はてなキーワード: 災害とは
鈍感になる訓練は、したい人は自由にでき、したくない人はせずに済むべきだろうと思う。
自分は、こういった強さの有用性を、以前ほど信じられなくなった。
ストレスに関する勉強をして行くと、「鈍感さを身に着けるという事は、ストレス自体を減らすものではなく、ストレスへの自覚を減らすだけであるため、ストレスにきちんと対処するのが難しくなる」という事が痛感されたからだ。
これは自分としてはとても意外だったが、「弱音を吐く人間の方が自分の状態に対処出来て厳しい訓練を乗り切れる。弱音を吐かない人間はある日突然折れて再起不能になる」と説明されて、納得した。
男性の方が自殺者がかなり多い理由の一つはこれだろうと思われる。
自分がキツい事を自覚しにくく、本来自力では対処できない事でも「対処出来ない」と思わずに無理をし続け、ある日突然死んでしまう。
あと、個別の事例について。
虫の対処はできる方が良い。冒頭で言ったとおり、訓練への圧力を作るのには反対だが、機会は増やして良い。
監視カメラなど、裸への意識は、女性の方が性的被害に遭いやすく警戒の必要性が高い、という事情があり、たまに下着が盗られるリスクより、常に監視カメラで撮影されておりその映像が目的外に利用されたり流出したりするリスクの方が心配、と感じる人が多いのだろう。現にネットには盗撮画像が流れている。
災害時の冷静さには、男女差を感じなかった。
男はちっちゃい頃から老人に至るまで鈍感になる訓練を積んできてるから、その成果が出てるんだわ。
上半身裸になっても恥ずかしがるもんじゃないし、ちょっとやそっと怪我しても大騒ぎするもんじゃないし、仕切りのない小便器で隣にちんちん見られながらおしっこしても平気であるべきだし、男は一人で行動しても怯える必要はないし、肉体労働をするべきだし、危険な職業になるべきだし、他人に警戒されてもしかたないし、同情は買いづらいし、などの扱いによって鈍感になる訓練を積んでいる。
「リベラル」とか「フェミニスト」とかの人らはこれを悪しき性役割だの抑圧だのと批判するけど、それは繊細さん(海外風に言えばFragileなSnowFlake、雪の結晶のように脆い精神)を増やして不幸をもたらす考え方だ。
男だけが粗末な扱いをされるのは、確かに男性差別だ。だが、鈍感さ・タフさを身に着ける良い訓練でもある。
だから、女も幼少時からある程度粗末に扱うことで差別ではなくし、かつ女も鈍感力を鍛えるべきなんだよね。
これに「はあ?」って言いたくなる人もいるだろうが、女にも鈍感さが必要な好例として、先月話題になった女湯窃盗のニュースがある。
https://www.fnn.jp/articles/-/437217
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20221110/k00/00m/040/171000c
男湯の脱衣場は七割に監視カメラがあるが、女湯は監視カメラがつけられないので、窃盗のターゲットになるって話。
でも幼少期からの鈍感訓練のおかげで我慢できる。そして窃盗被害にあうよりは脱衣場に監視カメラがある方がずっといい。
俺は強さや男らしさから落ちこぼれた人間だが、それでも多少のタフさが身についていることについてはプラス評価せざるを得ない。
しかし、今のヘンテコな正しさは、まるで弱いことが良いことかのように扱って、弱さや繊細さからくる問題は見ないふりだ。
「男性が受ける差別とは、警戒されることと、信頼という名目で粗末に扱われることです」のブコメ(https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20220908185524)も、男性差別にならないように男を粗末に扱うのはやめようってのが当然のように並んでる。
なんでだよ。性差別をなくすんだったら、男だけじゃなく女も雑に扱うことで、タフさや鈍感さを身に着けましょう、共感性は弱めましょう、って考えた方がいいだろ。
鈍感訓練がいい効果を発揮する例は、他にも沢山ある。
キャンプなど野外レクリエーション経験のある奴ならよく知ってるだろうが、トイレの回転が速い(最悪トイレがなくてもいい)とか、川で転んで服が濡れた時に脱いで乾かしやすいとかも、男の鈍感訓練が成果を出してるところだよな。
それから、「男なら虫は平気で退治できるでしょというのは性差別です、男の子だって虫を怖がっていいんです」みたいなのがポリコレ的に正しいとされるけど、そんじゃあ現実問題として家や職場に発生した虫を誰が退治するんだって話だよ。
虫を怖がる弱さは尊重してあげましょうって社会だと、虫が出た時にたまたま平気な奴がいてくれる確率がどんどん下がってくぞ。
「男だけが虫は平気であるべきというのは性差別です、男も女も虫くらい潰せるべきと考えて、性別問わず虫が苦手な子供にも幼少期から慣れさせていきましょう」の方が適応力のある生きやすい人間が増えるだろうが。
殺虫剤屋さんにテクノロジーで頑張ってもらうからいいのか? いつどこで虫が出ても大丈夫なようにスマホに殺虫機能でもつけてもらうか?
