はてなキーワード: 計算機科学とは
何かの参考とかにしたらダメです。書き始めて半年経つんだけどこっからどう直したらいいんだか(何をゴールにしたらいいのか)わからない。。
追記:合流性とか強正規化可能性とか停止性とか、全部チューリング不完全で、事前の静的解析で使うメモリの最大量が確定できる、とかそういう風に読み替えられる人を増やしたいのです、数式の添え字とΣと∫にびびらない人を増やしたいようなもので
数理論理学の一分野である証明論から成長した、数理論理学と理論計算機科学の境界領域の研究領域である型理論(type theory)は、大規模なプログラムの内的な整合性のチェックを行うための方法論を必要とする情報処理技術の分野で関心を集めている。
そもそも「型」(type)とは何か。プログラミング言語は一般的にはレコードや関数といったプログラムを構成する「値」(value)の定義をする道具である(*1)。その言語のコンパイラ作成者はこれらレコードや関数などの値、もしくは第一級の対象(first-class object)の種類を区別する型システム(type system)を必要とする。抽象代数学の観点からすると、「型」とはこれらの値もしくは第一級の対象が属する高階の対象(higher order object)としての空間(space)ないし代数系(algebraic system)で、型システムはそれら「型」とそれら相互の関係(relation)つまり型のなす順序構造(order structure)ないし束構造(lattice structrure)であるといえる。
プログラムを構成する値すべてに型が付くためには、曖昧でない(*2)こと、自己矛盾していないこと、悪循環を含まないこと、それぞれの値の内容をチェックするために無限の時間を要しない(*3)ことなどが必要で、これらを満たすなら、プログラムは有限時間で実行を終え、停止する。手続き型言語では無限ループ、型無しラムダ計算では無限再帰によって型付け不能なプログラムを書くことができるが、型理論はこれらのチューリング完全な計算機を意図しない停止しないプログラムから守る装甲でもあり、再帰やメモリ確保で好き勝手をさせないための拘束具でもある。型が付くプログラムには単に停止するというだけでなく、可能な実行経路(訂正:経路→方法)のすべてで同じ結果を出すなど種々の良い性質がある。
1)この定義は現実に使われているプログラミング言語の特徴を覆い切れていない、狭い不満足な定義だが本稿では都合上この定義に立脚して限定的に議論する。例えば変数(variable)というものを持つプログラミング言語もあり広く使われているが、これについてはレコードや関数と同じように性質の良いものとして扱うことが難しい。難しさの原因は次の注の内容と関連する。近年は変数を扱うかわりに値の不変のコピー(immutable copy)やその参照に名前を付ける機能を持つプログラミング言語が増えている。
2) 現実の情報システムでは、COBOL言語のレコード再定義やC言語の共用体、一般的な関数ポインタやVisual Basic言語のvariant型変数のように、同一領域に異なる型の値が共存する共用型(union type)の値がしばしば必要となる。共用型の値はgoto文を排除した構造化/オブジェクト指向プログラミングにおいて条件キャストやクラス分岐などによる実行経路の複雑さの主要な原因になるが、これは和型(sum type)すなわち相異なる型の非交和(disjoint sum)として定義することで曖昧さなく定義できる。
3) ゲームプログラムやネットワークサービスにおいてしばしばみられるように、入力として無限リストや任意に深い木のようなものを想定する場合には明らかに(条件を満たさない限り)停止しないことが正しい動作となり、この場合は最外周のループを(←どうする?)メモリリークを起こさないなど別の考慮が必要となる。
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AI研究者の[[大澤昇平]](東京大学特任准教授)は、『AI救国論』の中で「労働人口の減少を、産業用ロボットによって代替することが可能になる」という説を論じている<ref>{{Cite book|title=Ēai kyūkokuron|url=https://www.worldcat.org/oclc/1120736271|publisher=Shinchōsha|date=2019|location=Tōkyō|isbn=9784106108280|oclc=1120736271|last=Ōsawa, Shōhei.|last2=大沢昇平.}}</ref>。
