はてなキーワード: 誰かのためにとは
上手い理屈をつけて反論は出来ないから、感情で意見を言わせてもらいたい。
*
生まれてこない方がいいと思うことは、社会全体から見たら生産的なのかもしれない。
健常な労働者が1人増えるわけだ。だが社会全体から見たら1人の力の影響は微々たるもので
そのうち障害を抱えた方の割合は幾らですか?
もちろん、あなた自身やご家族にとっては悩ましい大きな問題だろうと思います。
*
私は、あなたがあなた自身を含めた障害者の方達が生まれてくるべきか否かと、
考えてしまうことが、非常に勿体無いと思う。
私なら、生まれて来たんだから何か人の役に立つことをしよう、人の役に立てる人間になろう、と考える。
そう考えるようにしている。
私もあなたと同じように、生まれてこない方が良かったという思考に囚われた時期が有った。
でも、そんな風に考えると前に進めなくなってしまう。
思考が狭く狭く自分の殻の中に閉じ込められて行くような感じがして生きる気力が湧いてこなくなる。
*
生まれてきて良かったと思えるように出来ることはなんだろう。
そう自問自答して、日々の行動に移すようにしている。
しょっちゅう躓いて、後ろ向きなことを考えて、時々死にたくなっても。
私は歯を食いしばって、這いつくばって進んで行こうと思う。
平日は週末を楽しみにしているくせに、週末になると絶望的な虚しさに襲われ、仕事したくないなあなんて思いながらまた平日を楽しみにしてしまう。
昔は1日中アニメ見たり漫画読んだりであっという間に週末は潰れてしまっていたが、
歳をとってきたせいか段々どちらも興味が薄くなってきて、暇を持て余してしまう。なおイングレスも飽きた模様。
平日仕事している時には「これは週末にまとめて調べてみよう」なんて後に回すんだけど、
週末になると自然と仕事に関することは避けてしまい、結局「やらなきゃ、やらなきゃ」なんて義務感と責任感の残骸みたいなものだけが残って心から週末を楽しめない。
テレビを見ていると、鉄腕ダッシュが放送されていた。どこかで見たことあると思っていると、やはり再放送というテロップが流れた。2014年の9月。去年の夏だ。
もうそんなに経ったのかという思いと同時に、俺は何をしてきたんだろうと思う。
思い出らしい思い出がない。この僻地で、一人っきりで、仕事しかしていない。
俺は何のために仕事をしているのだろう。何のために生きているのだろう。
思い出が主食だ。思い出を思い出しながら、俺はかろうじて生きている。
その割には、ここのところ将来に向けての思い出を作っていない。
作らなきゃ。思い出を、楽しい思い出を作らなきゃ、俺は人生に迷ってしまう。
結婚がしたい。もう、自分のために生きるのは飽きてきた。誰かのために生きたい。
でないと俺には仕事をしかなくなってしまう。仕事がなくなった時には、たぶん死ぬしかない。
旅に出よう。趣味がない自分にとって、主食のひとつである旅は、また自分に何かを与えてくれるかもしれない。
残念なことに、今週も来週も天気予報は雨だ。
はやくこの一人っきりの家を出ないと、俺は自分を救えなくなる。
仕事がただでさえ忙しいのに不勉強な他部署の人の斜め上の質問にまで回答を要求され気付けば10時半。今日もまた電話しなきゃいけない顧客と話ができなかったな、となんとか帰って11時半。お腹すいた。
冷凍庫にしらすが凍っていたからうむむと考えパスタを茹でた。オリーブオイルににんにくと唐辛子を入れてじっくり風味をつける。凍っていたしらすを入れて炒めるときれいなきつね色になっていく。
ちょうどいい頃合いでパスタが茹で上がる。これまた凍っていた大葉やみょうがをぱらぱらと散らして炒める。風味づけに白だしをちょっと。
ブラックペッパーをがりがりと引く。火を止めて、あおさのりのことを思い出したので水洗いして追加する。
即席の、しらすと大葉とのりのペペロンチーノ。うん、なかなか美味しい。
仕事は好きだ。達成感もある。でも、例えばこの仕事が痛切に誰かのためになってると思える瞬間ってそんなにない。それは私が事務職だからではなく、例えば接客だって芸能人だって、仕事である以上そんなもんかもしれない。
