はてなキーワード: ファンタジーとは
映画みた
主人公たち、あのキレッキレの厨二衣装着て戦ってるわけなんだけど、
出てくる街は現実の世界のビルそっくりなんだよね。てか車とか完全に現実モード
あの実用性を完全に無視した厨二衣装と、実用性に振り切った自動車が同時に存在しているのってマジでCoolだよね
だけど映画見てて思ったんだけど、映画でもスーツ着てる人いるのよ。んで普通に会議とかしてんの。公務員だわこれ…
でもさ、実際のところスーツって実用性を完全に無視してない?これ現実の話。やばくない?現実やばくない?
そこまで考えると、魔法のある世界で社会が発展していったら、スーツのように、実用性のない厨二衣装が風習として残っちゃったりするのかなと思ってちょっと面白かったり…
って、そんなわけないじゃーーん
スーツならわかるけど、戦闘服だぞ!!!風習ってなんやねん実用性極振りに決まってんだろ馬鹿か!!
あれはファイファンだから厨二衣装ということなんでしょうね。そうでしょう
ということで、車も街並みももっともっと厨二に振って欲しかった
PS4は持ってないのでゲームは買いませんが、映画としては非常に面白かったです
おわり
「小説家になろう」のジャンル再編の影響で、「ハイファンタジー/ローファンタジー」の定義について議論になっている。
http://syosetu.com/teaser/genre/
問題の原因は、「ハイファンタジー」の定義が、「異世界を舞台としたファンタジー」と「異世界の歴史や文化が作りこまれた重厚なファンタジー」とに分裂している点にある。特に、後者の定義を採用している人物が、Web小説やライトノベルのファンタジーを指して「あんなものはハイファンタジーではない」と発言し、周囲の反発を招くことが多い。以下、便宜的に前者を「舞台」派、後者を「重厚」派と呼ぶ。
まずは「小説家になろう」の定義を見てみよう。ジャンル改編に際しての説明の中で、「なろう」の運営は「ハイファンタジー」を以下のように定義している。
ローファンタジー
つまり「舞台」派である。異世界転移系の扱いについて当初は混乱があったが、「主な舞台」が異世界であれば、異世界転移系でもハイファンタジーに分類するのが、「なろう」基準では妥当だと思われる(実際に多くの作品がそう分類されている)。
次にWikipediaを参照しよう。
ハイ・ファンタジー (High Fantasy) は、ファンタジーのサブジャンルの1つ。「異世界ファンタジー」と呼ばれる事もある。
独自の世界観や歴史をもつ架空の世界(異世界)を主な舞台とし、現実世界(の直線的な歴史や風俗)とはかかわりが薄いのが特徴の物語で、ロー・ファンタジーと対比して使われる語句である。明確な定義ではないが、
ただし続けて、
として、「その世界に生きる者や世界の成り立ちそのものから作られている」「作品傾向としては重厚」「シリアスなトーンで進行する」「叙事詩(エピック)的である」「勢力の壮大な対抗をテーマとする」などの特徴が挙げられている。「重厚」派にも配慮した記述と言えよう。また、異世界転移系は基本的にはハイファンタジーに含めるが、ときに分類されないことがあるとも書かれている。
英語版のWikipediaも見てみよう。筆者に英語力は皆無なので誤訳もあろうかと思うがご容赦願いたい。
High fantasy is defined as fantasy set in an alternative, fictional ("secondary") world, rather than "the real", or "primary" world. The secondary world is usually internally consistent, but its rules differ from those of the primary world. By contrast, low fantasy is characterized by being set in the primary, or "real" world, or a rational and familiar fictional world, with the inclusion of magical elements.
