はてなキーワード: 信仰心とは
どうみても立花が自滅したら笑い飛ばして終わったことにする輩の集まりにしか見えない。
自分がやれない事をやって暴れてるのを見たいだけのクソザルの集まりというのはわかった。
TVはな、つまんないよ。昔の事を例えにするのはいかんけど今はとてもつまらない。間違いない。
だからyoutubeが面白いかっていうと、そうとも言えない。
ただ悪ノリしてる阿呆が馬鹿騒ぎしているだけでTVで放送できないレベルすらやってしまうのがYouTuberにいたりと
それを支持してるバカも多いだけで、あれが面白いってのはどこかに犯罪欲があるんじゃないのかって疑問を持ってしまう。
もちろんな、本当に大したこと無いことをなんだけど「おぉすげえ」と思わせることをしている配信者もいる。
そういう人の配信に人気があるのはわかる。悪ノリしないでも視聴者が増えるという典型的な例だ。
だが、目立つのは悪ノリの方。ただ暴れているか、屁理屈といちゃもんばかりのYouTuber。
しかも、そういう輩を神のように崇めている視聴者はもっとわからん。バカなの?宗教とか即騙されちゃう人なの?
そんなのがN国の立花を支持してるから恐ろしい。薄っぺらい信仰心のようなもので応援してるんだぜ。
ま、視聴者なんてこんなもんなんだろうけど。
十年以上、病に苦しんだ父が、半年前ついに死んだ。
働きながら介護をする母を労うでもなく我が儘放題な態度が腹に据えかねて、私の中の父はとうに死んでいた。喪失感はなかった。
晩年はずっと病院暮らしで、テレビにも音楽にも興味を失い、言うことを聞かない身体をたまにもぞもぞと動かしながら、四六時中白い天井を眺めているだけだった。
屍のようだ、と頭の片隅に思いながら、正月だけ義務的に見舞い続けた。
見栄っ張りな祖父が購入したお墓は車で行きづらいところにあったが、自家用車は父が寝たきりになった時点で手放した。最寄り駅で集合し、タクシーで向かうことになっていた。
父がまだ通院で済んでいた頃、しばしば付き添いで行った病院だった。ちょうど大学に通うのを辞め、働き始めた頃だった。
「大学は行かないのか」と聞く父に、大学に通えなくなった幼稚な言い訳と、仕事のやりがいを語って聞かせた。
「好きにしな」と父は短く返して、パスタを啜った。
私が志し、そして諦めた学科は父と同じだった。働く父は好きだった。
あの病院での会話が、「生きた父」との最後のやり取りだったなと回想して、少し涙ぐんだ。
清掃して、お供えをして、お線香を上げて、手を合わせても、「生きた父」には二度と届かない。病院で寝ていた屍と同じようなものだ。
選挙戦前後はいつも政治的ブクマカ祭りになるのがここの常だけど、今年は参院選終わっても一向に落ち着かないね。
もともとここは左寄りだったけど、最近もう見てられない。先鋭化されたバカが集まって、互いの信仰心を確認しあって気持ちよくなってるだけでしょ。
直近だと貞本義行のTwitterが燃えてるけど、リプしてるアカウント見に行くと一様に「人生打倒安倍に捧げました」系の痛いのばかり。
Twitterのアカウント画像を旭日旗にして、百田マンセーしてるネトウヨと何が違うのかわからない。
なにが彼らを突き動かすのかは不明だけど、めっちゃ何かと戦ってるよね。
冥福を祈るとは、故人の死後の幸福を祈るという意味である。冥土の幸福、だから、冥福。気軽に冥福を祈ってしまっている人が多いのが、とても気になる。
キリスト教や浄土真宗など、信者への死後の幸福を約束する宗教では、故人の冥福を祈る事が、故人の生前の信仰心を疑っているように捉えることもでき、「ご冥福をお祈りいたします」が嫌味になりえるというのを知らないのか。
故人の冥福を勝手に祈らないでほしい。それは、故人の宗教観を祈る側が勝手に決めていいという傲慢な態度の現れだ。
自分が悲しい気持ちになったという意味の、「お悔やみ申し上げます」を使うべきだと思う。自分の気持ちを素直に述べるべきであり、故人の死後の世界に、第三者である人間がズカズカ踏み込んでいいものではないと思う。
この意見、細かいだの何だの、必ず反発反論食らうんだが、いかに反発しようと、文化庁の出した声明には、「冥福を祈る」が使われていないのは確か。さすがだ。「お悔やみ」と「回復を祈る」は使われているが、冥福は使われていない。
「お悔やみ申し上げます」が、よく知らない人に対しては不適切という意見をよく聞くのだが、別に、悔やむのに故人と親しい必要はないんじゃないの?としか思えん。
よく知らない人だったら、亡くなっても悔やまないの?それこそ不謹慎じゃね?
