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はてなキーワード: 責任能力とは

2017-09-01

https://anond.hatelabo.jp/20170901133406

成人ならば、労働して、お金で弁償するとか、取り戻すとか出来るけど、未成年には責任能力を問えますか?かといって、何でも精神の成長が未熟としていたら、取り締まれない。

秩序を作るには、どこかで、客観的な線引きが必要ではないのか?

−−−

あと、少年法って対象は何歳までだったかな?

(ちな、「少年」とは20歳に満たない者を、「成人」とは満20歳以上の者をいい、性別無関係。)

一方で、義務教育、施させる訳だし。

2017-07-26

ニセ科学批判ネトウヨが結び付けられるようになったことについて

 最近、ニセ科批判とネトウヨの結びつき、みたいなのについてツイッターでよく見るので、思うところを書いてみることにする。

 先に、俺の立場について書いておくと、もともとニセ科学批判クラスタにいる(た)人間である。以下、いろいろと書き連ねたような事情もあって、最近はニセ科学批判クラスタを批判的に言及することが多くなってきたが、やっぱり世界科学だろう、という思いは変らない。

 余談だが、ニセ科学批判クラスタを批判する人、というのがニセ科学勢力とか、トンデモ勢力というのは意外に成り立たない。そういう連中を自分積極的フォローしてないというのもあるかもしれないが、その手合いはまず自分たちに批判的な人がいることについて詳しく言及すること自体不都合なので、あんまり触れないのではないかとも思う。クラスタの言説に詳しく触れながら批判する人というのは、何だかんだいって「ニセ科学は嫌い」寄りの人間が多いようだ。

 あらかじめ書いておくと、自分見解は、「ニセ科学批判とネトウヨ本来、つながらない」であるしかし、そう言い出す人がけっこういる、というのも理解できないではない。まして、「またネトウヨ連呼厨ガァー!」などと言い出す気にはなれない。なので、どうしてそう思われるようになってしまったのか、といういくつかの自分の思っている理由について書いてみようと思う。

 なお、あくま自分観測範囲ベースなので、それ以上のエビデンス統計的根拠はない。ほしかったら基盤Bでも持って出直してきたら調べてやらんでもない。

 あと、話は基本的ツイッター世界が中心である

3.11以後の動き

 ニセ科学批判とウヨの親和性、という問題が語られるようになったのは、やっぱり3.11以後が決定的である。いちおう、3.11以降について、特に放射能デマをめぐる後始末についていうなら、ニセ科学批判派がおおむね正しかった(細かいとこで間違いや軽口があったのは否定しない)というのは間違いないので、これはどんどん認めていくべきである。そして、その上で、致命的なレッテルを引き寄せる結果となったことについてもそろそろ考えるべきだと思う。

 3.11直後にデマ批判をする人が、今となってはかなり信じがたい形で「ウヨ」と手を結んでいたのは確かだ。これはひとえに、デマの流布をほっておくことが人権問題になりかねない状況だったことによる。一例としては、ゴリゴリ左派左巻健男石井孝明をRTしていたことがあるくらいである。それは、個人的にそこはRTしなくてよかったんじゃないかと思うツイートだったが(別にどうしてもしなきゃいけないRTでもなかった)、しかし当時はそれでも連帯できるところは連帯しないといけない事情だったのも確か。とはいえ、そのRTを見てニセ科学批判派の中にいる自分でも嫌悪感を覚えたので、その外にいて、かつ左派寄りの人がどうとらえたか想像に難くない。

 元々、デマ批判を発信していた人には政治的には左派が多く、その中には、事態が落ち着いた今は左派クラスタのなかへと帰っていった人も少なくない。今となっては、「福島差別」について関心が高いアカウントというのの少なから割合がただのウヨアカウントであり、人権問題危機感を抱いて近づいてきたというよりは単に「ダシにしにきた」ことも明らかになりつつあるのだから、この時期のことについては、ちゃんと後処理をしておくべきではないかと思う。一方で、安易にウヨレッテルを張った側も、そのレッテルについて再検討する必要がある。

多層的な「ニセ科学批判者」

 ニセ科学批判というのは多層的に発信される。最初の発信者、つまり、積極的に資料をあたったり文献をあたって、情報を発信していた人はもちろんいるにしろ、その人たちの話がどう広まっていったかといえば、メディアが広めた場合ももちろんあろうが、ツイッターなどネットではそれを再発信する人によって広まったわけだ。この人たちの中にも濃度がいろいろあって、「なんとなくRTした人」「そういう話を見たら積極的にRTする人」「RTして、自分でもそれをベース意見をいったりする人」「それがさらにバズって積極的ニセ科学情報を集める人」とまあ、いろいろだ。

 こうなると、ニセ科学批判クラスタといっても、もともとの「ニセ科学批判派」の声は流通する情報割合的にはごくわずかということになる。

 俺がやばいと思う層は、じつはこの水増しされた部分であるデマ批判が機能したのはこの部分あってこそなので、水増しという言い方は語弊があるのかもしれないが、しかし、ネトウヨニセ科学批判がむすびつけて論じられることに責任があるのはこの層ではないかとも思う。