SDGsを気にすることが善だとしている一方で、虫を叩ける鈍感さを鍛えるのは悪だから資源を消費して殺虫剤を作るのが善だってのも、現代社会のおかしさだよなぁ。
もちろんこの虫退治の話は、3K仕事のストレスや傷を我慢してくれる鈍感でタフな奴らのおかげで社会は回ってるってことと繋げられる。
そして男オタクが検索避けを必要としないのも、鈍感訓練の成果だよ。
男は幼少期から鈍感訓練をしてるから、内向的で「男らしく」ないと揶揄されるオタク達ですら地雷を踏んでも我慢できるやつが多くて、検索避けだの村ルールだの注意書きだのは定着しない。
どうしてもムカついた時は、直接批判して叩き合う。
女ジャンルだと、マナー啓蒙だのルール決めだのを勝手にしようとする風紀委員みたいなツイートをした繊細さんに、なぜか「そうだそうだ」「知りませんでした気をつけます」みたいに賛同する人が多いが、男ジャンルに発生した繊細さんはたいてい変な奴扱いされて終わりよ。
(ただし、百合好き男オタクとか、女性上位好きのM男は、比較的繊細さんが多いので学級会になる率が少し高い。百合に男を出すな議論や、おねショタでショタに逆転させるな議論がそうである。
だがその繊細さんたちのジャンルでも、M男向け創作では「逆転なし」タグなどのという、魅力アピールになるポジティブ表記が使われつつあるのはなかなか効率的だと思う。
検索避けとか注意書きとか村ルールといったネガティブ表記は、こういうのを不快に思う人がいるから気遣いしましょうという空気やマナーで縛ることで不快を回避しようという対策だが、息苦しさが漂い、しかもそのルールについて無視or無知な人間がいると破綻する。
一方で「逆転なし」タグをつけるというのは、創作者のアピールポイントとしての積極的な情報発信により、消費者も積極的に検索できてお互いに快楽を追及できる前向きさがあり、かつ無知な人間がいても破綻しづらいよい方法だ。
もっとも、この手のタグが普及しすぎて20個も30個もつけたくなったらどうするんだという問題は、長すぎ注意書きと共通だが。
女ジャンルのpixiv小説で主に使われている「♡喘ぎ」タグも似た感じに評価しているが、こちらはまだ苦手を避けるための配慮という空気もそこそこ支配的なようでもあり、もっとアピールポイントとして自信を持ってもいいのにと思う……まあこれは余計なお世話か)
とにかく、男は鈍感になる訓練を幼少期から積んでるおかげで、耐えられる鈍感さが身につき、他者に感情移入しすぎる共感性は小さくなり、傷は増えるが気楽で自由だし、本人にとっても社会にとっても様々な利便性がある。
性ホルモンが違うから仕方ないって考え方は、このポストでは採用しない。採用していいんだったら、有害な男らしさも女らしさも有益な男らしさも女らしさも性ホルモンだから仕方ないで終わらせるけどな。
マジな話、女も男も同様に、鈍感になる訓練を幼少期から積んだ方がいい。
そうすれば男性差別じゃなくなるし、女は強さを手に入れられて女性差別も起きづらくなるし、女湯窃盗を減らすための監視カメラも設置できるし、トイレもさっさと終わるし、息苦しく迂遠な学級会も減ってわかりやすい叩き合いがメインになる。
女がタフで鈍感訓練をしないシワ寄せとして男が責任や孤独を負って死に追い込まれているわけで、女も鈍感になって一緒に負担を負えばきっと今より状況はマシになる。
結局この世界ってのは、現時点の文明レベルでは、不快な作品は作られるし、雨は降るし風は吹くし災害は起きるし、犯罪者は出るし、荷物は重いし、全ての人間の苦痛を無くすだけの資源はないし、人が死ぬことは防げないわけじゃん。
鈍感になる訓練は辛いからやめましょうと唱えたって、世界の過酷さをなくしたことにはならないんだわ。消火訓練を止めれば火事をなくしたことになるか、ならないだろ。
二十代や三十代になって、世界には消せない過酷さがあって繊細さが自分の足を引っ張ってると気づいても、育て直したり保護してくれる人は少ないんだよ。
理解のある彼くんとか、優しい家父長さんとかを見つけられて、かつそいつらに庇護される生き方をヨシとできるなら別だけどな。
そうじゃない俺ら(性別問わず)は、繊細でかわいこぶっても他人は愛してくれねえし守ってもくれねえんだから、せめて鈍感でタフでなきゃやってけねえよ。
100年前に比べれば解決された問題は色々あるが、それでもまだまだ世界は過酷だ。
