はてなキーワード: 信仰心とは
生活教は“生活をより良くする”という教義のもと、日々ライフハック的なことを広めている。
この辺りを中心に活動しており、地域新聞に載る程度には有名な新興宗教だ。
宗教そのものが形骸化している現代では、信仰心が薄れているからだ。
数少ない信者も面白半分で入信しているのがほとんどで、実質的に布教しているのは教祖のみだ。
そんなローカルマイナー宗教が、この世界では熱狂的に信仰されているとは。
「いくら可能性の数だけ未来があるとはいえ、俺の世界にこんな可能性が?」
「これこそが“分裂世界”さ」
俺の世界では、そもそも宗教が廃れているから、信仰が盛んになる分岐点が存在しない。
だが分裂した世界では、このように有り得ない未来すら有り得てしまうのか。
「宗教は民意を意図的に調整できるからね。それが実権を握れば、こういう世界になるんだろう。まあ分裂した世界では、何がどう変わってもおかしくない」
それにしても、見れば見るほど異様な光景だ。
同じ服を着た人間が一堂に会すると、こんなに気色悪くなるんだな。
「さあ 回しなさい 救いは 回した 先に あるの です」
信者たちの喚声に紛れて聴こえるが、独特なイントネーションがすごく耳に残る。
聴こえた方向に目を向けると、声の主はすぐに分かった。
一際、装飾が豪華なあたり、恐らくあれが教祖だろう。
「さあ 布施て “生活式回転抽選器”を そして 自分を 信じて 回しな さい」
大層な名で呼ばれているが、あれはカプセルトイマシン、いわゆる“ガチャ”っていうやつだ。
さっきから言っている「回す」ってのはガチャのことだったのか。
遠巻きからじゃ中身は見えないが、どうやら信者たちの信仰心をくすぐるものが無作為に入っているようだ。
「やった! 『過剰な転売』の免罪符と、『非合法に動画をアップロード』の免罪符だ!」
それをランダムのガチャって、霊験あらたかな感じがまるでしない。
しかし信者達はガチャに列を成して、取り憑かれたように一心不乱に回していた。
「同じものが 出ても 大丈夫 掛け合わせると 効果が 上がり ます! だから 布施て! 布施て!」
金を巻き上げるにしろ、もっとマシな方法がありそうなもんだが。
世の中は騒がしいが我々サラリーマンは今でもジャパニーズトラディショナルなオフィス環境で普通に仕事をしている。
日本が健闘しているのはジャパニーズトラディショナルスタイルの呪術的なエネルギーの高さに秘密があるのだ。
ジャパニーズトラディショナルなそれらの儀式中は常に密閉されており密集しており密接している。高度に。当たり前に存在すべき仕切りすら存在しない。それがジャパニーズトラディショナルスタイルだ。仕切りがあるとジャパニーズアートたる労働のエネルギー循環が損なわれるからな。もちろんそこで一日の半分以上を過ごすんだ。それもまたトラディショナルスタイルだ。時間こそが呪術的なエネルギーを深化させるんだ。対面の会議もするべきだ。それもまたトラディショナルスタイルを成立させる重要な要素の一つだからな。エネルギーの交換がそこで行われるんだ。交換することで更に高まるんだ。
もちろんジャパニーズトラディショナルな満員電車に乗って通勤するべきだ。そこでは老若男女誰もが互いに過剰に触れ合うことでエネルギーが高まるようになっている。大切な要素だ。
それらのトラディショナルスタイルを貫いてこそジャパニーズスタイルのオカルティックな強さが生まれるんだ。一つも欠かしちゃいけない。全ては呪術的なエネルギーを高めるためのトラディショナルな儀式だからな。我々の世代で失うわけにはいかない。
以上のジャパニーズトラディショナルスタイルの宗教的儀式は今のところ禁止されていない。むしろ禁止することが検討すらされない。当たり前だ。一見して誰もが危険だとは思うがその儀式の中で感染が爆発したことはないんだ。おそらくは呪術的な強さのおかげだな。むしろこの儀式こそが近代医学には到底説明しえないジャパニーズの強さを支えているんだ。
禁止されていない理由がもう一点ある。誰も止められないんだ。この呪術的な儀式をやらないとどうなるのか?考えたこともないから恐ろしいんだ。まぁそもそも止める理由なんてないけどな。
この宗教的儀式とライブハウスとどちらがより危険か?科学的に考えればこの儀式だろう。でもこの儀式で感染は爆発していないんだ。信仰心の勝利だ。科学なんてクソ喰らえだ。信仰心こそが強さなんだ。
我々はバングラデシュを笑えない。
※ フィクションです。