先日なんとなく読み始めたら思ったより面白かったので少しだけ紹介する。
聖書には2つあって旧約聖書と新約聖書である。旧約聖書にユダヤ人であるイエス・キリストが新しい解釈をつけたもの、それが新約聖書である。なので、ユダヤ教の原典は旧約聖書、キリスト教の原典は新約聖書という関係になっている。
旧約聖書も新約聖書も拝めている神様は1人である。日本語の聖書では「主」と表現される。ちなみに西洋圏の聖書では「YHW」と表現され、読み方は様々である。有名なのでいうと「ヤハウェ」とかがある。よく日本で宣教活動をしているエホバの証人という宗派があるが、このエホバは「YHW」を「エホバ」と発音しているのである。
一般的に旧約聖書の神様は厳しく、新約聖書の神様は優しいと言われている。これには背景があって、ユダヤ教の戒律を守ることは当時非常に大変で、心身が非常に疲弊した人々に対して神様の息子であるイエス・キリストが救いの手を差し伸べたのである。この時の教えをまとめ、旧約聖書にくっつけたものが新約聖書である。旧約聖書の神様がどう厳しいかというと、例えば、信者の信仰心を試すために彼の息子を生贄に捧げるよう要求したり、ルールを守らなかった祭司の息子を焼き殺したりなどがある。ちなみに息子の生贄に関しては、その信者は非常に敬虔で、実際に殺す直前まで行ったため、神様が「お前の敬虔さは分かった。殺さなくていい。」と言って生贄を止めたという話がある。
余談だが、キリストを神様と思っている人がいるが、実はキリストは神様ではなく神様の息子である。
1. まず神様が世界と人間を作り、人間は反映するも大洪水でノアの方舟に乗った人間が生き残り、その末裔にはイスラエルの民がいる。彼らはエジプトに移住した。
2. エジプトで奴隷になりかけたイスラエルの民はモーセに率いられエジプトを脱出し、約束の地カナン(現イスラエル)へ向かう。
3. モーセが神様から色んなルールを授かったり、異民族と戦争したりしてカナンへ移り住むことに成功。
4. イスラエルを建国し色んな王様のお話が展開される。(有名なのはダビデ像のダビデ)
5. その後色々
この中でモーセがエジプトを脱出するときの話が良かったので紹介。
モーセはエジプトで奴隷になりそうになったイスラエルの民を救い出すためにエジプトのファラオと対立することになった。モーセは神様の啓示を受け、イスラエルの民をエジプトから連れ出さないと行けなくなったとファラオに告げるのだが、ファラオは貴重な労働力がなくなるのでこれを拒否した。ファラオが神の力を軽視してることに怒ったモーセはファラオに対して神の力を見せつけることにした。ここからモーセvsファラオのマジック対決が開幕するのである。
ラウンド1
モーセはまず杖を蛇に変えることで、神の力を見せつけた。しかし、ファラオお抱えの魔術師たちも同じように変えてみせた。
→ 引き分け
ラウンド2
モーセは杖を振り上げ、ナイル川を血で真っ赤に染め上げることで、神の力を見せつけた。しかし、ファラオお抱えの魔術師たちも同じように染め上げた。
→ 引き分け
ラウンド3
モーセは杖を振り上げ、エジプトにカエルを大量発生させることで神の力を見せつけた。しかし、ファラオお抱えの魔術師たちも同じようにカエルを大量発生させた。
→ 少し勝ち
ラウンド4
モーセは杖を振り上げ、エジプトにブヨ(アレルギー性のハエ)を大量発生させることで神の力を見せつけた。ファラオお抱えの魔術師たちには真似できなかった。
→ 少し勝ち
ラウンド5
モーセは杖を振り上げ、エジプトにアブを大量発生させることで神の力を見せつけた。ここではファラオお抱えの魔術師たちは登場しない。
→ 少し勝ち
ラウンド6
モーセは杖を振り上げ、エジプトの家畜に疫病を蔓延させ死滅させることで神の力を見せつけた。ここではファラオお抱えの魔術師たちは登場しない。
→ 勝ち
ラウンド7
モーセは杖を振り上げ、エジプトの全ての人に腫れ物を発生させた。ファラオお抱えの魔術師たちは腫れ物のせいで外に出られない。
→ 勝ち
ラウンド8
