はてなキーワード: 効用とは
某トレーターの言じゃないけど分かってることとできることは違うわけだよね。
自分で問題を設定してそれを解くというときにはその分野の問題をどれだけ解いたかがやはり生きてくる。
問題を解くのでなく、解かれた問題の解説を読むというのであれば、たとえばああだからこうというふうに書いてあったとして、それは論理学の表現を使えばp⇒qという風になるだろうが、解説中にpとqは既に提示されているわけだから、あとはpとqを絡める公式なり法則なりを思い出しさえすれば確かにp⇒qは真だと納得できるわけだ。
pとqと二つも手がかりがあって(比ゆ的にだが)両側から思い出すべき公式なり法則なりが束縛を受けるわけだから比較的思い出しやすいというわけだ。
しかし問題演習の問題はざっくりいえば「p⇒x,xを求めよ」という類型なわけで、pはともかくqにあたるものは未知数なのだから、その少ない手がかりのなかでxを導き出すためにどの公式なり法則なりを適用すれば解けるのかということを考えなくてはいけない。
問題演習をしなくても最悪参考書を熟読すれば同じ分野の科学的な解説は理解できるようになるかもしれないが、自分で設定した問題を解くということについては問題演習を通じて、問題に応じて使える法則等を都度見つけ出すという練習をしないと出来るようにならない道理なのだ。
なんだか大学以降になると一気に「問題集」と呼べるようなものが少なくなる感じがする。
それは高校までに何度もいろんな教科で問題演習をしてるのだから、いい加減手取り足取り鍛えなくても自分で公式とかを見つけ出すことができるようになってるだろうという考えによるのだろうか?
ならいやいやそれはないでしょと言いたい。
高校でも単元が変わるたびにベクトルでも2II程度の初歩的な微分でも三角関数とかが入った定積分でも都度問題を解いてやっとできるようになったんじゃないか。それは高3の最後まで変わらなかった。
ようするに人間ちょっとでも扱う分野が異なればすぐ応用できなくなっちゃうものなので、また公式などを見出す力というのはいくら多様な分野にまたがって訓練を積んだところで次の新しい分野に活かせるような普遍的な力として身に付くものではないから、言い換えれば「貯金」が利くようなものじゃないから、大学に入ってからも当然新しい理論を学ぶたびにその理論を使いこなすために問題演習が不可欠なのだ。
これは反ワクチンの話にも通じる。
反コロナの中には専門家の言ってる難しいことは分からないから、たとえ根拠不明の噂話でもその人が発言力があって理解できる内容なのでその言説を受け入れて支持しているみたいな人もいる。
これもワクチンの効用なり副作用なりの原論文にあたって理解する力があるのならこうはならなかったはずなのだ。
さきほど解説は最悪問題演習しなくても理解できるといったがやはりこう高度な専門的な話を理解するのにはその分野の問題を自分でも解けるような力が背景知識みたいなものとして必要になってくるんだと思う。
前半では美術を知的にとらえようとした。後半は生物学がテーマ。
平安文学のマイブームが続き、続いて神林長平とヴォネガットを読み始める。
英国の貴族や執事、メイドがテーマ。なぜか田中啓文も読みだす。疲れたので脱力系を。
シオドア・スタージョン「一角獣・多角獣」
奇妙な味シリーズがしばらく続く。たまに古いSFが読みたくなる。
ブラウン神父シリーズは途中で飽きる。「聊斎志異」を読みだす。
冊数が少ないのは、中島敦全集がぶ厚いからだ。ページ数では一冊で実質三冊ほど読んでいる勘定だ。
ひたすら中国の古典を読む。物語としては読みやすいが、脚注について調べていると意外と時間がとられる。
アーネスト・サトウを除いて中国文学が続く。明治維新が一日単位で記録されていると見落としていた事実が多いとわかるし、刻一刻と情勢が変わっていったのも感じられる。。
やっと森薫を読み始める。ハルタコミックス(旧fellows!)ばっかり。
コロナで回数は少なめ。
「パディントン」
「イェスタディ」
「JUNK HEAD」★★
生物学、脳科学、歴史、SF、海外文学が多い傾向は昨年から変わっていない。
キャッシュレス決済の手段があまりにも増えすぎていて、客の利便性を考えて決済手段全種類対応しようとしたら嫌でも上乗せ手数料が発生するし、
それではと店側がそれぞれ自分の店にとって最も効率の良い決済手段を絞り込んだら、今度は決済手段ごとの経済圏が分断され、客の利便性は現金しかなかった時代よりはるかに低下する
(これは決済手段に限った話ではなく、デジタル化の効用が多様性実現のほうに行き過ぎて過剰になり、逆に全体効率の足を引っ張るパターンの一例でしかないと思う)
そもそもクレジット払いって昔のツケ払いの代わりで、ツケを踏み倒される心配がない、与信管理の手数料として払ってる面もあるから、都心部のカレー屋の少額決済みたいにツケが踏み倒される心配がない商売では導入メリットが半減する
こういう店が現金払いのみに戻るというのは、言ってみれば支払い手段における中抜き業者を飛ばし安価を実現する客の利便性を考えた商売の手法なのだが、普段はやたら利益率を気にする原価厨が寄ってきてこの判断を賞賛しないのは謎