 この層、とひとくちにいっても、いくつかある。

(1)善意悪用して、自分イデオロギーをのっける層

 まあこれは文字通りの「ウヨ」層だ。前述の石井孝明とか、池田信夫なんてのもそうだろう。この亜種(1A)としては、ウヨというよりは「左派が憎い」というイデオロギーをかぶせていくケースもある。佐々木俊尚とか、伊藤剛あたりがそうだろうか。そうそう、伊藤剛と昔仲良し今は犬猿の仲唐沢俊一も忘れてはいけない。君たちお仲間だよおめでとう。あるいは、こうやって膨らんだ層を客層にあてこんだ「御用文化人」というケースも亜種(1B)の一つだろう。いちえふの作者なんてのはそうだと思う。最初はけっこうまじめな信念を持って作業員のルポを始めたんじゃないかなー、とは思うのだが。

(2)人を叩くのが好きな層

 言っちゃあ何だが、科学正義であるしかも、ある程度実証が積み重なれば、相対化しようがない正義だ。本当は正義とか正しさなんて一ミリも興味はないのかもしれないが、とにかく人を叩く根拠がほしいならず者にとって、こんな都合のいいものはない。しかも、人権問題としての問題意識までくっついている。人権なんて一ミリも興味がないのかもしれないが、以下同文。

 正義暴走がデンデンという人はネットによく転がっているが、あまりこの点には言及しない、どころかこの正義だけは振りかざすのが大好きだったりもする。彼らの心情は、よくわからない。

(3)理系としての選民思想の持ち主

 一昔前のメディアに流れる文章には、理系に対する嘲笑偏見がいりまじったものというのが結構あった。それを見た理系人が、お前ら哲学で作った飛行機に乗れるのかよ、というような反発を持つのは想像に難くない。俺も昔はそうだったし。それは仕方ないところもあると思う。

 ところが、ネット理系研究者がどっぷりつかっていたり、エンジニアがどっぷりつかっていたりする場なので、そういう人が意外にマスをもてる世界である。それはいいことでもあるんだけど、結果、「理系カルト」のようなものが出来てしまうという面もある。その結果、「文系」をバカにするようなアカウントが出来上がる。昔、科学ネタアニメ談義が話が合うという理由高専生や理系大学生をけっこうフォローしていたのだが、どうもこういう方向に流れていく人が多く、非難がましいツイートが増えた結果リムられたりリムったりブロックされたりが増えた残念な記憶もある。

 これらの人が、放射能デマ批判、さらにはより広いニセ科学批判に群がったわけだ。どれもこれもあまり近づきたくないタイプである

 しかし、本来意味でのウヨはこの中では(1)か、せいぜい(1A)までに限られる。それが全体のうちどれくらいの割合を占めるかというと、あんまり高くないと思われる。おそらく、悪印象のかなりの部分は(2)(3)に起因しているのではないか。(2)と(3)は、本来的にはウヨ思想とは関係がない。しかし(2)はそもそもモラルを欠いている層で、ネットイナゴといわれる集団に近い。そういう人が、ネトウヨ思想親和性を持つのはまあ時間問題である。(3)は正直因果関係を断定しづらいのだが、確かに自分観測範囲では重なる人が多い。理系でもウヨ色の薄い人は理系絶対主義みたいなところには陥らない、みたいな雑な印象がある。

 そうすると、本来関係のない「ウヨ」と「ニセ科学批判」がセットで観測されるということが大量発生する。しかも、(2)(3)は人間性として最悪の、できればブロックしておきたいタイプだ。どこをどういじっても、ニセ科学批判がいい印象を持たれる展開がない。しかも、こういうアカウントに限って、やけにRTされる数が多く、ダメな方向にネットへ広がっていく。

 (この部分追記)「冷笑系」と呼ばれるような集団がともかなり重なっている、というのもいくつかの反応で見かけた。これはもっともだと思う。特に(1A)や(3)あたり。

 後出しじゃんけん承知で言うと、推敲前は言及していたのだけど、定義にやかましい人の怒りが二乗になりそうなのと、話がとりとめもなくなったのでなんとなく端折ってしまった。けれど、ニセ科学批判との関係について考える場合には、「いわゆるネトウヨ」より重要カテゴリーかもしれない。

こじらせびとたちの罪

 ネトウヨ定義というのは曖昧である。むしろ、厳密に定義したところで境界線附近人間大手をふって歩き出すだけなので、ある程度曖昧でいいと思う。ライトノベル定義みたいなものだ。物語シリーズラノベかとか三毛猫ホームズラノベかと言ってる分には意味もあろうが、そこにかこつけて「聖書はラノベでは」とか言い出す奴はつまみ出せばよい。

