はてなキーワード: ストレートとは
あくまで彼女の言葉から受ける印象の話だが、はあちゅうはあまり頭が良くない。さらに自己認識に問題を抱えているように見える。
実際にどうなのかは「知人」でない私にはわからない。しかしながら、炎上する理由はそこじゃない。
炎上するのはこれ以上ないほどシンプルな理由、カネのため。見慣れたあれは炎上ではなく、つけ火プロモーションだ。
「そんなの知ってるよ」とみんな言うだろ?
でもさ、改めて感心したよ。本当にうまいタイミングで火が出るって。
このこと、#MeTooで声をあげた動機には関係ないと信じたい。そしてあの訴え自体に私は賛同する。
しかしながら結果的に、童貞うんぬん言ってるうちに、その直前に出した本のプロモーションはそこそこ成功したようだ。
2月に入って、あの顔写真と言葉がホッテントリに上がってきたなと思えば、最近また新しい本を出していた。
ホッテントリ入りしたのは、かんじんな本の話題ではなく、浅はかな考え方をさらした、批判を受けそうなツイートであるという状況、
恥ずかしいだろ…と思うのだが、本人はかまわないらしい。
良心、プライド、信頼すべて捨ててもカネを稼ぐためのストレートな商売。
勉強熱心な小学生なら夏休みの宿題として取れてしまうような資格だけを武器に技術屋になろうとした。
結果は言うまでもない。
「自分だけは大丈夫だ」「俺、技術とか好きだし、多分」「俺はちゃんと職場を選んだから」「ここは大手だから信用できる」「研修とかも充実してるらしい」とありがちな死亡フラグ四天王を揃えて地獄へのロイヤルストレートフラッシュを完成させておきながら人生まるごとベッドしていった。
そして、俺は気がついた時、故郷から遠く離れた日本の端っこで社員寮暮らしを始めていた。
唐突な展開に流されるままに、「きっと大丈夫」を毎日1000回心のなかで唱えるヒットソングの歌詞みたいな情景の中で一歩一歩地獄へと続く道を引き返すチャンスを無駄にし続け、地獄へ来た。
たとえ身についても、それを活かす機会はない。
というよりも、日々技術を振り回している人間と同程度の知識がなければ、レールの上に転がり落ちた石ころにしかならない。
俺は何でここにいるのかと毎日考える。
自分と同じように、何か大手なら大丈夫だろうと思ってやってきた人間の絶望を新人研修で何度も聞いた。
アリバイ作りにもならない新人研修の目的は、この会社のヤバさを感じてから逃げ出そうという理性が働く間の時間を合宿場に閉じ込めることで、超高熱で茹でガエルを調理し終えるためだったのだと今なら理解できる。
あの研修の最大の成果は、誰もの心に残った「この会社はヤバイ」と「でも、今更やめても経歴に傷がついちゃってるし……」というセルフダブルバインドによる無間地獄であった。
この呪いは大変よく機能しているらしく、実際自分も「ここに長く居てはいけない」という焦燥と「だけど何も手にせずここから出たらそれこそ次はもっと辛い地獄に行くぞ」という確信に日々振り回されている。
運転免許を取ってすぐに、中型免許無しでギリギリ乗れる大きさの車両なら乗り回せますと言い張って運送業界に潜り込んでも不幸しか待っていないのだ。
まずは、実際に自分で手を動かしてみて、合う合わないをよく考えて、それから、実際に手を動かしたことがある人間でなければくぐれない正しい門を通ってその業界へと入るべきなのだ。
そこは根性論と非効率とサービス残業と足の引っ張り合いと尊敬できない先人達と明日の見えない毎日だけが待っている。
輝かしい未来はそこにはない。
そんな事もっと早く気づけばよかった。
RHYMESTERの宇多丸さんがTBSラジオで続けてきたタマフルが、3月で終了するというニュースを見ていちリスナーとして感謝の気持ちを記したくて書く。