[[筑波大学]]はコンピュータに関して先進的な教育を実施していることで有名であり、同世代(1987年生)の卒業生には同じ未踏スーパークリエーターの[[大澤昇平]]や[[古橋貞之]](MessagePack開発者)がいる。
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E8%80%85&diff=prev&oldid=74635894
**大澤昇平(計算機科学)
「ソリューション型研究開発プロジェクト」は、代表的な修了者として[[大澤昇平]](AI研究者)や[[古橋貞之]](MessagePack開発者)といった高度IT人材を輩出している。
}}{{efn|AI研究者の[[大澤昇平]](東京大学特任准教授)は、「'''日本におけるAIの教材としては現時点でのベストプラクティス'''」と評している{{R|OHS1015}}。}}
Alembert(=大澤昇平) のwikipedia編集履歴
Alembert = 大澤昇平 の明示
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が、そこに至るまでの結論はわりと複雑で、単純に論じられる問題ではない。
いちおう言っておくと、自分は旧帝大の数学科出身で、代数学・計算機科学的な議論はひととおりできるし、教育にも携わったことがある。
まず第一の論点として、少し厳密性に欠ける話なのだが、掛け算の左右は本質的には同じものではない。
つまり、(結果として交換可能かどうかではなく)意味的に交換可能か、というと、これは交換不可能である。
すなわち「掛け算の右と左は全く異なる意味を持つ」ということができると思う。
そもそも掛け算というのは、●を▲回足す、といった素朴な定義からスタートしている(現代的な数学基礎論の立場でもこのように掛け算を定義していると言ってよい)。
●を▲回足すことと、▲を●回足すことは、結果の同一性は置いておいて、少なくとも意味としては異なる話であろう。
実際、たとえば●を▲回掛けることと▲を●回掛けることを比べると、これは結果すら異なってくるわけだから、素朴に交換してよい、という話にはならない。
(数学では、非可換環だとかベクトルの作用だとかわけわからんものが山ほどあり、そこでは乗法やそれに類する演算が交換不可能なことは日常茶飯事である)
ところがこれが交換可能になってしまうというのが、「交換法則」の主張するところである。
これは掛け算そのものがその定義の中に「自明に」有している主張ではなく、定義から証明することによって主張される、いわゆる「定理」である。
するとここで「学校教育において、未だ習っていない定理をテストの解答に使用してもよいか」という第二の論点が現れる。
これに対する解答は、「よくない」である。
例えば大学入試においてロピタルの定理を使うことは、それが問題を解くために非常に役に立つにもかかわらず、許されていない。
どうしても使用する場合は、自らそれを解答用紙中で証明したうえであれば使うことができる、というルールだ。
さらにいえば、仮に交換法則を使ってもよいとして、「交換法則を使った」ことを明記せずに最初から定理適用後の姿で立式してしまうことにも疑問点が残る。
この論点でもやはり基本的には交換不能である側の意見に理があると考える。
と、言うのも、基本的に文章題においては日本語を数式に変換するための「解釈」は解き手に委ねられているからだ。
つまり、3個ずつのリンゴを5人に配りました、という日本語から「3個を5回足すんだな」と解釈することにも、「5人を3回足せばいい」と考えることにも一定の妥当さがあり、そこには読み取りの自由がある。
これは算数や数学の問題というより、日本語としての読み取り方の部分に交換可能性が潜んでいるのである。
したがって、この文章を数式にするにあたって5×3と書いても、それは何ら減点要素ではない。
まとめると、
掛け算は意味的には交換可能ではないよ→でも交換法則があるよ→でも習ってない定理は使えないよ→でも日本語の読み取りの部分に交換可能性があるよ
ってことで、左右逆に書いても丸になるというのが結論。