ハイファンタジーは「現実世界」とは異なるもう一つの架空の世界を描いたファンタジーとして定義される。異世界の内側には一貫した法則性が存在するが、それは現実世界のものとは異なっている。対照的にローファンタジーは、現実か、もしくは現実に近い架空の世界の中に、魔法的な要素が内包されるという点で特徴づけられる。
ハイファンタジーにしばしば含まれる特徴的な要素として、「特別な才能を持った主人公」「ビルドゥングスロマン」「善と悪の対決」「エルフ・ドワーフ・ゴブリン・ドラゴンなどの種族」「魔法使い」「人工言語」などが挙げられている。
また、「異世界召喚もの」である『ナルニア国物語』は、こちらでもハイファンタジーに分類されている。
「重厚」派の一部には、「エルフやゴブリンが出てくるようなゲーム的なファンタジーは(始祖たる指輪物語を除いては)ハイファンタジーとは言えない」とか、「善なる英雄が悪を倒すというようなファンタジー(いわゆるヒロイックファンタジー)はハイファンタジーではない」とする者たちも存在するが、英語版Wikipediaの記述は彼らの主張とは異なるように思われる。
ローファンタジーの項目では、
The word "low" refers to the level of prominence of traditional fantasy elements within the work, and is not any sort of remark on the work's quality.
「ロー」という言葉は、作品内における昔ながらのファンタジー要素の度合いについて語っているもので、作品の品質についてのことではない。
などとわざわざ書かれていることにも触れておこう。
ちなみに英語版Wikipediaが「High Fantasy」の命名者として指定しているLloyd Alexanderのエッセイ『High Fantasy and Heroic Romance』(1971)はこちら。
In modern literature, one form that draws most directly from the fountainhead of mythology, and does it consciously and deliberately, is the heroic romance, which is a form of high fantasy.
現代文学において、神話という水源から最も直接的に流れを汲んだ一つの形態として、それは意識的かつ意図的なものだが、ハイファンタジーの一形態であるヒロイック・ロマンスがある。
微妙に訳しづらいのだが、要するに「神話を源流とするヒロイック・ロマンスはハイファンタジーの一形態である」としてしまってよいのか。
さらにヒロイック・ロマンスで高い評価を得ている作家として、『世界のかなたの森』のウィリアム・モリス、『ペガーナの神々』のロード・ダンセイニ、『ウロボロス』のエリック・エディスン、『マニュエル伝』のジェームス・ブランチ・キャベル、『ナルニア国物語』のC・S・ルイス、『永遠の王』のT・H・ホワイト、そして『指輪物語』のJ・R・R・トールキンらの名前が挙がっている。
ハイファンタジーの定義を具体的に説明している箇所は無く、あまり参考にならないような気がする。
実際に「ハイ=異世界」「ロー=現実世界」が明確に定義された最初期の例としては、R.H.BoyerとK.J.Zahorskiによって編纂された『Dark imaginings』(1978)の序文がある。
Dark imaginings: a collection of Gothic fantasy - Google ブックス
Dark Imaginings is also unique in bringing together two distinct types of fantasy under one cover: High Fantasy with its imaginary, secondary worlds and Low Fantasy with its realistic primary world.
想像上の異世界を扱ったハイファンタジーと、現実的なこの世界を扱ったローファンタジーという、二つの異なるファンタジーの類型を一冊にまとめている点もDark Imaginingsの特徴です。