モーセは杖を振り上げ、エジプトに巨大な雹を降らせることで神の力を見せつけた。しかし、ファラオの臣下たちはみな避難した。そしてエジプトの様々な人や動物が死に、収穫間近の麦もだめになった。これにはファラオは相当のダメージを受けた。
→ 大勝利
ラウンド9
モーセは杖を振り上げ、エジプトにイナゴを大量発生させた。ファラオの臣下たちは負けを認めるもファラオは頑なに認めない。エジプトのあらゆる植物は食べつくされた。
→ 大勝利
ラウンド10
モーセは杖を振り上げ、エジプトから太陽を奪うことで神の力を見せつけた。みんなパニック。
→ 大勝利
ファイナルラウンド11
モーセは杖を振り上げ、エジプトの全ての動物、人間の嫡男を殺すことで神の力を見せつけた。
これにはファラオは負けをついに認めた。
→ 完封
こうして晴れてモーセはイスラエルの民と共にエジプトをでることを許されたのである。
母親は妄信というほどではなく程々に、母方祖母は毎週のように教会へ通っている。祖母は、「神様が見てるから悪いことはしちゃいけないのよ」という旨の説教を度々メールや手紙に綴る。無害なので放置している。
「俺は選ばれた人間だ」
「もし、神様がお前達を殺して捧げよと言ったら実行する」(この言葉を母は鼻で笑っていたが)
「教会へ行け」
「(身内がシスターか神父になれば俺が天国に行けるから)お前はシスターになれ」
帰省の度に「教会へ行け」「聖書を読め」「教会へ行って友達をつくれ。俺はそうした」
大学入ってから一度だけクリスマスの日に教会へいった。行ったことを報告したら「偉い!」と褒められた。ばかばかしい。
いい加減にしてくれ 私はキリスト教にも教会での人間関係にも興味ない 時間の無駄
勝手に幼児洗礼受けさせたくせに!信仰の自由の侵害じゃないの?…と、私は声を大にして言えない
父親が殴る蹴る当たり前のDVクソ野郎であるのも理由の一つだが、私は中学生の頃に「堅信」を受けることを薦められ、断ることなく受けた。 私は生まれてから一度も聖書を読んだことがない、本当に本当に信仰心どころかキリスト教に興味すらない名前だけの信者である。だのに何故堅信なんて受けてしまったのかというと父親の機嫌をとるためである。 あと、今も昔も私はバカなので、「けんしん」と聞いて献身的に教会へ通うとかそういう意味だと思い、私のキリスト教への信仰心くらい軽い気持ちで受けた。これで父親になぐられる頻度が減るかもと思った。
堅く信じる誓いを立てたからにはもう逃げられない。 「行きたくない」「時間がない」 それらの言い訳は「堅信受けただろ」で一蹴される。
彼家は寺の檀家である(彼自身は空飛ぶスパゲッティ・モンスター教を自称している)。結婚を機に仏教にでも改宗したとでも言って教会から逃げようと考えていた。
こないだ、父親と会う機会があった。
「教会へ行けよ」(また始まった)
「△△(今住んでる地区)に永住するなら教会の籍移すぞ」(はいはい) ここまでは私が煮えくり返る腸を抑えればいいだけの話だった。
「〇〇くん(彼氏)もクリスマスとかだけでいいから連れて行くんだぞ」 「彼は仏教徒だよ」 「檀家ってだけだろ。結婚したあとは改宗させろよ」
無視していいよね? この調子だと生まれてくる子供にも幼児洗礼を強要しそう あんたが教会だの聖書だの発する度に虫酸が走るって言いたい。
周囲の信者に尊敬できるような人がいないって言ったら人間のクズと罵られるだろうな。
教会通ってるような人間と友達になりたくないって言ったら今までお前に使った金返せって言うだろうな。
あんたに入学祝いにもらった分厚い聖書はとっくにゴミに出したって言ったらぶん殴られるだろうな。
うっすらとした信仰心に対していちいち反発するほどでもないからつきあってやるぜって気持ちとしての「信仰」を気持ち悪いと言われて咄嗟に「ちちちちげーから俺はあの人を1人の人間として尊敬してるんだよ!」って言う姿……サイコーにキモイっすねえ……なんつーんですかねえ……本当の本当に染まっているとこうなる典型っつーんですかねえ……本物のロリコンが「ぼぼぼぼぼきは単に第二次性徴を迎える前の女体に人類学的な学術敵興味があるだけでして決して幼女タソに欲情しているわけではないのでしねハイ!ハイ!ハイッハイッハイッハイ!」