今日、私はごはんを作って私を幸せにしました。もうちょい野菜をとか、11時過ぎてそのメニューは太るぞとか色々あるかもしれないけど。でも料理ができるってことは少なくともすぐ結果が出るので、食いしんぼうな私の満足にすぐさまコミットする。ビバ料理。
プロでもなんでもないけれど、自分に料理があって本当に良かったとときどき思う。こんな疲れ果てた日は特に。料理は少なくとも私にとって、私自身を幸せにする力だ。
辛そうだな。
働き始めて一ヶ月たったか。傍で見ていた感想だが、お前さんはよく頑張ってきたと思う。
もし俺が同じ立場だったとしたら、きっと途中で挫けていたよ。
お前さんに向かって、頑張るな、とはいえない。それは今まで頑張ってきたお前さんの努力を否定するような気がする。
でもなんていうか、ちょっと頑張り過ぎじゃないか。仕事量はわかんないけど、俺が言いたいのはそうじゃなくて、意識の高さのことだ。
素直さと真面目さはお前さんの長所だと思う。きょうびはてなで、お前さんくらいの奴は見かけない。
だがなんというか、もう少し肩の力を抜いてもいいと思う。仕事の仲間が時に、キツイ言い方するときがあると思うけど、そういう時はお前も悪態をついていいんだ。クソッ! あのファッキンプロジェクトリーダーなんだよあの態度! むきゅーむきゅーしてやるっ! 位の事言っていいんだ。もちろん面と向かっていうと向こうも傷つくかもだから(言ったほうがいい時ももちろんあるけど)、例えばここで吐き出してもいい(迷惑に思う増田たちはいるだろうが、その分逆にみんなの愚痴を聞いてあげればいいんだ。…いや、ダメかな? 無責任なこと言ってゴメンな皆 汗)。
ダメな自分(失礼)を許してあげていい。今日俺が食べたミスドのポンデリングとコーヒーはセット価格にならなかったけど、それを教えてあげたら店員さん必死に謝ってた。一昨日のモスバーガーでは釣り銭が少なかった。
でもいいんだぜ。それでいいんだ。皆頑張ってる。俺は知ってる。ちょっとくらいのミスでは困らないよ。他の人が(客の俺とかが)カバーすればいい。
社会人なんてそんなもんさ。ちょっとくらい頑張らなくたって、構わないんだよ。
あるいは俺は甘やかしているのかもしれない。厳しく言ったほうが店員さんのためかもしれない。そうしなければ他のお客さんが迷惑するのかもしれない。
でも知らないよそんなの。どうでもいいんだよ。
俺が嫌なのは、嫌だったのは、心をすり減らすことだ。自分の心をアスファルトに引きずって摺りおろしていくこと。頑張る、頑張る、つってどんどん自分を見失っていって、自分をいたわることさえ忘れてしまうこと。危険を知らせる非常ベルを、自ら叩き壊してしまうこと。俺達は社会人だ。社会人は仕事をして対価としてお金をもらう。だからその分ピッタリの労働力を提供すればいい。ピッタリ。ジャスト。それだけでいい。自分の本当に大切な物まで差し出すことはない。
そういうことは俺はもうしたくないし、俺の周りにいる人たちにも、してほしくない。
俺はエゴイストだ。勝手にマウントをとってエラソーにアドバイスを押しつけている。きっとお前さんの現実は、俺がぼんやり考えているのよりもっと切実だと思う。
だがなるべくなら、出来る限り、自分を大切にしてほしい。人はしばしば、誰かのために何かのために、自分自身を無視する。価値基準を知らず捨て去ってしまうことがある。少なくともかつての俺はそうだった。
文系の院入学は”入院”、すなわち後戻りできない病院での長期”入院”と近しい意をもち
引き返せなくなるところまでは決して行ってはならぬ
というお達しをどこかで聞いた。
実際、大学院に進学して今年で三年。
この三年間で、色々なことに気づくことができたと個人的には思っている。
まず、上にはいくらでも上がいるんだろうなという
当たり前のことを、授業の度に痛感した。
文系院生の肩身の狭さは、まるでそれが社会貢献として役に立つのか立たないのかあやふやなままに
ただひたすらに大量の資料を読み、文章を書き続けなければならないという事実にあるだろう。
これ一体何の役に立つの?