それにも関わらず、弱さを尊重しようという無責任に甘い道徳が正しいとされ、現実は過酷なままなのに男女ともに繊細さが増し、男オタクにも不毛な学級会が増え、自由をもたらすはずのインターネットで被害者度合いとかわいそうランキングを競い合っている。
そしてこういう話って、「じゃあ戸塚ヨットスクールとか軍隊教育がいいのか」みたいな反論が来やすいんだけど、そんな極論はむなしい。極論が好きなら、命には必ず苦痛が発生するから存在しない方がいいとかまでいって反出生主義でもやっててくれ。
マッチョイズムの支配を脱しようとするあまり、強さを疎んじて弱さを貴ぶのは愚かなことだ。
>増田が繊細さんじゃん、みたいな指摘
あっ………たりまえだろ! インドアのインターネットオタクではてなで長文書いてておねショタ趣味があるんだぞ? ついでに性別違和持ちでメンヘラで元フェミニスト。現代思想の影響を受けて男らしさからドロップアウトした繊細な男だから、不条理を黙って我慢できずこうやって文句を言っている。
なぜこんなにも憎悪の坩堝になるんだろうなあ?
いわゆる表自、実質萌えエロ叩き問題は、オタクが含む性的弱者性とフェミニズムのダブルトッピングで常軌を逸した様相を呈するのだろう。
資源の奪い合いとか、生きるか死ぬかの覇権闘争に憎悪が渦巻くのは当たり前のことだ。
でも女性差別問題なんかは別にそういうゼロサムゲームでもなければ、女性差別が生きがいだというような邪悪なプレイヤーはそもそもいない。温度差は大きくあるものの、差別はよくないとみんな思ってる。
解消しようのない実利実害を伴う対立がベースにないのに中空から憎悪を汲み出す仕草は別に珍しいものではない。
サッカーで日本が勝ったら「どうせネトウヨは自分の手柄みたいに調子乗るだろう、許せん」災害が起きれば「反日サヨクは日本人が死んでほくそ笑むのだろう、許せん」とか
誰も何も言わないうちからおのれの想像で怒り狂うバカはいつでもいるよ。
ただ、「性」絡み案件が特別なのは憎悪の熾烈さ、ギラつき加減がひときわ濃密な気がするんだ。奇妙なまでに。
性別を問わない所(実質男性専用)と、女性専用があるのはいいんじゃね
性別を問わない避難所をまず作るけど、そこで女性が男性から性被害を受けるケースが続出して問題になったので最近は女性専用の部屋を用意する事が増えた
相手がやめてって言ったらやめるなんて未就学児時点で覚えることなのにな。
ことエレベーターの歩行になったらありとあらゆる方面から理由をつけて賛同しないし協力しないしリスクを強調するし。歩けないUIを考える方向になっても災害時がどーとか荷物がどーとか延々細かい点をついてくる。
やめてって言われたことをやめればすむだけの話なのにな。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/merkmal-biz.jp/post/26639
今の人気コメがこれですよ
sisya いつの間にかモラルの問題にされてしまっているが、そもそも片側空けは鉄道会社と百貨店の呼びかけが長らく行われていたもの。自分達で習慣を作り出しておいて「やめろ」とだけ言われてもなくなるわけがない。
なんだよやめろと言われてやめないって。慣習を呼びかけで作ってしまったら是正も呼びかけていくので十分対等だろ。昔の呼びかけには応えましたが反対に変えるのはいやでーすwwwwお前が悪いからwwww俺は便利だしwwwwwww
呼びかけ意外になにを求めてんだよ。謝罪と賠償かよ。全エレベーターの画期的な仕組みへのリプレイスか?刑事罰になる法案の成立か?何が起きてもまた別のなにかを持ち出すんだろうよ。
popotan555 左側だけ長蛇の列ができてる現状がおかしいので、コストかけても誘導員置いて2列になって歩かないよう呼びかけるしかないのでは。ポスターだけで長年の慣習変えるのは無理でしょう。元は運営側が生んだ文化なんだし
こいつも「元は運営側が生んだ文化なんだし」って言って無意味か効果薄だって喧伝してるよ。運営の敵か味方か善意のアドバイスか知らんが。敵だよ敵。
同じ運営なのに古いほうが絶対に支配的ってお前らジャギ様好きかよ。
別にやめろって言われてなんでもやめる必要はねーよ。侵略戦争起こした側が逆に侵攻されてやめてって言っても俺は別にそれに賛同しないけどよ。エレベーターはそんな超絶大事なことじゃないだろ?