1)映画を見る習慣をつけてくれた
映画はデートかレンタルしたものを家で見る、みたいな感覚だったのだけど毎週宇多丸さんの映画評を聞いているうちに映画館でみたい、今映画館でかかっているうちにみたい、となっていきました。1800円は高いなと今でもちょっと思うけれど家では絶対にできない行き届いた環境の中で見る映画は、やっぱり別物です。マッドマックス怒りのデスロードをiMAXで見終えた後の、息をすること忘れてたわ、みたいな感覚はきっと一生忘れません。
あと、宇多丸さんはよく映画体験、という言葉を使いますが映画はその時見たからこその衝撃や感動がやっぱりあって、それは家で猫に邪魔されながら見るのとは全然違う強度でやってくるんですね。映画をみた直後はもちろん、その後の人生観にも影響するような作品も何本かあるのですが、きっとそれは家で見たのならそこまでの影響力は持たなかったのではないかと思います。
見るのは話題作とかすでに高い評価を得ているものが中心。誰でも知ってるビッグネームの監督以外は名前も覚えず系統立てて見るようなこともなかったし、丁寧な伏線や繊細な演出、気の利いた暗喩に気がつかないままおもしろいとかつまらないとか言っていたような気がします。それはそれで全然いいと思うのですが、私は映画を見慣れたことでそのあたりに前より気がつけるようになって、ずっと映画が楽しくなりました。
きっとどんなことでもそうだと思うのですが、知ること、気がつけることって楽しみを増やすことなんですよね。宇多丸さんが評価のポイントとしてどんなものをあげるのか、それを知ることで享受できる楽しみがぐっと増えました。ありがたい。最近だとマジカル・ガールのお父さんが、映画序盤に拾ったものが何で、それが伏線になってるとか私だけではとてもじゃないけど気づかなかったわー!と感動しました。
3)宇多丸さんについて
タマフル10周年。私が聞き始めたのは2010年に「食堂かたつむり」をシネマハスラーで取り上げたときからだから、足掛け8年聴いていたことになります。振り返れば映画評もずいぶん変わった気がします。はじめのころは今ほど体系的に語っていなかったような気がするのだけど、最近では監督の過去作を含め言及することが増え、取り上げた映画がどこにマッピングされるのかとか、演出の傾向や技術的な面にもけっこうな時間を割くようになり、語り口も理性的というかあまり感情を出すことが減ったように思います。私は宇多丸さんのストレートな罵倒がけっこう好きだったので、それは少しさみしいことでもあったのですが。
けれど過去作を追い原作を読んで評論にあたる宇多丸さんの真摯な姿勢には本当に感服するしかありません。そして何より宇多丸さんは親切なんですよね。超ド定番の有名な映画を見ていないという視聴者のコメントに「これからまっさらな状態であの名作を見れるなんて」と言ってくれる優しさよ。時々汚い言葉が出るときもあるけれど、基本的にはだれかを傷つけるようなものではないし、その後でフォローが入ることも多くやっぱり筋金入りの「育ちのよさ」みたいなのが見える好人物です。大好き!
4)後番組について
どんな番組になるのか未知数ですが、ポッドキャストでしっかり追おうと思います! 平日毎日3時間というのが、本業大丈夫?と心配になるのと、もし、もしも万が一新番組があまりふるわず終了してしまったら……という不安はありますが、宇多丸さんのことだからきっと素敵に楽しい番組をつくってくれることと期待しています。(しかも久しぶりの橋Pとのタッグ!)
最後になりましたが、10年間おつかれさまでした。本当に毎週楽しませてもらいました。ありがとうございます!!
