はてなキーワード: 相関関係とは
Aを多く持ってる人のほうがBも多く持っている、みたいに
ほんとに偶然そうなってる可能性もある。
勿論、統計的にその偶然性が十分低いかどうか、ということは充分なサンプルがあれば言えるけど、
論文のデータにはっきりとした相関関係が出てるよ。相関関係がはっきり分かるだけでも有用性は高い。
あと元増田には「女は別に優秀だろうがなんだろうがどうでもいい」なんて書いてないじゃん。
そもそもIT企業では人件費率がめちゃくちゃ高いんだからコンパニオン"しか"できない人間は雇わないでしょ。
あと
これは容姿云々ではなく、言うまでもなく当たり前じゃ。。。
結論は当たり前だけど「顔採用をすると」こうなるという仮定の部分は当たり前じゃない。
容姿が良い=親も容姿が良い=頭の良い金持ちと結婚が出来る=子供も容姿良くなり高度な教育を受けられる。遺伝的のも頭が良い可能性もある。
ので、因果関係が全くはっきりしないそんな調査は無駄。それこそ増田でどうこう言ってるのとおんなじレベル。
(それで立派なお仕事として成り立つからそういう分野にはビビるな。)
「幸福度」ってのはその人尺度でしか無いし何も言えるものじゃないと思うけど、
回答するのであれば、やはり「利他的な行為」をする人の方がその様なアンケートに対しても好意的に回答するのでは?と言うこともある。
だから何にしろそれらに因果関係がどっち方向なの下もわからなければ、さらに言えば相関関係も見れる様なものでもないだろう。
多少なりともはっきりとした相関関係さえあれば、因果関係なんて関係なしに採用しても良いと思うが。
それは学歴で選ぶことと変わらんので。
で、問題はこの元増田が出してること、ってのは、女は別に優秀だろうがなんだろうがどうでも言いわけでしょ。
それが社内の男のやる気につながり、さらには取引先の目を引き仕事につながらる。
なんでどこもそうしないのかそっちの方が謎だ
謎でも何でもない。今は公にしづらくなってるかもしれんが、昔からキャバクラで接待なんて当たり前だし、
社員旅行でも何でもコンパニオン呼ぶのが当たり前のところはいくらでもあるだろう。
更に言えば、それこそバブル期くらいまでの一般職なんて単なる嫁候補でしかなかったわけで。
仕事を女使って取るなんて何千年も前から世界中で行われてきたことだろう?
その最近やってる会社はそれらをオブラートに包んでやってるだけで、思考としては昔と何ら変わってないだろう。むしろ古い考えだろ?
これは容姿云々ではなく、言うまでもなく当たり前じゃ。。。
そこそこ手間だったな。初産の年齢階級別統計。予想通り平均と分布がほぼ相関関係にあるから、分布を考慮する必要性がないという初期見解と結果が一致してると思う。
つ http://www8.cao.go.jp/shoushi/whitepaper/w-2004/html-h/html/g1130010.html
ただ、1つ問題点が増田が指摘したところとは別なところだけど合って、15-19歳での第1子出産件数が微増している。これだけが平均からはわからなかったデーターで
たしかに、治安の悪化か貧困化の影響ではないか?と推察されるけど、放置できない問題かもしれない。(少子化とは関係ないが)
どっちみち、少年犯罪の方でケアされるだろうから、少子化問題では無視してもいいとはおもうが。
つか、平均と分布がほぼ相関関係にあるから、分布を考慮する必要性がないというケースだろうから、国もろくに分布を調べてないから(正確には調べても公表してないから)データー無いんだよ。
いちおう、調べたから。次からは、増田も調べるのに協力してくれ。
※あれこれ言う奴に対して、実際に調べる増田が少なすぎるんだよ。
http://biz-journal.jp/2012/06/post_289.html
ダウン症の発症確率は年間平均で約1/1000だが、母親の年齢との相関関係が強い。母親が
・20歳:1/1667
・30歳:1/952
・35歳:1/378
・40歳:1/106
これ見ると男性の若い女指向はやっぱり本能的なものなんだろうなと思えてくる。100分の1ってかなりだからな。しかもここは防ぎようのない部分だし。
さらに、高齢出産のリスクはダウン症のみではなく、もっと色々な種類のものがあるんだろうし。
「今は医療が発達して高齢出産でも大丈夫!」とか言うけど、受精率が上がった、母体が死ななくなった、帝王切開で取り出せる、って程度なんだろうな…。
人と人の関係は、シンプルに考えれば「出会いがあって、お互いに好意を持ち、やがて交際に発展する」だろう。