これで少なくとも「舞台」派の用法が、ごく最近になって現れたものではないということが分かる。
もちろん、これをもって「重厚」派が完全に否定されるわけではない。
昔は「異世界を舞台にする」といえば「異世界の歴史や文化を作り込む」のがほとんど自明だったのだろうし、また現在ほどの多様なファンタジーの形式を想定していたとも思えない。
ただ、とにもかくにも現代においては「ハイ=異世界」「ロー=現実世界」という区分けのほうが、より明確で、より普及し、より平和であることは間違いない。
追記。
「ハイファンタジー」「異世界ファンタジー」を巡る問題についてはこちらも参照のこと。
『ロードス島戦記』は異世界ファンタジーではない……のかもしれない。 - 限界中年生存日記(仮)
追記2。
「舞台」派を採用するならば、多くの「なろう」系作品はハイファンタジーで問題ないと思われる。
多くの場合、ナルニアはハイファンタジーに分類されるのであるし、主人公の知識が現実に由来するものであっても、作品の舞台が異世界であることは紛れもない事実だからだ。
たとえば、ハイファンタジーの代表格たる『指輪物語』の世界は、現実の地球の古代の姿であることが明言されている。
『ハリー・ポッター』シリーズのホグワーツ魔法魔術学校は、まるで異世界のように描かれつつも、設定では「イギリスのどこかにある」とされる。
その1はこちら。
We watched the first 10 minutes of Kingsglaive: Final Fantasy XV
By André Mackowiak on July 11, 2016
こちらは、最初の10分間のみの映像を観た人のレポートですが、ネタバレが含まれます。
先週フランスで行われたJapan Expoで大きな出来事となったのが、Final Fantasy XVだ。イベント中、ファンは「KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV」(以下キングレ)の最初の10分のワールドプレミア特別上映などの新しいコンテンツに触れる栄誉に浴した。ちょっとしたサプライズとして、映画を監督した野末武志氏による90分にもおよぶ講演もあった。
壇上で野末氏は、キングレの開発について一歩踏み込んだ解説を行い、アドベントチルドレン(FF7ACC)よりも格段に大きな役割をどのように果たしたかを語ってくれた。
以下のレポートには、ちょっとしたネタバレや、記憶を頼りにプロットを要約したために起きる矛盾が含まれる可能性がある。というのも、最初の10分間にはかなりたくさんの情報が詰まっているからだ。
映画は、いくつかのフラッシュバックから始まり、観客は、ルシス王国を守り続けてきた最後のクリスタルの魔力の概要を知ることができる。
しかし、このクリスタルが敵対するニフルハイムの嫉妬を生むこととなるのである。
開始後すぐ、ニフルハイム兵によるルナフレーナ・ノックス・フルーレの故郷であるテネブラエ自治区侵攻が描かれる。
ここで我々は、幼いノクティスが重篤なケガから回復中であり、車いす生活を余儀なくされていることを知る。
敵兵たちが空から雨のように降下してきたとき、ノクトとルーナは2人とも森におり、周りを取り囲まれてしまう。
強力な相手に二人は追い詰められ、あわや斬り殺されようかというところで、レギス国王が現れ、剣をふるい強力な炎の呪文で敵を蹴散らして彼らを救う。
レギスは素早く意思を固めるとノクトを肩に担ぎあげて、ルナフレーナと共に逃げる。
呪文による炎に逃げ道を塞がれたルーナの兄レイヴスは、倒れた母を救ってくれるようレギスに懇願するが、敵兵が背後に迫っているレギスには届かない。
このままでは逃げ切れないと判断したルーナは突然立ち止まり、引き返して自らニフルハイムに捕らわれ、友人たちが逃亡するための時間を稼ぐ。
それから月日が経過し、物語の時点ではニフルハイムの軍勢はルシス王国の首都インソムニアのすぐそばに展開している。
この「王都」はクリスタルによって維持される強力な魔法障壁によって保護されているが、どれだけそのバリアが攻撃をしのげるのかはわからない。
都市を取り囲むエリアは、すでに帝国軍に制圧されており、城壁部分は空からの攻撃にさらされている。