単純な法律やマナー未満のコミュニケーションだろが。他人がやめてって言われたらやめてあげる。ごめんって言ったらいいよって言ってあげる。それで許せるもろもろのちっっっっっさい問題だろが。傷害事件が起きる?んなもん警察に突き出すだけだ。レアケースをぐだぐだ言いすぎ。だってお前らにとっては今歩るくことで起こってる利用者同士の事故も些細な、レアケースな問題なんだもんな。
お前らが歩いているかどうかは知らん。歩いているやつの気持ちになってコメントしてるヤツもいるだろうよ。
あるいは歩いて便益得てるかもな。それが一日1時間の短縮かコーヒー一杯を優雅に飲める朝かとかは知らんけど。
どうでもいいわ。歩かないやつの立場でコメントなんてする必要ねーんだよ。
もろもろを憂う必要もねーんだよ。
やめてって言われたらやめてさしあげろ。今日からやめるわってコメントしてけ。慣習程度ほんの少しのおもいやりで変えていけ。
社会の分断が進んでいる、分断はよくない、この言動は分断を煽っていて悪だ、という表現をしょっちゅう見るようになってしばらく経つのだが、あの考え方がどうにもしっくりこない。
「分断はよくない」と言う人々には、本来一体になって協力できているはずの人々が、対立煽りに踊らされて不必要な分断状態になっている、というニュアンスが感じられる。
素朴な説明として、民衆が全員協力して一揆や革命を起こせば貴族をビビらせて悪政を撤回させられるのに、分断されることで一斉蜂起が出来なくて悪政が続いているのと同じ状況だ……みたいに言われるが、そもそもこの説明だって貴族と民衆の分断じゃないか。
その「ここは譲れない」というのが思い込みであり、お前らの生きがいとか、心身に深いダメージを負うほどの嫌悪とか、心の支えとか、大事にしているものとか、トラウマからくる恐怖とか、そういうのみんな本当は捨てさせられるものなんだとまで言い切るなら理屈は分かるけど。
「分断はよくない」とは言えても「分断感情の理由になってる、あなたの人生の核を捨てましょう」なんてことは言えないし、そのために洗脳だか文化解体だかそういうことに手を汚すわけもない。
もっと優先度の高い外敵や災害が存在する場合に、一時的に貴族と民衆や呉と越が協力することはあるが、そんなもの常に存在してはいないからな。それだって、戦場や避難所みたいな直接危機にさらされている場所でだけ協力する気になって、隣町とかではそんな気にならないし。
トラバさあ。
(問)同じくマイナンバーカードについてお聞きしたいなと思っております。報道にも出ているように、保険証との一体化を進めており、私自身も利便性が高まるかなと思って、ぜひ大臣には頑張っていただきたいなと思っております。そこでお聞きしたいのですけど、マイナポータルの利用規約の中に、第23条に免責事項というところがありまして、デジタル庁は損害について一切責任を負わないものとしますと、具体的に言うと、「デジタル庁は、本システムの利用に際しマルウェア感染等で生じた被害について、責任を負わないものとします。」といった記載がございます。政府は、個人情報の登録とかそういったところを促進しておきながら、こういったところで責任を負わないとかという記述をしていることに対して、ネット上の反応とかを見ておりますと、結構懸念を抱いているような反応もちらほら見えたりとかしています。そういった懸念に対して、政府とか、大臣はどのような受け止めになるでしょうか。
(答)ネットでそういう話が出ているのは承知をしておりますけども、マイナポータルの利用規約は民間のインターネットサービスの利用規約と読み比べていただければわかると思いますけど、極めて一般的なもので特殊な要素というのはないと思っています。例えば、地震などの災害時に利用ができなくなった場合に、提供しているサービスについて責任を負わないというのは、一般的なルールだと思いますし、例えば、自分の暗証番号を他人に教えた結果、それを悪用されるというようなことがあったときにも、デジタル庁は責任を負いませんよというのは、自分でしっかり管理してくださいということを何条かで申し上げていると思いますが、それは一般的に使われている利用規約と何ら変わるものはないと思いますので、かなり誤解があるのか、あるいは意図的に悪意を持ってそういう話が流されているのか、どちらかだと思っております。利用者の方については、安心して使っていただきたいと思っております。
普通の回答では?