 しかし、世の中には問題児がいる。自分たちはつまらない理由ネトウヨ扱いされた、だからネトウヨを名乗ってトンチキなことを言い募ってやる!と言わんばかりの連中である。いまどき子供ももう少ししつけられていると思うのだが、そんないい大人がネットにはたくさんいる。被害者意識をこじらせているとしかいいようがない。本人はネトウヨ認定したほうが悪いと思い込んでいるのかもしれないが、申し訳ないが狂人の真似だと言い張って東大路通を走る人間京大生でなければ狂人である京大生でも狂人かもしれない。

 菊池誠氏があんなふうになったのは、一つのきっかけはここにあると思う。しかし、年齢的にも知性的にも社会的立場的にも、責任能力を逃れられる人ではなかろう。自分の不始末は自分でつけていただきたい。きっかけのもう一つの原因(と俺が思ってること)は、次の項で述べる。

 ジャンルは違うけれど、所謂キモくて金のないおっさん」を名乗りたがるネット住民、についても似たようなことが言える。

フィードバックはめぐる

 ツイッターにはRTとかふぁぼという機能がある。ふぁぼはまあいいとして(最近はこれもTLに流れてくるようになったが)、RTは誰が何をRTはしたかが、ある程度分かる。

 RTの基準は人によっていろいろだろうが、まあ第ゼロ近似としては「それに共感するんですね」だろう。直後のツイートで批判的に言及でもしておかないと、そう思われないほうがおかしい、と思う。

 ここでめんどくさいのは、「それに共感するんですね」の「それ」はツイート文章のものであるツイートしてる本人であるか、である。直感的には、前者だろう。後者は雑な見方に映る。ただ、発言属人的に見ない、というのはけっこうなことに見えるが、発言主と合わせて文意判断しない、ただの無責任な態度となることもある。見てる側が、いつも「こいつはどうしようもない奴だな」と認識していれば、それをRTする方も同類とみなされることもある。そんなのおかしい、という人もいようが、そういうものだ。

 さてここで上のニセ科学批判情報の発信の話になる。発信者する側も、自分が発信した情報を受けて賛同し、意見を述べたり非難したりするツイート自分のRTという形で放流するということをよくやる。別に発信者じゃなくてもやると思うからニセ科学批判に集まった人も、さらにそれをやるわけだ。

 ところが、その放流元が「札付き」であった場合、それを「ニセ科学批判に賛同してくれた」という文脈だけで読んでくれる人は、あんまりいない。ごくふつうアカウントなら、はいはい賛同者だね、ということになる。ところがそうじゃない場合問題だ。そりゃあ、ツイート単体ではいいことを言ってるように見えたりするかもしれない。でもそれを、みんな属人的に見ないでくれるだろうな、というのはおめでたい

 でもまあ、そういうことが一度や二度あった、というだけなら、まあどうということもないかもしれない。しかし、これを長く繰り返し続けていくとどうなるか。

 「お前はそういうやつなのか」で離れる人というのは離れられる側にとっても、分かりやすいし素直だ。だが、「お前のRTうぜえわ」で離れる人も出てくる。離れられた側は、もしかしたらなんだか事故にあったつもりになるかもしれない。自分はただ「賛同できるツイートを流しただけなのに」、と。

 それもそうかもしれない。でもそれが繰り返されるうちに、クラスタ自体が、濃縮されてだんだん汚染されていく。そして、やり取りをする相手というのは、本人も気づかないうちに影響を与えていく。フィードバックされちゃうのだ。

 2012年か2013年くらいまでは、きくまこ先生もそこまで変ではなかったが、その後加速するようにヘンな発言が連発されていくのは、こんな感じだったのではないかと考えている。

 ニセ科学批判そのものを凶器として振り回す層というのが出来た結果、その印象がネットイナゴ、あるいはネトウヨと非常に近いものになってしまう。あとは災害が広がるのみだ。子宮がんワクチン水素水、EM菌。本来ならネトウヨと関連付けられる要素なんてないものも、そのスジのアカウントが言及してはバズる、という光景は、「そこ」がイニシアチブを握っている、と認識されることになる。そうなれば、ウヨに批判的な人は近寄りがたくなる。もちろん、もともと発信元として活動していたような人は、自分左派であろうと発信を続けるだろう。でもそこまで中心にいない人は、距離を置くか、あるいはニセ科学批判派の語り口に疑問を持つようになる。

そして深まる左右対立

 このような先鋭化の過程で、本来なら近しいところにいるはずの、歴史修正主義批判や、反知性主義批判(本来意味も、日本独自派生した意味もどっちも含まれる)との溝が深まっていくことになる。めんどくさいことに、これらの集団原発や巨大科学のようなものには批判的で、甚だしい場合放射能デマに一定の親和性がある人もいたりするので、頭が痛い。