距離感と親しさのレベルには強い相関関係があり、ゲームに例えるなら最初に相手に1円出して、そこに相手が1円返してきてトレード出来たら次は2円か3円、更に5円出してみても相手が3円しか返してこなかったらこっちも3円で様子見・・・という感じだ。
身も蓋もない書き方だが、ともかく相手との親密さはそんな風に「レベル制」で上がっていくことが、世の中の前提となっている。
何故そうなっているかといえば、普通の人間にとって距離感を察知し、そこから適切な親しさのレベルを計算することは、ごく自然に感覚的に出来てしまう、あるいはそれなりに場数を踏むことで出来るようになってしまうからだ。
その意味で自分は社会性が全くないというか、社会性という観点では人外、あるいは宇宙人なのだと思う。
というのも自分は距離感を感じ取れない上に、「親しい」「親しくない」しか感覚的に持ち合わせていないからだ。
上述のゲームで言うなら、感覚に任せてプレイすると「1円出す」or「札束ポン」だけしかない。
まさしく1か0か。
したがって大多数の普通の人にとって、自分のイメージは「よそよそしい」か「馴れ馴れしい」の2つに1つだ。
勿論これは、今の御時世だとよそよそしい場合はぼっちに、馴れ馴れしい場合はストーカーになる恐れがある。
そこまで行かなくても色々トラブルになる可能性は高いし、実際今まで沢山問題が起きた。
なので仕方なく人に相談したり本で勉強したりで、「この人との距離感は、出会ってから今までの経緯を推察して多分これくらいだから、ここまでは変じゃないだろう」といちいち頭でロジックを組み立て、どうにか「ちょっと変わった人」くらいで済むようにしている。
しかし相変わらず精度は悪いし、何より他人への興味以上にめんどくささが先に立つようになってしまった。
ハードウェアレンダリング出来ないのでソフトウェアレンダリングしてみたらCPUやメモリに負荷が・・・みたいな感じだろうか。
付け焼き刃のテクニックで辛うじて普通の人っぽく振る舞って、何とか親しくしてもらっている後ろめたさ、それだけでも鬱陶しいし、イライラするのだ。
でも生きるためには絶対に避けられない。
でも普通であることがどれだけ望んでも手に入らない人間にとって、普通というのがどれほど価値あることか。
まあ普通がつまらないというのは型破りな人間を羨ましがっていて、自分みたいな型無し人間なんてお呼びじゃないのは分かっているけど、文句の一つも言いたくなると。
東洋経済の記事で「流山市が若年人口流入のため、市長が旗振りして地域ブランディングしている」
という記事があり、「これは凄い」的コメントがはてブやツイッターで溢れてた。
不動産屋の自分から言わせれば、流山市の人口流入の99%はTX開業で説明が付く話であり、
1.そもそも、首都圏民が「どこにマイホーム買おうかな?」と検討する際に、行政サービスの充実度を参考資料にする人なんて1%もいない。
99%は物件自体の利便性広さ価格で決める。流山市が人口増えたのは都心距離の割にマンション安いから。行政政策の寄与度は少ない
それを「人口流入は市長の手柄」という記事を書くからには、「市の政策と若年人口増に相関がある」ことを、東洋経済自身が行う必要がある。
例えば、ここ数年で流入した人に、ネット経由でも何でもいいから「なぜ流山市に流入したのか?」アンケートを東洋経済が取ることだ。
おそらく「通勤に便利」「マンションが安い」辺りが選択肢上位に来ると思うが。そのようなアンケートを東洋経済は実施したのか?
「東京は郊外から消えていく」の三浦展氏は、ちゃんと首都圏各地の各世代住民に大規模アンケートを実施して、自説の裏づけしている。
東洋経済も流山市民にアンケート取ったり、ナマの声を取材すべきだったのでは?
そういう相関関係のデータを挙げてない時点で、東洋経済のこの記事は「ダメ記事」である。
「ホットスポット問題が発生したから、適度な人口流入にとどまった」という側面がある。
(因みに市のHPを見ると、3・11以降もじわじわと人口は増えている)
多分、「おおたかの森」辺りの駅前分譲マンションに1都3県から2000人流入し、
一方で南流山辺りの賃貸2DKマンションから赤ちゃん連れファミリーが放射能忌避で埼玉とかに1000人流出し、
もし3・11が発生してなければ、交通インフラの割に地価(マンション価格)の安い流山市は
もっと人口が集中してしまい、江東区や武蔵小杉みたいにインフラ整備が追いつかずにパニックになってしまったのでは?
それ位、行政が「人口増加幅や家族構成、年代構成をハンドリングする」というのは難しい。
「流山市の望んでる人口増加率に偶然収まっている」のが実情では?
