はてなキーワード: 性役割とは
いや、違うね
まず「あてがう」を定義しよう。例えば女性が高所得男性と望んで結婚することは「あてがう」だろうか?一般的な感覚として違うね
ここから「あてがう」は「意思に反して」&「結婚する」をさせる行動だと考えられる(割と雑な定義だが、問題ない範囲だろう)
一方「下方婚」は「意思に反して」という意味を必ずしも含まない
と
「低所得者にも女をあてがえ」=「女は意思に反して低所得者と結婚しろ」
は論理的に意味内容が異なる。「女が自分の意志で低所得者と結婚する」ケースが差分だね
まぁここまで考えなくても、「低所得者と望んで結婚してる女性って、普通にいるよな」と考えるだけで両者の論理的な意味の違いは明白だけどね
更に、君は他にも間違いを犯している
そもそも上方婚批判と「女は下方婚しろ」も論理的に意味が全く異なる、元増田ではその事を説明したのだが、日本語が読めなかったようで残念だ
また「女は」と言う主語の取り方も元増田の内容を鑑みればおかしい、「高収入女性は」とするべきだろう
正しくは「高収入女性の上方婚について、個人の自由を制限しない形で解決できないか」という問題提起であり、そもそも具体的な解決方法を含まない
そして「個人の自由を制限しない形で解決」の中の一つの案として「男性が稼ぐべき」という性役割固定的な価値観の是正が考えられる訳だ
では改めて添削後の内容で考えてみよう
「高収入女性の上方婚について、個人の自由を制限しない形で解決できないか」は「低所得者にも女をあてがえ」以外の何者でもない、だろうか?
何者でもない、と思うのは自由だけど、その場合、論理的な説明をぜひ欲しい物だね
あと
こんな態度の奴は誰もいない。屏風の虎ですやん
これについては、だからこそそこを批判すればいいのに、と思ってる
上方婚批判を格差拡大批判として捉える文脈ならここは明らかにウィークポイントなのに、狙ってる人が少ない、馬鹿って大変だなと思うよ
俺は上方婚批判が完全に正しいと思ってる訳でも、上方婚批判や弱者男性を絶対に擁護したいと思ってる訳でもない
傍から見て論理的に考えられてない人が居るな、と思ったからそれを指摘してるだけだから、上方婚批判を批判したいならそうすればいいし、この部分はその為のささやかなヒントのつもりだよ
頑張ってね
でも明らかに上方婚批判とあてがえ論は論理的に意味内容が違うよね?
要するに弱者男性関連の話を「あてがえ論だ」と批判してる人達って、論理的に物事を考えられ無い人達で、言ってしまうと馬鹿って事なんじゃないかな?という仮説
例えば上方婚批判はフェミニズムの言葉に翻訳すると、性役割固定への批判である訳だ
男性は外で働き金を稼いでこそ価値があり魅力がある、という昭和の様な古臭い価値観、性役割の固定を女性もまた内面化してしまっている、
という事を高収入女性も上方婚をする傾向が示してしまっている。それに対する批判は性役割固定への批判なのだからフェミニズムの論理にも乗っ取る事だ
この位の事、考えれば分かる、ただ勿論分かるだけの能力がない人も居る、それだけの事なのだ
例えば高収入の人間同士がカップルを作るようになると、低収入側は低収入同士でカップルを作る事に成り、当然カップル間の格差は拡大する
ただし注意しなければならないのはここで言われているのは高収入女性の上方婚の事だという事だ。低収入女性の上方婚はむしろ格差を縮小する訳だから称揚される
「高収入女性の」上方婚批判に限定すれば、これは格差拡大への批判として理解できる
ただしこれは社会全体のマクロな話だ、ミクロの個々人の選択は自由なのだから具体的な高収入女性が高収入男性とくっ付く事は批判出来ないしするべきではない
従って上方婚批判は、ミクロな個人の自由を制限する「あてがえ論」ではなく、社会全体の上方婚という傾向を把握し、是正しようとするマクロな議論を志向する事に成る
マクロとミクロを区別できない人間はここで間違う、マクロな上方婚批判とミクロなあてがえ論を混同してしまう
個人の自由の制限ではなく、社会全体の上方婚傾向の原因を考えるからこそ原因として「収入が男性の価値・魅力」という性差別的・性役割固定的な価値観の蔓延、内面化を問題化するのであり、
これはフェミニズムが性役割固定的な表現を批判するのと同じ論理だ
例えば「「お母さん食堂」は性役割を固定する」と主張する人は「女性は家事をするもの」という性役割の固定を批判している訳だが、
これは「家事をしない女性にも魅力を感じろ」「家事をしない私にも男をあてがえ」という意味だろうか?全然違うよね?