 よく、ニセ科学批判クラスタはこれらのニセ社会科学・ニセ人文科学問題には無関心だと言われる。発信する側については実際には必ずしもそうではないアカウントも多いのだが、群がっている層については確かに無関心…… どころか敵意を持っている人が少なくない。理系人が多いので馴染みが薄いし慎重な態度でいる…… というのはなくはないのだろうが、どうもそれだけで済まないところがある。歴史問題法律あたりに目をつけて観察していると、「馴染みが薄いからかかわらない」ではなく嬉々としてトンデモさんを引っ張ってきて何かつぶやいている、という光景を目にして頭を抱えることになる。

 「Aを批判しているのにBを批判しないのはなぜか」はほっといてくれというのは分からないでもない。ただ、それは本当にたまたまのこともあれば、党派性を後ろに秘めてみて見ぬふりをする場合もあるので、けっこう一概には言いにくい論点である状況証拠次第によっては、判断材料として持ちたくなる疑問であるのは確かだ。また、別にこういう「疑問」はニセ科学批判クラスタけが受けるものではなく、左派いちゃもんのように昔から言い立てられてきたことでもあるので、やはり状況しだいでこう問いたくなるのも当然だろう。

 しかしその結果、溝はますます深くなるのである

 こんなことが続いていくうちに、ニセ科学批判クラスタは「身内」に甘い、というような見方もされてくる。そんなことないよ、と言いたいところだが、最近たまにはてブあたりに上がってくるニセ科学批判批判へのブクマコメントなど見ると、妙にニセ科学批判サイドへの批判を矮小化しようとする「ニセ科学批判者」のコメントが見受けられたりして「ああこの人もかあ」という気分になってくる。

経済をめぐる対立

 先日ツイッター問題になっていたのは、これのようだ。mika_berry氏というツイッタラーリフレニセ科学批判とネトウヨのつながりについて言い始めてそれにニセ科学批判派やネトウヨ定義が気になるタイプが反発して少し炎上のようになったらしい。

 経済には明るくないので、具体的なところには踏み込まない。が、ニセ科学批判クラスタ、あるいはもしかしたら理系クラスタまで枠を広げてもいいのかもしれないが、けっこうな割合がいわゆる「リフレ」に近づいたのは確かにそうだなと思う。

 ただしここも距離の違いはけっこうあって、単に「反緊縮」に近づいた人もいれば、はっきり「リフレ」に近づいた人もいる。俺も反緊縮については多分同意すべきなんだろうな、と思う。

 なぜこういう動きが起きたかは分からない。単に、時代的に緊縮はもういい、という風潮だったのかもしれない。反緊縮は数字勘定してイメージやすい「ロジカル」なものからという、もっともらしい理由がつけられるのかもしれない。それはわからないのだが、しかしこの「リフレに近づいた側」の少なからぬ人が、その後決定的にウヨに近づいていくことになる。

 これも理由は分からない。反緊縮には賛同する、という程度の人は、あまりそっちへ動かなかったからだ。アベノミクスなるものがあったからといって、他の論点がいっぱいあるのだから、ウヨに近づく理由にはならないのである。むしろ経済で結果を継続して出せるように安定させるためにこそ、おかしな動きは徹底的に批判すべき、と思うのだが、なぜかそうならない人というのがいた。ニセ科学批判クラスタの外にもそういう人がやはり「なぜか」いて、新たな集団を作るようになる。リフレ経済的に豊かになることを期待するクラスタ、というよりは「政権を応援しマスコミを憎み野党のアラ探しをする」クラスタとなる。経済には明るくないのでよくわからないのだが、アベノミクスのような政策はほっとくだけだと企業が潤うだけだと聞く。こういう人が「再分配を求めるべき」「企業給料をあげよ」というような動きをしたという話を寡聞にして聞かない。本当に経済大事だと思っていたのか、いまいちよくわからないところがある。

おわりに

 昔ながらのニセ科学批判は、党派性から距離を置いているつもりの人が多い。これは「左派が多い」という、上で書いた話とも別に矛盾しない。もちろん、ノンポリもいる。俺だって党派がかるのは大嫌いだ。

 それはいいんだけど、そうありたいと思うこととか、自分たちはそうだと思い込むことは、あんまり何かを担保してくれることではない。

 ここ10年くらいのインターネット歴史は、ノンポリ政治的な層、特にウヨに振り回される歴史だった。

 1970年ごろの学生運動だって、多くは本質的にはノンポリだったという話はよく聞く。でも、左翼運動の迷走についての責任を問われないかといえば、そんなことはないだろう。

 俺が思うのは要するにそういうことだ。ニセ科学批判=ネトウヨというくくりは、なるほど雑だ。だけど、それを一笑に付せる無邪気さは、ちょっと俺には持てない。

(追記しました→https://anond.hatelabo.jp/20170802040735

2017-07-19

https://anond.hatelabo.jp/20170719121643

殺す振りだったり責任能力がなかったりしても誤想防衛又は正当業務行為から違法性はないんだよ

現場での射殺が正当化されるのはなぜ?