それは、奴隷を「資産」と考えているなら、普通にありうる会話だろう。
農場で使うトラックや農業機械などと同じ。適切な整備点検や給油をせずに機械を使い続けてダメにしたりしないように、それなりに性能を維持するようケアはする。
シンゴジラは映画館に見に行って大いに楽しんだけど、シンウルトラマンは予告版を見た時に「あっ」という感じがして見ないかなったのは功を奏したかもしれない。
同じ特撮、だけれども、ゴジラ(怪獣)はコミュニケーションが取れない災害そのもの、だから災害に立ち向かう人類というシンプルさが成り立つ。ウルトラマンはそれが成り立たないので、作劇が複雑にならざるを得ない。そこにリスクがあったと勝手に思っている。
【ネタバレあり】
「君の名は。」はタイムリープすることで、過去を「変える」物語である。主人公の瀧は、過去の少しずつ忘れられはじめた悲劇を追体験し、不思議な力によって惨劇を回避する。その点において「すずめの戸締まり」では、誰も過去を変えることはできないということが明示される。常世は過去も現在も混在する世界であるし、主人公のすずめは物語の終盤で過去の自分と出会う。しかしそれは過去を改変することにつながるわけではないし、亡くなった母親に常世で再会できるようなことがあるわけでもない。死者は死者である。
「天気の子」における帆高の選択は、「すずめの戸締まり」のすずめとは真逆である。世界なんかより君が大事だと叫び銃をぶっ放して走る帆高に対し、「すずめの戸締まり」ですずめは大震災と愛する人を天秤にかけるという選択を迫られ、愛する人を選べなかった。それにはすずめの過去の震災被害の経験が重くのしかかっている。「天気の子」では帆高の過去は意図的に透明化されているし、帆高と東京とのつながりはどうにも希薄である。
翻って考えてみて、「君の名は。」の過去改変も、「天気の子」で世界よりも君を選ぶのも、エゴイスティックに世界を改変する行為である。「すずめの戸締まり」では人知れず災害を防ぎ、薄氷の上にある世界を昨日と変わらず続ける選択を行う。「大事な仕事は、人からは見えないほうがいいんだ」と草太は言う。世界は微妙な均衡の上に成り立っており、それはいつすべてが灰燼に帰してもおかしくない。
過去の2作品と今作の対比で際立つのは、過去の果てしない重みである。過去は変えられない。過去ははてしなく重くのしかかってくる。人にとっても社会にとっても。忘却するわけではない。でもどこかで区切りをつけて前に進まなければいけない。そのための儀式が戸締まり。鎮める。そうしてまた行ってきます。
「大人の論理、子どもの純粋さ」という対立軸は日本のアニメ漫画文化で普遍的なテーマである。「君の名は。」では三葉の父親を説得するという小さな対決イベントはあるが、メインテーマに絡んでくるわけではない。祖母は組紐の伝統を三葉に受け継ぎ、導く役割を担うが、どちらかと言うと舞台装置として機能している。
「天気の子」では鮮明に「大人の論理、子どもの純粋さ」が対立軸として描かれるが、対立に解決や落とし前をつけるというより、主人公たちがぶっちぎったような形で終わる。また登場する大人は、誰も主人公たちに対して大人としての役割を果たさない。須賀は大人のズルさを持ちつつも精神的には未熟でもある。子どもにたかり、ほぼ無給でこき使い、保身のために投げだす。リーゼントの刑事も少し思うところはありそうだったが、帆高の未熟さに毒づき、押しのけられるだけである。象徴的なのは須賀の義母である。相手と会話しているようで、自分の中ですべて完結している。自分の価値観から一歩も外にでることはない。大人たちが大人として子どもに向き合わず、与えられた仕事や役割をこなすだけ(と描写される)のがある意味現代的ではある。