付き合う前に女の見た目を褒めるのは気をつけた方が良いよ。
「綺麗ですね」 → 「セックスしたい」
もうね、見た目をストレートに褒められると
相手の男性がキモかったら、もうそれだけでぞぞぞっとしちゃう。
お見合いパーティとかだと、こういう褒め方してくる男がすごい多いんだけど全然嬉しくない。
それよりも、一緒にいると楽しいとか、いい奴とか、
性格良いよなーとか、頭の回転早いよねとかとか。
遠くで見ると地味な顔でも、近くで見ると可愛かったり、
普段表情が乏しい子でも、時として見せる笑顔が素敵だったりするもんだ。
細っこい子もふっくらしてる子も、だいたい皆可愛い。
10歳年上の40代の女性と付き合った時も褒めてたらどんどん可愛いくなった。
パートナーがそこの部分を最大限褒めてあげると、
表情が柔らかくなって、明るくなって可愛くなる。
「見た目は地味だけど、性格は最高。」
「化粧していると可愛いよね」
とか、そういう不必要な条件付けして、
彼女を褒めた気になることは即刻やめるべきだ。
顔が好き、目が好き、髪が好き、胸が好き、体型も好きと
純粋に褒めまくるといいよ。
<追記>
思ったより共感いただけて嬉しいです。
やる気出るって女性の声多いようなので、男性のみなさん試してみて。
屏風からは出せ無いけど、気になる女性に対していうのも効果的よ。
あと付き合う前の女性(ぶっちゃけていうとセックスする前まで)は、
見た目を褒めるよりも内面を褒めた方が喜ばれる気がする。
「一緒にいると、本当にリラックスできる」
っていうほうが良いような気がする。
(実際にそういう会話ができる女性じゃないとお付き合いは楽しくないし)
付き合ったり、結婚した後は見た目を褒める方が効果的な気がする。
見た目以外でアプローチした方が良いって話だと思うよ。
>褒めるの下手なんだけど・・・
見た目を褒めるのって、褒め方のなかでは簡単な部類だと思う。
「君の顔が可愛いし好き」
「長い髪が本当に綺麗だよね」
とか、思ったことに余計なこと加え無いで言えば良いだけ。
昔の彼女は顔に火傷があって、本人すごく苦しんでたけど
「○○は絶対に美人。誰がなんと言おうと俺は世界で一番タイプ」
って言ってたら、綺麗になったよ。
最初は、怪訝な感じだったけどちょいちょい言い続けてたら、
諦めて嬉しそうにするようになったよ。
>毎日言われてるけど可愛くなら無いんだけど。
いや、きっと可愛くなってる。(断言)
もうすでに最高に可愛いんですよ。
>「今日も可愛いね」って言ったら、それしかないの?って言われた。
これ俺もよく言われるよ。
「それ以外もいっぱいあるけど、とにかくまずは可愛さを伝えたかった」
とか返してる。呆れられながらも嬉しそうよ。
>自己暗示でしょ?
あと、付き合った後に、最近綺麗になったと褒められることが
増えるみたいなので、自己暗示以上に効果あるんじゃないかなと思ってる。
>ぶさかわいいは褒めてるうちに入る?
んー、文脈にもよるけど「ぶさ」は言わないほうが良いと思う。
超愛くるしい。抱きしめたい。って言ってた。
>男はどこを褒められると嬉しいもんなの?
俺は「頭良いね」「会話が楽しいね」「料理がうまいね」「仕事できる」
って言われるのが嬉しいかな。
顔が好きって言われるのも嬉しいけど、
そのまま可愛くなるもの。なにより表情が変わる。
<もうすこし追記>
>は?可愛くないしって反応しちゃう。
これも、ありがとうーー!って全力で喜んでハグする練習してみて。
あなたのちょっと滲み出る嬉しさをきっと彼氏はわかってて楽しんでるとは思うけど、
>恋人/奥さんじゃない人には止めた方が良い
うん。そう思う。この話はパートナーに対してやるってのがポイント。
>斉藤和義?
良いよね。ほんと良い。最高って言っても良い
「形のあるものを僕は信じる」って、とてもわかる。
ただ、その形は愛した瞬間から世間の好みから切り離されて、自分の好みになるんだよね。
>誰にでも言ってると思われるんだけど・・・
俺もよく言われる。誰にでも言ってるんでしょって。
違う違う!これは、強く否定したい。
世間がどう見ていても、自分の恋人が世界で一番可愛いっていうのはルッキズムなんかじゃない。
むしろルッキズムからの解呪だよ。相手をちゃんと褒めるのは呪いを解くことだと思う。
照れずにやってみて。付き合ってる/結婚してる相手の顔嫌いなの?
そうじゃなければ、ちゃんと褒められるよ。大丈夫。
たとえ冷たい反応もらっても続けることが大事。
入る!入る!入る!美しいおっぱいだねって言う。
胸が本当に素敵だなと思った時は
サイズ、形、乳首、入林のサイズ、全部パーフェクトって言ってる。
あれすごい良いなと思う。他のスポーツとか全部取り入れれば良いよねー。
>男女逆にしたら仕事ができるようになると思えない。
>言葉より態度(ハグとかキッスとか)で示したい/示してほしい
こういう意見もあるよね。それも素敵だけど、言葉も加えても良いと思う。
それに態度で示すのであれば、急に雨が降ってきたら駅まで傘持っていくとか
早く帰れたら洗い物しておいてあげるとか、ご飯ちょっと作っておくとか
そういうのはもっと喜ばれるよ。
>昔のおばさんのようなルックスでも褒めるべき?
そんなことないんじゃない?