と自問したとき、答えが返せないという恐怖と戦うために
ゼミの度に教授の語学力の高さに圧倒され、自分の能力に絶望、ゼミが終わるたびにトイレで泣き暮れる日々が続く。
また何より学部のころと比べて随分、笑いの数が減った。
周りの友人が社会人となって卒業し、大学院での友人もこの春卒業を迎え、残された今
そして研究室の隣の席には、論文が書けず、ずっと休学したままの先輩がいる。
彼の机には山積みの資料がどっさりと置かれていて、毎日毎日それを読み漁っている。
しかし議論の場になると、その人の言っていることは何やらさっぱりわからない用語を繋げた謎々みたいで
挙動からも、精神状態が徐々に崩れているのが明らかにわかり始めた。
そのような姿を横目で見ていると、さていよいよ
自分達がやっていることが、あまりに”他者”のいない閉鎖的な営みであることに気づかされて、ゾッとする。
普通に就職していれば、その倍以上のお金が、同じ時間で稼げたというのに。
さらに言えば、理系とは異なり、就職口は進学によって減るばかり。
どう考えてもこの選択、常軌を逸した愚か者の所業としか言いようがない。
そう確信したのは、去年の秋で
嗚呼、疲れた、もう大学出たい、文献読めない、いやだ、十分だ、どうして進学したんだろう、やだ、と
ぐるぐる考えてばかりいた。
諦めの境地に至ったのかもしれない。
今更、どうにもならない。
どうせ選んだ道ならば、のんびりやろう。
よく考えれば自分のことだから、大学院に進学しなければ、これほど社会と繋がることの大切さを意識することもなかった。
今後、誰かのためにという気持ちで働くための動力源に変えていければいい。
そのためにも今できることをやろう。
あれほど苦労していた英文献の講読が、それほど苦にならなくなったことも
大きいかもしれない。
文献が読めると、知識も広がり、やりたいことが増えていく。
もっともっとと欲も出てきて、開き直り、最近ではまだ勉強したいなと思うこともある。
そして何よりも
いつも冗談ばかりを言っているその姿からは学部時代、想像することもできなかったが
呆れ顔を浮かべながらも
ちょちょいと頭の中で辞書を広げるように、色々な助言を次から次へと加えていく恩師の姿を見て
世の中には本当に、恐ろしいくらい頭の良い人間がいるものなんだな、と思いつつ
あと十年二十年、学び続けることができたのなら
私もいつか
こんな風に楽しそうに、学びを得ることもできるようになるのかしら、と夢を見つつ
ある集まりのSNSに参加していて、参加者には外国人もいるので交流は英語。割とまじめな、落ちついた感じの集まり。その参加者の中の、英語のネイティブではない外国人の一人がしんどい。
アメリカのヒップホップや大衆映画なんかの影響かもしれない、常にghetto的な、"bro"的な言い回しをしようとしていて(説明しにくい。分かりますか?)、
それ自体は全然かまわないんだけど時々彼が使う言葉にドキッとする。彼は、hey bitchesとか、hey niggersとか、絶対その場にそぐわないだけじゃなくて下品で差別的な表現を使うことがある。
今日もSNSの投稿の中で使っていた。皆「えっ」と思ったり、不快な気持ちだったりはしているのかもしれないけど、誰もそれを指摘しない。
私はアメリカで育って、レイシズムとかフェミニズムとかについて何度も考える機会があった。
女性でアジア人というだけで、軽く扱われたり差別されたこともたくさんある。
特にniggerって、歴史的な経緯から、アメリカでは黒人ではない人が公共の場で使ったら大騒ぎになるくらいの深刻な差別用語だ。
でも、ここはアメリカじゃない。文化的な文脈や言葉に対する理解が違うのは分かってる。SNSはClosed groupの設定だから集まりの中で私たちが許容する限り誰にも迷惑はかからないという見方もある。
そもそも、他の人に対して使っていい言葉と悪い言葉をどうこういうのは傲慢なんじゃないか。
こんなことをぐるぐる考えたけれど、やっぱり一言言わなくちゃという結論に達した。
彼の発言を正すというより、自分がここで声をあげることが大切なのだと思った。