とか言い出す見てーな感じのデスよ~~《末期》を感じちゃいますねえ……いやいや~~茹でガエルとかそういう状態ですらネーですよーお前の身体から出てる出汁そのものが化学反応を起こして熱を生み出している状態っすねえ当事者っすね当事者としかいいようがねえっすよ信仰心より一段深い階層にある部分が染められてるっすよその自覚がなさそーなのは単に重度のワキガが自分のワキガに気づけねーのと同じっすよワキガってねえマジで軽度なうちに対策しねーと駄目っすよそのうち自分で分からなくなるっすからねえ気をつけてくださいねえ加齢臭や水虫もっすよ自分で嗅いでくせーと思うウチにおくすりを塗り塗りしやがれっすよ分かってますかーこれって半分は隠喩ですからねー話は逸れてないですよぉっっとゆーわけで病気の予防にはうがい手洗いっすよこれも隠喩っすよー
親戚が置いていったのを借りて遊んだ。キノピオが扱いやすくて好きだった。
SFCの楽しさを知ったのでブックオフで買ってもらった。当時は確かスペシャルコースで挫折したが、後にリメイク版(GBA)で裏世界到達を果たして満足し、カートリッジをステージ中央に置いて引退。
「ロクヨン」というやつが面白いと聞いてクリスマスに買ってもらう。(トイザらス限定の金色)
当時小学校の近くに住んでおり、「スマブラ」があると聞きつけた同級生たちが連日押し掛け、人生の絶頂期を迎える。
同年、ゲームボーイカラーとポケモン金に出会い、ビデオゲーム好きを決定づけられる。相棒オーダイルの背中に乗って旅する夢を見る。
その後、銀・クリスタル・赤・ピカチュウとプレイして金のポケモン図鑑をコンプリート。
ドラゴンクエストⅠ・Ⅱ
ファンタジーの高揚感と旅の寂寥感を知る。ロンダルキアの雪原でアークデーモンと対峙する夢を見る。
あまりにもハマりすぎたためある日親がブチ切れ、ビデオゲームの類はすべて鍵付きトランクに収監、プレイも土日のみに制限され、スマブラ目当ての同級生たちも遠ざかり、人生の絶頂期が早くも終焉。
念願の「スマブラDX」を買ってもらうも、既に非社交性を存分に発揮していたため64時代の栄光を取り戻すことかなわず。
加えて、ある日帰宅するとビデオゲームが全てブックオフに売却されており、その夜焼肉に連れて行かれた。母は「ゲームを売ったお金よ」と言ったが、あれが事実なのか質の悪いジョークなのかは未だに分からない。泣きながら口に押し込んだタン塩はどこか塩辛く、しかし胃袋は正直であった。
(追記)
上記の事件は私が「ゲームは土日のみ」という約束を破り、トランクの鍵をハックしてこっそり遊んでたことが発覚したせいなので、普通に私が100%、いや99%悪いです。あと親子仲は普通に良いです。
このブックオフ焼肉事変の影響で「時のオカリナ」「ムジュラの仮面」「マリオ64」「バテン・カイトス」など任天堂据え置き機の名作をプレイする機会を失ったのが個人的にコンプレックスになっている。Switchにバーチャルコンソールはよ(今ややる時間がない)
2003~2008年
中高時代、懲りずにお小遣いを貯めてこっそりゲームボーイアドバンスSP(名機)を購入。買い漁った中古ソフトを、バックライトの恩恵にあずかって布団に隠れてプレイし、ド近眼になる。ファミコンミニシリーズでレトロゲームにも触れる(初代ゼルダ、スーパーマリオブラザーズetc)。
大学受験日程を全て消化した瞬間、ニンテンドーDS Liteとポケモンプラチナを購入し欲望のままに徹夜プレイ。DS版クロノトリガーに大感激してゲーム音楽に目覚め、光田康典繋がりでソーマブリンガーをプレイし、DS版ドラクエ5でデボラ派に鞍替えする。
初めてのソニー機・PSPとMHP2Gを購入。大剣太刀片手剣を1000時間振り回し無事留年。
この頃ニコニコ動画でThe Elder Scrolls 4: Oblivionの存在を知る。PC洋ゲーとのほぼファーストコンタクト。初めての日本語化・初めてのmod導入(受験英語でもそこそこちゃんと勉強していた過去の自分に感謝)、初めてのオープンワールドRPG。RAM4GBオンボード最低画質でも20FPS前後だったのにようやってたなほんとに。
Fallout3もプレイし、Bethesda神とHavok神への信仰心を獲得する。