今回のような学術書の場合はフランス語に堪能で且つ経済学に明るい人でないと、すごく問題がある訳になってしまう可能性がある。フランス語と日本語の対応しては完全に正しくても経済学の分野では使われていない単語とかがあるから。たとえば英語のmarginalやutilityにぴったりと合う日本語はいくつも考えられるが、経済学書では「限界」「効用」以外を当ててしまっては可読性が著しく落ちる。そういったことが様々な単語において発生するわけだから、経済学の知識は不可欠。もちろんそういった用語だけでなく、議論背景となっている経済学の前提知識が無いとうまく訳しにくいもの、意味を取り違えやすいものもあろう。何かあった時に、元となった論文に帰って読んで理解できるくらいでないと厳しい。
で、フランス語がメジャー言語だからと言っても、フランス語も経済学にも詳しい人となると数が少ないし、その中で翻訳を担当できるくらい手が空いている人はほとんどいなかったのではないか。日常用語の中からもっとニュアンスの合う適切な語句を選ぶという文学作品の翻訳で求められるスキルと、学術書の翻訳で求められるスキルは違ってくるので、フランス語がメジャー言語だからというのはここではほぼほぼ関係ない。
生命保険に限らずだけど、期待値で考えていいのはその試行を何度も行える者(生命保険会社側はほぼそうみなしていい)であって、
そうでない個人の場合は、考えるべきは期待値でなく期待効用。すると、平時の保険料支払いと、有事の保険金受け取りというものは、
たとえ期待値でマイナスであっても期待効用は保険に入った方が高いということがあり得る。
まあ、そうは言っても、純保険料に対する営業保険料の高さ(要は期待値を超えた生命保険会社の取り分)を考えると、
期待効用で考えても生命保険に入った方がいい人は限られるけどね。特に、掛け捨ての生命保険に、普通の資産運用の何倍もの手数料が
掛かる運用部分がセット販売された、死亡時以外にもお金が還ってくるような生命保険は、基本、カモとされる以外の何物でもない。
何年飲んでるかは忘れたが、
40代前半男性、技術職。比較的コミュ力が無くてもなんとかなる仕事なので、それなりに成果が出せて概ね評価して頂いている。
幼少の頃から人付き合いに難があり、それは今も変わらない。ことあるごとに人間関係に起因してコミュニティを変える、というような生き方を否応なしにしてきた。
30代で精神科にてWAISを受けたりしたが、ADHD、ASDの傾向は人より強いものの確定診断できるほどではない、というお話。
それでもしんどいんですよ、という話をしたらコンサータが処方された。
それまでは朝起きるのが死ぬほど苦しいし、日中は眠くて仕方がなかった。仕事中にデスクでうつらうつらして先輩に怒られたこともある。充分に睡眠をとってもだめ。
コンサータのおかげで、朝は薬を飲んでしばらくすると苦しまなくても動けるようになった(これがどれだけありがたいかは筆舌に尽くしがたい。これだけでQOLが爆上がりなので薬を飲んで良かった)
おそらく、ナルコレプシーとまではいかなくとも過眠症のけがあったのだと思う。コンサータの効用としては副次的?なのかもしれないが、これが一番ありがたかった。
おかしな話だが、この眠気が改善してはじめて、自分は異常な眠気に悩まされていたのだという認識を持てた。
これは、飲まないよりも良いという程度。もともと確定診断が出ない程度だったから、かもしれない。
たしかに物事に集中するのが楽になり、注意の切り替えは未だに苦手だがマシになり、飲む前よりも落ち着いた人間で居られるという自覚がある。
これは上記の点が改善されたからだが、生産性は格段に上がった。
コンサータがなかったらこの数年のアウトプットはまったく異なっていたと思うので、まさにコンサータ等の薬に人生を助けられたと言っていい。
正直な話、特に無い。
金がかかる、飲むのが面倒、薬をもらいに定期的に医者に行くのが面倒、などはあるのだが、それを補って余りあるメリットが俺にはあった。
クリエイティビティにも影響は感じない。むしろ生産性が上がっている分、マシになったのではないか。
勃起力は変わらないと思う。
これは改善されない。
未だに人付き合いは苦手だし、人と居るときの眠気が薄まっただけマシにはなったが、まあそれだけか。
人付き合いが得意になったという感じは1ミリも無い。
上とも通じるが、結局のところ人生は人付き合いみたいな所がある。そして、その部分は別に改善されていない。だから、そういった意味での人生の苦しみは変わらないと言えば変わらない。
しかし仕事や趣味で成果を出して評価を得るとか、眠気で動けない休日を有効活用するとか、そういう意味ではQOLは向上した。
総合的には薬を飲んで本当に良かった。まだ試していない人で、なんとなく嫌な印象で飲んでいないなら試してみると良いと思う。
これで人格が変わるとかは一切無い。あなたのコミュ障も別に治らないから安心して欲しい。そして薬を辞めればすべて元に戻る。それでも飲む価値は、個人的にはあった。