「うっとうしいかもしれないけど、その言葉は一般的に差別的だとされていて、私も聞いていていい気持ちがしないから使わないで欲しい」
と書くと、「You got one thing right. (この文の中で1つだけは正しいね)」と返事が返ってきた。
つまり、注意した私がうっとうしいと暗に言っているわけだ。
彼がどう受けとるかは私にはコントロールできないことだ。
普段の彼の様子から、こういった反応は十分予測できた。勇気を出して抗議したことが報われなかったことは悲しかった。
誰もこのやりとりに関わろうとはしなかったことも悲しかった。
黙ってればよかった、とは思わなかった。だって、ここで何か言わなかったらアメリカにいるブラックの友達に顔向けできないし、何より自分が許せないだろう。
私が誰かのために声をあげられないのであれば、いつかまた私が差別を受けた時、誰が私のために声をあげてくれるの?
人種だけじゃない。国籍、セクシュアリティ、ジェンダー、障害、身体的特徴、社会的立場、年齢、趣味。差別の種は世の中にあふれている。
皆、差別される側であり差別する側になりうるんだから全然他人事じゃないでしょ。
だれだって間違いは犯す。
私だってきっと不適切で人の気持ちを傷つけることを言っていると思う。
それを誰かに指摘されたら、きっと恥ずかしいし言い返したくなるかもしれない。
だけど本当は素直に、ごめん、気をつけるね、で済む話じゃないのかな。
いろんな人がいるのだから今回のことは気にしないようにしようとしている。
でも、意外と傷ついている自分がいる。黙ってればこんな思いをしなくて済んだのにな。余計なことをしたのかな。
いや、個人レベルで行動を起こすのが大事なのだから私は自分がすべきと思ったことをしただけだ。
頭の中でずっと考えがループする。
おかしいと思ったことを口にするのはすごく勇気がいる。そして傷つく。
それでも言わなくちゃいけないことはある。もっと鈍感だったら生きやすかったかもしれない。
友達に話したらきっと肯定してくれて慰めてくれてあなたは正しいと言ってくれると思うけど、そこに逃げたくなかった。
自分の正しさを確認して終わり、じゃなくて、自分でもっと考えて消化したい。でも、誰かに聞いて欲しいので増田に書きます。長くなりましたが、読んでくれてありがとう。経験を書いたことで既にちょっと癒されました。
これを言う人が伝えたいことは、「だからあなたも頑張って」かもしれないし「だからあなたはひとりじゃないんだよ」かもしれない。みんなが頑張っている内容は、朝早く起きることだったり満員電車で通勤することかもしれないし、遅く帰宅した日に食事を用意することだったり、眠れない夜に目をつぶってじっとしていることかもしれない。それらは多くの人が日常的に行っていることであり、同時にいくばくかの我慢や努力を伴うことでもある。毎日爽やかでわくわくした気持ちで目覚し時計を止める人は、もっと寝ていたいという気持ちを押さえ込みながら布団を出る人よりは少ないだろう。
けれども中にはその苦痛が耐えがたいほど重篤な人たちもいる。内科的、あるいは精神的な病気が原因で、外からはその苦痛が見えにくかったりする。なまじ多くの人が毎日行うことだから、なにがしらの苦しみを日常的に経験しいるから、その重篤さは見過ごされがちである。他の人は我慢しているのにどうして同じようにできないのかと、周囲の人も本人も大いに悩む。頑張れない人間には生きている価値がない、いやむしろ社会の迷惑だと自分や相手を追い詰めてしまうかもしれない。
でも、その苦しみは必ずしも同じではない。あなたが深く深く苦しんでいるように、他人がみな同様に苦しんでいるわけではない。
だから安心して自分の苦しみを癒やすことに注力していい。自分よりももっとつらいかもしれない人や、もっと我慢しているかもしれない人のことなんて心配しなくていい。そんなことはもっと後からでいい。心が絶望に満ちておらず、かつ誰かの絶望を理解し、それを少しでも掬ってあげられるような人間に、長い長い時間をかけてなれるだろう。