ニフルハイムの揚陸艇が兵士を降下させ、戦場では銃弾が飛び交い、廃墟と化した建物の周りに死体の山が築き上げられていく。
敵軍は機械や魔導アーマーだけではなく、FFシリーズでおなじみのモンスターさえも操ってルシスに攻撃を仕掛けてくる。
混沌の中をべヒモスが突進すれば、通り過ぎた場所にはルシスの兵士たちが斃れる道が残る。
そうかと思えば別の場所では、巨大な蟲の大群が戦場を横切っていく。
巨大なファイアストームが地平線のかなたに出現し、インソムニアに向かってゆっくりと近づいてくる。
壁の上では、王の剣(Kingsglaive)の魔導マスターであるクロウ・アルティウスが仲間たちと共に町を覆うバリアを維持しようと必死の努力を続けている。
主役であるニックスの親友リベルト・オスティウムは、敵に奇襲をかけようとしている。身につけた制服や装飾品は、FFシリーズのジョブ「忍者」を思わせる。
リベルトは、隠れて相手に知覚されずに複数の敵を倒す術を使う。
空襲が激しさを増すと、地面が打ち震え、建物が崩れ、足元にひびが走る。
嵐が近づく中、我々は敵軍の飛空艇がさらに増え、ケルベロスなどのより危険な敵が出現したことを知る。
嵐の向こう側には、まだ奥の手が隠されていたようである。鎖につながれ、煙に包まれた巨大なモンスターが飛空艇によってインソムニアに向かって引きずってこられる。
モンスターは暴れだし、いくつかの飛空艇を破壊すると、鎖を引きちぎって地上の兵のもとへと落ちてくる。
リベルトは、突進してくるべヒモスの首もとに強烈な一撃を放つことに成功する。一方クロウは最後の力をふりしぼっているが、もはやこれ以上バリアを維持することができそうにない。
王の剣を率いるドラットー将軍は敗北を悟り、撤退命令を下す。リベルトは炎を吐くケルベロスと遭遇し、呪文を使って気をそらそうとするが失敗に終わり、崩れたガレキに挟まれ、刃も手の届かないところに転がるというピンチに陥る。
ニックスは、ドラットーの命令に背き、倒れたリベルトを救うために走り出す。ニックスは、投げた刀のところにワープ魔法を使って移動することができる。
ケルベロスを警戒しつつ、ニックスは戦闘区域外へとワープできるようにリベルトの剣を拾う。
後方に戻った王の剣の隊員は無事を喜び合うが、ドラットー将軍はニックスの命令違反を咎め、彼の力はレギス国王から借りたものであると諫める。
たった10分間の映像だったが、おそらく何時間でもいかにキングレの映像が素晴らしかったかを語り続けられるだろう。それぐらい圧倒的な映像美だった。
何年もの昔、初めて「Final Fantasy: The Spirits Within」を劇場鑑賞したときですら、スクウェア・エニックスがCG業界でトップクラスの才能を揃えており、あの映画が写実的な表現への彼らの最初の一歩となったことは明らかだった。その数年後、アクション満載のFF7ACCでその路線はさらに深まり、ついにこのキングレですべてが結実した。信じられないほどの視覚的なクォリティを実現するために、スクウェア・エニックス内のチームであるビジュアルワークスは、「アサシンクリード」、「ジュラシックワールド」、「ゲームオブスローンズ」などで知られるDigic PicturesやImage Engineなどの欧米のスタジオにも協力を仰いだという。
映画に登場するキャラクターは、あまりにも人間らしいため、うっかりするとコンピューターで生成されているのだということを忘れてしまう。
このまとまりの良さがあるからこそ、合成用のグリーンバックの前で俳優が演技をする従来の映画に比べて映画の世界の説得力が増しているのだ。
べヒモス、ケルベロス、呪文の効果などの見慣れたFFの要素の取り入れられ方も素晴らしい。
個人的には、特にワープのエフェクトが気に入った。ゲーム本編のものと似ているが、人物のまわりに火花が散り、効果音も非常にマッチしているのでとにかくスタイリッシュなのだ。
キングレは、「現実に基づくファンタジー」というコンセプトを驚くほどうまく体現している。
建造物、衣服、技術、車などの中には現実世界を思わせるものもあるが、呪文や魔導アーマー、モンスターとの親和性もある。
2つの世界の融合が、FFXVを単にゲームとしてではなく、より広い観客を対象とした映画として非常に魅力的な存在にしている。
始めのうち、John R. Grahamが下村陽子とのコラボレーションで制作したというサウンドトラックについては不安を覚えていた。