例えば人口密度日本一の豊島区は、単身者比率・ワンルーム比率が高いことに業を煮やしてワンルーム規制を実施してるが、
にもかかわらず建てられるのは相変わらずワンルームが多い。それ位人口流動は「行政の手に負えない」のである。
3.ツイッター見ると「自分の街も流山市を見習え」的ツイートが多いけど、
一般消費者向け(G To C)にアピールして人口増やすのは至難。
事業所を誘致して、雇用の場を作って、それにつられて人口が増える、という格好が王道だと思う。
一旦事業所を呼び込んで、結果的に一般消費者を増やすのだから、G To B To Cだ。
4.流山市長は「30代ファミリーの流入目指す」と胸張ってるが、バランスを考えなきゃ、
世代間バランスが取れた街造り、という観点なら、一気に街を作りこまなかった
http://luvlife.hatenablog.com/entry/2013/08/07/221155
読んで色々考えさせられた。
せっかくなので、身の上話を増田に吐き出そうと思う。
すごい田舎の底辺中学を卒業してるけど、地元同級生たちや親戚達の常識感っていうのは独特だなぁとずっと思ってた。
上京してからは特にそう思ってて、同じ日本なのに本当に違う世界が共存しているんだなと思ってそれがもう日本だと思ってた。
この記事を読んで、そうかそれは「低学歴の世界」と「高学歴の世界」の溝だったんだと納得した。
地元は田舎だからか両親ともに兄弟が多くて、いとことか30人くらいいるんだけど、その中で大学に行かせてもらったのは俺くらい。
俺の両親は、他のいとこが次々と中卒・高卒で働き始めたりしているのを横目に、頑張って俺を大学まで行かせてくれた。
両親が大学まで俺を行かせたかった理由としては学歴コンプレックスもあったのだと思うけど、それ以上に今後生きて行く上で大切な友達や結婚相手の階層のレベルをあげてやりたいってことがあったのだと思う。
実家に帰ると、親戚の誰それが結婚した、でも結婚相手はどうしようもないバカでパチンコばかりで家族そろって金を無心にくる、という似たような話がゴロゴロ。
不倫・バツ1・再婚・生活保護・パチンコ・ギャンブル・騙した・騙された・蒸発、、、あげれば切りがないけどそんな話がゴロゴロゴロゴロ。
俺の両親は2人とも低学歴だが、そういう世界に本当に嫌気がさしていたんだろう。
今思うと、きっと両親はそういう「低学歴の世界」が常識な親戚から俺を遠ざけたんじゃないかと思う。
いつの頃からか、他の親戚連中とは距離を置くようになっていて、気付いたら俺もいとこ達とはあまり会わないようになってた。
大学にもやれないような、子供の将来よりお金の無心しかしない人を騙すしか能のない親の元で育つ子供はバカになるし、バカとしか結婚できないんだ、そして親と同じことを繰り返すんだと両親は良く嘆いてた。
そんな地元環境だったので、大学に行ってからはカルチャーショックがたくさんあった。
そのうち、進学で上京したのは俺を含めて2,3人だったと思う。
大学へ行ってまず俺が驚いたことは、友人達の家庭環境と文化レベルの高さ。
などなど。
もう大学卒業して結構経ってしまったからその当時の衝撃を少し忘れてしまっているけど、「高学歴の世界」の人からみたら、ごく当たり前のこんな感じのことで当時の俺は衝撃だった。
今思うとここが「高学歴の世界」への入り口だったんだなと思う。
俺は学部で卒業したけど、大学院進学も見据えて大学入学してきた奴らなんて、本当「高学歴の世界」すぎた。
俺なんて、大学入るまで大学院なんていう存在すら知らなかった。
親と一緒に驚いた。大学の上に更に進学するところがあるんだって!って。
大学では本当に勉強・研究を頑張った。大変だったけど初めて勉強が楽しいと思った。
大学でできた友人達とは今でもとても仲が良いし、めでたいことにその時の友達ひとりと結婚もした。
今の俺の状況としては、東京の某大企業に就職し無事に溝を超えて「高学歴の世界」にお邪魔した感じだろうか。
そして、会社に入ってから更に大学よりも純度の高い「高学歴の世界」の人たちがたくさんいることにビックリした。
仕事していて困った奴もたくさんいるけど、地元にいた「低学歴の世界」の人たちのような耳を疑うような非常識さは全くない。
ここでずっと仕事していると、こういう世界が日本の普通と錯覚してしまう。
そして彼らの大半は、家族も両親もずっと「高学歴の世界」で生きてきた人なので、「低学歴の世界」を垣間みたことがない。
大学進学するのが当たり前だと思ってるし、周りも大卒ばかりなので、実は日本には大卒ってそんなにいないことを実感していない。
パソコンとインターネットの違いが分かるのは当然だし、スマホもタブレットも使いこなす。
飛行機や新幹線のチケットはネットで買うのが当たり前だし、分からないことは全て自力で調べられる。
年に一度は海外旅行が当たり前だし、英語は苦手といいつつも日常会話はそこそこできる。
両親兄弟がちゃんとした常識人で、困ったときには何かしらのアドバイスをくれる。
両親の家に普通にパソコンがあって、孫の様子をスカイプでテレビ電話する。
孫のために両親がお金を湯水のように注いでくれて、当たり前のように援助してくれる。
それがどれだけ凄いことか分かってない。
なので、たまにそんな「高学歴の世界」の奴らにいらっとしてしまうのだ。
この溝は超えたことがあるものにしか実感できないんだろうなと思うし、実感しても人生にいいことはあまりない。
だから大半の人は溝に気付かないか、見ない振りをしてごまかすんだと思う。
大学進学が溝を飛び越えるのには一番理にかなっていると思う。
けど、その障害となっている一番の原因がその親だ。
頭のいい子がいて大学進学を進めても親にその気がなければ、もうそこでその子の人生は地元止まりだと。