うまく言えないけれど、伝えたいのは、
みんなつらいけど死に至るほどじゃなくて、
誰かのために頑張る余裕もないわけじゃなくて、
先週金曜に職場の飲み会があったんだけど、そこで俺が仕事で良い成果を出したという話になり、
さすがだな、たいしたもんだと先輩方に言ってもらえたので、いい気になりそうなのをこらえ、
「いえ、自分一人では絶対何もできませんでした。皆さんが僕をサポートしてくれたからこそ、
ここまでやってこれたんです。本当にありがとうございます。この恩は仕事でお返ししていくつもりです」
というようなことを言った。
そしたらその晩、その場にいた先輩のうちの一人からLINEでメッセージが来て、
「お前は人に支えてもらうことしか考えていないのか」
「自分が誰かをサポートする、という発想がないようなら、俺は今後お前と仲良く仕事していくことはできない」
などと言われた。
飲み会での発言は当然この先輩に向けたものでもあったし、先輩のサポートだってしていきたいと思っていたので、
このメッセージにはびっくりしてしまい、何か誤解があるのかなと思って、
「自分も人に支えてもらうばかりでなく、誰かのために力になりたい、サポートしたいと思っています。
しかし、今は人に支えてもらったぶんの半分も返せていないと思っています。先輩にもこれまで助けてもらっていて、
感謝してもしきれません。その分これから返していくつもりです」
と返事したんだが、
「そんなふうに、自分が誰かの力になるという行為にエクスキューズをつけるようではまだまだだ」
と返され、どう言っていいのか分からず、以降会話が途切れている。
確かに、誰かに何かしてもらったから自分もお返しに、というふうに交換条件的に他人に何かしてあげることしか
できないのは人間としてどうかと思うし、できることなら自分も、無償の愛っていうと大げさだけど、見返りを期待せず
自発的に人を助けられるような大人でありたい、と思っている。それでこそ立派な社会人だと考えている。
ただ、もしかしたら、自分も後輩や友人、恋人に対して支えとなったり助けを施してこれたのかもしれないけど、
それを自分で「俺は見返りを期待せず、こんなサポートをしてきた」「頼まれたわけではないのに、人にここまでしてあげた」
などと主張することが、とても品のないことに思えてならない。
だから俺もその先輩に「いえ、自分はエクスキューズなしに人の力になれる人間です。誤解です」と言うことができないでいる。
自分のしてきたことや、それが職場や人間関係にどんな好影響をもたらしたかをちゃんと述べることは大事なんだろうけど、
どうしても「自分は見返りを求めずに行動してきた立派な人間だ」と言うことが下品という考えにしばられ、
http://anond.hatelabo.jp/20150124122808
ブコメはありがたく全て目を通させて頂きました。考えはまだ拡散してまとまりません。
フェミニズムの延長として、男性にも抑圧されてる面があるんじゃねって視点が出てきたわけで、実はこれはフェミの成果でもあるのよ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/239953973/comment/c_shiika
『男性権力の神話』の著者ワレン・ファレル氏は元々フェミニストであり、女性の社会進出を助ける活動を行っていたそうだ。
彼が目指しているのは女性差別と男性差別の双方を撤廃することであり、アンチフェミニズムではない。
フェミニズム議論は「男性は女性を抑圧する加害者である」に留まりがちだが、復讐から一歩進んで、
「なぜ男性は女性を抑圧してきたのか」「男性が抑圧されていなければ男性が女性を抑圧する必要が無くなるのではないか」と、