可愛いと思った瞬間があって好きになって恋したんだよね。たぶん。
22歳だから、同学年は社会人になる歳だから勝負に出ようと思った
僕は彼女と同学年で、22歳の某国立大四年生だ。一応世間的には高学歴とはされている。
今は卒論を書きながら発表のスライドを作って、発表練習をしている。
研究室は悪くない。資金は潤沢なほうらしいし、自分の研究内容だって面白いと思う。
僕の指導教員は若くて優秀だし、指示も的確、コミュニケーションだってとりやすい。人間として好きだ。
学生もみんな親切でやさしい。
言えることはあったんだけど、自分の発言を追求されるのが怖かった。
スライドや発表に対するアドバイスも、良心から言ってくれているとわかってはいるのに
すべて自分の至らない点を非難されているように感じてしまった。
指導教員との談笑のようなディスカッションですらも、言葉に詰まってしまう。
論文読んだり本読んだりして、知識を蓄えたら解消するのかもしれないけれど、
終わらない実験に加えてスライド作りに本文執筆に追われていて、それをする気にもならない。
卒論終えたところで、やる気になるかもわかんない。
周りの環境が悪くないので、自分に原因があるのはわかりきっている。
その他に特に受けなかったのも、駄目だったら大学院いけばいいと思っていたからで。
幸い面白い研究に恵まれ、就職浪人するよりは大学院行ってみようという気持ちに自然になれた。
その間にいろいろスキル身に着けて、少しは魅力的な自分になって
実際親からも大学院に行ってほしいとは言われたし、期待に応えたい気持ちもあった。
今のところ、研究職になる気はほぼないんだけど。
ついでに僕が研究室辞めると、来年度の後輩を指導できる学生がいなくなって迷惑をかけてしまうし・・・。
いままでストレートで来てしまったのもあって一回休み!が怖くて踏み切れない。
22歳、どう勝負に出たらいいのかな。
ストレートの女友達が、「飢えすぎて女の子に恋したかも」みたいなことを言っていた。
具体的にどんなことが楽しい、嬉しい、云々。
正直、ふざけないでほしいと思った。
それを笑って言っていられるなら、恋だなんて軽々しく言わないでほしい。
私がほとんど女性にしか恋できない人間だと知ってくれているのに。理解してもらえていると思っていた。
恋の尺度なんて人それぞれだ。どこからが恋だ、と分ける線引きを決められる人はいない。だから、自分が思ったその瞬間、恋が始まっているんだと思う。
だったら「かもしれない」なんて保険をかけるなよ。
「同性を好きになる」という私からしたら日常にある行為を、馬鹿にされたような気がした。
貴方からしたら、人生でたった一度の同性への恋かもしれない。だったら、そうやって自分をごまかして「あれはやっぱり恋じゃない」って流すのもアリなんだろうけど。
だったら私が今まで、そしてこれから先も、同性を好きになって、結局叶わないから泣いて、苦しんで、そういう行為は全て流されてしまうんだろうか。
こんなことで友達じゃなくなるなんてことはない。両手を超える年月の親しくしているし、これからも彼女とはお互いの趣味を共有していくだろう。
けれど、心のどこかでこの出来事はずっと引っかかり続けると思うと、つくづく自分のセクシャリティが嫌になる。
私だって好きでレズビアンをやっているわけじゃないんだからさ。
こんなことを思ってしまうのだから、大勢の人へのカミングアウトなんて到底無理だし。社会はやっぱりセクシャルマイノリティにとって生きづらい。
後付けで申し訳ないけれど、全ての同性愛(両性愛)の人やその他セクマイの人たちがこう思っているわけではないと思う。
ただ私が、「同性に恋することを特別視される」のが嫌だっただけなんだ。
◯◯みたいなやつありますか?って聞く人いるけど本当にみたいなやつでいいの??????