上昇婚批判をあてがえ論と同一視する人はこれと同じような「「お母さん食堂」を批判する女性は男を欲しているに違いない」という気持ち悪い考えと同じ事をしてしまって居る訳だが、論理的に考えられない為に気付かない
性役割の固定の批判は、「性役割に適合しない私に異性をあてがえ」という主張とは論理的に全然違うんだよ
よくフェミニストが「フェミニズムが広まれば男性だって役割から解放される」と言うでしょう
あれの中身が「男性が稼ぐべき」という役割からの解放、つまり上昇婚傾向の解消なのよ
つまり、だ。逆に言えば上昇婚傾向が解消されない限りフェミニストの言う「フェミニズムが広まれば男性だって役割から解放される」はただの空手形であり、最終的には嘘という事に成る
論理的に考えればこの辺りの話は当たり前の話な訳だけど、論理的に考えられなければここには至らない
だから上昇婚批判が「あてがえ論」に見えるのであって、他の「~~はあてがえ論だ」も同じなんじゃないかな?
主旨を外してる人が散見されるので追記しておくけど、この文章の主旨は「上方婚批判等の主張と「あてがえ論」は論理的に意味が異なる」「それが分からない人は論理的に物事を考えられ無いのでは?(と言う仮説)」だからね?
勿論それが分かった上で上方婚批判自体の瑕疵を云々しても良いけど、この文章に対して本質的ではない事は把握しておいてね
あくまで「上方婚批判=「あてがえ論」」なのか、が論点だから、そこを無視して一足飛びに上方婚批判自体の是非を云々している人は、自覚的にそうしているのでないなら論理的に文章を読解できない人、という事に成ると思うよ
一つは解脱者と呼ばれる連中だ
30年代に登場した副作用の少ない強力な性欲減退剤や精神安定剤を自らの意思によって服用し、甲斐性といった性役割から降りて趣味や仕事の世界に生きている。
といっても彼らに出世欲は湧かず、生活や趣味に最低限必要な金銭しか稼ごうとしないものが多い。
自らを、性欲奴隷から解放されて人生を謳歌し、真理を探究するものと称しているが、実態は誰からも求められなかった苦しみの末に薬を服用した逃亡者たちがほとんどである。
政府が事実上の一夫多妻制とみなせる独身税の設立や母子家庭の支援強化といった制度制定が追い風となり、
気持ち悪くて弱い男が恋愛市場から退場することを求める女性の主張はもはや隠されず社会にて声高に叫ばれるようになったため、逃げざるを得なくなったとも言える。
彼らは確かに苦しみから解放され穏やかな顔をしているがどこか目に陰りが見えると言われている。
二つ目は”妄”目者と呼ばれる連中だ
太古から男たちは妄想にある理想的女性の偶像を崇めていたが、ついに現代ではテクノロジーの粋を集めて女性の妊娠機能以外のほとんどを代替できるサービスや商品が実現されていた。
最も一般的かつ人気のあるサービスは、仮想人格を主体として顧客の生活にシームレスな憩いを与えるものだ。家ではヒューマノイドや台所のロボットアームに宿り、直接触れ合いながら充実した性生活を送ったり、”愛妻料理”を楽しむことができる。
外出先や勤務先ではXRグラス上に完璧な偶像に宿った仮想人格が現れ、取り留めない会話をしながら日常の通勤や仕事休憩中に彩を与えてくれるだけでなく、外食や旅行さえ一緒に楽しむことができる。
本人たちは幸せそのものだが、傍から見ると虚空と話し心を通じあわせている姿は異様である。既に彼らの心は現実世界にはなく、自らを受け入れいなかった社会や人間に対して目を閉ざしてしまった。
しかし、見たいものだけを見るには金が要る。最新のソフトウェア及びハードウェア技術を寡占する巨大tech会社たちにサブスクリプション方式で少なくない金額を払い続けられる、盲目で居続けられる者は一部の稼ぎのいい上位職者や技能のある者に限られた。
よって、稼いだ金銭では仮想人格を一定期間しか呼び起こせずサブスクリプションが切れた悪夢に耐え切れず解脱者となる者も少なくない。
意味はそのままで男性の上位2割がこの上位者とされるが、明確な認定基準などというものはない。