IT業界にはこういう系の人が多いけど、その中でそういう障害を医者から診断された知人がいる
ふと、この間それで相談のようなものを受けた、人並みに増田くんのように女の人と付き合ったり、恋愛したり、結婚したりするためにはどうすればいいのかと
大の大人が、こんなことをわざわざ聞くのだから、相当な悩みだったのだろう。IT業界では割と30や40や50でも独身という男も女も多いので、感覚がマヒをしていたようだが、ふと街の回りを見ればみんな普通に恋愛をしていて、どうすればいいのかわからないし、恋愛ってどういう感覚なのかと聞いてきた
俺は、普通の感性で答えた。そして、それを知人はこう理解していった
「そうか、増田君みたいに相手の女の子を僕が大切にしているサーバーやゲーミングPCみたいに大切にすればいいんだね」と
「子供の頃、大好きなオモチャを大切にしていたように、女の子を大切なオモチャのように扱えばいいんだね」と
俺はそのあまりにもサイコな言葉を聞いて血の気が引いた、でも彼は本気でそんな認識らしい。
結婚している人間の中でも、そういう認識で相手にドン引きされて離婚や、家庭崩壊を起こしてしまうITエンジニアの男や女が多いらしいことは、噂で聞いたことがあったが、その根本的な原因に恐怖を覚えた。
IT業界がブラックで、マトモな人間ほど20代のうちに足抜けしてしまい、人を物や数字のように扱って使い捨てが横行しているのも、構成している人材がこういう感性だからなのかもしれないと思う
誓って言うが、彼ら彼女らは歴史に名前を残すシリアルキラーの幼少期のように崩壊しきった家庭や、性的虐待を受けていたとか、そういう激烈な体験をしているわけがなく、頭の障害として、何の悪気もなく理解ができないという病気になっているのだ。
彼ら彼女らは、本気で人間や生き物と数字や物の境界線があいまいなんだ、計算機科学には異様に強くなり才能が強く出れば出るほど、そういう特性が強くなってしまうのだと
これを読んで発狂する程腸が煮えくり返ってキレるような反応をする人も、ふーんそうなんだと思う人も、反応は様々だと思う
だけど本当に、本当に生きている生き物とモノや数字の境界線や存在が別というのが理解できない人は、悪いことは言わないから、医者にかかってください、治療すればだいぶんマシになります。
ハードウェアをシミュレーションするの技術を身に着けたいんですけど、
そういうプログラミングコンテストってありませんか。
習得したいことは
C++で、
メモリ→メモリアロケーションとかガーベジコレクションとか
CPU→アセンブラで命令を与えてCPUの挙動をシミュレートしてみるとか
ハードディスク→保存・削除を何万回実行する、とかディスクフラグメンテーションとか
自分で作ってみたりはしてるんですが、どうも抜けや漏れがあるだろうし、
コンテスト形式で動作確認ができるのであれば利用したいのですが・・・、
AtcoderとかTopCoderとかって数学とか計算機科学とかで
Kaggleは機械学習だし、AI系のコンテストはわりとあるんですが・・・。
誰かご存知ありませんか?
ほとんど伸びてないからその他みたいなジャンルにぶち込んどくんが正解だとはおもう。
そうすりゃ他のやつにまずランキングで勝てないから出てこない。
そもそも、youtubeは視聴履歴に対応してのおすすめが優れている。ランキングでいいものを見つけるという時代がもう終わったのだと思う。
仮に中韓ヘイト政治やホモがランキングから消え去ったとしても、ランキングシステムではyoutubeにはもう勝てない。
検索で、見る奴が望むものにマッチするのにとことん特化したgoogleにどうやって勝てるのか?
そもそも、日本の計算機科学の論文数が世界20位(ちなみにyoutubeのアメリカ1位、ビリビリの中国2位)という散々たる状況でどうやって見る奴にマッチするようなシステムを作れるのか?
新自由主義で、大学を疲弊させて、基礎研究がボコボコになってるつけが、日本発動画サイトのニコニコに影を落としているとも感じられる。
勝手にジョークぶちあげて揚げ足取られたら話の筋道をそらすのは如何な論法かと思うけどね、ジョークならジョークで完結させろよと言いたいが、「それはジョークだじゃあ話を元に戻そう」、これでいいのでは?それとも子供に対してCPUのことを計算してくれる装置ですよと語りかけるが如く丁寧懇切に連立方程式の解き方からBLASの存在まで説明しろとおっしゃるのかな?