CDリリース前だが、星野源が映画ドラえもんの主題歌として書き下ろした『ドラえもん』がラジオから流れてきた。
「たっくさんリクエストを頂きました~!」とDJが言っているので人気があるようだし、
どこかの誰かがブログとか音楽批評で褒めていた気がするので、意識して耳を傾けてみた。
タイトルがストレートに『ドラえもん』、「すこしふしぎ(SF)」という歌詞は聞き取れた。
サビで「ドラえもん」と連呼、そして、間奏に昔のドラえもんの歌がアレンジされているのに気が付いた。
曲をフルで聴いての第一印象は「あざといな」だった。
映画ドラえもんの主題歌はいろいろなアーティストが提供している。
数年前のPerfume『未来のミュージアム』は、PVや歌詞もだいぶドラえもんに寄せていたが、ここまで直接的なところはなく、
「あざとい」なんて感想は抱かなかった。
星野源の曲は「タイトルも歌詞もドラえもんのうたのアレンジも「あ・え・て」やってるよ。
ドラえもんファンなら分かるよね?こういうの好きだよね?こういうの仕込む俺すごくね?」
というような彼の思惑が、曲全体からプンプンと漂ってきて、どこか好きになれない。
この曲に「あざとい」という感想を持ったが、私が前から星野源に抱く、妙な感情が
そう、星野源はあざとい。
マンガ・アニメ・ゲームが大好きで、私と趣味も被っているので、素直にファンになれそうなのに、好きになれない。
彼がメディアでのこの作品が好き発言や、クリエイターとの対談などに遭遇するたび、
「俺こういう作品も好きなんだよ。意外でしょ? ギャップ萌えでしょ? センスあるでしょ?」
と言ってるようで、冷めてしまう。もちろん、本人にそういう気はないのかもしれないが、そう感じ取ってしまうので仕方がない。
「先輩、星野源の『ドラえもん』って曲、聴いたことあります? あれってめちゃあざとくないですか?」
と言おうとして、喉まで出かかって、直前で思いとどまった。こんな感想を抱いたのは自分だけかもしれないから。
こうして私はひっそりと増田に書き連ねるのであった。
よく勘違いされているのを見かける。
本来の意味は「配られたカードで戦うしかない。結果が出ないのは元々運が悪かったと諦めるしかない状況が沢山有る。だから俺達は自分や他人の人生や能力に対して割り切りを持っていかないとならない。そうしないと世界はどんどん地獄になってしまう」みたいな意味だったはず。
それがいつの間にか「配られたカードで工夫するんや。足りぬ足りぬは工夫が足りぬ。カードのせいにするな。一見弱そうな手札でも上手く使えばなんか出来るもんやで。なんやお前ホンマ言い訳ばっかして。やるしかないんや。お前らほんま工夫しようって気持ちがないなあ。配られたカードを上手に使えばイケるねん。ポーカーだってブタなのにブラフかければストレートフラッシュ倒せたりするやろ?やってみ?あんさんのやる気がないだけだと思うでげすよ」って意味になってしまっているのを結構な頻度で観測する。
なんだろうなあ。
馬鹿に見つかると言葉は汚染されて、馬鹿の思考回路に合わせた低レベルな内容に塗り替えられてしまうのかなあ。
秘伝のタレのようなものなのかも知れんね。
同じ壺に同じ色のタレを入れて継ぎ足しで使っているといつの間にかソックリ別のものになっているあの秘伝のタレのような現象が起きているのかな
いろんなタイプがいて、一概にこうとは言えないと思うよ。
中には文字では伝わらない雰囲気もあって、本人には荒らしの自覚がないケースもあると思う。
この前、電車で二人の男子高校生が雑談していて、エロ本か何かの話題になって、カバンの中身を見せろよってなって、
一人がもう一人のカバンを開けようとして、開けられそうになった方が「おい止めろ、○ね。マジ○ね」って言って止めようとしていた。
当人たちはお互いに笑いながらその後もじゃれていたし、言った本人も本当に○んでほしいわけではないだろう。
だが字面だけ見るとぎょっとする。
というか、自分としては冗談でも友人に「○ね」とは言うのは衝撃だし、
悪意に満ち満ちて突っかかってくるように見えて、実は本人は単なる冗談のつもりということもあるかもしれない。
もちろん単に日常生活のストレスをぶちまけたいがために、荒らしを行う人間もいるだろう。
とにかく、深く考えずに気にしないのが一番。
2.5次元作品が狂ってしまった、と嘆き憤る方の言葉を読んだ。
そのことについて思うところがある。
誤解のないよう、まず初めに私の立場を表明しておこうと思う。
私は、ペンライトやうちわなどを持ち込んで応援のできるスタイルの作品が、正直に言って苦手だ。「うちわ」が苦手なのである。
作るのが面倒とか、視界に邪魔だとか、そういうことではない。
ピースして、ウィンクして、というような「要求型」の応援が得意ではないからだ。
ただし、くだんの記事で書かれていたように、こういう客席参加型の作品を狂ったとは思わないし、舞台やミュージカルではないとも思わない。
うちわさえなければ普通に、というかハチャメチャに楽しく観劇するだろう。
客席に降りてきたキャストにファンサを貰ったら嬉しくて飛び上がるし、この色と決めていたペンライトのカラーはすぐに揺らいで、軽率にブロマイドを買ってしまう。
界隈にはよくいるオタクだ。
