にどうつながっているのか。粗く拙いまとめに過ぎないが、その理解の一助として本稿に役立つところがあれば幸いである。加えて「そういや最近エロゲやってねぇなぁ。またちょっとやってみるか」と思うきっかけになれば、それに勝るものはない。
結局、人間というのは打算で生きています。しかし、これは極めて普通のことです。
人と約束するということ一つとっても、七日しかない一週間の中で、なぜこの人と会う約束をしたのかということはまさに限られた時間の計算が行われます。もし、そのような計算がないというのならばその人はただの暇人でしかない。
人間は打算でしか生きてないのに、そうじゃないと言い張る嘘つきたちが多い気がします。そういう人たちは「お前が打算で生きるあくどい人間なだけだ」と言うのでしょう。
まず、そういう人たちがやっているのは、大体、人の二分化。人を「損得勘定だけで動く人」と「情熱や思いで生きる人」と神にでもなったつもりで二分化し、自分は後者であると高らかに宣言しているわけなのです。
しかし、情熱系はそもそも、自分を偽って生きていることに気づいていない。能力や結果が出ていないからこそ情熱とかいう誰でも持てるものを持っていることを自慢し、さも自分が素晴らしい人間の側にいるとジャッジし安心感を得ているだけなのです。自分の持っていないものを持っている人間を不誠実な悪だと決めつけて。
何様なのでしょうか。
たいていこういう人も、腹の内を聞いてみると、将来車がほしいだのタワマンに住みたいだの、いい女を抱きたいだのとぽろっと言っており、自分の中で内部矛盾を起こしており、なのに自分は清らかだと勘違いしているので一緒にいて気分が悪い。
まずもって人間の本質に直面できていない。そもそも、人間は打算で生きてる。それがいいとか悪いとかじゃなくて事実だ。
だからこそその中で、ほんの数パーセンたまに見せる、人に対して人が与える、なんの損得勘定もない無償の愛がとても美しいものに見えるのです。寝てる好きな人の布団がはだけているのでそっと、かぶせてあげるような場面に人が優しい気持ちになれるのがそれに近いでしょう。
さらにいうと、自分が打算だらけの醜い人間だということを受け入れて初めて、相手の打算に満ちた醜さや不誠実さを許せるのです。そうやって人を許すことで初めて本当に人を愛していけるのではないでしょうか。
私から言わせれば、人を損得系と感情系とに二分する二分論者が最も人を貶める醜い存在です。
一生、純愛には気づかないでしょうね。
かつて一時代を築いた人気成年向けアニメシリーズである『くりいむレモン』の中でも特に有名で人気作品として知られるのが亜美こと野々村亜美をメインヒロインとした『亜美』シリーズだ。
そんな亜美は段々とメインヒロインかつ主人公的な立ち位置になっていくが、基本的に「妹」キャラとして認識されている。妹キャラのシンボルにすら近いかもしれない。
亜美はシリーズ全ての始まりであり多くの亜美ファンにとっては全てと断言してもよさそうな第一作の主人公・宏の義理の妹である。
亜美シリーズはくりいむレモンシリーズの中でも派生作品や実写化を含むリメイク的展開が多いことでも分かる通り圧倒的に人気があったと推測できる。
亜美は絵に描いたような大人しめのいい娘(風)であり、お兄ちゃん大好きな理想的義妹ということからその理由も察することができる。
しかし、第一作はある意味テンプレに近い兄妹恋愛展開でありわかりやすい妹萌え作品なのに対して、第三作以降は少なくとも現代の萌え感覚を持って見たら殆ど妹ものとして機能しているか危うく、何故人気がある程度持続していたのか疑問に感じる所がある。
私は割と最近かつ、NTR属性への理解を得た後に作品を知った人間なため、どちらかといえば妹が寝取られる系の作品として魅力を感じてしまい、そういう意味で亜美シリーズが好きなのだが、