生まれてからずっと解脱者や盲目者に逃げるまでもなく自然に他人を愛し愛され、幸せを享受できていることで初めて自分が上位者だったと知るのである。
よって女性たちは上位者をあくまでも”普通の男の人”と認知しているが、解脱者や”妄”目者からは種付け馬と揶揄されている。
恋愛や婚活市場の男は上位者しかおらず、先ほど述べたように事実上の一夫多妻制が実現されていたため、女性たちは本能の赴くまま優秀な遺伝子を手に入れ、解脱者や盲目者も収めた税金で不自由なく子供を育てた。
今はまだ黎明期である。解脱者は負け犬だ”、妄”目者は現実逃避だ、上位者は種付け馬だという対立はまだ目立つ。
しかし皆は薄々気づき始めていた。そこには実体としての被害者も加害者も定義できず、全員が幸せと思い込める唯一の道であると。
自分は表象研究も「それはそれで大事」と書いたよ。そういう表象的差異の効果が定量的実証的に分析されてきちんと政策提言にフィードバックされるなら、それはすごく価値があると思うし、もっともっとやってほしいと思う。
でも床屋政談みたいなやつばっかりだと、ちょっとまずいんじゃないかなって。たとえば研究者がSNSとか○○の表象について性差バイアスを指摘したり、それによる性役割の再生産を懸念したりしても、「そうだそうだ」と「何だとこのやろう」という瞬間的反応を生んだだけで、そのまま虚空に消えていくような感じがしちゃうんだよね。自分は溜飲を下げたいわけじゃなくて、社会がちょっとずつでも変化していってほしいんだな〜
一応弱者男性に批判的な人達の中でも数少ないアレな人達だとは思うんだけど(つまりああいう人を全体だと言うつもりは無い)、
本気なのかな?と気になる。
だって明らかに論理的に別物じゃん、上方婚批判とあてがえ論は。
上方婚に偏る事を批判しつつ「自分は独身でいい」「あてがわなくていい」と言うスタンスを取る事は明らかに出来るし、つまり非あてがえ論の上方婚批判は普通に成立し得る。というか大部分はその層だろう。
これってそこまで難しい話じゃないと思うんだが、ああいう人にとっては難しいんだろうか?
失礼ながら「論理的に物事を捉えることが苦手な人なのかな?」と思ってしまう。
上方婚批判自体は、例えばアニメとか漫画の性役割固定的な描写に対して「偏見を強化する」「偏見を内面化している」といった批判だったり、
階級間格差の固定みたいな話と地続きの話で、左派的にも理解しやすいトピックだと思うんだけどな。
あてがえ論は女性側の人権を制限するような、規制論やそれ以上の強い主張である訳だけど、「批判」と「規制」の雑な同一化ってこの人達にとって本当に都合の良い操作なの?
そのまま行くと、作品に対する批判もイコール規制論だとする暴論まで許容しなくてはいけなくなって、ただのオウンゴールだと思うんだけど・・・・・そこまで考える事が出来てないんだろうか?
「批判」と「規制論」の峻別って、「規制を求めてるわけじゃない」と言いつつ批判したい左派にとっては生命線でしょ?なんでその程度の事も分かんないんだろうか?
加えて、そもそも今の日本の左派は、彼らの考える正義や公正さの為には表現の自由等の自由が犠牲になっても致し方ない、という「社会的公正>自由」のスタンスでしょ?(だから「リベラル」では無いわけだが)
それってあてがえ論の様な一方の自由を犠牲にして弱者を支援しようとするやり方に近いって事を自覚してるんだろうか?(尤も、近いだけで同一ではない、あてがえ論は左派の支持するような主張よりも明らかに過激だからね)
イラストのしわとか頬の赤みなんてものを根拠に人の自由を制限しようとする思想って、よくよく考えて見なくてもかなり過激なモノだよ?自覚ある?
上方婚は格差の拡大・再生産を促し、偏見や男性社会の価値観(収入=魅力)の内面化の結果(あるいはその再生産)ではありつつも、それ自体自由な行為でもある。
けれどもそのような自由な行動やその結果を社会問題化したり批判したりも出来る、というのが左派の根幹でしょ?