友人間での飲み会もほとんどして来なかったし無職でニートの今行くのはなあと思いつつ、2回目のニートだしどうにでもなれと思って参加した。
皆それぞれの職に就いてそれぞれの生活をしている様だった。家業を継いだ者、責任ある職位で頑張っている者、故郷を離れ少し遠い田舎の地に勤める者もいる。
皆ちゃんと大人になっていた。彼女とか結婚とか、貯金とか株の事とか、将来の事をちゃんと考えて生きていた。
丸2年しか続けられなかった仕事を辞め、半年以上何もしていないのは自分だけだった。その事を告げても友人達は気を遣って冗談交じりに優しい言葉を掛けてくれたが、酒の席だからその場に居られた様なものだ。
自分は将来の事をいつの間にか考えられなくなり、死にたいと思う様に気付けばなっていた。高校の時からだが、働き始めてもやはり変わらなかったし今でも変わっていない。
友人は「増田は大人っぽくなったね」と言ったが、確かに「ぽい」だけだ。中身も外身も大人ではない事は解っているつもりだ。
趣味で免許を取った事を話すと、運送関係の仕事をしている友人に連絡してみたらと連絡先を教えてくれた。しかしその友人に連絡もできないまま気付けば2週間が過ぎた。
その間に25歳になってしまった。高校の時は18で死にたいとか思っていたのにずるずる来て7年生きている。高校卒業後2年間ニートになり、2年間職業訓練校に行き、2年間正社員で働き、昨年またニートになった。では2年目の今年は? 即死イベントが来たら言う事は無いが願って起きる様なものでもない。死にたければ自分で死ぬしかない。しかし中途半端でもいけない。
そう言えば昨年は厄年だったが面倒だったので厄払いをしていなかった。そうしたら辞める様な事になった。その後で厄払いしたがもう遅い。仏教だの神道だの宗教に関する物事は面白いとは思っているが、厄年とか厄払いとか気持ちの問題だろとしか思わない程度に信仰心は無い。だから厄年は関係無いと思っているが、「厄年」というミームが内心影響した…のかも分からない。他者に原因を求めるのは楽だけれど空しくなるだけだ。結局環境に適応出来ない自分が悪いのだ。
教育者だった祖父は「増田は賢くなるよ」と言っていたそうだが、実際は違った。全体ではなく当座の、それもとても小さな利益だけしか見えないずる賢い小心者になっただけだった。
もし私が狂気に走り何かの大罪を犯したら、刑事だったというもう一方の祖父は生きていたらどういう顔をするのだろうか。
どうせ日記だから良いんだけど取り留めもなくなってきたしそろそろ寝よう。寝ても強い自殺願望が残っていたのはまだ一度しか無い。
元増田です。レスありがとう。返信の方法ってこれで合ってるのだろうか?
私は自分の経験から、親が自分を産み出したことに対しての恨みは持っていたんだ。あなたが書いてる言葉そのままの気持ち。だけど、長い時間かかったものの、その気持ちを薄くすることができたから、今は「子供の同意無くしてこの世界に生命として産み落とすな」という言葉は自分にしか課さないようにしてる。私は信仰心もうないから、他の理由でなんだけど。
ただ、これから子供を作ろう、産もうとしている人たちにその言葉を強制するようなことはとてもできないなと思う。というかしたくない、っていうのが正しいのかな。私の場合は宗教っていう要素だったけど、もっと過酷な環境の子供たちもいるのは事実で…その状況を突き詰めていったら産むなという意見に寄ってしまいそうだけど、やっぱり他人に強制するようなことは言いたくないと思う。
<注意事項>
※この記事は「個人の信仰の自由」や「特定の団体」を批判・否定するものではありません
私が言いたいことは、
匿名ダイアリーでも散々語られてきた話題かもしれないが、こういう体験をしている人は意外と多いのじゃないかと思う。
長い文章になり、途中で少し口調が荒くなってしまうかもしれない。でも、もし興味が湧いたら読んでいって欲しい。
ここからは私の“個人的な”経験だ。私の家族はある宗教を信仰していて、私自身は産まれたその日に入れられたらしい。物心ついた頃から行事などに連れて行かれ、わりと宗教色の強い生活をしていたのを覚えている。小さかった私は疑問を持たず、それが普通だと思って成長していった。
だがいつかは必ず分かれ道がやってくる。信じ続けていくか、信じないか。
私が強烈な違和感を感じたのは、思春期の頃だった。学校のことで酷く悩んでいることがあり、たまらなくなって両親に相談した。すると両親は口を揃えてこう言った。
「祈れば分かる」
と。