それは筋が通らない話だと思うし議論する気があるなら最低限・・そうだな大学がならう数値計算とか並列計算機の授業のレジュメをさらっと目を通すぐらいはしたらどうでしょうか?
https://www.cspp.cc.u-tokyo.ac.jp/hanawa/class/sp20180925.pdf
うーむHPCに対するアプローチは二通りあって情報工学的に計算機科学の一環(つまりスパコンを作る側)として見るか、1科学者としてのシミュレーションを行う場、仮想実験場(スパコンを使う側)としてる見る場合の2つのアプローチがあると思うのだけど・・・PEZY-SCを搭載したシステムに関しては前者、計算機科学の成果としてみるべきシステムだと思うのよ、これの成果としては「非GPUで超メニーコアシステムを実現すると共に高効率なシステムを構築することに成功した」って言う一つの事実に集約されると思う。
でここで高効率なシステムの基準はなんなのかとというと「HPL」と言うベンチマークですわな、HPL=LINPACKと言う認識で話を進行させるけど、HPLは本来連立方程式の求解を行う速度を競うベンチマークであって、これを皆が手放しで賞賛してるのはおかしいと言う批判が存在する。
これは一理あってすべての科学技術計算の性能向上に寄与する指標とは言いがたいからだ。
じゃあなんでこれが推されている居るかというと理由は何個かあるけど連立方程式の解を求める必要のある技術計算はとても多いから、昔からやっててデーターが揃ってるから
ここまででHPLが重要視されている理由がご理解いただけると幸いなんだけど・・じゃあ具体的に連立方程式を使用する場面を示せよと言われると腐るほどあってどれを示せばいいのかわあらんのですが・・
http://www.cs.kyoto-u.ac.jp/wp-content/uploads/2012/07/05hori.pdf
まああんまり人様の研究をあれこれ紹介して間違った説明しても申し訳ないので中身には触れないでおくけど実際に連立方程式は最もシェア率が高い問題であると言う認識は持ってくれると
話が早い
まあさっきのXeonでいいじゃんって話も一理あって性能が低くてもx86_64時代のコードそのまま使いまわせるし、さっきあげたユーザー側から見た時楽ちんであるのは事実だ。
なによりintel C++/Fortranコンパイラと言うクソ便利なものがあってライセンス料払うとある程度勝手に高速化してくれたりするし使いまわせるコードも多い
まあPEZY-SCよりXeonのほうが計算機を研究してるわけじゃない物理学者とかの各種研究者エンジニアからすれば魅力的な点が多いのは事実だと思う
だからと言って計算機科学としての計算機の純粋な性能向上を主とする研究・開発成果を邪険にしていいわけないしまた別の問題、確かに商業ベースで考えたとき
これらの問題をどうにかしないといけないのは事実だし改善して行かねばならないのはPEZYやエクサスケーラーの各位に残された課題であるのは間違いない。
だが少なくともまだこの世に銀の弾丸となりうる万能システムは存在しない。
もしあるなら俺にくれ あといい加減なこと言ってたらゴメン、強いひとに殴ってもらうと筋トレになる
わたしの知っている知能の高い人たち(wais-iiiでIQ140~くらい出す人たち)はみんな興味のないことが全然できない。
好きなことばっかりやってて、どうでもいいことに対してはすごく冷淡。
でこれまでわたしは彼らのそういう性質は知能の代償なのかなって思ってたんだけど、実は因果の向きが逆で、好きなことしかできないから彼らは知能が高いんじゃないかって思うようになった。
まず人類の学問の体系は、だいたいどんな分野であれ似たような方法論に依っている。
物理学でも文化人類学でも計算機科学でもやっていることはだいたい同じだ。
で、知能というのはそこで共通する一般的な思考の枠組み、ものの見方だと思われる。
少なくとも知能検査で測られる知能っていうのは、そういう性質を抽象して測るために作られているはずだ。