なんとかしてやりたいけど、全員を救えるわけではないしどうしようもない、と。
唯一、政治家だけはこの溝について何かしら対処すべきだと思うけど、政治家自身も「高学歴の世界」にいる人たちばかりなので実感として「低学歴の世界」を理解できないんだろうな。 年々この溝が深くなっているような気がする。
本当に根深い問題だと思う。
30年前に地元を出た人の話ならわかるが、そうでないなら都会の人が想像で語った釣りでしょう。あるいは、30人中大学進学が1人とか超特殊な一族過ぎる。自説を開チンする時に経験談に仕立てるアレな類い。
っていうブクマがあったけど、俺30歳ですよ。
特殊な一族なのかなぁ。違うと思うけどなぁ。どうなんだろう。
ひとつひとつにコメントしたいところだけど、気になったものに対してだけコメント返信させてもらいますね。
底辺エリアであってると思います。ヤンキーやDQNがなぜか沢山集まった学区にあった公立中学校なのかな。
校内にバイクは侵入してくるし、ガラスは割れまくるし、授業中に水は飛ぶはご飯つぶが降ってくるわ、先生は泣いているわ、それはもう楽しいところでしたよ。
今思うとあんなに玉石混合な人種が共存していた世界もそうなかったと思います。
両親公務員家庭で自分も大学行ったけど、親戚はほぼ大学出てないとある地方の家庭で育ちましたが、こんなに周りの文化レベル低くないです。やっぱ日本にもやばい場所とそうでない場所がある。
公務員が一族にいるだけで、凄いですよ。
そんな安定した職業の方は親戚にいませんよ。
この話をぼくの周りに話しても誰も無関心&他人事で、最近は言うのを止めた。どちらの世界も中途ハンパに知ったまま底辺に落ちてくとストレスだよね。
すごく分かります。
俺も会社では地元の話はあまり出しません。逆に地元では会社の話はあまりしません。
どちらにも愛すべき人たちはいるし、どちらの世界にも彼らなりの「普通」に幸せに暮らしている人もいるので、そんな人たちに今更こういう現実が横たわっているっていう話をしても何も生み出さないなぁと最近感じています。
釣りだと思う方は、そう思ってた方がいいと思うし多分そういう方はもうひとつの世界を知らなくてもいい人なんだと思います。
「高学歴」で陰湿な凄まじいイジメをするやつ、「低学歴」でこの人について行きたい!と思える徳の高いやつ、いたよ。高学歴=人間としても素晴らしく育ちが良い的な論調には賛成しかねる。率は高いにしても。
高学歴を賛美するつもりはなかったので、誤解させてしまったならごめんなさい。
俺の周りにも「「高学歴」で陰湿な凄まじいイジメをするやつ、「低学歴」でこの人について行きたい!と思える徳の高いやつ」はいます。
なので100%学歴の話ではないけど、それでも悲しいことに学歴が所得と階層に相関関係あるのは確実だなと肌感覚で思うのです。
俺が田舎出身だったので田舎という表現を使ったけど、きっと東京の郊外でも似た話はあるんじゃないですかね。
話せば分かるとか、努力すればなんとかなる、とか。
それ以前の問題があることに想像が及んでないんだなぁと思います。
でも「高学歴の世界」の人たちも、彼らなりの努力や葛藤があって人生歩んでいるので「低学歴の世界」とはまた違った大変さがあると思います。
なんか色んな反応があって面白かった。
こういう話をちゃんと外に吐き出すのって初めてだったのでなんだかスッキリした。
そしてそんなイケハヤの説をドヤ顔で否定しまくるといういつもの流れだけど、低賃金なジョブほど非常識な馬鹿が集まりやすいって相関関係くらいは認めてやっても良いと思うのよね。これは雇う前の前提の話。
あとyellowbellさんがハイクで書いてたけど"職業人としてのペルソナを被れない社会人を生み出しちゃってる現実"の土台として低賃金とか教育コスト無しがあると思うんすわ。雇用の流動化とかそういう事以前に「こんな端金、こんな扱いで働くなんてやってられっかー」って状態になってると思うのよね。そういう意味でワタミの洗脳ってすっげぇ効果あるなーってビビる。こっちは雇った後の話。
別の言葉で言うとプライドですよ。誇りですよ。その職場において、その労働において認められていると認識する心ですよ。そしてやっぱ、まず待遇というのがそこに作用する大切な要素なんですよ。そしてアルバイト扱いしてる人たちにそんな意識を持てって言うのがよっぽど贅沢って話ですよ。無茶振りも良い所ですよ。
よくこういう話(社会は現実としてどうなっているかという話)で「○○じゃなくても××する奴はいくらでもいる」ということで「○○」を温存しようという話の流れを作る人がいるが、そりゃ日本に1億2千万人もいるんだからいくらでもいるんだよね。1000人に1人でも12万人いるわけで。12万人を1箇所に集めたらすごい人数だからね。とても少数派には見えない。でも少数はなんだよな。母数が多いってのはそういうことで。
問題は確率として有意な差があるかどうか、ということになってくる。
でもこんな問題に正確な統計があるわけじゃないし、取れるはずもないから、結局はそれぞれの直感の問題になってくる。
いじめの問題じゃなく、「他人に横柄な態度を取るかどうか」「他人に対して根拠のない優越感を保持しているかどうか」「しかもそれらを隠し切れずに表に出すかどうか」「相手が自分より下だと見るやいなや、すぐに相手を呼び捨てにし、命令口調をためらわず、相手を貶める形でのカラカイを日常的に行い、それらを心の中で正当化しているかどうか」ということに、「学校=部活=スポーツ」ラインが大きく関係し、とても強い相関関係(相関関係は比例関係ではない。例外は山ほどある。特に母数が多ければ例外をピックアップするのに苦労はしない)があると、おれは直感で思っているというだけの話。たぶん君は思わないのだろう。
米も余ってる、土地も余ってるという状況下で 余ってる量を比べてどうするんだ?