何かしらの障害責任能力がないかもしれない。組織の一員、いわゆるヤクザ鉄砲玉で本人は支持されてるだけの存在かもしれない。初犯で1人しか殺してないなら死刑にも値しない。

なんで射殺の許可がでるの?

2017-07-03

都民ファシストの会

小池氏の辞任を責任逃れだのなんだの批判する人がいるけど、逆にその人たちって今までリーダー格の人を利用して責任逃れしてきた人でしょ?

そういう責任能力の弱い人が増えるとまたファシズム的な社会が構築され兼ねないからやめてほしい。

2017-06-26

https://anond.hatelabo.jp/20170626142748

そもそもロリコンなるワードが乱発されすぎなんだよ

ロリコンがその欲望実在する対象に向けるのが許されないのは、対象責任能力がないからで

から気持ち悪いと思われるのも仕方がない

ロリコン欲望は仮にその存在を認めるとしても、強く戒められなければならないわけだ

けど単なる年下狙いまで同じワード同じ理屈を持ってきて一緒に殴ろうとするのは正直どうかと思うよ

それは「気持ち悪い」けど「禁止されてはいない」んだから

それとも年下の責任能力否定したいんかいワレと

2017-03-24

責任能力

http://anond.hatelabo.jp/20170324224847

責任能力メディアで取りざたされるのって、ギリギリ限界事例ばっかりだから、何のためにある制度なの?ってなりがちだけど、典型例はそうでもないんだよ。

例えば3歳の男の子が産まれたばかりの妹の鳴き声がうるさいと思って布団をかぶせて窒息死させたようなケースがこれに当たる(意外かもしれないがこういうケースは結構ある)。

他にも5歳の男の子同士がケンカをして、頭を棒で殴って死なせてしまったケースなんかも同様。

こうした男の子刑事訴訟にかけて処罰しても、なぜ刑務所に入れられたのか分からないだろうし、あまり意味がない。下手すりゃ将来を奪うことになるし。

(なお、保護者損害賠償責任が発生するのは別論)。

名大生の事件なんかを引き合いに出していきなり責任能力制度自体否定ちゃうのはやや厳しいものがある。

責任能力

名大生が無期懲役になったんだ。素晴らしい。

責任能力の有無が判決を分けるらしいけど、責任能力のない人は無罪ってどうなのか。

文字通り責任を負う能力すらないのだから本能のまま再び罪を犯すでしょ。

それでもいいってことですか?

2017-02-19

あらゆる責任から逃れてしまいたい。

仕事がどうとか結婚がどうとかもう面倒くさくなっちゃった

面倒くさいからもう死んでしまいたい。でも痛いのは嫌だから死因は普段料理ものすごい猛毒を入れられて、それを口に入れて即死とかがいいな。

本当は死ぬのも嫌だから、なんか突然頭がおかしくなって何もかもがわからなくなるとかでもいいかな。

とにかく、自分が負っている責任をほっぽり出すか責任能力を失うかしたいんだ。

生きる気力も無ければ死ぬ勇気もない。

2017-02-14

親が悪い→少子化

子供が悪さしたり、バカだったり、不幸な目にあったりする  

↓  

親が悪い、親がしつけしろ、親が監視しろ、親の資格なし、親がバカから、親の責任、こんな親の元に生まれ子供がかわいそう、子供は親を選べない  

少子化不可避じゃね??  

昔は地域社会コミュニティ、もしくは親以外の家族サポートする役割を担いつつもしがらみ地獄だったかもしれないけど、あまりにも親の責任を強調しすぎていてこの状況で子供産もうって輩は無計画中出し組以外ありえなくね?まともな人間ほど避けるよな?子供産むのは困難でありリスクしかいから。少子化はよく経済問題だって言われるけど、教育費とかかかるのもその通りなんだけどそれ以外に親がそれだけの責任を背負えないっていうのがあるんじゃない?女手一つで育てたとかよくやったと思うけど、よほどの人格者でないと子供はまともに育たないし、普通に考えて誰の世話にもならず公的補助も不十分で保育所にも入れらなくて働きながら自分以外も食わせていかないといけないとかマゾゲーでしょ。無計画中出し組の猿以外は最初からその道避けるでしょ。今の状況で少子化必然だって。金だけの問題じゃなくて責任問題。余裕なさすぎ。かといってしがらみ地獄に戻すのは人類退行現象だし、理想的モデルフランス北欧みたいな国家による育児補助型の社会福祉なんだろうけど、日本はジジババの対応必死で構ってられない。社会全体で子供を育てていこうって気概があまりにも無い。親が悪いっていう態度が残る限りこの国は子供を育てることに真面目に取り組まないし、子供生むこと自体が苦難で有り続ける。逆に言えばそんな状況でも子供産んで育てられるってのはレア幸福享受だとも言える。もはや子供を持つの責任能力の高い金持ち中出し組の特権だね。

2016-12-25

[]