そしてこの方法論を学ぶには、浅く広く物事を知るよりも、ひとつ分野を定めて深く掘り下げるほうが効率が良い。
というのも、分野に関係なく、ある程度の深さまで達しないと現れてこず習得もできない思考の仕方というものがあるからだ。
そう考えると、一つの興味をひたすら追求しそれ以外を無視するような知性のほうが、広くこつこつと学んでいく知性よりはやく高度な思考法を獲得するのは当然だということになる。
というわけで、賢くなりたい人はいろんな分野に浮気せず、ひとつの学問を究めてみると良いんじゃないかな。
(追記)
なんか誤解されているみたいだけど、頭の良い人がみんな専門馬鹿だと言ってるわけではなくて、
一度一つのことを深く追求して得た一般的方法はわりと応用が効くよ、知能ってつまりそういう能力じゃない?ということが言いたかった。
で興味が偏ってる人はそういう発達過程を経やすいんじゃないか、というのがわたしの推論。
もちろん万能っぽい人も中にはいるけど、彼らは興味の幅がそれなりに広いだけで、
やっぱりそれ以外のところでかなり欠落してたりする。
それから、waisでほんとの知能を測定できるかって話になると、そもそも知性とはなんぞやという議論になってしまうわけだけど、
ただしwaisで高いスコアを出す人たちの能力や思考法が傍から見ていてそれなりに便利なものであるのは間違いなく、
彼らがそれをどうやって身につけてきたのか、なにが要因としてあるのか考えるのには意味がある、と思った。
知能に直接関与する遺伝子は見つかってないみたいだしね。
ここに書かれていることは概ね正しい.この方は自分のモチベーションが低下したことを嘆いておられる.そういう方々は大学に多くいる.しかし,日本の大学にはこのような劣悪の環境の中で,モチベーションが低下せずに生き延びている集団も一部存在する.それは最近流行りの言葉で言えば,サイコパス型教授だ.学生,ポスドク,助教そのすべてを人間として扱わず,自分の出世or地位or名誉のために利用する.そのため,この劣悪な日本の環境の中でもそれなりの成果が出る.その業績を元手に,大型予算が当たる.更に悲劇が拡大する.私の少ない知り合いである若手研究者と話しただけでも,医学系や生命科学系,工学系(の中のどの分野でも),農学系.どこにでもいる.比較的若い分野である情報/計算機科学にもいる.
最近の若手研究者は目が死んでいる.最近は医学の発展により,これらの教授の寿命は長い.国立大退官後も院政を引いて分野内で君臨する.偉い先生を基調講演をさせるためだけの謎のシンポジウムが企画される.下々の者が奔走する.ポスドクや助教が偉い先生のパワポをつくったり,大型予算の提案書や報告書をつくったりしている.そして,外部向けには「うちのラボの生産性の高さの秘訣は若手研究者に自由な環境を与えることです」みたいなことを言っちゃう.若手研究者はマジで国外の研究機関に行った方が良いと思う.
ちなみに私は,飲み会の場で(直接の上司ではない別の教授に)口が滑って,「海外の大学で働きたいっすわ.研究だけしたいっすわ.(研究上ではない上司の尻拭いの)雑用もう嫌っすわ」と言ってしまい,(直接の利害関係がない)その教授にブチ切れられた.いま思えば,自分がそういうことをしたら,周りの若手が真似をする負の外部効果があるからだろう.
海外の大学の研究者と話すたびに「日本の大学ってなんであんなにヒエラルキー構造なの?バカなの?死ぬの?」と言われる.そのたびに儒教の影響じゃないっすかねと言っている.(とはいえ,私はよく知らないが,バイオや化学であれば,海外のラボも完全なヒエラルキー構造なのだろうと思う)
念のために書いておくと,私は海外の大学で働くことを決めた.じゃあ,いいじゃんと言われるかもしれないが,自分の母国に愛は当然あるし,母校にも愛はある.なので,国内の大学の質が上がったり,生産性が上がることは素直に嬉しい.どうにかしたいとは思う.が,個人の力でできることは本当に少ない.ただただ悲しい.