余っているのかいないのかが重要なことで、どれだけ余ってるかは問題にならん。土地が30倍余ってるから、米の価格が30分の1になる。という相関関係はない。
そもそも何で兼業かといえば、米が余ってるからだろ そもそも収入というのは農業における収入のことだろうがと
http://heikinnenshu.jp/other/nouka.html
このへんでもなんでも ググれよ
個人で言えば、売上が1000万ぐらいあっても 借金等々があって800万でていくから 農協から入ってくるのは200万 みたいなそう言うはなし。
最近「クラウド」、の次に出てきた「ビッグデータ」と言う単語だが、
なんでこれがもてはやされてるのかが分からない。
色々見てみても、つまりは得られたデータがあり、そのデータを解析してみました、と言うだけにすぎない。
物凄いbreakthroughがあったような印象を受けるが、見てみれば何のことはない、単に得られるデータが大きくなっただけ、としか見えない。
(この辺自分の知識が足りないだけかもしれない)
むしろ、データが少ない時はまじめに考えないとそこから何も抽出出来なかったが、
データが増えたんだから適当にやっても色々分かるよ!、と言っている様にしか聞こえない。
風が吹けば桶屋が儲かるみたいなことが見つかるよ!的な事を言ってる記事もよく見る。
データ量が大きくなろうが少なかろうが、そのデータがどれだけバイアスがかかっているもので、
その量から得られる結果の誤差がどれくらいなのか、と言うことが大事のあのであって、
量が多ければその統計誤差が減る、というだけの話。ただそれ以上の系統誤差があるならば無駄にデータ量を増やしても無駄。
だから得ようとしてる結果が統計誤差が主でどうしようもない状態、と言う場合でなければ意味が無い。
ただ、Yahooの選挙に関するビッグデータ解析みたいな話もあったが、その辺どこまで正確にやっているかも分からないし、
これまでの選択的なサンプルに比べてどれだけ正確なのかも分からない。
ただただサンプル数が増えてそれぞれにおける情報量も増えたので適当な相関関係を調べてみました、というだけ。
別にそれは新しい視点、と言う意味で別に良い。だけど、それは今までの調査に比べてどれだけ正確でどれだけメリットがあるのかが全く不明。
はっきり言ってその辺1000人に聞きました、と統計的にどれだけ優位性があるのかが全く分からない。
(もしかしたら数値全部公開してて見れば分かるのかもしれないけど)
ビッグデータ解析によってデータアナリストの数が足りない、とか言っているが、
要するにこれまでまともな市場調査等を一切してこなかった、ということでいいのだろうか?