ただ薬は人によって合う合わないがあるので、一つ試してダメだったらさっさと辞めて次を試せば良いと思う。俺はストラテラは眠いし気持ち悪くなってダメだった。
メガネが必要な人がメガネをかけるようなもの、はまさにその通りで、薬はたかが薬だ。
それで犯罪をして憎しみの形であってもいいから何かしらの社会の関心を引きたい人もいる
(そうじゃない犯罪、たとえば自分は愛をおしつけるために犯罪をしたとか、犯罪となることすらわからず普通に人をひきころしたとかも当然多々ある)
で、SNSを自分の意思で切り捨てることは無関心から遠ざかる手段になりうるかというと、
代替物たるレトロなコミュニケーションがつくれる人間ならば大丈夫だが、そうでない場合はショック症状を起こす。
なければ「そもそもあいつなにいってんのかわかんね。異人さんは出島に住んどけ」なのである。
古くは家族や義務教育もコミュニケーションである(欠けるとインドの「オオカミに育てられた少女」のようになる)し、
会った瞬間に挨拶することや外に出るときにファッション・清潔感に気を使うこともコミュニケーションである(欠けると臭くて汚い、見た目が危ない人になる)し、
店で物を買う程度の会話も社会生活に必須のコミュニケーションであるし(たいていは通販でなんとかなるようになったけど)
テレビ・新聞も一方的ながら広く薄い共通認識をつくる形でコミュニケーションを提供してきたのである。(だから人間は身の回りに実在していない芸能人を好きになったりすることもあるようになった)
インターネットが遠隔相互コミュニケーションを可能にし、個人が広く薄く情報発信することを可能にした。
そのことは「仲のいいフォロワーがいない」ことの孤独感を確かに先鋭化させただろう。
だからといって、もうすでに大勢が移動しつつあるメインの相互コミュニケーションを捨てることは人間社会にはできない。
家族がいない一人暮らし人ほど、すでにSNSに深く頼っているので、単にツイッターやラインに障害が起こっただけでふらっと私いなくてもいいじゃん自殺しちゃおうかな的な気持ちになったりするのである。
あるいは新生児を育てている女性がしょっちゅう鬱になるのもこれである。
けもののような赤ん坊を人間まで育てるという膨大な知識を学習するのに、一緒に悩んだり辛さを共有してくれる人はSNSにいない。
時間帯も合わない。赤ん坊は日本語もしゃべらない。泣いてうんちしてアブアブいってティッシュをまきちらしたあげく寝るだけ。達成感はない。孤独感がひどい。
SNSから表現者、創作者が輩出されるのも孤独感を減らす効用のためで、そのため彼らはSNSの強みをよくわかっている。
創作はものの視方をふくめた深いコミュニケーションをパッケージ化することにすぎない。
強い創作とはツイッターとピクシブで発信しつづけ、アガリとして歌手とアニメーターに飾られ祀られた創作である。
まあそこまでいくと作者の手を離れるんだけれども。
ピクシブが使えなくなったらどこでも宣伝してもらえない、「ファンにみてもらえなくなる」からピクシブは既得権をもっているのである。
そういう人を形容するのに、「一人カルト」という言葉が思い浮かんだ。カルトはカルトであることによって決定的に破綻する場合も有るし、しない場合も有る。社会と協調できる程度に弱毒化する場合も有る。なにかをきっかけに信仰が薄れることもあるし、強化されることもある。一概にこうなるとは言えない。
うちの母親は外面は良いが、身内に対しては何事も自分の気持ち一つで決めてしまい、異論や反論に対しては無視するか逆切れするかで人の話はまるで聴かない猪のような人間だった。その結果、夫とも子供の一人とも決定的にディスコミュニケーションに陥り、家族は半ば崩壊した。人の話を聴くとはどういうことなのか、その効用は何なのかを母が理解し始めたのはこの5年くらいのことだ。母が人の話を聴かないことによって、家族関係が崩壊していくこと、その他にもさまざまな問題が起きては悪化すること。そういった事があるごとに私がこんこんと母に説明し続けたのが多少効いた。母も年を取り、以前のように力押しで無理やり物事を解決できなくなったのも影響していると思う。
どんな発想も論文書いたりか特許取ってたりしてないと話にならないと言いそうなんだよな。
たとえば身近なダンボールを工作でTシャツを素早く畳む道具に作り替えるみたいなのとかある。
あれはまあその道具使ってもそこまでスピードアップするわけじゃないからまだいいんだが。
しかし伊東家の食卓の本とか見てると工作もせず無加工でそのまま別の道具として使うみたいな発想もあるんだよな。
たとえば洗濯バサミを掃除機のコードが出てる根元に挟むと、回収時に途中でつっかえることがないってやつ。
あれはもう実際やってみればすぐ役立つかどうか分かる事であってその効用をいちいち論文にまとめることじゃねーだろ。
実証で足りない部分を論文で補うということはあっても、足りてるのにわざわざ論文書くなんて愚行でしかない。(てか庶民の生活の知恵に論文を求めるの自体頭いっちゃってる)