プログラミングって、これから始めてみようっていうとき、なんだか「得体のしれない行為」っていう感覚がありませんか?
ぼく自身は、プログラムを書いてる側の人間で、いまでこそ少しはプログラミングの本質的な難しさをわかってる気になってます。でもつい数年前までは、プログラミングは難しくはないけど得体がわからない、という感じでした。
そのへんのコードを組み合わせて動くものはできるけど、何がどうなっているのかは知らんし、ググって分からないものはできない、という方向で、「プログラミングは難しい」と思ってました。
最近になって、プログラミングの義務教育必修化の話題とか、コピペプログラマーの話題とかを目にするたびに、かつて自分がプログラミングに対して抱いていた「得体のしれない行為」という感覚が思い出されてしまい、少しざわざわした気持ちになったので、ちょっとここに書きなぐらせてください。
だいたいが個人的な話なので、そういうのがうっとうしい人は無視してください。
ぼくが世の中にパソコンという道具があることを知ったのは、たぶん中学生のときです。30年くらい前。当時、電気屋の売り場ではけっこうな床面積を使ってワープロ(文章を入力する専用マシン)が陳列されてました。文章を書くのは好きだったけど、字を書くのが死ぬほどめんどくさかった自分は、ワープロさえあれば自分も小説とか書くのになあと思いながら指をくわえて電気屋の店内をうろうろしてました。しかし、ファミコンすら買ってもらえなかった家計ではワープロなんぞ買ってもらえるわけもありません。そのうち巡回してた電気屋からはワープロが消え、それに代わってパソコンのコーナーが広がっていきました。このパソコンというのは、よくわからないけどワープロとして使えるっぽいし、どうやらファミコンを持っていない僕にもゲームができるらしい、おれに必要なのはこれだ、というわけで、中学生だった自分はパソコンという存在に興味を抱くようになったのでした。
とはいえ、だからといってパソコンを買ってもらえるような家計ではなかったわけなので、カタログを熱心に眺めるだけの毎日が続きました。その当時の自分にとって、パソコンが欲しいといったら、それはNECを買うかエプソンを買うかという選択でした。冨士通からパソコンが出ていることは知りませんでした。マッキントッシュっていうやつもあって、このPerformaっていうやつはなぜか安いとか、よくわからないけどシャープとかソニーも独自にパソコンを作っているぞとか、そういう情報がパソコンに対する認識のすべてでした。当時の自分にとってのパソコンは、電気メーカーから発売されている商品の一種であり、ラジカセとかテレビと同列の存在でした。
なんでこんな話がプログラミングにつながるかというと、ひょっとして自分がプログラミングにずっと感じていた「得体のしれなさ」の源泉の一つは、こんなふうにパソコンを電化製品として見ていた当時の感覚の延長だったのかもなあと思ってるからです。
ラジカセなら、CDだのテープだのを入れて再生ポタンを押せば、そのハードウェアの機能を物理的に体感できます。それに対してパソコンは、プログラミングをちょっとやってみても、その行為と、そのハードウェアとが、感覚的に結びつきません。もちろん、プログラミングというのは、物理的なデバイスに結びつけて考えなければできない行為ではありません。しかし、パソコンを「カタログの商品」として見るところから入ってるばかりに、そこでやるプログラミングという行為とハードウェアとの結びつきが見えにくい状態に、なんとなく居心地の悪さを感じていたように思うのです。
もし自分のスタート地点が、パソコンを使って文筆やゲームをするところだったら、パソコンは文筆やゲームのための箱だったでしょう。その後でプログラミングを始めていたなら、プログラミングという行為を、文筆やゲームに関連した創造的な活動として学べたかもしれません。
ところが実際には、自分はつい数年前まで、パソコンという電化製品に対する漠然とした行為としてプログラミングを捉えてた気がします。