というわけで一本何か書いてみようという安易な意識からキーボードを叩き始めました。名も無きはてな民です。よろしく。
さて、今回は巷でネット民の熱い羨望を浴びながら、同時にドス黒い憎悪と嫉妬とを育み続ける孤高のネットライター、ドリー氏の行う書評について、何か適当に書いていこうと思います。正直言って資料を用いながらの適確で分析的な記事とかは書く気がしないんで、フィーリングで書いていくことにします。
さて、ドリー氏については説明不要だと思います。あの村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』をamazonレビューにてけちょんけちょんに叩き、その軽快でユーモラスな批評において人気を博した、ネットの出身の新鋭ライター・ブロガーでございます。あ、ちなみにこんな風に書くとまるで私自身がドリー氏のモグリか何かのように見えるでしょうが、その心配には及びません。この記事は売名を目的にしてはおりません。
ドリーさんには、今回のamazonレビューを切掛にして、何と出版社からのライターとしての依頼が飛び込んできたようです。何ともまあ、驚くべきことです。ネットからの躍進というものが、こんなに身近な部分で行われているなんて……と、些かめまいのようなものを覚えてしまう塩梅でございます。そんなこんなで、今更になってドリーさんの名前を広める為に誰かが努力をしたりステマをしたりする必要は、今の時点ではおよそ皆無だと言えるでしょう。何たって既にその名前が広がっていく余地が取られているわけですからね。
さてまず、彼の批評について述べる上で、彼の書く批評文においては幾つかのポイントがあるわけですが、それについて紹介していきたいと思います。
自分をアッパークラスならぬダウナークラスに位置付け、そしてそのような低きからの視点において、批判対象(アッパーな雰囲気を纏うものや、ハイソな雰囲気を纏う書物)を叩いていく、というのがドリーさんの基本スタイルとなっております。
こういう風な「ダメ人間」としてのキャラ付けで文章を書くのは、ドリーさんの特徴でもあります。ちなみに、これまで「ダメ人間」としてのキャラでエッセイを書いてきた著名な作家を挙げるとすれば、例えば滝本竜彦とか、あるいは穂村弘などが該当するんではないでしょうか。ともかく彼のレビューは低い視点から行われます。そして必然、そのような視点が読者からの親しみを呼んだり、あるいは共感にまでこぎつけることも当然起こります。こういったことで、ドリー氏はネット層のナイーヴで、どちらかと言えばハイ・カルチャーには属していない人々の人気を勝ち取ってきたというわけです。
ドリー氏がamazonにて村上春樹を批評した手段はまだはてな民の皆さんには記憶に新しいと思うのですが、ドリーさんの真骨頂は、この「形而下ツッコミ」にあります。
ときに、今年の四月中旬に発売された、『色彩を持たない~~』という小説。これは村上春樹の発売した新作なのですが、この小説にはこれまで村上春樹が取り組んできた様々なエッセンスというものが生かされており、また、その他にも新奇な取り組み、挑戦的なメッセージなどが込められた作品でありました。
そのような『色彩を持たない~~』ですが、特にこの作品に込められたメッセージの中で重要なものを上げるとすれば、それは次のようなものになると思います。つまり、「我々の見る〈夢〉と、現実に起きている様々な事象の間には、ある種の相関関係があり、そして我々は夢というものを通じて現実の事象における幾らかのレスポンシビリティー(責任)を共有している」というものです、こうやって一文に纏めると分かりにくいんですが、もう少し分り易くまとめると、要するに「我々は社会的責任や個人としての責任というものを、夢という通路を介して確認することになる」、ということです。このようなメッセージは、恐らく村上春樹氏がこれまで取り組んできた、ユング研究者との間のやりとりや、あるいは彼の人生経験というものを基立ちにして書かれているものだと思われます。そのような点において、村上春樹の主張している文学性というものが光っているのです。
ドリー氏の批評のやり方は、そういった〈文学性〉。いわば、〈形而上学的〉な分野においては、全くタッチしないという、そういう方法論を使ったものだったのです。
これは、私が主観的な立場において評している事柄ではありません。
というのは、こういう「形而下的ツッコミ」とか、あるいは別名「表層ツッコミ」という言葉は、誰でもない、他ならぬドリー氏自身によって発された言葉であるからです。正に彼自身が、彼のレビューのやり方を評して、「表層ツッコミ」。あるいは、「形而下的ツッコミ」と呼び習わしていたのです。
つまり、彼の特徴を一言で述べるならば、その作品の奥深さというものに関してはできるだけ発言を控える。というものなのです。そして、そういった「奥深さ」に関しての発言よりも、もっと身近で物質的な、そういった部分に関して照明を当てる、というのが、ドリー氏の批評術なのでした。
アレ、ちょっと待てよ? という意見が、そろそろ出てきてもいいのではないでしょうか。
というか、若干キレ気味な方というのが、現れてきてもいいんじゃないか、という風に僕は思ってます。なんなんだそれは! と声を荒げてもおかしくない方法論じゃないのかこれは? と、むしろ僕自身がそんな風に思ってきているところです。
ドリーさんのやり方は、例えば以下のようなものです。