今回は少年ジャンプ+

ファイアパンチ 33

氷の魔女(?)の対決は省略か。

まあ、ここで勝つとは思えないから省略しても構成上は問題ないとはいえ、演出上ここでの対決はアグニと氷の魔女対立性と力の差に説得力を持たせるために、描写してもよかったとは思うけどね。

まあ、この漫画構成上切り捨てても問題のない箇所はバッサリ省略することが多くて、逆に対して構成必要だとは思えない部分を執拗に描くからさらだけれども(演出上どこが必要で不必要かなんてのは最終的に作者本位なんだからストーリー問題なければダメではないけれどもね)。

はいっても、一見すると氷と相性のいい強力な炎を纏っていてなお手も足も出ないほどの力の差ってのは最低限分かるので、あれで問題ないっちゃあ問題ない。

後半の展開は、自身に演技を課していたアグニがそこから脱却するためにとった行動が捕らえられていた祝福者の救出という形で行動に移されたわけだったんだけれども、その祝福者から神と崇められて結局は別の演技を要求されるという構図が興味深い。

ただ、個人的にはそーいうしがらみでグダグダされることに関しては興味が無いので、ここらへんの問題は別の話や展開をメインにしっかり描写しながら、同時進行してくれると中だるみしなくていいかなあ。

ラブデスター

感想、というより休載告知に対しての所感。

本編が佳境ともいえる場面だから、ここでの休載は読者目線では残念。

そして、側面的に考えて気になるのはダウンの理由だよね。

何の病気か知らないが、数ヶ月ほど安静ってことは結構な重たさ。

ワートリの先生もそうだけれども、こういうのが重なると労働形態だとか、体系とかを勘ぐりたくなる。

はいっても、どこまでが作者の自己体調管理による責任能力なのか、労働形態や体系の問題なのか、事情を全く知らない身からは勘ぐりしかできないんだけれども。

私としては、そんな状態で考えたところで仕方がないのでテキトーなことを長々と語るのもアレだし、かといって変に気負うのも嫌なんだけれどもね。

フルチャージ!! 家電ちゃん 39話

おお、はっきりと明言した。

正統ラブコメなら告白同義だけれども、まあ本作はそこらへん踏み込むような作風じゃないし、恋愛というよりは敬愛だとか親愛の意味合いが強いんだろうけれども。

オチ脱力モノだが、ガチでやったら禍根を残すレベルだし、それの後処理とかも描かないといけない。

それが読みたいかっていったら「描くべき」ではあっても「読みたい」ものではない。

もし、今回の出来事現実に沿った方法解決し、ドタバタコメディもない展開で描いたとすれば、自然ではあっても誰得である

なので、多少不自然でも最終的に茶番になりつつも、この選択をしたのはいいんじゃないかなとは思う。

というより、私からすれば茶番は照れないで、かつ茶化したりだとか斜に構えないで描ききる位の気概を感じるほうが、むしろ好印象である

2016-12-15

今朝の京葉線電車遅延

一部に「今回電車止めた人は統合失調症だった」って情報が出回ってるね。

他に「酒に酔っていた」という情報もあるし、ちょっと錯綜気味。

ところで、

何らかの精神疾患を患っている人が事件事故を起こすと、

過去事例では必ず裁判で「責任能力の有無」について争われるよね。

でも「責任能力無い→隔離病棟入院中」なはずだから

隔離病棟入ってない→責任能力有る」なので、

本来そんな裁判は成立しないはずなんだよね。

それなのに、なぜそんな裁判が成立するかといえば

責任能力の無い人間が世に放たれている」ということだよね。

これは「猛獣が放たれている」と同じくらい恐ろしいことだよね。

過去事件事故では人が死んだりしているわけだし。

なぜそうなるんだろう?

1.隔離病棟の病床が不足している?

2.医師の診断が誤ってる?

1.について。

欧米諸国が「精神病院を縮小しましょう」運動を推進しているみたいだけど

日本は縮小していないみたいだね。

逆に病院数が増えている様子も無いようだから

仮に患者数が増えていたら病床不足なのかもしれない。

実態については、ちょっと調べた範囲だとデータ不足。

きちんと調べれば分かるかもだけど。

2.について。

裁判弁護人指定した医師によって再診断を行うようだね。

まりセカンドオピニオン的な位置づけってことかな。

精神科医勉強不足・経験不足について警鐘を鳴らしている人も

いるようだし「問題なし」と誤診することはあり得るってことだよね。

であれば、事件事故を発生させる前にセカンドオピニオン

義務化するべきじゃないかな。

事件事故を起こした後に裁判で再診断するんじゃ遅すぎるし。

議員立法とかで作ってくれないかな。

2016-10-26

http://anond.hatelabo.jp/20161025183018

問題おかしいやつにまともな責任能力を持たせたことだと思う。

措置入院必要だったのはむしろこの親父。それも早期に薬物治療必要だった

DVしろ「金を取られている」という妄想しろ統失典型的な症状だろ。

本人が「あ、俺統失だわ」って気づいて自ら病院に出向くことなんてないんだから、周りがなんとかできなかったのか

それとも長江寺の住職が「統失病院では治らないか祈祷させろ」と言って悪化させたか

2016-09-11

http://anond.hatelabo.jp/20160911010415

そうやって自分責任能力無しを匂わせるなら

攻撃的な言動批判をばら撒いて暴れ回らないで欲しいよなあ

2016-09-08

未成年が、18歳未満が判断能力責任能力に乏しいっていうのは、すり替えだよね。

IVAVが悪しきものであるということを認めているわけじゃん、そういう主張が通るってことはさ。

大人になったら悪しきものに手を染めるのはありなんだ?