プレビュー映像では、音楽が少し単調で陰鬱すぎるように思われたのだが、最初の10分のBGMは、控えめに言って非常に堅実な出来だった。
ほんの短い時間のうちに、キングレで展開されるストーリーが複雑でワクワクするものになることがわかった。
アクションシーンは「ゴジラ」のように素晴らしく、徐々にモンスターや召喚獣が明らかにされていく手法も良かった。
キャラクターが物語のカギを握るようなので、ニックスとルーナが映画やアニメ、ゲームの中でどのように関わっていくのかが楽しみだ。
これだけのプロジェクトである。映画館で観るのが正しいというのは明らかだ。
10分間見ただけでこの把握力。
訳者は実際に映画を観たので、ちょっと解釈が違うところもあるのですが、あえて訳注はつけないでおきます。
電車で向かいに座っている5歳くらいの女の子とその母親が目に入る。母親はキャリーバッグ、子供はリュックサックを背負い、いかにも帰省するという感じだった。終点の大阪空港から飛行機に乗るのかもしれない。
その女の子は今時見かけないおかっぱ頭に白のワンピース、麦わら帽子をかぶっていた。まん丸ではっきりした目が帽子の下からのぞいている。その視線は私の胸のあたりをまっすぐ捉えていた。
子供の眼力にはいつも圧倒されるし狼狽えてしまう。私の考えていることがすべて見抜かれているように感じるのからだ。赤ん坊なんかは特に目が合うとじっと見つめてくる。それに対してうまく微笑みかけてやることも苦手だし、彼らのような繊細な生き物をどう扱ってよいかわからない。ようするに私は未熟なのである。自分が目を合わせている彼らよりも幼く思えてしまう。そしてその考え自体が伝わっているような気がするから、居心地悪くソワソワしてしまう。
母親がおもむろに娘の顔を覗き込んで笑いかけた。娘の方は少し恥ずかしそうに笑みを返した、ように私には見えた。少なくとも幸せというものに直結するもののように思えた。母親がなぜ笑いかけたのかはわからない。これから向かう場所について「楽しみだね」という笑みなのか、他の意味なのか、そもそも意味などないのか。それはわからないが、このような光景を見るといつも幸せと悲しみが同時にやってくるような変な感覚とともに、私自身の母親のことを思い出す。
私の母は非言語コミュニケーションができなかった。本人は絶対に認めなかっただろうが、おそらく発達障害だったと思う。私は言葉を介しない会話があることを実感しないまま育つことになった。20年以上かけて多くの失敗を重ねることで、例えば表情からも多くの情報が得られることを知り、周りの人はそれらを前提に会話していることを知った。
苦しいだけだった人間関係も、少しその仕組みがわかってくれば彩りを持つように感じられたが、それでも何かが大きく欠けている感覚は残っている。その欠けているものとは、やはりこの電車の母娘のようなやり取りだったのではないかと思ってしまう。
私と母の間にあったのは服従と支配といういわばごく単純な関係である。人の気持ちを読めない母は、子供をコントロールするのに大人の力を使うしかなかった。それを恐れた私はただ従うことにした。だからこの母娘のように、同盟というかそれ以上の関係としての親子を見ると、とても高度な心理技術が必要なように感じ、もはやファンタジー世界の出来事のように思える。
友人たちが結婚、出産し親となっていく中、私は取り残されている。これは人生の次のステップを進めないという意味だが、同時に精神的に子供のままという意味でも取り残されている。結局だれかに子供のように扱ってほしいのだろうと思う。私が楽しんでいるところに「楽しいね」と言ってくれるような、そんなことを何年も続けてくれる人がほしいのだろう。それを通して私の楽しい気持ちがウソじゃないことを知りたい。
グレンデルって漫画とレディ&オールドマンって漫画を読んだ。久々の感想文です。
グレンデルは中世っぽいファンタジー世界の話で、一巻だけしか刊行されていないんだけど、物語の広がり方に期待が持てる作品だった。何かしら、世界の裏に潜む真相が見え隠れする物語って読んでいて楽しい。獣人や亜人の存在や、森の怪物やゴーレムや魔法みたいな、ありがちなファンタジー要素を網羅しつつも、様々な人物や団体の多種多様な思惑が張り巡らされている感じがびんびん伝わってきて、読んでからとても満足できた。展開が早いのも素敵。濃密な漫画体験を得られる作品だと思う。