男性は「美貌の女性」に憧れてそうしたストーリーを消費するわけではない。むしろ、「待ちの姿勢で居る高嶺の花的な美貌の女性を捨て身の献身でもって落とした男性」に憧れるのである。特攻隊についても言及されているが、彼らは別に"天皇および祖先のため"だけに死んだわけではない。家族や守るべきもの、あえて言えば自分が「男らしさ」を発揮できる対象(≒自分より弱い者)のために死んだのだ。死で終わるこの手の物語は言うまでもなく「捨て身の献身」の物語として最上のものである。そしてこの手の物語に最も惹きつけられる人間は、自らの命の価値に自信が持てない人間である。なぜなら、誰かのために死ぬことは、少なくともその誰かの命の価値を自らの生に与えることだから。
http://anond.hatelabo.jp/20150125113634
他人に価値があると言って貰えないと、自らの命の価値に自信が持てないことに、様々な人間関係上の問題の原因があるのだろう。
人間はゲームの初期設定のように平等なスキルポイントと割り振る自由を与えられているわけではなく、
体力10+知力10+魅力10=総合30点の人間と、体力1+知力1+魅力1=総合3点の人間が存在するのが現実だ。
欲するだけの「客体としての価値」が得られなかった人間が、苦しみのはけ口として男女論を使うシーンは多い。
個人的な苦しみが絡むからこそ、多くの男女論は生産的な方向に進まず、ミソジニーとミサンドリーの殴り合いになる。
人種差別も似たようなものなのだろう。「自らの命の価値に自信が持てない」から、無条件に自分よりも命の価値が低い存在を必要とする。
そして、今「強い男女」であったとしても、老化によって「弱い男女」になっていく。
自分は強い・美しい・賢いから生きる価値がある…といった、条件付きの自己存在承認をしていた場合は、
事故や病気、老いなどが原因で「弱い男女」となったとき、精神的なクラッシュを迎える可能性がある。
また、テクノロジーの進歩によって、自分の役割が「商品」に代替され、存在意義が揺らぐ可能性もあるだろう。
親より友人より恋人より、音声アシスタントの方が有益で快適な話し相手になる時代が来るかもしれないのだ。
他人に求めていただくこと、他人に価値を認めていただくこと…そのハードルは昔と比べてどんどん上がっていくだろう。
特攻隊のような捨て身の献身も、「生産性が無い」「時代遅れ」「死ぬしか能が無い」と冷笑するのが今は主流かもしれない。
「女性が待ち」の構図は戦前の男性社会が作ったんだよね。女性から告白するのは「はしたない」ものだったわけで、むしろ抑圧の象徴だったんじゃないかな。
http://b.hatena.ne.jp/entry/239953973/comment/azutokimiya
女性から男性への告白を禁じることによって、よく告白される男性と全く告白されない男性の格差を隠すことができる。
女性は欲望を持たない清廉な存在だというファンタジーも、女性に傷つけられないためのモノ化手法の一つなのだろう。
男性が「女性Aには興味があるが、女性Bには無い」という感想を持つように、
女性も「男性Aには興味があるが、男性Bには無い」という感想を当たり前に持つものだ。
「男性B」扱いされることを恐れすぎる男性は、女性による欲求の表明を抑圧する構造・風潮を作ろうとする。
たかが一人の女性に必要とされなかったことによって、自らの価値が揺らぎすぎることに原因があるのだ。
性差別問題は、「男性には許されて女性には許されない」「女性には許されて男性には許されない」の解体が最終目標となる。
ただ、もし仮にこの解体が上手くいって、男性だけの苦労や女性だけの苦労が無くなったとしても、
客体としての価値が高い「強い男女」と、客体としての価値が低い「弱い男女」の格差は残る。
「強い男女」同士が同僚・友人・恋人・配偶者として求め合い、「弱い男女」は「強い男女」を求めつつあぶれる結果を招くだろう。
「最貧困女子」が話題になったが、弱い男女は客体としてはストレッサーになる場合が多いのだ。
昨日放送されたNHKの「ネクストワールド私たちの未来」では、73歳の高齢男性が篠田麻里子演じる若年女性に恋をする描写があった。
数年前に放送されたNHKスペシャルでも、重度脳性麻痺の40代男性が、「脳性麻痺ではない健常な女性と恋をしたい」と主張していた。
夫に興味を持てなくなった中年女性が、ヨン様や氷川きよし、K-POPアイドルなどに熱を上げるのも、身近で耳にするレベルでよくある話だ。
