結局、人間というのは打算で生きています。しかし、これは極めて普通のことです。
人と約束するということ一つとっても、七日しかない一週間の中で、なぜこの人と会う約束をしたのかということはまさに限られた時間の計算が行われます。もし、そのような計算がないというのならばその人はただの暇人でしかない。
人間は打算でしか生きてないのに、そうじゃないと言い張る嘘つきたちが多い気がします。そういう人たちは「お前が打算で生きるあくどい人間なだけだ」と言うのでしょう。
まず、そういう人たちがやっているのは、大体、人の二分化。人を「損得勘定だけで動く人」と「情熱や思いで生きる人」と神にでもなったつもりで二分化し、自分は後者であると高らかに宣言しているわけなのです。
しかし、情熱系はそもそも、自分を偽って生きていることに気づいていない。能力や結果が出ていないからこそ情熱とかいう誰でも持てるものを持っていることを自慢し、さも自分が素晴らしい人間の側にいるとジャッジし安心感を得ているだけなのです。自分の持っていないものを持っている人間を不誠実な悪だと決めつけて。
何様なのでしょうか。
たいていこういう人も、腹の内を聞いてみると、将来車がほしいだのタワマンに住みたいだの、いい女を抱きたいだのとぽろっと言っており、自分の中で内部矛盾を起こしており、なのに自分は清らかだと勘違いしているので一緒にいて気分が悪い。
まずもって人間の本質に直面できていない。そもそも、人間は打算で生きてる。それがいいとか悪いとかじゃなくて事実だ。
だからこそその中で、ほんの数パーセンたまに見せる、人に対して人が与える、なんの損得勘定もない無償の愛がとても美しいものに見えるのです。寝てる好きな人の布団がはだけているのでそっと、かぶせてあげるような場面に人が優しい気持ちになれるのがそれに近いでしょう。
さらにいうと、自分が打算だらけの醜い人間だということを受け入れて初めて、相手の打算に満ちた醜さや不誠実さを許せるのです。そうやって人を許すことで初めて本当に人を愛していけるのではないでしょうか。
私から言わせれば、人を損得系と感情系とに二分する二分論者が最も人を貶める醜い存在です。
一生、純愛には気づかないでしょうね。