素直にオーソドックスな妹萌え目的で見てた人達にとっては唐突なシリアス&NTR展開・ビッチ化にディスク(当時はLD?)割ったりVHSのテープ切り刻んで送り返したくなりそうな内容では?と思ったりする。
ところが当時を知る人達が語る亜美の魅力を見ていても、基本的にはオーソドックスな妹萌え作品、萌え妹キャラとして扱った上での評判が多い。
第一作だけ、強いて言っても三作目までが亜美シリーズとみているからなのかもしれない。
それにしても第二、三作も今ならボロクソに批判されそうな展開である。NTR好きは歓喜するだろうが。
【物語概要】(うろ覚えだから詳細部分は違う所があるかもしれない)
第一作のラストで亜美と宏は母親に情事の現場を見られてしまう。
第二作、それが原因で母親は宏を海外に留学させて亜美と別れさせられている。大好きな兄と別れて傷心の亜美は女友達に誘われてクラブに行くが、その際に酔った勢いで遊び人で有名なイケメン河野という男にお持ち帰りされる。
酔って河野を兄と勘違いしながらのノリノリH。その時に兄のことを呼んだことを聞かれて兄との関係を河野に知られる。
そのことで脅されて素面で関係を持つ。河野に「兄のことを忘れさせてやる」と言われたことに亜美は怒る。
第三作、兄・宏が一時日本に戻ってきて嬉しい亜美だが、宏は亜美に、もうああいう関係をやめようと告げる。ショックを受けた亜美は自ら河野の部屋に行ってヤケクソH。
上記のように恋愛・エロ関係を抜き出すとなんだこれ…という感じなのだが、実際見てみると基本的にはエロ目的のOVA作品な割にパッと見て重みのある恋愛ドラマっぽく成立するような質感ある流れがストーリーにある。エロがあるというだけでなくストーリー的にも大人な内容という感じか。
その側面は第三作の続きを描き、亜美が何故かその後スカウトされてアイドルとして活動しているという設定の『それから』シリーズでも強調されていくが、それからシリーズは恐らく亜美ファンの大半には認められていない。声優が違うし(そんなに声質に差はない)、作画も不安定で亜美もあどけなさの残る妹的なキャラデザではなくなってしまう。そして内容的にも妹萌えを感知できる成分はほぼ皆無。
そんな妹萌えとして見たら内容的には第一作以降散々な状態でありながら、何故キャラの人気があったのかを推測すると、
当時は、実妹は勿論、義妹を堂々ネタにした恋愛やエロ作品も滅多に(許され)ない萌え文化的には鬱屈した雰囲気の中にある時代だったことが影響していると思う。
そんな中で可愛い義妹とのエロあり恋愛を堂々かつ詩的に描写した亜美シリーズは画期的な価値があったためカルト的に支持を得たのだろう。
また、中高生が気軽にオタクになってエロゲーすら手を出せてしまう今と違って当時はオタク文化を嗜むにはある意味ハードルが高かったはずである。
くりいむレモン以外の昔のエロ系OVAを見ても、ドラマ性やアクション性などをメインとしても売れるような作品が多く(質の高さでなく作品における重点の置き方として)、今みたいに最初から「萌えだけで売る」「エロだけで売る」ことしか考えてなさそうな作品があまりないようである。せっかくアニメーションとして作るからには、というこだわりだろうか。
逆にいえば、萌えやエロ部分は物足りないのだが、そのような背景もあって当時のオタクは多様なドラマや表現の中に光る萌えの輝きを汲み取って楽しむ見方をすることに慣れていたのだと思われる。
だから亜美シリーズの展開にも、文句言いつつも良い部分を大きくピックアップしながらそれをメインに楽しむことができていたのだろう。
あとは実際の現実の妹という存在の立ち位置に近い動き方、扱われ方をするという点もある意味でよかったのかもしれない。今だって現実で義妹と恋愛したら白い目で見られるらしいが、現代の架空作品では義妹キャラは当たり前のように兄に好意をアピールするし、それを家族や周囲も特に咎めず認めちゃう世界観が形成されているため義妹キャラは兄以外の選択肢は持たない。他の選択肢を持つと処女性重視する人に嫌われちゃうし。