『色彩を持たない~~』にて、以下、主人公とその友人「アカ」とのやりとり。
アカは笑った。「嘘偽りはない。あのままだ。しかしもちろんいちばん大事な部分は書かれていない。それはここの中にしかない」、アカは自分のこめかみを指先でとんとんと叩いた。「シェフと同じだ。肝心なところはレシピには書かない」
「あるいはそういうこともあるかもしれない」とアカは言った。それから愉快そうに笑って、指をぱちんと鳴らした。「するどいサーブだ。多崎つくるくんにアドヴァンテージ」
アカは言った。「俺は思うんだが、事実というのは砂に埋もれた都市のようなものだ・・・」
こういった、ちょっとオサレというか、まあそれらしい描写に関して、ドリーさんは以下のように述べています。
なるほど……。と思えるようなツッコミです。確かに、アカの言い方からは、極普通の社会生活を営んでいる方々から見れば、少し苦笑いをしてしまうような、あるいは軽く眉を顰めてしまうような、そういう素振りが端々から匂わされています。
これが、いわゆる「形而下ツッコミ」というものなのです。読者にとって、距離の近い何か、つまり、作中の人間における特徴的な発言とか、あるいは、そのキャラクターが行なっているファッション、あるいはスタイルというもの、そういった身近な位置に存在するものに関して、一つ一つツッコミを入れていく、という技術。これが、ドリーさんが主に自称しているところの、「表層ツッコミ」という技術なのでございます。確かに、このツッコミは面白い(笑)
ぶっちゃけ僕も何度か読み直して笑ったくらいのものです。それくらいに、この「形而下ツッコミ」には効果があります。
しかしです。
実際に、この『色彩を持たない~~』を読み込んでいくと、このようなツッコミに果たして正当性を認めてよいものなのだろうか? というようなメッセージが改めて浮かび上がってきています。
と言いますのは、まず、このアカという人物。なんと、未読の方にはネタバレになってしまうのですが――
――ですから、この先の部分に関しては未読の方は注意して読んで下さい、お願いします――
――同性愛者なのです。しかも、そのような事実に関して、何と自身が女性と結婚関係を持ち、暫くしてから気付いてしまった、というかなり不幸な人物でもあるのです。彼は、結婚後自分の性癖について自覚してしまい、かなりの苦悩を感じていた模様です。
その辺りは、『色彩を持たない~~』本編においてかなり描写が尽くされております。
ところで、ここで、「アレ?」と思われる方はいらっしゃいませんでしょうか?
つまり、ドリーさんのツッコミの内容が、果たして本当に妥当なものなのだろうか? という感想を抱いた方が、ここまでの文章を読んでいて幾らかいるんじゃないかということなのです。
ドリーさんのツッコミの内容は、以下の通りでした。
「『アカ』の臭わせている『自分大好き』臭がひどい、彼の自己陶酔的な態度がヤバい」
しかし、上のような本文の描写を読む限りで、そのようなツッコミはぶっちゃけ間違っていることが、明らかになっています。つまり、むしろ「アカ」の根底には、「自分大好き臭」などではなく、徹底的な自己嫌悪が存在しているということなのです。
付け加えるならば
この「アカ」は、その父親が何と名古屋大学の経済学部で教授職を務めている人物であったりするのですが、そのような父親に対してアカは名状しがたい反感のようなものを抱えて青年時代以降を生きてきていた、ということが本文にて言われています。しかし、多崎つくるが生きている現代の世界、彼が36歳になっている時点において、アカは一般企業向けのサラリーマン育成サービス会社の代表を務めているのですが、何と彼は、自分が忌み嫌っていた父のような、尊大で狭量な振る舞いを、そっくりそのままその会社経営やスピーチにおいて行なってしまっているのを作中で嘆いているのです。つまり、繰り返すように彼の中にあるのは、「自己嫌悪」というべき以上の何物でもない感情なのです。そしてそれを無視したまま、ドリーさんは「自分大好き臭がすごい」、などなどと形而下的ツッコミに終始してしまっているということなのです。
ドリー氏は他にも、レビュー中で多崎つくるのファッションについて言及しており、彼の終盤におけるファッション、「オリーブ・グリーンのバスローブ」について批判しております。
曰く、その色は「クソ緑」とのこと(笑) なんともまあユーモラスな表現ではありませんか。
しかしです。このような緑の色、というのは、西洋においてはいわば「嫉妬」というものを表す象徴的な色でもまたあるのでした。
主人公の多崎つくるは、本編の終盤において、交際相手の女性の浮気現場を目撃してしまい、そのことで苦悩します。そして本作は、作中において何か特定のスタイルや生き方、つまり「色彩」を持てなかった彼が、最終的に嫉妬の感情を表す「オリーブ・グリーン」のバスローブを着込む、ということを最後に、幕が降りることになります。結局のところ、この『色彩を持たない~~』という物語は、多崎つくるというプレーンで如才ない特徴の無かった男が、嫉妬という、これまで無色だった彼にとってあまりにも大きすぎる感情を背負うことになってしまうという作品なのです。そんなテーマが描かれた小説なのでした。
しかし、ドリー氏はこの「オリーブ・グリーン」の比喩に関して、「クソ緑」とただ一言切り捨てたのみなのです。それ以上の言及を、彼は避けております。