また、主人公の女性騎士が独特な性格をしているのも面白い。重い罪を犯して死か使命を果たすかを選ばされる人物なんだけど、大体こういった場合その罪事態は止むに止まれず犯している場合が多いと思う。けれどこの主人公は自ら率先して仕えていた主君を見殺しにしている。自分が生き残るために可能性の高い方を選んだわけだけど、こういった我の強い(そしてとてつもなく強い)主人公をよく主役に抜擢したと思う。シュトヘルなんかも似てるっちゃあ似てるんだけど、結構早い段階でユルールと和解してる描写があるのがこの作品と違うところかな。
異形の者と人との二人連れって作風は結構多いけど、ちょっと毛色が違う作品が出てきたなあって感じ。海外ファンタジー小説にありそうな世界観がとても良いです。
もうひとつのレディ&オールドマンはシュリーがひたすら可愛らしい漫画だった。もちろん内容もしっかりあるんだけど、兎にも角にもシュリーが可愛らしかったということを声を大にして主張したい。
オノ・ナツメの漫画って、いままで大体主役が男性だったから余計にシュリーが可愛らしく見えた。ウルトラジャンプに掲載されてるらしいから、もちろん読者層を慮っての絵柄なんだろうけど、本当に、本当にかわいい。いつも目がキラキラしてるし、はにかんだ表情とかもう素晴らしいの一言。
内容としてはどうやら不老不死っぽい相棒のロブ(この人物もどこかぬけているし憎めないし、愛着が湧く)と共に、昔父親が営んでいた運び屋の仕事をシュリーが始めていくっていうストーリーなんだけど、それだけじゃない独特の味わいが出ている作品だった。コマ割りとか台詞わましとか。時代設定もいいと思う。1960年台とロサンゼルス。60年代の気風が見えてくるかどうかと言われるとよく分からないんだけど、ところどころで瀟洒な雰囲気が漂ってくるのが素敵だった。絵だけで魅せる漫画はやっぱり格好いいと思う。
さておき、ゼノンコミックスってどんな読者層をターゲットにしてるのかなあってふと思った。女性向けっぽいのかしらん。ビームコミックスやヒバナなんかと同じで、個人的に最近購買してしまう出版社です。
しかしながら最近は漫画まで積読本が増えてきてしまった。困った。小説だけで二百冊くらいあるのに。困った。ヒーロークリッカー、何も考えずに遊べるから楽だし面白いし辞め時がないんだもの。
ときどきゲイの人が「腐女子のやってるゲイ描写はリアルじゃないから不快」みたいな話してるけど、あんなのファンタジーなんだからほっとけばいいのにと思う
男性向けエロ漫画に出てくる女キャラだってファンタジーだし、ドラマの刑事やナースもファンタジーだよ
それとなにが違う?
女が男を性欲や萌えの対象としておもちゃにするのが気に入らないというだけの話じゃないか
男性向けエロ漫画にはつっこまないくせに女性向けのBLにだけ文句を言うのは女をバカにしてるからだ
まあ人間いろいろいるからそんなこと言う人ばかりじゃないのは判ってるけど、そういう話題でゲイ代表みたいに被害者ぶってる人はちょっと違うんじゃないの
ゲイだって普通ですと声高らかに宣言する割りには、障碍者くらい特別に配慮しろみたいに言う
実体験からいうと、大卒過ぎでも童貞な男は交友関係が狭いか、ほぼない。完全に近いぼっち。
周りに人がいない。女だけじゃなくて男もいない。休日はずっと一人。
だから、選ぶとか、作るとか、ヤリ捨てなんて贅沢な言葉は思い浮きすらしなかった。
目立たない地味な女を性奴にしてピルを飲ませていつでもどこでも呼び出してやりまくる。
もともとの身体特徴や才能もあるのだがとにかく何回でもできる気持ちのいい都合のいい女。
ある日本命とつきあうことになったのでもうこれきりだと捨てる。
ところが本命とのセックスがつまらない。いつでもちゃんと出てる感じがしなくやればやるほど性奴としたくなる。
そして彼は懇願する。彼女は本命の前でするならいいと条件を出す。
彼はそれに屈する。そして縛られた彼女の前でピルをもう飲んでない性奴に中出しする。
以降ふたりは性奴に性奴として呼び出されるようになる。
これがエロマンガファンタジーかというとそうとばかりもいえないのだ。
村西とおる監督のメルマガにこういう女性が登場する。監督の表現だと「身体が合う女性」とある。