カルト教に入信やら自殺テロをするのもありなんだ?

違うよね。

年齢問わず、悪しきものに手を染めてはいけない。こうだよね。

なら年齢で議論している時点でダメ

熟女もアウト。人妻もアウト。ババアもアウト。ホモレズもアウト。

全部規制しないとダメでしょ?

2016-08-28

http://anond.hatelabo.jp/20160828000059

すみません。うまく言いたいことが書ききれていなくて。自由意志の程度により「情状酌量」がある、という形で「段階」はあるよという意見は分かります

ただ「情状酌量」については私としては

責任能力が「ない」となると全くゼロとなる点

・いずれにせよ事件が起きてからの事後的対応における話であり「生まれきのことにいつ対応するのか」という話とややずれる点

などにもやもやしたものを感じていた、とご理解いただければありがたいです。

http://anond.hatelabo.jp/20160827235548

複数論点がごっちゃになってる(特に刑事責任問題福祉問題が)が、まぁ言いたいことは何となく分かる。精神障害から生じるコストをその個人1人に負わせるのはどうなんだ、社会負担するべきなんじゃないか、ってことだよね?

1. 刑事の面

とりあえず責任能力の話が出たか刑事の面から考えるけど、刑事の面で増田の言うことを実現するのは困難かなぁ。

何でかっていうと刑法解釈ってのは法解釈の皮は被っているが、実際には国民常識を言っているにすぎないから。

責任能力の有無についてもこれは言えて、医師専門家責任能力はなかったと判断しても、裁判官はこの判断に拘束されないという有名な判例がある。つまり国民処罰感情が強ければ精神障害があっても責任能力否定しないとする余地があるわけだ。

(1) 責任能力肯定されてしまえばもう増田の言うことを実現するのは無理。情状酌量余地はあるけど、まあ社会全体で負担って理念は適わんかな。

(2) 責任能力否定されるとどうなるか。ここは俺詳しくないんだけど、まぁ強制入院されるらしい。この場合治療費ってどうなるんだろう・・・。知らんけど、税金保険で賄わられるとしたら社会負担してることになるのかしら。何か違う気がするけど・・・。

2. 福祉の面

刑事から離れて福祉の点から考えると、もう俺にはお手上げ。みんなもっと精神障害について理解しようぜ!ぐらいしか言えない。

3. おわりに

とりとめがないが、以上。

2016-08-27

ハンディの話をより詳しく

ありがとうございます

要は、身体的なハンディについて、本人が努力してどうにかする(それこそメガネのような補助具から義手義足車いすなど)という考え方がある一方で、「バリアフリー」って考え方もあるじゃないですか。社会の方がバリアとなっている関門を積極的に下げることで、ハンディハンディではなくなるという考え方。階段の横にはエレベーターを設置しましょう、とか。つまり社会全体でハンディの一部を背負うという考え方がある。

では、精神的なハンディについては、どうなんだろうなと。本人の自助努力(カウンセリング、投薬治療なども含め)が全てなんでしょうか。知的ハンディについては、社会福祉の一貫で社会負担を一部肩代わりすることもされるけれども、精神的に多大な問題引き起こしそうなハンディ境界性人格障害だとかサイコパスとか、そこまでいかなくてもADHDアスペルガー症候群、そういったハンディに対して社会はどれだけ負担をしているのか、するべきなのかとちょっと思ったということです。そのせいで問題が起きたとして、それは100%本人に責任を帰すべきなのでしょうか?

前者の場合社会が「一部を負担する」という関わり方ができるのに、後者場合は、責任能力の「有無」みたいな、0か1かという極端な判断のされ方をする。でも、ハンディってそういうものじゃないということがだいぶ分かってきた現代において、精神的なハンディに対する法の在り方は時代に即しているんだろうか、と思ったわけです。

http://anond.hatelabo.jp/20160827215506

一回トラバ間違えました。すみません

http://anond.hatelabo.jp/20160827174356

1. テストステロンが何かよく分からんのでアレだが、基本的には(1)~(4)全てについて、原則行為者(高畑裕太)が強姦罪の正犯になる。(1)~(4)で挙げられた事情情状酌量考慮要素になるだけ。