ただ、気持ちは分かる。痛いほど分かる。
あれほどの感情は持ち合わせていないが、理解と共感ができてしまうのである。
例の記事にはもう少し冷静に、悪感情だけを振りかざさずに話をしてくれればよかったのにと思ってしまう部分が少なからずあるが、何言ってんだコイツ、と切り捨てられてしまうばかりではあまりに悲しいので、今回筆を執るに至った次第だ。
なんだよ老害が、と思った方も、時間が許すばら話を聞いてもらえると嬉しく思う。
先ほど、この応援スタイルの作品は苦手だが、舞台やミュージカルではないと思わない、と申し上げたが、それはおそらく2.5次元より先にそのスタイルに出会っていたのが根源にあるのではと思う。
舞台だけれど、歌って踊ってファンを振りまき、客はペンライトを振ったり声援を送ったりする。そのことに対しての違和感があるかないか。そこが私と彼の方との大きな差であろう。
例を挙げるなら、宝塚なんかが有名ではないだろうか。
1部と2部で分けられた構成で、似たようなものが存在している。観たことのある方も多いのではないだろうか。
それから、四季のマンマ・ミーア!なども、近いものがあるだろう。
2.5次元作品で名前をお見かけする俳優さんたちが出演しているものでいうなら、私は数年前に上演された「ボーイ・バンド」が分かりやすい例ではないかと思う。
劇作家であるピーター・キルターの作品だが、世界中で初めての公演を日本で行ったものだ。
これは2.5次元作品ではないのだが、ミュージカルではなく、けれど歌があり、客はその歌に合わせてペンライトを振る。
(ペンライトを持ってくることについて公式からのアナウンスがあった)
少し時間が経ってしまったためよく覚えていないが、演者が客席に降りてのファンサービスもあったように思う。
歌われている曲は大ヒットしたJ-POPだ。(興行主側が曲を決めるらしく、作品として固定の曲はないようである。)一緒に歌ってほしいなどという煽りもあった気がする。
例の定型にはめるのなら、これらは舞台ではないということになるのかもしれない。
こういった作品は、知らないだけで、きっとずっと前から数多く存在しているはずだ。
ただ、昨今の2.5次元作品という界隈で、アイドルのコンサートと一体化しているようなものが乱立している。
2.5次元作品をかじっていればどうしても目についてしまう。それを苦手だと感じる人がいれば、極度の嫌悪感を抱いてしまうくらいには多いと思う。
おそらくだが、嫌悪までいかずとも、僅かばかりもやもやとしてしまう人にとって、そしてくだんの記事を書いた方にとっても、舞台・コンサート・イベントなどの種別に関わらず、興行というものは全て「参加するもの」ではなく「観るもの」なのだ。
ただ、作品を観賞したい。それに尽きるのだ。
だから、舞台上の出来事を受けて起こる笑い声は演出のひとつと受け入れることができても、客席側から舞台上に向かって存在や要求を主張するようなうちわや歓声は必要ないと感じてしまう。
少々暴力的な言葉を使うなら、邪魔なのだ。余計なものだと感じてしまう。
あれが許せるか許せないか。あったほうが美味しいか、入っている意味すら分からないのか。
けれど、公式的にそれが認められ、あまつさえもっともっとと要求までされているのものだから、困惑するのだろう。
どうして、と思う。
そして、自分が好きだったジャンルが「どうして」で溢れかえってしまう。
パイナップルの入っていない酢豚が食べたいのに、流行のせいで中華料理店はパイナップル入りばかりを提供しているのだ。
こんな酢豚は要らない!私の思う酢豚はこんなものじゃない!と感じるのである。
私自身、この手の舞台にっついては冒頭に書いたように苦手な部分があるので、チケット代分をしっかり楽しめる気がしないから近寄らないでおこう、くらいのスタンスでいるつもりだ。
2.5次元作品も好きだけれど、他にもオリジナルなり古典なり、全然関係ないアーティストのライブなり、あちこち手を伸ばしているというミーハーな側面があるからだろう。
回鍋肉でも麻婆豆腐でも何かおいしそうなものがあれば、気が向けば食べる。
けれど、私が好きで好きで仕方ない漫画やアニメの作品が、うちわを持って応援するスタイルの舞台になってしまったら。
「楽しいと思うしそういうのがあってもいいと思うよ、私は行かないけど」という立場を貫けるのか。正直わからない。
きっとあの記事を書かれた方は、一足先にその憂き目にあってしまったのだと思う。
とにもかくにも、最近このドルステタイプの作品が多いのは紛れもない事実だ。
少なくとも私が2.5次元作品を観るようになったばかりの頃は、ミュージカルかストレートかといった分類だったように思う。
それを証拠に、ある作品が舞台化するという情報が出たときは「ミュなの?ステなの?」なんて疑問文をよく見かけた。
この新たなジャンルは、確かに舞台作品の範疇ではあるが、独特な応援スタイルが存在しており、それを楽しめる人もいればとんでもなく苦手な人もいる。
2.5次元ミュージカルの先駆けのひとつと言われ、多くの動員数を誇るテニスの王子様だって、初めは観客もぽかんとしていたという。
テニミュに触れたことがあれば、知っている人も多いのではないだろうか。あの最初の曲。You Know?