だからこそ自由なはずの表現行為にジェンダー視点で批判を入れたりも出来る訳だ。
自由で正当な行為であっても、その結果として格差の拡大・再生産を促したり、偏見や男性社会の価値観を内面化したり助長したりもする、そんな事当たり前だし、それこそが左派がこれまでしてきた批判の根拠でしょ?
自分達の批判や主張が何を意味してるのか、ちゃんと論理的に捉えていればこんなこと理解出来てて当然だと思うんだけど、なんで出来てない人が居るの?
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
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なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
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何か思いついたらまた追記するかも。
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弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともと赤木智弘氏がフリーターという就労状態をもとに立ち上げた切り口で、基本的には「属性弱者派」のうちの
「経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
「議席あてがえ論」の重大性に気付いてる者もいれば、相も変わらず教科書通りの問答をしようとする愚か者も多い。
議席とは人権である(正確には、そこに懸ってる人権がある)ということから目を逸らしてる奴はこの際論外として、
もう一点指摘をしておこう。
男女平等を信条とする俺には全く関係ない話だが、ブコメやらフェミニストには「女性の人権」とやらを殊更重要視する差別主義者がいるようだ。
そういった連中に向けてのヒントだが、「議席あてがえ」論は女性の人権すら奪うということを肝に銘じておけ。
それともまたお決まりの、「名誉男性」と言って切り捨てるのだろうかね?
plagmaticjam あてがえがあらそえに見えてきた
「権利の主張」が実現したら即、「加害」なので実現する前に批判する。「暴力的」?俺は字を打ってるだけだ。
あてがわれる議席の裏には立候補者と多くの有権者がおり、議席にはその人たちの意思が込められている。
cleome088 フェミニストは世の中を良くするために「ルール」を変える話をしているが自称弱者男性はルールに乗っかって勝ちたい話しかしてないから。勝つことは大事だけど勝つ人間が固定化したら腐るんだよ。
議席をあてがったら、その分「勝つ人間が固定化」されるだけだろうが。
「議席あてがえ論」は確かに「ルールを変える話」だが、それは「世の中をよくするために」じゃない。「自分たちが勝つため」に過ぎない。
違うとは言わせない。「世の中をよくするため」なら、女性にだけ「議席あてがえ論」を唱えたりはしない。世に遍く有象無象あらゆる属性にあてがうことを言い出すだろうよ。
あと、「女をあてがえ論」も結局は「そういうルールを作れ」=「ルールを変える話」。同じだよ。全く。
oakbow 個人的には今は反対だが、クォータ制は政治の世界に多様性を半ば強制的にもたらすためのものだよ。もちろん女性の権利拡大効果が大きいだろうが恩恵を受けるのは男女とも。女性あてがえとは次元が違うと思う。
1.政治の世界は今も多様性を担保できる機会の平等がある。その現状、選挙で選ばれている以上の「多様性」を無理やりもたらそうとするのはタダのエゴでしかない。
2.男女とも?男性の受ける恩恵とは?フェミニストはいつも「フェミニズムは男性も救う」っていうけど、具体的な話は全くないよね。
mobile_neko いま日本において議論されているのは「政治分野の男女共同参画推進法」を改正して政党が立候補者数の男女比を努力目標ではなくルール化する事だし「議席」をあてがえと主張しているのは非主流派じゃないか?