無罪の途があり得るとしたら、責任能力がないとされた場合ぐらいだろう。テストステロンの影響が精神障害の域に達していて、行動が自分制御できない場合無罪になる。

2. 他方、テストステロンの投与者((1)(2))については原則として無罪。おそらく犯罪自体はそそのかしていないよね?なので教唆犯は成立しない。

有罪の途があり得るとしたら、間接正犯が考えられる。テストステロンの投与によってもはや高畑裕太が投与者の道具にすぎない状態になったケースにこれは成立する。ただこの場合犯罪自体はそそのかしていないとすれば、成立しない。

2016-08-26

http://anond.hatelabo.jp/20160826120704

いや別にそんなに難しくないよ。

増田が言ってるように、意思能力増田責任能力って言ってるけど正確には意思能力)の有無ってのは外からからないために、各種後見制度がある。これによって取引相手方保護されている。

他方、今回のPCデポの件は意思能力の有無の問題ではなく、消費者無知無能力につけこんで不必要契約を結ばせてしまったところに問題がある。

この点については基本的常識に立って考えれば問題はない。つまり、よく分かっていなさそうな人にきちんと説明しているか無知につけこんで搾取していないか、等を考慮すればいい。

安心して勧誘してもらいたい。

発達障害責任能力が無いかは外からは判らない

最近、「発達障害だったのにこんな契約を勧められ、断り切れず契約してしまった」「老人で判断能力が落ちていたのにこんな契約を勧められ、断り切れず契約してしまった」みたいな話を良く見るが。そんな事、どこで判断したらいいんだろう?障碍者手帳でも出されれば、流石に判るだろうが。

自分不快に感じるような営業されるのは嫌いだし、運よく自分勧誘する側として業務にかかわる事は少ないけれど。そういう仕事の人は大変だなぁ…と思う。

勿論、めちゃくちゃな契約を結ばせた某社を擁護する気は少しも無いが。一般的勧誘について、そんなに簡単に白黒付く話じゃないとも思う。

2016-08-02

弱い物いじめ楽しい

ドルヒトラー安倍首相も、

社会的弱者国民の標的にする事で自分へ向かう不満を外国人障がい者に向けている。

しかしてこの国はもう先進国とは言えなくなってしまった。

今や衰退する一方であり、彼ら差別主義者の口車に縋る気持ちもわかるようになってしまった。

そこで下記を提唱する。

障がい者の臓器は高価買取販売を国がサポート

税金負担が減り、無駄食いの口減らしにもなる。

障がい者には責任はないので両親の許可殺処分をする事とする。

またこの制度悪用して高齢出産を繰り返して産廃生み出す羊水の腐ったババアがいそうなので、

出産時の年齢が30代までとする必要があるだろう。

40代で産んだ障がい者は親も頭が障がい者なので、

双方に責任能力なしとして犬猫回収と同様に国が責任もって捕まえて処分するべきだろう。

悲しいことだが、

今の日本ではこうすることでしか生き延びられないと考える。

しかし、私は反対する。

死なば諸共、日本国という大きな母の子である我々は障がい者と共に沈んで行くべきだろう。

2016-07-29

知的障碍者への差別意識から逃れたい

あの残忍な事件の後、犯人への憤りと知的障碍者への差別意識自身感情シーソーのように揺らぎ続けている。

人間として強い怒りを犯人に感じながらも、池田殺傷事件秋葉原通り魔事件ほどに被害者の無念や遺族の悲しみを思い犯人を憎むことはなかった。犯人へ怒りを感じても憎しみは感じていない自分がいた。

昔、書店で働いていた頃によく来ていた知的障碍者男性にいきなりあなたはブスですねと叫ばれたことがある。長い時間ブスブスブスブス言われ続けた。ブスはいないでください、ブスはいないでくださいと連呼された。わたしと他の店員たちは何も聞こえないように作業を進めた。

幼い頃から容姿からかわれいじめられ続けてきた。わたしの顔は確かに醜い。それを何とか他の面を伸ばして生きることで克服しようともがきながら生きてきた日々だった。

店内の他の客の視線を集めるなかで、駄々をこねるように言葉を発し続ける男性に湧いた増悪と焼けつくような痛みは今も心の奥で燻り続けている。

殺害された方々はその言葉わたしに投げつけた男性ではない。わたしが彼らを殺した健常者ではないように、まったく別の人間だ。彼らに何の咎もない。

それでも、知的障碍者は人を死ぬほど傷つけようが理解も出来ず責任能力も問われない人たちなんだ。あの人たちには確かに人を傷つける力があるのに簡単に人を傷つけてくるのに、といった意識わたしの正しく事件を捉えたいという意識邪魔をしてくる。

犯人の主張を知らなかったならこんな思いはしなくてすんだのかもしれない。心の奥の傷が共感を誘ってくることに今、必死で抵抗している。

2016-07-26

そもそも自分意思社会的に持たないから(責任能力が無いから)安楽死しようがないものをどうやって今の憲法で殺せるんだろうか

安楽死させてあげたいと世論誘導するにもあんまりにも無理があると思うんだけど

憲法改正を想定済みなんだろうか

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