こうした欲求に対して、釣り合わないだの、みっともないだの、鏡を見ろだの、要は「欲求を持つな」と強要する人々が居る。
しかし「弱い男女」が「強い男女」を求める気持ちは、禁じても無駄なほど強いものであろうし、求めるだけなら権利があるのである。
ただ「強い男女」にも、「弱い男女」からの求めを受け入れるかどうかを決める権利がある。当然の人権だ。
受け入れられなかった側が「高齢者差別」「障害者差別」「ルッキズム」などと怒ったとしても、
弱者に、強者の個人的交友や時間の使い方の選択権を侵害する権利があるわけではない。
思考メモとあるとおり、従来の男性ロールが別に男にとって素晴らしいものではない理由が並べられながら、だからどうするという結論が存在していないのだが、この増田は恐らく「男らしさ」の物語に強い憧れを抱いているのではないだろうか。増田は巷に溢れる「待ちの姿勢で居る高嶺の花的な美貌の女性と、その女性を捨て身の献身でもって落とした男性」のストーリーに対し、
と書いているが、男性は「美貌の女性」に憧れてそうしたストーリーを消費するわけではない。むしろ、「待ちの姿勢で居る高嶺の花的な美貌の女性を捨て身の献身でもって落とした男性」に憧れるのである。特攻隊についても言及されているが、彼らは別に"天皇および祖先のため"だけに死んだわけではない。家族や守るべきもの、あえて言えば自分が「男らしさ」を発揮できる対象(≒自分より弱い者)のために死んだのだ。死で終わるこの手の物語は言うまでもなく「捨て身の献身」の物語として最上のものである。そしてこの手の物語に最も惹きつけられる人間は、自らの命の価値に自信が持てない人間である。なぜなら、誰かのために死ぬことは、少なくともその誰かの命の価値を自らの生に与えることだから。
だが現在では、男であるというだけでそうした物語の主人公になることはできない。自由恋愛の下に女性と付き合い、結婚し、家庭を持つ必要がある。しかし自由恋愛の下では、男性内での強者/弱者という構造が発生する。「男らしさ」規範を内面化した弱い男にとってこの構造は大問題である。「男らしさ」の物語に憧れているのにもかかわらず、自分はその物語の主人公にはなれないのだから。
降りてしまえば楽になる。だが、降りる自分と「男らしさ」の物語に憧れている自分との折り合いをつける必要があるから、「男らしさ」の物語の酷さを並べて物語を崩そうとする。あるいはフェミに傾倒したりすることもあるだろう。
ただねえ、そう上手くはいかないんだこれが。強いて言えば老いが解決してくれるんだが、そんなこと今悩んでる若い子に言ってもしゃーないか。
違う違う。
まだBlu-ray出てなかったっけ。
あの偏屈なエンジニアの初回顔合わせのところで明かされてたハズ。
つうか、「オレの事を戦争の英雄から軍上層部に伝えてもらえれば」「何やっても研究所で解剖されるだけ」ってやりとりも覚えてないのか。
そもそもが、
という流れで、トムはループを抜け出すことよりも、ループを使って周り(人類)を助ける事を目的にしてる。
途中ヤケになって、バイクで脱走してビール飲んでるシーンが有っただろ。
あれがあるから、明確にトム・クルーズが自分のためにループを使ったりループ脱出をしようとしてるんじゃなくて、
誰かのために、シゴキの途中でガンガン撃ち殺されるのを耐えてるって象徴的なシーンになってる。
デブが飛行機墜落に巻き込まれるのを見捨てるシーンとかも、「大義のために大事な人をも見捨てる」象徴だよな。
(直接描かれてないが、トムが一人でダムに行くってことは、エミリー死んでるだろ)
あの最終決戦時に、「エミリーにとっては会って間もないトム」と「トムにとっては死ぬほどコンテニューして助けようとしたエミリー」が対照的に描かれてただろ。
10年が経った。新卒当時、出したエントリーシートは50社以上、
企業は1社もなかった。
でも、あの時、死ななくてよかった。
そして、就職活動で失敗して良かった。
言っても過言ではない。参考になるかは解らないが、