ここで何か思い出した人は、この時の心境がどれほどのものだったか想像できると思う。私はそんな答えが欲しかったわけじゃない。両親が“自分の頭で考えた言葉”が欲しかったのだ。経験、あるいは何かしらの感情によって。
さっき、いつかは分かれ道がやってくると書いたが、私にとっては「祈れば分かる」がそれだったのだ。その日から、両親の発する言葉には“信仰”というフィルターがかかっているのだと知ったのだから。不信感が生まれるのは自然な流れだっただろう。
問題はそこからだった。私は一気に懐疑的になった。今まで当たり前だと思っていた自分の思考も、宗教が土台になっていたのだろうかと考えるようになった。フィルターのかかった両親には、疑問をぶつけても満足のいく答えをもらえるどころか、「信仰が足りないのではないか」と叱責されたり白い目で見られることが何度もあった。何をするにも、何を話すにも必ずと言っていいほど宗教がまとわりついてくる。
私は、家族との「共通言語」をあっという間に失った。同じ土台に立とうにも、私はとっくにそこから転がり落ちてしまっているのだから。
自分の置かれた環境に勇気を持って必死に立ち向かう子供たちは世の中にたくさんいるけれど、小心者の私は不信感を隠して生きていく道を選んでしまった。それと同時に私は信仰心を捨てた。
知識が足りないのかと宗教について学んでみたりもしたけれど、論理的に理解するよりも先にやってくるのはいつも悲しみと喪失感だった。
私はこの家で食べて、寝て、話して、育ってきたのに。 もうここは、私の「帰るべき場所」では無くなったと感じたことが何よりも辛かった。物理的には家には帰れても、もう家族とは同じ目線で会話が出来ないのだと気づいてしまったから。
少し感傷的になってしまって申し訳ない。今、私は信仰心を捨てたまま元気にひとり暮らしているが、どうもこのことに関してだけは平静ではいられない時がある。両親は健在で、正月に顔を合わせるくらいだが相変わらず同じ土台には立っていない。
人間の、人生の寄る辺なさというものは、とても居心地の悪いものだということは分かるのだ。
それでも、産まれてきたばかりの何も知らない赤ん坊や、自分で考えることを覚える前の小さな子供を、勝手な判断で宗教に入れることだけはしないでくれ。
その子供たちが自分の意思で同じ信仰心を持って生き続けられるなら良い。だけど、そう出来ない子供たちもいるのだということを知っていて欲しい。出来なかった時の、あの胸を抉るような絶望を、親たちは想像してくれ。そして、子供たちには“自分の頭で考えた言葉”で接してあげてくれ。
本当に、お願いだ。
プッチーニのオペラ《トスカ》の第一幕は、スカルピアが教会で一人トスカへの邪な欲望を歌い上げるなか、聖歌が響き渡り幕が下りる。《テ・デウム》と言われる名シーンだ。
https://www.youtube.com/watch?v=tgWW6o1y9xI
このときスカルピアは「トスカ、お前は俺に神をも忘れさせる」と叫ぶ。これは、神を忘れなければ非道をなしえないという、彼の拭い切れない信仰心の残滓を感じさせる言葉である。オペラ最後で、トスカは「スカルピアよ、神の前で会おう」と言って飛び降りる。トスカと並んで神の前に立ったスカルピアの心中や如何。忘れ去ったはずの神を目前にして、彼の良心は傷んだのだろうか。
職場にキリスト教徒のフィリピン人がいる。こいつが、ちょっとした不正行為を行って、しかもその協力を俺に要求してくるんで困っているのだ。1回数百円程度の不正で、頻度も多いわけではないが、他の同僚にも協力してあげなよ的なプレッシャーをかけられるし、本人も当然のごとく不正の協力を要求してくるので断りづらく、ズルズルとやってしまっている。やってはいるが、不愉快でもやもやしている。その不正を自由にできる立場にありながら自分はやらないのは、それが不正だからだ。信仰心のある人間よりない俺の方が倫理的だというのはおもしろい話ではある。しかし不思議なのは、その不正行為を行っているとき、彼の神はどこにいるのだろうかということ。神の前で恥ずかしくないのだろうか。それとも神が不道徳であるとか盲目であるとかが想定されているのか。ひょっとしたら「数百円、お前は俺に神をも忘れさせる」なのかもしれないが。
「我々もそうだが、この国の人間はほとんどが信仰心を持っていない」
「そりゃあ、そうだろ。現代人の不平不満を神様に解決してもらおうなんてのは時代錯誤だ」
昔の偉い人は「神は死んだ」なんて言っていたらしいが、俺たちから言わせれば、そもそも生きていたかどうかすら怪しい。
『三種の神器』だとか言うのもあるが、あれだって世代ごとにコロコロ変わって安定しないだろう?