プログラミングを始めたのは、高校生になって誰も使わないFM77が部室に置いてあったので立ち上げてみたらF-BASICのインタプリタが起動したからでした。とくに何をプログラミングすればいいかもわからなかったので、教科書や雑誌のコードを転記したり、ループで線画を書いたりして遊んでいました。大学に入ってからも、授業でFORTRANとかLispをやらされたけど、基本的に自分で目的をもってプログラミングするのは数値計算くらいのものでした。そのころになると、本で情報を探して(まだインターネット検索は使い物にならなかった)適当にコードをつなぎ合わせるのがプログラミングだと思ってました。そんなん面白くないなあ、とも思ってました。
この感覚、完全に、いま揶揄されているコピペプログラマーのそれだったと思います。ちょっと話はそれますが、ブロック遊びとか砂場遊びって、ほとんどの人はわりとコピペプログラミングと似たような感覚でやってるんじゃないでしょうか。パーツを勘で組み合わせたり、とにかく砂を盛っていったりすれば、家みたいなのができるよね、という感覚。プログラミングは、自分にとってそれに近い作業でした。学生のころは、内心、自分にもパソコンとサンプルコードさえあれば何かすごいものを作れるかもなあ、くらいに思っていたふしもあります。
自分はバカでした。パソコンがあるとかないとか、関係ないのです。パソコンさえあれば、なんて思う者に、本当のプログラミングがわかるはずがありません。
そんなこんなで、自分はまともにプログラミングを経験しないまま社会人になったわけですが、幸いにもプログラミングに対するこの感覚は、仕事でパソコンを日々使うようになってから徐々に変わっていきました。
具体的には、パソコンが、自分の中で「カタログの商品」から「武器」へと変わりました。それと同時に、プログラミングという行為が、武器開発という位置づけになりました。
武器というのは言い過ぎだとしても、ちょっとしたプログラミングは確かに業務上の課題を打開しました。それなりに計算機科学の教科書を読んで勉強をしたこともあって、いつのまにかプログラミングに対する「得体のしれなさ」も解消してました。
結局のところ、自分にとっては、プログラミングという行為の「得体のしれなさ」から解放されるまでにずいぶん長い時間が必要だったことになります。自分がそうだったからといって他人もそうだとは限らないですが、たとえば小学校で形だけプログラミングを教わっても、分かるとかわからないとか、好きとか嫌いとか以前に、なんかモヤモヤした気持ちになるだけの子どもも少なくないんだろうなあ。それは不憫だなあ。
かといって、自分がいまプログラミングで少しは戦えてるのは、そのむかしパソコンに憧れがあって、得体がしれないなりにプログラミングをする機会が若いときにたまたまあったからでもあるので、そういう機会になるなら小学校で形だけでも教えるほうがいいのかなあとも思います。
オチがないので、このへんで。
彼の早すぎる死は日本の計算機科学界の大きな損失だが、それでもWinnyは結局、悪だ。
Winnyについての話題になると、必ず出てくるのは包丁の話だ。
結局使う者の責任だという、あれだ。
彼が2ちゃんねるで47氏と呼ばれていた頃のレスを見れば明らかだ。
次世代のWinMXとなる為、権利侵害された著作物と児童ポルノを、より広く安全に共有する為に作られたのがWinnyのスタートだ。
しかし、だとしても彼は悪意をもってWinnyを作りバラ撒いたのは事実だ。
その悪意が、単に法の裁きを受けない性質のものだったというだけだった。
俺は彼に生きて欲しかった。
長く生き、年老いた時に実はあれは悪だったと認めて欲しかった。
1) 極限と微分
http://yaruomatome.blog10.fc2.com/blog-entry-371.html
2)積分
微分の反対と言われますが、よくわからないと思います。残念ながら上記のスレッドにも出てきません。
わかりやすい説明を以前どこかで見たのですが、忘れてしまいました。
3) 行列
http://www.eisaijuku.join-us.jp/renritu-houteishiki-no-gyoretu-kai.html
4) なぜ必要か
工学だけが理系じゃないし、確率に興味が出れば統計学の方に進み、
ようはなんとなくわかればいいんです。