ゲーミングPCへの憧れを抱く。
ゼノブレイドの評判を聞きつけてWiiを購入。ダンバンのあまりのかっこよさにJRPG熱が再燃する。
この頃から心身を病みビデオゲームから離れたため、Wii UやPS3の流行に乗れず、第2のコンプレックスを抱える。
精神に凪が訪れ、Newニンテンドー3DSLLを購入しポケモンやモンハンを一通りプレイするも、さすがにもう限度を弁えていたため事なきを得る。
なんやかんやあって卒業・就職し初任給を全額はたいてBTOゲーミングPCを買うも、なぜか初任給がなくなってしまったのでPCを抱いたまま餓死しかける。
最高画質modマシマシでTES4やFallout3を遊び直したり、
帰宅後の限られた時間でも遊べるインディーゲームを買い集める。
Nintendo Switch購入。ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルドにドハマりし、続けてスプラトゥーン2にドハマりする。プライムデュアル時々スシコラ洗濯機。
Steam、Origin、Uplay、Nintendo Switch、PS4 Proその他諸々に囲まれてあへあへ積みゲーオタクなう
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奥さんは熱心な仏教徒。学生時代に奇跡的な体験をしたのがキッカケで、本当に心の底から信じている。
自分はまったくの無宗教。誰が何を信じようと構わないと思ってる。
我が家には子供が3人いる。結婚前に子供の宗教については「本人たちに決めさせる」と口約束をしていたが、いざ生まれたら当然のように宗教行事に毎週参加させ、毎日朝と晩にお経をあげている。
子供たちが少しでも嫌がろうものなら、怒り狂う。「ご先祖様のためにお経をあげなさい!!」とヒステリーを起こす。こういうときの奥さんは、吐き気がするほど嫌い。正直、死んでほしい。
もちろん自分にもしつこく言ってくる。お経をあげろ。集会に参加しろ。もっと勧誘しろ。
最初は付き合っていた。でも信仰心なんて、持とうと思って持てるものじゃない。ムリがたたって次第に精神安定剤がないと眠れなくなってしまった。
お経、集会ぐらいだったらまだ許せたんだけど、今日、奥さんが子供あてに書いた手紙を見つけた。
そこには「宿題が終わったら、いつもどおり一緒に勧誘に行こう」と書いてあった。まさかそんな日常的に宗教勧誘をさせているなんて、知らなかった。
離婚できるならしたい。でも子供たちのことは心の底から愛している。だから離れたくない。もっといえば両親がいる子供でいさせてあげたい。
素直に信仰心を持てればいいんですけどね…。
奥さんは熱心な仏教徒。学生時代に奇跡的な体験をしたのがキッカケで、本当に心の底から信じている。
自分はまったくの無宗教。誰が何を信じようと構わないと思ってる。
我が家には子供が3人いる。結婚前に子供の宗教については「本人たちに決めさせる」と口約束をしていたが、いざ生まれたら当然のように宗教行事に毎週参加させ、毎日朝と晩にお経をあげている。
子供たちが少しでも嫌がろうものなら、怒り狂う。「ご先祖様のためにお経をあげなさい!!」とヒステリーを起こす。こういうときの奥さんは、吐き気がするほど嫌い。正直、死んでほしい。
もちろん自分にもしつこく言ってくる。お経をあげろ。集会に参加しろ。もっと勧誘しろ。
最初は付き合っていた。でも信仰心なんて、持とうと思って持てるものじゃない。ムリがたたって次第に精神安定剤がないと眠れなくなってしまった。
お経、集会ぐらいだったらまだ許せたんだけど、今日、奥さんが子供あてに書いた手紙を見つけた。
そこには「宿題が終わったら、いつもどおり一緒に勧誘に行こう」と書いてあった。まさかそんな日常的に宗教勧誘をさせているなんて、知らなかった。
離婚できるならしたい。でも子供たちのことは心の底から愛している。だから離れたくない。もっといえば両親がいる子供でいさせてあげたい。
久しぶりにコナンの映画を見てみたら、安室透がスマートフォンのタッチパネルで爆弾の起爆スイッチを押していた。極めて慎重にセッティングされた爆弾を、緊張の面持ちで、つめたいガラスの画面に親指を軽く押しつけていた。