書いてみたいと思う。
■とにかく手に職をつけるという意識ができた。
落ち続けた俺は、とにかく手に職を持たないと、
どこも採用してくれないと考えるようになった。
そしてこの時、気付けたことは非常に正しかった。
「自分の技術」と「仕事の結果」だけが、仕事を持ってきてくれる。
という意識が刷り込まれた。俺は、就職活動を失敗したおかげで、
置いてもらえないか相談をした。
なるとのことで、アルバイト780円みたいな金額で
置いてもらった)
今でもこの時の考え方は凄く役立っていて、
0円でするというのが、非常に有効だと気付いた。
みんな「タダ」であれば、技能的に欠けていても、
お願いしたくなると解った。
実績を作ってしまえば、あとはその結果に見合った
応募していたが、それは間違いだと気付けた。
効率的に作業をこなす人であった。
全く向いてないと気付けたことは大きい収穫だった。
という作業は自分にとって
就職活動に失敗したおかげで、
自分が一生続けたいと思えることを見つけることができた。
就き続けれる限り、俺はハッピーだと気付けた。
■安定とは幻想だと知ることができた。
やりたくもない仕事に何年も就くことになるかもしれない。
その会社の企業人としては最適化されるが、他で通用するかは解らない。
自分の置かれている状況が悪くなっても、
自分のスキルを客観視できないので、転職するのが怖くなってしまう。
皮肉なことに安定を望んだ選択を続ける結果、
不安定要素が膨らんでいくことになる。
振り回され、仕事を辛そうにしているのを見ると、
なったことは、すごく良かったと実感している。
続けてくれた両親と、「お金は渡せないけど、ご飯2人分は
作ってあげる」と言ってくれた彼女には一生頭が上がらないと思う。
就職活動を失敗したおかげで、
自分にとって本当に大切な人に気付けた。
最優先で助けたいと思えるようになった。
―――――――――
あの時、本当に死にたかった。でも死ななくてよかった。
この言葉が届いて前を向いてくれたらうれしいです。
【追記】
思った以上にコメントをいろいろいただいたので、
道が切り開けることたくさんあります。
素敵な人生は転がってると思うので。
>大企業のこと、お前何もしらないだろ?
半年くらい前に辞めましたが、
ここ3年くらい働いていた会社は、
(中途採用で入れてもらいました)
一生、好きなことをして食っていくための力は、
>運が良かっただけだろ?
たぶん、その通りです。運が良かっただけです。
でも、無事故ではないです。書きませんでしたが、
彼女に振られてどん底まで落ち込んだり(半年後に寄りは戻せたけど)、
仕事の話いただいたりと、紆余曲折は今でもしょっちゅうしてます。
なんというか、就活失敗したおかげで、
転び方が上手になったと思うんですよね。
>俺も彼女ほしい
誰かのために何かをしてあげたいと思ったら、それを実行した段階でお返しを心の中にもらっていると思う。
見返りが欲しいとか、相手の変化を見たいとか、相手の喜ぶ顔が見たいとかは、私の基準では欲の範疇(確かに喜ぶ顔が見れたらうれしいではあるけどね)。
人は欲で行動してもいいと思うけど、私は自分の欲で行動しているという自覚は持っていたいし、私と関わる他人にもできれば持っていて欲しい、と常々思ってる。
具体例を挙げるなら「インド人の乞食にお金をあげてもたいてい感謝しない」ってのもそういうことだと思う(お金をもらった瞬間に相手の心に対価は与えているし、徳を積ませているのでイーブン。互いに上も下もないし、貸しも借りもない)。
誰かのため、なんて無い。すべてが自分のため(自分の心が満足するため)に行動してると思う。
そういう感覚が当たり前なら、自らが与えた乞食がありがとうと言わなかったり、飲食店も態度悪かったりありがとう言わない(対価の食事は渡しているから)ことに対して文句も出ないはず。そういう感覚に触れたいってのもインドに惹かれる理由の一つ。あー、また行きたいなぁ。
でもよく考えたら20年くらい前から考えてたな。この感覚(「○○してあげるというくらいならやってくれるな」が口癖だった)。