同じだよ。
各政党の立候補枠はいわば議席予選。そこに出る権利を奪うってのはやはり機会の平等及び参政権を損う。
kagecage 女性を"もの"として見てるんだなぁと悲しくなるな。自分はいちフェミとして弱者男性ももっと性役割に縛られず自由に生きられるようになればいいと願っているよ。
論外。
最初から最後まで俺の増田には「権利」の話しかしていない。本文と関係ない綺麗ごとは自分の増田で書け。
misomico なぜ分断するのか
俺が分断してるんじゃないし、「弱者男性」論が分断するのでもない。
もう分断されてるんだよ。フェミニストによって。
フェミニストが最初に「男性」を主語にしたとき、分断は起こった。
kunitaka 笑う資格は全ての人にある。俺なんかド底辺のドクズやけど、トランプもバイデンもプーチンも習近平も金正恩もメルケルもボリスも皆お笑いの対象やで。バーカ、参ったかw
うん、まぁ、笑えばいいと思うよ。
kutabirehateko だからインセルと弱者男性を一緒くたにするなよ。そしてインセルを批判するのはフェミニストだけだと思うなよ。
論外。
自分にとって都合のいい選別をしてるんじゃないよ。
「インセル」の本義(彼らが名乗った意味)から外れた用法で濫用しすぎなんだよ。
違わない。論外。
反人権派と一緒にするな。
kyo_ju 公選の候補者や非公選役職に占める割合を一定割合(しかも、人口比と同等かより低い割合)まで引き上げよという主張は特権の主張ではないので、"弱者男性にも男性特権を分かち与えよ"な御仁達とは全く同視できない。
そもそも公選の結果に「人口比と同等であるべし」などという要件はない。女性が半分以上の票を握っていて、それで今の結果だ。
ここから「女性だけ」人口比と同等を保証する、というのは「特権」以外の何物でもない。
「同視できない」のは偏見の為せる業ですね。
yuichi0613 自分は男性でフェミニストじゃないけど、多様な社会をつくる以上、意思決定の場に女性を増やすことは賛成で、こういう単純な当てはめは反対かなあ
「多様な社会」と言いつつ、ステレオタイプな「男性」「女性」二元論に支配されてる自覚はあるのだろうか?
「男性は女性の代弁をしえない」(逆も)というのはその典型だ。
論外。
lawikakog 「努力が足りない」とか内容がジェンダーバイアスに塗れていてひどい。格差が広がるほど金持ちがどんどん金持ちになるのと一緒で男性優位になった階級は男性で固定されるんだよ。それを構造的に見直すという取り組み
「努力が足りない」はフェミニストが弱者男性に言い放っていた内容と全く同一。
そして金と違って票は3年/6年ごとに稼ぎなおさなきゃならず、固定はされてない。
そもそも「女性じゃなきゃ」「議席をあてがえ」と言ってる奴が「ジェンダーバイアス」?あんまり笑わせんな。
論外。
unnmo 女性・弱者男性→本人に責はない。女をあてがえ→人権侵害。クオータ制→社会構造的に元来女性側が侵害されてきた参政権の回復手段。「女を〜」論は弱者男性救済案策として低レベルな為クオータ制の鏡像足りえない。
女性の参政権は普通選挙権の実装後、一切侵害されてない。今でも女性は入れたい候補に入れている。
「女をあてがえ」論は「議席をあてがえ」論と同じく、「特定属性への利益の最大化」という点にのみおいては素晴らしくハイレベル。社会全体でみるとクソ。
理由は「特定属性」以外の人権を損ねるから。「議席をあてがえ」論も同じ。両方クソ。
つづく
ジェンダーって概念に関しては、科学で調べてはわからない、ではなく、「文化で規定された(生物的ではない)性差」のことだから、出鱈目ではないぞ。
例えば青が男の色、赤が女の色、というのはジェンダー。なぜわかるかというと、国が変わると変わってしまうからだ。あとよく言われるのはスカートとかね。
ただ、お前の言うことはわかるぞ。
初期のジェンダー概念は確かに文系によって適当に運用されたし、今でも野良ツイフェミはそれに影響されてんだよ。
例えば、女の子がおままごと、男の子がチャンバラをするのは、明らかにジェンダーではない。国が違っても同じだし、生物性役割な説明もつく。でもなんか文化っぽいからジェンダー扱いされがちだよね。
Twitterでお母さん食堂について議論されている中、比較的バズっていて目に留まったツイートを分析した。
切れ切れになっていると分かりづらいので、まとめてから改行は勝手に入れた。
https://twitter.com/Kumiko_meru/status/1343794177570566144
「お母さん食堂」の何がいけないかっていうのは、実は難しいんだよなあ。
まず日本では、和食の料理人は男ばかりであるのに、家庭で料理するのは女ばかりという現状がある。
和食の料理人に男性が多いイメージはあるが、調理士の人数比を見ると100:75であり、給与も男性平均384万円に対し女性平均284万円で*、
実は調理士は比較的男女賃金差の少ない職種である(男性の給与に対する女性の給与比は、全職種0.69に対し調理士0.74)。
「同じことでも女がしたら金を渡さない」というのは明確な嘘。家事が無償なのは男も女も関係ない。
女の人も外で働けばお金を貰えます。男が自宅の畑で野良仕事しても給料は出ません。
家事負担が妻に偏っている問題は、各家庭で話し合って解決してください。
で、「お母さん食堂」だが、これは家庭料理「のような」ものを出す「食堂」をイメージしているのだろう。
無償である「家庭料理」のイメージを「お母さん」=女だけで代表させていることで上記の搾取構造を肯定している、というのがまず1つ。
ここで言う「上記の搾取構造」とは、「女性が料理をしてもお金を渡さない」ということを指しているのだとしたら、それは上述の通り明確に嘘であるため議論に値しない。
家事負担が女性に偏っていることを問題視するのであれば、まあ分かる。お母さん食堂という名称は、家庭料理は女性の仕事というイメージを再生産するってことね。
そして、「食堂」の部分は「金銭が支払われる」という意味を内包している。
実際、コンビニの商品は有料であるし、その利益を得ている会社の経営陣はおそらくほとんど男性であろう。
「実際にはほぼ女性の労働で作られている家庭料理」というのがよくわからない。
ファミマの商品を工場で作っている作業者がほとんど女性ってこと?そしてその人たちをファミマが搾取してるってこと?