一方「すずめの戸締まり」では、環との葛藤と和解が大きなストーリーラインを構成する。物語のオモテ面が災害を防ぐため各地をめぐる旅だとすれば、ウラ面は過干渉な叔母から実家への逃避行である。環も、神戸で出会うシングルマザーのルミも、完璧とは程遠い人物である。環はすずめを引き取ったことで失ったものを未だに悩み、無理をして母親像を演じ裏切られると怒りを爆発させる。ルミはヒッチハイクしてきた高校生にベビーシッターをさせて、更に深夜までスナックで手伝わせる。そんな大人だが、二人とも真摯にすずめに向き合う。草太の祖父は、自分の孫が要石にされた状況で、その事態を引き起こした当人に対して「これで良かった。すべてを忘れて帰りなさい」と声をかける。
もともと新海誠はキャラクターの背景や生活史をほとんど深く描かない表現者だった。ほしのこえ、雲の向こう、秒速。ほとんど若者しか登場せず、「どの作品も主人公とヒロインは一緒」と言われることすらあった。心理描写を最低限に、抒情的に美しい風景に仮託して表現し、視聴者が勝手に自分と重ねられるようにする。それを極限まで純化ささせた作家性だった。それがこのような作品を作るまでになるとは夢想もしていなかった。過去の作品を糧にしつつ、全く新しい作家性を手に入れ、見事に作品に落とし込んだ。「新海誠の最高傑作」との宣伝文句は伊達ではないと思う。集大成であるし、ここまで来た新海誠が次に何を作るのかが今から楽しみである。
・すずめとは「鎮め(地鎮)」であり、「ミミズを食べるもの」でもある
・すずめの瞳にミミズが反射して赤いハイライトが差すのが「すずめにしか見えていない」ことと、揺れがおきるたびにミミズを探してしまうすずめの恐怖をうまく描写していた
・冒頭の朝ごはんがやけに気合入っててこんな朝ごはん普通つくれねーよと思ったら伏線だった
重ねて余談だけど。
これ、日本以外では多分ちゃんと意識されてるから、例えばオバマが差別用語に言及するときも「Nワード」なんて、黒人のオバマが差別的な意味で使うわけのない言葉すらも伏せ字で引用するし、伏せ字ですら騒がれるほどその単語の存在を持ち込むことを禁忌視されてるわけだ。
別のパターンでいうと、「自殺」「事件」「災害」の映像を、報道目的であろうと二次加害を引き起こしかねないものとして垂れ流しは避けるのも同じ理屈といえる。
「どう見えるか」っていう素直な感じ方を日本の意識高い感じの奴って(そうじゃないのもだけど)軽視し過ぎというか、神経が鈍すぎるように感じる。
やりたいことが多すぎて全部中途半端なんだよな。いろいろ詰め込んでいてよくいえばテンポがいいになるけど、どう考えてもすずめの心理描写が圧倒的に足りてなくて行動原理がわからないからストーリー展開に振り回されただけに思えてくる。
年々昔の新海誠から変化していってるけど、今作で新海誠が置いてきたものの1つが「心理描写のナレーションポエム」。これがなくなったのが致命的でそのせいですずめの心理がわからなくなっている。今までの新海誠作品なら主人公がどこか現実に絶望しつつ、それでもなんとなく日々を過ごしているナレーションがあっただろう。多分すずめ自身の心境や環との日常はもっと暗く重い雰囲気であって、そういうところから後先考えずに行動したり、家出して草太についていったり、いろいろな行動に結びついてきたはず。
これが新海誠の集大成として売り出されているのが違和感。今までのやってきたテーマ・フォーマットと災害が奇跡的にマッチした「君の名は。」のほうがよっぽど集大成だわ。
何か大災害が起こる。男子と女子が出会う。映える田舎の描写がある。気合の入った東京の描写がある。ヒロインの母が死んでる。適当な神道モチーフのギミックが出て来る。女子が走る。男子も走る。カメラ回る。走るときにRADWIMPSがかかる。災害で酷いことになったり災害を何とか阻止したりするけど、男子と女子は犠牲にはならず何となくくっつく。あたりまでが「君の名は。」以降の新海誠の基本フォーマットで、そこに入ってるものにあんまり意味はないと思う。3.11の描写もありきたりだし、母親も常世の描写のミスリードにしか使ってない。
だから、そこから外れた要素である「廃墟の風景」「椅子になった草太のアクション」がこの映画で本当に描きたかったものなので、そこを評価してあげてほしい。