「人々の信仰心が薄れるのは、技術や経済が発展した国では珍しくない。資本主義の晩期は、特にそれが顕著だ」
けれども、それが何で俺たちと似ているって話になるのかが分からない。
生活教にも信者がいるらしいが、あれだって大半が面白半分ネタ半分でやっているだけだ。
「不思議だと思ってな。そんな我々が、こうして初詣といって神社に参拝するのはなぜだろう、と」
ウサクの言葉に俺たちはドキリとした。
確かに、そう言われてみると変な話だ。
そんな非合理な慣習を、俺たちは何の疑問もなく受け入れている。
「初詣に限った話ではない。夏祭りなどでは神社などの宗教施設を使い、自治体含めて多くの人間がそれを後援している」
宗教の自由があるとはいえ、いつだって“自由”はリソースとの相談だ。
俺たちはそのリソースを宗教的なことに割いているって意識が今までなかった。
「なるほどな、ある意味で俺たちは宗教にどっぷり浸かってるわけか」
「なーんか……変な感じ」
俺たちは軽く身震いした。
上手くいえないが、ゲーム画面が暗転したら自分の顔が映った時みたいな感覚だ。
「改めて考えてみると、何とも奇妙な社会だな」
ここにカジマやタイナイがいたら、陰謀論だとかに繋げるだろうな。
「ん~、確かに。アニメや漫画とかでも、登場人物たちが神社とか行くシーン多いよなあ。葬儀も大抵は仏式だし」
そう思っていたら、誰かが藪から棒に喋りだした。
バイト仲間のオサカだ。
俺たちはコンビニに辿り着くと、粛々と目ぼしいものを買い物カゴに放り込む。
「手ぶらで冷やかしに入った人間が、数分後には強盗になっていた」というミームはあまりにも有名である。
財布の紐を緩める罠が、至る所に張り巡らされている。
案の定、弟が引っかかった。
「いらん、いらん。こういうところの福袋は、体よく在庫処理したいのが狙いなんだよ」
「でも定価より断然お得だって書いてある」
「定価でいらないものは、安くてもいらないものなんだよ。そういうものを“お得”だとは言わない」
実際、コンビニは手軽さの割に強力だ。
今やコンビニに出来ないことはない。
……とまで言うのは大袈裟だが、同レベルで便利な量販店が他にないのは確かだ。
それほどまでに便利で、携帯端末と同じくらい人々の日常から切り離せない存在なんだ。
「ここのは注文直後に二度揚げするから、いつも揚げたてだっての。というか、初詣の出店はいいのか?」
「だいじょーぶ、食える食える。それにコンビニ飯の方が安くて美味いし、どうしても食べたいわけじゃないし」
昔の偉い人は「コンビニが日常を席巻する」と言っていたが、それでもここまでだとは思っていなかっただろう。
「焼き鳥って、よほどのことがない限り買ったほうがいい食い物だと思う。近年は特にレベルが高くなってる」
「自宅で炭火焼きは難易度が高いからな。そもそも木炭が市場に出回ってないし」
「仕方ないだろう。一時期、集団自殺の手段として社会現象になったからな」
俺たちは他愛のない話をしながら、少し遠回りをしてカジマたちのもとへ戻る。
「む……」
公園までもうすぐというところで、ふと俺たちは足を止めた。
意外だったのは、この時間帯にしては参拝客がチラホラ見えたことだった。
「結構せっかちな人がいるんだな」
「まあ、年は越しているからな。早いに越したことはない、って考え方もある」
こりゃあ、初日の出の後に来てたら混みそうだぞ。
「……ひとつ提案だが、初日の出の前に、初詣を済ましておくのはどうだ?」
ウサクの提案に、俺たちは頷くまでもなかった。
みんな考えることは同じだ。
「よし、カジマとタイナイたちには、後で交代して行ってもらおう」
俺たちはレジ袋を揺らしながら、玉砂利を踏み鳴らして賽銭箱へと向かう。
「あるとは思うが、そんなコードを気にするほどの信仰心がない」
「そうそう、コードなんて無視するのが現代のスタンダードだよ」
青少年時代。絶対的な、神のような存在がいたならば、縋りたくなるのかもしれない。
それとも単に流されていただけかもしれない。
逃げ出すことをしなければ、洗脳され、崇拝し、盲目的になり、排他的になる。そうしてますます絶対感が増し、信仰心が高まる。