これが、いわゆる「形而下ツッコミ」の正体なのです。その、暗喩や文学的比喩といった奥深さに関しては常に除外し、表面的な部分にのみ視点をおいて俗っぽい言葉によって吐き捨てる、というのが、結局のところドリー氏の行っている批評の正体と言えるでしょう。
ドリー氏は、これは個人的な意見になってしまうのですが、はっきり言ってそういった「奥深い部分」に対する想像力、というものを発揮しない(あるいは表立って発言しない)といった批評のやり口に、あまりにも慣れきってしまっている感があります。何というか、そういった相手の表現したい奥深い分野については言及せず、大体において「表層的」あるいは「形而下的」な部分に対してのツッコミだけを行う、というのが彼のスタイルになってしまっているのです。
さて、ここまで長々と書いてきて、結論としては、ドリーさんの批評(クリティーク)においては、あまりにも想像力や文学的表現に対する理解というものが欠けてしまっている、ということが言いたいわけなのです。そんなこんなで、ドリーさんの書籍批評に関しては、以下の言葉でまとめることができるでしょう。やはり、ドリーさんの書籍批評はまちがっている、と
マニュアルというか、エビデンスに基づいて実践すべきだという考えは当然諸外国(当然先進国)のほうが多い。
根拠の無い方法(母乳じゃないと愛情が無いとか)とそれに付随する偏見で物を言う、見る、聞く、判断し実行するのは野蛮人だぞ。
もちろん根拠の無い方法でもそれで治る(正しい)方法はある。けど常に実証が求められるし実証する過程でまた新たな発見がある。
あんまりバカだと心配になるよ、これからお前みたいなのを相手するかと思うと。
まず自分の思い込みを疑えよ。
「この日本のどこが地獄で、どういうところが問題で、その原因はホントにお前が考えていることか?」
仮にマニュアル化されたチェーン店が増えたと同時に人が冷たくなった(この根拠は出しようが無いが)としたら、それはもしかしたら相関関係(同時に増えた)
かもしれないけど、因果関係(マニュアル化された店舗が増えた「から」人が冷たくなった)とは限らんぞ。
それに今は既にマニュアル化(サービスの良し悪しの均一化)は終わって、その上でスタバが流行った通りマニュアルを越えた店員、店舗、事業が持て囃される時代だろ?
もし仮にお前が電力会社に務めて機材の保守点検をする上でマニュアル無視したら大変なことになるだろ?
まずマニュアルの定義も広すぎるし近代社会の病理とマニュアルを結びつけるのも頭悪い。
待てよ待てよと
明らかに出生率と婚外子率には相関が見られそうな結果ではないですか。
まぁ上昇率にだけ目をつければ、スペインのような例外もみえてくるでしょうが、
それよりも婚外子率と出生率の明らかな相関関係に何故目が行かないのでしょうか!?
相関関係と因果関係は違うから、単純に婚外子率を上げるための政策を行えばいいのではない!
とか言われそうですが、諸外国もなにも婚外子率を上げようとシコシコと政策を行ったわけでもないでしょう。
色々な政策を行った結果が出生率と婚外子率の上昇であろうので、ちきりん女史の言うように、シンママの支援であったり、
その方向性での政策を実行していくことが、婚外子率と出生率の引き上げに効果的であるという裏付けとなる表にしか見えないのですが・・・
偏差値が高いほどモラルが高く、偏差値が高いほど向上心が高い。偏差値が高いほど嫌な仕事でもするし、偏差値が高いほど努力を怠らない。
何をあたりまえのことを、と言われるかもしれないけど、人を採用するときや結婚相手を探すときは、このことを常に忘れないようにしたい。これまでに偏差値の低い人間に裏切られた事が、何度あったことか!
もちろん偏差値が低くてもモラルの高い人もいるし、偏差値が高くても努力をしない人間もいる。だからこれは相関関係というか、一般的な話。学力偏差値≒信用度偏差値、などと考えたほうがいいか。
なぜこのようなことを書くというと、自分がゲーム業界出身で、この業界は本当に学歴が様々な人間が集まるので、学歴による内面の違いをより感じたからだ。
東大・京大・筑波大・慶応・早稲田・ケンブリッジ・マーチ・・・から、高卒・中卒・アニメ専門学校卒・元ニート・・・など、本当に様々な経歴のるつぼなのだ。この業界は日本のトップ大学の人間が意外に多く、そしてありえない低学歴にもかかわらず社員になっている人間も意外に多い本当に特殊な環境だと思う。
普通の商社だと東大卒と中卒が同じ立場で働くとかそうそうないと思うが、ゲーム業界だと日常だし、むしろ高卒ディレクターが早稲田卒に指示出すことも普通。そういう環境の中で人と接していると、やはり学歴の差で育ちというか、モラルというか、努力というか、色々なその人自身の内面が学歴に表れているなぁ、と思った。例えば仕事ではズルとか政治力などで上に勝ち上がれるが、受験勉強だとなかなかできないので、偏差値はその人の努力と勤勉とモラルなどを判断する指標になると思う。
過激な釣りタイトルにしたが、学歴によるカーストわけって、ものすごく合理的な仕組みだと思った。・・・僕?もちろん高卒ですよ。ははっ。
うーん、まったくの個人的な考えなんだけど
人の性格を四つに分類することの必要性、および正確さには疑問がある
会社で働くときと、家にいるときの性格ってホントに同じって言えるのかってところ
変わらない人もいるだろうけど全然違う人も多いと思うんだよね
という感じで、人は大抵他者との関係性において「自分」を使い分けてるケースが多く
それを画一的に四つに分類しようというのも、どーなのかねぇという感じ