はまっていたときは仕事、すなわちAV撮影の前にもしていたくらい。いつでもしていたいしつながっていたいそうだ。
さあ、おそろしいことにそんなオチはない。
監督ほどの人をしてもその女性ただひとりしかいなかったそうですが、そういう女性と出会う人生がよかったなと思うのでした。
ただ、女性のほうはどう思っていたのだろうなあとか。名器の持ち主は自分が気持ちよくなる前に相手が果ててしまいつまらないとか聞くし。
というか、マッタク楽しくない。
合コンだの、友達たくさんだの、週に何回も飲み会だの、バーベキューだの旅行だの。
あれ?と言う感じ。
というのも、俺が持っていた「スクールカースト的?」な劣等感なんてなかった。
スクールカーストはあって、俺はそれが『うらやましいもの』と思い込んでたけど。
俺は多分、「なれない」んじゃなくて、「ならなかった」側だったんだわ。
勉強ばっかりしてたから。将来研究医になることしか興味なかったから、そもそも周りに興味なかった。
よく、ドラマとかで王子キャラが、「セバスチャン」的なノリで出てくるけど、あれがリアルだと思う奴はいない。
少女マンガの白馬の王子なんてのも、流石にリアルでいたらアホ。
なぜ信じてしまったのか。
それは、見た目がクソブサメンのチビデブハゲふけ顔だったから。
でもさ、関係ないんだよ。
女からしても男ってそういう動物園の動物なんだよなあ、リア充世界では。
漫画やドラマで見るような、「ウフフ、オホホ」なことは一切無い。
小学生がカードゲームや家でゲームやってる時のほうがよっぽどリア充。
キモオタがコミケで集団で同人買い占めてるけど、あっちのほうがよっぽどリア充。
カースト上位のリア充集団なんて、女は金持ちのペット、男はパズドラ並のクソゲーをやってる気分。
これは、せいぜいパズドラ程度しか楽しめない層のための、ゴミゲーなんだわ。
一方で、キモオタ集団やカードゲーマー、ラブライバーみたいなのが本当の面白さ。
こっちのほうがよっぽどリア充。
なんで、キモオタが馬鹿にされるって、結局女とやれるやれないの差だけ。
女は、結婚とか恋愛で脳みそが馬鹿になってるってか、カワイイとか雰囲気いいみたいなノリじゃないと楽しめないからパズドラばっかりやってるわけ。
女は、『ワンピース』みたいな、まったく戦略もしっかりしてないのにノリや仲間感で敵を倒せたりみたいな、ドキュンノリのファンタジー的なカワイイ系のりしかわからない。カワイイ系ノリで問題解決するわけがないんだけど、『ワンピース』では、カワイイ系ノリの絵で雰囲気だけで話が成立している。
リア充ってのは、そういうワンピースノリそのもの。馬鹿らしい。
一方で、キモオタはスグ文学に走る。文学なんて、学校の図書館でホコリまみれだったでしょ。誰も読まないけど、クッソ面白い。
結局、この程度のものなんだけど。
キモオタは文学的に考えちゃうから、「キモオタ視点のエロ漫画」とかになると、すぐリア充を『勝者、人生楽しんでる』と設定したがる。
二次元絵でメン球やおっぱいを巨大にかいてしまったり、体重を30キロ台に設定してしまうような、極端な抽象化をしてしまう。
ドストエフスキーが『地下室の手記』で劣等感まみれの男を書いたり、『賭博者』ってので女に貢ぐ男を書いたりと煽られたのもある。
とにかく、文学が言うんだし、エロ漫画も読みまくって刺激受けまくって。
「これぞ真実だろう、死ねよリア充。堕胎やいじめを産んでるクソ文化死ね。他人を犠牲にしてリア充とか本当に人間性ねーなバーカ」
と本気で思ってた。
しかし、当のリア充は、「精神的に貧困」な人達ばかりだ。特に女。こんなクソゲーに女はガチでやんないとだめなんだなとアホらしい。
男はこんなんを降りても余裕でキモオタ文化で楽しめるわけで、むしろキモオタ文化のほうが高度なわけだし。
う~ん。劣等感消えましたなあ。
キモオタ文化の抽象化された「リア充うらみ」をそのままトレースして遊んでいたんだなあ俺は。
好きだったアイドルがAV落ちしたときに泣きながらオナニーしてる奴がうらやましくって、そのアイドルがアイドルしてたときの動画を必死に漁りまくってファンだった設定で泣きながらオナニーしてるようなもの。
そして、その、最初の、「アイドルがAV落ちして悲しんでいるオタク」ってのを抽象化して、二次元キャラみたいに物凄い劣等感を抱かせて神格化して。そういう神格化された非実在キモオタをトレースして気持ちよくなってたんだなあ俺は。