そんな当時の風潮や作風の影響で作られた亜美シリーズの独特の質感ある内容は、エロとして萌えとして半端ながらも現代のエロアニメやNTRアニメには作れない独特な魅力があると自分も感じている。
特に自分は妹純愛作品も好きだが妹NTR作品も好きなため、河野という男が寝取り男として魅力的ということもありそれからシリーズも好きだったりする。
最初から続き物シリーズという前提で見てしまった場合に、第一作以降の兄の宏の存在感が薄すぎて、亜美主人公の少女恋愛アニメみたいな見方をしてしまった影響もあるが…。
そんな物理的には存在感薄かった宏だったが、作中の亜美の心の中では常に存在感十分だったおかげもあってか、
亜美シリーズの二次創作や話題を探してみると大体が宏との兄妹恋愛ネタばかりである。
妹純愛萌えに比べたらごく僅かながら河野の魅力を語る人もいるようだし、個人的には『それから』で本当に亜美が河野と結ばれる展開も見てみたかったのでそういう方向性の二次創作も見てみたいのだが。
河野はそれからシリーズで亜美に結婚を申し込み一時は受け入れられるのだが、別の愛人に「結婚なんて大した意味はない」と男として最低のことを言っていたりして本気でないアピールをしている。一方で最後の亜美の出した答えに対する宏と対照的な笑みを見ると亜美を本当に魅力的に感じていることも事実なのではと考えたりする。
2chかふたばか忘れたがくりいむレモン関係のスレッドのログを見ていたら「河野は結局亜美に夢中な奴だから」的な解釈をしてる人がいたが、そんな感じでも受け取れるよなとも思うし、そういうネタの二次創作を見たかったりする。
河野は元々遊び人で愛人いたりしながら亜美と付き合ったり求婚したりする野郎だけど、宏は宏で別れさせられても自分を慕う亜美を拒絶して、海外から婚約者連れてきておいて結局亜美を忘れられずに婚約者を失望させて亜美に求愛してしまう野郎だったりして、河野が悪で兄の宏が善ともいえなかったりする。
そんな観点から見ると、亜美が最後に出した答えは二人を拒絶して自分は自分、もう誰にも囚われないとか宣言する恋愛ものとしては何その終わり方と思えたりもするやつなのだが、個人的にはちょっと面白かった。そんな亜美を「コイツやっぱいい女だわ…」みたいな笑みを浮かべながら見る河野もなんかよかったりして。
■余談
亜美のカルト的人気と実際の内容の差に近いものがあるのが美少女ゲーム『With You』の乃絵美こと伊藤乃絵美だ。
彼女は亜美と違って作品のメインヒロインではないが同じくカルト的な人気を誇る妹キャラで、最近でも二次創作を作る人が一定数いるほどの人気がある。
こちらは実際に作品をプレイしたこともないのであまり内情を知らないが、基本的には亜美と同じく清楚かつ主人公である兄を慕う妹キャラ(こちらは実妹)として人気を博したことで一致する。
ところが乃絵美も今でいうようなオーソドックスなお兄ちゃん大好き妹キャラではない部分がある。
柴崎とかいうイケメンの元彼がいるという今なら処女厨にボロクソ叩かれそうな要素を持っている。よく知らないが柴崎って奴はモテるがクソ野郎らしく、昔乃絵美は何されてたんだろうみたいなNTR的な意味で妄想がちょっと捗ってしまう。
そんな今なら地雷要素を持つ妹キャラでありながら妹萌え勢に圧倒的な支持を得たという点で亜美と乃絵美はなんだか似てるなと思ったのだった。
亜美シリーズよりは最近といってもWith Youも同じく妹萌え趣味の人達にとって不遇の時代の作品だったので非攻略の妹キャラでありながら良い所がピックアップされて人気が出たのだろうし、現実感ある妹らしい設定といえばそうともいえる。
聞いた話では昔とある有名サークルが、乃絵美が柴崎に犯される同人誌を描いたらボロクソに叩かれたらしい。後から最近知った自分からするとこれもむしろそういう方向性の二次創作を見たいと思ってしまったりする。