一応弱者男性に批判的な人達の中でも数少ないアレな人達だとは思うんだけど(つまりああいう人を全体だと言うつもりは無い)、
本気なのかな?と気になる。
だって明らかに論理的に別物じゃん、上方婚批判とあてがえ論は。
上方婚に偏る事を批判しつつ「自分は独身でいい」「あてがわなくていい」と言うスタンスを取る事は明らかに出来るし、つまり非あてがえ論の上方婚批判は普通に成立し得る。というか大部分はその層だろう。
これってそこまで難しい話じゃないと思うんだが、ああいう人にとっては難しいんだろうか?
失礼ながら「論理的に物事を捉えることが苦手な人なのかな?」と思ってしまう。
上方婚批判自体は、例えばアニメとか漫画の性役割固定的な描写に対して「偏見を強化する」「偏見を内面化している」といった批判だったり、
階級間格差の固定みたいな話と地続きの話で、左派的にも理解しやすいトピックだと思うんだけどな。
あてがえ論は女性側の人権を制限するような、規制論やそれ以上の強い主張である訳だけど、「批判」と「規制」の雑な同一化ってこの人達にとって本当に都合の良い操作なの?
そのまま行くと、作品に対する批判もイコール規制論だとする暴論まで許容しなくてはいけなくなって、ただのオウンゴールだと思うんだけど・・・・・そこまで考える事が出来てないんだろうか?
「批判」と「規制論」の峻別って、「規制を求めてるわけじゃない」と言いつつ批判したい左派にとっては生命線でしょ?なんでその程度の事も分かんないんだろうか?
加えて、そもそも今の日本の左派は、彼らの考える正義や公正さの為には表現の自由等の自由が犠牲になっても致し方ない、という「社会的公正>自由」のスタンスでしょ?(だから「リベラル」では無いわけだが)
それってあてがえ論の様な一方の自由を犠牲にして弱者を支援しようとするやり方に近いって事を自覚してるんだろうか?(尤も、近いだけで同一ではない、あてがえ論は左派の支持するような主張よりも明らかに過激だからね)
イラストのしわとか頬の赤みなんてものを根拠に人の自由を制限しようとする思想って、よくよく考えて見なくてもかなり過激なモノだよ?自覚ある?
上方婚は格差の拡大・再生産を促し、偏見や男性社会の価値観(収入=魅力)の内面化の結果(あるいはその再生産)ではありつつも、それ自体自由な行為でもある。
けれどもそのような自由な行動やその結果を社会問題化したり批判したりも出来る、というのが左派の根幹でしょ?
だからこそ自由なはずの表現行為にジェンダー視点で批判を入れたりも出来る訳だ。
自由で正当な行為であっても、その結果として格差の拡大・再生産を促したり、偏見や男性社会の価値観を内面化したり助長したりもする、そんな事当たり前だし、それこそが左派がこれまでしてきた批判の根拠でしょ?
自分達の批判や主張が何を意味してるのか、ちゃんと論理的に捉えていればこんなこと理解出来てて当然だと思うんだけど、なんで出来てない人が居るの?
壮大なネタであり、フィクション 真面目に関わったら損するから、スルーで良いかと
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