労働者は総じて資本家から搾取されてるってマルクス的な考え方はできるけど、それなら男女関係ないよね。
あるいは、「お母さん」って名称を、利益を上げるために男主体の会社が都合よく使うのが搾取…というか文化の盗用にあたるってことかな?
「お母さん」は女性の築いてきた文化なのだから、男が利用するんじゃない、的な。
黒人のドレッドヘアを白人が美容院で採用して利益を出して、そのモデルに白人を使うような感じね。
それなら分かるけど、元の文章だと誤読のリスクがかなりあるな。
難しいと思うのは、「お母さん食堂」という名称は、差別の原因でも差別の本体ではなく、もっと大きな差別構造の1つの表れに過ぎないんだよね。
だから、「これを批判して改名させても何も変わらないじゃん」という冷笑派の意見はある意味正しい。
一方で大きな差別構造の、一つの典型的な表れであるからこそ、これを批判することは、差別構造の問題提起として分かりやすいんだよね。
全体をかみ砕いて再構成すると、
家事労働が女性に偏っている現状が「家庭料理はお母さんのもの」というイメージを定着させている。これは解決すべき課題である(男性も家事負担しろ)。
「お母さん食堂」はこのイメージを再生産することになるので、認め難い。
また、男性主体の会社が利益を上げるためにお母さんという名称を使うことも、文化の盗用、一種の搾取であり、批判の対象となる。
てところだろうか。で、これが論旨と仮定して、ツイ主が何を「大きな差別構造」と捉えているかというと、
男が外で稼いで女が家庭で無賃労働をするという性役割と、その構造を固定化する男女賃金格差などを指しているんだろう。
ではどういう社会になって欲しいかというと、男女賃金格差のない、男も等分に家事をする社会ってことだよね。
これだけ言えば、まあそうだよねってまともな人は思うよ。なんでこんな簡単なこと、こんな分かりにくく言うのかね。
あと、個人的には男女賃金格差をなくすためには、女性が高校・大学を選ぶ段階から、文学部とか芸術系とか金になりにくい専攻を選ぶのをやめて、
専門職に就きやすい法学・工学・医療系を選ぶのが良いと思う(弁護士・薬剤師・プログラマー等の男女給与比は0.82~0.99で格差が少ない)。
あと、夫に家事させたいなら、女に困ってない高収入イケメンを狙うんじゃなくて、家庭的で収入そこそこの地味系を選ぶことでだいぶ期待値上がると思う。
b:id:HanPanna は馬鹿なのかな?
↓共働き夫婦の女性の家事時間が男性の5倍とか、世界的にみて異常なジェンダーギャップ指数に触れないのは不誠実じゃないんで?
https://b.hatena.ne.jp/entry/4696315618434894754/comment/HanPanna
b:id:yujimi-daifuku-2222 氏が求めてるのは「性役割規範が香取慎吾のお母さん食堂により強化されるというロジック」だろうが。
どうしてこうも頭が悪いのだろう。
さすがに目に余ったが、フェミ関係はアカデミズムでさえも、「○○を助長する(恐れがある)」と何のエビデンスもなしに言う事が許されているしな。