私は神のことを信じられず、けれどとある理由から逃げることも出来なかったので、そのコミュニティに身を寄せていた。
神からは集中攻撃に遭い、背後からは信者に刺される。そんな日々だった。
結果という形で力を持っていた私は立場が低いわけではなかったので、一人で異分子派として居座っていたけれど。
むしろ表面上は私と同じように振る舞う人間が多かったように思う。肩身が狭い中、彼らは仲間だとは思っていた。
一度、事件が起きた。
実に晴れやかな気分だった。荒れた土地の整理は面倒だなあと思ったけれど。
裏腹に、困ったのは信者たちだ。
流されるままに生きてきた彼らは、憐れな程に狼狽え、悲しんだ。
やがて、神を戻すべきだと立ち上がった。
そう。真の異分子は私だけだったのだ。
これには裏切られた悲しみよりも、面白さの方がやって来た。
まず初めに鎖国して、国交を断裂した。卒業まで半年の頃だった。
ニセモノの異分子たちは、正式に神の信者になる者と、異分子ですが?という顔をしてこちら側に来た者に別れた。
私は卒業してから一度だけ礼儀として挨拶に来たが、それ以降そのコミュニティに顔を出すことをしなかった。
信者や、ニセモノの異分子たちは、仲睦まじく傷を舐め合うような関係を保っていたようだけれど。
解放されて少しして、神が死んだと連絡が来た。
重大なそのニュースは、後輩である信者の、恋人から知らされた。
どうでもいいと思って聞き流した。
けれど、少しだけ連絡のとっていた信者に確認したところ、連絡が来ていないというのだ。
信者の後輩が私の友人でなければ、私も知ることは無かっただろう。
使える僅かなツテで、各地に散っている信者に連絡をしろと伝えた。
お前たちの神なのだから、最期は見届けるべきだ。私は見届けないけれど、役目を果たしたのだから十分だろう。
もう奇跡の復活はない。
何も出来ない愚かな信者だけを残して。
「ひとまず見守ればよろしいのでは」
「自分の身内が良く分からないものに入れ込んでいて、何も言わないってわけにもいかないだろ」
「信仰心がなくとも、相容れずとも、敬虔であることは矛盾しません」
「弟はそういうレベルで放っておけないんだよ」
別に“ああいう”のが悪いとまでは言わないが、それの良い面だけ無闇に信じているのがマズいんだ。
サンタは良い子と悪い子を区別してプレゼントを配ったりはしないし、俺たちはプレゼントの中身を選択できない。
ああいう自己啓発に容易く食いついてしまっている弟が、そのギャップに耐えられるとは思えなかった。
あそこで語られたハウツーの効果が、実際どれほど効いているかなんて分からない。
多少は関係あるかもしれないが、他の様々な要因が絡み合って、たまたま運が良かっただけってこともあるだろう。
大した根拠もなく「こうすればいい」だとか「これのおかげだ」と吹聴し、他の人にも伝染させるのは危険だ。
「まともな六面サイコロは、三面を見ただけで全ての数字が分かる。だが、それが本当にちゃんとしたサイコロかを確認するには、結局は転がして見なきゃあ分からないんだ」
「えっと、ごめんなさい。その例えはよく分かりません」
「……つまり弟には、もう少し冷静になってほしいってことだよ」
弟は、あの自己啓発をどんどん吸収していっている。
「仮に弟くんがそれを信仰しているとして、直ちに問題というわけでもないでしょう」
絶対的な根拠があるわけじゃないが、あいつはどこかで躓くという予感があった。
今のままじゃあ、いずれ盛大な転び方をするだろう。
まだまだガキの弟が、周りをちゃんと見ないで走れば大抵そうなる。
弟にその危機感と、転んだときに耐えられるだけの柔軟さがあるかというと疑問だった。
「そうですねえ……対策をしたいとお考えなら、やれることはあるでしょうね」
「何か方法があるのか?」
俺の意志が伝わったのか、ここに来て教祖は“とある案”を匂わせた。
しかし匂わせておきながら、随分と歯切れが悪い。
「いや、そこまでではないんですが……私の立場で、こういうことを口添えしていいものか。明日は我が身かもしれませんし……」
強制的ではないが、あまり“良いやり方でもない”ってことなんだろう。
「とりあえず言えよ。それを実行するかは別の話なんだし」
「うーん、では言いますが、やるというのなら私の顔は思い出さないでくださいね」