軽くタッチパネルの硝子に触れただけで、その爆弾はスマートフォンから送られた着信を受信し、爆発したのである。
この文章を読んで何がなんだか分からない方は2018年に公開された『ゼロの執行人』をレンタルかBDを購入して観て頂くとして、ともかく、その起爆スイッチを押すシーンというのは、私の中ではこの映画の中では三本指に数えられるほどに印象的なシーンだった。
もちろん、20年も前に始まった漫画のキャラクターがスマートフォンを使っている事に驚いているわけではない。最近原作を一から読んでいるけれど、巻が進むにつれ新しい概念を取り入れている大変面白い作品である。
では何故印象に残っているというか、一種衝撃を受けてしまったのかと言えば、それは起爆スイッチがスマートフォンだったからに外ならない。爆弾の起爆装置を起動させるための中継器が携帯電話なのはよくある話だが、それがスマートフォンになったところでふーんという感じである。携帯界隈の世代交代というほかない。
しかし、しかしだ。爆弾を起爆させるという、そんな重大なスイッチを、誤タッチの危険性があるスマートフォンでいいのだろうか、という心配が過ぎってしまったのである。
そもそも静電式タッチパネルというパネルは、文章を打つという観点からすると非常にいけすかないパネルである。まず文字を打ったという実感がない。決定ボタンを押しても、サイトのボタンがちゃんとタップできているかわからない。リンクが切り替わってやっと「押した」という実感がやってくる。
文章を打っているときはふよふよとしたキーボードというか最早シートのようなアルファベットが、指を当てる度に浮かび上がったり沈んだりというアニメーションを繰り返すけれど、だからといって指にキーボードを打ったときのような打鍵感は伝わらない。平面の板を指でつついているだけである。これでは指の方が変形してしまう。このふわっとした文字うち感覚がどうにも耐えきれず、私はポメラを購入せざるを得なかったし、パソコンを手放せなかったというわけである。
それでもスマートフォンの方が画質は良いし、画面が広いので横書きにしろ縦書きにしろ文章が読みやすいのである。ホームページも見やすい。そう、『観る』というツールとしては大変優秀なのが、画面だけがすべてみたいな、スマートフォンさんという機械なのだ。
それでもやっぱり、スマートフォンで起爆スイッチを押すのはどうなんだ、と思ってしまうのである。
これは安室さんに限ったことでは無く、スマートフォンというかタッチパネルを使ったどんなシステムにも抱く感情なのかもしれない。しかし、頭では確実性はタッチパネルの方が高いと言うことは理解しているのだ。それでも物理ボタンを頼った方が良いのでは無いか、と思ってしまうのは、最早ボタンレスが普通になりつつある現代に対して私が発症した適応障害じみたなにかなのかもしれない。
SFの世界に限ったことでは無く、現在でも様々な入力機械にタッチパネル(静電式)は使われている。
ボタン式の起爆スイッチ(なんかもうこの言葉だけで頭がおかしい気がしてならないのだが)の方が、構造上中継する部品が多い分故障や接続不良の危険性を孕んでいる。それを鑑みれば、やはり起爆スイッチは感度抜群のスマートフォンの画面をタッチする方が理に適っていると言える。間違ってスイッチをタップしてしまい誤爆することはあっても、起爆信号の正確性を考えれば、タッチパネルに何のクッションも挟まず触れてしまう方が、よっぽど確実である。絶対に爆発することができる。
それでも私はボタンの方がいいなと思ってしまうのだ。そんな軽々しい起爆スイッチで大丈夫かと思ってしまうのだ。この感覚が、私がボタンにたいして全幅の信頼を寄せているからなのか、ボタンを押すという実感がなければならないという強迫観念なのか。
あの触感のはかなさに反して、その先に起こる爆発という非常に重たい現象があり、それがコナンたちの命運をかけた一場面だと思うと、宙に浮いたような不安感がただようのだ。
そんなことを深夜に思いつき、こうして書き作っていた。
おわり。