はじめの台詞を言っとき、お客さんが「???」という反応だった、と演者の方が話していた。
けれど、2.5次元ミュージカルがここまでの台頭を見せていなかった当時、「何で急に歌いだすの」「ミュージカルでやる必要ある?」と感じていたファンは一人もいなかったのだろうか。
決してそうは思わない。思わないが、徐々に受け入れられ、ファンが増え、公演数が増え、途絶えることなく3rdシーズン。
その折り返しをすぎた今、世の中には同じように漫画を原作とするステージが数多生まれ、『2.5次元ミュージカル』という言葉が自然発生的に生まれ、すっかり市民権を得ている。
今この時代、チケットを握りしめて劇場にいった人の中に「何で急に歌いだすの?」「ミュージカルでやる必要ある?」なんて疑問を感じる人はいないと思う。
そうとわかった上で、私はそういう作品が好きで観にきているのだ、という人が殆どだろう。
映画などとは違い、舞台は初日の幕が上がるまでどんなものなのか分からない。
当たり前だが、その通りだ。
先ほどのテニミュ初めての公演のもそうであるし、刀ミュが初めて上演されたときなんかも記憶に新しい。
実質ドルステ。そういうような単語がいくつも踊っていた。分からないのだ、幕が上がるまで。
私が知らないだけで、もしかしたら公式サイトのQ&Aなどで、内容が予想できるようなものがあったのかもしれない。
だが、そこまで下調べをし予想についての情報収集をしていく客の割合は、そう多くはないだろう。
少なくとも「ミュージカル刀剣乱舞」のタイトルとフライヤーだけでドルステだろうなんて、よもや想像がつくまい。
そして、とても現金な話ではあるが、決して安くないチケット代を払い、宿泊先を押さえ、はるばる新幹線に乗って都市部へ足を運んで観る。どうせなら、心から楽しめる演出作品のものを選びたいと思うのが人の心理というものだ。
苦手だなと思う私の立場とは逆に、うちわを作ってペンラを振って推しキャラ・キャストを応援するスタイルが大好きで仕方ない人だっているはずだ。
知人にも数えきれない程いる。舞台には行ったことがなかったけれど、評判を聞いて2.5次元のアイドルを応援しにいった女の子。いつの間にかうちわ制作のプロになっていて、自分の住んでいる県でも上演があるのに、このスタイルの舞台なら!と言って、うちわを持ってあちこち飛び回るようになったお姉さま。
舞台を観たことがない人を、いかに劇場に来させるか。そんなことを、制作側から聞いた。これまた情熱大陸だ。大成功である。そして、すっかり確立された演出方法にもなった。
きっと今、文化の変遷と定着の、まさに過渡期に立っているのである。
だからそろそろ、この新しいスタイルの演劇に名前をつけませんか。
そうとわかった上で、私はそういう作品が好きで観に行くのだ。
これを当たり前にするために。
オペラから派生し、最初は格下だと思われ、あんなもの芸術じゃないなどと言われてきたであろう、そして現代ではすっかり格式と市民権を得たミュージカルのように、いつかこのスタイルの演劇も一つの舞台芸術の形としてウィキペディアに載る日がくるかもしれない。