そう断りを入れてきたが、教祖は語りだす。
「新興宗教の多くは最初の数年で躓きます。自己啓発が信仰体系の一種だとするならば、それらの過去を顧みて応用が可能でしょう」
だが、そのままズバリ答えを言ったりはせず、迂遠な言い回しでヒントを出した。
「つまり、どうすればいいんだ」
「『生活教』をやっている身として、これ以上は踏み込んで言えません」
あくまで俺自身が考えて、行動するかどうかを決めろってことらしい。
責任がとれないし、とりたくもないので、そういう体裁が欲しいのだろう。
更に、その中から俺が出来ることで限定するならば、必然的に答えも導き出される。
そして、それは予想外に単純なものであり、予想通り良いやり方でもなかった。
超富裕層の皆さんからなら何か良いアドバイスが頂けると思い記載します。
資産運用、節税、信頼できる専門家の紹介などをどうかお教えください。
(単位は万円)
年(年齢) | 給与 | 貸株+配当 | 実現損益 | 金融資産(*1) |
---|---|---|---|---|
2011年(32歳) | 427 | ゼロ | -7 | 644 |
2012年(33歳) | 457 | 6 | -189 | 1186 |
2013年(34歳) | 352 | 20 | 732 | 3854 |
2014年(35歳) | 567 | 18 | 571 | 15102 |
2015年(36歳) | 663 | 732 | 344 | 9012 |
2016年(37歳) | 665 | 434 | 9 | 6162 |
2017年(38歳) | 682 | 83 | 181 | 6200 |
2018年(39歳) | 741 | 102 | 232 | 7500 |
2019年(40歳)予定 | 742 | 150 | 64 | 8700 |
-【損益】財務だけ見て空売りしていたシャープがアベノミクスで暴騰して大損失。
-【損益】リーマンショック直後に購入したApple株が利益に寄与。譲渡益の税率が10%から20%に上がる前に一旦売って買い戻し。
-【資産】主力株が上昇開始
2014年
-【損益】Apple株をすべて売却。億り人に。利益で初めて車(=250万円)購入。
2015年
-【貸株】貸株で709万円。給与収入+雑所得(貸株)で合計1400万円弱。ふるさと納税33万円、海外旅行150万円散財。
2016年
-【資産】主力株値下がりに伴い急減。優待株を70銘柄ほど購入。ジュニアNISAを始めた。
- 主力を小型株2銘柄(4500万円+3200万円)に資金集中させて値上がりを待つ日々。将来的には配当利回り高い銘柄に移行して配当生活を送りたい。
・住居
月12万円のアパート暮らし2023年までは会社補助が半額ほど出る。
・これまでの相談先
・・銀行
2015年ごろ資産1.5億のときに2か所に相談に行った。1億越えの富裕層は別室に案内されて特別な金利の預金でも紹介してくれるかと思いきや、信託報酬がなんと2%越えの投資信託の案内(しかもパンフレットのチャートはリーマンショック後が起点なのでみんな右肩上がり)やら生命保険の紹介しかしてくれなかった。マイナス金利時代に生き残るには銀行も大変なんだろうけど情弱向けサービスしか提供していない模様。というか資産運用の相談先としてよりによって銀行なんかに期待する自分が一番情弱。オフラインはケータイキャリアでも証券でも銀行でも手数料超絶ぼったくりなことは火を見るより明らかなわけでネット専業への信仰心が強まっただけだった。
・・税理士
区役所の無料相談。貸株700万円を超えた頃、法人設立した方が節税できるのではないかと相談にいったが、少なくとも年1000万円を超えないと手間と費用が掛かるだけとのことだった。
先月行ってきた。50分間の無料相談。ふるさと納税や確定拠出年金などの節税は極限まで徹底し、保険は会社の団体生命保険ぐらい、しかも住宅ローンもないのでFP的な典型的な突っ込み所が無かったと思う。ただ厚生年金と健康保険の労使折半の効果は大きく、まだまだ会社を辞めてリタイヤできないという点には気づかされた点が良かった。